2015年3月21日土曜日

磐城飛行場跡地

 きのう(3月20日)の続き――。70年前の太平洋戦争末期、米軍戦闘機が大熊町の「磐城飛行場」を爆撃する映像を、テレビの特別番組で見た。戦闘機備え付けのガンカメラがとらえた。跡地はそれから30年近くたって、東電の原子力発電所になる。あの1F(いちえふ)だ。番組では、1F・東電展望台のそばにある「磐城飛行場跡記念碑」も取り上げた=写真。
 ネットに碑文がアップされていた。原文は文語体だ。福島民報社の『福島と原発』(早稲田大学出版会、2013年)を参照・加味しながら、口語体で経緯を整理してみた。

 そこは太平洋の波が洗う約30メートルの絶壁の上の「長者原」。昭和15年4月、国家の至上命令で陸軍飛行場が建設された。農家11戸が移転し、請負業者のほか町内外の青年団、消防団、学徒などが半ば強制的に工事に動員された。

 昭和17(1942)年早春、宇都宮飛行学校磐城分校が発足し、同20年2月、磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立する。いわゆる「特攻」の訓練基地である。そのため、終戦間際の8月9、10日、米軍空母艦載機の大空襲に遭い、施設が破壊された。周辺にも被害が及んだ。

 戦後の昭和23年には、日本国土計画が中部以北を塩田化し、海水水揚げ天日式で製塩した。塩田以外は旧地主に払い下げられ、農家が散在する松山に変わった。その地が東電の原発候補地になり、やがて1Fが建設される。

『福島と原発』に、「東電は『県が挙げている候補地で、原発の運転に必要な地下水が出るなら立地を考えてもいい』と返答した」というくだりある。地下水がなぜ必要なのか、という具体的な記述は残念ながらなかった。冷却水としてか、巨大建造物としての1Fの地盤沈下を地下水の力で防ぐためか、それともなにか別の理由があってのことか。

 いずれにしても、海から冷却水を取水するために台地は削られ、過酷事故のあとは豊富な地下水に悪戦苦闘を強いられている。

 きょう(3月21日)は朝食後、すぐ出かける。常磐道を利用して常磐富岡ICまで北上し、震災後初めて、富岡町の先、大熊町の県道いわき浪江線(山麓線)に入る。その突き当たり、国道288号から西に向かい、田村市の実家へ帰る。3・11前とは景観が違って見えるかもしれない。

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