2015年5月31日日曜日

ネパール・いわき、平成10年

 金曜日(5月29日)の夜、国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」のいわき駐在スタッフをわが家に招いた。近所の義伯父(故人)の家に住む。アルコールとおしゃべりと食べ物で、互いにたまった疲れをほぐした。
 カミサンがシャプラのいわき連絡会を引き受けている。昔は毎年のようにイベントを開いた。写真屋さんに現像・プリントを頼んでいた時代だ。写真屋さんがくれた簡易なアルバムをカミサンが出してきた。

 平成10(1998)年、つまり17年前の10月――。「聞いてみようよ ネパールのこと――ネパール農村女性たちの挑戦」と題する、シャプラニール全国キャラバンinいわき」を開いた。アルバムにそのときのチラシコピーが添えられていた=写真。

「ことしはシャプラニールがバングラデシュの他にネパールへの支援をはじめて3年目になります。ネパール・サルヤン郡での活動を通じて、現地協力NGOスタッフ、ラム・クマールさんがお話をいたします」。すっかり忘れていた。

 チラシを読み、写真を見て、思い出したことがある。ラム・クマール・シュレスタさんは私より2歳年上の詩人だった。現実には、シャプラと協力関係にある現地NGOの地域開発プログラム担当部長で、通訳のシャプラスタッフとともに、その夜、わが家へ来て一服したあとホテルへ帰った。そのとき、文学の話になった。座卓の上に私の詩集とコラム集が写っている。それらを彼に進呈したのだ。
 
 日曜日のけさ、念のためにフルネームで検索したら、平成25年度の外務省の記事に、在京ネパール大使館でエベレスト登頂60周年記念行事が行われた、それに出席するため、ラム・クマール・シュレスタネパール青年・スポーツ相兼平和・復興相兼文化・観光・民間航空相が来日し、外務大臣政務官と会談した――とあった。まさか彼が大臣に? それとも、同姓同名の別人?
 
 東日本大震災が発生し、シャプラが初めて国内支援に入った。現事務局長がいわき駐在スタッフの1人として、義伯父の家で寝泊まりした。
 
 彼がネパールに駐在していたとき、ラム・クマール・シュレスタさんから日本人の詩集のネパール語訳を頼まれたことがある――そんな話を、やはりわが家でアルコールとおしゃべりと食べ物で疲れをほぐしているときにした。それは私の詩集だよ、わけのわからない日本語だと思ったんじゃないの、というと、うなずきそうになったので大笑いした。そのことも思い出した。
 
 今度のネパール大地震では、シャプラはいち早く緊急救援活動を展開した。時間の経過とともに、被災者が必要とするものは変わっていく。東日本大震災の経験を生かして、息の長い支援活動を続ける。そのためには、やはり資金がいる。
 
 おとといは、私が水曜日(5月27日)のブログに書いた同期生から義援金5万円(会社として3万円、個人として2万円)が届き、夕方、シャプラがいわきで運営する交流スペース「ぶらっと」に持参した。身近な人たちからの「地の塩」ほどありがたいものはない。

2015年5月30日土曜日

ツバメのすむ町

 知人がいわき市小川町で老人介護の施設を運営している。新たに県道小野四倉線沿いに施設を建てた。
 その建物の北側外壁(2階部分)に、さっそくツバメが巣をつくった=写真。去年(2014年)はどうだったろう。今の時期、建物の建設が始まっていたかどうか。建設が始まっていたとしても、ツバメが営巣するような環境ではなかった。それが今年、あっという間に巣ができた。

 詩人の草野心平が、「上小川村」と題した詩で<ブリキ屋のとなりは下駄屋。下駄屋のとなりは……>と描写した一筋町のはずれ。近くに、心平の年譜を作成した長谷川渉(1934~93年)の生家がある。

 震災前、知人を介して平に住む渉の妹さんに会うことができた。心平の生家と渉の生家が近いこと、心平の子どもたちと仲が良かったこと、などを知った。駄菓子屋・大工・豆腐屋・精米屋・タガ屋・たばこ屋・床屋・肉屋・医院・馬車屋・金グツ屋……。どこにどんな家がある(あった)か、詳細な地図も書いてくれた。

 老人介護施設の近くに夏井川の支流・下田川が流れている。地図の家並みはそこで終わっている。川の向こうは田畑だったのだろうか。

 この一筋町を初めて通ったのは昭和39(1964)年、15歳の夏――。平高専(現福島高専)の寮に入って最初の夏休み初日、福島市出身の先輩・同輩3人と「徒歩帰省」を敢行した。初日夜に雨に見舞われたこともあって、2日目で計画を断念し、ヒッチハイクをして磐越東線夏井駅から汽車で帰省した。

 一筋町にはいろんな店があった。軒下にはツバメの巣。ツバメが通りを飛び交っていた。「ツバメのすむ町」という印象を持った。今も通りをツバメが飛び交っているが、半世紀前よりだいぶ数が少なくなったのではないか。

 が、「ツバメのふるさと」であることに変わりはない。家が建って、適当な軒下があれば、ツバメが巣をつくる。老人介護施設では2階の排気筒を利用して営巣した。
 
 心平生家の近くでも戸建て住宅が何棟か建設されている。その辺もまた「ツバメのふるさと」だ。ツバメの巣が復活するかどうか、気になる。

2015年5月29日金曜日

「ふんぎり」のとき

 わが家にときどき古着が届く。持ってくるのは主に近所の人だが、誰かわからないときもある。知り合いの老人介護施設へおむつ用に届けたり、「ザ・ピープル」のリサイクルに回したりする。
 連絡があれば取りに行く。車を運転するのは、私。先日はいわき市北部の個人の簡易倉庫=写真=まで取りに行った。フィットだからいくらも積めない。

 3・11のとき、津波に襲われた。火災に見舞われた地区からは離れていて、被害は軽微ですんだ。でも、防災緑地の建設エリアにある。建物を取り壊さないといけない。カミサンの知人の店で靴と衣類を売っていた。衣類だけでも出るわ出るわ、となるのは当然だ。

 簡易倉庫の隣にお寺がある。というより、寺の境内の一部を市が借り上げ、簡易倉庫を建てた。

 また連絡がきた。忙しくしている私を見て、カミサンが、母親の実家がそのお寺だという近所の若い奥さんに声をかけた。おととい(5月27日)、きのうと車を出してくれた。帰りはお寺に寄ってお茶を飲んできたそうだ。お寺も天井近くまで浸水した。

 お寺の奥さんの旧姓とカミサンの旧姓が同じだった。7代さかのぼれば誰でも親戚になるが、今は、つながりはない。カミサンの実家と同じ宗派のお寺でもあるので、だいぶ話がはずんだらしい。

 3・11から5年目、「ふんぎり」のときがきた。「ダンシャリ」というには大きすぎる整理だ。さほど生活が破壊されなかった内陸部の人間と違って、沿岸部の人たちは今、新たな一歩を踏み出そうとしている。すでに踏み出した人もいる。自然災害だけであれば、もっと早くにそうなっていたのだろう。

2015年5月28日木曜日

歯科医の「3・11」

 3・11の歯科医療活動は意外と知られていない。元いわき市歯科医師会長中里迪彦さんがその話をするというので、昨夜(5月27日)、いわき市文化センターへ出かけた。仲間が主宰する「ミニミニリレー講演会」で、月2回のペースですでに420回を超える。ざっと17年以上続いていることになる。
 中里さんはかかりつけの歯科医だ。息子たちが幼いときにみてもらい、私も虫歯の治療に通うようになった。今は2代目の若先生にみてもらっている。

 街で出会うと決まって立ち話になる。治療の合間にも話しかけてくる。こちらは「アー、アー」とうめいてうなずくしかない。「歯科医の3・11」は、たしかいわき駅前再開発ビル「ラトブ」の1階でばったり会ったときに聞いた。メディアは報じていなかったなぁ、記者のネットワークはどうなってるんだ――なんて思ったことを覚えている。

 あのとき、いわきの歯科医師有志は水道が復旧した市総合保健福祉センターで、3月15日から4月3日まで救急歯科診療所を開設した。4月に入ると、他県(富山・岐阜・和歌山・大阪)から歯科医師のチームが来市し、避難所を巡って診療した。中里さんはチームに同行した。被災者であり、私服での参加でもあったので、「挙動不審者」に間違われたこともあったという。

 口内は菌の格好のすみかだ。湿っている。栄養(食べかす)が豊富。表面の好気性菌も、歯茎のすきまの深部にすむ嫌気性菌も、水がなくて歯の清掃が行われないと、たちまち繁殖する。すると、歯肉炎や歯周炎などが急性化する。災害時には歯科医療の面からも水の確保が重要になるという。

 それとは別に、中里さんは津波で亡くなった人たちの身元確認に従事した。立ち話のなかでそのことを聞いていた。

 中里さんから個人的にいただいた資料によると、3月18日から7月末まで、歯科医師会有志13人が安置所に通い、身元の判明していない遺体の歯の状況を細かく記録し、警察の鑑識に提供した。歯科医師側2人、警察側1人の3人1チームで作業を続けたという。
 
 福島県、なかでもいわき市は1Fに近く、原発事故が発生すると食糧・ガソリンなどが外から届かなくなった。それが、歯科医療活動にも影響した。ガソリンがない。市外からの応援チームの宿舎の確保もままならない――。

 これらの教訓を踏まえて、2013年1月、いわき市歯科医師会は市と「災害時の歯科医療救護活動等に関する協定書」を結んだ。災害時の応援チームの宿舎として、競輪選手の宿舎を活用することが決まった。

 義歯は、人間が白骨化しても残る。義歯に名前があれば、容易に身元の確認ができる。超高齢社会に入った今は、老人保健施設や福祉施設でも義歯の清掃管理がしやすくなるだろう――。「歯科医の3・11」に触れて、「いわきの3・11」というジグソーパズルの空白がひとつ埋まったように感じた。

2015年5月27日水曜日

「寄付したい」

 50年近く前から知っている喫茶店「純」(最初は平駅前、今は内郷にある)でのこと。先代の三遊亭円楽そっくりだったマスターが亡くなったあとは、ママさんが店を切り盛りしている。われわれが「団塊の世代」だからだと思うが、モーニングコーヒーと同時にフキ・ワラビ・タケノコ・厚揚げの煮物が出た=写真。
 平高専(現福島高専)の同期(3期)生がいわきをエリアに、5月23~24日と旅行会を開いた。首都圏組と地元いわき組、合わせて12人が参加した。常磐の温泉旅館に泊まった翌朝、「純」へ足を運んだ。前夜、親戚でもある仲間の一人がママさんに連絡した。それで、煮物をつくって待っていたのかもしれない。

 旅館では広間で懇親会、部屋で2次会が開かれた。私のブログを読んでいる人間が半分はいる。深夜、それぞれの部屋に戻って3次会になった。私らの部屋は5人。最後は3人で私のブログの話になった。ほめられたり、けなされたりした。

 その前、2次会のときだったと思う。学生のころや会社に入りたてのころの話になった。「コンピューターを設計する(といったと思うが)のに、そろばんと筆算でやった」。アナログからデジタルへ――そんな時代の変革期を仲間は生きてきた。私は早々と文系に切り替え、3行の原稿用紙に鉛筆で記事を書く仕事に就いた。

 飲み会の席では面白い話が次から次に飛びだす。箸袋でも、茶菓子を載せた紙でもいい、余白にピンときた言葉をメモする。40年来の習慣だ。

 そのひとつが「そろばんと筆算」だった。「こういち3万円→シャプラ寄付したい」もあった。「こういち」は学校の同窓会長だ。「シャプラ」は「シャプラニール=市民による海外協力の会」のことだ。バングラデシュやネパールで活動している国際NGOで、東日本大震災で初めて国内支援に入り、いわきで交流スペース「ぶらっと」を運営している。

 私ら夫婦が関係しているのをブログで知り、平高専の人間がNGOの創設に関係していることを知ったからこその、「寄付したい」だったのかもしれない。

 きのう(5月26日)の夜、そのメモを見て「こういち」に確認の電話を入れた。ネパール大地震から1カ月がたったことも、頭にあった。「震災のときに世話になったからな」という。彼が直接、シャプラニールの世話になったわけではない、いわき市民、あるいは相双の避難民が世話になった――そういう意味でシャプラの恩をネパールに返す、という気持ちになったらしい。

 フキやワラビの煮物もうれしかったが、ネパール支援のためにシャプラに寄付したい――という仲間の気持ちがもっとうれしかった。

2015年5月26日火曜日

山砂の庭がまぶしい

 学生時代の仲間と常磐の湯本温泉に泊まり、朝帰りをした。それからすぐカミサンの仕事(米屋)を手伝って、夏井川渓谷の隠居へ向かった。途中、ところどころにヤマボウシの花が咲いていた=写真。
 5月24日、日曜日。3週間ぶりに緑の谷間で過ごした。溪谷でもヤマボウシが花をつけていた。市街から溪谷あたりまでは、ヤマボウシは「6月の花」だ。晴天続きで開花が早まったのだろう。

 隠居の庭で少し土いじりをした。三春ネギの苗床に生えたスギナを引っこ抜く。前回、地面を掘って生ごみを埋めた隣に、同じようにスコップを入れて生ごみを埋める。ネギの定植エリアに石灰をまき、土を起こす。これを、隠居で朝寝をし、昼寝をしながらやった。ほんとうは夜明けとともに始め、「朝めし前」に終わって、日中はごろんとしているのが一番なのだが。

 谷風が川の上を下流から上流へと吹いている。岸辺の木の葉が波を打っているのでわかる。とはいえ、少し離れた隠居の庭ではそよとしか吹かない。土いじりに熱中すると、文字通り「熱中症」になりかねない。がんばりすぎて気持ちが悪くなったときがある。以来、少し動いては休み、休んでは少し動く――を心がけている。

 毎日、土いじりをする人は一日の仕事を定量化できる。週末だけ、それも3週間ぶりとなると、後日の作業も計算に入れてついつい熱中してしまう。それがよくない。暑い日には、集中しても熱中しないことだ。瞬間的にがんばっても、継続してがんばらないことだ。
 
 1年半前の2013年12月、庭の全面除染が行われた。表土がはぎとられ、山砂が投入された。庭に立つと、山砂が日光を反射してまぶしい。サングラスが欲しくなる。山の「海の家」だ。庭がまぶしいのもがんばらない理由のひとつではある。
 
 1年目。「砂浜」にスギナが生えた。地下茎が広範囲にわたって残っていたらしい。同じように取り残された鱗茎からスイセンが芽を出し、花を咲かせた。実生のカエデ、フジがあちこちにあらわれた。
 
 スギナは厄介だが、土の流失を抑える役目を果たす。下の空き地からはい上がってきたクズもそうだが、こちらは放置すると家にまで迫ってくる。
 
 2年目の今年はスギナがかなり庭を占めている。オオイヌノフグリ、アカツメグサ、シロツメグサ、キンポウゲ、ニワゼキショウが咲いている。ハハコグサは咲き終わった。
 
 庭を除染したのは、以前の健康な緑を取り戻すためだ。その過程で白い庭に草が生える。1年目より2年目、2年目より3年目と草刈りが大変になる。それを繰り返してこその、庭の“復活”だ。キノコのマメダンゴ(ツチグリ幼菌)も“復活”すれば、いうことはない。期待はしないが、1カ月後が楽しみ。

2015年5月25日月曜日

「近況報告」

 朝5時半に目をさました。多少頭は重い。二日酔いというよりは寝不足だろう。温泉旅館の5階の部屋から目覚めつつある坂の街を眺めた=写真。
 犬を連れた人、速歩の人、新聞配達の少年が現れる。旅館の裏口にごみ収集車が到着する。6時台後半にはネクタイに背広姿の男性、スーツ姿の女性が街の方へ下りてくる――日曜日(5月24日)早朝のいわき湯本温泉街。目覚まし時計の代わりに、かごぬけ鳥のガビチョウが騒々しく鳴きだした。

 年に一回、“海外修学旅行”をする平高専(現福島高専)3期生の仲間が、機械工学(M)、工業化学(C)の両科合わせて7~8人いる。電気工学科(E)の同期生とはなぜか交流がない。C3主体の旅行会が5月23~24日、いわきで行われた。M3の人間も含めて12人が参加した。

 先輩から後輩までの有志が参加する、同窓会とは別の縦の集まりがある。その新年会が今年1月、同じ旅館を会場に開かれた。“海外修学旅行”組はあらかた参加した。

 旅行会では初日、いわき駅(旧平駅)裏・物見が岡の磐城平城本丸跡地を見学し、母校~白水阿弥陀堂(内郷)~市石炭・化石館(常磐)を訪ねたあと、温泉旅館で懇親会に臨んだ。翌日は、内郷の喫茶店「純」=平高専が開校したころは平駅前の三田小路にあった=でモーニングコーヒーを飲んだあと、希望者が小名浜などの沿岸部を巡った。
 
 私は夜の懇親会に参加し、モーニングコーヒーを飲んで別れた。12人のうち5人とは数年ぶり、あるいは十数年ぶりの再会だった。今はいわき組を除いて首都圏に住むが、もともとのふるさと(当時の自治体)は福島市、郡山市、三春町、常葉町、平田村、楢葉町、四倉町、平市、内郷市、勿来市、茨城県十王町とさまざまだ。

 懇親会では、自然発生的に「近況報告」が行われた。囲碁・短歌・陶芸・家庭菜園を楽しみながら自治会の役員をしている者、会社役員を続けながらマラソンに挑戦している者、野菜その他の放射性物質を検査する仕事に就いている元行政マン、バードウオッチングにハマっている者……。それぞれが忙しく、あるいはゆうゆうと過ごしている。

 <団塊の世代>は今や、「会社」への貢献から「社会」(コミュニティ)への貢献、つまりボランティア活動に時間を割く人生の仕上げの時期を迎えた。それを実践している仲間がいる。実践する仲間も増えるだろう――そんな感想を抱かせる、気持ちのいい「近況報告」だった。

2015年5月24日日曜日

なんの葉痕?

 きのう(5月23日)はいわき湯本温泉泊まり。珍しく二日酔いにならずに帰ってきました。
                 *
 夏井川渓谷の隠居の庭にシダレザクラが2本ある。植えてから15年余りたつ。結構な高さになった。幹も太い。その根元にカレハガの幼虫がいた。樹皮に溶け込んだような灰色をしている。体長は10センチ弱。大きな幼虫だ。頭部近くの背面に、なにかの木の葉痕ではないかと思わせるような文様がある=写真。
 
 冬の渓谷の楽しみは落葉した木々の枝の断面を観察すること。たとえば、オニグルミ。枝の尖端に頂芽をいただく「兜をかぶったミツユビナマケモノ」の下に、「モヒカン刈りの面長レスラー」がいる、あるいは左右に伸びる枝のすぐ上に「目覚めたばかりのヒツジ」がいる。ひとつひとつ葉痕の表情が違うのだ。

 フジは「困って眉を寄せた肥満顔」、アジサイは「長い頭巾をかぶった三角顔」、サンショウは「十字架を背負った殉教者」。クズはたぶんだれもが「パンダの顔」を連想する。断面の維管束痕の位置から哺乳類の目・鼻・口などを連想させる。隠居の周りの木々にはいろんな文様の葉痕がある。

 カレハガ幼虫の背中の“葉痕”はしかし、どの木の葉痕とも似ていない。が、葉痕と思わせる文様にはちがいない。なぜ、こうした類似が起きるのか。偶然なのか、なにか相互に影響し合う仕掛けが自然界にはあるのか。

 つぶさに見れば見るほど、自然は不思議に満ちている。レイチェル・カーソンのいう「センス・オブ・ワンダー」(不思議さに目を見張る感性)に包まれる。
               *
 これからその夏井川渓谷へ向かいます。きょうはどんな「ワンダー」が待っていることやら。

2015年5月23日土曜日

銀色のスズメ

 銀色の金属柵に銀色のスズメが4羽=写真。うち1羽はちょっと離れたところから3羽と向き合っている。3羽も真ん中の1羽は表情が違う。尾羽もピンと上げている。
 フェイスブックの友でもある、いわき市出身の若いカメラマン吉田和誠(あきとも)クン=京都=が1月中旬、自分のタイムラインにこのスズメたちの写真をアップした。銀色のスズメを見てそんなに日がたたないころ、近くの国道6号を車で走っていると、助手席のカミサンが叫んだ。「写真と同じスズメの柵がある!」

 運転している人間は気づかない。あとで場所の見当をつけてチラ見をしたが、やはりわからない。銀色のスズメがどこにあるか、はっきり認識できるようになったのはつい最近だ。
 
 きのう(5月22日)、近くまで車で行き、国道沿いの歩道をしばらく歩いて初めて銀色のスズメに対面した。あとでグーグルアースでチェックしたが、そこは3面舗装の排水路・三夜川が国道をくぐって横断するところ。歩道に沿ってフェンスが張られ、空きスペースのある右岸に柵が2つ設けられていた。車止めというよりは子どもが入り込むのを予防する柵のようだ。
 
 メーカーの開発エピソードをネットで読んだ。子どもが金属柵にのって落っこちるのを防ぎ、併せて楽しいエクステリアになるよう、物語性を持たせたのだとか。製品名は「ピコリーノ」。イタリア語の「ピッコリーノ」(とても小さくかわいらしいもの)からきている。モデルになったのはスズメらしいが、限定はしていない。私は第一印象から「銀色のスズメ」と呼ぶ。
 
 実は銀色のスズメに対面する前、若いカメラマン氏に聞いてみた。アップした写真はどこで撮ったのか――山形県米沢市だという。あちこちに銀色のスズメがいるらしい。でも、いざ探すとなるとなかなか見つからない、という答えだった。そうかもしれない。いわきに何カ所あるかわからないが、“発見”できたのはまだそこだけだ。
 
 いわき市北部の国道6号は3・11後、目に見えて交通量が増えた。相双地区などからの避難民2万4千人余がいわき市に定留している。朝は事故を起こした1Fや双葉郡の除染作業などに北上する車列ができる。夕方はその逆。ピコリーノたちはどんな気持ちで国道を行き来する車を眺めているのだろう。

2015年5月22日金曜日

ヤギがいた

 5月初旬、夏井川渓谷から支流の中川沿いにつづら折りの林道を車で駆け上がった。いわき市川前町川前字外門(ともん)。中川流域では最初にして最後の小集落だ。そのはずれ、小川のへりにヤギがいた=写真。杭が打ってある。そこにロープでつながれている。その辺一帯には丈の高い草はない。ヤギが“除草”したのだ。足元は土が露出している。
 ヤギを見て、すぐ哲学者内山節(たかし)さんの“文章”を思い出した。どこに書いてあったんだっけかな――本棚にある40冊余りの彼の本を、時間をみつけてはパラパラやったが、いつも空振りに終わった。

 きのう(5月21日)、同じ並びに置いておいたいわき市発行『「いわき宇宙塾」講演記録集11』(2001年)の内山さんの講演録にあたったら、すぐ出てきた。灯台下暗し、とはこのこと。

フランスの山里を訪ねた。標高1000メートル。土地はやせている。小麦やジャガイモをつくっても大した収穫にはならないだろう。そんな土地柄だ。が、そこに住む人間は自分たちの地域を誇らしく思っている。

「日本ですと、ここは農地が大変少なくてこういうものしか作れない地域だからとか、ここは大変条件が悪くてとか、どちらかというと自分の地域を問題があるかのごとく表現する人が多いわけですけれども、向こうの農民たちというのはそうは言わないんです。堂々とここはヤギに大変適した地域だというふうな言い方をして、それは大変いいなという気がいたします」

「いわき宇宙塾」は、市民がまちづくりに参画するうえで、まず自分たちの住むいわきという地域を知ろう、まちづくりの事例を学ぼう――そんな趣旨で市役所が始めた講座だ。10年以上続き、年度ごとに講演記録集を出した。その記録が手元に残っていたからこそ、14年後の今、ヤギに関する哲学者の発言を正確になぞることができた。

 当時の状況も思い出した。近所に住む義伯父が前日に亡くなった。葬儀の準備は私がするからと、内山節ファンの私を気遣ってカミサンが講演を聴きに行くようにと背中を押したのだった。初めて生身の内山さんを見た。ヤギと土地と村人の“言葉”が深く胸に刻まれた。

 自分たちが住んでいる地域を「何もないところだから」とネガティブにみるか、「いや、これがある」とポジティブにみるかで、まちづくりの方向性やエネルギーは違ってくる。「ないものねだり」ではなく、「あるものさがし」をしよう――ヤギと土地と村人の話に、まちづくりの原点が重なってみえた。

2015年5月21日木曜日

ぬか漬けは難しい

 5月の連休中に「ぬか床」をつくった。捨て漬けをし、試し漬けを繰り返しながら、ぬか床が熟(な)れるのを待っているが、まだまだだ。
 このごろの試し漬けは、キュウリとカブが中心=写真。ニンジンも試した。きのう(5月20日)は、カミサンが「アクが強いのに」とかなんとかブツブツ言ったが、細いゴボウを差し込んだ。

 東日本大震災の直後(その年にかぎって冬もぬか床を利用していた)、原発避難をしたこともあって、10日ほどぬか床は酸欠状態になった。表面がびっしりカビに覆われていた。それを払うと下はまだ生きていた。

 そのぬか床が去年(2014年)の夏、おかしくなった。虫がわいたり、ぬか床の表面と漬けた大根が黒ずんだりした。雑菌が繁殖したのだろう。いろいろ手を加えてはみたが事態はよくならない。もうこれまでと観念して処分した。

 新しいぬか床は塩分を控えめにした。毎日の食卓で出る肉汁の残りやシャケの皮(ふだんは食べている)もぬか床の栄養にした。ところが、2週間もたたないのに、かき混ぜるとかすかなシンナー臭がする。試し漬けのキュウリもそれに染まって後味が悪い。
 
 これまでにも何度かシンナー臭には悩まされてきた。ぬかと食塩を加える、かき混ぜる回数を増やす、唐辛子を投入する、といったことで、なんとかしのいできた。今度もそうした。食塩が足りないのは、最初からわかっていたことだ。夏のような5月の暑さも影響しているのかもしれない。
 
 ぬか床は明るい台所に置いてある。いつかは北側の階段の下に移さないといけない。ぬか床にふさわしい環境は冷暗所だからだが、大きな農家と違ってわが家にはそれがない。真夏に毛皮をまとった猫が眠っているところ、それがぬか床の“避暑スポット”でもある。

 ついでにいえば――。先日亡くなった長田弘さんの詩集『食卓一期一会』のなかに「ぬかみその漬けかた」がある。そのなかの2行。<漬けるものは何だっていい/君の時間を漬けてみるといいよ>。シンナー臭を通りこしてアルコール臭がするから、それはしない。

2015年5月20日水曜日

やっとオオヨシキリが

 例年は5月の声を聞くと、夏井川のヨシ原(今はまだ枯れヨシの合間に若いヨシが伸び出したばかり)にオオヨシキリのさえずりが響く。
 朝晩、堤防の上を散歩していたときには、飛来日がはっきりわかった。大型連休の終わりごろ――それが、南から平中神谷地内の夏井川にオオヨシキリの雄が到着し、さえずりだす日だった。
 
 2012年暮れに体調を崩し、散歩の自粛を言い渡されてから、堤防を歩くのをやめた。代わりに、用事があってもなくても、車で行き来する回数を増やした。その意味ではこの3年、夏井川に現れる鳥たちの初見や初鳴の記録は、「私にとっての初見や初鳴」でしかない。

 5月10日の日曜日。内陸部の平中平窪地内の水田地帯を車で通っていたとき、ヨシ原に替わった休耕田でオオヨシキリの鳴き声を聞いた。「あれ、こんなところで?」。飛来しても不思議ではないが、小さなスポットだ。雌は来るのか、巣はできるのか――「どんなに頑張っても、もてない男はいるからなぁ」なんては思わなかったが、それに近い感情を抱いた。
 
 それから6日後の土曜日(16日)。いつものように車で堤防の上を通っていると、ヨシ原とその近辺で何羽もオオヨシキリがさえずっていた=写真。飛来が遅れた分、一気にやって来た。そんな感じだ。
 
 雄のキジがあちこちで鳴き、ときに河川敷に姿を見せる。ウグイスがさえずり、ツバメが上空を飛び交っている。カルガモも中州で昼寝をしている。それらに、オオヨシキリのけたたましい鳴き声が加わった。
 
 そうだ、この30年で何が変わったかというと、散歩コースにしていたエリアからカッコウの朗らかな歌が消えたことだ。もう一度、夏井川の堤防で「カッコー、カッコ―」を聞きたい。いや、孫に聞かせたい。
 
