2015年12月31日木曜日

オレオレ詐欺

 銀行へ行ったら、はがき大のチラシが置いてあった=写真。「電話がきたら、これを見て!!」。「オレオレ詐欺」の対処法が表と裏の両面に書いてある。受話器のそばに張り付けておけば効果がありますよ、ということだろう。
 3つの犯行タイプ①「電話番号が変わった」②「オレだ・息子だ・孫だ」③「警察・銀行・裁判所・弁護士です」――を紹介し、その対応の仕方を記す。②には「オレって、誰だ」「息子ならここにいる」「金はない」「ちょっと待って録音すっから」「あんたオレオレ詐欺か」といってやる。

 ある日、テレビニュースを見ていたカミサンが「『オレオレ詐欺』って女はいないんだね」といった。確かに「ワタシワタシ詐欺」は聞かない。そうか、これは息子と母親との関係、「母性」を逆手にとった詐欺なんだ、「息子」だから成り立つ犯罪なんだ、と了解した。

 かつての「息子」の経験――。小学生くらいまでは母親と一緒に風呂に入って、体を洗ってもらった。それが、いつからか一人で入るようになると、親とはあまり口をきかなくなった。用事があれば、単語を二つつなげるだけ。「腹、減った」「○○円、ちょうだい」「○時に起こして」……。親元を離れてからは電話をかけるわけでもなく、年に2回、帰省するだけになった。
 
 同居していても、親とはあまり話さない、という息子が多いだろう。それでも、母親は腹を痛めた子どもがかわいい。心配でならない。そこをついてくるのではないか。息子ではない「息子」の電話を、「母性」で聞いてしまうのではないか。
 
 逆に、娘とは同居していればおしゃべり、離れていれば長電話――母と娘は向き合っているから「ワタシワタシ詐欺」は成り立たない、という“仮説”を、先日、確かめた。クリスマスの晩に、疑似孫とその両親がやって来た。母親に聞くと、自分の母親とは絶えず電話で話しているという。「娘」にばけた他人がつけこむスキはない。

 さて、そうなると、「オレオレ詐欺」の究極の撃退法は、金を要求するような「バカ息子」には「そんな親不孝な人間は息子でもなんでもねぇ」といって、ガチャンと受話器を置くことだ。いや、それよりもふだんから母親に電話をしたり、同居していればおしゃべりをしたりすること、ではないか。これは息子が努力すればできる親孝行でもある。

2015年12月30日水曜日

キノコ2015

 12月最後の日曜日には、いわきキノコ同好会の総会・勉強会・懇親会が開かれる。今年は27日だった=写真。
 個人で知り得るキノコ情報は限られる。山の斜面を上ると息が切れるようになってからはなおさらだ。同好会の仲間に会えば、今年のキノコの発生状況がどんなものだったかを、あらまし知ることができる。勉強会では、3回の観察会を通じて確認された(不明菌も含む)キノコがスライドで紹介された。

 同好会が発足したころは、キノコの食毒と観察会の場所に興味のある人間が多かった。ひととおり勉強すれば、同好会を“中退”して一人歩きをしたい。そういう人間もいれば、別の組織に移る人間もいた。食欲はもちろんだが、色・かたちも含めてキノコそのものを知りたい、調べたい、という人間が残った。

 原発事故がおきてすぐ被害に遭ったのが、キノコではないだろうか。カリウムの代わりにセシウムを取り込んでしまう。そんなキノコが多いのか、いまだに野生キノコは摂取・出荷制限が続いている。

 先日、阿武隈高地の実家へ帰ったら、雑キノコが袋に入って置いてあった。「湯通ししたものをもらい、さらに自分でも湯通しをして検査した。ND(不検出)だった」という。湯通しをすると線量が下がる。2011年暮れのキノコ同好会の懇親会で、仲間が早々と“実証報告”をした。「ただし、キノコの味はなくなっていたが」

 勉強会では――。ウスキブナノミタケ、シロナメツムタケ、キウロコテングタケ、シロアンズタケ……と、初めて聞く名前のキノコが少なくなかった。図鑑を見ても同定できない不明菌もあったという。それで、仮に「キイロイッポンシメジ」と名付けたものもある。毎回、勉強会で感じることだが、キノコは未知の分野の方が広く大きい。だからこそ引かれるのかもしれない。

 全体的な傾向としては、今までの経験則が通じなくなりつつある、ということだった。温暖化が関係しているのではないだろうか。夏はより暑くなった。秋は雨が降ってもすぐ森が乾く。タイミングが難しい。観察会を半月は前倒ししないとキノコに出合えなくなっている(数が少なくなっている)という。

 そのなかでも、ルリハツタケが里山に発生するという話に引かれた。愛菌家あこがれの“美菌”だ。それだけで市外の愛菌家をいわきに引き寄せる力があるらしい。昔はよくその里山を歩いたが、瑠璃色のキノコには一度も出合えなかった。

2015年12月29日火曜日

庭に霜柱が

 きのう(12月28日)の朝は、いわき(といっても小名浜)の最低気温が氷点下3.3度だったと、夕方のテレビが伝えていた。この冬一番の冷え込みだ。
 沿岸部の小名浜でそうなら、内陸部の平はもっと冷え込んだのではないか。わが隠居のある夏井川渓谷の集落はもっと、さらに標高の高い川前、三和町はもっともっと。(隠居の温水器は水抜きをしてきたはず)

 平地(マチ)のわが家の南隣、義弟の家の庭に霜柱ができた=写真。このところ毎朝、カミサンが入院中の弟に代わって庭の片付けをしている。それで霜柱に気がついた。全天青の夜明け、雲のふとんがないのだから、放射冷却にあって地中の水分が凍りついた。いわきのハマはもちろん、マチもヤマも霜柱ができるほど空冷された、というわけだ。

 平地だから霜柱の長さ(高さ)は1~1.5センチ程度だが、渓谷では5センチくらいにはなったはずだ。もっと山あいでは表土そのものが凍りはじめたかもしれない。隠居の畑だと、厳寒期には地表から7センチくらいの凍土ができる。生ごみはそれでしばらく埋められない。(堆肥枠のなかに投入する)

 さて、きのうは急冷されたが、「暖冬」で推移していることは確かなようだ。フェイスブックにアップされる情報やテレビのニュース、直接耳にする話でもそれを実感できる。「狂い咲き」、あるいは「返り咲き」という言葉を思い浮かべることが多い。紅梅が咲いた、干し柿がかびた、フキノトウが出てきた、という話も聞く。

 いわきの平地では、干し柿はかびることがある、という話を昔から聞いている。だから、暖冬になれば失敗する。もう一人の義弟が「かびちゃった」といっていた。
 
 フキノトウは、いわきでは師走のうちに頭を出すのも珍しくない。私自身、毎年ではないが年末に渓谷の隠居の庭に頭を出したフキノトウを摘んで、元日の雑煮に散らして食べる。渓谷の住人に教えられたことだ。
 
 干し柿がかびるのもフキノトウが頭を出すのも、いわきの冬の「想定内」。驚いたのは「タケノコが生えてきた」ことだ。ただしそれは伝聞で、話してくれた人が見たわけではない。にしても、この冬は今までとちがった「異常情報」が多い。
 
 わが家の庭のスイセンは、これまで年が明けてからしかつぼみをもたなかったが、一輪だけ今にも咲きだしそうにふくらんできた。わが家のスイセンの「定点観測」でいえば、暖冬でもちょっとおかしい。もう春がきたと勘違いしているのだろうか。

2015年12月28日月曜日

国道288号「山神ゲート」

 東日本大震災と原発事故から4年が過ぎた今年(2015年)3月下旬。いわき四倉ICから常磐道を北上し、常磐富岡ICで下りたあと県道いわき浪江線(通称・山麓線)経由で田村市常葉町の実家へと国道288号を西進した。
 今年3月1日に常磐富岡IC~浪江IC間が開通し、常磐道が全通した。それに伴い、常磐道へのアクセス道路として、山麓線経由で288号が通れるようになった。

 山麓線と288号は大熊町野上字山神(やまがみ)地内で交わる。288号の東側に「山神ゲート」=写真=があって、双葉・浪江町方面へは通行証がないと入れない。こちらは単に自由通行の身だ。西側へ向かうときにはゲート前を左折し、阿武隈高地からいわきへ戻るときには右折する。
 
 先日(12月22日)は、山神ゲート前経由で実家から帰ってきた。ゲートから1F(いちえふ)まで東へ直線距離で5~6キロだろうか。
 
 9カ月ぶりの大熊町だった。ダンプカーなどが増えていた。大川原地区など対象地域(避難指示解除準備区域・居住制限区域の生活圏と林縁部から森林側に20メートル入った部分)の除染は昨年までにすんでおり、次の段階に入ったのだろう。山神ゲートに近い大川原地区には3000人居住予定の復興拠点が整備さる。植物工場や給食センターなども建設されるそうだ。
 
 富岡町では、県道小野富岡線との交差点で常磐富岡ICへ左折するところを、そのまま直進してしまった。Uターンするのもシャクなので、えいっ、このままサンロク線を行っちゃえ――富岡から楢葉町へと進む。こちらは2年ぶりの通行だ。ハクチョウが越冬する上繁岡の大堤には(おとといも書いたが)、ハクチョウの姿はなかった。
 
 沿線の田んぼなどにフレコンバッグが積み上げられている。常磐道から見下ろす眺めと同じだが、目線が低い分、量的な広がりがある。それでも、木戸川近くでは木造の家だか施設だかの建築工事が行われていた。除染のほかに復旧、再生工事が始まったということなのだろう。
 
