2014年11月4日火曜日

山の上の神社

 塩屋埼灯台の南側は豊間地区、北側は薄磯地区。両地区とも大津波で壊滅的な被害に遭った。やや内陸部に災害公営住宅が建設されたが、それだけでは足りない。海岸寄りの平地には防災緑地が設けられ、高台には宅地が造成される。その工事が盛んに行われている。
 
 きのう(11月3日)、久しぶりに豊間~薄磯その他の海岸部を巡った。ときどき現状の記憶を“更新”するためにそうする。
 
 薄磯地区にある豊間中の体育館は解体されて姿を消した。校舎のうしろの高台が丸裸になっていた。山城のように神社が鎮座していた=写真。古峯農商神社らしい。伐採前、高台は鎮守の森でもあった。
 
 太平洋に面した薄磯、豊間の集落は西に高台を背負う。薄磯は、その高台に大山祇(おおやまづみ)、古峯農商、薄井の各神社が鎮座する。
 
 鎮守の森を切り払われた古峯農商神社を目にした瞬間、あのとき、これらの神社に避難した人たちがいたことを思い出した。今では何に収録された手記か、だれに聞いた体験談か判然としないが、すぐ裏山にある神社が何人かのいのちを救ったのだ。

彼も救われたのではなかったか。国際NGOのシャプラニールがいわきの支援に入り、交流スペース「ぶらっと」を開設した。その利用者第一号の男性、薄磯で津波被害に遭った元漁師だ。やがて「ぶらっと」の情報紙を出すことになり、創刊準備号に彼の声が載った。

「薄磯にいた頃は、毎日防波堤に行けば仲間がいて、話し相手に事欠かなかったねえ。今は周りに知り合いもいないから、一日どう過ごせばよいかわからないんだ。この交流スペースが出来てスタッフが話し相手になってくれるから、これからも利用するよ。俺のように独りで暮らしている人がいたら、是非ここを利用して欲しいな」

 いわき駅近くの借り上げ住宅(民間アパート)に入っていた。ときどき仲間と応急仮設住宅へ行ってボランティアもやっている、と聞いた。その彼が震災2年目の7月1日に急死した。私は震災関連死だと思っている。彼からも、本人だか知り合いだかが神社に避難した話を聞いたような気がする。
 
 薄磯を訪ねたのにはもうひとつ理由がある。堤防の近くで喫茶店を営んでいた知人の家は、自宅部分だけが残った。いずれ解体されるのだろうが、今、どうなっているのか。気になって見たら、そのまま残っていた。そこだけポツンと時間が止まっているような感じだった。周囲では重機が盛んに動き回っている。

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