2014年11月30日日曜日

カキ、柿、牡蠣

 柿と一緒に牡蠣を生で食べた。近所のおじ(故人)の家にある甘柿をもぎり、いつもの魚屋さんへ行ったら生食用の牡蠣があったので、刺し身と合わせて酒のさかなにした=写真。陸の柿も、海の牡蠣も「カキ」だ。同じ「カキ」が食卓で鉢合わせをした。

 家で牡蠣を生食することはまずない。冬は牡蠣フライ、これが定番。その記憶は40年以上も前の東京貧乏時代にさかのぼる。サラリーマンになりたての同級生にねだった牡蠣フライのあったかさが、今も忘れられない。

 それはさておき、魚屋さんで初めて生食用の牡蠣を見た。生食用と加熱用の違いなどを若だんなに教えられた。
 
 スーパーなどで売っている加熱用の牡蠣は、見た目は身が大きい。が、それは水を吸っているからで、鍋にすると縮んでしまうという。ネットにも同じことが書いてあった。

 生食用は塩水入りパックに入っていた。食べると適度にしょっぱい。ネットには、紫外線殺菌装置をくぐらせた海水のなかに2~3日置くことで生でも食べられるようになる、とある。
 
 生食は風味が劣るともいわれるが、グルメに縁遠い舌にはうまかった。加えて、柿と牡蠣の鉢合わせだ。勝手に面白がって酒が進んだ。
 
 牡蠣はこれから身が大きくなる。生食用の牡蠣も大きくなって市場に出回るようになる。「ときどき買ってきますよ」という。カツオの刺し身が口に入らない冬は、こうして別の魚介を吟味し、楽しむチャンスでもある。

2014年11月29日土曜日

「空押さえ」と「立ち枯れ」

 先日のこと。雨上がりの夏井川渓谷に山霧がわいた。東電広野火力発電所の送電鉄塔が見るみるうちに霧に包まれた=写真。上部だけ浮き出たような感じがよかった。これまで撮ってきた送電鉄塔を並べると、写真集ができるかもしれない。

 何度も小欄で書いているが、送電鉄塔に出合うと、どの電力会社のものか、どこから来てどこへ行くのか、が気になる。その送電線・鉄塔に関して「立ち枯れ」という言葉があることを、おととい(11月28日)知った。

 経産相が福島県の新知事と会談し、福島県内で発電された再生可能エネルギー買い取りを東電に求めることを明らかにした。東電の送電網を活用して、関東方面に送電する考えだという。知事の緊急提言を受けて大臣が語った(11月28日付福島民報1面)。

 震災で事故を起こした1Fは廃炉が決まり、かろうじて助かった2Fは冷温停止中だ。両原発の送電線は双葉郡の太平洋岸から西の阿武隈高地へ向かい、いわき市を経由して首都圏へ南下する。この両原発周辺の送電網と変電所は、容量の大部分が使われていない(福島民報)。

 そこに着目し、県の重要課題である再生エネを推進して大消費地に電気を送ろう、というわけだ。

 知事の提言は、県が10月に設置した有識者による「系統連携専門部会」が取りまとめた「再生可能エネルギーの接続回答保留に関する福島からの緊急提言」に基づくものらしい。ネットで出合った提言を読んでいて、「『立ち枯れ』状態」という言葉が目に留まった。「空押さえ」も知った。

「空押さえ」は、電力会社に接続申込をした太陽光発電事業のうち、実現見込みの立たないものをいうそうだ。先日、若い電力マンと茶飲み話をしていて、その量の多さに驚いた。県は、これでは後発事業が足止めを食らうとして「空押さえ」の解消を提言している。

「立ち枯れ」は使われていない送電線を指す。わがふるさと・阿武隈高地に林立する東電の送電鉄塔は、いわれてみれば確かに立ち枯れ状態だ。なんとなく複雑な気持ちになった。

2014年11月28日金曜日

ネギ苗防寒

 秋まきの三春ネギが芽生え、7センチ前後に育った。これから厳寒期を迎える。防寒のために苗床にもみ殻を敷き詰めた=写真。

 菜園のある夏井川渓谷の標高は200メートルほど。上流の川前ほどではないが、真冬には菜園の表土が10センチ近く凍る。生ごみを埋めようにも、スコップでは歯が立たない。時間があれば、太陽に暖められて凍みがゆるむ午後まで待つ。なければ、ツルハシで凍土を割るか、枠の中の堆肥に穴を掘って埋める。

 冬の苗床に霜柱が立つと厄介だ。せっかく根を張ったネギ苗が浮き上がり、土が解凍すると倒伏して枯れる。もみ殻はそれを予防する。それでも、極寒期には先端が霜枯れて黄色みを帯びる。

 今までは、採種~保存~播(は)種~定植~収穫の足かけ2年サイクルで種を確保してきたが、原発震災でそれがおかしくなった。冷蔵庫に眠っていた種を使ってそのサイクルを再構築しないといけない。手抜きをしても、なんとかネギ自身の力で修復できていたのが、今度ばかりは後がないのだ。

 というわけで、手引きに従って間引き・追肥をして冬をやり過ごし、なんとか5月の定植時期まで持っていく。春がくると、苗が青みを取り戻し、ぐんぐん太く大きくなるのを脳裏にえがきながら。

2014年11月27日木曜日

佐藤久弥さん

 いわき市暮らしの伝承郷へ行くと、必ず旧猪狩家へ寄る。昭和13(1938)年、40歳で亡くなった詩人猪狩満直の生家で、庭に「帰郷」と題する詩碑がある。10日ほど前にも、カミサンの運転手を務めたついでに訪ねた=写真。

 きのう(11月26日)朝、元の職場の後輩から電話がかかってきた。山村暮鳥や満直の研究者として知られる佐藤久弥さん(平)が亡くなったという。86歳だった。
 
 20代後半に出会って40年。1年に何度か酒席を共にする、あるいは職場に電話がかかってくる、という程度のつきあいだが、会えばいわきの文学について語り合い、教えられた。

 高校の英語教師をしながら地域文化の研究、とりわけ磐城平時代の山村暮鳥、同時代の猪狩満直の研究をライフワークにしていた。いわきで発行された総合雑誌「6号線」の編集者でもあった。

 10年前、初めて自宅を訪れた。庭でブルーベリーを栽培していることを知った。みやげにもらってジャムをつくった。そのころだったと思う。暮鳥その他の研究を引き継いでくれる人間はいないものか、いれば資料を譲ってもいい――そんなことを口にした。

 その6年前の平成10(1998)年、故里見庫男さんが音頭を取り、満直生誕100周年を記念して、いわき市民有志が北海道・阿寒町(現釧路市阿寒町)の農村公園内に詩碑を建立した。満直の代表的な詩集『移住民』から、久弥さんの選詩で「種選り」が刻まれた。

 その3年後には、暮らしの伝承郷の旧猪狩家の庭に「帰郷」が建った。いわき市と阿寒町と、満直を介して響き合う関係を築こう、という願いを込めての詩碑建立だった。
 
 暮鳥という恒星の周りを巡る惑星や遊星を調べることが、久弥さんの恩に報いることになる――それをあらためてかみしめる一日になった。

2014年11月26日水曜日

トリュフハンター

 11月20日のNHK「地球イチバン」はイタリアの白トリュフの話。新聞テレビ欄に「森に眠る白いダイヤを探せ!1個3800万円⁉夢も恋もかなう魔法のキノコここ掘れワンワン」とあった。