 広野町に入ると、広野ICの標識が見えた。そこからいわき中央ICまで常磐道を利用する。山麓線沿いの光景はどんどん変わりつつある。

2015年12月27日日曜日

トゥー・イズ・ワン

 実家は阿武隈の町の床屋。店内にジョン・レノンが描いたレノンとヨウコの絵が飾ってある=写真。もちろん、ただの印刷物だ。もう何十年もそこにある。兄に散髪してもらいながらなにげなく見ると、絵の下に英語で2行、大きく「ジョン・レノン」、小さく「トゥー・イズ・ワン」とあった。初めてタイトルを知った。
 なるほど、「二人で一人」、いや「二人は一つ」か。1969(昭和44)年に結婚した直後に描かれたものらしい。

 二人が一つになってさらに高いレベルをめざす、それを「愛の弁証法」という――なんて「迷言」を、後輩の結婚披露宴で口にしたことがある。「トゥー・イズ・ワン」だ。
 
 孫がいる年になってみると、「トゥー・イズ・ワン」は、「愛の弁証法」というよりは「福祉的弁証法」に変わった。忘れ物が増えた。カミサンがカバーする。逆もある。古いセーターはほころびやすい。それと同じで、一人ではほころびを防ぎきれない。人生の夜明けには「半人前」だったのが、人生の日暮れには「二人で一人前」に変わった、いや戻った、か。

 ま、それはそれとして、フェイスブックでレノンの「ハッピー・クリスマス」を聴いた。「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」ともいうらしい。戦争とはベトナム戦争のことだ。10年以上前になるが、自分で買ったか誰かにもらったかして、この歌の入ったレノンのCDを週末、夏井川渓谷の隠居で繰り返し聴いた。それを、このクリスマスに思い出した。

「高砂や……」と歌われる謡曲がある。熊手(福をかき集める)を持った翁(おきな)とほうき(邪気を払う)を持った媼(おうな)が登場する。縁結びや長寿・和合のシンボルだが、「家庭内高齢者福祉」をも意味するものだった。「トゥー・イズ・ワン」を、今の心境に照らして意訳すると「友白髪」になる。

2015年12月26日土曜日

小川の里のハクチョウ

 ハクチョウと小川町――。詩人の草野心平が生まれ育ったころには、たぶん想像もつかなかった組み合わせだろう。江戸時代はどうだったのか。その前は、さらにその前は。
 今は毎年、いわき市小川町三島の夏井川でハクチョウが越冬する。夏井川ではほかに、下流の平・中平窪、塩~中神谷にハクチョウが飛来する。2008年5月、北海道などでオオハクチョウの死骸から鳥インフルエンザが検出された。以来、給餌(きゅうじ)自粛が叫ばれ、いわきでも年々、その数を減らしている(日本野鳥の会いわき支部『いわき鳥類目録2015』)。

 朝9時ごろ、小川町の平野部を通ると、山並みをバックにハクチョウが飛んでいる。12月6日の日曜日がそうだった。半月ほどたった22日の火曜日(冬至)も飛んでいた=写真。100年前にもハクチョウが越冬していれば、心平は詩に書いていただろう。

 それはそれとして――。国道399号は小川・三島地内で夏井川と並走する。橋のすぐ上流に磐城小川江筋の取水堰(斜め堰)がある。それで流れが緩やかになり、浅瀬も広いためにハクチョウの格好の休み場になった。平地の夏井川で第3の越冬地として定着したのは、しかし近年だ。
 
 2年前の初冬のある朝、三島で――国道沿いの家から男性が現れ、ガードレールのそばに立って「おはよう、おはよう」とハクチョウたちに大声で呼びかけながら、道路から5メートルほど下の水面にクズ米をまいていた。朝晩2回、彼らにえさをやっているのだという。今冬もえさの保管場所に米の袋がいくつか置いてあった。

 きょうも同じ時間に、同じように「ハクチョウおじさん」がえさをまいているのではないか。だとしたら、ハクチョウたちは朝、ひとまずそこで腹を満たしたあと、何羽か連れだって上流方向に飛び立ち、小川の里を大きく左に旋回しながら、下流右岸域の枯れ田に舞い降りて採餌する――という行動を繰り返しているのだろう。

 冬至の日の12月22日は朝、阿武隈の山を越えて田村市へ行き、午後は双葉郡大熊町経由で帰って来た。山麓線(県道いわき浪江線)沿いの楢葉町上繁岡地内に大堤がある。ここもハクチョウの越冬地として知られる。

 東日本大震災の前は大堤へハクチョウを見に行ったり、阿武隈高地からの帰りに寄ったりした。いつの間にか「白鳥の館」ができた。今年(2015年)は地震で壊れたところを復旧する工事が行われているのか、ハクチョウの姿は見かけなかった。工事が終われば、ハクチョウも“帰還”することだろう。

2015年12月25日金曜日

夕日は南に沈んだ

 専称寺(いわき市平山崎)の裏山に沈む夕日を見た。残念ながら真後ろではなかった。やや左(南)、11時の方角だった=写真。
 ネットに、真正面から夏至の朝日が昇るところでは真後ろに冬至の夕日が沈む、といった情報があった。専称寺の本堂を中心点にすると、「夏至の日の出線」と「冬至の日の入り線」が一直線で結ばれるのではないか。「山越え阿弥陀」は冬至の夕日そのものではないか――期待と願望も加わってそう思い込んだら、なにがなんでも日の入りを確かめたくなった。
 
 いわきの歴史研究家、故佐藤孝徳さんに教えられたのは、春分・秋分の日、本堂の裏山に夕日が沈む、というものだった。裏山は竹林で鞍部になっている。そのへこみに沈む夕日をたとえるなら、西方浄土へ死者を導く「山越(やまごえ)阿弥陀」だ。
 
 今から22年前の3月(記録によると、春分の日の半月前)の夕方、本堂の裏へ立った。確かに、鞍部に夕日が沈んだ。観念の浄土と現実の寺とをつなぐ工夫に感嘆した。次は朝日だ。寝坊したり忘れたりして15年あとになったが、2008年の春分の日の2日後(雨でこの日に)、未明に出かけた。海から昇った太陽は本堂から1時の方向にあった。本堂の向きは真東ではなかった。

 夏至や冬至、春分・秋分といった1年の節目の日の太陽の光によって聖地が結ばれる現象・配置を「レイライン」(光の道)という。研究者の内田一成さんは、専称寺は本堂がやや北に向いているので、春分・秋分の日よりは夏至の日に朝日がまっすぐさしこむのではないか、という。その延長で、「冬至の日の入り」を見たくなったのだが……。過去2回の経験をすっかり忘れていた。

 冬至の12月22日は、夏井川の左岸堤防から対岸の専称寺を見た。が、裏山に夕日が沈んだあとで、日没点は確認できなかった。ただ、山際の残光の強さから本堂の南側に沈んだことが推測された。

 翌23日(天皇誕生日)は、日中曇って夜、雨になった。国土地理院の電子地図から本堂と真向かいの地点を絞り込み、国道6号常磐バイパス終点部の夏井川橋と寺に近い堤防で“カメラハンティング”をした。雨が上がったきのう24日、その2カ所で日の入りを確かめた。本堂の南側、11時の方向だった。

 本堂を斜め向かいから見るように上流側へ進むと、確かに裏山に沈むようには見えた。しかし、それは写真の詐術にすぎない。やはり、夕日は孝徳さんのいう通り春・秋分の日に裏山に沈み、朝日は内田さんが推測するように夏至の日に真正面から昇ってくるのだろう。
 
 来年(2016年)は春分の日に夕日を眺め、夏至の日に朝日を眺めることにしよう。そんなことを考えながら晩酌を始めたら、テレビがクリスマスイブのニュースを伝えた。わが家は夫婦2人だけになったので、とっくに仏教に戻っている。

2015年12月24日木曜日

どこにもダンプカー

 おととい(12月22日)、思いたって田村市常葉町の実家へ行って来た。行きは夏井川沿いの県道小野四倉線をかけあがり、帰りは国道288号を東に進み、双葉郡大熊町から山麓線(県道いわき浪江線)と常磐道を利用して、いわき中央IC経由で平の街に入った。福島県の阿武隈高地南部を一周したことになる。常磐道以外はどこにもダンプカーがいた。
 いわき市内では、津波被害に遭った沿岸部で「高台住宅」と「防災緑地」をつくる工事が進められている。ダンプカーが目の前の山と海岸とをせわしく行き来している。

 内陸部でも道路・橋りょう改良工事や宅地造成工事が進む。やはり、ダンプカーが行き交っている。この日午前9時半すぎ、夏井川渓谷に入ると、3台のダンプカーが連なり、県道で最も狭いヤマベ沢橋(籠場の滝の直下)を通過するところだった=写真。荷台の壁に「道路・橋りょう整備(再復)工事(道路改良)」「積載ライン/▼ここまで」の表示があった。

 田村市では実家の前の国道288号を、やはりダンプカーが通りすぎていく。床屋をやっている兄に聞くと、「多くなった、除染作業とか復興事業とかあるからな」。

 では、山砂運搬だろう。夏井川渓谷のわが隠居の庭が平均で毎時0.24マイクロシーベルトと、0.23をちょっと超えたために全面除染の対象になった。2年前の師走、表土がはぎとられ、新たに山砂が敷き詰められた。山峡なのに、庭だけ砂浜のようになった。すでにその時点で需要が急増し、山砂が不足しているという話を耳にした。
 
 富岡町や双葉町でも除染作業が進められている。田村市都路町では2カ所、288号沿いの小山が削られ、山砂を採取していた。大熊町から田村市へとダンプカーが次々にかけあがってきた。山砂運搬が目的だったか。
 
 いわきの沿岸部では名古屋ナンバーのダンプカーを見た。阿武隈の山里では北国のダンプカーを見かけるという。東北には復興を下支えするダンプカーが全国各地から何百台(いや何千台?)も入っているのだろう。

 過積載に関しては厳しくいわれているのか、「積載ライン」を超えるものは見かけなかった。

2015年12月23日水曜日

冬至の夕日

 きのう(12月22日)は冬至。「昼」と「夜」の関係でいえば、きょうから徐々に日が長くなる「一陽来復」の節目の日だ。まずは、きのうの観光まちづくりビューローのフェイスブックから(文章は一部割愛、改行・連結などをした)――。
                *
【レイラインプロジェクト始動】
 いわき市内に数多くある神社・仏閣、遺跡、神話や民話を新しい角度から見直し、それらを繋ぐ「ひとつのライン」で浮かび上がらせる新しいプロジェクトが始動しております。いわき市内にはどのようなかたちで結ばれたラインがあるのでしょうか? 今後、Facebookにてご報告していきます!

 さて本日の調査報告について。
<調査:太陽の恵みをもたらす聖地>
 12月22日(火)は冬至。「冬至の日に昇る太陽の方向が各神社の参道を明るく照らし、太陽の恵みをもたらす聖地であるのか」を調査いたしました。
 
 結果、「本殿・鳥居・日の出の太陽を一直線に繋ぐ場所が、小名浜鹿島神社と子鍬倉神社の境内にある八坂神社で確認されました。他の調査した神社も若干のずれはあるものの、冬至の太陽の恵みをもたらす聖地として確認できるものと考えられます。
                *
「証拠写真」が何枚かアップされていた。未明、ビューローのスタッフが手分けして各地に飛び、カメラを構えて日の出を待ったのだろう。晴れていてよかった。

 レイラインは英語の古語で「光の道」という意味だとか。前にも小欄で書いたが、夏至や冬至、春分・秋分といった1年の節目の日の太陽の光によって聖地が結ばれる現象・配置をさす。これに着目し、新たな観光につなげようという動きがいわきでも始まった。

 この秋、観光まちづくりビューローから声がかかって、レイライン研究者の内田一成さんに会った。レイラインを計算に入れた伽藍配置ともいえる専称寺(平山崎=浄土宗)について、故佐藤孝徳さんから聞いた話をした。専称寺の裏山は竹林で鞍部になっている。そのへこみに夕日が落ちる。西方浄土へと死者を導く「山越(やまごえ)阿弥陀」そのものだ。
 
 昔、春分の日に合わせて専称寺へ出かけて朝日を拝んだ。海から昇った太陽は本堂から1時の方向にあった。内田さんはノートパソコンで専称寺の地理的位置を探り、裏山が鞍部になっていること、本堂がやや北に向いていることを確かめ、春分・秋分の日よりは、夏至に朝日と本堂がまっすぐ結ばれるのではないかと推定した。

ネットで検索すると、「真正面に夏至の朝日が昇るところでは、真後ろに冬至の夕日が沈む」とあった。専称寺の本堂を中心点にすると、「夏至の日の出線」と「冬至の日の入り線」が一直線で結ばれることになる。「山越え阿弥陀」はそれこそ、冬至の夕日そのものではないか。

 きのうは朝9時から遠出をし、専称寺の裏山に沈む夕日を見るために、午後3時すぎにはいわきへ戻った。図書館で本を借りたあと、いつも行き来する夏井川の左岸堤防に車を止めると――。残念、対岸・山崎の専称寺の裏山に夕日が沈んだばかりだった=写真。車を止めた場所がやや南寄りだったせいか、山際の残光も本堂の南側でより輝いていた。
 
 きょうの天気は、「晴れのち曇りで夜は雨」。いちおう夏井川の堤防(川の参道=渡し舟で行き来したあたりがいいか)に立ち、あしたも堤防に行って、専称寺の裏山に沈む夕日を見るとしよう。

2015年12月22日火曜日

今年最後のイベント

 いろんなことがいっぺんに押し寄せてくるときがある。12月19日午後、いわき地域学會の市民講座(講師は小宅幸一幹事)と役員会。翌20日午後は、「ぶらっとクリスマス会」(シャプラニール=市民による海外協力の会主催)と、「いわき学検定・第2次試験」(いわき地域学會主催)。
 合間に、ゼミ生を引率してやって来た東洋大子島(ねじま)進教授と1年ぶりに会って話し(19日夕方)、孫のクリスマスプレゼントの買い物につきあった(20日午前)。19日朝には行政の回覧物を一日早く仕分けし、区の役員さんに届けた。珍しく前倒しで義務を果たしたので、せいせいして行事に加わることができた。

 常磐・古滝屋での「ぶらっとクリスマス会」には始まりと終わりに参加者の一人として、平・生涯学習プラザでの「いわき学検定」には主催する側の一人として顔を出した。

「ぶらっとクリスマス会」には、東京のシャプラ事務所スタッフも加えて、いわき市の地震・津波被災者と双葉郡からの原発避難者合わせて80人ほどが参加した=写真(会が終わったあとの記念撮影)。

 借り上げ住宅にいる人、応急仮設住宅にいる人、市の災害公営住宅・県の復興公営住宅に入った人、帰還した人、いわき以外に土地と家を求めて移った人、私らのように傷んだ家にそのままいる人……。被災者の境遇はそれぞれだ。が、東日本大震災と原発事故からの5年近くを、だれもが必死に生きてきた。今も生きている。

「ぶらっと」はラトブからイトーヨーカドー平店、スカイストアへと場所を変えながら活動してきた。言葉を交わすようになった人とは、主にヨーカドー時代に知り合った。参加者の大半は知らない人だったが、情報紙「ぶらっと通信」、その後の共同情報紙「一歩一報」を通して「ぶらっと」とつながっていたのだろう。

 シャプラがいち早く立ち上げた交流スペース「ぶらっと」は、震災から5年の節目の翌日、2016年3月12日に幕を下ろす。それを告知しながらクリスマス会の案内を伝えたせいか、スタッフと利用者、利用者とボランティア、利用者と利用者の“同窓会”を兼ねたクリスマス会になった。

 双葉町から避難し、いわき市の男性と結婚した元「ぶらっと」スタッフがいる。活発にハイハイするようになった長男を抱っこして参加した。「あんた、いつの間に子どもを産んだの?」と驚く元利用者がいたそうだ。

 シャプラがバングラデシュで活動を始めて40年余。創立メンバーがいわき出身の友人だったこともあって、設立当初からかかわってきた。またまたこの場を借りていうのだが、この5年間、シャプラはいわきで人材と予算を投入して頑張ってくれた。

「ぶらっと」として最後のクリスマス会は、本来の業務に専念するためのカウントダウンの始まり――と、ひとり勝手に思いながら、震災直後からいわきで活動を続けてきた現事務局長のしめのあいさつを聞いた。

2015年12月21日月曜日

クリスマスプレゼント

「誕生日おめでとう」。小2の孫からカミサンに電話が入ったのは、先週の金曜日(12月18日)。高1の疑似孫からも一日遅れで電話がきた。人間はうれしいと元気になる。顔の表情、言葉、動きでわかる。
 孫とのやりとりのなかで、クリスマスプレゼントを、もうサンタではなく、一緒に買いに行くことでまとまった。「江戸時代の本がほしい」という。本ならマンガでもなんでもいい。本を手にするだけでも想像力が鍛えられる。土曜日と、日曜日午後には用事がある。日曜日の午前中、書店へ連れて行って好きな本を選ばせることにした。

 いわき総合図書館の次に大きな「本の森」へ行く。あえて津波被害のあった沿岸部を経由した。「(本屋まで)まだ?まだ?」としびれをきらしながらも、行きと帰りに孫がいろいろ話してくれた。

 もう一組のじいばあが久之浜に住む。来年小学校に入る下の孫が、久之浜のじいばあの家の近くに避難所ができることを教える。新しい市久之浜支所と公民館の複合施設のことかと思いつつも、幼児が津波の話をするまでに成長したことに感心する。東日本大震災のときにはまだ2歳だった。その後の5年間でいろいろ知恵と知識が加わった。
 
 交差点の手前、わき道から本屋へ入りかけると、下の孫が「あれ、ここできのう、『夜ごはん』を食べた。ママが……といってた」ので来たのだという。
 
 上の孫は「パパはじいじに鳥のことを教えられたっていってた」。おお、そうだった。日曜日になると早朝、子どもたちを起こして、近くの石森山へ連れて行った。初夏のある日、遊歩道を歩いていると、すぐ目の前にキビタキの雄がいた。出合い頭だったので、写真を撮るどころではない。そのことを、今はパパになった息子が小さいころ、思い出してよくいった。「写真を撮ってればねぇ」
 
 上の孫は、江戸時時代というよりは戦国時代からの武将の本を買った。大きなスーパーの本屋で見つけ、買うと決めていたようだ。下の孫は昆虫図鑑、さらに2人共通のものとして魚図鑑を買った。もちろん、児童向けの。このあと、小名浜港へ行き、マリンパークで小一時間遊んだあと=写真、家に送り届けた。
 
 カミサンは電話がかかってきたことで、私は親・子・孫と鳥への興味がつながったことで少しうれしい気分になっていた。これこそ、孫からじいばあへの逆クリスマスプレゼントだ。

2015年12月20日日曜日

バス運転手

 BS-TBSの「地球バス紀行」をよく見る。12月17日は米・ロスアンゼルスのダウンタウンが舞台だった。バスの運転手は、一部の国を除いて穏健・親切なことで共通している。ロスの黒人運転手も例にもれず、人のよさそうな人物だった=写真。
 乗客のいのちをあずかっている以上は、プロの運転手には常に安全運転が求められる。ちょっとしたことでカリカリ、イライラするようだと、急発進したり急ブレーキをかけたりしかねない。乗客のけがと交通事故のもとだ。
 
 毎回、運転手はどんな表情をしているのか、興味を持って見る。というのは、義叔父がいわきの山里(三和町上三坂)で路線バスの運転手をしていたからだ。運転中はもちろん、私生活でも寡黙・温厚・篤実を絵にかいたような人だった。無事故・無違反が義叔父の誇りだったろう。それさえ自慢するわけでもなく、静かに余生を送って彼岸へ渡った。
 
 職業人としての、当たり前の仕事が、こちらが年を取るにつれてすごいことなのだと思えるようになった。尊敬する人間の一人でもある。
 
 義叔父の配偶者は私の叔母。叔母は毒舌で知られた人で、今も上三坂の人に会って、「○○の甥です」というと、「いやぁ、……」と叔母に毒舌を吐かれたことを話す。叔母の毒舌は、「有頂天」を「落胆」に変え、結果的にその中間で「また頑張るか」と思わせる効果があった。私がそうだった。

 義叔父は、本人はそんなことを意識するわけもなかったろうが、戦後の復興と、それに続く高度経済成長を、地方のそのまた地方の片隅で支えた。「地球バス紀行」で運転手を見るたびに、ここにも義叔父がいる――そう思うのだった。車内の様子や車窓からの眺め、バスを降りての散策は、ほかの旅番組と同工異曲だ。「路線バス」というところにだけ、私は引かれる。
 
 ついでながら――。三和へ行くと旧上三坂宿に寄り道して、叔父叔母のマイホームを横目に見ながら帰る。
 
 およそ2カ月前、同じ上三坂出身の同級生が亡くなった。通夜・告別式・火葬・精進あげと骨になるのを見届けた。骨あげまでの間、火葬場で故人の妹さんらと雑談した。そのとき、「上三坂宿、上市萱宿も昔のままだったら、『いわきの大内宿』になれたんだよな」なんて勝手なことを語った。

 市街地の平から山里の上三坂に義叔父が転勤し、車庫兼社宅に住むようになったのは、昭和30年代前半だったか。車庫は上三坂宿から少しはずれたところにあった。バスは今の国道49号ではなく、旧道の長沢峠を走ったような記憶があるのだが、定かではない。義叔父の運転するバスの車窓から見た下市萱の風景と上市萱宿のかやぶき屋根の連なりを今も鮮明に覚えている。

2015年12月19日土曜日

白鳥とダンプカー

 おととい(12月17日)の夕方、夏井川の堤防を利用して街から帰った。冬の間、ハクチョウが羽を休める平・塩地内で、砂利採取が再開されている。まだ作業が行われているところへ、周辺の枯れ田で過ごしていたハクチョウたちが帰ってきた。
 ずっとそこにある重機はともかく、岸辺までやってくるダンプカーには慣れないらしい。一斉に首をあげてダンプの動きを注視していた=写真。少し下流に飛び去るグループもいた。

 水曜日(12月16日)にこんなことを書いたばかりだ。朝はハクチョウが鳴きながらわが家の上空を東へ向かい、夕方は逆に東から戻ってくる。いわきの平地ではこの季節、ハクチョウが朝晩、空を行き交っている。――神谷(かべや)の空を飛び交うハクチョウたちは、夕方には全部、あるいは一部が塩の越冬地に戻ってくるのだろう。着水の瞬間もいいシャッターチャンスになる。

 ま、とりあえず、重機・ダンプ・ハクチョウと、変わった組み合わせの写真が撮れただけでもいいか。少し満足して帰宅したあと、パソコンでツイッター情報をチェックすると、沖縄県・今帰仁(なきじん)にコウノトリが1羽飛来した、と沖縄タイムスがつぶやいていた。琉球新報も少し遅れてツイートした。

 千葉県野田市で放鳥されたコウノトリでは? しかし、写真を拡大すると発信器は装着されていない。ついでに、野田市のホームページを開いて、幼鳥がどこにいるか確かめる。と、なになに、1羽が死亡した?

 野田市から7月23日、3羽の幼鳥がGPS(衛星利用測位システム)の発信器付きで放たれた。うち1羽、メスの「未来(みき)ちゃん」が9月22日、いわきで確認・撮影された。写真がフェイスブックにアップされた。今、「未来ちゃん」は岡山県にいる。オスの「翔クン」は高知県に滞留中だ。

 もう1羽、メスの「愛ちゃん」はあまり移動しなかったが、12月5日、茨城県内で送電鉄塔の下で死んで発見された。送電線にぶつかり、転落死したのではないかという。沖縄のコウノトリはやはり大陸から迷い込んだものだろう。
 
 晩酌を始めると、カミサンが食べ物をおいたあと、「きょうは何の日?」と聞く。「ん?」。チラッとカレンダーを見たら、「いやっ、はっはー」と口から空気が抜けていった。ひっくり返せば27歳の誕生日だった。それから間もなく、東京のカミサンの友人から電話がかかってきた。小2の孫も電話をよこした。頭のなかを大型の白い鳥が飛び交っていたので、全く気づかなかった。
 
 そうとはいえないので黙ってカミサンの話を聞いたり、テレビを見たりしていた。夜更けになると、テレビが「コザ騒動」を取り上げていた。45年前の師走、友人と二人で3週間、沖縄の本島をさまよった。きょう19日の夕方、コザ市(現沖縄市)から那覇市に移動した。真夜中、日付が替わったばかりの20日未明に騒動がおきた。
 
 いわきにJターンする3カ月前のことだった。定職もなく、カミサンと出会ってもいなかった。コザ騒動は今も、わが沖縄体験の原点だ。

2015年12月18日金曜日

「奥津軽いまべつ駅」

 新幹線の列車が止まる駅のコンコースのよう――胃カメラと大腸内視鏡検査予約のため、1年ぶりにいわき市立総合磐城共立病院を訪ねた。待ち時間に院内を行き交う人たちを見ていたら、10月に東北新幹線を利用して郡山から盛岡へ日帰りで行ってきたことを思い出した。なんだか盛岡駅や郡山駅のあわただしさに似ているのだった。それが、おととい(12月16日)。
 きのうは午後、某所で知人と二人、コーヒーをごちそうになった。雑談しているうちに、知人が「市長は政治家として『新幹線を誘致する』くらいのことは言うべきだろう」という。春に北陸新幹線の長野~金沢間が開業した。それが頭にあったようだ。「新幹線が通ってれば、いわきは東京の通勤圏内だ」。<常磐新幹線>も悪くないか――そう思ったのは、盛岡への日帰り行が大きい。

 来年(2016年)3月26日には、北海道新幹線(新青森―新函館北斗間)が開業する。新幹線は今や、「もう一つの在来線」になりつつある。サラリーマンは、泊まりがけの出張が日帰りになるので面白くないだろうが、単なる旅なら盛岡の先でも日帰りできそうな気がしてきた。泊まるにしても、より遠くまで行くことができる。

 本州さいはての新幹線の新駅「奥津軽いまべつ」。先日のテレビ(またまたNHKの「東北Z」で恐縮だが)で、今別町役場が「新幹線対策室」を設けて、通過駅にならないよう観光客誘致に力を入れている様子が紹介された=写真。
 
 今別には、行ったことはないが特別な思いがある。名刹・本覚寺は、元は磐城平の浄土宗名越派本山専称寺の旧末寺だ。今別生まれの貞伝上人(1690~1731年)は、15~28歳まで専称寺で修行したあと、本覚寺五世に就いた。海峡を越えて北海道・千島へも布教に出かけた(佐藤孝徳『専称寺史』1995年刊)。太宰治も「津軽」のなかで貞伝上人について触れている。
 
 貞伝上人に引かれるのは、それだけではない。「栽培漁業」の元祖のような人でもあった。だし昆布として「今別昆布」は有名だそうだが、それにはこんな伝説が……。漁獲の不安定に苦しむ漁師たちの生活を案じ、貞伝上人が読経とともに海に紙片をまいたところ、それが昆布になった(今別町ホームページ)。紙片には「南無阿弥陀仏」の六字(つまり「名号」)が書かれていたのではないだろうか。

 盛岡まで簡単に行けたのだから、その先の今別へも気軽に行けそうだ。すると、その逆も。専称寺には東北地方に200超の末寺があった。たとえば、本覚寺の檀家さんが観光を兼ねて旧本山であるいわき市の専称寺を訪ねることも、新幹線を利用すれば簡単にできる。
 
 新幹線は新たな発想をももたらす。貞伝上人を仲立ちにした相互交流があってもいい――なんて考えていたら、NHKがゆうべのローカルニュースで、今別町で北海道新幹線開業まで100日のイベントが行われたことを伝えた。

2015年12月17日木曜日

今年も「釜じい」を

 カミサンの実家(米屋)では師走に入ると、お得意さんや親類に、もちを配る。結構な量になる。
 もちは電気もちつき器でつくる。もち米は、ドラム缶を利用した“まき釜”に蒸籠(せいろ)を三段重ねにして蒸す。釜の水を沸騰させ、その蒸気でもち米をふかす「釜じい」(火の番)が私の役目だ。白もち、豆もち、のりもち、ごまもちがそうしてできる。

「釜じい」の仕事は燃料のマキを絶やさないこと。しかし、ただ補給すればいいというものではない。ドラム缶の奥にまきを入れると煙突に炎が抜ける。手前に置くと火口から炎があふれる。中央の釜に炎を集中させないといけない。一年に一度だが、長年やっているので、少し時間がたてばコツみたいなものを思い出す。火口から炎があふれないようにだけ注意した。

