2015年4月30日木曜日

「撮り鉄」をしてみた

「川前のカツラ」を見に行ったら、ひらめいた。日曜日(4月26日)、午後1時半。谷間をJR磐越東線の気動車(ディーゼルカー)が通る時間が近づいている。
 川前町から小川町にかけて続く夏井川渓谷には、小集落が点在する。下流から江田・椚平・牛小川、そして川前のいくつかの集落。宇根尻はカツラの巨樹がある川前駅前の集落から上流へ向かって最初に出合う集落だ。V字谷のなかでも開けたところで、田畑の間を線路が走っている。並行する道路沿いには家並みがあり、花が咲いている。

 その集落と田畑の間を走る2両編成の気動車を写真に撮りたい――前々から思っていたことを実行するチャンスだ。

 宇根尻踏切のそばに立つと、休耕田らしいところに菜の花がびっしり咲いているのが見えた。川べりの農道を進んで菜の花畑に近づく。と、さらに用水路のわきにスイセンの花が咲いている。前景にスイセン、中景に菜の花、その奥に気動車と集落――という構図を決めた。

 磐東線の午後一番の列車はいわき発郡山行きの下りで、わが隠居のある牛小川を午後1時35分ごろに通過する。それから加算すると、川前駅をたち、宇根尻集落を通過するのは同1時45分ごろだ。

 宇根尻踏切の警報機が鳴りだしたのでカメラを構えたら、現れたのはなんと山から下って来た上りの列車ではないか=写真。あとで時刻表を見たが、13時台の上り列車は平日も日曜日もない。臨時列車だろうか。目当ての下り列車ではなかったが、思いえがいた構図のなかでまずは列車を撮ることができた。

 これまでに「撮り鉄」をしたのは何回もない。磐東線をSLが走ったとき。そして、宇根尻からさらに上流の棚木に、夏井川をまたぐ“空中鉄橋”がある。そこを渡る列車を、小高い丘の墓地から撮影した。磐東線のダイヤが頭に入っているからこそ、通りがかったときにたまたま「撮り鉄」になったにすぎない。

 列車の本数が少ない。乗客も少ない。2両編成の気動車が谷間を必死になって駆け抜ける。ローカルだからこそ味わえる、あったかな光景だと思っている。

2015年4月29日水曜日

川前のカツラ

 日曜日(4月26日)は、夏井川渓谷の隠居で過ごした。午後、思いたって「川前のカツラ」を見に行った。4月下旬とはいえ、初夏のような暑さだ。
 隠居から車で駆け上がること、およそ10分。JR磐越東線川前駅近く、一筋の集落を貫く川の岸辺にカツラの巨樹が立っている。十数本が株立ちしているが、元は1本の木だ。

 春に、葉に先駆けて花が咲く。花はすでに散り、淡い緑の葉を全身にまとっていた=写真。インターネットでチェックしたら、花はフサザクラのように糸状で、房になる。色はピンク。いつも4月前半はアカヤシオ(イワツツジ)に心を奪われ、同じ時期に咲くカツラの花を忘れている。今年もそうだった。

 葉を落とした冬のカツラは、根元がごつごつとしている。初めて冬のカツラを見たとき、巨樹だけが放つ生命力に圧倒された。緑をまとった今は、根元の岸辺が緑のじゅうたんに覆われ、ニリンソウの白い花が群れ咲いていた。

 いわき市の保存樹木に田人町旅人字和再松木平のカツラがある。高さは11.7メートル、株立ちした幹回りは3.5メートル。「川前のカツラ」は「田人のカツラ」より大きいのではないか。保存樹木にも、市の天然記念物にもなっていない、知る人ぞ知る巨樹――見るだけで元気がわいてくる。

 隠居へ戻ると、中学校の同級生(大工)がカミサンと話していた。私と同じ神谷に住む。わが家からは歩いて5分、途中に田んぼがあったが、この4年間で宅地に変わった。

 同級生も初夏のような陽気に誘われ、奥さんと娘さんを伴って山中のレストランへ食事に出かけ、その足で渓谷へやって来た。渓谷はすでに淡い緑、濃い緑、深緑、黄緑と、さまざまな色調の緑に染まっている。花もアカヤシオからトウゴクミツバツツジ、ヤマツツジに移った。

 前に、同級生に頼んで隠居の台所を拡張し、濡れ縁を広げた。その濡れ縁に座り、対岸の緑を眺めながら雑談した。パソコン画面と違って、天然の緑は見続けても疲れない。あきない。いや、逆に眼精の疲労がとれていく。「目には青葉」、なかでも阿武隈の雑木山が一番美しく輝く時節を迎えた。

2015年4月28日火曜日

続・ネパール大地震

 インド料理の店「マユール」のオーナーシェフはネパールの出身。きのう(4月27日)朝、奥さんからコメの注文があったので、カミサンがネパールの様子を聞いたら、ご主人がたまたまネパールに帰国していて大地震に遭遇し、けがをしたという。
 ご主人はインドで行われた結婚式に出席し、その足でネパールへ帰った。「きょう、日本へ戻ってくる」ということだったから、もう帰宅したことだろう。

「マユール」は、月曜日が定休日。奥さんの話を聞くことはできなかったが、電話では「店に箱を置いて義援金を募りたい。それをシャプラニールに届けたい」ということだった。新聞が写真で惨状を特集している=写真。きのうも書いたが、ヒトゴトではない。

 国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」は、主にバングラデシュ、ネパールで「取り残された人々」の支援活動を展開している。駐在員もいる。3・11後、いわき市に交流スペース「ぶらっと」を開設した。今度の大地震でも緊急支援活動を始めた。

 きのう、マユールにコメを届けたあと、新舞子海岸経由で道の駅よつくら港へ行き、野菜や漬物などを買った。わが家にとっては食べ物を調達できる「スーパー」のひとつだ。

「マユール」は新舞子海岸にあった。あの日、大津波に襲われた。建物の骨格は残ったものの、店内は破壊された。幸い人的被害はなかった。その後、奥さんの実家の一角に店をつくり、営業を再開した。

その「津波遺構」が、きのう見たら消えて更地になっていた。道の駅も同じように津波に襲われたが、今はにぎわいが戻っている。いや、3・11前より繁昌している(と思う)。

 そうだ、いわき市の東日本国際大にもネパールからの留学生がいる。3・11後、ホームビジットでネパールの青年を受け入れたことがある。シャプラの活動、ホームビジットを通じて、少しはネパールが「近い国」になっていた。

 けさ、フエイスブックでシャプラのネパール駐在員の現地レポートを読んだ。「病院にけが人があふれている」「今も突き上げるような余震がある」。ニュースでも、死者は4000人以上と、日を追うごとに増えている。3・11と同じではないか――そんな思いが募った。

2015年4月27日月曜日

ネパール大地震

「シャプラニール=市民による海外協力の会」は、主にバングラデシュ、ネパールで「取り残された人々」のための支援活動を展開している。3・11後は初めて国内支援に入り、現在もいわき市で交流スペース「ぶらっと」を運営している。
 最初期のいわき駐在スタッフに、元ネパール駐在員がいた。大震災直後、バングラやネパールからも支援の手が差し伸べられ、「ぶらっと」にも応援のはがきが届いた。

 バングラデシュがサイクロンによる高潮被害で多くの死者が出たときには、シャプラはいち早く救援活動を展開した。

 土曜日(4月25日)にネパールで大地震が発生した。「2500人以上死亡」。時間がたつごとに死者の数が増えている=写真(4月27日早朝のNHK)。シャプラは今回もすぐ救援活動に入る旨、Eメールやフェイスブックで知らせをよこした。まずは医薬品、ビニールシーツを現地のNGOに届けるという。

 シャプラがいわきで活動していることで、たとえばある小学校では3学期の国際理解の時間にスタッフを招き、6年生がバングラやネパールの児童労働問題などの話を聞いている。3・11を経験してみれば、どこか遠い国の地震のニュースではない。シャプラ・ぶらっと・いわき・ネパール――と連想が及ぶ人もいるだろう。

 その日、日本時間の午後3時11分ごろ――といえば、いわき地域学會がいわき市文化センターで総会・記念講演会を開いていたときだ。地学の大槻憲四郎東北大名誉教授が「3・11巨大地震といわき大地震」をテーマに話した。

 あとで資料を読み返したら、地球上の震源の分布図が載っていた。大陸では「インドが衝突しているチベットなど」(ネパールを含む)、一部が赤ポチで埋まっていた。3・11を語る「前置き」として、この部分を紹介した直後に赤ポチのあるヒマラヤのふもとで大地震が発生した。
 
 きょう(4月27日)、少しばかりだが、シャプラニールいわき連絡会として「ぶらっと」に義援金を届けようと思う。テレビで野外に避難している人々を見たら、あそこに(3・11のときの)オレがいる、子や孫がいる――ヒトゴトではなくなった。

2015年4月26日日曜日

いわきのパノラマ

 きのう(4月25日)、いわき市文化センターでいわき地域学會の総会が開かれた。年度替わりに伴う各種団体の総会が続く。区内会と地域学會の「総会」が終われば、少しは開放されて「爽快」になる。
 会場準備のため、早めに文化センターに着いた。カギを借りられるまで(予約時間の10分前)時間があったので、1階の科学展示室を巡った。

 久しぶりに立体の「いわきのパノラマ」を見た。どのくらいの縮尺かはわからないが、4畳半1部屋くらいの大きさだ。いわきはハマ・マチ・ヤマの3層構造――それが私の持論だが、ハマ(臨海部)は、パノラマではわずか数センチだ。マチ(平地)にも小丘が散在している。いわきは、大半がヤマ(中山間地)なのだと、あらためて知る。
 
 ハマのうち薄磯・豊間が3・11で壊滅的な被害に遭った。パノラマでいうと、湾曲した砂浜海岸の右から2番目のでっぱり、緑が濃いところだ。そこに塩屋埼灯台が立つ。でっぱりの右側が薄磯、左側が豊間。4・11(翌4・12も)では南部(パノラマでは左端のヤマ)を震源とする巨大余震が発生した。

 総会の記念講演では、東北大名誉教授大槻憲四郎さんが「3・11巨大地震といわき大地震」と題して話した。地震研究者たちによる3・11の精緻な解析、いわきの4・11のメカニズム、地下水位と地震の関連性などに言及した。

 宇宙から、地下深くから、海底から「生きている地球」の動きをみても、地震を予知することはまだできない。いわきの場合は、炭鉱産業が盛んなころから地下水位を観測してきた。その変動から地震を予知できるかどうか、まだそこまではいっていない。3・11後、私(大槻さん)は地震保険を解約した――。
 
 地震研究の最前線の話にときどき理解不能になったが、事前にたまたま見たパノラマが「残像」となって、スケールの大きな話も手のひら大に“縮尺”して聞くことができた。

2015年4月25日土曜日

大人の遠足

 きのう(4月24日)の朝、10時前。いわき市平の高久(たかく)側からいわきニュータウンに入ると、いわき明星大と県立いわき公園が向かい合う交差点で小学生の列に出会った=写真。黄、白、赤と帽子の色はいろいろだ。1年生もいれば2年生も、3年生もいるということだろうか。
 1年生は4月6日の入学式から18日目。初めての春の遠足に、クタクタになったのではないか。

 60年前の、小1の遠足を思い出す。町場の小学校から山陰にある川の上流の小学校まで、何キロも歩いた。「まだか、まだか」。子ども心にも疲れてイヤになったのを覚えている。
 
 ニュータウンは広い。いわき公園も広い。歩いてきた方角からみて、ニュータウンの北側にある小学校の子どもたちだろう。交差点側は小高い丘を活用した「児童遊園」で、遊具もそろっている。丘の陰はすり鉢状になっている。底には溜め池がある。そばの広場にはペットOKの応急仮設住宅が建設された。

 ある年の2月下旬、アップダウンの続く公園の遊歩道を巡ったことがある。バードウオッチングには格好のエリアだ。「青い鳥」のモデルとも言われるルリビタキの雄に出合った。溜め池ではオナガガモやコガモなど、見慣れているカモとは別のカモを見た。頭が赤黒く見えた。

 きょうは、午後からいわき地域学會の総会が開かれる。3月末に行政区の総会が開かれた。これからさらに地域の各種団体の総会が続く。頭の中は「ソウカイ・ソウカイ・ソウカイ」だ。

 きょうの総会を終えれば、大型連休中には5月1日の回覧資料(広報いわき)の配布があるだけ。この年齢になればほんとうの「遠足」は無理だが、車による「大人の遠足」はできる。まずは川内村へ行って、「ちゃわん屋の木工展」を見る。

 ついでに、どこか「あぶくまの桜」を見る。15歳でふるさとを離れてからは、「三春の滝桜」と「夏井の千本桜」(小野町)、「小沢の桜」(田村市船引町)しか見ていないのだから。

2015年4月24日金曜日

海幸・山幸

 日曜日(4月19日)にタラボ(タラの芽)のてんぷらを食べた。
 午前中は夏井川渓谷の隠居へ出かけ、地元の「春日様」の祭りに参加した。帰宅してすぐ、いわき地域学會の総会資料づくりを始めた。事務局の3人がやって来た。終わって日が暮れ、みんなで少しのどを潤した。カミサンがタラボのてんぷらを出した。

 タラボは、産地が二つ。一つは夏井川渓谷。もう一つは、いわき市の隣町。

 渓谷のタラボは隠居の庭で摘んだ。地元のTさんからもらった苗木10本を植えたのが生長し、大震災のあった年に初めて採りごろを迎えた。アカヤシオ(イワツツジ)の花見客は現れなかったが、山菜採りは出没した。たちまち盗られてなくなった。今、7割方は芽を摘まれ続けて立ち枯れた。3・11から5年目の今年(2015年)、初めて家主が最初に摘んだ。

 いわきの隣町のタラボは、息子の嫁さんの実家からいただいた。「子どもには食べさせられないけど」。むろん、そのつもりで大人だけで食べた。

 次の日、また嫁さんの実家から宮城県産のカレイとマツモをいただいた。私の元同僚が栃木県産のタケノコを持ってきた。いわき市内に住む義妹からも、菜の花とコゴミ(クサソテツ)が届いた。カレイは煮つけ、タケノコも煮物、菜の花とコゴミはおひたしにした=写真。マツモはみそ汁だ。

 季節の楽しみが少しずつ戻ってきた。とはいえ、汚染が消えたわけではない。たまたまデータ上は「検出されず」か「基準値内」の海幸と山幸がわが家の食卓に並んだだけだ。

 何度も書いているが、野生キノコは春のアミガサタケから梅雨キノコ、夏キノコ、秋キノコ、冬のエノキタケまで、途切れなく採取ができる。それが禁じられたストレスを東電はどうしてくれる――春の味を楽しみながらも、どこか心の中に怒りがしこっているのを感じないではいられなかった。

2015年4月23日木曜日

梨の花

 いわき市の平地、平や小川の梨畑は今、花盛りだ。夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ行く途中、いつものように幹線道路からひとつ中に入った田んぼ道を通って台地に出たら、梨棚が花で白く染まっていた=写真。
 同じいわきの平地にある好間の菊竹山で開墾生活に入った吉野義也(詩人三野混沌)・せい(作家)夫妻は、梨を栽培して生計を立てた。夭折した次女には「梨花(りか)」と名づけた。梨の花が咲くと、決まってこの話を思い出す。

「芽の残し方なんか、この芽ならいい花がつくってことはもう冬のうちから見通しです」「果物づくりは面白いので、わたしはよく研究しました」。特にせいは梨栽培に打ちこんだ。梨花が死んだのは昭和5(1930)年12月30日。義也36歳、せい31歳。この世に生を受けてわずか9カ月余のいのちだった。

 昨年(2014年)秋、久しぶりに菊竹山を訪ねた。夫妻が開墾し、生産し、暮らした土地は、きれいに手入れがされていた。先おととしだったか、息子さんが「いずれ戻る」と言っていた。人がいなくなると田畑はすぐ荒れる。荒れた土地が、人が住むことで美しくよみがえった。
 
 その近所に若い知人が住む。先日、わが家へやって来た。「吉野さんの土地がきれいになったね」「ええ、それで自分ちの庭が気になって」。吉野せいファンが菊竹山を訪ねても、彼の家の庭が見えるわけではない。が、「庭をきれいにしないと」という“波及効果”が生まれた。

 菊竹山がきれいになるほどに、住民もファンも晴れやかな気分になる。せいの短編集『洟をたらした神』を読み返したくなる。

2015年4月22日水曜日

いわき昔野菜保存会が発足

「いわき昔野菜保存会」が発足した。先週の土曜日(4月18日)、いわき市暮らしの伝承郷・旧川口家を会場に、設立総会が開かれた。スタッフ・会員およそ50人が参加した。
 今年は伝承郷の農地を借り、昔野菜を育てる。伝承郷も、いわきの昔野菜を栽培するなど、この事業と連動してきた。

 伝承郷には「花と野菜のボラティア」制度がある。登録しないと、伝承郷では土いじりができない。保存会の会員が一斉に登録した。私も、顧問の山形大准教授江頭宏昌さんもボランティアの仲間に加わった。
 
 伝承郷は入館者とボランティアを増やしたい。保存会は栽培する場所を確保したい。「ウイン・ウイン」の関係だ。
 
 2010年、市農業振興課の当時の園芸振興係長と、広報広聴課(現ふるさと発信課)の女性が、私が趣味で栽培している伝統野菜の「三春ネギ」の話を聞きに来た。それがきっかけで、市の「いわき昔野菜」事業とかかわるようになった。
 
 設立総会後に、イタリアンの「いわき昔野菜特製ランチボックス」を食べ、記念体験イベントが行われた。昔野菜を栽培している農家の奥さんがリーダーになって、里芋(種イモ)を埋め、オカゴボウと金時豆の種をまいた=写真。
 
 ロープをピンと張ってクワを入れ、土をほぐして種をまく溝をつくる。ハウツウ本による独学ではなく、昔野菜を栽培しているプロが実地に作業の手本を見せる。手際がいいだけではない。うねがきれいに仕上がっていく。
 
 まず、サトイモ(種イモ)を植えた。ハウツウ本には芽を上に――といったことが書かれている。ところが、プロは横に置き、小さいものは2つ並べた。「芽を上にしなくていいのか」「いい」。オカゴボウと金時豆は、赤いテープを巻いた定規で簡単に種をまく間隔が決まる。
 
 プロの技と知恵を吸収する、またとない機会になった。それだけではない。畑が美しい。農作業はアートであることを実感した。

2015年4月21日火曜日

桜の花の下で

 夏井川渓谷の隠居の庭にシダレザクラの若木が2本ある。おととい(4月19日)の日曜日、花がほぼ満開になった。苗木をもらって植えたのが十数年前。幹の根元は径20センチほどに、こずえは平屋建ての家と同じくらいの高さに生長した。
 1週間前の日曜日(4月12日)は咲き始めたばかりだった。隠居の対岸の山は、アカヤシオ(イワツツジ)の花で全体が点描されていた。平地では花見といえばソメイヨシノだが、溪谷ではアカヤシオが主役だ。その花を見に来た人たちでごった返した。

 シダレザクラは次の日曜日が見ごろ――その通りになった。噴水状に垂れた枝に花をいっぱい付けていた。その木の下に入ると、花の傘、あるいは花のシャワーに囲まれたようだ(そう、マイ滝桜)。晴れていれば、花びらが光を浴びて透けて見える=写真。

 おととい(4月19日)、渓谷の小集落・牛小川で「春日様」の祭りが開かれた。山中の神社にお参りしたあと、ヤド(当番の家)で「なおらい」が始まった。この間、何度かケータイが鳴った(ドコモはつながる)。最後に、「孫たちが隠居に着いた」とカミサンが隠居の固定電話から言ってきた。カラオケが始まったばかりだが、みんなに事情を話して一足早く「宴会室」をあとにした。

 夕方は夕方でいわき地域学會の仕事がある。ノンアルで通さないといけない。さあ、昼ごはんを――という段になって、小2の孫がカミサンに言ったそうだ。「花見をしましょう、お花の下で食べましょう」
 
 カミサンは大喜びだ。言われなくてもやりたがるタイプだから、それゴザだ、飯台だ、食べ物だ――となって、たちまちシダレザクラの花の下に2人の孫と2組の祖父母、両親の計8人が集まった。
 
 なぜ、小2の孫が「桜の下で花見を」と言い出したのだろう。孫が2歳のとき、同じようにシダレザクラの花の下で、みんなで食事をした。その後も、ゴザを敷いてねっころがったりした。それらが脳裏に刻まれていたのか。孫には平地のソメイヨシノと、「山のおうち」のこのシダレザクラが、桜の“原記憶”になっていくのかもしれない。

2015年4月20日月曜日

渓谷の宴会室

 ヤマザクラにとっては“花曇り”の穏やかな一日になった。きのう(4月19日)、日曜日の夏井川渓谷。アカヤシオ(イワツツジ)の花は散り、行楽客の姿が消えた。1週間前の大混雑がうそのようだ。
 戸数10戸ほどの渓谷の小集落・牛小川に、春日神社の祭りを告げるのぼりが立った。牛小川では、アカヤシオの花が見ごろの日曜日、「春日様」のお祭りが開かれる。といっても、神官がくるわけでも、みこしが練り歩くわけでもない。各家から1人が出て集落の裏山にあるヤシロに参拝し、ヤド(宿)で「なおらい」をするだけ。私にとってはまたとない情報収集の場だ。

 今年は木々の芽吹きも、アカヤシオの開花も早かった。それに合わせて祭りは12日とみていたが、例年通りの第3日曜日になった。神社への急坂がこたえる。ヤシロのなかでお座りをするにしても、「どっこいしょ」となる。足の関節がいうことをきかない。何人かは同じように息を切らし、「どっこいしょ」と気合を入れていた。
 
 ヤドが変わっていた。住家の一角にできた「宴会室」だ。家主が別の住民の協力を得て、納屋かなにかを改造した。土間にテーブルといす、一段高いコンクリートの床にはカラオケ装置がセットされた。流しも冷蔵庫もある。あらかたはリサイクル品だという。「オープン行事」として区の総会・懇親会が開かれたらしい。以前と違うのは、2次会(カラオケタイム)が追加されたことだ。
 
 神社への参拝の途中、煙突から煙が立ち昇る“外風呂”のような建物が目に入った。それが「宴会室」で、マキストーブを焚いて中を暖めていたのだった。
 
 土砂崩れや土石流が発生した沢の通称地名に「ジャクヌケ」がある。カラオケタイムの前に、それに類した地名があるかどうかを聞いた。すると、いつも的確な情報をくれるKさんが反応した。「ジャッコケ」がある。「土砂崩れがあったところ」だそうだ。

「ジャクヌケ」、「ジャッコケ」。発音が似ている。夏井川渓谷、あるいは近辺では共通した通称地名とみていいようだ。ただし、当てる字の感覚が違っていた。私は「蛇(ジャ)」を思い浮かべていたが、溪谷の住民は「砂(ジャ)」あるいは「弱(ジャク)」を挙げた。漢字はわきにおいて、自然災害にちなむ地名が存在する――それがわかっただけでも大収穫だ。

「なおらい」の途中からカラオケタイムになった=写真。アカヤシオの花は散ったが、いつの間にか集落には周年枯れないギンギラの空間ができた。夜のカラオケは裏山のイノシシにも聞かせる――そんなイメージを抱かせる「宴会室」だ。

「宴会室」は住民の「コミュニティセンター」になり、「談話室」になり、「スナック」にもなる。そのうち「ボトルキープ」をする人が現れたりして。

2015年4月19日日曜日

ジャクヌケ

 落石、土砂崩れは夏井川渓谷では常態だ。土石流の危険地帯でもある。地名、あるいは地図にはのっていない通称地名に「ジャ〇×」とあったり、言われたりしていれば、土石がヘビのように崩れ落ちた(落ちてくる)場所とみていいらしい。自然災害地名である。
 おととい(4月17日)午後、いわき地域に近代医療の種をまいた関寛斎(戊辰戦争時の奥羽出張病院長)を調べている知人が、北海道での晩年の寛斎を描いた小説「斗満の河――関寛斎伝」の作者である、これまた知人とわが家へやって来た。地元の知人には弟さんが、作家には錦町出身で水戸に住む知人が同行した。

 寛斎ゆかりの地を見て回ったあと、大津波被害に遭った沿岸部を訪ねる途中に立ち寄ったのだった。

 地元の知人は鉱石の研究者でもある。震災前はマツタケ採りもした。私の悪い癖で、溪谷のキノコの話を始めたら、地図にはない地形の地名の話になった。祖父と一緒に山に入り、マツタケのありかや通称地名を教わったという。
 
 マツタケのありかは、息子には教えない。が、ライバルにはならない、かわいい孫には教えるのだという。イタリアやフランスのトリュフハンターも、ありかは「子どもといえども教えない」とテレビで言っていた。とはいえ、孫には教えているのではないか。ありかは非連続の連続で代々、頭のなかに受け継がれてきたはずである。

 V字谷は、標高そのものは低くても、「深山幽谷」の様相を呈する。険しい地形が連続する。山の恵みをいただきに入るムラびとたちは、身を守るために地形的な特徴を記憶し、地名として共有化した。じいさんから「ここはジャクヌケ」「ここは〇〇のボッケ」などと実地に教えられたそうだ。

「ジャクヌケ」は、「ジャクズレ」「ジャヌケ」と同じで土砂崩れ(土石流)が起きやすい沢のことだろう。「ボッケ」は小高い丘。いつ、何が起こるかわからない山中に分け入るのだから、最悪の事態を避ける備えとして土地の特徴を知るのは当然のことだった。

 東日本大震災では、夏井川渓谷でもあちこちで落石・土砂崩れが発生した。丸4年がたった今もその痕跡がはっきり見える=写真。山の尾根は「ソネ」。そのソネの直下、あるいは中腹が崩落して赤茶けた岩盤を見せている。写真の中だけでも5カ所以上はある。

 全体に共通する寛斎の話をわきにおいて、ついつい自然災害の話になったのは、この4年の自然な帰結だろう。

昨年(2014年)8月、広島市で大規模な土砂災害(土石流)が発生し、多くの住民が亡くなった。そこのもともとの地名は「ジャラクジアシダニ」(蛇落地悪谷)だった。「ジャクヌケ」と同じではないか。

漢字で地名を解釈するのは間違いの元で、地名は基本的には通称地名=音(おん)で伝承された。漢字を当てると実態を離れたものになってしまう、そんな危険性もある。が、「ジャクズレ」「ジャヌケ」に漢字をあてれば「蛇崩」「蛇抜」になる。即物的に「ヘビのように土砂が崩れ落ちるところ」というイメージが浮かぶ。

 きょうは夏井川渓谷の小集落・牛小川で「春日様」(春日神社)の祭礼が行われる。アカヤシオ(イワツツジ)の花の咲き具合を見ながらの開催で、個人的には12日かと思っていたが、きょうになった。「ジャクヌケ」とか「ボッケ」とか、通称地名についていろいろ仲間の住民に聴いてみよう。

2015年4月18日土曜日

自然エネ学習施設

 昔、住んでいた地区の山すそを巡る農業用水路のそばに、風と水と太陽光で発電する学習施設ができた。そこは日曜日、幼い子どもを連れて遊びに行った神社の境内でもある――。
 40年ほど前、結婚していわき市平下平窪の市営住宅に住んだ。庭付き木造平屋だが、ぼろ家のために家賃は安かった。似たようなつくりで少しは大きい福島高専の先生の官舎もあった。斜め前に恩師が住んでいた。なつかしくもあり、けむたくもありで、ときどきあいさつにお邪魔した。カミサンの中学校の同級生である橋本さんも住んでいた(今は退官して名誉教授だ)。

 やがて子どもが生まれ、親が子どもを介してつながった。子どもたちだけで遠出をし、親が心配しておろおろする事件もおきた。わが子2人は遠出に加わるには小さすぎた。

 私たちは間もなく、今のすまいであるカミサンの実家(米屋)の神谷支店に移った。恩師も学校の近くの住宅団地に移り、橋本先生も同じ平窪の別の場所にマイホームを建てた。

 新聞記事をきっかけにしてネットから拾ったのだが、いわき地域環境科学会とNPO法人いわき環境研究室の有志で「いわき自然エネルギー研究会」が発足した。橋本さんが代表を務める。
 
 その研究会が橋本さんの住む平窪・小川江筋沿い、諏訪神社の境内の一角に、小学生のための自然エネルギー学習施設をつくった。水車がある。風車がある。太陽光パネルがある。要は、水力・風力・太陽光の複合的な小規模発電施設だ=写真。小学6年生が野外学習の一環として、ここで自然エネルギーについて学んでいるのだという。
 
 わが家から夏井川渓谷の隠居へ行くとき、神谷~平窪の間は山すそ近くの田んぼ道を通る。自然エネ学習施設の存在を知ってからは、江筋に沿って車を走らせるようになった。
 
 あるとき、その施設のわきに橋本さんが仲間と立っていた。あいさつしようと思ったが、カミサンに「邪魔しないで」と言われて通りすぎた。地道な活動を続けていることがよくわかった。
 
 晴れていれば太陽光発電パネルが起動し、風が吹けば風車も回る。水車は雨上がりの日にゆっくりと回っていた。

2015年4月17日金曜日

辛み大根の花

 大津波に遭い、内陸部で避難生活を続けている知人から、会津の辛み大根の種をさやごともらったのが2012年。その年、さやを割って“赤玉”の種を採り、やや時期外れながら夏井川渓谷にある隠居(無量庵)の庭の片隅にまいた。育ちは悪かったが、おろして食べると野性の辛さがあった(おろし以外は硬くてちょっと食べられない)。
 翌年師走、庭は全面除染になり、山砂が敷き詰められた。4畳半2間ほどあった家庭菜園が消えた。その一角に昨年(2014年)8月、辛み大根の残りの種をまいた。秋にはさらに、冷蔵庫に眠っていた三春ネギの2年目の種をまいた。掘り残し、越冬した辛み大根が今、花をつけている=写真。ネギ苗は少し育ちが悪い。

 野菜を育て、ときには種を採ってわかったのは、花が咲いて実が生(な)らないと種はできない、という当たり前のことだ。三春ネギはそうして栽培~収穫~採種~保存~播種のサイクルを覚えた。辛み大根も同じように「自産自消」をしたくて種を採ることにした。

 別の知人がフェイスブックに夏井川渓谷のアカヤシオの花の写真をアップした。ついでにわが隠居も訪れたようだ。「今度、菜園を見に伺います」。コメントにそんな返事がきた。

 菜園は再開したばかり。まだ畳2枚ほどだから、見せられるようなシロモノではない。「菜園」と書くこと自体もほんとうははばかられる。でも、私には幻の菜園が見える。
 
 4畳半2間ほどの菜園をつくるのに20年近くかかった。週末だけの半住民には、それが精いっぱい。そのときには、これもあれもと「少量多品種」の栽培を楽しんだ。頭のなかの設計図はできているのだが、今は再開したばかりだからと、少し“言い訳”をしておこう。
 
 小さな、紫の十字花がこれからどう実を結ぶのか――子どもでなくても経過を観察するのは楽しい。それも含めて、溪谷の自然は行くたびに変化している。

2015年4月16日木曜日

句集『橋朧』

 若いときから俳句に親しみ、実力をたくわえて、2003年に福島県文学賞俳句の部正賞を受賞した福島高専の後輩がいる。「おくのほそ道」以来の「俳句のまち」須賀川市に住む。そこで生まれ育った。東日本大震災から2カ月の間に詠んだ「ふくしま」50句で、その年の角川俳句賞を受賞し、全国的に注目された。永瀬十悟(とうご)、62歳。
 所属する須賀川の俳句団体「桔梗(きっこう)」がいわき市で一泊の研修会を開いたとき、いわきから加わっている知人に呼ばれて話をしたことがある。1人だけ年若い人間がいて、言葉を交わしているうちに後輩と知った。
 
 江戸時代後期、磐城平の専称寺で修行し、のちに江戸へ出て俳諧師として鳴らした出羽出身の俳僧に一具庵一具がいる。彼を軸に、俳人と俳人が身分を超え、地域を越えてつながっていく「俳諧ネットワーク」が面白くて、アフターファイブ(主に休日)に調べを続けていた。その中間報告のようなかたちで話をした。15年以上前のことだろうか。
 
 先日、いわきの別の俳人を介して、彼から電話がかかってきた。あのときの資料が震災のあと、どこかへ行ってしまった。須賀川の幕末の女流俳人市原多代女について調べているので、あらためて話を聞きたい――。一具と多代女は同門、しかもきょうだいのように親しかった。
 
 月曜日(4月13日)の午前10時半に彼がやって来た。高専時代、一時、中神谷に下宿していたが、様変わりしてどこか違うところへ来たような気がしたそうだ。彼が質問して私がしゃべり、私が質問して彼がしゃべる――時間があっという間に過ぎた。
 
 最後に、俳諧だけでなく寺のネットワークも意識するようにと伝えた。芭蕉と多代女の句碑がある須賀川・十念寺は、もとは浄土宗名越派の寺だ。一具が学んだ專称寺はその総本山である。
 
 別れ際、角川俳句賞受賞の「ふくしま」50句を含む第一句集『橋朧(はしおぼろ)――ふくしま記』(コールサック社、2013年3月11日刊)をいただいた。その感想はあとで。

2015年4月15日水曜日

ちゃわん屋の木工展

 いちおう陶芸を生業にしているものの、木工もやる。絵も描く。阿武隈の山里・川内村に、奥さんとともに工房を構える志賀敏広さんだ。同村上川内字緑4-9の志賀林業ログハウスで、5月1~6日に開く「ちゃわん屋の木工展」の案内状が、きのう(4月14日)届いた。
 陶芸の志賀さん夫妻が以前住んでいたかやぶきの古民家が4月3日早朝、全焼した。2、3度訪ねたことのある「あぶくまの宝」が失われた、といったことをブログに書いたばかりだ。その古民家の代わりというわけではもちろんないが、新しい川内の「木の家」ができた。

 手紙にはチラシが2枚入っていた=写真。ログハウスと、木工展と。今度の展覧会には2つの目的がある、ということだろう。

 震災前、志賀林業が川内産の木材を使ってログハウスの社屋づくりを始めた。震災、原発事故、全村避難、帰村、除染、そして村の林業復興を期して、5年がかりで社屋が完成した。そのお披露目が1つ。川内を象徴する新しい木の家で、陶器と木工展が開かれる。2つ目がそれ。しかも、木工の材料は志賀林業から譲りうけたものだ。

 陶芸家がつくるテーブルといすのセットが気に入って、夏井川渓谷の隠居の庭に一式を据えた。丸太の脚に角材を渡し、その上に板材3枚を並べたのがテーブル。いすは丸太を半分に割った長いすで、4カ所に穴をあけて脚をはめた。十数年たってテーブルの脚が腐ったため、3年前に志賀さんに頼んでそれだけ新調した。

 ゆうべ、案内状が届いたあと、電話をかけたら奥さんが出た。実は、チラシに添えられた一筆の最後に「これまで、いろいろお世話になりました」とあった。少し気になったので、その点を尋ねると別に変わったところはない、はずみでそんな文言になったのでは――という。「辞世のあいさつ」ではないと知って大笑いした。

 土志工房・志賀敏広さんと、ログハウスを建てた志賀林業・志賀泰三さんの交友は、次の敏広さんの文から分かる。

「川内村は木材に恵まれた土地で、マキストーブやマキ窯で燃料にしてしまうにはもったいないような木も多」い。そこで、「生き残った木材でテーブルや椅子(いす)ができないものかと折にふれて試作して」きた。「その木のほとんどが志賀林業さんから譲り受けたものなので(略)ログハウスにそれらの木工品を展示してみたいと思った」

 大型連休の川内は、木々が芽吹いて山が笑っていることだろう。いわきからの最短距離は、わが隠居のある夏井川渓谷から“スーパー林道”(広域基幹林道上高部線)を駆け上がり、終点T字路を右折して下川内に入る、あるいは左折して上川内に出る、のどちらかだ。工房へは右折するのがいいが、ログハウスは上川内にある。左折ルートで行こう。

2015年4月14日火曜日

天然の山水画

 きのう(4月13日)の続き。夏井川渓谷の隠居(無量庵)の真ん前、対岸の森を、廊下のガラス戸をちょっと開けて「掛け軸」風に撮ってみた=写真。谷底に近い方は木の芽が吹き、少し上の方はピンクのアカヤシオ(イワツツジ)が点々と咲いている。白っぽく見えるのは、まだ裸のままの木々。
 写真の枠から右(写っていない)に、木々の枝に隠れた滝がある。午前中は太陽に照らされて、濡れた岩盤が銀色に輝いている。実際の流れは糸のように細い。風景が動いている、生きている――無量庵の庭からそれがわかる。

 雨の土曜日(4月11日)、天然の山水画のなかを、カケスとカワウ、カルガモ(ペア)が横切って行った。鳥たちも渓谷の住民だ。

 その翌日、晴れの日曜日。溪谷は大混雑した。展望台と水力発電所の空き地(東北電力の社宅跡)にはさまれたわが隠居の庭も、人が自由に行き来する“公共空間”になった。あいさつをされれば「どうぞ。どうぞ」になるが、黙って入って来た人には黙って見返すしかない。
 
 行楽客は一過性だ。平気で庭に入り込む人は、平気で庭のタラボをもぎ取っていく。家にだれもいないと知れば、母屋と風呂場をつなぐ廊下の前の“坪庭”をトイレ代わりにする。それが嫌で、土・日と隠居で過ごした。
 
 いわき市が電力の空き地の隅っこに、行楽客のためのエコトイレを設けた。行楽客のいない冬場は使用中止になるが、4月はアカヤシオの花が咲く。それに合わせて使えるようにしていたはずだが、今年はまだ使えない。
 
 展望台をつくったSさんに、行楽客が「トイレが使えない」と文句を言ったそうだが、それは筋違いだ。エコトイレを管理する部署が溪谷の自然を熟知していれば、とっくに観光トイレは機能しているはずだ。天然の山水画の裏にはこういった悩ましい問題もある。

2015年4月13日月曜日

新幹線で花を見に

 快晴、無風。きのう(4月12日)の日曜日は、朝から花見日和になった。前日に続いて夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけた。朝9時前には着いた。隠居の隣の「錦展望台」にはすでに駐車の列ができていた=写真。
 ピンクのアカヤシオの花だけではない。落葉樹の木の芽が吹いて、臙脂(えんじ)・黄緑・緑・茶……と、ほんのりパステルカラーに染まっている。隠居の庭のカエデも赤く小さな花をつけた。いち早く谷間に春を告げるアカヤシオだが、その花と木の芽のコラボレーションは珍しい。

 雨と寒の戻りで、人も花もちぢこまっていたのが、一気に全開した感じだ。自然と足が渓谷に向いた、という花見客も多かったのではないか。けさは曇り。やがて雨になるというから、たまたま雨雲がとぎれ、青空が広がった。それが日曜日と重なった。

 福島民報が記事にし、NHKがローカルニュースで伝えた。自分の土地を展望台に開放したSさんが、新聞にもテレビにも登場した。そのSさんに「テレビで見たよ」、大熊町からいわき市に避難しているという花見客が声をかけた。たまたまSさんと立ち話をしていたので、「大熊町の野上川(熊川)渓谷にもアカヤシオはあるでしょう」と聞くと、「ないなぁ」。

 午後になってもひっきりなしにマイカーがやって来る。何台か路上駐車をするなど、この春一番のにぎわいになった。同じいわきの平地から川筋を上がってきた人、中通りから下ってきた人と、花見客は大きく2つに分けられる。

 今年はさらにこんな人たちもいた。東京から電車でいわき駅まで来て、そこからバスで花見に来たグループがいる、とSさん。カミサンが隠居の近くでタクシーを見つけた。運転手に聞くと、お客は青森県八戸市の人だという。東北新幹線で郡山まで来たあと、小野新町からタクシーで40分かけて渓谷にやって来た。
 
 時刻表を追ってみた。朝6時41分八戸発の新幹線に乗り、仙台で乗り換え、郡山からは1時間待ちで小野新町止まりの磐越東線を利用したあと、タクシーで夏井川渓谷へ――という流れでくると、出発から4時間余りあとの11時半にはアカヤシオの花と対面している。

 3月14日に常磐線の上野東京ラインが営業を開始した。4月1日には「ふくしまディスティネーションキャンペーン」が始まった。JRとメディアの情報発信が相次ぎ、それらが相乗的な効果を発揮して、遠距離からでも花見に来る人が増えた、ということだろうか。

 いわきからも、たとえば八戸の蕪(かぶ)島へ日帰りでウミネコを見に行く――そんな計画も可能な時代になったのだ。

2015年4月12日日曜日

花の宴

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)で、きのう(4月11日)、アカヤシオ(イワツツジ)の花の宴が開かれた。いわきの街のソメイヨシノと渓谷のアカヤシオの花は、時を同じくして満開になる。天然の大キャンバスの真ん前に隠居がある。雨が降ろうが石が落ちようが(渓谷では常に落石がある)、家のなかから谷の斜面をピンクに染めた花が楽しめる=写真。
 花の宴参加者は、国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が運営している交流スペース「ぶらっと」の元・現スタッフだ。シャプラは3・11後、いわき市で被災者・原発避難者の支援活動を展開している。ラトブからイトーヨーカドー平店へと場所を変え、今は平一町目、スカイストアの一角を借りて活動を続けている。水・土曜日が休みだ。

 前々から、4月にはアカヤシオの花が咲く、と言ってきた。「ぶらっと」を開設して4度目の春、やっとスタッフ関係者による花の宴が実現した。いわきで頑張ってくれるのはありがたいが、いわきのよさも味わってほしい、まずは天然の美に触れて息抜きを――という思いが実った。

 前日からの雨だが、東京といわき市内から、スタッフと家族合わせて11人が集合した。男は私と現スタッフの夫(私の元同僚で現役の記者)、小6のその息子、元スタッフの3カ月の赤ちゃんの4人。「女性に奉仕する日」と決めて、ハンドルキーパーになった。

 元同僚は仕事で子どもとともにあとからやって来た。奥さんにハンドルをまかせて、私と飲むつもりで「とっておき」の鹿児島の本格焼酎「なかむら」を持参した。ビールもどきのノンアルを飲んでいると私がいい、もうビール飲んじゃったと奥さんがいうと、本人もノンアルを口にするしかなかった。
 
 それぞれ持ち寄ったもののいくつかは、私ら夫婦には“初物”だった。双葉町から避難し、いわきで結婚をして母親になった元スタッフは、「夏井川の小石」と「「浜街道パイラスク」を持ってきた。ラスクは帰宅後、晩酌のときに口にした。ガーリック風味の「青のり塩」が効いて止まらなくなった。
 
 焼酎の「なかむら」については、おれが持ち帰って余ったものを返すというのはどうだい、といったら、返事がなかった。では、と、グラス(ほぼ1合)に注いでもらい、ラップでふたをして持ち帰ったのを晩酌にした。芋だから独特の香りがするが、熟成しているのか水の膜にくささが包まれた感じで飲みやすかった。
 
 晩酌が始まる前、別のスタッフがお母さんとともに、鹿児島の芋焼酎「鉄幹」を持ってきた。ハンドルキーパーの余禄だ。こちらはきょう飲もう。
 
 3・11から4年1カ月(1493日)、いわき市南部を震源とする巨大余震から4年(1462日)。ひとりで長々と献杯を続けた。

2015年4月11日土曜日

神谷の桜

 近所の家の庭にソメイヨシノの大木がある。この時期、わが家から表に出たり、2階の物干し場に立ったりしたとき、綿菓子のような花のかたまりがドーンと目に入る。そこにあるのはわかっているのに、春の開花期以外は忘れている。葉より早く花が開く。その混じり気のない清潔感に人は圧倒されるのかもしれない。
 ふだんは雑事に追われて花見に行くような余裕はない。前にも書いたが、花に出合えば、そこが即、花見の場所。それでよし――としている花が、わが生活圏(旧神谷村)にはある。

 近所でももう1本、ちょっと離れた知人の家の前にソメイヨシノの大木がある。今年もきれいに咲いた。

 街への往復に、夏井川の堤防と、たまに山側の田んぼ(神谷耕土)の道を利用する。山側の上神谷・住善寺の境内に市保存樹木のシダレザクラ(エドヒガン)がある。前は斜面の杉林の陰になっていて、道路からは見えなかった。それが、今は杉の木が伐採されたためによく見える。

 堤防沿いでは、東日本国際大のある鎌田山のふもと、住民が畑に利用している夏井川の河川敷の一角にヤマザクラがある=写真。花と赤っぽい葉が同時に開く。河川敷にあるヤマザクラは、ざっと見た限りではそこだけ。実生ではなく、だれかが植えたのだろうか。地味だがふわっとしたたたずまいのヤマザクラが好きだ。

 その桜の近くにソメイヨシノの並木がある。てんぐ巣病にやられている。もっと下流、河川敷のサイクリングロードに、桜の幼樹が植えられた。何度か大水に見舞われては水没した。そのつど、草本類のごみがかたまりになって引っかかる。ほとんどの木が斜めに傾き、やがて枯れた。ソメイヨシノは、見た目はきれいだが、病気にはからきし弱い。

 けさ(4月11日)は、まだ雨が降っている。が、昼前には夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かける。谷の斜面をピンクのアカヤシオの花が彩っている。東京の客人などを迎えて、室内でオードブルを食べながら花見をする。
 
 人間が生み出したソメイヨシノと違って、谷の天然林は何かが独占するということはない。多様で多彩な個性、「緑の民主主義」が生きている。

2015年4月10日金曜日

なぜ急ぐ?

 ある日曜日の昼下がり。いわき市小川町の田園地帯。磐越東線と田んぼ、あるいは夏井川にはさまれた、片側1車線の県道小川赤井平線を走行していた。制限速度は40キロ、途中50キロの区間もある。
 見通しがいいようで悪い。川の蛇行に合わせてS字のカーブになっているところがある。そのカーブの手前で、後ろについた車が一気に追い抜いて行った。カーブを過ぎるとすぐ信号機のある交差点だ。なんでそんなに急ぐんだい。公道では抜いても抜かれても信号機が待ち構えている。目的地までの時間はそう変わらないんだよ――。

 案の定、赤信号で止まっていた。その前に1台。それがなかったら、黄から赤に変わりかけていたとしても、突っ込んだだろう。手綱の切れた競走馬のような感じだったから。
 
 すぐ後ろについたので、助手席のカミサンにカメラを渡しながらいった。「必ず追い越しをかけるから、写真を撮って」。青になって先頭車両が動き出し、交差点を過ぎたとたん、追い越しが始まった=写真。あとはぐんぐん加速して視界から消えた。
 
 昔、交通運輸の専門家に教えられたことがある。区画整理かなにかで新しい道ができた。最初のうちは抜け道になった。すいすい目的地に行けた。ところが、次第にみんなが知るところとなり、結局、どの道を行ってもそう変わらなくなった。「等時間の法則」というそうだ。スピードを出しても同じことがいえるのではないか。
 
 アクセルとブレーキのあんばいをどのレベルにおくか。40キロではトロトロだ。かといって、ブンブン飛ばす勇気はない。カントリーロード(田舎道)では、ゆったりした気分で風景を楽しみながら行くのが一番。

2015年4月9日木曜日

4月の雪

 きのう(4月8日)はさすがに驚いた。早い時間に目を覚まし、二度寝をすると目覚めが遅くなる――4時前には起きて、あれこれやり始めた。雨が降っていた。あとでフェイスブックとツイッターをのぞいたら、雪の情報が並んでいた。
 阿武隈高地の田村市常葉町や川内村はともかく、いわき市の平地からも雪が、みぞれが――と、にぎやかだった。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の面白さのひとつが、このリアルタイム性にある。遠出をするときに参考になる。

 列島上空に居すわった強い寒気と本州南岸の前線の影響で、広い範囲で雪・みぞれ・雨になったという。いわき民報によると、いわきの山間部の三和、川前では6~2センチの積雪があった。

 午後2時前、用があって街へ出かけた。雨がみぞれになっていた。西の阿武隈の山々が全体的に灰色がかっている。芝の広がる水石山の頂上は真っ白だ=写真。4月上旬。山並み全体が白くはないにしても、雪で薄化粧するのは珍しい。

 師走に初めてスタッドレスタイヤをはいた。いつノーマルタイヤに切り替えるか、もうほかの人は切り替えたか――おととい、ふと考えた矢先の寒の戻りだ。

 この日は、高校生になった疑似孫の入学式。一方で、田村市都路町では仮置場から中間貯蔵施設の保管場へ、試験的に除染廃棄物を搬出する初日を迎えた。こちらは雪のために作業が延期になった。

 除染廃棄物は、基本的には高速道を利用して運ばれる。しかし、双葉郡に隣接する田村市のそれは、主に国道288号を利用した方が早い。仮置場も道路も雪、田村市から双葉郡へ通じる288号はくねくねの急坂ときては、慎重にならざるをえないか。
 
 けさは快晴だが、けっこう冷え込んだ。夏井川渓谷の隠居の温水器は大丈夫か。もう凍結・破損の時期は過ぎたと思って、水抜きをしなかった。「光の春」と「寒さの冬」の綱引きがまだ続く?

2015年4月8日水曜日

新学期スタート

 きのう(4月7日)は、小1にとっては初めての集団登校の日だった。朝7時半前、ぐずついた天気のなか、家の前を子どもたちが通って行く。店の戸を開け、顔だけ出して、チビちゃんたちにあいさつした。「おはようございます」。すると、黄色い帽子をかぶった女の子が小さな声であいさつを返した。
 前日の入学式に、招かれて出席した。青空の下、校門わきのソメイヨシノが満開だった=写真。文字通りのハレの日になった。新入児は10年後、20年後、あるいは孫のいるような50年後も、この満開の桜と入学式をセットで思い出すことだろう。

 校長先生は1年生に「あ・い・う・え・お」の話をした。あいさつ・いのち・うんどう・えがお・おもいやり――だれにとっても大事なこと5つだ。保護者を代表してあいさつしたのは、小さいころわが家へ遊びに来ていた知人の娘さんだった。
 
「あいうえお」を聞き、知人の子の子が入学したとあっては、最初の集団登校のときくらいあいさつせねばと、子どもたちを待った。か細い声で「おはようございます」と返してくれた黄色い帽子、つまり新1年生はその知人の孫らしかった。面立ちがなんとなく似ている。

 学校は少子化の最前線でもある。われらは「団塊」、子どもたちは「団塊ジュニア」といわれて、世代的にはそこだけ人数が多い。ところが、ジュニアの子どもたちは、祖父母の世代からみると3分の1くらいに減っている。2クラスで計43人しかいない。過疎化が進む山間部、三和町ではこの春、4つの小学校と3つの中学校が、それぞれ残る1つの学校に統合された。
 
 ざっと60年前――。小学校の入学式を終えて教室に戻り、前の女の子のいすを足でポコポコやっていたら、その子が手をあげて「いすをけってます」と先生に告げた。先生に注意されて、うれしい気分がトホホに変わった。教室はぎゅうぎゅう詰めだった。やはり、隔世の感がある。

2015年4月7日火曜日

ハクチョウ給餌9年

 日本野鳥の会いわき支部の前事務局長峠順治さんから季刊の支部報「かもめ」第124~126号が届いた。4月1日発行の126号に、峠さんが「左助・左吉と過した2200日~馬目夫妻の白鳥物語」を寄稿している=写真。
 左助と左吉は飛来後、高圧線にぶつかり、翼をけがして北帰行がかなわなくなったハクチョウのことだ。平成15(2003)年9月の大水で、夏井川の越冬地(平・中平窪)から約8キロ流され、そのままそこに定着した。この2羽が呼び水になって、下流の平・塩~中神谷にも越冬地が形成された。

 ハクチョウのとりこになった馬目さんが奥さんとともに、左助・左吉に餌(えさ)をやるため、対岸の山崎から軽トラで通い続けた。平成24(2012)年6月の馬目さんの死とともに終わったハクチョウと馬目さんの9年間の交流(うち6年間、2200日は左助たちのために毎日)をつづっている。

文章のなかで2カ所、私のブログを引用しているので了承をと、師走に峠さんが拙宅を訪れた。奥さんとカミサンが布を介してつながっており、それまでにも何度かわが家に来たことがある。

峠さんのふるさとは飛騨高山。ざっと20年前、いわきに転勤し、夏井川のハクチョウとサケに魅せられて、いわきをついのすみかに決めた。野鳥の会に入り、事務局長時代から馬目さんとは懇意にしてきた。
 
 馬目夫妻は朝6時半前後、軽トラで堤防に現れる。私も会社を辞めたあとは、その時間帯にカメラを首から提げて堤防を散歩した。いつか、会うと必ず話をする間柄になった。その馬目さんの死を、峠さんから教えられた。
 
 峠さんの文によると、左助がけがをしたのは平成12(2000)年、左吉は翌年。傷病ハクチョウはやがて3羽になり、同21(2009)年10月を最後に姿を消す。

 峠さんは馬目さんの奥さんにもインタビューした。前に小欄で紹介した馬目さんの戒名の話が物語の最後に載る。馬目さんの「最後の言葉は臨終の2日前、病室の見舞客の前で天井を見ながら、『あ、白鳥が飛んでいる』だった」「家族は『院や道はいらないから、白鳥の2文字を入れてくれ』との本人のたっての遺言に従い、霊鳥名入りの戒名を菩提寺である如来寺から頂戴した」

白鳥讃誉厚温善清居士――あらためてハクチョウにささげた最晩年だったことを知る。路傍の花のような馬目夫妻の“仕事”を記録に残した峠さんの“仕事”にも拍手を送りたい。

2015年4月6日月曜日

古民家焼失

 新聞記事とIさんのフェイスブック情報に接して、<もしかして>が現実だったことを知る。
 阿武隈高地の川内村で4月3日早朝、建物火災が発生し、折からの強風にあおられて住宅など7棟が全・半焼した。火元は、震災後、川内村に進出した企業が地域のコミュニティセンターとして活用を始めた、かやぶきの古民家だった。

 グーグルアースで場所を確認し、ストリートビューで改修中の古民家を見た瞬間、この家には20年以上前に2、3度入っていることを思い出した。

 いわき地域学會が村の委託を受けて『川内村史』を編さんした。第3巻・民俗篇の口絵に、その家が載っている=写真。その家はのちに、浪江町出身の陶芸家のすまいになる。

 発足して間もない地域学會にとっては、力量の問われる一大事業だった。会員が定期的に村へ通い、調査を重ねた。30代後半の私も先輩たちに加わり、「幕末の川内の文芸」(第1巻・通史篇/近世第5章)と、「川内と草野心平」(同/現代第3章)を担当した。

 古民家を訪ねたのは、しかし、村史編さんが終わったあとだ。カミサンが川内に陶芸家夫妻が移り住んだことを耳にして、たまたま隣接する常葉町の実家へ線香上げに行った帰り、木戸川沿いにある工房へ立ち寄った。すっかり意気投合をして、ちょっと離れた集落にあるすまいへ案内された。

 そのときの文章の一部(『あぶくま紀行』いわき地域学會、1994年)。「古い民家に独特の、囲炉裏の煙りがこびりついたようなにおいが漂っている。どこからともなく現れた1匹のアシナガバチがまとわりついて離れない。棚や板の間の隅、畳の隅に大小の作品が並べられている。(略)用と美をまたにかけた、激しく静かなエネルギー」を、蓄積する時間のなかに感じたのだった。

 その翌年か翌々年、陶芸家のつくった方形の卓上七輪を使って、古民家で「マツタケ網焼きパーティー」が開かれた。中通りからの人たち、そして浜通り、いわきからは私たち夫婦と尊敬するドクターなどが参加し、生まれて初めてのぜいたくを楽しんだ。

 村史の調査当時、トタンで覆われたかやぶき屋根は何軒かあっても、昔ながらの外観をとどめているのは、町うちではその家くらいではなかったか。

川内にとどまらず、「あぶくまの宝」といってもいい文化財だった。村の復興に貢献しようと進出してきた企業、古民家の再利用・活用に希望を見いだした村民の落胆はいかばかりか。燻煙の名残を体感したつかの間の滞在者にも喪失感が広がる。

2015年4月5日日曜日

アカヤシオ咲く

 きのう(4月4日)夕方、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。半月見ない間に、渓谷の斜面はアカヤシオ(イワツツジ)の花で彩られていた=写真。岸辺の木々も一部、芽吹いていた。
 週末だけの“半住民”である。1週間単位で見ていれば、アカヤシオがどのへんから咲きだし、斜面のどの部分までピンク色に染まったか、といった経緯がわかる。ところが、今年は開花が早かったのと、半月ぶりの渓谷行だったために、いきなり満開のアカヤシオと木々の芽吹きに出くわした。開花と芽吹きを同時に見るのは初めてだ。

 花冷えの一日だった。夕方だから、行楽の車はもうないだろうと思っていたが、5時近くまで「錦展望台」に人が絶えなかった。展望台は隠居の隣にある。時折、家の中まで車のドアの開け閉め音、人語が響いた。

 渓谷の尾根は何段か重なりながら奥山へ続いている。満開なのは岸辺の前山。奥山には、花は少ししか見られなかった。となると、今度の週末が花のピークだろう。

 隠居のある牛小川は10世帯にも満たない小集落だ。住民がはかって、アカヤシオの花が見ごろの日曜日に「春日様」のお祭りをする。4月の中旬になることが多い。今年は12日か。祭礼日が決まれば、“半住民”にも連絡がくる。

 祭り当日は午前10時に集まり、集落の裏山にある春日神社をお参りしたあと、仲間の旅館をヤドに「なおらい」が行われる。私にとっては数少ない住民との語らいの場だ。イノシシその他、集落周辺にすむ動植物やキノコの話になることが多い。牛小川の「自然と人間の関係」がわかっておもしろい。
 
 さて、今年の行楽客はどうか。4年前は3・11直後だっただけに、アカヤシオ目当ての車は皆無だった。年々行楽客は戻っているが、路上に駐車して交通に支障をきたすという状況にはなっていない。路上駐車は迷惑だが、それがにぎわいの目安になっていたことも事実だ。
 
 帰りは、枝垂れザクラのライトアップで人気がうなぎ上りの小川・諏訪神社の前を通った。家並みの続く通りに出ると、車の往来を確かめずに斜め横断をする男性がいた。足元がおぼつかない。どこかで「花の宴」でもした帰りだろうか。ドライバーはこの時期、要注意だ。
 
 街ではソメイヨシノ、渓谷ではアカヤシオ。爛漫の春になったが、きょう、日曜日の天気は「雨、ときどき曇り」。早朝5時すぎには最初のパラパラがやってきた。

2015年4月4日土曜日

これも花見

 突然、庭から「ピース(平和)、ピース」という鳥の鳴き声が聞こえてきた。見なくてもわかっている。プラムの白い花が満開になった=写真。その花の蜜を求めてヒヨドリがやって来たのだ。
 3月中旬から年度の替わり目に必要な書類作成・提出、カネの計算、行政区の総会にまつわるもろもろの手続きその他をこなすのに精いっぱいだった。今はいわき地域学會の総会と、来週からの週一のおしゃべりの準備に追われている。といえば、いかにもきちんとやっているようだが、会議をひとつすっぽかしてしまった(午前の開催を午後の開催と思い込んでいた)。

