2014年10月11日土曜日

暮鳥生誕130年(上)菊竹山

 今年(2014年)は山村暮鳥生誕130年・没後90年。暮鳥の生まれ育った群馬県では、県立土屋文明記念文学館で記念展「山村暮鳥―そして『雲』が生まれた―」が開かれている。

 最晩年に刊行された詩集『雲』がテーマだ。磐城平時代を思い出して、雲に託して友に呼びかける「おうい、雲よ……」が重要な作品として位置付けられている。きのう(10月10日)届いた図録を見て実感した。

 暮鳥の生涯の友・三野混沌(吉野義也)と結婚した若松せいは、将来を嘱望された文学少女だった。混沌と同様、暮鳥ネットワークに属していた。結婚後はおよそ半世紀、好間の菊竹山で土と格闘した。

 夫の死後、せいは再びペンを執る。単行本『洟をたらした神』が大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞する。せいの没後、いわき市が文学賞を制定した。数年前からその選考にかかわっている。
 
 10月中旬には暮鳥に始まる地域の文化活動について、下旬には<好間学>の一環として暮鳥とつながる混沌・せい夫妻、猪狩満直その他の話をすることになっている。せい賞の発表もある。

 それらもろもろのことを頭に入れながら、久しぶりに菊竹山を訪ねた。夫妻が開墾し、生産し、暮らした土地は、きれいに手入れがされていた=写真。おととしだったか、息子さんが「いずれ戻る」と言っていた。それを実行したのだろう。人の手が入った自然は温かい。

 混沌が生き方に悩んで閼伽井嶽にこもった際、南東に光る原野(通称菊竹山)が見えた。そこを開墾生活の地と決めた。生家はその菊竹山の東方、夏井川の近くにある。

開墾地と生家まではどのくらいの距離があるのか、菊竹山の帰りに車で測ってみた。およそ3キロだった。歩くのが当たり前の大正時代。生家の下平窪から見ても、菊竹山はすぐ西の小山の奥にある。人里離れたユートピアではなく、俗世間と隣り合わせた山の原だ。これだったら、混沌の母親も苦にせずに往来できる。
 
 そのへんの距離感が大切ではないだろうか。暮鳥・混沌・せい・満直、さらには草野心平らの関係を考えるとき、「文学地理学」的な視点が新しい読解をもたらしてくれるかもしれない。そんな期待が広がる。

0 件のコメント: