2014年10月13日月曜日

暮鳥生誕130年(下)図録

 群馬県立土屋文明記念文学館から、山村暮鳥生誕130年を記念する企画展「山村暮鳥―そして『雲』が生まれた―」の図録が届いた。5章仕立てで、ほかに論考・略年譜などが収められている。

 ポイントは、タイトルにもある第Ⅳ章「そして『雲』が生まれた」(22~31ページ)だろう。磐城平で大正13年1月に発行された同人誌「みみづく」第2年第1号が紹介されている。前にも書いたが、この現物は東日本大震災後のダンシャリのなかで、私の若い仲間(古本屋)が救い出し、私が預かっていたものだ。それを持ち主の了解を得て貸し出した。

「みみづく」には暮鳥の詩が載る。そのなかの1篇が、暮鳥の雲の詩の代表作だ。<おうい、雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか>。タイトルは「友らをおもふ」。
 
 暮鳥の愛弟子でもある斎藤千枝への“相聞歌”説をとる詩人(たとえば壺井繁治)もいるが、そうではない、という反論の、これは“物的証拠”でもある。暮鳥研究家の佐藤久弥さん(平)がすでに指摘していることだ。

 図録は、そのへんを意識した構成になっている。Ⅳ章の最初の見開きページ=写真=には、暮鳥が新聞「いはらき」の連載や千枝への私信に「おうい、雲よ」を使っていること、しかし雑誌「みみづく」(図録の左隅)には「友らをおもふ」と題して「おうい、雲よ」が出てくることを載せ、左右を比較すれば「おうい、雲よ」と詠んだ暮鳥の内面がおのずと推察できるようになっている――。
 
 というわけで、この1週間余、暮鳥あるいはその関連で吉野義也(三野混沌)・せい夫妻、猪狩満直などについて調べてきた。水戸に住む友人にお願いしたり、満直の息子・娘さんらとたまたま出会ったりしたことから、疑問がいくつか解けた。
 
 そこへ、暮鳥生誕120年記念のふろしきが舞い込み、生誕130年記念展の図録が届いた。義也・せい夫妻の開墾地(菊竹山)もせいせいするほど手入れがされていた。
 
 いわきの大正ロマン・昭和モダンの、その象徴ともいえる暮鳥ネットワークの一端を、また少し知ることができた。

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