 きょう(4月4日)もあすも予定が入っている。けさの福島民報いわき版は、夏井川渓谷のアカヤシオ(イワツツジ)が開花したことを、カラー写真付きで報じていた。渓谷がピンク色に染まっている。
 
 今すぐ花見に行きたいのに時間がない。ならば、そこにあるもので間に合わせるしかない。庭のプラムを眺めて花見をしたつもりになる。きのうも朝、市役所に書類を届けた帰り、新川沿いのサクラを目に入れて花見をした気分になった。その点は安上がりにできている。

 わが家の庭木では、プラムがまっさきに花をつける。すると、冬の間は静かだった庭に甲高い鳴き声が戻ってくる。ほんとうはヒヨドリの貪欲さにへきえきしているのだが、ときに「ピース(平和)、ピース」と聞こえるようになったのは、チェリストの故パブロ・カザルスのおかげだ。

 カタロニアの民謡「鳥の歌」をカザルスが編曲した。「私の故郷カタロニアでは、鳥は『ピース、ピース』と鳴きながら飛ぶのです」。94歳のときに、国連本部で「鳥の歌」を演奏し、そう語った。

「ピース、ピース」は比喩にちがいない。平和を求めるカザルスの心は心として、スペインに「ピース(平和)」と聞きなせる鳥はいるのか、いるとしてその鳥はなんというのか――カザルスを聴くたびに気になる点だ。

 おっと、ヒヨドリより花だった。夕方にでも渓谷へひとっ走りするかな。

2015年4月3日金曜日

一具の短冊

 わが家の床の間に、幕末の俳僧一具庵一具(1781~1853年)の短冊がかかっている=写真。初代のいわき地域学會代表幹事・故里見庫男さんから、研究材料にと贈られた軸物のひとつだ。1カ月ちょっと前、正月の縁起物から春らしいものにと、カミサンが替えた。
 俳句は門外漢だが、幕末の俳人のつながりに興味があって、一具を中心にした「俳諧ネットワーク」を調べている。その一具は出羽国で生まれ、磐城山崎村の専称寺で修行を重ねたあと、幕末の江戸で俳諧師として鳴らした。
 
 專称寺はそのころ、浄土宗の奥州総本山、そして同宗名越(なごえ)派の檀林(大学)だった。東北各地からやって来た修行僧が、今は梅林になっている中腹の平地に建てられた寮舎で寝起きしながら勉強した。
 
 短冊には「婿(むこ)もやゝなじみて庭の接木哉(かな)」とある。「接木」は春の季語。

 生地の山形県村山市で発刊された『俳人一具全集』(昭和41年)には、「婿もはやなじみて庭に接穂哉」が収録され、類似句として「婿もやゝなじみて庭の接穂哉」「聟もやゝなじみて庭の接木哉」が載る。

短冊は類似句の両方を合体したようなものだ。「婿」と「聟」、「接穂」と「接木」――そのへんはゆるやかなものだったのだろう。「婿」についても「はや」と器用で飲みこみの早い様子をうたったり、「やゝ」と鈍重さを強調したりして、一具自身が揺れている。

 季語の「接木」を検索したら、たまたまソメイヨシノも接木によって全国に広まったことがわかった。ソメイヨシノは幕末に開発された園芸品種で、明治になって日清・日露の「戦勝桜」として全国に植えられたという。
 
 一具が亡くなったのは黒船が来航した年の晩秋。ソメイヨシノが開発される時代と重なるが、この桜はまだ一般的ではなかったろう。句に詠まれたのは普通の接木、たとえばシャクヤクにボタンを接ぐ、といったことではなかったか。

 それはさておき、4月の声とともにいわきのマチにも桜前線が到達した。6日には、ソメイヨシノが満開のなか、小中学校の入学式が行われる。里見さんは6年前のその日に亡くなった。短冊からそんなことにも思いが及んだ。

2015年4月2日木曜日

クレソンの若葉

 寒風にさらされて赤茶けた葉の間から、新しい緑の葉がのぞくようになった=写真。夏井川渓谷の隠居の近くにある小流れのクレソンだ。3月後半になると地温が上がってきたのか、小流れのそばの湿地でキクザキイチゲが咲きだした。渓谷に春がきたことを、まっさきにこの湿地で知る。
 隠居の庭の周辺は自然の恵みにあふれている。特にキノコは1年中発生する。冬はエノキタケ、春はアミガサタケ、梅雨どきはマメダンゴ(ツチグリ幼菌)、夏はチチタケ、秋は種々の食菌たち。そして、春のコゴミ(クサソテツ)やフキノトウ、ワラビ、秋のアケビ。山里ではそんなにカネがなくても、知恵とウデで暮らしを豊かに彩ることができる。

 3・11前のひとコマ――。年末に隠居へ出かけ、庭のフキノトウを摘む。1カ所だけフキが群生している。早いと師走のうちにフキノトウが頭を出す。それを摘んでみじんにし、元日の雑煮に散らしたり、「七草粥」や味噌汁に加えたりする。
 
 小流れは1年中涸れることがない。前にクレソンを放したら繁茂した。が、水かさがないから丈は低い。冬になるとかじかんで赤茶ける。春になるとぐんぐん青い葉を茂らせ、小流れを覆うほどになる。しばらくは採り放題だ。それが、ある日突然、できなくなった。
 
 3・11から4年――。セシウム134が半減し、同137も減衰して、放射線量は確実に少なくなっている。で、<いわき見える化プロジェクト「見せます!いわき情報局」>をのぞいて、データを確かめる。
 
 たとえば、ネギ。根が深いために線量の影響を受けにくいのか、いわき市内全域で「キロ当たり10ベクレル未満」、つまり「不検出」だ。この「状況証拠」を踏まえて、隠居で「三春ネギ」の栽培を再開した。
 
 いわきのフキノトウも「10ベクレル未満」になった。クレソンは1点だけ、16ベクレルがあったが、これだって「不検出」とそんなに隔たってはいない。ほかは、やはり「10ベクレル未満」だ。
 
 実際に口にする量は、フキノトウなら1個当たり10グラム前後を1つか2つ。クレソンだって100グラム程度だろう。とすると、「キロ当たり10ベクレル未満」は、さらにその100分の1、あるいは10分の1ということになる。
 
 市内のデータがそろってきたので、先日はフキノトウを摘んでみじんにし、みそ汁に放した。クレソンは大型連休まで待って、生をマヨネーズで食べようと思っている。ただし、野生キノコはまだ摂取ができない。精神衛生的には、これが一番こたえる。

2015年4月1日水曜日

ゴリラの涙

 夏井川渓谷といえば、春のアカヤシオ(イワツツジ)と秋の紅葉だ。いわきの平地でソメイヨシノが開花するころ、渓谷でもアカヤシオの花が咲きだす。きのう(3月31日)の陽気で開化したものがあるかもしれない。
 渓谷のどまんなか、牛小川の集落で支流の中川が本流に合流する。中川は、いわき市川前町の神楽山(かぐらやま=808メートル)から発する。滝の連続する短い流路だが、合流地点から少し上流に「天狗の重ね石」がある。

 いかにも天狗か巨人がひょいひょい石を重ねてつくったような奇観の断崖だ。谷を刻む流れはここで鋭くヘアピン状に屈曲する。断崖は、真横から見ればあいきょうたっぷりのゴリラの横顔、真正面から見ると船のへさきのように薄い。岩盤剥離(はくり)も進行している。
 
 1年にいっぺんはゴリラに会いに行く。7年前の写真や4年前の写真と比べると、やはり少しずつ変化している。

 大震災ではまぶたの下の岩がはがれて、そこだけ赤茶けた色を外気にさらしていた。4年たっても“赤ちゃん肌”のままだ。そばに生えていた松とツツジらしい幼樹は姿を消した。人間のすり傷はやがてかさぶたができて、元通りになる。が、岩のゴリラの傷はそのままだ。(夜になると痛くて涙を流しているのかな)

 おおむね花崗岩でできている夏井川渓谷は、日々、落石が発生している。中川渓谷も同様だ。3・11では渓谷の至る所で落石が起きた。それもまた、自然史のひとこまではある。
 
 きょうから新年度、そして「ふくしまデスティネーションキャンペーン〉初日だ。「天狗の重ね石」は、わが隠居のある夏井川渓谷の牛小川では、年間を通してPRしたい絶景のひとつだ。