2014年10月12日日曜日

暮鳥生誕130年(中)ふろしき

 今年は山村暮鳥生誕130年・没後90年の節目の年。里見庫男さん(いわき地域学會初代代表幹事)が生きていれば、「いわき暮鳥会」としてなにか記念の事業を企画したに違いない。

 暮鳥ゆかりの群馬県(生誕の地)では、県立土屋文明記念文学館で記念展「山村暮鳥―そして『雲』が生まれた―」が開かれている。茨城県でも終焉の地の大洗町、幕末と明治の博物館で記念展「山村暮鳥の散歩道―詩と風景―」が開かれている。暮鳥の文学が“爆発”した福島県いわき市では、残念ながら格別なこともないまま10月になった。

 数日前、知人が暮鳥の詩「野良道」を染め抜いたふろしき=写真=を持ってきた。10年前、高崎市の暮鳥生家の庭に「いわき暮鳥会」の協力で「野良道」の詩碑が建立された。そのときの記念品だ。暮鳥研究とは直接関係がないとしても、暮鳥ファンにとっては身近に置きたいグッズのひとつだろう。喜んで引き取った。

 ふろしきを眺めながら、ぼんやりとよみがえってきた記憶がある(手元に資料がないので、間違いがあるかもしれない)。里見さんが音頭を取り、仲間を募って群馬へ出かけた。職場の後輩が一行に加わり、ふろしきを持参した知人も一緒に群馬を訪ねたはずである。

 暮鳥は「日本の詩壇の中にあって、常に自分自身を地方に置き、詩歌という文学を通じ、その地方の地域おこしをしていた」、そして「地域づくりは人づくりであることを、既にこの時代(註:大正時代)に実践していた」(里見庫男『地域の時代へ』、2000年刊)。
 
 里見さんは暮鳥に深い敬愛の念を抱いていた。その業績を踏まえて、こんなことも言っていた。「いわき地域学會も、暮鳥が大正初期にまいた地方文化創生の一粒であると思っている。また、雑誌『うえいぶ』には、暮鳥の血が流れている」。それを踏まえたうえでの、生誕120年・没後80年記念の詩碑建立だった。
 
 日本の近代詩は暮鳥の『聖三稜玻璃』から始まる。『聖三稜玻璃』は磐城平で生まれた。暮鳥が先導した文化運動は戦後、真尾倍弘・悦子夫妻に受けつがれ、やがて医師蓬莱信勇さんらの総合雑誌「6号線」発行、いわき地域学會発足、「うえいぶ」発行とつながる。暮鳥生誕130年・没後90年の今年、その文化的な血脈を再考、再確認したい。

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