 フランスでは雌豚を飼い慣らして黒トリュフを探す。イタリアでは同じく訓練した犬が白トリュフを探し当てる=写真。日本のマツタケハンターは自分の五官だけで勝負する。共通しているのは、シロ(発生場所)は「息子にも教えない、自分だけの秘密」ということだ。高級菌のハンターの心理は洋の東西を問わない。思わず笑ってしまった。

 マツタケも、コウタケも採ったことのない身には、トリュフ狩りはさらにその上をいく一攫千金の別世界の話だ。だからこそというべきか、その情熱、いや欲望と想像力の限りなさには舌を巻く。

 日本にもトリュフ(セイヨウショウロ)がないわけではない。キノコ研究会の会報や、亡くなったNさんの本などから、福島県内でもセイヨウショウロ科の菌、いわゆるトリュフの仲間が見つかっている。海岸の松林からウスチャセイヨウショウロが、阿武隈の山中からはやはりトリュフの仲間が――。

 震災で家中の本がなだれを起こしたために、今もどこに会報を片づけたかわからず確かめられないのだが、イノシシが掘った穴からトリュフが発見された例を覚えている。<阿武隈のイノシシはグルメなことよ>と今でも思っているのは、そのときの驚きが深く刻まれたからだ。
 
 肝心の白トリュフの香りだが、テレビからは「ニンニクや森の匂い」という珍妙なたとえが伝わってきた。一度、キノコ同好会の忘年会でフランスのトリュフの香りをかぎ、かけらを口にしたことがある。そのときは香水に近いような芳香を感じたものだが……、ニンニクとは。
 
 ついでながら、フランスでトリュフ狩りに雌の豚を使うのは、トリュフの香りが、雄豚が交尾期に発する性フェロモンに似ているからだそうだ。
 
 それはしかし科学が教えることで、実際にはイノシシがトリュフを掘り起こすのを目撃して、経験的に雌豚を使うことを学んだのではないか――阿武隈の発見例から、そんな仮説を立ててネットの世界を漂ってみるのもおもしろいのではないか、などと思っている。

2014年11月25日火曜日

辛み大根を収穫

 夏井川渓谷にある隠居(無量庵)の庭の土が昨年師走、山砂に取り替えられた。全面除染というやつで、春には2畳くらいのスペースだが山砂を下の土にすき込んで菜園を再開した。

 春に二十日大根の種をまいて収穫し、一休みしたあと、8月中旬に辛み大根の種をまいた。一昨年、知人からもらい、まききれずに残しておいたものだ。20センチ間隔で30カ所に点まきをしたら、半分が芽を出した。おととい(11月23日)、1本を初めて収穫した=写真。

 震災前の2010年、会津から知人のもとに届いた莢(さや)のままの種を、知人が2年後に分けてよこした。莢に入っていたからか、野生に近い種類だからか、常温状態で4年おいても発芽率が5割、というのはすごい。

 会津では、辛み大根をおろしてそばの薬味にする。栽培・試食してわかったのだが、この大根はおろしても汁が出ない。稠密にできている。煮ても漬けても硬くて食えないのはそのためで、おのずとおろして食べるようになったのだろう。

 日曜日の夜は、タコの頭の刺し身があったので、おろしあえにして食べてみた。醤油がたりなかったからか、タコのやわらかさと大根の辛さがバラバラになっている感じだった。ゆうべはナメコのおろしあえにした。ナメコのとろみと醤油におろしがからまって、いい感じでのど元を過ぎていった。

 この辛み大根は白根の部分が先端までおよそ30センチ、おろしに使えるのはその半分弱だ。思った以上にすくすく地中に根を伸ばした。ひげ根を含めて“たこ足”にならなかったのは、震災前、何年もかけて耕しながら小石を取り除き、堆肥を投入してきたからにちがいない。

会津では11~12月中旬が旬だそうだから、種採り用に1株だけ残して、しばらく週一のペースで引き抜くことにしよう(書くだけでだれにも分けてあげられないのが心苦しいのだが……)。

2014年11月24日月曜日

「花植え」だったんだ

 交流スペース「ぶらっと」に、福島県・浜通りの自治体の広報紙が置いてある。広報「とみおか」は、裏表紙が「マイ・フォト・レター」。11月号は「ふるさと復興への第一歩 住民と除染作業員が花植えで交流(杉内行政区)」=写真=と、「ふたばワールド2014inかわうち」の2つが載った。「花植え」の記事を読んで、<あの日のこと>を思い出した。

 日曜日と秋分の日にはさまれた9月22日、父親の27回忌のために田村市常葉町の実家へ帰った。その1週間前、乗用車に限って国道6号の全線通行が可能になった。それで、6号を北上し、富岡町から県道小野富岡線を利用して川内村へ入り、さらに田村市都路町古道で国道288号に出るルートをとった。

 県道小野富岡線といわき浪江線(通称・山麓線)が交差するあたりが杉内らしいことは、ネットで調べてわかった。その県道小野富岡線沿いで同日、住民が花壇の手入れをしていた。同じ富岡町内でも市街から離れた田園地帯だ。そこに住民自体が集まっていることに驚いた。

 記事にはこうあった。9月22日、杉内地区の県道沿いの除染を終えた花壇で、県内の避難先から参加した住民と、同地区で除染を行うJV(ジョイント・ベンチャー=共同企業体)の作業員による花植えが行われた。植えた花はコスモス、ニチニチソウ、ケイトウなど。杉内地区では震災前、毎年春に花植えを行ってきた。3年半ぶりの花植えになった。

 広報紙の写真で数えたら、住民・JV側合わせて39人が参加したようだ。区長さんは、これから除染作業が本格化するなか、「花植えを一緒に行い、住民と作業員のコミュニケーションを深めることで、トラブルなどの防止につながる。住民が集まる機会としても継続していきたい」と語っている。

 富岡町で花植えをする人たちに遭遇したあと、田村市都路町と常葉町の境にある峠(サカイノクキ=国道288号)で手入れされた花壇に出合い、思わず写真を撮った。人の手が入らないと、花壇は、家の庭は、田畑は、山はたちまち荒れる。そうはさせない、しない、という住民の意思が花壇から感じられたのだった。

2014年11月23日日曜日

鳥インフルエンザ

 マスメディアによると、①島根県で11月初め、飛来したコハクチョウのふんから鳥インフルエンザウイルスが検出されたので、ふん採取地点から半径10キロ圏内を野鳥監視重点区域に指定した②宮城県が11月19日、伊豆沼でオオハクチョウ1羽が死んで見つかり、簡易検査で鳥インフルエンザの陽性反応が出た、と発表した。

 2008年秋以来、ハクチョウが飛来すると、ひとまず鳥インフルを意識するようになった。この秋も、近づきながら距離を保って(実際には近づくと離れていく)観察している=写真。

 当時、夏井川の下流(平・塩~中神谷)で毎日、Mさんが残留コハクチョウにえさをやっていた(今、どうしているだろう)。
 
 その年の晩春、十和田湖畔や北海道の野付半島、サロマ湖畔で、北帰行途中のハクチョウが死んで見つかり、鳥インフルエンザウイルスが検出された。秋に再び飛来すると、市役所の職員から「えさをやらないでほしい」と言われたそうだ。鳥インフルを警戒しての要請だが、Mさんは断った。「こっちも命がけでえさをやってんだ」。夏井川白鳥を守る会はえさやりを中止した。

 鳥インフルへの対処法は、①死んでいる鳥や衰弱している鳥には素手で触らない②鳥の排泄物に触れたら手洗い・うがいをする③フンを踏んだら念のために靴底を洗う――などだ。

 毎朝7~8時にわが家の上空をハクチョウが鳴きながら通過する。平・中平窪の夏井川を拠点に、下流の塩~中神谷、上流の小川町・三島でもハクチョウが羽を休めるようになった。例年より少し警戒しながらウオッチングを続けよう。

2014年11月22日土曜日

枯れ松の1年

 夏井川渓谷の景観は、岩と赤松の組み合わせから始まる。これに、同じ常緑樹のモミが加わり、多くの落葉広葉樹が急斜面を埋める。紅葉が終わると、溪谷にはモミの暗い緑と赤松の明るい緑があるだけだ。
 
 雨風にさらされてとがった岩盤を囲むように、赤松が三段になって生えている。その頂点の松がすっかり枯れてしまった=写真。

 異変に気づいたのは2年ほど前だろうか。1年前、松葉の変化を見るために隠居(無量庵)からの定点観測を思い立った。1~2カ月に1回くらいのペースでカメラを向けてきた。

 この1年の変化をみると――。去年の11月30日、緑色が勢いをなくして一部に黄色いメッシュが入っていた。今年の3月18日、黄緑色の葉はあるものの、大半が赤みを帯びる。5月4日、あらかた“茶髪”になった。6月8日、“茶髪”が濃くなる。7月22日、先端だけ赤いほかは灰色に。9月21日、そして11月16日、完全に枯れたらしく灰色一色になった。

 松が枯れる原因はなんだろう。植物の専門家は酸性雨を言い、松くい虫を言う。その両方ではないのか。

 この1年の経過を見て感じるのは、異変が始まった時点で松は命を絶たれたも同然だったのではないか、ということだ。次は、まだ赤い幹が時間をかけて“白化”し、やがて上部から折れて岩場から姿を消す。そのころには次世代の若松が育っているだろうか。世代交代がうまくいっているだろうか。

2014年11月21日金曜日

ディズニーみやげ

 おととい(11月19日)の夕方、父親に連れられて2人の孫がやって来た。「ハイッ」とレジ袋を差し出す。中にミッキーとミニーらしいマウスの絵が描かれたクッキー缶が入っていた=写真。「ディズニーランドへ行って来たの?」「うん」

 小1の孫の話では、日曜日(16日)・月曜日(17日)と泊まりがけで遊んできたらしい。土曜日に学校で行事(秋祭り)があった。月曜日が振替休日になったのだろう。別の一家も同じ日程でディズニーランド・ディズニーシーを楽しんだ。フエイスブックで知った。似たような行事が土曜日に行われたか。

 おとといはちょうど私の誕生日だった。もしや「誕生日のプレゼント?」と聞くと、「ちがうよ」。「きょうはジイジの誕生日なんだ」「知らなかった、おめでとう」。ディズニーみやげであっても、勝手に誕生日のプレゼントと思うことにした。

 カミサンは、缶が気に入ったようだ。針箱にでもするのだろうか。一日で中身を半分以上、自分の胃袋に移した。きょうにもカミサンの所有物になるにちがいない。私は1個だけ食べた。

 おととい、フエイスブックではいろんな人からメッセージをいただいた。しめくくりが孫からのみやげだ。ネットで調べたら、ミッキーマウスの誕生日は私と一日違いの11月18日。テレビが高倉健さんの死を伝えるなか、哀悼と多謝と偶然とで胸がじんときそうな一日になった。

2014年11月20日木曜日

円空仏のような

 おととい(11月18日)の午後、ネットで高倉健さんの死を知った。パソコンを開けて仕事をしていたら、ツイッターに訃報が載っていた。以後、きのうまでテレビの追悼番組に釘づけになった=写真(11月19日「モーニングバード」)。きのうは、新聞が1面で健さんの死を取り上げていた。首相が衆議院解散を表明しなかったら、トップニュースではなかったか。

 健さんの人となりについてはマスメディアが詳報している。それに刺激されて、この2日間、映画館で見た健さんが記憶のなかに立ち現れた。中学生のときの、どうでもいいやりとりも不意に思い出した。

 最初に見た映画は「網走番外地」の前、美空ひばりさんの映画のなかで、だった。小学校の高学年のときで、なんという映画かは覚えていない。が、ひばりさんが主役だから見に行ったら、長髪で面長の健さんが出ていた。初めて見る現代劇の「いい顔」だった。時代劇の中村錦之助(のちの萬屋錦之介)、東千代之介さんにも引かれたが、それとは別の容貌が印象に残った。

 阿武隈の山里にある中学校へは、3つの小学校の生徒が集まった。同級生になった別の小学校の人間たちと校庭で遊んでいると、一緒にいたその小学校の先輩が目を丸くした。「おめぇ、タカクラケンっていうのか」。同級生が「タカハルクン」といったのを聞き間違えたのだった。「んだ(そうだ)」なんてはいえなかったが、いい気分だった。

 最初の記憶では普通のサラリーマンのような髪型だった。健さんはいつから角刈りになったのだろう。短髪と同時に、アウトロー=寡黙で不器用な一匹狼といったイメージがかたちづくられた。その顔に渋みが増すと、円空の一刀彫りの仏像を思い出すようになった。
 
 似た顔の仏像があるから、というわけではない。顔に仏性を感じるようになった、というわけでもない。が、礼儀正しく義理堅い、孤独癖がありながらおしゃべり好き……といった虚実皮膜の高倉健像から、いつか村はずれの小さなお堂に安置されている円空仏のようなものを連想する癖がついた。合掌。

2014年11月19日水曜日

バングラデシュの客人

 バングラデシュの地方行政・農村開発・協同組合省の幹部だという。農村開発・協同組合総局の次官ら6人と在日大使館の経済公使が11月15、16日、いわき市を視察した。15日夜は会食に加わり(水で乾杯した)、翌16日は薄磯・豊間・四倉への道案内をした。

 バングラで「取り残された人々」の支援活動を続けているNGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」の前事務局長がスケジュールを調整し、ベンガル語の通訳を兼ねて一行を案内した。

 シャプラは震災後、いわきの救援活動に入り、今も交流スペース「ぶらっと」を開設・運営している。シャプラに関係している縁で連絡があり、いわきの被災・復興状況を車中から説明した。

 初日は夕方、市役所に市長を訪ね、商工観光部長を交えて歓談したという。翌日は沿岸部の薄磯・豊間を見て回ったあと、道の駅よつくら港を視察し、運営団体のNPO「よつくらぶ」の理事長から道の駅の説明を受けた=写真。