 1カ月ほど前、いわき市暮らしの伝承郷で収穫祭が開かれた。いわき昔野菜保存会が芋煮汁をつくり、伝承郷のボランティアがもちつきを担当した。昔野菜保存会は伝承郷の畑を借りて昔野菜を栽培している。そのため、会員が伝承郷ボランティアの登録もしている。要するに、伝承郷ボランティアがイベントを支えた。

 もちつきと試食会は旧猪狩家で行われた。もち米は隣接する旧高木家のカマドで蒸した=写真。

 写真を撮った時点では、まだ蒸籠は載っていない。釜の水を沸かすためにマキがくべられた。炎はかまどの中にあった。このあと、若い女性が火の番をしたら、カマドの外に炎があふれ出た。ベテランのおばさんが見かねてマキを直し、炎をかまどの中に押しこめた、というシーンに遭遇した。火の番は簡単なようで難しい。ましてや、初めてなら。

 高度経済成長期を境にして、家の暮らしが一変した。カマドから蒸しがま、ガス・電気釜に替わり、たらいと洗濯板が電気洗濯機に替わった。今やローテクノロジーはハイテクノロジーに取って代わられた。しかし、昔ながらの生活技術を葬り去ったら、次のハイテクは生まれないのではないか、という思いもある。

 プロから見たら「ままごと」でしかないが、野菜を栽培する、漬物をつくる、キノコや山菜を採る、といったことを続けているのは、自分なりに生活技術を伝承しようとしてのことだ。子どものころ、いやいやながら蒸しがまでご飯焚きをさせられた、風呂の水くみをさせられた、まき割りをさせられた――高度成長期の前の、そうした家事体験が大きい。

 循環型社会がいわれる今は、むしろこうした生活技術の再発見・再活用が大事になってくるのではないか。伝統はいつも、そのときの創造的なアイデア、センスを取り入れ、時代に合ったものに変えながら継承されてきた。現代の科学技術と伝統的なローテクを結びつけた「新ローテク」はまだまだ可能なような気がする。
 
 と、能書きはそれくらいにして――。「釜じい」の楽しみは、昼メシ。毎年、取引先の平・魚栄に「うな重」を頼む。作業の合間にかっこむようにして食べた。今年はみやげに、内郷・四家酒造で買ったという「又兵衛 上撰」をもらった。今ある「田苑」が切れたら飲んでみよう。

2015年12月16日水曜日

潜水ガモ

 街へ行くときか帰り、どちらかに夏井川の堤防を利用する。一日に一回は夏井川を見ないと落ち着かない。「なぜ夏井川?」と聞かれれば、「ふるさとの山(大滝根山)とつながっているから」とこたえるほかない。それが根っこにあるとしても、ふだんは季節の移り変わりを感じたいからだ。
 春はヤナギの芽吹きとツバメ、夏はオオヨシキリ、秋はヒガンバナとサケ、冬はハクチョウとカモたち。堤防を通るだけで「今年初めてのツバメ(オオヨシキリ、ヒガンバナ、ハクチョウ……)」に出合える。特別に取材をする必要がない。現役のころは、通勤の行き帰りに夏井川を眺めてコラムのネタにしたものだ。今もこうしてブログのネタにしている。

 いつもは夏井川の左岸(平・鎌田~塩~中神谷)を通る。右岸(平・北白土~山崎)を通るときもある。鎌田で鋭く、山崎ではゆっくり蛇行する。蛇行部は淵になっているので、堤防は高い。先日、右岸を通ったらはるか下の水面に潜水ガモがいた。マガモもいた。

 潜水ガモはなんだろう。いつも持ち歩いているデジカメで撮影し、パソコンに取り込み、拡大して『いわき鳥類目録2015』と照らし合わせると、冬鳥のホシハジロの雄だった。そうとわかれば、次は望遠レンズ付きのデジカメで撮ろう、という気になる。

 きのう(12月15日)午後、いわき総合図書館へ本を返しに行くのに、遠回りをした。右岸の堤防から見ると、ホシハジロの雄がいた=写真上。拡大してもこの程度だが、赤い頭、黒い胸、灰色の胴はわかるだろう。

 そうだ、あのときも――。10日前、友人の母上の葬儀があって、小名浜南富岡の藤原川沿いの墓地まで「野辺送り」について行った。堤防に車を止めた。なんとはなしに川面を見ると、水鳥が潜水しながら泳いでいた。写真を撮ると、かろうじてアカエリカイツブリらしいとわかった=写真下。もう1羽、潜水ガモと思っていたのはウミウだった。
 冬鳥がいわきの水辺や山野で普通に見られるようになった。もう師走の半ばだ。ハクチョウは、日中はどこかの田んぼで草をついばみ、夕方になると夏井川に戻ってくる。上流の平窪では、赤井の田んぼあたりで。下流の塩のハクチョウはどこかの田んぼで。

 朝はハクチョウが鳴きながらわが家の上空を東へ向かい、夕方は逆に東から戻ってくる。いわきの平地ではこの季節、ハクチョウが朝晩、空を行き交っている。それだけでも少し豊かな気分になる。

2015年12月15日火曜日

阿武隈・赤宇木

 テレビばっかり見てるんじゃないの、といわれそうだが――。12月11日の<東北Z>は「100年後の誰かへ――浪江町赤宇木(あこうぎ)・村の記憶 戦後編」だった=写真。「戦前編」は9月4日に放送されたが、よその家にいて見逃した。
 赤宇木は、1F(いちえふ)から北西20~30キロ圏内に位置する、阿武隈高地の山あいの集落。30キロ以遠ながら早くから高濃度汚染を報じられていた飯舘村の南隣にあり、高濃度汚染地区にもかかわらず、住民がほったらかしにされていた。たまたま通りかかったNHKのETV特集取材班によって、高濃度汚染が集会所に避難している人々に伝えられた。

 原発事故から2カ月後、最初のETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」が放送され、総合テレビで再放送されるほど大反響を呼んだ。のちに取材班の仕事は『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(講談社、2012年刊)にまとめられる。

「100年後の誰かへ――」は、赤宇木などの放射能汚染を初めて明らかにしたETV特集取材班のディレクターの1人が制作した。80戸が暮らした山あいの小さな集落がある日突然、「帰還困難区域」になる。「戦後の開拓から酪農への挑戦、出稼ぎと、村人たちは隣町にできた原発の恩恵を受けることなく、懸命に働き生きてきた」。その集落の歴史を掘り起こす取り組みを追った。

 ディレクターが仙台放送局に移ったことは、2015年1月16日放送の東北Z「生命(いのち)に何が起きているのか――阿武隈山地・科学者たちの挑戦」で知った。番組の終わりに表記されるディレクターの名前に記憶があった。
 
 そのディレクターが放射能汚染報道の原点ともいうべき赤宇木を舞台に、ドキュメント番組をつくった。NHKでは最も早くから阿武隈高地に足を運び、今も通っているディレクターの筆頭ではないだろうか。
 
 なにも悪いことをしたわけでもないのに、ある日突然、むらを、まちを追われた人々の無念と怒り、やりきれなさと悲しみ――。私自身、同じ阿武隈の産なので、ディレクターの避難者への共感、生きものへの温かいまなざしがよくわかる。会ったことも話したこともないが、番組の手ざわりというか、雰囲気から敬意を抱いてきた。今回もそうだった。取材の蓄積が生きている。
 
 さて、締めもテレビの話になってしまうが――。<東北Z>を見た前々日、BSプレミアム<世界で一番美しい瞬間(とき)>に見入った。「 妖精の森が輝くとき スウェーデン北部地方」を“旅”しながら、うめいた。「自然享受権(アッレマンスレット)」を楽しんでいるスウェーデン人。対する「あぶくま人」は……。いまだに思い出のなかでしか森のキノコを採れない。
 
 北欧諸国では、その土地の所有者や生態系に損害を与えないという条件つきながら、誰でも他人の土地に立ち入って自然環境を享受できる権利が認められている。夏のベリー摘み、秋のキノコ採り、ハイキング、野営……。

 阿武隈は震災前、豊かで美しい里山、澄んだ空気、清らかな水、日本の原風景ともいえる景観、さまざまな農産物、伝統文化、生活文化を体感できること、つまりは自然享受権を行使できることが「売り」だった。
 
 田村市常葉町の鎌倉岳に登った劇作家の田中澄江さんは、頂上からの眺めを「スイスの山村さながら」(『花の百名山』文春文庫)と評した。その山から北東~北の方角に全村避難を強いられた葛尾村や「ダッシュ村」、赤宇木、飯舘などがある。南北に長い「東洋のスイス」の、その一帯がたまたま南東の海からの風と、西からの雨・雪とでいまわしいものに汚染された。

 一般市民もまた自然享受権を侵害され、精神的苦痛を強いられている。損害賠償の訴えは可能かどうか、知り合いの弁護士に酒席で聞いたことがある。「損害額が算定できるのか」と問われてシュンとなった。東北Zと世界で一番美しい瞬間から、またまた阿武隈に思いがめぐった。

2015年12月14日月曜日

第6回いわき昔野菜フェスティバル

 6回目のいわき昔野菜フェスティバルが土曜日(12月12日)、中央台公民館で開かれた。午前中は「売りたい・作りたい・使いたい」人や料理人・加工業者などのための商談会、毎回おなじみの種子交換会、初心者向け栽培ミニ講座、調理体験教室が開かれた。
 午後は、昔野菜の生産者らを交えてリレートークが行われた=写真。初回から講師とコメンテーター・アドバイザー役を務めている山形大の江頭宏昌教授が、今回も全国の動きを紹介しながらいわきの取り組みを評価し、生産者や料理人、今年発足したいわき昔野菜保存会の面々を激励した。
 
 フェスティバルは年々充実している。いわき昔野菜を「知ってもらう」から「活用してもらう」に重点が移り、中身も「参加型」(江頭教授)に進化した。
 
 縁あって、初回から参加している。今回は昼前、用事があったので、午後のリレートークだけ聞いた。たまたま案内された席の隣にいたのが沿岸部の永崎で「かんぴょう」づくりをしている作山さん夫妻だった。人生の大先輩だ。せっかくの機会なので、前々から疑問に思っていたことを聞いた。
 
 かんぴょうといえば栃木県だが、栃木県となにか縁でも? 「バクロウ(牛馬売買人)が栃木から(ユウガオの)種をもらってきたんだ」とか。そこから「磯仕事」としてユウガオ栽培が始まった。
 
『いわき昔野菜図譜』(2011年3月発行)に由来が書いてある。「永崎の方々が栃木方面へ出かけた際にかんぴょう作りを知り、その作業が夏の朝飯前の磯稼ぎ(磯辺付近の早朝農作業)として最適だろうと考え、種子を持ち帰り、隣組間で種を分け合いながら栽培が広まった」

 作山さんは「磯仕事」といい、図譜は「磯稼ぎ」という。要は漁・農を組み合わせて暮らしを維持してきたということだろう。偶然が根づいて、何軒か漁業の合間にユウガオを栽培し、かんぴょうづくりをしてきた。ところが――。高齢化に津波が追い打ちをかけた。
 
 作山さんは、ユウガオの種を天井近くに置いておいた。それが幸いした。胸まで浸水した。ほかの家では種が水につかってしまったために捨てるしかなくなった。で、それっきり栽培もやめた。「種が残っていること自体、奇跡なんだ」。作山さんの話に思わず感動した。

 昼食は予約制で四つの料理店でつくった弁当が出た。私は頼まなかったから現物は見ていないが、その日の夜、知人が華正楼の弁当の写真をフェイスブックにアップした。驚いた。四角いプラ弁当が3×3の9のパーツに分かれている。方形のお膳に9つの豆皿を並べた懐石料理をテレビで見たことがある。それの中華版だ。パーツは小鉢に似せたつくりで、模様が全部違っていた。

 江頭教授は、1年前(2014年)、山形県鶴岡市がユネスコの<創造都市ネットワーク>に「食文化」の部門で加盟・認定された経緯などを紹介した。端的にいえば、①出羽三山と精進料理②黒川能ともてなし料理③50種類以上の在来作物が暮らしに根づいている――ことが大きい。

 それだけではもちろんない。鶴岡市役所の広報文によると、同市では山・里・海の四季折々の食材が育まれ、年間を通じて多様な食文化を楽しむことができる。食材の生産者のほか、シェフ・料理人など食文化にかかわる人材が豊富。「生きた文化財」である在来作物の研究と活用にかかわる活動も盛んだ。

「山・里・海」は、いわきでは「ハマ・マチ・ヤマ」になる。広域性が食文化の多様さ、豊かさの源泉であるという点では、いわきも鶴岡と同じだ。大地震・大津波・原発事故の、いわば「千年に一度の危機」が、かえって生産者・シェフ(料理人)・官民のつながりと創意を生んだ。それもこれも大震災の前の年から、市が「いわき昔野菜」事業を始めていたからだ(これまでに掘り起こした昔野菜は約70種類になる)。

 震災後だったら、土建事業的な復旧・復興の声にかき消されて昔野菜どころではなかったろう。ユウガオの種と同じで、これも奇跡的なことだったと後世、いわれるようになるかもしれない。

 経済としての生産~加工(料理)~消費のほかに、文化としての生産~加工(料理)~消費もある。昔野菜がそれで、やりようによっては「食文化創造都市いわき」が可能だろう。伝統と創造が融合した、新たな食文化が輝く時代がきた、とはいえないか。

2015年12月13日日曜日

みそ汁はネギ・ジャガで

 夏井川渓谷のわが隠居の菜園にある「三春ネギ」は、本当は旬なのだが種採り用に残しておく。
 おととし(2013年)の師走、隠居の庭が全面除染された。それを見越して秋の種まきは中止した。で、1年後の2014年秋、前の年の種をまいたら発芽した。発芽率はよかったが、隠居へ出かける回数が減った分、ネキリムシが生き延びた。根元をチョキチョキやられて、今は5月に定植したときの10分の1にまで減った。師走に入ってもネキリムシが潜んでいたのには驚いた。

 師走のネキリムシを1匹ブチッとやった日、我慢できなくなって三春ネギを2本抜いた。翌日、カミサンがネギとジャガイモのみそ汁にした=写真。これだ、この味だ! 甘くて、やわらかい。白根はまるまる2年半、口にしていなかったが、味蕾(みらい)が反応した。ひとまず、これで満足。あとは我慢して種採り用に越冬させる。
 
 三春ネギと同じ中通り産の曲がりネギが、今では師走に入るといわきのスーパー(本社は郡山市)でも買える。「阿久津曲がりネギ」だ。これを初めて口にしたのは7年前だった。白根だけでなく緑の葉も甘く、やわらかい。
 
 どんな品種でも、まずはジャガイモとネギのみそ汁にする。阿久津曲がりネギの入ったお椀を口に持ってくると香りが立った。三春ネギよりも味は濃厚で、とろみがある。葉に蜜(ぬめり)が詰まっているのが特徴、といってもいいのではないか。
 
 この時期は、スーパーへ行くと必ずネギをチェックする。11月24日。マルトへ行ったら九条ネギがあった。いわき海星高校の実習船「福島丸」のラベルが張られたまぐろ加工品もあった。両方を買ってネギトロにした。ネギの緑色と加工品のピンク色とがマッチしていた。翌日、みそ汁に散らしたが、ただのネギの味だった。
 
 11月29日。田村郡小野町まで曲がりネギを買いに行ったら、郡山市阿久津町の南にある「田母神(たもがみ)」産の曲がりネギがあった。焼いて食べると、甘く、やわらかく、とろみがあった。これはもう阿久津曲がりネギのきょうだいだ。12月6日。内郷からの帰り道、師走に入ったからあるはずとみてスーパーへ寄った。案の定、阿久津曲がりネギが並んでいた。三束買った。

 好みのネギかどうかは、豆腐ではなく、ジャガイモとネギのみそ汁にして判断する。自分の脳内に刷り込まれた味の記憶と比べて同じだったら、満足感が得られる。みそ汁一杯で幸せな気分になれるのだから、安いものだ。

2015年12月12日土曜日

病院からの眺め

 このところ週に一度は内郷の福島労災病院へ行く。義弟が入院して3カ月。南側から北側の病室に移ったので、西の湯ノ岳から水石山、二ツ箭山、東手前の石森山まで、阿武隈の山並みが140度ほどのパノラマとなって見える。いわき市の津波被災者が避難生活を送っている14階建ての雇用促進住宅の奥にそびえるのは、小川町の二ツ箭山だ=写真。
 内郷には労災病院のすぐ近くに、いわき市立総合磐城共立病院がある。詩人の草野心平が共立病院に入院中、8階からふるさとの山(二ッ箭山)をながめて詩を書いた。いわきの総合雑誌「6号線」第20号(1984年)に発表した「双(注・原作では旧漢字)眼鏡――ふるさとにて」で、東村山市の自宅から宅配便で双眼鏡を送ってもらった。

 共立病院の8階と労災病院の5階の違いはあるが、湯ノ岳~石森山のスカイラインは同じだろう。

「狙ひを決めた遥か北北東の二ツ箭山が。/二つに割れた大花崗岩(オホミカゲ)の山巓が。/白ちやけたザラザラの肌も見事に。/よく見える。」
「平窪の石森山から。/改めてオレは少年時代の山山を見る。/あれは猫鳴きかな。/二ツ箭から離れた左は。/水石山。/阿伽井嶽。/そして湯の嶽。/好間の菊茸山はどの邊かな。」

 病室(個室)のベランダから双眼鏡で故郷の山を眺めながら、自分の来し方を振り返り、恐竜がのし歩いていたいわきの太古を想像する。「奇妙なノスタルヂヤ」の時間を過ごしていくぶん疲れた心平はやがて個室に戻り、「黒い柔かいソーファのなかにしばらくぼんやり沈んでいた」というところで詩が終わる。

「猫鳴き」は猫鳴山、「阿伽井嶽」は閼伽井嶽、「湯の嶽」は湯ノ岳、「菊茸山」は菊竹山――。風景を描写した詩を実景に照らし合わせて分析する、なんてことはあまり意味がないが、どうも“ブン屋根性”が抜けきらない。山の名を固有名詞に置き換え、労災病院からの眺めを重ねて「双眼鏡」を読んだら、実景に忠実な詩であることがわかった。

 つい「裏取り」をしたくなったのは――「心平年譜」の影響が大きい。心平の人と作品に親しみ、調べ、引用するときに留意すべき点は、と研究者は言う。既存の年譜があまり信頼できないことだ。

 草野心平研究会編「草野心平研究」(1996年4月4日発行)に、「草野心平年譜(稿)」が載る。「年譜作成委員会」が編んだ。

 同委員会によると、『草野心平全集』『草野心平詩全景』などに使われている年譜は、「基本的には心平の自筆と口述に基づき、若干の関係資料に当って作成されたもの」で、「間違い、勘違いの類は壮大多数、実証的研究には役立たない部分が多い」。そのため、心平研究第一人者の深沢忠孝さんら同委員会が年譜の「定稿」づくりに乗り出した。
 
 詩は事実を描くのではない、真実をとらえるのだ、という点では、そのときの記憶や直感が優先されてもおかしくない。それはしかし、年譜まで裏付けなしで書いていいということではない。『全集』や「詩全景」の年譜を鵜呑みにはしてはいけない、というのが心平の人と作品に向き合うときの心得でもある。

2015年12月11日金曜日

大正時代の巨大余震

 東日本大震災からきょう(12月11日)で4年9カ月。だからというわけではないが、大正時代の地域紙(常磐毎日新聞)で関東大震災がいわき地方に及ぼした影響を調べていたら、巨大余震の記事に出合った。
 常磐毎日新聞は震災から2カ月後の11月1日に創刊された。欄外の発行年月日は「大正12年11月2日」だが、実際は「11月1日夕刊」だ。題字下に表示されている。9月1日の本震の記事は、だから存在しない。

 大正12(1923)年11、12月をチェックし、翌13年1月の16日付(15日夕刊)に至って、「再び帝都揺らぐ/群馬県前橋市は/9月1日以上の大地しん」という見出しが目に留まった=写真。(旧漢字と漢数字は新漢字・洋数字に替え、適宜、句読点を入れた)。この余震では19人が亡くなり、638人が負傷したという(ウィキペディア)。

「今朝午前5時30分、東京に再(ま)た復(ま)た激しんあり。被害・しん源地等未だ不明なるも、群馬県前橋市付近は9月1日以上の大地しんなり(午前10時本社着電)」

 間もなく第2報が入る。「疑問の/震源地/電信電話不通/旅客列車脱線」。記事本文から、脱線したのは東海道本線の戸塚―保土ヶ谷間(横浜)で、死傷者はなかった。震源地は「タンザワ付近」。第1報から1時間後の第3報の見出しは「和田倉門は倒れ/二重橋前は陥没/各ビルデング破損して/京浜地方は今尚ほ混乱状態」。

 いわき地方にもすぐ影響が現れた。「平駅に/列車が着かぬ/電報も大遅延/今朝の震災で」。記事本文「上野駅午前6時20分発の下り列車は、平駅に午後12時55分到着となって居るが、今朝の強震の為め此(この)稿を締め切る午後2時10分に至るも、未だ列車は到着しない。又、東京方面への電報は至急電報を除く外は仙台を迂回する為め、非常に遅れると平局員が語って居た」

 東日本大震災は地震名「東北地方太平洋沖地震」、同じく関東大震災は「大正関東地震」だ。4年9カ月前の東日本では前震があり、本震のすぐあとに余震が連発した。92年前の関東でも本震は「双子地震」、そして間髪を入れずに巨大余震が2回発生したという。

 そのあとにまた巨大余震が襲った。関東では4カ月半後の1月15日に、東日本ではちょうど1か月後の4月11日に。後者はいわき市南部が震源地だった。山崩れで4人が亡くなっている。翌12日にも、前日の震源地の北側で巨大余震が発生した。

 92年前の余震は「丹沢地震」と呼ばれているようだ。いわき市南部の余震はなんと? 「東北地方太平洋沖地震」のただの余震なのか。「福島県浜通り地震」という名称もあるようだが(ウィキペディア)、気象庁が名づけたものなのかどうか。

 いずれにしても、関東大震災に死者19人を出す巨大余震があったことは、常磐毎日新聞を見るまで知らなかった。東日本大震災ではその分、余震に対する警戒が甘かった、とはいえるだろう。単に自分を振り返ってのことだが。

2015年12月10日木曜日

JICA研修

 JICA(ジャイカ=国際協力機構)の視察研修がきのう(12月9日)、いわき市で行われた。午後3時から5時半まで、市文化センター会議室で被災者の話を聞く時間が設けられた。
 いわき市平豊間の津波被災者と双葉郡大熊、富岡両町の原発避難者の計3人が話した。私も広域都市・いわきでの地震と津波、地域社会と原発避難者の関係などについて話した。むろん、通訳を介してだ。

 研修に参加したのはフィリピン、スリランカ、アフガニスタン、スーダン、コソボ、東ティモール、ブルンジ、ルワンダ、南スーダン、ミャンマー、ザンビアの11カ国16人で、視察目的は「参加型のコミュニティづくりに携わる者として必要な姿勢・考え方・スキルを身につけること」だという。

 紛争・災害後の復興期にある国・地域でコミュニティ開発プロジェクトの計画立案に当たっているNGOや行政機関の職員だ。10月26日から12月19日までの日程で、主に関西で研修を受けてきた。

 事業を受託したのは関西NGO協議会で、シャプラニール=市民による海外協力の会の前代表理事中田豊一さんが研修コースリーダーを務めている。中田さんとは東日本大震災の直後、シャプラの縁でいわきで会い、さらにシャプラの総会時に東京で再会している。神戸で阪神・淡路大震災に遭遇した。

 シャプラはいわきで交流スペース「ぶらっと」を運営し、主に商店を対象とした市民交流スペース「まざり~な」を市内各地に増やした。いずれも借り上げ住宅(戸建て・アパート)に入居している被災者・避難者の“孤立”を防ぐのが目的だ。話をした3人は「ぶらっと」利用者、わが家(米屋)はカミサンが「まざり~な」を引き受けている。

 ずぶぬれになって、あおざめて高台のゴルフ場に避難してきた人たち(豊間)。1Fのタービン建屋地下2階で激しい揺れに遭遇した東電の関連会社員(大熊町)。震災の翌朝、着の身着のままバスに乗り、隣村の川内村へ避難したものの、1号機建屋の水素爆発の報が入ってさらに西へ(富岡町=川内村自体が2011年3月16日、全村避難を始める。1年後には村長が帰村宣言)。
 
「ぶらっと」で顔を合わせたり、クリスマスパーティーを一緒に盛り上げたりする間柄でも、各地を転々としてきた経緯を聞くのははばかられる。本人もいちいち口にはしない。「県の復興公営住宅に入れるのは1年後」「仮設住宅入居者と借り上げ住宅入居者の間に分断が起きている」……。3人の被災・避難体験と複雑な胸の内を聞くのは私も初めてだった。

 4人が話し終わったあと、質疑応答に入った。ある国の人は「紛争国(地域)からの避難民は、紛争が長引けばずっとそこにとどまることになる。その土地に溶け込んでもらうように努めている」と話した。行政区の責任者として、同じ地域に住んでいる原発避難者(とりわけ隣組に未加入の人)に対して、私が日ごろ思っていることでもある。

 ごみ集積所に写真・注意書きを張った看板を出したら、違反ごみが減った――ごみ出しトラブルを例に、最後は「日本のことわざに『郷に入っては郷に従え』がある。それが大事では」と応じた。「郷に入っては郷に従え」とは言うまいと思っていたのだが、原発避難者が「いわきの人間になるつもりで暮らしている」と言ってくれたので、意を強くしたのだった。

 紛争避難も原発避難もふるさとを追われて異郷に暮らす、という点では同じだ。国と言葉は違っても、避難者のために奮闘している人たちがいる。最後は「記念写真を」となり=写真、なんだか“仲間”と一緒にいるような感覚になった。

2015年12月9日水曜日

谷間のヘリコプター

 夏井川渓谷の上空は飛行機の通り道だ。下流右岸域に横たわる水石山頂には航空灯台もある。成田や羽田からは離陸して間もない(あるいは着陸まで間もない)ところに位置している。
 6年前(2009年)、北欧へ同級生と“還暦海外修学旅行”を敢行した。SASで成田をたち、北海道からシベリアを横切ってコペンハーゲン(デンマーク)に着いた。東北地方では東の太平洋、西の日本海どちらの海上を通ったのだったか。
 
 夏井川渓谷に点在する水力発電所から送電線が尾根伝いに延びる。ヘリコプターが送電網をパトロールしている。それでときどき、谷間にもヘリが現れる。
 
 渓谷では、冬は庭の隅の菜園に生ごみを埋めるともうやることがない。あとは重い望遠レンズを装着したカメラを首から提げ、肩に軽いカメラをひっかけてあたりをブラブラする。といっても大半の時間は居間でこたつに入り、本を読んだり「きどころ(うたた)寝」をしたりしているだけだ。
 
 カエデの紅葉もピークを過ぎ、ときに鼻水が垂れるほど寒くなってきた今は、しかし裸木・落ち葉・霜・その他、冬の被写体に事欠かない。獣のフン・滝・倒木なども林内が明るいので撮りやすくなった。
 
 上空をよこぎる雲も、飛行機も、ヘリもパシャッとやる。望遠で撮った飛行機は、機体の形や色がわかるくらいに拡大できる。デジカメの利点だ。
 
 11月29日に撮った飛行機(ボーイングらしかった)=写真右=はどこの航空会社のものかまだわからないが、12月6日のヘリコプター=写真上=は色からすぐわかった。東北電力の子会社、東北エアサービスの「せきれい」だった。送電線パトロールのほか、報道取材、調査・探索、航空レーザー測量などを業務にしている。(日曜日にも送電線パトをやるのだろうか)
 
 ついでに、ネットでNHKのヘリはどこの航空会社とつながっているのか探った。というのも、3・11の大津波映像は、当番で仙台空港に待機していた福島放送局のカメラマンが撮影したからだ(2011年の新聞協会賞受賞)。東北エアサービスではなかった。
 