 カッコウはオオヨシキリやホオジロ、モズ、オナガなどの巣に托卵する。それらの鳥はいるのに、カッコウだけが沈黙を続けている。郡山、会津若松、仙台、札幌などの「市の鳥」はカッコウ。北へ行くほどカッコウは市民に親しくなる。夏を過ごすには、いわきの平地は暑すぎるようになった、ということか。

2015年5月19日火曜日

「シャプラだから寄付」

 インド料理の店「マユール」からカミサンに連絡があった。国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」提供の募金箱=写真=が重くなった、ひとまず1回分を贈りたいという。きのう(5月18日)、受け取りに行った。きょう、カミサンが平の交流スペース「ぶらっと」に届ける。「シャプラだから寄付する」という人がいたという。合計でン万円はあるようだ。
 何度も書いているが、シャプラはバングラデシュやネパールで「取り残された人々」の生活向上支援活動を展開している。東日本大震災では初めて国内支援に入った。北茨城市から、原発事故も重なって緊急救援の手薄ないわき市へ北上し、そこにとどまり、今も「ぶらっと」を運営している。

 私ら夫婦がシャプラとかかわるようになったのは、43年前の1972年。シャプラの前身「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」を立ち上げた一人が、福島高専の同じ寮の部屋で寝起きしたいわき生まれの男だった。

 同じ釜の飯を食った寮仲間と復帰前の沖縄を放浪したあと、私はいわきで新聞記者になった。彼は東京にとどまり、バングラデシュが大変な犠牲を払って独立すると、キリスト教系の団体が組織した復興農業奉仕団に参加した。

 彼は帰国後、奉仕団の有志と「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」を結成したあと、組織を離れて週刊誌記者になった。一方で、カミサンが一人でシャプラのいわき連絡会を立ち上げた。
 
 2011年3月27日午前、震災・原発事故で騒然とする中、わが家にシャプラの副代表、事務局長、国内活動グループチーフ(いずれも当時)の3人がやって来た。震災後、初めて連絡が取れた。野菜の差し入れがありがたかった。
 
 シャプラがいわきで支援活動を展開しているのは、創設時のいわきの人間の遺伝子が生きているため、と私は勝手に解釈している。だからこそ、今度のネパール大地震でのシャプラの救援活動を応援しないわけにはいかない、とも考えている。

 いわきへやって来た副代表氏は、今回、たまたまバングラデシュで事業評価中に大地震の報に接した。すぐさまインド経由でネパールへ向かい、緊急救援活動を続けた。前事務局長氏もネパールへ飛んだ。なによりもネパールにはシャプラの現地事務所がある。情報がリアルタイムで入ってくる。スピード感はピカイチではなかったか。

 シャプラは国際NGOとしての実績と信頼がある。マスメディアにも登場する。とはいえ、大々的に広報活動を展開するような団体ではない。資金も潤沢とは言い難い。できるだけ多くいわきからシャプラにネパール救援の活動資金を――という一点だけで、しばらく勝手にPR役を続ける。

2015年5月18日月曜日

運動会のはしご

 土曜日(5月16日)の朝6時、花火が打ち上げられた。地元の小学校の運動会が予定通り開かれる。と思ったとたん、霧のような雨が降りてきた。やがて本降りになった。
 時間になっても、わが家の前の歩道(通学路)を通る子どもたちがいない。「花火が上がったからやるんじゃないの」「登校しないもの、やらないわよ」。リアルな見方をする人の方が正解だった。学校から保護者への連絡網を通じて、「順延」がすぐ伝わったのだろう。

 日曜日は早朝、曇りで明けた。それがだんだんと晴れになり、気温が上昇した。絶好の運動会日和になった。登校時間になると、外を行く元気な声が茶の間に伝わってきた。

 学区内の区長や民生委員に運動会の招待状が届く。開会式に顔を出した。隣の小学校でも同じように、順延の運動会が開かれた=写真。そちらの学校には孫(2年生)が通っている。車で運動会をはしごした。

 行きつけの魚屋さんの駐車場に車を止めた。去年もそうした。今年はまだ店のシャッターが閉まっていたので、夕方、カツオの刺し身を買いに行ったときに「無断駐車」をいおうと思ったが、たまたま2階から若だんなが顔を出した。車を指さし、学校の方を指さすとうなずいた。

 保育所の運動会はまだしも、小学校の運動会はその他大勢の1人になって、どこに孫がいるかわからない。入退場門のそばで見つけてもすましている。夕方、「カツ刺し」を買いに行って若だんなにその話をすると、「大人になったんですよ」。

 たしかに、1年生のとき以上に学校生活に慣れ、楽しんではいるようだ。2年生だ、という思いもあるからこそ、ジイジとバアバに声をかけられても、頭をなでられても無視、と決めているのだろう。

 家に来ればからみついて「ハゲタマ―」と頭をペタペタやる孫が、運動会では「白勝て」「赤勝て」と集中している。小学校という「社会」のなかでそれぞれが独立した「個人」として、「大人」として振る舞うのは当然か。

2015年5月17日日曜日

海岸の枯れたクロマツ

 わが家から夏井川の河口までざっと5キロ。ときどき太平洋を眺めながら、海岸線に沿って伸びるクロマツ林の縦貫道路をドライブする。河口左岸、四倉寄りの一部区間が海岸堤防工事のため、2016年3月末まで通行止めになっている。
 江戸時代初期、上総から磐城平に移った内藤の殿様が、海岸近くの田畑を守るためにクロマツを植えた。防風・防潮林は以後、歴代の領主・幕府代官が保護した。明治2年の版籍奉還後は国有林に編入された。街道の松並木を含めて、地元では「道山林(どうざんりん)」と呼ぶ。「道山」は殿様、内藤政長の法名「悟信院養誉堆安道山大居士」からきている。

 東日本大震災では、海岸堤防・クロマツ林・横川(夏井川と仁井田川をつなぐ)・河川堤防などがバリアになり、大津波の被害を軽減させた。新舞子の南、豊間と薄磯は壊滅的な被害を受けた。沖釣りをする人間によると、豊間と薄磯には磯がある。しかし、新舞子にはない。この海底地形も被害の大小に関係しているようだ。

 クロマツの単一林は大きな代償を払った。次第に“茶髪”になり、立ち枯れた。湯澤陽一いわき地域学會顧問(植物学)によると、塩分の浸透圧が原因だ。津波が運んできた塩分を過剰に摂取したために、脱水症状をおこした。

 松林がスカスカになっている。林内には伐採・切断されたクロマツが点々と積み重ねられている。“茶髪”はやがて黒ずみ、落葉して、さらにスカスカした状態になる=写真。潮風が吹き抜けていく。

 津波被害が甚大だった久之浜や薄磯、豊間などでは防災緑地づくりが始まった。コンクリートの海岸堤防の内側に盛り土をして苗木が植えられる。
 
 4月11日に久之浜防災緑地で植樹祭が行われた。350人が参加し、クロマツやスダジイなど11種2000本が植えられた。海岸堤防は地盤沈下をした分、かさ上げされて海抜7.2メートルに、防災緑地はそれより1メートル高い8.2メートルになるという(いわき市発行「ふるさとだより」2015年5月号)。

 新舞子の海岸道路をドライブするたびに、ここもクロマツだけでなく、本来の照葉樹を混交して、より多様・多層な林になるといいな、と思う。

2015年5月16日土曜日

「猛烈な天」

 いわき市小川町の草野心平記念文学館へ行くと、真正面のアトリウムロビーに立って、分厚いガラス壁面越しに二ツ箭山と向かい合う。壁面に心平の「猛烈な天」がプリントされている。その天は、実際には灰色だったり青色だったりする。日曜日(5月10日)に訪ねたときには、青空に白い雲が広がっていた=写真。
 その日は、月3回ある行政関係の回覧物を地区の役員さんに届ける日でもある。朝9時から小一時間で配り終え、夏井川渓谷の江田地区へ直行して隠居の地主さんに地代を払ったあと、とんぼ返りで文学館を訪ねた。

「草野心平の詩 視覚詩編」が6月14日まで開かれている。「冬眠」というタイトルの作品は、原稿用紙の真ん中に「●」があるだけ。「Q」でおたまじゃくしを、「ろる」を空間的に散りばめてカエルの抱接(交尾ではない)を表したものなど、意味を考える前に見て楽しむ作品が展示されている。

「読む」(コミュニケーション)より、「感じる」(バイブレーション)――文学より先に美術があった人間らしい“超詩”だ。

 さて、ガラス壁面に記された心平の詩は「猛烈な天」。3連11行の第1連を記す。
 
 血染めの天の。
 はげしい放射にやられながら。
 飛びあがるやうに自分はここまで歩いてきました。
 帰るまへにもう一度この猛烈な天を見ておきます。

 目の前に広がる二ツ箭山の南面は、大昔、断層を境にしてずり落ちた。「地球動乱」時代の「猛烈な天」の下、いわきでは3・11のちょうど1カ月後、湯ノ岳断層が動いた。東日本大震災以来、大地のバランスが崩れている。二ツ箭断層が動くかもしれないという思いと、動くなという思いが交錯する。

2015年5月15日金曜日

平は「真夏日」

 きのう(5月14日)は早朝5時すぎ、いつもの日より1時間は早く家の前の電柱にごみネットのロープをくくりつけた(たまたま早寝早起きになった)。車が3台、わりとスピードを出して東へ向かっていく。どこへ? 1Fかどこかの除染現場だろう。旧道を行くということは、国道6号ではなく、交差する山麓線(県道いわき浪江線)に折れて北上するのかもしれない。
 車列を目で追っていたら、斜め向かいの家のソメイヨシノの奥が赤く輝いていた。家の2階から見ると、大きい火の玉のような太陽が家並みの上にあった。道路からは太陽がまっすぐ光の矢を放ってくるように見える。まぶしい。

 テレビでは、お天気キャスターが熱中症に注意するよう呼びかけていた。朝食後、いつものように茶の間で仕事を始めた。が、午前10時ごろには屋根から降りてくる熱気と庭の照り返しとで背中が熱くなった。耳元で「ブーン、ブーン」とうなる虫。今年初めての蚊だ。さっそく、去年の残りの蚊取り線香をたいた=写真。
 
 午後になると室温は27.9度に上昇した。あとでいわき駅前を通ったら、デジタル温度計が「30°」を表示していた。平は「真夏日」になった。気象台、つまりテレビがそれを受けて伝えるいわきの最高・最低気温は、沿岸部の小名浜の観測データだ。きのうの最高気温は24度。「夏日」にもならない。
 
 もう40年以上思っていることだが、いわきの「公式気温」はいわきの大半の住民の感覚とずれている。小名浜からひとつ丘を越えた内陸部とは、きのうでも5度以上違う。広域都市・いわきの場合は「ハマの気温」「マチの気温」「ヤマの気温」と3つの表示が必要ではないか。
 
 それはともかく、5月中旬でこの暑さだ。わが家に蚊が出現するのは、例年5月20日(蚊に刺された最初の日をずっとメモしてきた)。ほとんど変化がない。が、今年はほぼ1週間早く出現した。
 
 今年は春が早かった。この調子では夏も早そうだが、しかし5月に「真夏日」はきつい。早いだけでなく、酷暑の度合いも強まるのではないか。もう茶の間では秋まで仕事ができないかも――などと思いながら、外へ出ると、阿武隈の山並みに真っ赤な夕日が沈むところだった。朝と同じくギラギラした火の玉だった。エアコンのない、開放系の家である。扇風機を出さないと――。

2015年5月14日木曜日

年下の“戦友”の死

 きのう(5月13日)の昼、知人から電話がかかってきた。Nクンが亡くなったらしい、という。Nクンは昔からつきあいのある鍼灸(しんきゅう)マッサージ師だ。すぐ好間の自宅へ車を飛ばした。東京に住むという弟さんが応対してくれた。
 Nクンの死が現実になった。「顔を見てやってください」。焼香したあと、白布をとって額に張りついていた前髪を元に戻した。冷たく、ものいわぬ仏になっていた。私より一回り以上も下の、まだ53歳だ。

 Nクンは内郷に治療院を構えていた。しかし、出張してマッサージをすることが多かった。おととい午後は、自宅近くの家に行く予定になっていた。約束をたがえたことのないNクンが、時間を過ぎても現れない。患者さんがNクンの自宅を訪ねると、庭の一角に倒れていた。心筋梗塞らしい、ということだった。

 Nクンは、わが家の近く、カミサンの伯父(故人)の家を借りて治療院を開いていたことがある。内郷へ移ってからは、出張マッサージの帰路、わが家へ寄ってよくカミサンと話をしていた。

 3・11のときには四倉で出張マッサージをしていた。大地震に続いて津波が押し寄せた。患者のおばあさんを車に乗せて避難し、わが家を経由して近くの公民館へ向かった。その足でまたわが家へ来て、毛布を持って行った。カミサンがおにぎりを渡した。

 国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」がいわきで緊急救援活動を行い、やがて交流スペース「ぶらっと」を開設・運営すると、彼も手を挙げて「健康運動教室」を開いた

 主に借り上げ住宅に入居した地震・津波被災者や原発避難者が教室に通い、しこった心身をほぐした。後発ながら、たちまち「ぶらっと」一番の人気教室になった。「ぶらっと」が今のスカイストアに移ってからはサークル化し、斜め前にあるティーワンビルのいわき生涯学習プラザを会場に、おばさんたちが毎週楽しく体を動かしている。
 
 2年前の2013年8月、平七夕まつり最終日に開かれる「いわきおどり大会」では、東京からのツアー客も加え、「ぶらっと」利用者、ボランティア、スタッフらがいわき駅前の大通りを踊り歩いた。Nクンはひとりカラフルなキャップ(かつら?)をかぶって先頭に立った=写真。
 
 彼の家の近くに詩人三野混沌(吉野義也)と作家吉野せい夫妻が開墾した土地がある。息子さんが家に戻ってきたために、荒れた土地がよみがえった。「吉野さんの土地がきれいになったね」「ええ、それで自分ちの庭が気になって」。4月中旬、わが家へやって来たNクンとそんな話をしたのが最後になった。
 
 独り身で忙しく動き回る日々。庭をきれいにするひまはない。が、少し草を刈り、木の枝を剪定したあとがあった。やり残したことがいっぱいあるじゃないか――「ぶらっと」の“戦友”の早い死に無常を感じつつ、葬家をあとにした。

2015年5月13日水曜日

川がやせてきた

 きょう(5月13日)、早朝6時13分、地震。テレビに「緊急地震速報」が表示された。それから数秒後、横揺れがきた。長かった。まるで船に乗っているような感覚だった。岩手県で5強、いわきは3だった。
                 *
 さて――。いわきでは、5月に入ると田植えが始まる。子どものころの記憶からすると、1カ月は早い。田植えは梅雨に入ってから。それは、田に引く水が一番必要なときに、水が天から降りてくるから。家族はもちろん、親戚その他が駆けつけて稲苗を植えた。「結(ゆ)い」といった――。今は機械植えであっという間に終わる。

 2月上旬、台湾を再訪した。高鉄(台湾新幹線)に乗って高雄へ行った。西側平野部を南下するにつれて田植えの済んだ水田が多くなった。水稲は2期作だという。高雄~台北は北緯22~25度、日本のいわきは同37度だ。「ツバメ前線」に合わせて「田植え前線」が北上してきた。

 今年の大型連休は天候に恵まれた。小名浜の降水量は、4月22日から5月11日までの20日間でわずか0.5ミリ(5月5日早朝におしめり程度の雨が降った)。サラリーマンにはもったいないほどの好天続きになった。が、農家は逆だ。天を仰ぐ日々が続いた。

 きのう(5月12日)は午後からぱらつき、夜になってまとまった雨になった。温帯低気圧(台風6号)の影響だろう。風も吹いた。けさ確かめたら、小名浜の24時間降水量は41・5ミリだった。それでも大地のおしめりになったかどうか。

 夏井川の下流部は、左岸・小川江筋、右岸・愛谷(あいや)江筋に水をとられ、平・塩~中神谷あたりで川底をさらす。冬はハクチョウが羽を休めていた新川との合流部が、砂時計のくびれ部分のように細くなっていた=写真。砂州には草が萌えだしている。それでも、農家ではもっと雨がほしいことだろう。
                   *
 きのうの夕方、ネパールで大きな余震が発生した。また被害が出た。2週間余り前の大地震で緊急救援活動のため、カトマンズに入った国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」の前事務局長氏のフェイスブックで余震直後の様子を知った。本人は無事。3・11から1カ月後の4月11日と翌12日に、いわきを巨大余震が襲った。それを思い出した。

2015年5月12日火曜日

線路が参道に戻る日

 もう1週間も前のことだが、地元の立鉾鹿島神社の例大祭が行われた。行政区に案内がくる。おととし(2013年)、初めて参加した。拝殿で祭典を執り行ったあと、みこしがためらうことなく目の前の線路を横切って行った。
 わが家の前の道路は、近世には「浜街道」、明治になってからは「陸前浜街道」(旧国道6号)と呼ばれた。わが家の斜め向かい、旧道沿いの参道入り口に神社名が刻まれた石標が立つ。それからまっすぐ250メートルほど伸びた参道の奥に一の鳥居がある。二の鳥居は線路の向こう、社務所のわきに立つ
 
 同神社は、大同2(807)年以前には創建されていたことが、社伝からわかるという。社殿が現在地に落ち着いたのは、江戸時代以前の天正5(1577)年。明治30(1897)年、常磐線の線路がその参道を横切って設けられた。ハレの日に堂々とみこしが線路を渡っていくのは、そこが参道なのだから当然か。
 
 明治になって日本の近代化の一翼を担った鉄道だが、神社のハレの日にはもとの参道に戻る。今年もJR関係者2人が線路に立って、みこしの渡御を見守った=写真。白いヘルメットには「列車見張員」と書かれていた。「きょうはおおっぴらに線路を渡れるねぇ」「きょうだけですよ」。1年に一度、禁止が禁止でなくなる楽しさを味わった。

 今年の祭典では、平市街に住む人から「国生み」と「天孫降臨」の場面が彫られた版木が神社に寄贈されたことが報告された。刷りだした縦長の作品が披露された。作者は不詳だが、明治末から大正初めにつくられたものらしい。新しく社宝に加えられた。
 
 参道両側には数えるほどだが水田が残っていた。東日本大震災後は1枚減り、2枚減りして、今年は1枚しか残っていない。すべて家・アパート、宅地に変わった。3月に公示地価が発表されたが、全国で変動率が上昇した上位10地点はすべていわき市だ。それが身近な場所で、目に見えるかたちでわかる。

2015年5月11日月曜日

詩人の死

 5月8日(金)のその記事は、なにか奥歯にモノがはさまったような感じですっきりしなかった。読売新聞の「くらし家庭」欄、<こどもの詩>の選者が交代する。で、詩人長田弘さんが選んだ作品は8日が最後――と書きながら、次の選者については触れていない。(きょう5月11日の読売に、死亡記事、評伝のほか、「くらし家庭」欄に長田さんが担当する最終回に自分のメッセージを載せることを希望した、とあった)
 記事に添えられた長田さんの写真に驚いた。新聞や雑誌でずっと見てきた、ふっくらとした顏ではない。顔の骨格が浮き彫りになるようなやせかただ。なんとなく気になっていたら、フェイスブックで長田さんの死を知った。

 5月3日に亡くなった。享年75。福島市に生まれ、子どものときに田村郡三春町で過ごした。阿武隈の山と川、光と風、人といきものを知っている詩人――と、三春と同じ田村郡(当時)生まれの私は勝手に想像してきた。

 田村郡、阿武隈高地――それで彼の詩が好きになったわけではない。世の中が高度経済成長時代に入り、急速に暮らし向きが変わっていくなかで、自分の生き方を考えずにはいられなかった。学校は理工系の高専でも、気持ちは文系――同じ思いの先輩と一緒に同人雑誌をやるなかで、同時代の詩人としての長田さんを知ったのだった。

 10~20代に書きなぐったノートがある。度重なる引っ越し、今度の大震災でもなぜか残った。ふだんはベッドの下でほこりにまみれている。震災を経験して、「手元」ではなく「足元」に置くことにしたのだ。

 18歳のとき、先輩から長田さんの第1詩集『われら新鮮な旅人』(思潮社、1965年)を借りた。その1篇をノートに書き写していた=写真。

「花冠りも 墓碑もない/遊戯に似た/懸命な花を死んだ/ぼくたちの青春の死者たちは もう/強い匂いのする草と甲虫の犇(ひしめ)きを/もちあげることができないだろう。」。最初の6行を赤線でかこった。なぜそうしたかは、50年近く過ぎた今、思い出せない。

 以来、長田さんの詩とエッセーは人生の伴走者になった。日常をやさしく、深いことばでとらえる。ぬか漬けだって、長田さんの手にかかるとつくる歓びに満ちたものになる。詩人は死んだが、ことばは本のなかで生きている。『食卓一期一会』(晶文社、1987年)を読み返そう。

2015年5月10日日曜日

ヤマドリ闊歩

 大型連休とはいっても、自由に動き回ったのは5月3日の日曜日(憲法記念日)だけ、ということは前にも書いた。要は、いつもの日曜日でしかなかったわけだが、この日におもしろい写真がいくつか撮れた。早朝の托鉢僧、川内村の木戸川を飛ぶカワウ……。なかでも一番の収穫は、いわき市川前町の“スーパー林道”(広域基幹林道上高部線)で出合ったヤマドリだ=写真。
 隠居のある夏井川渓谷の牛小川(いわき市小川町)を起点に、支流の中川と神楽山(808メートル)のすそを、“スーパー林道”が通る。尾根沿いにアップダウンとカーブが続く。延長14キロ。終点は荻(同市川前町)だ。荻は放射能のホットスポットになった。
 
