2015年3月31日火曜日

仙台平のハングライダー

 夏井川は、阿武隈の最高峰・大滝根山(1193メートル)の南斜面が水源だ。田村市滝根町からいわき市の新舞子海岸(太平洋)まで67キロ。高地の水田の間を細々と流れ、やがて谷を刻み、いわき市の北部を潤す。
 大滝根山に降った雨は伏流水となり、西側で入水(いりみず)鍾乳洞やあぶくま洞をつくった。その鍾乳洞の間にカルスト地形の仙台平(せんだいひら=870メートル)が横たわる。

 ある年の正月、JR磐越東線に並走する県道から異様な光景を見た。上空をずいぶんトビが舞っているなと思ったら、ハングライダーだった。仙台平の頂上にハングライダーの離陸場がある。その年の“初飛び”を楽しんでいたのだろう。

 先日、田村市常葉町からいわき市へ帰る途中、菅谷駅付近でハングライダーが視界に入った。車を止める場所を探しているうちに、家並みの陰に消え、枯れ田に着陸した=写真。滝根町で、しかもパラグライダーではなくハングライダーを見るのは久しぶりだった。仙台平の頂上からはざっと1キロ。そこが着地ポイントらしい。

 田村市船引町の片曽根山(別名・田村富士=719メートル)にもハングライダーの離陸場がある。田村富士の愛称が示すように独立峰だ。頂上まで車で行くことができる。仙台平も同じだ。行きやすさも離陸場向きなのだろう。

 3・11前から行われていたことが、3・11後も継続している。変わらずにある安心感のようなものが胸中に広がった。

2015年3月30日月曜日

猫の死

 10日前の彼岸の中日、夕方。南阿武隈をグルッと回って来たら、カミサンが沈んだ声で言った。「30分前にレンが死んだの」。レンは猫。タオルにくるまれていた。「まだ温かい」というが、さわる気にはなれなかった。
 震災時、わが家には3匹の老猫がいた。老衰のために後ろ足を引きずり、排便もきちんとできなかった「チャー」が急によみがえった。猫の身に奇跡が起きた。自分で歩いて、排便もできるようになった。その神通力もおよそ1年で尽きた。

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ運び、庭の隅に埋めて葬式をした。隠居では毎夏、長男が学生仲間と合宿する。16年前、八王子で拾ったチャーを連れて来た。チャーにとっては初めてのいわきの地だ。奇跡の猫、ここに眠る――という墓標を胸に立てた。

「レン」も十数年前、長男か次男か、どちらかが拾ってきた。始末の悪い猫だった。あちこちに縄張りのしるしをつける。茶の間のガラス戸をしょっちゅう開けて出入りする。「なんで猫は戸を閉めないんだ」。真冬は寒気が入り込むので、いちいち閉めながら腹が立った。

「チャー」と同じように、隠居の庭に埋めた。死んだら「生ごみ」と同じ、堆肥にしよう――なんて言ったら(「チャー」のときもそうだったが)、猛烈に抗議された。「あんたも死んだらそうしてやる」。というわけで、穴を掘って埋め、カミサンが持ってきた花を手向けた=写真。

 何はともあれ、震災を共に体験した「家族」にはちがいない。私は「ペットロス」にはならないが、なる人間もいるらしい。穴を掘って石を載せ、花を手向けると、すこし厳粛な気持ちになった。

2015年3月29日日曜日

すぐそこにあった雪

 3月も残すところあと2日。1週間前に、太平洋側のわが家から阿武隈の山の向こうの実家へと、反時計回りに150キロほどを巡った。10年近く前までは1月初めに出かけたが、パジェロからフィットに替えてからは、雪の心配のない春以降に訪ねるようにしている。

 常磐道を北上し、国道288号を西に向かって駆け上がり、JR磐越東線沿いの県道を戻ってきた。翌日は午前中、その県道を駆け上がり、夏井川渓谷(牛小川)の隠居で過ごした。左岸支流の中川渓谷に沿う広域基幹林道上高部線を、牛小川から一つ先の集落(外門=ともん)までドライブした。北向きの道端に2カ所、残雪のかたまりがあった=写真。

 前日の“南阿武隈一周ドライブ”では、2カ所で残雪を見た。大熊町から田村市に入ったあと、旧都路村と常葉町の境の長い峠にさしかかったとき、南に山を抱いた枯れ田に一部、雪が残っていた。最近降った雪の名残だろう。もう1カ所は、阿武隈の最高峰・大滝根山(1193メートル)だ。北西斜面がうっすら白くなっていた。こちらも最近降った雪のようだった。

 中川渓谷の残雪は隠居から車で5分という至近の距離にあった。「光の春」のなかで「寒さの冬」がもがいていた。おととい(3月27日)、きのうと気温が上がったから、それももう消えたのではないか。

 支流の渓谷へは、春を探しに行った。マンサクが満開だった。ヤシャブシも花穂(かすい)を垂れはじめていた。送電鉄塔が頭上を横切っていた。近くの路肩に東京電力の標識杭があった。1F(いちえふ=大熊・双葉町)と2F(楢葉・富岡町)からの系統であることが、あとで電子地図をたどってわかった。
 
 常磐道の常磐富岡IC近くに両原発とつながる「新福島変電所」がある。そこから南下して、いわき市三和町の「新いわき開閉所」に送電線が延びる。その変電所からの1系統が中川渓谷の上を通っていた。
 
 今はどうか、送電線は使われているのか。福島県知事が昨秋、経産大臣に緊急提言をした受け売りだが、今度は福島のために、再生可能エネルギー普及のためにがんばってほしいものだ。「立ち枯れ」ではもったいない。

2015年3月28日土曜日

阿武隈のヤナギ

 3月21、22日、そしてきのう27日と、快晴・無風の春めいた日になった。けさも晴れていい天気だ。きのう、いわき市平の市街を通ったら、ハクモクレンが満開だった。平・塩の夏井川のハクチョウも姿を消した。
 1週間前、阿武隈の山の向こうの田村市常葉町の実家へ帰った。ちょうど弟夫婦もやって来た。床屋をやっている兄夫婦に代わって、3人で墓参りをした。午後には夏井川を下って帰宅した。久しぶりにふるさとの景色を目に焼きつけた。

 実家の裏庭に、私と同じくらいの高さのヤナギがあった。挿し木で生長したのだろう。ネコヤナギかアカメヤナギかはよくわからない。ネコでもアカメでもいい。その花にミツバチが群がっていた=写真。セイヨウミツバチか、二ホンミツバチか。体の小ささからして二ホンだとは思うが、それもよくわからない。標高450メートル前後の高原の町にも春が近づいていた。

 写真を撮ってパソコンに取り込み、拡大したら、ヤナギの花穂(かすい)がきれいに映っていた。ミツバチもそんなにぼけてはいなかった。

 永幡嘉之さん(山形)の写真集に『原発事故で、生きものたちに何がおこったか。』(岩崎書店、2015年2月刊)がある。毎年、阿武隈高地(本では「阿武隈山地」)で昆虫の調査を続けていた写真家が、人のいなくなった相双地区、津波跡の海岸の生きものたち、なかでも虫たちを追った記録だ。大津波と原発事故の影響を受けた地域の現状が生きものを通してわかる。

 NHKの<東北Z>のように、阿武隈の生きものたちの影響を追った番組は見る。本も読む。そうしたなかで目にした好著であり、春のヤナギとミツバチだ。
 
 阿武隈を深く、広く、そして原発事故後は新しく知る――原発事故の前は、まるで置いてきぼりにされたような阿武隈だったが、今や人類史、自然史の最先端だ。阿武隈についてのさまざまな知見が得られつつある。庭のヤナギとミツバチにも、放射線量の影響はあるのかないのか。そのくらいの意識は持てよ、と自分のなかの“阿武隈人”が叱咤するのだった。

2015年3月27日金曜日

「竹のクビリ」

 先日、震災後初めて大熊町の国道288号を通った。熊川水系の野上川渓谷に沿って田村市へと駆け上がる。分水嶺から一つ手前の峠が町と市の境になっている。境界を示す市と町の塔が向かい合っていた=写真。
 福島県を南北に縦断する阿武隈高地の東側は、川がV字谷をつくって太平洋へと一気に駆け下る。野上川渓谷も、わが隠居のあるいわき市夏井川渓谷同様、春の芽吹きと秋の紅葉が素晴らしいことだろう。