 3・11以来、いわきで低空を飛ぶヘリを見ると、ついあそこ(イチエフ)を思い浮かべる。取材ヘリだとしたら、なにがあったのか、と。
 
 そういえば、夏井川渓谷では1年前、こんなことがあった。紅葉目当ての行楽客でにぎわう渓谷を、1台の軽乗用車が猛スピードで駆けぬけて行った。続いてパトカーも猛スピードで通り過ぎた。“追跡劇”はすぐ先で終わった。平地から上がってきたパトカーが道をふさぎ、逃走車両をはさみうちにしたのだった。

 新聞によると、容疑者は中年の自称除染作業員で、最初、双葉郡葛尾村で車を運転し、警戒中の警察車両を見て高速で方向転換をした。不審に思った警察が一帯を捜索していたところ、田村市船引町内の国道を猛スピードで走行中、水田に突っ込んだ。このあと、72歳の女性の軽乗用車を刃物で脅して奪い、夏井川渓谷まで逃走した。このときは、県警ヘリが夏井川渓谷の上空に現れた。

2015年12月8日火曜日

家庭防空群

 わが家の庭のカエデが紅葉のピークを迎えた=写真。きょうは12月8日、太平洋戦争開戦記念日だ。昭和16(1941)年も平(現いわき市平)市内のカエデは紅葉していただろうか。今よりは寒冷だったはずだから、すでに散っていたのではないか。
 庭のカエデは、夏井川渓谷の隠居の庭に芽生えた苗木をカミサンが移植した。今では柿の木を圧倒するほどまでに生長した。実生は芽生えたばかりのころは、手のひらに載るほど小さい。「かわいい、かわいい」と庭に移植を繰り返していると、とんでもないことになる。車の出入りに支障をきたす幼樹をばっさりやった。

 さて、太平洋戦争が始まったころの「銃後」の様子はどうだったのか。いわき総合図書館のホームページを開き、昭和16年の地域新聞をチェックした。肝心の12月8日前後の新聞はない。
 
 すでに日中戦争下にあった同15年秋、「国論統一と同一職種の集約化」という国策にしたがって、いわき地方の日刊紙5紙が「磐城毎日新聞」に統合・集約される。同紙はさらに「1県1紙」政策のなかで「福島民報磐城夕刊」になる。それもやがて戦況悪化のなかで休刊の憂き目に遭う。16年9月以降、戦争が終わるまで純粋の地域新聞は、いわきでは発行されていない。
 
 では、16年の幕開けは? 1月7日付(6日夕刊)に「家庭空群も参加/警防始めの式挙行/優良団員、火防組、防空群表彰」の記事が載る。今の消防出初め式と同じで、「はしご乗り」も行われた。(「家庭空群」は「家庭防空群」、「防」の脱落ミスだろう)

 1月22日付では「市防空壕設計成る/物見岡稲荷神社下部貫通/工費二十万円で道路開鑿(さく)」「六号国道改良して/公園下隧道案/平市は労せず防空壕を得る」「平市内の商店自粛/旧正二日間休業/生活必需品業者は元日だけ」といった記事が目立つ。

 空襲に備えて防空壕をつくることにやっきになっていた。トンネルを掘れば防空壕にも応用できる。商店街も時節柄、派手に初売りはできない――そんな社会状況だった。やがて春を迎え、夏と秋が過ぎて、ラジオが最初の「大本営発表」を伝えたのがきょうだった。
 
 にしても「家庭防空群」とはなにか。ネットで検索すると、いろいろ出てきた。昭和12(1937)年、たった1週間の審議で「防空法」ができた。それに基づいて防空演習や「光の隠匿」(灯火管制)などが行われた。いわゆる「バケツリレー」の根拠になったのがこれだろう。「銃後」の生活を規制する法律が「戦前」に準備されていたわけだ。ちょっと“研究”してみるか。

2015年12月7日月曜日

雲を撮る

 きのう(12月6日)は未明から夕方まで、雲のかたちがおもしろかったのでいろんな場所で写真を撮った。歩いているときは私が、車で移動中は助手席のカミサンがカメラを向けた。

 わが家で、朝6時前――。新聞を取りに外へ出ると、暁闇(ぎょうあん)が黒(雲)と蒼(あお=空)とに分かれていた。黒のかたまりから肋骨状に筋がいっぱいのびていた。中天近くには、昇って少したった下弦の月。何日か後には朝日と同時に昇る新月に変わる。
 平~小川の平地で、朝8時前――。水石山の近くに二段重ねの鏡もちのような白雲があった=写真。平窪を過ぎ、小川へ入ると、水平に何倍にものびていた。上空ではかなりの強風が吹いているらしい。

 夏井川渓谷で、正午過ぎ――。晴れてはいるが、上空の白い雲はゆっくり下流の東南へ流れ、低空の灰色の雲は急ぎ足で西へ移動していた。対岸の森へ入るためにつり橋を渡ろうとしたら、「ドドド――」あのときの地響きと同じ音が後ろからやって来た。ドキッとして振り返るとヘリコプターだった。西から東へとV字谷を横切って行った。

 平地の夏井川堤防で、午後3時半前――。義弟の入院している福島労災病院(内郷)へ行き、市立美術館で企画展を見たあと、いつもの魚屋さんへ向かった。夏井川の堤防に出ると、海に向かって視界が開ける。西空から放射状にのびてきた帯のような雲が、東空の一点に向かって収れんしていく。こういう自然現象から人間は遠近法を意識するようになったのだろうか。

 魚屋の駐車場で、午後4時半前――。タコ3分の2、ヒラメ3分の1の分量でマイ皿に刺し身を盛りつけてもらう。店を出ると、西空に変な雲が浮かんでいた。一直線の雲の先に少し離れて雲のかたまりがある。まるで空の“ハエたたき”だ。

 朝も昼も夕方も雲は定まることがなかった。「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずっと磐城平(いわきたいら)の方までゆくんか」(山村暮鳥)。そんな悠長な雲ではない。

「雲がゆく/おれもゆく/アジヤのうちにどこか/さびしくてにぎやかで/馬車も食堂も/景色もどろくさいが/ゆったりとしたところはないか/どっしりとした男が/五六人/おほきな手をひろげて/話をする/そんなところはないか/雲よ/むろんおれは貧乏だが/いゝじゃないか つれてゆけよ」(谷川雁)。そんなにしっかりした雲でもない。次の瞬間にはかたちが変わっている。

 17歳のころ、かたちを定めず「存在を拒否する雲」から慎み深くあれ、と教えられたような気がする。以来、雲には引きつけられているが、朝から晩まで雲と向き合って過ごした日は珍しい。外を歩き回る日曜日だからこその、天からの贈り物だった。

2015年12月6日日曜日

精進あげ

「友人代表ということで『精進あげ』までいてくれ」。最後まで「母上」を見送るつもりでいたので否(いな)やはない。新聞に折り込まれる「お悔み」情報で95歳の「母上」の死を知り、小名浜の友人宅へ駆けつけたときのことだ。
 2日後のきのう(12月5日)。正午から「母上」の告別式が行われた。終わって墓所=写真=へ行き、斎場に戻って「精進あげ」が行われた(なぜ斎場では「精進おとし」というのか、いわきでは「精進あげ」なのに、といつも思う)

 20歳前後から、友人の家に行って飲んでは泊まり、「母上」に世話になった話を、おととい書いた。友人の叔父の家にも、酔った勢いで出かけては泊まった。最初から飲みに行くこともあった。というわけで、「母上」にも「叔父さん」夫妻にも頭が上がらない。「精進あげ」では「叔父さん夫妻」の席の間に案内された。

 福祉のエキスパートだった「叔父さん」は、75歳の今も福祉の現場にいる。「『生涯現役』なんだ、おれも『生涯文章書き』で通したい」というと、「書かなくなったら終わり、と思えばいいんだな」といわれた。
 
 保育のプロの奥さんとは3・11の話になった。海に近い保育所の責任者だった。「避難できる高台はない、高い建物もない」。大地震に遭遇して、(津波が来て犠牲者が出たら)やめる覚悟をして対処したという。

「叔父さん」が発達障害と個性の輝きの話をしたので、「自閉症の青年が書いた本を買った。全部読んではいないが、『表現』の原点をみるような感じがした」と応じた。NHKのドキュメント番組を見て興味を持ち、本屋へ駆けつけた。東田直樹著『跳びはねる思考』(イースト・プレス、2014年刊)。帯に「たとえ、うまく話せなくても、心には、言葉を持っているのです。」とあった。

 本の一節。「苦しくてたまらなくなると、空を見上げます。/目に飛び込んでくるのは、抜けるような青空と白い雲です。見ている僕はひとりぼっちなのに、世界中の人とつながっている気分になります」「僕が青空を見て泣けてくる気持ちは、こだわり行動をしている時の気持ちに少し似ています。せつなくて、寂しくて、どうしようもないくせに幸せなのです」

 スタイルは「散文」だが、私には根っこに「詩」が生きていると感じられた。それを裏付けるように、「人生という物語が、いつ終わってしまうのかわかりませんが、僕は、ひとつひとつのできごとに解説が必要な長編小説ではなく、単純明快な詩を描き続けたいのです」という文章もある。「叔父さん」が向き合っているのは、こういう個性の人たちなのだろう。

「叔父さん」と話すのは何年ぶりだったか。会えばいつも根源的な話になる。ついでに恥多い青春の日々の一コマをさしはさんでくる。「靴下を脱いで寝ろ、と言ったのに、そのまま寝てしまった」「……」。靴下さえ脱げないほど全身がアルコール漬けだった、とは言えなかった。

「今度、泊まりに来たら」「いやぁ、もうそういうことは……」「では、いわき駅前の『○×』(言われたが店の名を忘れた)でやろう」ということになった。