 ホテルからわが家経由で沿岸部へ向かう途中、車の中から夏井川の堤防かさ上げ工事や災害公営住宅、原発避難を余儀なくされている双葉郡富岡町民の応急仮設住宅を見た。豊間では、いわき民報社発行の写真集『3・11あの日を忘れない いわきの記憶』を見せながら、大津波が集落を飲みこんだ様子を説明した。防災緑地や高台宅地造成の現場も目にした。

 津波は世界共通語の「ツナミ」でもある。ベンガル語が飛び交うなかに「ツナミ」が何度も出た。
 
 視察目的は日本と韓国の農村開発と貧困削減の経験を学ぶこと――とかで、道の駅よつくら港では農家(生産者)との関係などを質問していた。「生産者が直接品物を搬入する」「値段は生産者が決める」「震災前より客が増えた」といった話に、私も聴き入った。

 彼らへのお土産として、カミサンが東洋大学国際地域学科の子島(ねじま)進教授から届いた、『HOPE2』(いわき市海岸保全を考える会発行)の英訳版をプレゼントした。東日本大震災と原発事故に遭遇したいわき市民や双葉郡の人々、ボランティアなどの証言集で、ネットを通じて海外へ被災地の現実を伝えようと、子島ゼミの学生らが英訳に取り組んだ。

 原発建設計画が進むバングラだからこそ、原発災害の現実を知ってほしい、という思いがある。

2014年11月18日火曜日

浜通りの花

『浜通りの花』(ほおずき書籍、2014年)の著者安原修次さん(船橋市)による阿武隈山地研究発表会兼いわき地域学會市民講座が土曜日(11月15日)、いわき市文化センターで開かれた。「野の花 写して30年」と題して、東日本の花をスライドで紹介した=写真。

 花が持つ癒しの効果は大きい――震災後は被災地支援を兼ねて『三陸の花』をまとめ、今年は福島県の『浜通りの花』を本にした。撮影までの努力が涙ぐましい。
 
 駐車場での車中泊は当たり前。アパートを借りても、家賃は1万円以内に抑える。浜通りの花の撮影では、わが友人たちが見かねて極安の物件をいわきに見つけた。
 
 撮影のために①自生を確認②蕾を確認③花を確認――と、3回は現地に足を運ぶ。道からそれてヤブこぎをしないと花には出合えない。ズボンを抜いて渓流を渡ることもある。
 
 いわきでは地元の植物研究家が案内人を務めた。今年78歳。たわしで皮膚をゴシゴシやるのが健康法とかで、かくしゃくとしたものだ。
 
 スライドの花ではジャケツイバラとカザグルマが印象に残った。ジャケツイバラは夏井川渓谷に自生する。カザグルマも同渓谷で一度だけ見た。『浜通りの花』には、ジャケツイバラについて福島県内ではいわき市だけ自生を確認、とある。どうしても、溪谷で目にした花に引かれる。
 
 リュウキンカにもスライドで“再会”した。昔、「いわきの尾瀬」ともいうべき、田村市に近い山中でリュウキンカの移植作戦に加わったことがある。消滅の危機にあった場所から人目につかない湿地へ――。『浜通りの花』に掲載されたリュウキンカがそれだとしたら、株数は増えているようだ。

 花の写真集はすでに30冊。山野草がブームになり、環境破壊が問題になっていたころは、本を出すとすぐメディアが取材に来た。今はさっぱりだという。自然に対するメディアの感性が鈍くなっていることを、ここでも知らされた思いがする。

 いずれにしても、野の花は盗掘の憂き目に遭い、浜通りの花は津波と原発事故に見舞われた。そのため、浪江・双葉町、葛尾村の花は撮影できなかった。「貴重な植物は地域みんなの宝。これ以上盗掘されないような対策を講じてもらいたい。大規模な護岸工事で、海浜植物も心配」と安原さんは、本のあとがきに記す。花もなにか言いたげな気がしてならない。

2014年11月17日月曜日

障子の影

 いわき市暮らしの伝承郷で「澤田仲子と仲間たちのパッチワークキルト展」がきょう(11月17日)まで開かれている。カミサンの知り合いが出品しているとかで、運転手役をおおせつかった。

 園内の旧川口家では、小中学生による「絵で見るいわきの民話展」が開かれていた(16日で終了)。女性ばかりの観覧者のなかで縮こまっていたので、気分を変えようと、かやぶき屋根の民家ゾーンにタイムスリップした。縁側の障子に映る影=写真=に引きつけられた。なんだか幼い自分がそこにいるような錯覚に襲われた。

 かやぶき屋根の家には土間がある。座敷があって、暗い納戸がある。阿武隈の山中に一軒、ぽつんとあった母方の祖母の家がそうだった。子どものころ、母に連れられてよく出かけた。今は杉林になっている。

「ばっぱの家」は旧川口家と同様、縁側と座敷が障子戸で仕切られていた。障子の張り替えを手伝わされたこともある。

 障子に影をつくっていたのは、かやぶき屋根の庇(ひさし)だ。今のプレハブ住宅と違って、昔の住宅は庇が長かった。日差しと雨を遮った。(「黒田官兵衛」では、縁側がいつも雨でびしょびしょになっている。あれではすぐ縁側が腐る――見るたびに違和感がある)

 軒下にサトイモの「芋がら」が干してあった。風が吹くと、芋がらは一斉にそよぐ。これが、家によっては大根だったり、柿だったりした。「ばっぱの家」にはしかし、柿はなかった。代わりに黒ずんだ豆柿をたたき落として食べた。

 そうだ、大人は縁側でお茶も飲んでいた。お茶請けは梅干しと砂糖のときがあった……。遠いとおい昔の記憶。

2014年11月16日日曜日

平タワー

 東北電力を定年で辞めたあと絵描きになった知人と雑談していたときのことだ。知人は今、80歳前後だ。それから逆算すると10年、いや20年くらい前だったかもしれない。「平タワー」という言葉を教えられた。きのう(11月15日)、不意にその言葉を思い出した。

 いわき市の平市街にわりと高い無線塔が2つある。1つは東北電力いわき営業所の建物の上に、もう1つはNTT東日本いわきビルの上に立つ。
 
 ちょっと前からNTTの無線塔が青いネットで覆われている=写真。メンテナンスの一環だろう。<おっ、クリストが来たか>。初めて見たとき、公共建築物などを梱包する美術家として知られるクリストを思い出した。以来、街へ行くたびに無線塔を眺める。その延長線上で記憶の底から「平タワー」が立ちのぼってきたのだ。

「平タワー」は電力の無線塔の異名なのだろう。社員が言い始めたのか、市民が言うようになったのかはわからない。が、言われてみると、東京タワーのミニ版には違いない。夜、東京から電車で帰り、マイカーで家路に就くときなど、夜空に点滅する航空障害灯を目にしてホッとしたものだ。

 とはいえ、より市街地にあるという点ではNTTの無線塔の方が「平タワー」にふさわしい。赤と白に塗り分けられた鉄骨が青いマントをまとっている。本やテレビでしか見たことのないクリストの作品が、巨大梱包が目の前にある――。そう、これは「ゲージュツ」なのだ、人間の想像力を刺激する作品なのだ、と考えると楽しくなる。

2014年11月15日土曜日

白い砂丘

 おととい(11月13日)の夜、たまたまNHK総合で「地球イチバン」を見た。<世界最大の白い砂丘~ブラジル・レンソイス>=写真=を紹介していた。とっさに松田松雄(1937~2001年)の絵を思い出した。

 松田の初期の作品と砂丘の風景がそっくりではないか。いや、画家の想像力が生み出した内面風景がこの世に実在していたではないか――後者の驚きの方が大きかった。

 今年の7月26日夜、BSプレミアム「グレートネイチャー」の<純白の砂漠 誕生の謎~北米大陸 チワワ砂漠>でも、同じ感慨を抱いた。レンソイス砂丘、チワワ砂漠、松田松雄の初期の作品「風景」が、私の中でつながった。

 松田は岩手県の陸前高田市で生まれ、いわきで脱サラをして画家になった。私は記者になりたての昭和46(1971)年、画家や書家、美大卒業生らがたむろするギャラリー「草野美術ホール」で松田と出会った。

 そのころの作品は、主に直線で仕切られた雪景色の中を、角巻き(防寒具)と思われるマントをすっぽりかぶった人間がとぼとぼと歩いているような“心象風景”だった。

 そのころの、私の松田評は「精神の飢餓のようなものに突き動かされて絵を描き続けるタイプ」「人間の悲しい闇の部分を提示しながらも、そこに祈りのような聖性が漂っているのはそのためで、これはきっと彼が見た地獄の深さに私達が慰撫されていることを意味する」だった。

 その絵の構図が、テレビが映し出す白い砂漠の凹凸(光と影)と青空、ラインが生み出した“絶景”に重なった。これは偶然の一致なのだろうか。テレビを見ながら(意味が違うのかもしれないが)、芸術は自然を模倣し、自然は芸術を模倣する――といったことばを思い出した。

 生前、松田から「白い砂漠」の話を聞いたことはない。その存在を知っていれば、感動屋の画家は人に話していたはずだ。それはともかく、天然の造形が人の感動を呼ぶように、松田の「黙示劇」も今なお人を引き付けて離さない。

2014年11月14日金曜日

木のうろの水たまり

 11月中旬になっても、耳もとで羽音を立てている虫がいる。蚊のようでもあり、ないようでもあり……。刺されれば一発でわかるが、10月下旬以降はそうしたこともなくなった。

 この夏、69年ぶりに国内で「デング熱」患者が確認された。海外渡航歴のない若い女性が都立代々木公園内でダンスの練習をしていたとき、蚊に刺された。その蚊がデングウイルスを持っていた。

 デングウイルスをもった外国人か、アジア方面へ旅行して蚊に刺され、デングウイルスをもって帰国した日本人が、同公園でヤブカ(ヒトスジシマカ)に刺された。すると、ヤブカにデングウイルスが移り、新たにその蚊に刺された人間が発症した――ということが考えられるらしい。
 
 蚊の“ゆりかご”は放置された古タイヤや庭の鉢、下水などの滞水スポットだ。木のうろの水たまり=写真=も、ヤブカのふるさとになる。
 
 前にも書いたが、わが家では毎年、5月20日前後に蚊が現れて人間を刺し始める。姿を消すのは10月下旬。今年は「デング熱」のこともあって、「蚊が刺した最後の日」を記録するつもりでいたが、このままでは「10月下旬あたり」で終わってしまいそうだ。
 
 11月に入っても耳もとで続く「ブーン」が蚊だとしたら、そしてそれに刺されたら、私の中では大ニュースになる。蚊の出現期間が長くなった証拠、つまり地球温暖化を示す身近な例になるからだ。

2014年11月13日木曜日

「季語探訪」を読む

 最初に、「フクシマ忌」に関する2011年7月30日、同8月7日付当ブログの抜粋をお読みいただきたい。

 ――年4回発行の浜通り俳句協会誌「浜通り」第141号が届いた。<東日本大震災特集号>である。多くの俳人が3・11の体験を記し、句を詠んでいる。招待の黒田杏子(ももこ)さんの作品に「原発忌福島忌この世のちの世」があった。「原発忌」と「福島忌」。新しい季語だ。
 
 同誌所収の黒田さんのエッセーに、選を担当する「日経俳壇」に掲載した句がいくつか紹介されている。「おろかなる人知なりけり原発忌」「広島忌長崎忌そして福島忌」。新季語にやりきれない思いがわいてくる。(以上、7月30日)

 ――被爆と被曝。原爆忌と原発忌。広島忌・長崎忌と福島忌、あるいはヒロシマ・ナガサキ・フクシマ。
 
 原発忌と福島忌に反発する以上は、原爆忌や広島忌・長崎忌の季語を安易に使ってはいけない。単に文章を飾り、整えるために引用してはいけない。自分の問題として内部に深く引き寄せて読み、書く。それで必要ならば使う。そんなことを戒めにせよ、と思うのだった。(以上、8月7日)

 今もその気持ちに変わりはない。いや、「フクシマ忌」が目につくにつれて反発も強くなった。そんな状況下で出合った文章がある。角川学芸出版「俳句」2014年9月号、宮坂静生さんの「季語探訪――東北を歩く②」=写真=だ。「浜通り」第154号の編集後記で、発行人の結城良一さんが雑誌を紹介していた。

 宮坂さんは<かねてから気になっていた(略)「フクシマ忌」という季語が私の中で立ち上がるだろうか、そんなことを考えながら、七月末に福島県浜通りを歩いた>。結城さんらが車で案内した。

 <私は(略)「フクシマ」を忌と括ることに賛成できない。そこには俳人の便宜主義とでもいうような手早くことにけりを付けたい、纏め難いことを引っ張るよりも、端的に括りたい。悼むことでより深く考えなければならないことを回避する安易な思いが働いているのではないか>

 俳人自身が「フクシマ忌」の是非を論じている。この文章に触れて初めて溜飲が下がった。宮坂さんの福島行は内部に生まれた疑問、是非を確かめるための旅でもあったろう。

 国道6号が全通したのは9月15日。一行はその前にいわきから双葉郡に入り、無人の富岡町役場・消防署付近でパトカーに北上を止められる。沿岸部にある常磐線富岡駅を見たあと、いわき市内の津波被災地を小名浜まで南下する。塩屋埼灯台にも上った。
 
 その体験を踏まえて、「原発震災」後、作品に詠まれるようになった言葉(除染・汚染水・シーベルト・放射線・原発・被曝など)を紹介している。その一部(いずれも句誌「浜通り」に掲載された)。
 
 汚染水行きどころなし夏の果  田崎武夫
 放射能知らずや草の芽ぞくぞく 長岡 由
 被曝圏ああこんなにも蕗の薹  結城良一

 地元福島の俳人は「フクシマ忌」とどう向き合っているのだろうか。あらためて「浜通り」をチェックしたら、ところどころに新季語が見られた。俳人の内部に深く突き刺さった言葉かどうかはわからない。

2014年11月12日水曜日

糠漬けから白菜漬けへ

 ある教会のバザーに出店したカミサンが、別のブースから白菜を購入した。車で迎えに行くと、荷物とともに手渡された。そうだ、白菜漬けにしよう――追加買いをし、計3玉を8つ割りにして干した=写真=あと、甕(かめ)に漬けこんだ。

 去年までは干したあとに白菜の重さを量り、食塩の量を決めていたが、今年はそんな面倒くさいことはやめた。切り割った白菜に振りかける塩の量を手が覚えている。目でもわかる。台所を理科の実験室にすることはない。

 白菜は、手に持った感じでざっと5キロ。食塩はその3~5%として、150~200グラムだ。これも目分量で準備した。手元にユズがないので、いわき産のミカンの皮を風味用に使う。だし昆布でうまみを、唐辛子で殺菌効果を狙う。ミカンの皮はみじんにし、昆布と唐辛子は適当に刻んだ。下ごしらえはいつもの通り、塩加減もいつもの通りだ。

 1年中、漬物を欠かさない。夏場は糠漬け、冬場は白菜漬け。その切り替え時期はおおよそ5月初めと11月初めだ。

 今年は真夏、糠床に異変がおきた。虫がわいたり、糠床の表面と漬けた大根が黒ずんだりした。乳酸菌より雑菌が多くなったのだろう。大震災もなんとかしのぎ、10年近く生きてきた糠床だが、そのためにいろいろ手を加えてはみたのだが、事態はよくならない。
 
 代々受け継がれて100年、200年になるという糠床ではない。とはいえ、わが家のなかでは唯一、歴史を重ねている“お宝”だ。残念だが、白菜漬けを始めたのを機に、見切りをつけて、来年新しく糠床をつくることにした。

 毎日、糠漬けが食卓にのるためには、ふだんの手入れが欠かせなかった。かきまわすだけでは足りなかった。糠床がやせて疲れていれば、糠を、塩を加える。殺菌や味を良くするために唐辛子を、昆布や塩サケの皮などを入れてやる――といったケアが必要だった。
 
 飛行機や新幹線から糠床まで、大事なのはふだんのメンテナンス、それがあって初めて「当たり前」が保たれるのだと、あらためて知る。

2014年11月11日火曜日

カナダ産マツタケ

 マツタケ=写真=を焼いたり、蒸したりして食べた。といっても、カナダ産だが。

 オイが家族を連れて新潟から里帰りした。震災前の正月以来、ほぼ4年ぶりの再会だ。オイの母親の家に私ら夫婦と、私の子ども夫婦が集まった。親・子・孫でいうと、2組の親と3組の子ども夫婦、そして小1(男)、年長(オイの娘)、年中(男)の3人の孫がそろった。年子の「はとこ」たちは最初、照れてぎこちなかったが、なじむのも早い。すぐ部屋の中を駆け回っていた。

 アルコール、すし、刺し身……。それぞれの家族が手分けして飲食物を持ち寄った。マツタケは下の子がネットで購入した。あとでチェックしたら、1キロ前後で1万2500円ほど。国産だとこの10倍以上はする。
 
 いわき市では野生キノコの摂取・出荷自粛が続く。カナダ産でもマツタケの代用品として十分だが、実は食べ方がよくわからない。まず、採ったことがない。採るのを最初からあきらめている。

 口にした回数も限られている。マツタケの土瓶蒸しを何回か。川内村の陶芸家夫婦の家で七輪に網わたしをかけてまるまる一本を炭火で焼いて口にしたことが1回。ほかに、夏井川渓谷にある隠居の地主さんからもらって蒸し焼きにしたことが2回ほど。当然、調理の仕方も、焼き方も身に付いていない。マツタケの香りもすっかり忘れている。

 とりあえず2つに割いたものを、魚焼きにのせて卓上コンロで焼いた。が、食べるころあいがわからない。「キノコが汗をかきだしたら」だったろうか。うろ覚えのまま一しずく、水分が出てきたところで口にすると、やや生に近い部分があった。香りならシイタケの方が強い、とも思った。

 きょう(11月11日)で震災から3年8カ月。自然災害だけなら、前へ向かう気持ちが強くなっているはずだが、なかなかそうはならない。外国産マツタケが、食べられない阿武隈産マツタケの存在を際立たせる。

2014年11月10日月曜日

曇天下の歩こう会

 きのう(11月9日)午前、河口に近い夏井川堤防で「神谷(かべや)市民歩こう会」が開かれた。今にも泣きだしそうな空の下、親子などおよそ80人が参加し、堤防の上と河川敷のサイクリングロードに分かれて、ごみを拾いながら水辺のウオーキングを楽しんだ。

 やがて雨の予報だったため、急きょ、コースを半分に短縮した。それが正解だった。予定通り、神谷公民館から河口部のざわみき公園まで往復9.5キロ、公園で昼食・レクリエーションを続行したら、帰りに雨に見舞われていた。

 体調を崩して散歩をやめるまで、堤防は朝夕のウオーキングコースだった。今は車で通りながら、川をウオッチングするだけになった。私にとっては、ほぼ2年ぶりの堤防ウオーキングだ。往復で1万歩弱を歩いた。

 住宅地を抜けて堤防に出るとすぐ、川の中で休んでいるハクチョウの群れに出合った=写真。少し下流のやな場では、サケが最後の力を振り絞って水しぶきをあげていた。帰りは、夏井川鮭増殖組合の人たちがやな場にいて、いけすからサケを捕獲する準備をしていた。ハクチョウの姿はなかった。

 もっと下流、浄化センターの前の河川敷は大水がもたらした枯れヨシやカヤ、木などで、サイクリングロードが広範囲にわたって埋め尽くされ、通行ができなくなっていた。「なんでこうなったと思う」「台風?」「そう、大水のあとに残ったんだ」などと小学生と話しながら通り過ぎた。

 公民館に戻ったあと、お楽しみ抽選会が行われた。ハクチョウやサケ、流木のことを織り交ぜながら、あいさつした。行くときより帰るときの堤防がきれいになっていた、気持ちがよかった――その点を強調した。1人でも、2人でもいい、子どものなかに「来たときよりきれいにして帰る」という思いが芽生えることを願って。

2014年11月9日日曜日

線路の濡れ落ち葉

「ブロガー」のサービス障害だとかで、きのう(11月8日)はブログをアップすることができなかった。6年間で初めてのトラブルだった。夜10時には復旧したようだ。以下、きのう、アップを予定していた文章です。
               ☆
 夏井川渓谷では、カエデの紅葉がピークを迎えている。一方で、カエデ以外の落葉が進み、裸木が目立つようになった。すると、線路に落ち葉が積もって列車の車輪が空回りすることがある。雨による“濡れ落ち葉”が原因だ。

 今季の“初滑り”だったようだ。おととい(11月7日)の福島民報に、前夜、磐越東線の川前~夏井駅間でいわき発郡山行きの列車が“濡れ落ち葉”のために遅れた、という小記事が載った=写真。

 枯れ葉は濡れると「形状記憶装置」がはたらく。晴れた日が続けば、乾いて反り返り、落ち葉で埋まった森の小道はふわふわしたじゅうたんのようになる。雨が降ると、これが全く様相を変える。濡れた落ち葉がへばりつくようにぺしゃんこになる。しかも、滑りやすい。

 それからの連想だが、線路と車輪の間に“濡れ落ち葉”がはさまって、前進するための摩擦力が落ちるのだろう。しかも、磐東線の下りの場合は平地から山の向こうのゆるやかな高原へと、V字谷を経由して駆け上がっていく。勾配がきつい。いよいよ前に進めない。