 大熊町の境界塔は、マスコットキャラクターの熊の「おおちゃん」と「くうちゃん」の兄弟を描いたものだ。兄がサケを、弟がナシとキウイフルーツらしいものが入った籠を手にしている。ナシが1個、籠からこぼれ落ちているところがかわいい。「フルーツの香り漂うロマンの里おおくま」という町のキャッチフレーズ板も付いている。

 手前に立つ標識は、その道路が国道288号であることを示している。数字の下、地名を表す補助標識に目を見張った。「大熊町/竹のクビリ」。くびり? くびれ? ネットで大熊町の地名をチェックしたが、よくわからなかった。大字は野上のようだが、小字にはしかし「竹のクビリ」は出てこない。通称地名か。

 大熊町の人に聞くのが一番だが、浜通りはいわきと同じく、どこの自治体でもハマ・マチ・ヤマの違いがあるのではないか。大熊のハマやマチから避難している人に、西の果ての山中の通称地名を尋ねてもたぶんわからないだろう。

 私は「ニーパーパー(288)」を通るだけの人間で、大熊には土地鑑がない。が、「竹のクビリ」はわが生まれ育った阿武隈の地名のひとつにはちがいない。いわき総合図書館へ行って『大熊町史』をめくったり、地名辞典に当たったりしながら、いつかは「?」を「!」にしたい。とにかく気になってしかたがなくなった。

2015年3月26日木曜日

サーファーと灯台

 連休初日の朝は阿武隈の峠を越えて墓参りをし、とんぼ帰りで夕方には豊間にいた。飲み会まで時間があったので、すぐそばの海岸堤防からぼんやり太平洋を眺めた。断崖の上に塩屋埼灯台が見える。おやっ、サーファーが歩いているぞ=写真。
 ここはほかの海岸同様、大地震で地盤が沈下し、大津波に襲われた。断崖の近くまで広がっていた集落が、あらかた消滅した。

 地盤が沈下した分も含めて、海岸堤防の補強・かさ上げ工事が行われている。堤防の内側には防災緑地ができる。西側の丘は高台移転の造成工事で丸坊主になった。土もかなり削りとられるようだ。

 いわきの海岸線は断崖と砂浜が交互に連なる。「いわき七浜」といわれるゆえんだ。豊間海岸の南端は合磯(かっつぉ=二見ヶ浦)。北の豊間と南の合磯に海水浴場があった。子どもが小学校に入ったばかりのころ、何家族か誘い合って合磯海水浴場を訪れた。ここの海を見ると決まって、下の子が磯でおぼれかけたのを思い出す。
 
 今は海水浴どころではない。原発事故の影響もあって、震災の年からここの海水浴場は閉鎖されたままだ。

 そうだ、震災から半年後、やはりこの海岸に立ったことがある。浅瀬に漁船が打ち上げられていた。白い車も屋根の部分だけを残して砂に埋まっていた。今はあとかたもない。堤防も壊れ、代わりに黒いフレコンバッグがずらりと並んでいた。

 かさ上げされた堤防、狭くなった砂浜、砂山に立つ重機……。そこへ突然、黒い人魚が海から這いあがって歩き始めた、そんな感じでサーファーが視界に入ってきた。殺風景な世界に一瞬、体温が宿った。

2015年3月25日水曜日

豊間の夜

 東京からいわきリピーターの4人がやって来た。1人とは1カ月ぶりの再会だ。ほかの人も半年ぶり、1年ぶりだろうか。
 私ら夫婦には半年ぶりの豊間の夜だった。連休初日の3月21日(春分の日)。旧知の大工氏の作業所で飲み会が開かれた。いつものことだが、空きスペースが居酒屋に化けた=写真。

 車で行ったので、ノンアルコールで付き合った。最初の30分ほどは、のどが刺激されて酔ったつもりになった。が、頭は醒めたままだ。時間がたつにつれて飲むのにあきてきた。ノンアルは、長時間はダメだと知った。

 大工氏の自宅は地震と津波で「全壊」の判定を受けた。で、内陸部の借り上げ住宅に住み、毎日、自分の家の作業所に通う。その隣にある知人の家が4人の宿になった。前回もそうだった。

 豊間は、沿岸の集落がほぼ消えた。大工氏や隣の知人の家の前に大きな病院があり、それが“防波堤”の役目を果たしたらしい。そのあたりだけ家が残った。

 3・11直後、国際NGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」がいわきで緊急支援活動を始めた。それが、今の「豊間の夜」につながる。私ら夫婦もシャプラニールの縁、大工氏の縁で、東京と豊間に新しい友達ができた。東京の友達はすっかりいわきリピーターになった。

 最初は被災者―支援者の関係だったかもしれないが、今は昔からの友達のような関係に変わった。もしかしたら、それがほんとうの支援なのかもしれない――飲んでものんでも酔えない頭で、そんなことを考えた。

2015年3月24日火曜日

卒業式

 小学校の卒業式がきのう(3月23日)、行われた。会場の体育館のわきにあるヤブツバキの花が満開だった。(ここではこれが卒業式を祝う季節の花だ)
 ヤブツバキは、夏井川流域では渓谷の集落・牛小川あたりまで分布する。今年はまだ確認していない。が、同じ場所でマンサクの花が満開だった=写真。ヤブツバキの花前線も到達していることだろう。来賓席でそんなことを思った。

 旧神谷村にある公立小・中学校と養護学校から卒業式と入学式の案内が届く。小学生については学校・家庭だけでなく、地域も加わって祝ってやりたい――という思いがある。背中より大きいランドセルを背負って家の前を行き来していた子どもが、いつのまにかランドセルがままごとのように小さくなっている。なかにはPTA仲間の孫もいて、時の経過を痛感させられる。

 卒業式に招かれるのは2回目だ。自分の小学校の卒業式の記憶はほとんどない。息子2人の卒業式はカミサンまかせだった。ジイサン・バアサンの年になって初めて、現代風の卒業式に触れた。

 送る児童は5年生のみ。厳粛ななかにも軽快な音楽を配してエールの交換をする。目をつぶっていると、ラジオのミュージカルを聴いているようだった。

 少子・高齢化の最前線がここにある――市部の小学校なのに、卒業生が2クラスで39人(男子26人、女子13人)しかいない。夕刊(いわき民報)によると、いわき市全体の卒業生は3196人(男子1595人、女子1601人)だ。女子が3分の1しかいなかったのはたまたまだろう。

 高齢化の方は、来賓席をみれば一目瞭然。PTA関係を除けば学区内8行政区の区長、民生委員など70歳前後がほとんどだ。

 式の前に校長室で先輩区長さんらと話した。私を除いて全員、3月末にお役御免になると思っていたが、2人が留年、いや留任に決まったという。いやあ、いっぺんに孤立感が解消された。

 別の区の区長OB氏が昔、「区長の仕事は後任を見つけることだよ」と言っていたが、その区では自動的に区長が決まるシステムになっているらしいと、あとで知った。現実には厚く高い壁が立ちはだかっている。卒業式に出席して、区長を卒業できない3人で笑うしかなかった。

2015年3月23日月曜日

スプリング・エフェメラル

 カタクリのような早春植物を「スプリング・エフェメラル」(春の妖精)というそうだ。
 昔、植物が好きな女性を「学級委員長」に、自分たちで阿武隈の植物を見て回る「山学校」を年に何回か開いた。だいたいはいわき市に住む植物研究の第一人者、湯澤陽一さん(元高校教諭)が「先生」を務めた。

 里山の植生のほか、戸草川渓谷(いわき市)のカタクリ大群落、平伏沼(へぶすぬま=川内村)の奥のブナの巨樹、大滝根山(田村市)のスミレたち、差塩湿原(さいそしつげん=いわき市)のミツガシワ、小白井(おじろい=いわき市)のリュウキンカなど、奥山の植物をこの目に焼きつけた。
 
 頭ではなく、足を使って見たものは骨の髄までしみこんでいる。とりわけ、冬枯れの湿地や林床から萌(も)えでるスプリング・エフェメラルには、なんともいえない感動を覚えた。
 
 この週末は晴れて風もなく、穏やかな連休になった。あそこにあれが咲きだしているのではないか、あそこのあの木に花が咲いているのではないか――春めいた陽気に骨の髄から記憶が浮上してきた。
 
 きのう(3月22日)朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけ、すぐスプリング・エフェメラルのキクザキイチゲをチェックした。咲いていた=写真。別のチェックポイントにあるマンサクの花も満開だった。ヤシャブシは主に谷側の道沿いで黄色い花穂を垂れていた。溪谷の入り口にはキブシが咲いていた。
 
 すると、あそこではカタクリとニリンソウが――。いわきの平地では、この花たちは3月中~下旬に咲く。盗掘跡を見るのがいやで、今はほとんど足を向けない。斜面を上ると息が切れるようになったのも大きい。いずれにせよ、春がゆっくりといわきに近づいている。
 
 繰り返すが、この2日間はいい骨休めになった。初日。田村市の実家へ墓参りに行き、とんぼ返りで夜は震災後に出会った仲間と歓談した。2日目。溪谷の隠居で過ごし、夜には帰宅してカツオの刺し身を食べた。隠居の対岸、裸の雑木の枝越しに滝の水がキラキラ光っていた。夕方には下流の夏井川の堤防で今年初めてツバメを見た。ハクチョウはまだ数羽が残っている。
 
 きょうは小学校の卒業式。それを振り出しに、月末まで怒涛の1週間が続く。区長仲間の反省会、行政区の総会、前後に役所がらみの会議。並行して、4月からのおしゃべりの下準備。春霞の向こうに迷い込んでしまわないよう、頭の切り替えをちゃんとしないと――。

2015年3月22日日曜日

春の墓参

 春分の日のきのう(3月21日)朝、10時過ぎには田村市常葉町の実家にいた。いわき市のわが家を8時半すぎに出た。
 いわき四倉ICから常磐道を北上し、常磐富岡ICで下りたあと、県道いわき浪江線(通称・山麓線)経由で国道288号をひたすら西に進んだ。所要時間はざっと1時間半。時計回りに夏井川沿いをさかのぼるのとほぼ同じだった。

 四倉IC~常磐富岡IC間を初めて走行した。常磐道が全通した効果か、東京方面へ南下する車が列をなしていた。北上する車も思ったよりあった。連休初日の朝ということで、レジャーや墓参に利用する車が多かったのではないだろうか。私がそうだった。

 この区間は阿武隈高地の東麓を走る。丘・田んぼ・丘・田んぼの繰り返しで、田んぼの上は高架橋になっている。3・11前はその下を縫う山麓線を利用していた。山並みや集落の景色にはなじみがある。が、その家々には今、人は住んでいない。屋根の白い土のう(東日本大震災で崩れた屋根のグシを覆っていたシートのおもし?)がぼろぼろになっていた。手つかずのまま4年が過ぎた。

 いつ見ても暗澹たる気持ちになるのが黒いフレコンバッグだ。各所に仮置きされていた。緑色のネットがかけられたものもある。通行止めになっていた山麓線沿いも黒い袋だらけだ=写真。288号にはスクリーニング場もあった。

 途中の渓谷にある玉の湯の南側に、玉の湯トンネルができていた。平成16年度に着工し、震災と原発事故で中断したあと、昨年1月に工事が再開され、暮れの12月25日に開通した。

 快晴、無風。本来なら気持ちのいいドライブなのだが、道にいるのは制服を着てマスクをした警備員ばかり。田村市都路町に入ってやっとお年寄りがちらほら道端に立って、遠くを眺めたり話をしたりしていた。

 実家は双葉郡双葉町と郡山市を結ぶ国道288号沿いにある。朝は東へ向かう車でいつもより混雑したという。福島県の中央部から双葉町や大熊町へ行くには最短のルートだ。郡山市や会津若松市などに避難している両町民が墓参りに向かったのだろう、ということだった。
 
 私が墓参りをしたのは、そこに父母や祖父母が眠っているからだ。身近な死者の記憶があるからだ。仮にその墓がふるさと以外のどこかへ移転したら、そちらへ線香をあげに行く。ふるさととはたぶん、縁が切れる。避難者も同じだろう――実家の墓参りをしながら、そんなことを思った。

2015年3月21日土曜日

磐城飛行場跡地

 きのう(3月20日)の続き――。70年前の太平洋戦争末期、米軍戦闘機が大熊町の「磐城飛行場」を爆撃する映像を、テレビの特別番組で見た。戦闘機備え付けのガンカメラがとらえた。跡地はそれから30年近くたって、東電の原子力発電所になる。あの1F(いちえふ)だ。番組では、1F・東電展望台のそばにある「磐城飛行場跡記念碑」も取り上げた=写真。
 ネットに碑文がアップされていた。原文は文語体だ。福島民報社の『福島と原発』(早稲田大学出版会、2013年)を参照・加味しながら、口語体で経緯を整理してみた。

 そこは太平洋の波が洗う約30メートルの絶壁の上の「長者原」。昭和15年4月、国家の至上命令で陸軍飛行場が建設された。農家11戸が移転し、請負業者のほか町内外の青年団、消防団、学徒などが半ば強制的に工事に動員された。

 昭和17(1942)年早春、宇都宮飛行学校磐城分校が発足し、同20年2月、磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立する。いわゆる「特攻」の訓練基地である。そのため、終戦間際の8月9、10日、米軍空母艦載機の大空襲に遭い、施設が破壊された。周辺にも被害が及んだ。

 戦後の昭和23年には、日本国土計画が中部以北を塩田化し、海水水揚げ天日式で製塩した。塩田以外は旧地主に払い下げられ、農家が散在する松山に変わった。その地が東電の原発候補地になり、やがて1Fが建設される。

『福島と原発』に、「東電は『県が挙げている候補地で、原発の運転に必要な地下水が出るなら立地を考えてもいい』と返答した」というくだりある。地下水がなぜ必要なのか、という具体的な記述は残念ながらなかった。冷却水としてか、巨大建造物としての1Fの地盤沈下を地下水の力で防ぐためか、それともなにか別の理由があってのことか。

 いずれにしても、海から冷却水を取水するために台地は削られ、過酷事故のあとは豊富な地下水に悪戦苦闘を強いられている。

 きょう(3月21日)は朝食後、すぐ出かける。常磐道を利用して常磐富岡ICまで北上し、震災後初めて、富岡町の先、大熊町の県道いわき浪江線(山麓線)に入る。その突き当たり、国道288号から西に向かい、田村市の実家へ帰る。3・11前とは景観が違って見えるかもしれない。

2015年3月20日金曜日

ガンカメラ

 放送から10日余り。今も衝撃が胸に残っている。ベトナム戦争を描いたハリウッド映画の機銃掃射シーン、あれは映画人の想像力が生んだものとばかり思っていたが、そうではなかった。現に湾岸戦争では、ピンポイント爆撃の映像がテレビに流れた。その“原点”だったのか。
 米国立公文書館に、米軍戦闘機に取り付けられた「ガンカメラ」がとらえたカラー・モノクロ映像が保管されている。それを基にしたTBSの特別番組「戦後70年~千の証言~私の街も戦場だった」は見ごたえがあった。70年前の3月9日深夜(10日未明)、東京が大空襲に見舞われる。その日に合わせて放送された。

 空襲には、いや戦争には正義も大義もない、という思いを抱かせるに十分な映像だった。建物が、汽車が、人間が急降下した戦闘機に狙われる。地上ではなすすべもない。と同時に、米国の映像技術がここまで進んでいたのか、という驚き――。しばらく言葉もなかった。

 ガンカメラは「戦果」を判定するために、機銃掃射が始まると同時に作動する仕組みになっていた。「費用対効果」をはかる一種のプラグマティズムが編み出したものだろう。

 番組では、日本各地の空爆映像が紹介された。いわき近辺では、1Fが建設される前の「陸軍磐城飛行場」(長者原飛行場=大熊町)が機銃掃射される。浪江町の鉄橋を行く汽車が狙われる=写真。富岡駅も空襲される。

 特番を見たあと、ネットで「ガンカメラ」を検索した。個人で同じ映像を入手し、公開している人がいた。ネットの海は広い。九州の市民団体も同じものを手に入れ、先日(3月14日)、報道陣に公開した。通信社経由で県紙に載った。

 番組では、1F(いちえふ)のそばにある「磐城飛行場跡」の記念碑も紹介された。バックに汚染水のタンク群が見えた。今はまだ3月だが、今年1年が終わったとき、「戦後70年」関連では水準の高いテレビドキュメントのひとつ、と評価されるのではないかと思った。

2015年3月19日木曜日

駅開業100周年

 土曜日の3月21日は春分の日。カミサンの実家の墓参りは翌22日の日曜日にするとして、日帰りで阿武隈高地の実家へ行って来ようかと思っている。兄が床屋を継いでいるので、まずは散髪に。
 2月末、常磐道が全通したのに伴い、常磐富岡インターチェンジと田村市を結ぶ県道いわき浪江線(通称・山麓線)~国道288号のルートが復活した。3・11前は実家の行き帰りによく利用した。常磐道経由で沿線の様子を確かめたくなったのがひとつ。

 もうひとつ。同じ日、いわきの山の向こうのJR船引駅、小野新町駅などで「磐越東線開通100周年記念入場券」が発売される。郡山から小野新町まで10駅の入場券がそろって、1セット1400円だという。船引か小野新町か、どちらかの駅で記念入場券を買う気になっている。

 乗り鉄でも、撮り鉄でもない。が、磐東線だけは自分の体とつながっている感覚がある。マイカーで行き来する前は、この磐東線の汽車が唯一の足だった。

 4歳か5歳のころの、磐東線にまつわる最初の記憶――。祖母に連れられて、汽車で平のおばの家を訪ねた。磐東線は今も単線だ。小野新町駅で平からやって来る汽車を待っていたのだろう。あまり待ち時間が長いので、ふらっとホームに出たら地下通路の階段が見えた。そのままトントンと下りて、駅の改札口の方へ上りかけたとき、連れ戻された。

 地下通路の不思議な感じと、だれかに呼び止められて振り返った光景が頭に刷り込まれている。

 ローカル線がよくテレビや雑誌に登場する。ところが、磐東線はだいたい無視される。今は週末、街に用事がなければ夏井川渓谷の隠居で過ごす。そばを県道と並行して磐東線が走っている。通過するディーゼルカー=写真=で時間を知る。ますます自分の体の一部になっている。いとおしい。

 そういえば、いわき側の小川郷駅と赤井駅も7月に開業100周年を迎える。小川でもそれを記念して、列車を利用するイベントを計画しているようだ。
 
 小野新町駅~小川郷駅間29.8キロは、2年遅れの大正6年10月に開通した。この区間はトンネルと鉄橋で渓谷を縫うように走る。勾配もある。難工事の末にやっと磐東線が全通した。
 
 いわきから田村市の実家へと、車で反時計回りに一周するように巡る。国道288号を中心に、再開通区間では写真も撮って――あ、いや、国道6号同様、放射線量の関係で駐停車はできないのかな。

2015年3月18日水曜日

『台湾の歓び』

 いわき総合図書館の新刊コーナーに、四方田犬彦著『台湾の歓び』(岩波書店)があった=写真。さっそく借りて読み始めたらおもしろい。300ページ余を一気に走り読みした。
 著者は2013年秋から翌年春まで、2つの大学の客員教授として台湾に滞在した。比較文学者・映画史家らしく、台湾の映画監督や詩人、作家らと対話し、「進香」といわれる道教の巡礼に加わった記録などを収めている。
 
 なかでも、中学校の先生をしながら小説を書いている宋澤莱(1952年~)と、彼が1985年に発表した作品『廢墟台湾』に強い印象を受けた。『廢墟台湾』は「大地震によって3機あった原子力発電所が同時に爆発し、外に洩れた放射能に被爆した20万人の人間が死亡したのは、2000年だった」。そんなことを想定して描かれた近未来SF小説だそうだ。

 チェルノブイリ原発事故が起きるのは、この小説が発表された翌1986年4月。長らく絶版だったのが、2011年3月の日本の原発事故を機に、「恐るべくも予言的な作品」として2013年に再刊され、大きな話題を呼んだという。日本語に翻訳されていないか、図書館にないか――チェックしたが、なかった。まだまだ日本では知られていないらしい。
 
 作家のイマジネーションが生み出したディストピア(反ユートピア)の世界。現実には、1Fは偶然にもそうなる前にブレーキがかかった。それこそ、ディストピアの世界にまで原子炉が暴走する可能性があった。
 
 ネットで『廢墟台湾』の情報を探っていたら、東日本大震災から4年がたつのを機に、3月14日、台北や高雄などで第4の原発建設中止を求める大規模デモが行われた、というニュースに出合った。3・11は、台湾人にとってもヒトゴトではなかった。
 
 ついでながら、著者は台湾滞在中に遭遇した学生による立法院占拠事件にも一章をもうけている。著者は知人教授とともに立法院内部に入り、指導者と対話し、退去の場にも立ち会ったという。学生たちは「東大安田講堂」のときと違って、いっさい破壊をせず、整然と、秩序立って行動した。
 
 台湾人の心のうちを知りたい、それには小説を読むのが一番。そう思っている。日本人の作品と台湾人の翻訳作品を、きのう(3月17日)、図書館から借りてきた。

2015年3月17日火曜日

春の声

 日曜日(3月15日)の夕方、マイ皿を持っていつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行った。生のカツオが入荷しない冬場は、タコのほかにホッキガイ、マグロ、ブリなど、あるものを足してもらう。「タコと、あとは……」といいかけたら、「カツオがあります!」「エッ! では、それ」「足りない分はタコで?」「そうして」。簡単に話が決まった。
 冷凍ものではない、今年初めての生のカツ刺しだ=写真。日中、月末の総会を控えて、行政区の役員会が開かれた。3週連続して日曜日に用事が入った。仕事から解放された夕方の、思わぬ“ごほうび”だ。

 おそらく九州あたりから飛行機で運ばれてきたのだろう。脂はのっていない。が、のっていないなりに新鮮でうまかった。若ダンナが試食してまずまずだったので、「カツオあります」となったようだ。今年最初の春の声である。耳が喜び、皿に盛られたカツ刺しを見て目が喜び、食べて舌が喜んだ。

 翌月曜日のきのうは、福島県立高校の合格発表の日だった。疑似孫が受験した。今は受験番号しか発表しない。校内のほか、古巣の新聞社の前など、街なかにも臨時の掲示板が立ち、学校からもらってきた番号簿が張り出される。番号を聞いていれば、簡単に確かめられるのだが、そこまで立ち入るのも……と遠慮していた。

 親に連絡したものかどうか迷っていると、夕方6時近くなって、当の本人から電話がかかってきた。受話器を握ったカミサンの声が、ワンテンポおいて急に大きくなった。私もうながされて電話に出た。「受かったよ」「ありがとう、あ、違った、おめでとう」。なんで「ありがとう」になったのか、自分でもおかしかったが、きっと春の声に脳みそがはずんだのだ。

 助産院で初対面をしてから15年、疑似孫の成長の様子をはたから見てきた者として、やはり感慨深いものがある。両親にも、妹にも「おめでとう」と伝えて――といって電話を切った。

2015年3月16日月曜日

きょうは1467日

 庭のジンチョウゲのつぼみがほころび始めた=写真。スイセンも咲きだした。春が目に見えるようになってきた。
 あのとき、真っ先に春を感じたのは14日だった。朝から暖かい南風が吹いていた。2日前の12日午後、1Fの1号機建屋が爆発した。その影響がどんなものか、まるで知らなかった。

 朝、あずかった孫(当時4歳と2歳)がダンゴムシを見たいというので、庭で遊ばせていた。屋内退避などは頭になかった。午前11時半ごろ、父親が駆け込んできた。「3号機(の建屋)が爆発した、中に入れて!」。あわてて1人ずつ抱えて、家の中に入った。すぐテレビをつけた。福島中央テレビが爆発して黒煙を上げる3号機建屋の様子を繰り返し映していた。

 それを見て、「また避難か」と覚悟した。なぜまたかというと、五十数年前、小2になったばかりの昭和31(1956)年4月17日夜、阿武隈山中のわが町が大火事に遭い、家族がばらばらになって避難した経験があるからだ。
 
 大火事では、命以外はすべて灰になった。原発事故では……。避難しないと生命が危うい、状況によっては帰れなくなるかもしれない。人生の朝と夕方に避難する運命だったのか、と観念した。
 
 わが家は沿岸から5キロほど内陸に入っているので、津波被害は免れた。地震で家が倒壊するようなこともなかった。個人的には「3・11」と同じくらいの重さで、原発避難をした「3・15」も忘れがたい日になった。

 あるとき、フェイスブックで「震災から1300日」ということばに出合った。「年」「月」ではなく、「日」で数えることは、毎日、3・11を思うことでもある。それをまねて日記に「1×××日」と付けはじめた。

 今年の3月11日は、あれから「1462日」目だった。ところが、当日の新聞に載ったある全面広告には「1461日目」という文字が躍っていた。4年前の3月11日を入れて数えると1462日だが、次の日からだと1461日になる。次の日から復旧・復興へと歩みを始めたという意味で「1461日目」としたのだろうか。

 きょう(3月16日)は、あの日から1467日だ。ちょうど4年前、3・11から6日目は、那須甲子青少年自然の家で初めての朝を迎えた。「日めくり」で振り返ったら、そのころの日々の記憶が一気によみがえってきた。

2015年3月15日日曜日

路面標示「追突注意」

 3月13日付の小欄に、国道6号の路面に派手なマークが施されていた、ということを書いた。その路面標示「追突注意」がこれ=写真。
 きのう(3月14日)、平の街へ出かけた帰り、標示を思い出して遠回りをした。隣接学区の草野小近くにある歩道橋の上から、上り方面の路面標示を写真に収めた。車を運転していたときの感じと違って、長くて大きい。字も縦長だ。運転中の車から意味が分かるようにすると、そうなるのだろう。

 帯状に赤く路面が塗られ、そこに白くゴシック体で「追突注意」と重ね塗りされている。走行・追い越し車線の境、センターラインのそれぞれに白い破線(ドットライン)も施された。いやあ、にぎやかだなぁ。

 ドットラインは「減速」を意味する標示だとか。車線の幅が狭くなったような圧迫感がある。それで、無意識のうちにスピードが落ちる――のを狙っているのだろうか。

 原発事故後、いわき市内の交通量は増えた。「追突注意」やドットラインが施された一帯は、朝夕、1Fの収束作業や双葉郡内の除染のための車で混雑する。

 折しも、1F周辺に予定されている中間貯蔵施設への廃棄物搬入がおととい始まった。双葉郡から遠い自治体の廃棄物は、主に高速道路(磐越道~常磐道)を利用して運ぶというから、廃棄物運搬車両の増加に備えて手を打ったわけではあるまいが、道路は1Fに通じている。

 さて、これは蛇足。なぜわが家を通り越して、隣接学区の歩道橋まで行ったかというと。小1の孫が登下校時にその歩道橋を利用している。写真を撮るついでに、孫の目に近づいてみたかったのだ。歩道橋の上や階段を上ったり下りたりするときに路面の変化が目に入っているはずだ。今度遊びにきたら、そのへんのことを聞いてみよう。

 追記:日曜日なので、夕方、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行ったら、「事故注意」の路面標示もあった。そのあたりの破線は赤色だった。2パターンあるらしい。魚屋さんの近くにコンビニがある。コンビニから国道へ出るときによく事故が起きる、といっていた。夜間は大型車が通る。振動で眠れなくなる時がある、ともいっていた。

2015年3月14日土曜日

「ようやく」ではないよ

 全国紙の文化部記者と話すのは初めてだった。いわき明星大の震災アーカイブ室に籍を置く客員研究員の若い女性Kさんがわが家へやって来た。震災直後の3月15日から23日まで、当時4歳と2歳の孫を案じて、家族で原発避難をした。避難先での食事や避難者の様子などをカミサンがメモ帳に記録していた。それを借りに来た。その同行取材だった。
 全国紙の文化部が、4年たった東日本大震災をどう取り上げるのか、興味があった。3月9日から3回にわたって、文化欄で「被災経験の共有と継承に向けて、“声”をつなごうとする文化各界の試み」を紹介した。

「復興が進む中で、かき消されそうな小さな声に心を寄せ、書きとめる人々がいる。多様な個の経験を記録・表現し、将来に史料を渡そうとする地道な努力も続いている」。いかにも文化欄らしい、いい前文ではないか。

 <上>では小説「想像ラジオ」のいとうせいこうさん、南相馬市のFMラジオに番組を持っている作家柳美里さん、宮城県在住の俳人高野ムツオさんを。<中>は原発事故に焦点を当て、映画「フタバから遠く離れて」の監督舩橋淳さん、漫画「いちえふ」の竜田一人さんをとりあげた。

 11日の<下>=写真=では、市民の撮った写真、メモ、証言などの収集・保存・公開活動を続けている東松島市立図書館の副館長氏、いわき明星大のKさんを取り上げた。(上・中・下=文学・映像・学術という切り口だったようだ)

 <下>のなかに、Kさんがカミサンから「ようやく信頼してもらえた」という一文があった。私ら夫婦がKさんに出会ったのは震災の年の暮れ、東京で、だ。いわきで初めて国内支援に入った国際NGO「シャプラニール」のスタッフが、いわきの人間に話を聞くイベントを企画した。

 津波被害に遭った平・豊間の友人と3人で出かけた。大学院生のKさんがそのイベントに参加していた。それからシャプラがらみのツアーでいわきへ来たり、指導教授らといわきへ調査に入ったりした。そのたびに会っている。その彼女がいわき明星大の客員研究員になったのだから、協力しないわけがない。「ようやく」ではなく、「最初から信頼している」のだ。

 取材の終わりに、「震災の年からのつきあいなんだよ」ということを記者氏には伝えた。それを忘れて、別の例と混同してしまったのだろうか。Kさんもあとでカミサンに電話をよこした。「『ようやく』ではないのに、すみません」。取材された側が首をかしげる表現が1カ所あったので、80点ぐらいつけたかったが、10点マイナスして70点だな、これは――と思った。

2015年3月13日金曜日

事故のあと

 わが家の前の道路でときどき交通事故が起きる。2月19日朝には、車が正面衝突をした。はずみで車は尻を振られ、縁石をまたいで180度近く向きを変えて止まった。1台は隣家のブロック塀にも接触した。塀の角が壊れ、鉄製の門扉がずれた。3週間たった今も改修工事が続く。
 わが家の隣にコインランドリーがある。斜め向かいに郵便局がある。車の出入りが多い。ランドリーから出ようとした車が反対側の歩道に突っ込んだり、郵便局から出ようとした車がこちら側の歩道を暴走したり……。2月の正面衝突の事故のあとは、郵便局に隣接する民家の生け垣に車が突っ込んだ=写真。アクセルとブレーキを踏み間違えたのだろう。

 きのう(3月12日)の早朝6時すぎ、家の前のごみ集積所にカラス除けのネットを張ろうとしたら、隣家から水が激しく歩道に流れだしていた。これは大変! チャイムを押したが、反応がない。カミサンが電話をかけても出ない。玄関先の様子を留守電に吹き込むと、すぐかかってきた。警戒して出ないのはいいが、これでは緊急事態に間に合わない。
 
 隣家では、もらい事故のあと塀を改修した。引き続き門扉の改修が始まり、水道の古い塩ビ管がむき出しになった。前夜は、異常はなかったという。それが早朝、ゴンゴンとわくように漏水が起きた。凍結・破損?はちょっと考えられない。
 
 すぐ業者が呼ばれて地面の量水器のふたを開け、栓を止めると漏水がやんだ。早くそれに気づけば私でも水を止められたのに……。これも交通事故の後遺症にはちがいない。

 同じ日の正午すぎ、ネギを買いに道の駅よつくら港へ出かけた。国道6号へ出ると、路面に派手なマークが施されていた。ひょろ長い赤地に白く「追突注意」とある。センターラインと路側帯の内側には破線。いやはや1ケタ国道なのに、道幅が生活道路並みに狭まった印象だ。いずれグーグルアースでも「追突注意」の字が見えるのではないか。
 
 赤色だけ帯状に塗られたところもある。何日か前に通ったときにはなかったから、塗装作業は始まったばかりなのだろう。
 
 いわきの道路は3・11以来、相双地区からの避難者、原発事故収束、除染のための車などが加わって、交通量が増えた。特に、北部の国道6号は朝晩、ラッシュになる。路面に「追突注意」と大書しないといけなくなった、ということでもある。

2015年3月12日木曜日

アッ、手帳が!

 きのう(3月11日)は午後2時46分から、政府主催の追悼式を生中継するテレビに合わせて黙祷したあと、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけた。
 半月に一度のペースでわが家の生ごみバケツが満パイになる。それを隠居へ持って行き、庭の一角の菜園か堆肥枠のなかに穴を掘って空ける。2月22日以降、3月1日、8日と2回、日曜日がきたが、街で用事があって隠居へは行けなかった。バケツが生ごみであふれるほどになった。

 前回埋めた隣に穴を、次はまたその隣に穴を――と順繰りに掘って埋めていけば、菜園全体の土が肥えていく。ところが、邪魔者がいた。ハクビシンかタヌキかは不明だが、埋めた生ごみをほじくりかえす。2月初旬に埋めた生ごみがほじくりかえされていた。

 4年前の3月11日、渓谷では各所で落石が起きた。幹線道路もしばらく通行止めになった。その2日前、9日に生ごみを埋めに行った。正午近く、大地が揺れた。最初は静かにカタカタ、やがてガタガタと大きく揺れた。ラジオが津波に注意するよう呼びかけた。(それが3・11の前兆だったとは)

 そんなことを思い出しながら、近くの小流れでバケツを洗った。小流れは9日夜半から10日未明に降った雨の影響でふだんより水量が多かった。落ち葉でバケツの内側をごしごしやっていたら、アッ! ジャンパーの内ポケットから手帳が小流れに落ちた。慌てて引きあげた。

 急いで隠居へ戻り、中身を点検する。財布を持っていないので、手帳の革カバーの内側に紙幣や名刺、カードをはさんでいる。すべて取り出し、濡れているものは布でふき、電気カーペットの上に並べた=写真。石油ヒーターのそばにもいくつか並べた。

 うーん、困った。どのくらいカネを持っているかは、本人以外は知らない。けたの大きい紙幣も、ふだんより1、2枚多かった。それは一番下にあって、ほんの少し濡れただけですんだので、こたつの中で乾かした。

 あの日を思い出して気が重くなった。うまいものでも食べて軽くするか。ステーキは?――なんて思った矢先のポチャンだった。大事なものを水に流さなくてよかった。

2015年3月11日水曜日

渓谷のフキノトウ

 夏井川渓谷の隠居には、石垣で土留めをした庭の下に庭(空き地)がある。一画にフキが群生している。早いときには、師走のうちにフキノトウが出る。正月、みじんにした葉を雑煮に散らす。今年は2月下旬になってやっと頭を出した=写真。厳冬ではなかったはずだが、落ち葉に隠れて見えなかった。さっそくみそ汁に散らして春の土の味を楽しんだ。
 東日本大震災からきょう(3月11日)で丸4年、つまり5年目の始まりでもある。3・11は、個人的にはもちろんだが、日本人あるいは人類にとっても大きな災禍だった。震災翌年の年賀状には「原発震災紀元2年=2012年」と記した。以後、数字を更新している。

 その意味では元日と3月11日の2回、「あのとき」からの時間の流れを振り返る。まずは自分のこと、夫婦のこと、家族のことが走馬灯のように頭の中を巡る。
 
 わが家は「大規模半壊」に近い「半壊」だった。制度を利用して多少は改修したが、亀裂の入ったコンクリートの基礎までは直せなかった。家の前の道路にへこみができているので、大型車が通るたびに家が揺れる。一度、へこみにアスファルトを盛ってもらった。
 
 そこがまたへこんだので、昨年(2014年)5月、行政区内の要改修個所と合わせて市に要望したが、いまだに改善されない。先日、確認に行ったら、「要望件数が多いので」ということだった。
 
 夏井川渓谷にある隠居も無傷ではなかった。庭が全面除染の対象になり、表土がはぎとられたあとに山砂が敷き詰められた。石垣が一部、地震で崩れた。ブルーシートをかぶせたままにしてある。そのシートも、ボロボロになってきた。かといって、自力で石を積み直すウデも、カネもない。
 
 新しいブルーシートをかぶせて、庭の砂の流出を抑えるしかないか――フキノトウを探しながらも、目の隅には絶えず崩れた石垣が映っている。

同じように軽微な被害のために、復旧のめどを立てられないものがあちこちにあるのではないだろうか。

2015年3月10日火曜日

ハクチョウ、北へ

 今季の白鳥ウオッチングも、そろそろ終わりのようだ。きのう(3月9日)の夕方、夏井川最下流の越冬地(平・塩地内)を見ると、10羽前後に減っていた。ピーク時にはここだけで300羽以上も飛来し、人がえさを持って現れるとわれ先に群がった=写真。
 土曜日(3月7日)、小川の丘の上にある草野心平記念文学館を訪ねた。その行き帰りに、小川・三島と平・中平窪の2カ所の越冬地を橋の上からチラ見した。数が激減していた。

 塩のハクチョウは例年、3月下旬に北へ飛び立つ。東日本大震災が起きた4年前だけは、3月11日、一斉に姿を消した。大津波が川をさかのぼり、ハクチョウの越冬地にまで到達した。驚き、おののいて空へ避難した。そのまま戻ってこなかったと、今は彼岸にいる「白鳥おじさん」に教えられた。

 おや、早くないか――。そう思ったのは3週間前だった。ある日、一気に数が減っていた。ほかの越冬地では、そんなに変化はなかった。だれかがいたずらでもしたのではないか。最初はそう思ったが、数は減ったまま。やはり早く北帰行が始まったのだ。

 昔、読んだ本に、地球温暖化が進むと、冬は「西高東低」の気圧配置が「北高南低」型に変わる、そんなことが書いてあったように記憶している。きょうは北西に高気圧、その東側の北と南に低気圧が位置して冬型になり、天気は大荒れだという。「北高南低」という言葉を思い出した。

 温暖化の影響か、このごろの天気は凶暴化している。北極圏の氷も解けだしている。繁殖地の近くに冬も緑があれば、ハクチョウだって無理して南下してくる必要はなくなる――なんて、朝から妄想がふくらんだ。

2015年3月9日月曜日

3・11イベント

 週末(3月7、8日)に追悼と復興のイベントが集中した。3・11から丸4年。いわき市だけでも、市主催「追悼の祈りと復興の誓い」(8日=アリオス)のほか、「久之浜・大久追悼花供養」(8日)、「なこその希望2015~4年目の祈り」(7、8日)などが行われた。内陸の小川では「『復興』小川の郷・食の祭典」(8日)も。
 7日に草野心平記念文学館の事業懇談会に出席し、8日には2日間開催の内郷公民館まつり公開講座(市内郷支所で開催)=写真=のうち、最後の講座を受け持った。講座がなければ、夏井川渓谷の隠居へ出かけ、ついでに小川の食の祭典をのぞいていたかもしれない。
 
 毎日が日曜日のようでもあり、金曜日のようでもある身にも、土・日は休みたい。なにもなければ日曜日に渓谷の隠居にこもるのは、「オヤジ」から「19歳の老少年」に戻りたいからだ。それで長年、バランスを保ってきたようなところがある。
 
「公民館まつり」の講座でおしゃべりをしたあと、カミサンを拾うため、交流スペース「ぶらっと」へ寄った。東京のYさんからの差し入れがあった。あとでフェイスブックを見たら、久之浜の花供養へやって来たのだった。Yさんは3・11後、いわきその他被災地のリピーターになった。イベントがあると来てくれる。なくても来てくれる――ありがたいことだ。

 そのあと、市立美術館へ市民美術展(陶芸・写真の部)を見に行った。わが行政区の役員をしている女性が、陶器の部でトップ3の1人に入った。かたちが面白い。駐車場へ戻ると、向かいのアリオスからの帰りだという後輩(いわきハワイ交流協会長)に会った。「追悼の祈りと復興の誓い」でハワイからの「贈歌」(おくりうた)が披露されたというから、その関係で出席したのだろう。

 みんなが参加しやすいよう、週末にイベントが集中する。参加できる人、時間がなくてできない人、それどころではない人、それぞれの思いで3・11を迎える。きょう(3月9日)は、午前中は回覧物の振り分けをし、午後は確定申告へ。自分の日曜日(休み)は、あしたとろう。

