2015年4月6日月曜日

古民家焼失

 新聞記事とIさんのフェイスブック情報に接して、<もしかして>が現実だったことを知る。
 阿武隈高地の川内村で4月3日早朝、建物火災が発生し、折からの強風にあおられて住宅など7棟が全・半焼した。火元は、震災後、川内村に進出した企業が地域のコミュニティセンターとして活用を始めた、かやぶきの古民家だった。

 グーグルアースで場所を確認し、ストリートビューで改修中の古民家を見た瞬間、この家には20年以上前に2、3度入っていることを思い出した。

 いわき地域学會が村の委託を受けて『川内村史』を編さんした。第3巻・民俗篇の口絵に、その家が載っている=写真。その家はのちに、浪江町出身の陶芸家のすまいになる。

 発足して間もない地域学會にとっては、力量の問われる一大事業だった。会員が定期的に村へ通い、調査を重ねた。30代後半の私も先輩たちに加わり、「幕末の川内の文芸」(第1巻・通史篇/近世第5章)と、「川内と草野心平」(同/現代第3章)を担当した。

 古民家を訪ねたのは、しかし、村史編さんが終わったあとだ。カミサンが川内に陶芸家夫妻が移り住んだことを耳にして、たまたま隣接する常葉町の実家へ線香上げに行った帰り、木戸川沿いにある工房へ立ち寄った。すっかり意気投合をして、ちょっと離れた集落にあるすまいへ案内された。

 そのときの文章の一部(『あぶくま紀行』いわき地域学會、1994年)。「古い民家に独特の、囲炉裏の煙りがこびりついたようなにおいが漂っている。どこからともなく現れた1匹のアシナガバチがまとわりついて離れない。棚や板の間の隅、畳の隅に大小の作品が並べられている。(略)用と美をまたにかけた、激しく静かなエネルギー」を、蓄積する時間のなかに感じたのだった。

 その翌年か翌々年、陶芸家のつくった方形の卓上七輪を使って、古民家で「マツタケ網焼きパーティー」が開かれた。中通りからの人たち、そして浜通り、いわきからは私たち夫婦と尊敬するドクターなどが参加し、生まれて初めてのぜいたくを楽しんだ。

 村史の調査当時、トタンで覆われたかやぶき屋根は何軒かあっても、昔ながらの外観をとどめているのは、町うちではその家くらいではなかったか。

川内にとどまらず、「あぶくまの宝」といってもいい文化財だった。村の復興に貢献しようと進出してきた企業、古民家の再利用・活用に希望を見いだした村民の落胆はいかばかりか。燻煙の名残を体感したつかの間の滞在者にも喪失感が広がる。

0 件のコメント: