2015年2月28日土曜日

「心に締め切りを持とう」

 あしたから3月。いわきの平地では、すでに白梅が満開のところもある=写真。春が少しずつ身の回りに増えてきた。書類の更新・作成その他、いろいろ「締め切り」が多くなる年度末でもある。
 ふだん、「締め切りだけが人生だ」なんていっているせいか、清川妙さんのエッセー集『清川妙 91歳の人生塾』(小学館)に、「締め切り」の話が載っていると、カミサンが本をよこした。清川さんは昨年(2014年)11月中旬、93歳で亡くなった。

 2007年秋に会社を辞めて、やっと「締め切り」のない生活を楽しめると思ったのも束の間、年が明けると次第に落ち着かなくなった。

 ちょうどそのころ、若い仲間から「ブログをやりましょう」と声がかかった。アナログ人間なので、デジタルの知識・技術にはうとい。全部セットします、文章を打ち込むだけでいいです、というので、2008年2月下旬、「新聞コラム」の感覚で「ネットコラム」を始めた。
 
 一日に1回は自分に「締め切り」を課する。一日をその「締め切り」を軸にして編集する。そうして、夏井川渓谷の隠居に泊まったときや、旅行をしたとき以外は毎日アップしてきた。満7年がたった今、記事は2400本近くになった。備忘録だ。先日、「よくもあきないねぇ」と人生の先輩の女性に言われたが、自分でもそう思う。書きたいことが次から次にわいてくる。

 清川さんの話に戻る。エッセーのタイトルは「心に締め切りを持とう」。「39歳で執筆生活をはじめて以来、ひと月も休まず、締め切りというものと付き合ってきた」「もしかしたら私にとって締め切りとは、ひとつの挑戦なのかもしれない。(略)何も意識しなくても日々流れていく時間を、あえて自分で意識して管理していくこともある」と、「締め切り」の効用を述べる。

 同感だ。付け加えれば、それまで存在しなかった文章が蓄積される、ゼロからなにかが生まれる、といった喜びもある。

 さらにいえば、文章の締め切りだけが「締め切り」ではない。回覧物を月に3回配る、所属する団体の書類をつくる、案内はがきを印刷して投函する――そういったこともすべて「締め切り」付きだ。この「締め切り」が終わったら、次の「締め切り」がやってくる。その繰り返し。「締め切り」が自堕落になるのを防いでいるのかもしれない。

 きのうも、公共施設関係を利用するための書類提出を忘れていて、「締め切り」間際の夕方に駆け込んでやっとセーフになった。寒いのに冷や汗が出た。
 
 清川さんは「締め切り日のある生活は、きびしいけれど、メリハリのある、いきいきとした生活で、老化防止には絶対効果的ですよ」という。結局はそこにいくのか。

2015年2月27日金曜日

頭の中のネギ地図

 いわき市が発行する「いわきブランド農産品通信」(タブロイド4ページ)は、季節ごとに新聞に折り込まれる。61号は2014年12月~2015年2月の「冬号」でもある。間もなく「春号」が配られることだろう。
 いわきの農産物についての情報を広く手に入れることができる。「冬号」では、四倉の長ネギ生産農家が紹介されていた。新聞に折り込まれたときには見落としたが、先日、カミサンがどこからか手に入れてきたのを読んだ。

 いわきの昔野菜に当たるかどうかはわからない。が、ネギの記事には①海に近い砂地で栽培している②葉の部分は青々としている③甘くてやわらかく、子どもでも食べやすい④冬季だけ「道の駅よつくら港」で直売している――とあった。次の日、道の駅へ車を走らせて長ネギを買った。

 まずは、わが家の定番のジャガイモとネギのみそ汁にする。夏井川渓谷で栽培している三春ネギと比べると、やわらかさは同じだが、甘みはさっぱりしている。日曜日(2月22日)には、魚屋さんからもらってきた養殖タイとネギのあら汁にした=写真。ゆうべ(2月26日)はマーボー豆腐に加えた。

 台湾を旅行したとき――。ニラや葉ネギのほかに、白根の長ネギを食べた。事前に調べておけば、いろいろ質問してガイド氏を悩ませることができたのだが。あとで検索したら、ブランドネギの「三星ネギ」らしかった。葱餅(ツォピン=ねぎもち)、鶏肉とネギの鉄板焼き、牛肉と白ネギの炒め物、スープ、……。いろんなネギ料理があるものだ。

 京都では青ネギ(葉ネギ)の九条ネギを食べた。会津の大内宿では、観光客が曲がりネギを一本箸にしてそばを食べていた。ベトナムやカンボジアでもネギを食べたが、葉ネギだった。

 旅行するごとに、年を経るごとに、頭の中にいわきと日本、アジアのネギ地図が書き込まれる。日本では白根をつくるのに土寄せをするが、台湾では幅の広い高畝にして、稲わらで畝を覆って白根をつくる。そんなことが、少しずつだがわかってくる。

 今はいわきで最後のお勤めをしている郡山市出身の同級生と、台湾旅行中にネギの話になった。子どのころ食べた曲がりネギの味が忘れられないという。阿久津曲がりネギだろう。いわきでは食べられないというから、冬になるとヨークベニマルで売っていることを教えてやった。

 そうだ、千葉県では台風が襲来したとき、海水を大量に含んだ潮風の影響で農作物がだめになった。そのとき、ネギだけが塩害を免れた。しかも、いつもより味がよかったという。

 で、それをヒントに、栽培中に5~6回海水を散布するようになったら、ブランドネギ「九十九里海っ子ねぎ」が生まれた。四倉のネギも海に近いのだから、一部、試験的に海水を散布してみてはどうだろう。「四倉浜っ子ねぎ」なんてものができるかもしれない。
               *
 けさの新聞に、「福食だより」というレシピ集(タブロイド24ページ)が折りこまれていた。いわき市の農・海産物プラス広野町の塩の「地産」「旬味」が紹介されている。「ine いわき農商工連携の会」が発行した。
 
 ざっと目をとおした限りでは、福島県の「ふくしまからはじめよう。若い力による風評対策提案事業」に採択されたことで始めた事業らしい。生産者と生産物と若手料理人の“三者会談”による、新しい食べ方が提案されている。手元に置いてじっくり読んでみるとしよう。

2015年2月26日木曜日

オーケストラが始まるまで

 それは、赤い大きな楽器ケースを提げて走る「セロ弾きのゴーシュ」の後ろ姿から始まった。
 FMいわきの主催、いわき芸術文化交流館アリオスの共催で、きのう(2月25日)、東京都交響楽団の「ボクとわたしとオーケストラ」がアリオスで開かれた。午前11時から小学生、午後1時からは中学生が大ホールの客席を埋めた。満席だとおよそ1800人。コンサートが始まるまではスズメの井戸端会議のようだった。

 FMいわきの支援組織「まちづくり倶楽部」の1人として、午前の部に招待された。連絡がきたのはだいぶ前だが、招待状が届いたのはつい最近。資料や郵便物の整理がへたで、必要なときにどこに置いたのかわからなくなることがある。先日も、てっきり招待状が届いているはずと思い込んで探したが、ない(当たり前だ)。カミサンにガミガミ言われても反論ができなかった。

 さて、当日。アリオスの西隣、市庁舎南側の2階建て駐車場に車を止めた。2階に白バイが止まっていた。隊員が品川ナンバーの車の男性と話している。「ご愁傷さま」と胸の中でつぶやいて通りすぎた直後、男性がケースを提げて走りだし、視界から消えた。“説教”ですんだのかな。リハーサルには間に合うのかな――。開演時間が迫っていた。

 大ホール3階、右側のそでが指定の席だった。左側は冗談で「姉御」と私が呼ぶWさん。右側はやはり旧知の女性のYさん。ともにFMで番組を持っている。カミサンの女学校の先輩Tさんが、Yさんの席の隣に座った。いずれも人生の先輩だ。Yさんが来る前、「両手に……」といいかけて口をつぐむと、Tさんが「ドライフラワー」と応じた。

 そのあとすぐ、すり鉢の底(ステージ)に楽団員が勢ぞろいした。チェロのグループを見ると、ゴーシュ氏がいた。放免されたのだからふだんの倍は力を入れて演奏してくれるにちがいない――勝手にそう期待した。

 プログラムには書いてないが、コンサートは耳になじんでいる行進曲で始まった。そのあと、ロッシーニ「スイス軍の行進曲」、久石譲「風の伝説」など3曲、チャイコフスキー「花のワルツ」を演奏した。合間にオーケストラの楽器紹介を兼ねて「ドラゴンクエスト」を奏で、子どもたち全員が「ビリーブ」を歌った=写真。

「ドラゴンクエスト」は、子どもたちは先刻承知。「ビリーブ」も学校の授業で習う。われらジイバアとちがって、大半は歌詞カードなし。見渡しながら感心していたら、1人、いや数人、つまらなさそうに黙って立っているだけの子もいた。

 アンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」。演奏が終わって、つまらなさそうだった男の子を見ると、力いっぱい拍手をしていた。これこそが音楽の持つ力だろう。

2015年2月25日水曜日

ガーデンカフェ

「ガーデンカフェあどりぶ」=写真。雑誌に載るような、瀟洒な建物ではない。雑木の庭もきちんと整備されている、とは言いがたい。オープンして1年余り。廃材を利用して建てた。手づくりなので、家も庭も「進化」の途中にある、といった感じだ。
 内郷・高野(こうや)に山荘風の喫茶店があると聞いて、日曜日(2月22日)、“山里ドライブ”の帰りに立ち寄った。マスターは見覚えのある人だった。「昔、内郷のマチのなかで店をやってたよね」「ええ、書店を」。それで記憶がよみがえった。ざっと40年前、私が20代後半のときの、知り合いの知り合いだった。彼はすっかり忘れているようだが、言葉を交わしたこともある。
 
 ガーデンカフェは、集落を抱くようにしてそびえる山並みの底の、小さな集落のはずれに立つ。高野には“ミニ開発”でできた集落が点在する。その集落もそうだろう。案内看板に従って住宅地を巡ると、駐車場らしいスペースがあって、一段低い雑木の庭に高床式の平屋が立っていた。屋根の煙突からは白煙が立ちのぼっている。

 靴を脱いで中に入る。通路らしい空間を10メートルほど行くと、右側に広い喫茶スペースが見えた。4人がけのテーブルが6つ。真ん中からやや川寄りにドラム缶を利用したまきストーブがある。山側にも、少し小さなまきストーブ。三方はすべて窓ガラスだ。庭を眺める分にはいいのだが、真正面に無粋な倉庫のようなものがでんとかまえている。

 コーヒーをすすりながらストーブに当たっていると、グノー(バッハ)の「アヴェ・マリア」の曲がかかった。だれが歌っているのだろう。目をつむって聴いたら、子守り歌になっていたかもしれない。

 室内の広さはコンサートに向いている。ときどき陶芸展が開かれているそうだ。一息入れるための“隠れ家”にはいいか。

2015年2月24日火曜日

いわきの北欧

 2009年秋の北欧旅行でノルウェーのフィヨルドを見てから、景観を考える尺度が変わった。人知をはるかにこえる雄大さ、荘厳さ、でも人間を拒絶するほどには冷たくはない。
 ノーベル文学賞を受賞したノルウェーの国民的作家・詩人・劇作家ビョルンソンが、ゲイランゲルフィヨルドについていったことば。「ゲイランゲルには牧師は要らない。フィヨルドが神の言葉を語るから」。そのことばをこえる表現が見つからない。それほどフィヨルドは人間を圧倒し、ひきつける。

 昨年(2014年)だったか一昨年だったか、国道49号を利用して山里の好間・大利から内郷・高野(こうや)を通って、平地の市街地に出た。高野小・内郷三中前の坂道を下りかけると、突然、南端の湯ノ岳から三大明神山、二ツ石山、鶴石山に連なる大きな山並みが前方に現れた=写真。<ノルウェーの山里に似ている>。目が喜んだ。

 そのときは写真を撮ることもなく通り過ぎた。日曜日(2月22日)、夏井川沿いに車で駆け上がり、小野町から平田村へ抜けて、国道49号を利用していわきへ帰ってきた。三和から好間へさしかかったとき、ひらめいた。「いわきの北欧」の写真を撮らねば。

 前に通ったときに強い印象を受けた坂道に車を止め、写真を撮った。じっくり眺めれば眺めるほど、高野の里にノルウェーの山里の記憶が重なる。

 フィヨルドの定番観光のひとつは、ベルゲンから列車で山岳部のミュールダルへ向かい、フィヨルドの内湾・フロムへと渓谷を列車で下り、そこからグドヴァンゲンまで世界自然遺産のネーロイフィヨルドを船で観光し、バスで再び山岳部へ駆けあがり、ボスからベルゲンへ列車で戻る、という周回コースだろう。
 
 フィヨルドは山がU字型の絶壁だが、氷河の始まりでもある山岳部はまだ斜面がゆるやかだ。家も山腹に広がっている。内湾に近づくと、集落は谷底を流れる川沿いの平地か岸辺に張りつくだけになる。
 
 自然の営みと人間の暮らしが溶け込んだ山里の風景は、日本であれノルウェーであれ、どこか懐かしい。ポイントは高野の里を抱く山並みが高く、大きく見えることだった。
 
 写真を撮り終えて車に戻ると、助手席から声がかかった。同世代の女性で、私も40年以上つきあいのあるカミサンの友達が、前に高野のガーデンカフェの話をしていた。そこへ行こう、といってきかない。いやだと言ったが、押し切られた。

 道路の案内看板に従ってその店を訪ねる。屋根の煙突から白煙が立ちのぼっていた。店も、広い雑木の庭も手づくり感に満ちている。がたぴしいう戸を開けて中に入ると、スリッパにはきかえた。顔に見覚えのある人間がマスターをしていた。その続きはあした。

2015年2月23日月曜日

いわきにもある雪国

 この冬初めてスタッドレスタイヤをはいたので、雪が少なくなった今、おそるおそる阿武隈の山里をめぐってみた。なりゆきでそうなった。
 きのう(2月22日)、午前中は夏井川渓谷の隠居で過ごした。昼メシは平の街に戻って――と思ったら、田村郡小野町のお菓子屋へ「『ぬれ花豆』を買いに行きたい」という。けんかしてもしようがない。言われるままに車の向きを変えて上流へ向かった。
 