2015年3月8日日曜日

「3・11といわきの俳人」展

 きのう(3月7日)午後、いわき市立草野心平記念文学館で事業懇談会が開かれた。その前と後に、館内のアートパフォーミングスペースで「3・11といわきの俳人」展を見た。
 大震災をきっかけに始まった全国文学館協議会の共同展示「3・11文学館からのメッセージ」の一環で、3回目の今年、心平記念文学館は昨年(2014年)の「詩・短歌」に続いて「俳句」に焦点を当てた。

 いわき市には「浜通り俳句協会」(結城良一会長)という、レベルの高い、結社をこえた俳句団体がある。季刊の句誌「浜通り」を発行している。震災直後の2011年140号(5月)から震災俳句が載り、次の141号(8月)で特集が始まった。今も特集が続く。
 
 文学館の展示スペースには1人2句、24人の48句が円形の壁面に特製短冊で掲げられた=写真。「走馬灯」は外からくるくる回るのを見るものだが、それを内側から見るような感覚に襲われた。人間が逆に円を描くように巡る。と、短冊の描く「風景」が次々に現れる。
 
 その句誌に毎回寄稿しているので、震災俳句の流れをつぶさに見てきた。発災直後は、未曽有の大災害を俳句は受け止めきれていない、五七五では物足りない、という思いを抱いた。プラス七七があるだけ、短歌の方が共感できる、と感じたものだった。
 
 今はどうか。丸4年が過ぎて、受け止め方が変わってきた。いかにも俳句が描く「風景」として受け入れられるようになっていた。当時は、こちらの内面がふだんの何倍もの「癒し」を俳句に求めていたのだろう。求めすぎていたのだろう。
 
 沿岸部の大津波と原発事故の惨状を、今は被災者・避難者として知っている。それが、やっと震災俳句に対する共感となって現れたような感じだ。自分の好みの句を記す。
 
  津波跡見てより帰省子もの言はず  青木燁子
  南無彼岸父祖の墓石ぶつ倒れ    武川一夫(故人)
  夜の森のだあれもゐないさくらかな 田崎武夫
  ほれぼれと眺めて棄てる茸かな   長岡由
  活断層地帯びつしり山ざくら    結城良一
  原発の冬は棄郷者増すばかり    渡辺ふみ夫
  原子炉へ夜業の人のバスが出る   笠間杏
  
 48句の中に「フクシマ忌」はない。震災と原発事故に遭遇した福島県浜通りに位置する文学館としての、静かだが強いメッセージである。

2015年3月7日土曜日

「お帰り、ときわ」

 JR常磐線に1週間後の3月14日、上野東京ラインが開業する。これまで上野駅止まりだった特急が、一部、品川駅発着になり、東京駅にも止まる。特急の名称も「スーパーひたち」「フレッシュひたち」から「ひたち」「ときわ」に変わる。
「ときわ」は30年ぶりの復活だ。きのう(3月6日)のいわき民報「あの日、あのとき いわきアーカイブ」に、30年前の「ときわ」ラストランの記事が載っていた。それを紹介する文章の始まり。<「さよなら」を言わなかったのは復活を知ってか>。そして、しめくくり。<「お帰り、ときわ号」>。いわき市民のおおかたの思いだろう。

「ひたち」は茨城の旧国名「常陸」から、「ときわ」は隣り合う「常陸」と「磐城」の両国を指す「常磐(ときわ)」からきている。常磐線そのものが鉄路の「常磐路(ときわじ)」だ。

 阿武隈の山の町「ときわ(常葉)」で生まれ育ったので、地名や人名、社名などに「常葉」「常盤」「常磐」「ときわ」「トキワ」がつくと、ひとまず記憶にとどめる。近年では、硬式野球の「常葉(とこは)学園菊川高校」(静岡県)が新たに加わった。

 同級生たちと台湾旅行をした際、いわき~上野駅を「ひたち」で往復した。新しい「ひたち」と「ときわ」の「座席未指定券」が話題になった。車内にあったパンフレット=写真=を読んで、概略は頭に入ったが、いまひとつ体験しないとわからない。

「乗車時刻が決まっていない場合などに便利で、乗車する列車が決まったら、後から座席指定を受けることも可能です」。台湾からの帰りに上野駅で切符を買ってすぐ乗るか、次の「ひたち」にするかで迷った。

 帰る日ははっきりしている、乗車時間だけが決まっていない。あるいは、前の特急で帰るつもりが会議で遅くなる、次の特急にしよう――そんなときにあらかじめ「座席未指定券」を買っておけば安心、ということか。

 常磐線は、竜田~原ノ町駅間46キロ、相馬~浜吉田駅間12.6キロの区間が、大津波と原発事故のために不通になっている。早い運行再開が待たれる。そういえば、震災の前年、春分の日を利用して松島で同級会を開いて以後、宮城県へは足を運んでいない。急に「仙台方面で集まりを」という気分になってきた。

2015年3月6日金曜日

脱原発都市宣言

 各自治体で新年度の予算案を審議する議会が開かれている。南相馬市長が市議会3月定例会冒頭の提案説明で、「脱原発都市宣言」をすることを表明した、という新聞記事を読んで、いわき市の「非核平和都市宣言」を思い出した。
 昭和61(1986)年3月、いわき市は「非核平和都市」を宣言する。市民有志が中心になって短期間に6万人近い署名を集め、市議会に請願したところ、全会一致で採択された。それを受けての自治体宣言だった。幹線道路である国道6号の南北の市境と、同49号の平田村との境に「非核平和宣言都市」の塔が立つ=写真。

 なぜ南相馬市が「脱原発都市宣言」を? ネットで経緯をチェックした。同市の復興総合計画に盛り込まれた「まちづくりの目標」のひとつに、「原発事故を克服し、誰もが安全・安心に暮らせるまち」がある。それに基づく宣言だろう。具体的には、15年後の2030年までに市内で使う電力をすべて再生可能エネルギーでまかなう、というものだ。
 
 市議会12月定例会で「脱原発都市宣言」について質問した議員がいる。その答えは「3月議会を目標に議会と協議していく」だった。

 いわき市の「非核平和都市宣言」は戦後40年が契機になった。南相馬市の「脱原発都市宣言」はたまたま戦後70年の節目と重なる。両市の間に双葉郡が位置する。大熊・双葉町にまたがる1Fを、楢葉・富岡町にまたがる2Fを、「非核」と「脱原発」の都市がにらむ、という図か浮かぶ。

2015年3月5日木曜日

防火パレード

 わが行政区では、3月最後の日曜日に総会が開かれる。そのためには、今ごろから資料づくりが始まる。どの団体も同じだが、前年度の事業報告・決算、新年度の事業計画・予算のほかに、2年任期の役員を決めないといけない。
 この役員選びが難しい。現実には1年中、役員になってくれる人を探しているようなものだが、最初はまず断られる。そこから前区長に後押しをお願いしたりして、酒抜きの交渉が始まる。今のところ、1勝1敗だ。「今期限り」を表明している役員さんの後任を含めると、あと3人。どうやって見つければいいのか――脳みそが重しを受けて水の切れた豆腐になりそうだ。
 
 3月最初の日曜日(3月1日)、いわき明星大で開かれた公開講演会「はまどおりのきおく3」の前半を聞いたあと、帰宅して、「役員に」と考えていた人の家を前区長とともに訪ねた。粘ること30分。OKをもらった。「きょうの酒はうまい」。いい気分になったのも、半日だけだった。翌朝、断りの電話が入った。

 その晩、孫の母親から電話がかかってきた。「あした、保育園で防火パレードがある」という。

 ちょっと早めに行くと、パレードに出発するところだった。孫がこちらに気づいて、にこっとしながら手を挙げる。カメラのシャッターを押す。ん? 音がしない。メモリーカードが入っていなかった。「取りに行ってきな」。カミサンに言われて、行って戻ると間もなく、子どもたちがパレードを終えて保育園に戻ってきた=写真。
 
 このごろの一日の流れをいえば、行政区のこと、4月からの学生相手の話のことで頭がいっぱいだ。孫たちの防火パレードは、その合間のいい気分転換になった。

2015年3月4日水曜日

「原発避難のいま」

 日曜日(3月1日)にいわき明星大で、公開講演会「はまどおりのきおく3 原発避難のいま」が開かれた。企画・準備を進めた同大震災アーカイブ室のスタッフに知り合いがいて、応援を兼ねて出かけた。
 講師はNPO法人「浅見川ゆめ会議」事務局長賀沢正、「富岡インサイド/相双ボランティア」主宰平山勉、「いわき・まごころ双葉会」事務局長大橋庸一さんの3人。

 双葉町の大橋さんに覚えがあった。国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が震災後、いわきに交流サロン「ぶらっと」を開設した。いわき駅前のラトブから始まり、イトーヨーカドー平店を経て、今はスカイストアに間借りしている。ヨーカドーのころ、スタッフに大橋さんを紹介された。そのあとは会っていないので、すっかり忘れていた。

 賀沢さんは震災時、広野町の職員だった。広野町が原発避難をした経緯を話した。今、取り組んでいるNPOの活動にも触れた。平山さんは富岡町の人で、自分たちが行っている活動を報告した。富岡には引っ越し業者が入らない、レンタカーも断られる――ボランティア団体がそれを代行している、ということだった。

 大橋さんの話はコミュニティーの消滅・再生にかかわることだった。事故を起こした1Fのすぐ近く、「細谷行政区」の区長だった。

 3・11当日の夜から避難を始め、今はいわき市の借り上げ住宅に住む。半年をかけて避難区民の消息を確かめた。ハワイアンズのフラガールリーダー・モアナ梨江さんも細谷の出身だ。ハワイアンズで細谷区民の交流会を開いたとき、彼女もサプライズで記念撮影に加わった。いわきでは、孤立しやすい借り上げ入居者を主に、双葉町民のコミュニティー再生のために奮闘している。

 帰還困難区域のふるさとは中間貯蔵施設の予定地になっている、という。ふるさとへ帰れる日はくるのだろうか。

 大橋さんが講演中に紹介した写真のうち、2枚に自作の俳句、短歌が挿入されていた。一時帰宅時にジャングルのように茂った庭木のありようを見て詠んだ「緑なす我が家は遠く遥かなり」=写真=と、わが家から西にそびえる山と向き合って詠んだ「帰宅時に凛とたたずむ阿武隈の嶺なつかしく時間(とき)が流れる」。温顔の内側にこもる叫びがあふれでてくるようだった

2015年3月3日火曜日

米原万里の父といわき

 カミサンが雑誌「ユリイカ」を買ってきた。米原万里(1950~2006年)を特集している。2014年4月発行で「第6刷」とあるから、結構売れたらしい。

 佐藤優さんの「米原万里さんの上からの介入」に、<米原さんは「父と母が唯物論者だったんで、私も唯物論者として死にたい」と何度も述べていた>ことが紹介されている。父親は共産党の元衆議院議員米原昶(いたる=1909~1982年)だ。

 草野心平記念文学館で昨年(2014年)10月4日から12月23日まで、「米原万里展 ロシア語通訳から作家へ」が開かれた。10月12日に妹の井上ユリさん(故井上ひさし夫人)のギャラリートークが行われた=写真。ユリさんはこのなかで、父の親友「いわきの日野さん」のことに触れた。

 後日、文学館の学芸員嬢に会ったとき、「『いわきの日野さん』は常磐の詩人の日野利春か」と聞くと、「内郷の日野さん」だという。さらに後日、いわき地方の左翼運動に詳しい友人に聞いて疑問が解けた。「いわきの日野さん」は内郷駅前で運送業を営んでいた。

 最近、「炭鉱と文学」というテーマを与えられたので、内郷がらみの資料をあさっていたら、『磐城通運三十年の歩み』(昭和49年刊)に出合った。戦時中、各駅の運送店が「磐城通運」に一本化される。JR常磐線内郷駅は当時、綴(つづら)駅といった。『三十年の歩み』に「綴駅日野運送店」の章があった。万里の父親の親友と思われる人物・日野定利が出てくる。

 定利は旧制磐城中、一高、東大とエリートコースを歩んだ資産家の一人息子だ。ひとかどの思想家として成長したが、一般労働者には受け入れられなかった。が、友情には篤かった――とある。万里の父親は鳥取中から一高へ進み、学生運動に熱中して放校処分を受ける。2人は一高時代に知り合ったか。

 万里本人と直接関係はないにしても、「唯物論」のお手本でもある父親の交友関係、ネットワークを知ることでそれぞれの内面を推測することができる、「米原万里」理解も深まる、なんて都合よく解釈している。

2015年3月2日月曜日

パチンコのみやげ

 原発避難中の老夫婦が近所に住む。ときどきコンビニあたりで売っている「バタピー」などの乾き物が届く。ありがたくちょうだいして、酒のつまみにしていた。土曜日(2月28日)の宵、晩酌中にドサッとつまみが届いた=写真。ジイさんのパチンコのみやげだという。「エエ―!」。景品だったのか。
 ジイさんは毎日、「学校」(パチンコ店)へ行く。「授業(料)」の結果をノートに記しているらしい。負けるときも当然ある。が、ノートを見た人間の話では、勝った日が多いようだ。研究熱心なのだろう。

「避難者はパチンコばかりして」という話をよく聞く。みんながみんな、パチンコをしているわけではない。ただ、ジイさんを見ていると、「パチンコに行くしかないのだろうなぁ」とは思う。
 
 双葉郡から会津へ避難したあと、いわきへ移ってきた。アパートで会津の夏の暑さを体験した。背中が焼ける思いだった。冬にはどっさり雪が降る。そうなる前に、ふるさとに近いいわきに借り上げ住宅を見つけた。
 
 空き家になっている大家の庭にまで花壇をつくるほど土いじりに熱中した。それが、大家を刺激した。元に戻すように――といわれてやることがなくなった。
 
 双葉郡の人たちは3・11後、家とふるさとを追われ、「当たり前」の日常とは異なる「非日常」を日常として暮らすしかなくなった。
 
 それから間もなく丸4年、つまり5年目に入る。時間が癒してくれるものもあれば、切り刻むものもある。希望をえがくマスメディアには見えない、ニュースにはならない個々人の内面の葛藤、これがより複雑なものになってきたのではないか。
 
 いわきにマイホームを建設した人、県外へ新天地を求めた人、いったん県外に去りながらふるさとへ戻った人、一時は別居を考えた人……。たまたま知り合った人たちの、それぞれの事情に触れて、喜んだり思い沈んだりする。バタピーだって、甘いときもあれば苦いときもある

2015年3月1日日曜日

漫画『いちえふ(2)』

 竜田一人さんの漫画『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(2)』=写真=を読んだ。1巻は去年(2014年)の4月下旬に発売された。発売からちょっとたったあと、カミサンが東京へ用があったときに東京駅の書店で買った。2巻は、新聞広告が載るとすぐ、私が街へ用があったついでにラトブの本屋で買った。
 いわきは震災に伴う原発事故の収束作業、双葉郡・いわきの除染作業のベースキャンプ地だ。いわきに住んでいる人間は、今、1F(いちえふ)がどうなっているのか、いちいち口に出してはいわないが、胸中、絶えず気になっている。身近な人間が作業に加わっている、という人も少なくない。傍観者ではいられないのだ。

 家族、親類、友人、知人が1Fでどんな作業をしているのか。漫画はその「現実」を「見える化」した。本の帯に「(作者が)その目で見てきた『福島の現在』」とある。1Fの「現在」、いわき・相双、つまり浜通りの「現在」、国道6号の「現在」……が描かれる。

 いわきの「現在」では、塩屋埼灯台、パチンコ店、バー・クイーン、銭湯、仮設住宅などが登場する。

 作業員をピックアップする場所が、わが家から車で3分ほどのパチンコ店だった。外観は多少、デフォルメ(変形)してある。休みの日に、いわきにある双葉町の仮設住宅を慰問して歌謡曲を披露する。仮設のサポートセンターを仮名にしているが、NPO関係者などは実名称がすぐ思い浮かぶだろう。1巻のときにも感じたことだが、漫画の基調はリアリズムだ。

 第11話「ギターを持った作業員」に登場する歌謡曲は「兄弟船」と「みだれ髪」。岡本敦郎が歌った「高原列車は行く」も出てくる。こちらは作詞・丘灯至夫、作曲・古関裕而の福島県出身コンビだ。個人的なことだが、飲み会でカラオケのマイクが回ってくると、これをうたってあとは勘弁してもらう。このコマだけで作者の人間性がわかった、ように思えた。