 磐東線で列車が遅れた――と聞くと、反射的にイノシシのことを思い浮かべる。それはしかし1年を通してのことで、今回は晩秋~初冬限定の“濡れ落ち葉”が原因だった。(そういえば、おとといは立冬だった)

 これからいっそう枯れ葉は森に降り、川に降り、道路にも、線路にも降る。それで、この時期、「毎朝、散歩を兼ねて線路の様子を見にいく」人がいた。十数年前に溪谷の集落で、その本人から聞いた話だ。
 
 そうだった。ネギの苗床にも枯れ葉が降る。隠居(無量庵)へ行くたびに苗床をのぞいて、日光を遮断する枯れ葉を取り除く。それが、このごろの仕事だ。季節によって注意をしなくてはならないことが違う。

2014年11月7日金曜日

生り年の甘柿

 近所のおじ(故人)の家に甘柿がある。今年は生(な)り年だ。だいぶ色づいてきたので、連休明けの11月4日夕、1回目の柿もぎりをした。丸ごとかじったり、八つ割り=写真=にして酒のつまみにしたりした。

 去年11月に甘柿のことを書いた。――会津の後輩が甘柿を送ってきた。八つ割りにして晩酌の膳に添えた。いわきの甘柿も食べた。市の風評被害払拭プロジェクト「見せます!いわき情報局」に当たって、一般的な傾向を見た。柿はいずれも検出下限値(キロ当たり10ベクレル未満)か、それを少し上回る程度だった――。
 
 今年は今のところ、会津も、中通りも、いわきもほとんどが「検出されず」だ。キノコと違って柿とは気持ちよく向き合える。熟しかけたものもあれば、硬いものもある。硬めの柿はさっぱりした味だった。

 ベクレルなんか意識もしなかった6年前には、こんなことを書いた。――新聞に「柿の日」の記事が載っていた。正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は10月26日に詠まれた。それで、全国果樹研究連合会カキ部会がその日を「柿の日」と制定したという。

 甘柿の幹はそんなに太くない。梢もそう高くない。なんとも中途半端な木だ。脚立を立て、柿の幹を支えに爪先立ちをして、手でもぎとれる範囲内で実を収穫した。手籠にいっぱいになったところで、手が届かなくなった。半数以上が残った――。

 今年も同じように、まだ3分の2が残っている。2回目はコアラになってもぎるとしよう。ほんとうは孫を呼び出して一緒にもぎり、一緒にかぶりつきたいのだが……。へたな五七五にすると、こうなる。「甘柿をもいでも孫にあげられず」

2014年11月6日木曜日

共立病院駐車場

「広報いわき」11月号のトップ記事は「お知らせします 新病院建設の進捗状況」。新しい市立総合磐城共立病院の建設事業の進み具合を紹介している。その工事に合わせて、12月11日から市保健福祉センターのそばに臨時駐車場を設け、病院までシャトルバスを運行することを告知している=写真。
 
 10月末、消化器の検査を予約するために共立病院を訪れた。約束の時間は10時半。自宅からは車でおよそ15分だから、9時半に出発すれば楽勝と甘くみたのがいけなかった。駐車場に車を止められなくなるから、早く出かけたら――カミサンにやいのやいの言われた通りになった。

 ラッシュアワーの時間はとうに過ぎていたので、駐車場入り口まではスムーズにいった。が、そこからほとんど車列が動かない。このままでは約束の時間を過ぎてしまう。心当たりの駐車場と距離を考えていたら、病院から約500メートル離れたところにある知人の治療院の駐車場を思い出した。そこへ車を飛ばし、歩いて病院へ行った。
 
 きのう(11月5日)は朝9時半の予約で胃の内視鏡検査をしてもらった。朝ドラの「マッサン」が終わるとすぐ家を出た。8時半すぎには駐車場に入ることができた。建物から最も遠い第3駐車場だからすいていたが、ここも帰りの10時前に見たら満パイになっていた。
 
 とにかく共立病院は外来患者と入院家族、見舞客などで駐車場が混雑する。なかでも朝9~10時台がそのピークだということを忘れていた。
 
 12月中旬からは、道のりにして病院から1キロ余先に駐車場が移る。「広報いわき」によれば、月~金曜は日中、5~10分間隔でシャトルバスが運行される。土・日・祝日は面会時間の午後2~7時に合わせた運行になる。いちおう頭に入れておかないと。

2014年11月5日水曜日

夏井川のアレチウリ

 今年も残すところあと2カ月弱。年賀はがきの発売が毎年、年末へのカウントダウンの始まりになる。すると、小欄といえども、あれを書いてない、これを書いてないと、少し落ち着かなくなる。
 
 夏井川の堤防を、河口から水源までチェックしたらどうだろう。飛びとびに「アレチウリマップ」ができるのではないか。秋の彼岸に実家のある田村市へ足を延ばすので、そのときに見てこよう――といったことを、9月下旬に書いた。その結果をまだ書いてなかった。
 
 ひとことでいえば、アレチウリは夏井川の上・中・下流どこにでもあった。夏井川はアレチウリに侵略されていた、といっても言い過ぎではない。「夏井千本桜」も堤防がアレチウリに覆われ、こずえにまでつるが届いている木もあった=写真。川を離れた道路や線路沿いにも見られた。

 前にも書いたが、アレチウリは北米原産のつる性植物だ。日本では1952年に静岡で発見されたのが最初だという。特に、河川敷で分布を広げている。いわきの夏井川で初めてアレチウリに気づいたのは6年前。朝晩散歩をしているコースを中心に、車で行き来する平神橋~六十枚橋間の一部に見られた。

 アレチウリが厄介なところは、在来のつる性植物であるクズはおろか、木もすっぽり覆ってしまうことだ。すると、下の植物は日光を遮断され、光合成ができなくなって枯れる。生態系のバランスが崩れるのだ。
 
「アレチウリマップ」は要らない。アレチウリだらけだから――水源部を除く夏井川の堤防を車中からざっと見てきて、危機感がつのった。

2014年11月4日火曜日

山の上の神社

 塩屋埼灯台の南側は豊間地区、北側は薄磯地区。両地区とも大津波で壊滅的な被害に遭った。やや内陸部に災害公営住宅が建設されたが、それだけでは足りない。海岸寄りの平地には防災緑地が設けられ、高台には宅地が造成される。その工事が盛んに行われている。
 
 きのう(11月3日)、久しぶりに豊間~薄磯その他の海岸部を巡った。ときどき現状の記憶を“更新”するためにそうする。
 
 薄磯地区にある豊間中の体育館は解体されて姿を消した。校舎のうしろの高台が丸裸になっていた。山城のように神社が鎮座していた=写真。古峯農商神社らしい。伐採前、高台は鎮守の森でもあった。
 
 太平洋に面した薄磯、豊間の集落は西に高台を背負う。薄磯は、その高台に大山祇(おおやまづみ)、古峯農商、薄井の各神社が鎮座する。
 
 鎮守の森を切り払われた古峯農商神社を目にした瞬間、あのとき、これらの神社に避難した人たちがいたことを思い出した。今では何に収録された手記か、だれに聞いた体験談か判然としないが、すぐ裏山にある神社が何人かのいのちを救ったのだ。

彼も救われたのではなかったか。国際NGOのシャプラニールがいわきの支援に入り、交流スペース「ぶらっと」を開設した。その利用者第一号の男性、薄磯で津波被害に遭った元漁師だ。やがて「ぶらっと」の情報紙を出すことになり、創刊準備号に彼の声が載った。

「薄磯にいた頃は、毎日防波堤に行けば仲間がいて、話し相手に事欠かなかったねえ。今は周りに知り合いもいないから、一日どう過ごせばよいかわからないんだ。この交流スペースが出来てスタッフが話し相手になってくれるから、これからも利用するよ。俺のように独りで暮らしている人がいたら、是非ここを利用して欲しいな」

 いわき駅近くの借り上げ住宅(民間アパート)に入っていた。ときどき仲間と応急仮設住宅へ行ってボランティアもやっている、と聞いた。その彼が震災2年目の7月1日に急死した。私は震災関連死だと思っている。彼からも、本人だか知り合いだかが神社に避難した話を聞いたような気がする。
 
 薄磯を訪ねたのにはもうひとつ理由がある。堤防の近くで喫茶店を営んでいた知人の家は、自宅部分だけが残った。いずれ解体されるのだろうが、今、どうなっているのか。気になって見たら、そのまま残っていた。そこだけポツンと時間が止まっているような感じだった。周囲では重機が盛んに動き回っている。

2014年11月3日月曜日

一本足のコハクチョウ

 もう2週間前になる。コハクチョウが来ているにちがいない――朝の10時ごろ、夏井川の越冬地(いわき市平中平窪)に足を運んだら、コハクチョウが130羽ほどいた。そのうちのかなりの数が一本足で眠っていた=写真。すわりこんでいるのも、むろんいた。10月20日付小欄でそのことを書いた。

 コハクチョウはシベリアから渡ってくる。春、北へ帰ったあと、どこでどんな生活をしているのか。若いとき、気になって長谷川博著『白鳥の旅 シベリアから日本へ』(東京新聞出版局、1988年)を買って読んだ。著者はアホウドリの研究者として知られるが、私のなかではコハクチョウの研究者でもある。

 震災のダンシャリのなかでたまたま残しておいたのだが、ページを繰ることはこの20年余なかった。
 
 きのう(11月2日)、たまたま手に取ってみた。コハクチョウのふるさとは北極海に面したツンドラ地帯であること、5月中旬にふるさとへたどり着き、白夜のさなかの6月には産卵が始まること、9月下旬には幼鳥ともども南へ旅立つことを、あらためて知った。
 
 コハクチョウの幼鳥は、いや成鳥もそうだが、長い旅を経て、へとへとになって日本列島にたどり着くのだ。
 
 その意味では、越冬地に着いたばかりの一本足のコハクチョウと、日にちがたって体力を取り戻したあとの一本足のコハクチョウとでは、発するメッセージが違う。とりわけ幼鳥は親鳥につき従い、必死になって山を越え、海を渡って、初めて夏井川にやってきたのだ――そのけなげさを思うだけで胸に温かいものが広がる。

2014年11月2日日曜日

マサキとミノウスバ

 風呂場の天井直下に通気口が2つ並んである。あるとき、そこからスズメが2羽入り込んで休んでいた。私がドアを開けると慌てて飛び回り、やがて通気口から外へと脱出した。後日、小さなガの一種、ミノウスバの成虫が浴槽のふたの上に止まっていた。やはり通気口を伝って中に入り込んだのだろう。

 ミノウスバの成虫が現れたということは、生け垣のマサキの枝に止まって交尾・産卵が行われているということだ。外に出てマサキを見ると、そこかしこにミノウスバの成虫が止まっていた=写真。

 去年はちょうどきょう(11月2日)、その成虫の出現に気づいた。首都圏からの被災地ツアーの一行を自宅前で待っていたとき、ミノウスバが帽子からこぼれ落ちた。すぐ家の周りの生け垣をチェックすると、ミノウスバが飛び交い、マサキの枝先で産卵していた。

 卵はそのまま冬を越し、マサキの新芽が膨らみ始める春の終わりごろに孵化する。幼虫は最初、かたまって新芽を食べているが、成長するにつれて木全体に散らばり、さらに激しく若葉を食害する。5月中旬にはマサキを離れ、石の裏などに繭をつくって蛹化し、晩秋に羽化して成虫になり、再び産卵が始まる。

 幼虫が木全体に散開する前に退治しないと、葉を食べつくされる。それでも足りないと幼虫は別の木を探すのだろう。虫が嫌いな隣家に移動して苦情を言われたこともある。
 
 予防策は簡単だ。産卵が終わったころを見計らって、その枝の部分だけをカットする。今年は先週の金曜日にそれをやった。小一時間で作業は終わり、枝の量も小さな買い物袋ひとつですんだ。これをやらずに年を越し、晩春を迎えると、ごみ袋に3つも4つも枝を詰め込まないといけなくなる。

 ミノウスバは、別の個体が遅れて現れては産卵する、といった「時間差攻撃」をしかけてくる印象がある。小春日にときどきマサキを観察することで、産卵の有無がわかる。成虫が姿を消し、産卵枝がなくなれば、来年のマサキの無事が確認できる。

 小事のうちに問題の芽を摘んでおく。そうとわかっていても、たいてい<まだいいや>となって、やがてとんでもないことになる。今回は今のところスムーズだ。

2014年11月1日土曜日

電柱の話

 行政区内にあって、だれの土地でもない場所に立っている電柱の件で、東北電力の担当者がわが家にやって来た。用事は簡単、区に借地料を払うための書類に記入して判を押すだけ。それで終わり――ではつまらないので、書類をわきにおいて雑談した。

 盛り上がったのは、カラスに話が及んだときだ。カラスは電柱にも営巣する。洗濯物干し用のハンガーを巣の材料にするケースが少なくない。停電の原因になるので巣を除去するのだが、そしてまたいろいろ手を打つのだが、カラスはそれにもすぐ慣れる。いたちごっこだという。「書店の万引、電力会社のカラス」。そんな“新ことわざ”が頭に点滅した。

 つる性植物も電柱の支えに巻きついて電線に向かって伸びていく。植物内部の水分が停電の元になる。この対策に巻き上がりストッパーが考案された。「電柱に風速計のような形をしたもの=写真=がついていて、風でくるくる回るけど、あれはカラス除け?」。「そうです」。よく気がつきましたね――といわんばかりに大きくうなずいた。
 
 送電線や鉄塔についてもいろいろ教えてくれた。空気は絶縁体だが、高電圧の送電線の近くでは放電がおき、空気の絶縁を破ろうとしてビリビリ空気を震わせることがあるのだとか。50万ボルトのような超高圧送電線の場合は10㍍以上離れていないと危険だという。カーラジオをかけていて、踏切を渡るときに急に雑音が入るのはこれだったか。
 
 超高圧の送電線が夏井川渓谷の上空をまたいでいる。目には見えないが、送電線からは絶えず放電がおこなわれているのだろう。道端の電柱に架かる配電線はともかく、送電線にカラスが止まっているのを見たことがあったかなかったか。今度、そのへんを意識して見てみよう。