 グレーダーが除雪したので、道路に雪はなかった。ところどころ、道端の杉林の日陰に残っているだけだった。しかし、北向きの斜面や田んぼは、標高が高くなるにつれて白さを増していった=写真(小野町・夏井地区)。
 
 小野町で「ぬれ花豆」を買うと、カミサンは満足して、あとは運転手の好きなように、という顔になった。ならば、スタッドレスタイヤもはいていることだし、山の向こうの平田村へ行って、国道49号でいわきへ戻ることにしよう。昨年(2014年)の月遅れ盆のあとにたどったコースだ。
 
「道の駅ひらた」で昼メシにする――料金がただの「あぶくま高原道路」を利用して国道49号へ出た。さあ、食べるぞ。道の駅に入ろうとしたら、ドアに紙が張ってあった。食堂は改築工事のため、2月12日から3月6日まで臨時休業、だと。
 
 では、平田のメーンストリートで、と思ったが、ラーメン屋しか目に入らない。台湾旅行を含めて、ここ半月は中華料理ばかりだった。カツ丼かなにか、と思いながら車を走らせていると、いわき市と平田村の境にその看板のある店があった。そこで、えび天丼を食べた。

 さてさて、国道49号沿いの雪のあんばいだが、平田村の田んぼはほぼ銀世界だった。いわきの三和町に入り、長沢峠を越えて「三和トンネル」を抜けるまでは、同じような状況だった。「いわきにも雪国があるんだね」と町育ちのカミサンがいう。
 
 あとで主な通過ポイントの標高を検索した。小野町の街なかは400メートル、平田村の49号・鴇子(とうのこ)付近で500メートル超、長沢峠が最も高くて575メートル、三和トンネルあたりは300メートル前後か。
 
 いつもは平から国道49号をさかのぼる。すると「三和トンネルを抜けると雪国だった」になるのだが、今回は逆コースだ。トンネルを抜けると急に雪が減り、やがて土だけの世界になった。

2015年2月22日日曜日

空から雲を撮る

 車を運転しているとき以外は、窓に張りつくようにして風景を眺める。電車。モノレール。飛行機。タクシー。さすがに地下鉄の場合は車内の様子をウオッチングするだけだ。
 今度の台湾旅行では、常磐線のほか、羽田―台北間の空からの眺め、台北―高雄の新幹線、台中―日月潭のバスからの風景を目に焼きつけた。

 行きの旅客機。風が強かったものの、晴れて眼下にくっきり風景が広がっていた。富士山は真っ白だった。雲が現れても、はるか下を行く。名古屋、大阪、四国、九州、……。どこでも川筋に集落があった。流域単位に生活圏、文化圏が形成されていることがよくわかった。

 カメラをバッグに入れたままだったので、行きは見るだけ。帰りはカメラを手元に置いた。台湾は寒気団が居すわり、雨模様の日が続いた。離陸して雲海を抜けてから、眼下に広がる雲の写真を何枚か撮った。

 雲の底は水平だということを、以前、モーターパラグライダーで動画を撮影している人のミニミニ講演で聞いたことがある。雲の上は、わりと凸凹している=写真。3カ月前に大腸の内視鏡検査をした。1年前と変わらなかった。ドクターの言葉。「相変わらずポリープが多いですね」。内視鏡がとらえた大腸の内壁の凸凹を連想した。

 その凸凹が、やがて夕日を浴びて陰影を帯びるようになった。雲海の上に広がる青空もだんだん暗みを増した。空が「北斎ブルー」になると、主翼に赤い光が差した。それからほどなく闇が訪れた。

 やがて羽田が近づく。眼下に海岸線と道路に沿って明かりがともっていた。「ミミズの目」ではわからない風景だ。内心は怖くて仕方がない「ツルの目」だ。着陸すると、ホッとした。旅行直前に起きた台北での飛行機事故が、頭のどこかにずっとひっかかっていた。

2015年2月21日土曜日

動く一杯飲み屋

 JR東日本などの共通乗車カード「スイカ」の便利さを、初めて目の当たりにした。
 台湾へ2泊3日の旅行をするので、2月5日の金曜日、羽田空港のホテルに前泊した。夕方5時20分のスーパーひたちで出かけた。いわき始発、しかも一仕事終えた5時すぎだ。乗りこむとすぐ4人で“ちょい飲み”を始めた。
 
 アルコールはホームの売店で買った。小さな缶チューハイや缶ビール、そしてつまみ。茨城県に入るころにはカラになった。日立、勝田、水戸、この3駅で車内がほぼ埋まった。面白いことに、何人かは缶類を手にしていた。上野へとひた走る特急が「動く一杯飲み屋」と化した。

 車内販売のおねえさんは水戸で交代した。おねえさんが来るたびに、われら4人組はアルコールを求め、つまみを手に入れた。こうなると、おねえさんはもはや「行きつけのスナックのママ」だ。

 スイカは電子マネーでもある。カードを出してピッとやると、モノが手に入る。私だけスイカがない。カボチャだ。1人はついでに残金まで調べてもらった。

 帰りは夜7時すぎに羽田に着いた。タクシーで上野へ直行した。3人はスイカを持っている。自動券売機を利用すれば、8時のスーパーひたちに乗れる――と考えたのだろうが、私は現金買いの列に並ぶしかなかった。結局、次の8時半のフレッシュひたちになった。さすがに帰りはほんとの「ちょい飲み」で終わった。日立を過ぎて乗客が減ると、足を延ばす人間もいた=写真。

 後日、若い仲間にスイカの話をすると、近所のセブンイレブンでも使える、ということだった。それよりなにより、高齢世代を対象にした各種サービスがある。カミサンが運転免許を返上したら、タクシー料金が1割引きになった。JRにも割安になる制度がある。その会員になろうかな。

2015年2月20日金曜日

朝の交通事故

 わが家では、NHKの連続テレビ小説が終わってから、朝ごはんにする。きのう(2月19日)は、マッサンが離婚届を手にしているところで「つづく」になった。重い余韻をひきずっていると、突然、「ププー、ガシャーン」という異音が飛び込んできた。
 事故だ! 外へ出ると、軽自動車が2台、それぞれ向かい側とこちら側の縁石をまたぎ、歩道をふさいで止まっていた。1台は右前部、もう1台も前部が破損している。

 カミサンが119番をかけた。目撃したドライバーから通報が入っていたらしい。救急車がそちらに向かっている、ケガの具合は、年齢は――と聞かれた。固定電話の子機を手に、カミサンが車内で動けずにいる運転手に声をかけた。1人は意識がもうろうとしていた。

 やがて救急車が2台、パトカー2台と事故処理車が到着し、救出・搬送、事故処理が行われた=写真。朝の通学時間が過ぎ、通勤時間も間もなく終わるという時間帯である。警察が来るまで、近所の人が数珠つなぎになった車の誘導をした。
 
 わが家は、片側2車線の広い道路(国道6号)から中に1本入った旧道(浜街道)沿いにある。3・11以来、相双地区からの避難者、原発事故収束、除染のための車などが加わって、国道も旧道も交通量が増えた。前から国道では死亡事故が起きているが、旧道でも軽い事故が絶えない。
 
 2011年9月。お年寄り運転の軽自動車が縁石を乗り越え、歩道を暴走して、電柱に衝突して止まった。2013年1月。同じようにおばあさん運転の車が、コインランドリーから道路に出たと思ったら、反対車線の縁石を乗り越えて歩道をふさぐようにして止まった。いずれもわが家のそばで起きた自損事故だ。小学生の登・下校時間と重ならなかったのが幸いだった。
 
 きのうの事故処理は午前11時前後までかかった。なんとなく気になって、出たり入ったりしているうちに、朝ごはんが昼食兼用になってしまった。けさの新聞には、1人が胸などを強く打って意識不明の重体、1人が首に軽いけが、とあった。正面衝突だった。なぜ、片側1車線の生活道路で?

2015年2月19日木曜日

シムラケンからヨシダルイへ

 このごろ、知人から「いわきの吉田類」といわれることがある。馬面にメガネ、ハンチング帽に黒いブレザー、マフラー、……。確かに遠目には似ているかもしれない。しかし、帽子を取ると決定的に違う。ホンモノは後頭部が黒々としている。
 ちょうど1週間前の2月12日、NHK「クローズアップ現代」に吉田類さんが登場した=写真。新聞のテレビ欄には「なぜブーム?大衆酒場 グラス越しの日本」とあった。大衆酒場ににぎわいが戻ってきたワケを追った。コメンテーターの大学教授は庶民のカネ(可処分所得のことだろう)が減ったため、と明快だ。

 吉田類さんはイラストレーターにして俳人。その人が案内人を務めるBS―TBSの「酒場放浪記」が、じわじわファンを集めている。それで、大衆酒場ブームの火付け役としてNHKに登場した、というわけだ。

 私も数年前から時々、「酒場放浪記」を見ている。知人(女性)も番組のファンなのか、はがきに「いわきの吉田類さん」ということばを書き加えるようになった。

 思えば40代のころ、10歳前の甥っ子や姪っ子が私の頭をなでながら「シムラケン!」と叫んでキャーキャー笑い転げることがあった。小名浜の知人の娘(ユウコちゃんといった)も、家へ遊びに行くと同じように「シムラケン!」を連発した。

 今から2~3年前、孫が3、4歳のときにテレビの志村けんさんを見て、「ジージ」といったそうだ。やはり、頭の輝きが似ているのだろう。今は、シムラケンではないことはわかっている。

 土曜日(2月14日)、2人の孫が母親と一緒につくったというチョコレートを持ってやってきた。思いたって、デジカメに残っている吉田類さんの写真を見せた。「だれ?」。5歳の孫に聞いたら「ジージ」と即答した。「テレビだよ」「テレビに出たの?」。さすがに「出た」とはいえなかった。

2015年2月18日水曜日

台湾再訪⑦故宮博物院

 きょう(2月18日)は陰暦で12月31日の大みそか、あしたは元日だ。先日旅行した台湾では、1年のうちで最も大事な祝日を控えて、人々が浮き立っていることだろう。
 2月6日、台北・松山国際空港から市街に入り、簡単な昼食をすませたあと、国立故宮博物院=写真=を見学した。4年半前にも訪ねた。今回の混みようは、前回の比ではなかった。時折、大きな声が飛び交う。子どもが不規則な動きをする。ロビーも展示室も中国人観光客に“占領”されていた。

 前回はほとんど目につかなかったスタッフがあちこちに立っていた。「撮影不可」マークの紙を掲げ、日本にも来た「翆玉白菜」の前では「立ち止まらないで」を連発していた。

 染色して豚の角煮に似せた「肉形石(にくがたいし)」も見た。台湾旅行の前、いわき駅前の中華料理店で角煮ラーメンを食べた。数の多さに苦戦したことを思い出す。

「これでは、旧正月は大変だね」。見学者の多さに驚いてガイド氏に尋ねると、「いや、旧正月はかえって人が少ないよ」という。そうか、日本の盆と正月の“民族大移動”と同じことが起こるのか。台湾もまた、中国や韓国、ベトナムと同じ「旧正月文化圏」。道路は大渋滞が続いているのではないだろうか。

 翌7日は台湾中部の日月潭を見た。北岸にある文武廟のそばのレストランで昼食をとった。ここでも中国人観光客が“占領”していた。

「あれっ」と思ったのは、台北「エバーリッチ免税店」に中国人の姿がみられなかったことだ。前回は大声に圧倒されたが、今回は日本語がかすかに聞こえるだけだった。故宮博物院だけは特別、などということはない。たまたまいなかっただけなのだろう。

 けさの新聞に「台湾に中国マネーの波」の見出しがついた大型記事が載っていた。「台湾で人民元を嫌がる人はいない」のだそうだ。

2015年2月17日火曜日

趣味?いや暮らし

 福島民報の共同配信連載記事「夢追い人は…原発よ」がきのう(2月16日)、7回で終わった。「反原発」県議から「原発増設」町長に「転向」した双葉町の故岩本忠夫さんの軌跡を追った。
 最終回、岩本さんに誘われて反原発運動にかかわった葛尾村の元郵便局員小島力さん(79)の話が載った。いわき市から葛尾村へ行くには、田村市都路町で国道288号から同399号へと右折する=写真。震災前の2008年秋に40人余のグループで出かけたことがある。今はまだ全村避難中だ。小島さんも東京のアパートに奥さんと住む。詩人でもある。

 記事で講演会でのエピソードが紹介された。「『春は山菜採り、秋になればキノコ。村では毎日のように山に入っていた』。講演会でそう話したら『趣味』と受け止められた。『そうではない。それが暮らしそのものだったのです』」。都会の人間は結局、山里の暮らしを理解できないのだろうか――「趣味」の文字に引っかかって、先に進めなくなった。

 主に双葉郡の人たちは着の身着のままで避難した日から、土をいじり、山野の恵みを取り入れる暮らしを断ち切られた。

 身のまわりの自然にある山菜やキノコは暮らしを彩り、支える食材であって、「趣味」で採りに行くものではない。むろん楽しみもあるが、暮らしのための「仕事」として採りに行くといった方が正確だ。福島県で原発事故関連死が多いのは、この自然とかかわる楽しみ、生きがいが奪われたこともあるのではないか。

 山里に住むお年寄りの元気のもとは単純だ。毎日、畑仕事をする。周囲の自然から季節の恵みをいただき、加工し、保存する。子や孫にその恵みを分けてやる。秋のマツタケやコウタケは現金に換えられる。自給自足とまではいかなくとも、毎日、雑仕事に精を出して、つつがなく暮らしてきた。少なくとも原発事故が起きるまでは。
 
 記事では、小島さんの詩も紹介されていた。「当たり前の暮らしが/当たり前であった安らぎは/当たり前の暮らしが/当たり前であった愛(いと)おしさは/失(な)くしてしまった後でしか/気付けないものなのであろうか」
 
 電気・ガス・交通・流通その他、巨大システムに身をゆだね、自然と向き合わずにすむ都会の、カネさえあればマツタケが手に入る消費者の想像力で「趣味の話でしょう」と片づけてしまったのでは、永遠に避難者の内面には寄り添えない。
 
 6行の短詩は、春にはワラビやフキノトウを摘み、夏にはイワナを釣り、秋にはキノコやアケビを採り、冬には猟をする――そういった当たり前の暮らしの喪失をうたう。賠償金をいくらもらっても、生活、いや生存の基盤が失われた身には、未来は見えないのだ。

2015年2月16日月曜日

春の雪

 きのう(2月15日)、3週間ぶりに夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけた。いわきの溪谷は、家でいえば1階(平地)と2階(山地)をつなぐ階段の踊り場に当たる。平地では積もってもすぐ消える雪が、渓谷に入ると道端にかたまりとなって散見されるようになった。隠居の前では雪がでこぼこの帯状になっていた=写真。
 山地では雪が積もると、グレーダーが出て道路の雪を道端に寄せる。道端にはそれで雪の柵ができる。柵になった雪の名残だろう。溪谷の先、家でいえば2階にあたる上流の川前、あるいは田村郡の方ではまだ銀世界のところがあるにちがいない。

 この3週間で渓谷に雪が降ったと思われるのは2回。福島地方気象台によると、同じ溪谷の川前で1月30日に24.5ミリ、2月8日に10ミリの降水量があった。平地の平でもそれぞれ23ミリ、10ミリの降水量を記録した。記録のうえでは雨でも、山地では雪になったのではないか。

 というのも、1月30日の平ではこんな感じだったから――。夏井川をはさんで中心市街地とつながる旧神谷(かべや)村のうち、市街地に近い鎌田、塩地区では雪、それから東の中神谷地区では雨だった。いわきでは、南岸低気圧が発達しながら東進する春先に雪になりやすい。この日はたまたま平地で雪と雨の境がはっきりしていた。

 渓谷では、道端だけでなく右岸北向きの斜面も雪をかぶっていた。隠居の庭にもチャブ台くらいの大きさで雪が残っていた。葉を落としたシダレザクラが2本ある。密生した枝の影が融雪を遅らせたようだ。20年の渓谷通いからの類推だが、これらの雪は1月30日ではなく、2月8日に降ったものだろう。

 戦前、長野県の小中学校で教鞭をとった三澤勝衛(1885~1937年)は、「風土」を大地の表面と大気の底面が触れ合うところ、と規定した。人が拠って立つ生活圏でもある風土を知り尽くすことが自然を活用した産業を育成する基礎になる。三澤風土学が指し示すものは、風土はそこだけの、そこにしかないローカルなもの、狭いけれども深い世界。その産物のひとつが昔野菜だ。

 きのうは快晴ながら、風が強かった。それでも隠居の室温は朝10時前でちょうど零度。風は冬でも光は春だ。平地の小川・片石田では道路沿いの庭で紅梅が満開寸前だった。それよりちょっと高い高崎の白梅は咲き始め、溪谷では花芽のまま。手のひらに載るような小さな流域の上下流であっても、雪の残がいや植物が風土の違いを教えてくれる。

2015年2月15日日曜日

台湾再訪⑥ホオジロハクセキレイ

 台湾高速鉄道の台中駅――。階上の「月台」(ホーム)で列車を待っていると、人間の間をせわしなくセキレイが動き回っていた=写真。顔全体が白い。ハクセキレイだと、白い顔に横に黒い過眼線がある。それがない。ホオジロハクセキレイだった。
 もう30年以上前のことだが、北日本に多いハクセキレイが南下し、南からはホオジロハクセキレイが北上しつつある。セグロセキレイは、サンドイッチ状態で分布域が狭まっている――そんな調査結果を読んだ記憶がある。台中のホオジロハクセキレイから、突然、セキレイ界の“すみわけ異変”を思いだした。

 今度の台湾観光では、山地(日月潭)を訪ねるので国鳥のヤマムスメ(カラスの仲間)に出合えるかもしれない、と淡い期待を抱いた。黒い頭に青い背中、長い尾、赤いくちばしと脚。写真を見ただけでとりこになった。ガイド氏に話すと、目を丸くした。「ヤマムスメは国宝だよ。玉山のような高い山に行かないとムリ」。「国宝」はともかく、軽く一蹴された。

 帰ってから知ったのだが、ヤマムスメにほぼまちがいなく出合える山(陽明山国家公園)が台北市の郊外にある。しかし、それはバードウオッチングを目的にした観光であって、そのへんを歩いていて出くわすような鳥ではない、ということはわかった。
 
 すると、市内観光ではやはり目の前に現れたセキレイやスズメ、車窓から見たツバメや溜め池のサギ類くらいしかバードウオッチングの対象にはならない。
 
 高雄のスズメの一部は街路樹をねぐらにしているようだった。高鉄の左営駅の構内にも、左営駅に近い蓮池潭の龍虎塔にも、スズメは自由に出入りしていた。スズメはむろん留鳥だ。
 
 ホオジロハクセキレイは、台湾では留鳥ないし冬鳥らしい。ツバメも留鳥と日本から渡ってくる冬鳥がいる。もっと南に渡る旅鳥のツバメもいる。ちょっと見には、南方から北上中のツバメか、越冬して北上を開始するツバメかはわからない。さすがに亜熱帯~熱帯の島だけのことはある。
 
「ついでにバードウオッチング」は、台中でホオジロハクセキレイに出合えたので、それだけでもよしとしよう。

2015年2月14日土曜日

台湾再訪⑤医学衛生の父

 現いわき市渡辺町出身の医学者高木友枝(1858~1943年)は、台湾では「医学衛生の父」と呼ばれる。
 いわき地域学會が編集し、いわき市が発行した『いわきの人物誌(下)』(1993年)で、戦前~戦中、若くして渡辺村の村政を担った高木善枝(1903~68年)が紹介されている。友枝は善枝の祖父直枝の弟だ。生家の孫の世代の跡取りも立派な人物だが、その大叔父も国を超えて評価される人物だった。

 田口文章北里大名誉教授のエッセー「暮らしと微生物」によると、友枝はペスト菌を発見した北里柴三郎の一番弟子で、師の指示で日本が統治していた台湾に渡り、伝染病の調査や防疫など公衆衛生的な仕事に尽力した。

 総督府医院長兼医学校長、総督府研究所長などを務めたほか、明石元二郎総督時代には台湾電力会社の創立にかかわり、社長に就いた。

 もともとは細菌学者である。ある研究レポートによると、畑違いの電力会社に関係したのは「人間関係の調整能力」を買われて、だった。田口名誉教授は、それとは別の見方を示す。マラリア研究の権威でもあった友枝は、「衛生状態の改善には経済的な発展が必要」と考え、みずから社長になって台湾電力を創設した。
 
 要するに、公衆衛生の官僚・学者としても、人間としても高い評価を得ていた、ということだろう。
 
 台湾電力会社が最初に手がけたのは、台湾中部の湖・日月潭を利用した水力発電だった。(以下は漢文のブログ=日本語に自動翻訳されたもの=などを読んで見えてきたことなので、まちがっていたらごめんなさい)
 
 日本が建設した水力発電所は、今は「大観発電所」と呼ばれる。日月潭を天然ダム湖とし、上流の山陰を流れる濁水渓からトンネルで日月潭に導水した。湖の水深はそれで最深6メートルから27メートルになった。この湖は人工的に深く、大きくなったのだ。
 
 発電用の水は、湖からさらに低地の濁水渓の支流・水里渓に設けられた発電所へと、導水トンネルを伝って流下する。その発電所から送電線と鉄塔が台湾の西側に張り巡らされている。
 
 日月潭へと濁水渓沿いをさかのぼっていったとき、送電鉄塔に出くわした=写真。ときどきいわきの山里に出かけ、東電の1F・2Fからの送電鉄塔を眺める身には、台湾電力の送電鉄塔は小さくとも大きな物語を秘めている、と思われた。

台湾の初期の電気事業は種々の困難をのりこえ、長い時間と莫大な費用をかけて完成した。友枝がその創設にかかわったからこそ、この鉄塔も送電線もある――そんな思いでパチリとやった。

2015年2月13日金曜日

台湾再訪④高速鉄道

 高速鉄道(新幹線)を利用して台北から高雄へ――。2010年9月の台湾旅行では、台風の影響で高鉄がストップしたため、高雄行きを断念した。そのリベンジも兼ねた台湾再訪だ。2月7日午前10時前に台中駅で高鉄を下りて日月潭へ。午後は台中駅から左営駅(高雄)へと再び高鉄で南下した。

 台中駅で初めて高鉄の先頭車両を見た=写真。白い顔にオレンジ色のくちばし、といったところだろうか。「乗り鉄」でも「撮り鉄」でもない人間には、アヒル型かカモノハシ型かはよくわからなかった。

 朝、台北のホテルを出るとき、日航の客室乗務員とエレベーターが一緒になった。「(羽田まで)一緒(の飛行機)ですか」と聞くから、「これから高雄へ」「新幹線で?」「それに乗るために来たの」。なんだか小学6年生レベルの受け答えになっていた。

 高鉄は台湾の西側平野部を走る。作家の埴谷雄高は台北の南西、新竹で生まれた。詩人の工藤直子は高雄の手前、北回帰線に近い朴子で生まれた。作家や詩人が小さいころ過ごした土地の風景を目に焼きつけようと、高鉄の車窓に張りついていたのも小学生的ではある。
 
 水田では代かきが始まっていた。南下するにつれて田植えの済んだ水田が多くなった。水稲は2期作だという。そういえば、台中から日月潭への道すがら、川沿いにツバメが乱舞していた。日月潭の周回道路には、花桃かと見まごうほど赤みの強い桜が咲いていた。旧正月は、台湾では自然も含めて文字通りの「春節」になる。

 台湾高鉄は全長345キロ。東北新幹線でいうと、上野―仙台間348.2キロとほぼ同じだ。

 手元に使用済み切符がある。行きは台北08:54分―台中09:43分で所要時間49分、台中15:22分―左営(高雄)16:06分で44分。翌8日の帰りは左営10:54分―台北12:30分で1時間36分。このとき、毎時292キロの表示を確かめたが、知らない間に300キロまで出ていたのだろうか――。

 北回帰線をいつ、どこで越えたのか、わからなかったのが少し心残りだった。

2015年2月12日木曜日

交流サロンフェスタ

 福島県いわき地方振興局主催の「交流サロンフェスタ」が昨年(2014年)に引き続き、今年もきのう(2月11日)、いわき市生涯学習プラザで開かれた。いわき市内で被災・避難者のための交流サロン(スペース)を運営しているNPOや双葉郡の自治体、社協などが参加した。

 国際NGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」に関係しているので、震災後、シャプラが平で開設した交流スペース「ぶらっと」のブースに、昼すぎ、立ち寄った。そのまま「おじゃま虫」になった。

 2時すぎ――。会場に白髪の紳士が現れた。佐藤栄佐久元知事にそっくりだが、髪の毛の色が赤黒と白ではない。黒く染めるのをやめたのだろうか。たまたまカミサンに「元知事らしい人が来たようだが」と話すと、確かめに行った。元知事だった。

 元知事がカミサンの案内で「ぶらっと」のブースへやって来た=写真。元知事は一時、シャプラニールの会員だった。昔、県主催の国際交流シンポジウムが開かれたとき、カミサンが発言者の1人として参加した。直後の懇親会で職員に背中を押され、知事と立ち話をしたら、後日、県庁から電話が入った。シャプラニールの会員になるための手続きを聞いてきたのだった。

 冤罪(私はそう思っている)後は私の友人を介して、3年に1回くらいは元知事と顔を合わせるようになった。友人が講演に呼ぶ。いわき地域学會が郡山市へ巡検に出かけたときに、ミニ講話を頼む――その程度の関係だが。

「きょうは、なぜいわきへ」と聞くと、「ポレポレいわきでの上映会に呼ばれて」という。あとでわかったのだが、弁護士が監督した映画『日本の原発』の自主上映会が行われた。そこへ行く前に交流サロンフェスタへ顔を出したのだった。あらためて元知事の心根に触れた思いがする。

2015年2月11日水曜日

台湾再訪③921大地震

 台湾観光2日目の2月7日は台北市から台中市へ新幹線で移動し、南東の山中にある湖、日月潭(標高748メートルだとか)へ観光バスで直行した。
 台湾中部は1999年9月21日午前1時47分、直下型の大地震に襲われた。ネットで検索すると、「921大地震」とも「台湾中部大地震」とも出てくる。日月潭の西のふもとにある川(濁水渓)沿いの町・集集付近が震源地だった。2400人余が亡くなり、建物約8万棟が倒壊したという。周辺の山々は崩れてはげ山になった。「山津波」が同時多発したようなものだろう。

 ガイド氏に大地震の話を聞いたので、バスの窓から川沿いの風景に目を凝らした。大地震から15年がたった今は、その傷跡を探すのは難しい。日月潭の観光名所、玄奘寺と文武廟=写真=も被災したが、ここでも修復がなされていた。

 台湾は小さな島なのに、南北にのびる山脈は玉山(日本統治時代は新高山=3952メートル)をはじめ、3000メートル以上の山だけでも166座ある。そのワケは、大陸側のユーラシアプレートと海側のフィリピン海プレートがせめぎ合って隆起してできた陸地だから、らしい。こんにゃくを両側から押すと真ん中が盛り上がる。それと同じ、と考えるとわかりやすい。

 921大地震の際には、日本からいち早く救援隊が駆けつけた。義援金も群を抜いていたそうだ。その恩義に報いようと、東日本大震災では巨額の義援金が寄せられた。天変地異はいつ、どこで発生するかわからない。が、ともかくも玄奘寺と文武廟で、台湾への感謝と平安を祈らずにはいられなかった。きょう(2月11日)は東日本大震災から3年11カ月の節目の日、月命日だ。

2015年2月10日火曜日

台湾再訪②農暦

 台湾は、今が「尾牙(ウェイヤー)」=忘年会のシーズン。尾牙のあとに1年のうちで最大の行事である「春節」(正月)がやってくる。今年は2月19日が陰暦の元日。前日18日の大みそかから6連休に入る。車道中央の緩衝帯には、夜になるとイルミネーションの“壁画”ができた=写真。春節へのカウントダウンが始まっていた、というところだろうか。

 ガイドの陳さんの解説や、4年半前の台湾旅行の際にも顔を見せた級友の知人(システムエンジニア)の話から、年中行事や通過儀礼の日台の違いを感じた。

 日本のわがふるさと(現田村市常葉町)でも昭和30年代前半(もしかしたら町が大火事になる同31年まで)は、陰暦で正月を祝ったように思う。陰暦の正月2日に初売りの「二日市」が開かれた。各商店が暗いうちから店を開け、通りは在郷(ムラ)からやって来た人でごった返した。日本もちょっと前までは同じ「陰暦文化圏」だったのだ。

 級友とシステムエンジニア氏は日・英語のほかに漢字で筆談した。システムエンジニア氏は陰暦を「農暦」と記した。家庭菜園をやっていると、種をまく時期が気になる。で、太陽暦よりも自然の動きに基づいた農事暦に目がいく。陰暦だと農作業の計画が立てやすい。「農暦」という文字が即座に理解できた。

「農暦」のついでに「還暦」の話を――。旅行仲間の1人が60歳の誕生日を迎え、台湾2日目の夕食の席でケーキと赤いちゃんちゃんこ・帽子をプレゼントされた。幹事苦心のサプライズのはずが、直前に情報がもれたため、早々と「ハッピ・バースデー・ツー・ユー」が行われた。

 ホテルに引き上げたあと、訪ねて来たシステムエンジニア氏も、今年60歳になる。「還暦祝いはするのか」と聞けば、「そんな習慣はない」。代わって、男は50・60・70歳、女は51・61・71歳のときに大々的な誕生日パーティーを開くのだとか。
 
 そういえば、ホテルのロビーに着いたとき、風船をいっぱい持った若い女性たちが横切っていった。風船には英語で「ハッピーバースデー」とあった。だれかの誕生日パーティーに向かうところだったのだろう。

2015年2月9日月曜日

台湾再訪①寒波

 台湾は亜熱帯の島というイメージがあるので、コートは置いていくつもりでいた。羽田空港そばのホテルに前泊した2月5日、ブレザーだけで家から出かけようとすると、カミサンが「コートも、マスクも」とうるさい。向こうに着いたら荷物になるだけ――そう思っていたが、いやいや着て行ってよかった。寒気団が居すわり、いわきと変わらない寒さだった。
 7日朝、ホテルの部屋でテレビ(中視新聞台)を見ていたら、2月4日に起きた復興航空旅客機墜落事故のニュースをやっていた=写真。「復興空難Day4」と画面上部にあった。字幕から墜落現場である川の「水温が骨を刺す」ように冷たくて捜索が難航している様子がうかがえた。死者はその時点で35人にふくらんでいた。

 台湾は北回帰線を境に、北が亜熱帯地域、南が熱帯地域に属する。冬はしかし、寒波に覆われることがあるという。6~8日の台湾観光中はほぼ曇天、北の台北はもちろん、南の高雄でもジャンパーやコート、マフラー姿の人が目立った。

 羽田前泊の日、仲間の家を経由して出かけた。そこでも「パスポートは持った? 財布は?」と仲間がチェックを受けていた。口うるさく言う人間がいなかったら、亜熱帯の島で風邪を引いていたかもしれない。

2015年2月5日木曜日

再び台湾へ

 あした(2月6日)、同級生ら9人で台湾へ2泊3日の“修学旅行”に出かけるというのに――。台北=写真=市内の松山空港を離陸したばかりの小型旅客機が近くの川に墜落した。テレビニュースが伝える車載カメラの動画に仰天した。一刻も早く機内に取り残された乗客が救出されるよう、祈ってやまない。

 台湾への旅は、実は2回目だ。2010年9月、ほぼ同じメンバーで台北などの北部を巡った。そのときは3泊4日だった。お楽しみは北の台北から南の高雄へ新幹線で出かけることだった。あいにく台風11号の直撃を受けて、新幹線がストップした。当然、高雄の港からインド洋の夕日を見ることはできなかった。

 それから半年後に東日本大震災が起きた。台湾から200億円以上の義援金が寄せられた。日本語を話す九份(ジォウフェン)のあのジイサンも、烏来(ウーライ)のあのバアサンも「地の塩」を投じてくれたのだろう――「謝謝!台湾」の気持ちが今も胸底に残っている。

 震災後は、風評被害の著しかった会津を復興支援名目で訪ね、ベトナム・カンボジアへ飛び、京都・会津へ出かけた。次は南半球のニュージーランドへ、という話もあったが、「台湾新幹線に乗りたい」という声がまさった。むろん、震災支援への個人的なお礼も兼ねてのことだ。

 さて、天気はどうか。台北は飛行機事故で大変だろうが、東京は今夜、雪に見舞われそうだという。6日朝、予定通り羽田空港から飛行機が飛んでくれるかどうか。空港の近くのホテルに前泊するので、いわき組4人は夕方のスーパーひたちで出かける。電車も旅客機も、雪で遅れても運休するということはないだろうな。

 というわけで、悪天候で旅行が中止にならない限りは、あしたから日曜日(2月8日)まで、ブログを休みます。

2015年2月4日水曜日

「白きこと二寸」

 日曜日(2月1日)の昼間、地元の中華料理店で区の役員新年会が開かれた。少しビールを飲んだので、夕方、魚屋さんへ刺し身を買いに行くのをやめた。次の日の夕方、焼酎の「田苑」がないのに気づいた。スーパーへ買いに行った。十三夜の大きな白い月が東の空に昇りかけていた。

 スーパーの鮮魚コーナーには、いつものように解凍マグロやカツオの刺し身が並んでいた。刺し身は行きつけの魚屋さんで、と決めているので、“浮気”はしたくない。通りすぎようとしたら、小さなパック入りの半透明の小魚が目に入った。「青森産白魚刺身用」とあった。

 年明けの1月半ば、ローカルニュースでシラウオの水揚げを知った。ツイッターなどでも「うまいシラウオ」の情報が流れていた。前日、刺し身が食べられなかった代わりに、シラウオの生食を体験してみるか――急に思いたって、パックを買い物かごに入れた。

 長さは爪楊枝(つまようじ)ていど、量は片方のてのひらにのるくらい。それで196円だった。わさび醤油で食べた=写真。スプーンやフォークですくうならともかく、箸(はし)では一度に2~3匹しか口に入れられない。食べ終えるまでに結構、時間がかかった。

 芭蕉に有名なシラウオの句がある。「明けぼのや白魚白きこと一寸」。「白魚」は初春(立春~啓蟄の前日)の季語だ。きのう(2月3日)は節分、きょうがその立春で、宵には満月が昇る。

 シラウオを食べながら思ったのだが、青森産のそれは「白きこと二寸」はある。で、ネットでその違いを検索したら、芭蕉が食べたシラウオは冬場の幼魚だろう、とあった。「白魚一寸」の場合は、だから冬の季語というわけだ。

 それを踏まえての妄想。芭蕉の「白きこと一寸」は「事実」ではなく、「俳句的真実」、つまり作品としてそうでなければならない、というゲージュツが生みだした長さではないだろうか。
 
「おくのほそ道」が文学作品としては高く評価されながらも、随行した曽良の日記と相違点があるのは、芭蕉が「事実」より「俳句的真実」に力点を置く詩人だったから。俳聖の作品には「だまされてやるか」くらいの思いで向き合うのがいいのかもしれない。

2015年2月3日火曜日

自主防災組織研修会

 いわき市危機管理課主催による自主防災組織研修会が1月29日午後、市文化センター大ホールで開かれた。
 
 よその行政区もそうだろうが、わが区では区の役員が自主防災会の役員を兼ねる。区の役員になって5年、市内全域を対象にした研修会は初めてだ。各組織1人限定で対象424人ときては、会場は大ホールしかない。駐車場も午前中には満パイになった。
 
 東日本大震災・原発事故の教訓として、自主防災組織に多様な役割が求められるようになった。そこで、組織の再点検とこれからの取り組み(規約、防災計画、資機材の確認、防災士養成事業など)について、危機管理課の職員が説明した。組織の機能を強化し、防災リーダー(防災士)を養成して、自助・共助による地域の防災力を高めるのが目的だという。
 
 もっともな話だが、現実は厳しい。区の役員のなり手がいない。役員が高齢化している。どうやって組織の再編・強化をしたらいいのか――市は難しい宿題を出したものだ。それが研修会前半の感想。
 
 後半は、山口県宇部市防災危機管理課主任の藤田慎太郎さんが「自主防災組織に期待する役割と宇部市の取り組みについて」と題して講演した=写真。名前と顔に覚えがあった。
 
 というのは、こういうことだ。震災直後の2011年3月26日、藤田さんは宇部市の先遣隊としていわき市入りした。国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」のスタッフも、3月19日からいわきで緊急支援活動を続けていた。27日に初めて、いわき連絡会の私ら夫婦とシャプラのスタッフが合流した。
 
 その日、27日に市社協、市本庁関係者と会い、勿来地区で災害ボランティアセンターを立ち上げる動きがあると知って、市勿来支所に直行した。そこでさらに情報を得て、錦須賀海岸の津波被災現場を訪ね、やがて勿来ボラセンの中心になる知人や宇部市役所の弘中秀治さんらに会ったのだった。

 勿来地区災害ボランティアセンターは4月9日、いわき市内で最初に開設された。藤田さんやシャプラのスタッフは、これまでのノウハウ、知識を生かしてボラセンの運営に協力した。それからおよそ1カ月半後の5月20日、勿来の災害ボラセンは所期の目的を果たして閉所した。
 
 宇部市といわき市のつながりは、震災直前の1月、いわき市の常磐炭田史研究会が同じ炭鉱都市だった宇部市を訪れた縁による。そのとき、宇部を訪れた1人が当時の市勿来支所長だった。縁が縁を呼び、交流が重なって、2014年1月14日には両市の間に「災害時相互応援協定」が結ばれた。

 話がそれた。藤田さんは講演で、大規模災害の発生直後には行政は役に立たない、必要なのは「受援力」(外部からの支援を受ける力)だと締めくくった。そのためには個人レベル、組織レベルでの「つながり」が大切、ということだろう。自分にではなく、ほか(行政など)に要求する「〇〇すべきだ」の「べき論」からの脱却を――にも共感をもてた。

2015年2月2日月曜日

第5回いわき昔野菜フェスティバル③

 今年のいわき昔野菜フェスティバル(1月28日)では、初めて夜の懇親会に参加した。昔野菜の生産者や、ランチプレート=写真=をつくり、トークライブも行った山形・鶴岡の奥田政行シェフと、いわきの萩春朋シェフなどの料理人、基調講演をした江頭宏昌山形大准教授らが顔をそろえた。

 流れで生産者と料理人などのテーブルに分かれた。私は生産者のテーブルについた。江頭さんもあとからやって来た。

 酒席は情報の交差点だ。面白いと思ったら、私は箸袋やナプキンなどにメモをする。その場で記録を残しておかないと、翌日にはきれいさっぱり忘れている。江頭さんも時折、ペンを走らせていた。メモカードのようなものを常時携帯しているらしい。私のメモから二、三――。

まずは「稲と豆」の話。昔は6月に田植えをしたあと、畔(あぜ)に大豆の種をまいた。大豆は晩秋、稲を刈り取ったあとに収穫した、といわき市南部の生産者。

 年末、海に近い農村でカミサンのいとこの葬式が行われた。先祖が酒造業だったという親戚がいた。同じ村にかつては何軒か酒をつくる家があった。臨席者に「水がよかったのか」と聞けば、「米が余ったからだ」という。
 
 畔に植わった大豆はやがて自家製の味噌や醤油になった。むろん、未熟なものを塩ゆでして夏の暑い盛りにつまむこともあったようだ。

そのときどきのメモを組み合わせると、わからなかったことや、もやもやしていたものが見えてくることがある。田んぼの産物が米・味噌・醤油になり、副次的に酒になった、ということもそのひとつだ。
 
 イノシシのグルメぶりにも話が及んだ。ユウガオとカボチャがあった。ユウガオには見向きもしなかった。水分はたっぷりあるが味気がない、ということを知っているのだろう。そんな話だった。
 
 かねて気になっていたことを聞いてみた。原発事故のあと、双葉郡からカラスやスズメが引っ越して来ていないだろうか。カラスもスズメも人間に依存する野鳥だ。人間が避難していなくなったら、どこか人間のいるところへ移るはず――。
 
 いわき市北部の生産者が反応した。広野町だか楢葉町だかに行ったときのこと。熟した柿の実が残っていた。普通なら鳥につつかれてなくなっているのに、と不思議でならなかったそうだ。
 
 私は、いわきの平地のネギと山地のネギの話をした。山地のネギは「秋まき」、平地のネギは「春まき」だ。同じ市内でも「ネギの種の道」は違っている。秋まきネギの話にいわき市南部の平地の生産者が目を丸くした。

2015年2月1日日曜日

なにが「遠く離れた」?

 いわき昔野菜フェスティバル③を書くつもりだったが、カリカリして我慢できなくなったので――。

 もう35年ほど前の話。大平正芳元首相の親友で義父の友人でもある梅野典平さんが近所に住んでいた。首相とは同級ではないが、髙松高商・東京商大(現一橋大)と同じ道を歩み、大学を落第して一緒になったときもある。その後は文字通り「刎頚(ふんけい)の友」となった。共にクリスチャンだ。

 いわきで仕事に就いた。やがて悠々自適の身となり、週末、ときどき散歩がてらわが家へやって来た。梅野さんが70歳超、私が30歳前後のことだ。生意気な口をきく若僧が面白かったのだろう。こちらは逆に、梅野さんを介して「アーウー宰相」の政治哲学、知性・教養に思いが至るようになった。
 
 1月30日の衆院予算委員会での、安倍晋三首相の答弁に驚いた。福島県は県民の総意として県内すべての原発の廃炉を求めている。そのことに関して質問を受け、「事故を起こした発電所(福島第一原発)から遠く離れた第二原発については、(略)事業者が判断を行う」ことだと答えた=写真(1月31日付福島民報)。
 
 東電まかせ、当事者意識の薄さは今に始まったことではない。それよりなにより、2Fは1Fから12キロしか離れていないのに、その距離を「遠く離れた」という感覚が解せなかった。なにをふざけたことを言ってるんだ! テレビのニュースを見ながら、むかっ腹が立った。
 
 わが家は、1Fからはおよそ40キロの地点にある。地震が起きると1Fのことが気になる。それは「遠く離れた」場所ではなく、「すぐ近く」にあるからだ。いわきの「すぐそばの原発」だからだ。
 
 あのとき、1Fがおかしくなったら、すぐ近くの2Fも人間がいられないのでダメになる。すると、東日本は――というところまで懸念されたのではなかったか。1Fと2Fが遠く離れているなら、1F・2Fと東京の距離はそれこそ、地球と月ほどに遠く離れていることになる。(なにかのために、なにかからアンダーコントロールされているのではないかと、これは私のなかの邪悪な私の声)
 
 大平首相は「アーウー」を取ると、理路整然としている、とよく言われた。ほんとうのことを、正確にいうための「アーウー」だった。3・11後、なぜかしばしば大平元首相の顔を思い浮かべるようになった。