 あの年、大型連休中の5月5日、隠居のガス点検に来た川前町の商店主が、怒りを込めて川前の汚染の実態を語った。荻の住民が自主的に放射性物質の線量計測を始めたら、ところによっては毎時2.88マイクロシーベルトという高い値を計測した。なのに、行政は動こうとしない――。

 すぐ“スーパー林道”を駆け上がり、荻を訪ねた。翌6月には田村市の実家の震災見舞いを兼ねて、放射線量を測りながら“スーパー林道”を走った。さらに2年後の2013年5月2日、同じルートを、やはり放射線量を測りながら通った。
 
 いつ車を走らせても対向車はない。今度もなかった。唯一の例外はあの年の6月。軽トラとすれ違った。日中、人を見たこともない荻の集落では、若い女性が道路を歩いていた。県道までもうすぐ、というところではタクシーとすれ違った。人の姿が目につくほど「非常事態」だったのだ。
 
“スーパー林道”の終点寄り、坂を下る途中で阿武隈高地の最高峰大滝根山が見える。それが今度は木の間越しにしか見えなかった。斜面の木々が生長している。

 ヤマドリには、車の走らない林道も含めた環境が好ましいらしい。白昼堂々と、日の光があふれる場所に出て闊歩していた。人間には過敏に反応する鳥だが、車には鈍感だ。車を止めて、何枚か写真を撮ることができた。
 
 キジは平地の河川敷や畑で日常的に見ている。ヤマドリは、あちこちの山で何度か「母衣(ほろ)打ち」を耳にした。姿を見るのは初めてだった。尾羽が長い。獅子頭に使われるのはこれか、などとよけいなことを連想しながら、ヤブに消えるまで見入った。

2015年5月9日土曜日

田んぼ道をゆく托鉢僧

 5月最初の日曜日3日は、カレンダーを赤く染めた4連休の初日だった。隠居のある夏井川渓谷を経由して川内村へ向かうため、わが家から近くの小川江筋沿いの道を利用して小川町へ抜けた。
 早朝7時半すぎ。平中塩地内に入ると、網代(あじろ)笠をかぶり、墨染の法衣をまとったお坊さんが歩いていた=写真。山際に沿ってつくられた疏水(そすい)、つまり江筋沿いの山側に曹洞宗の寺がある。そこの住職だ。道の先の民家の庭におじいさんが立っていた。お布施を用意しているらしく、お坊さんが近づくと門扉を開けて道に出た。

 私がまだ現役のころ、定期的にこのお坊さんが職場の新聞社へ浄財を持参した。毎月最初の日曜日早朝、寺の近くを托鉢して回っている。檀家などからお布施が寄せられる。それらを福祉施設などに役立ててほしい――というのが趣旨だった。

 このお坊さんとは付き合いはないが、顔は知っている。いわき市文化財保護審議会の委員でもある。専門は地学か考古学か、あるいは別のなにか、私の認識不足でわからないが学究の徒にはちがいない。

 以前にも同じ日曜日早朝、托鉢姿で寺の近くの田んぼ道を歩いているお坊さんを見たことがある。二度、三度……。古い記憶を重ね合わせると、このお坊さんの托鉢歴は20年以上になるのではないか。10年で120回、20年で240回、25年だと300回。チリも積もればなんとやらで、福祉施設に贈られた浄財は相当の額になる。
 
 ただの通りすがりの者にすぎないとしても、多少は来歴を知っている。それでいうのだが、田んぼ道を行く托鉢姿のお坊さんを見るとさわやかな気持ちになる。ああ今月もがんばってるなぁ――なんでもいい、なにかひとつ、春も夏も、秋も冬も心に決めた社会貢献活動を続ける。「継続は力なり」の典型だ。

2015年5月8日金曜日

5月の田植え

 こんな天の配剤もあるのかと、大型連休が終わってつくづく思う。ちょっと強い風が吹いたときがあったり、曇ったりしたときがあったものの、おおむね晴天続きだった。
「五風十雨」は5日に一度風が吹き、10日に一度雨が降る――当たり前のこと、つまりは平穏無事のことをいう。その、5日に一度の風はあっても、10日に一度の雨はまだない。おかげで、この大型連休をたっぷり楽しんだ、という人が多かったことだろう。

 毎日が日曜日、いや月曜日でもある身には、サラリーマンと違って大型連休といっても骨休めができたのは5月3日の日曜日だけ。世間は大型連休でも、わが家はいつもの週と変わらなかった。

 4月25日、いわき地域学會総会。同27日、いわき民報ふるさと出版文化賞授賞式。同28日、来客。同29日、いわき駅裏の「磐城平城本丸跡地」探訪。5月3日、山里巡り。同4日、立鉾鹿島神社祭礼。同6日、地域学會市民講座案内その他の発送作業。そしてきのう(5月7日)、午前は行政区内の危険個所検分、午後は街へ人に会いに。

 合間に新しく糠床をつくり、ガソリンスタンドでスタッドレスタイヤからノーマルタイヤに履き替えた。大型連休は頭のなかから冬を一掃する節目のときだ。休みが終わったら夏の準備ができていないといけない。今年は二日酔いで棒に振る日もなく、予定していたことはだいたい消化できた。

 田園の風景も大型連休をはさんでガラリと変わった。わが家の近くの水田地帯は「神谷(かべや)耕土」と呼ばれる。早々と競うようにして田植えをする=写真。そこに住む後輩に、立鉾鹿島神社の祭礼に合わせて田植えをするのかと聞けば、下流の地区からせっつかれるからではないかという。いずれにしても、神谷地区の田植えは早い。

 3日の日曜日、夏井川上流の小川、川前地区を通り、山を越えて異なる流域(木戸川)の川内村を巡った。ホットスポットの荻(川前)の田んぼは、草が刈られているからこそ田んぼの面影をとどめているものの、田植えが行われるような気配はなかった。

 水田に水が張られ、稲苗が植えつけられると、枯れ田が青田に変わる。人の心も潤ってくる。相双地区を含めて、それがかなわない田んぼがある、という3・11後の現実。「悲しいね」と米屋を営む同乗者がつぶやいた。

2015年5月7日木曜日

あぶくま行④いわきの里鬼ケ城

「いわきの里鬼ケ城」は、いわき市川前町の鬼ケ城山(887メートル)の中腹にある。市の中心部からみると、周縁も周縁、やや北西の「辺境」だ。
 それはしかし、「坂上田村麻呂」的な見方でもある。田村麻呂が滅ぼしたとされる「鬼」の側からいえば、「鬼」は中央と闘う地方のリーダーにほかならない。中央に従属することなく、ローカルな世界で生きる――「鬼」は住民から収奪するだけの「鬼」ではなく、共に生きるリーダーでもあったはずだ。つまりは、そこが自分たちのすむ「中心」。
 
 鬼ケ城山にその「田村麻呂伝説」が残る。住民が「鬼」に苦しめられていた、それを征夷大将軍坂上田村麻呂が退治した――鬼ケ城山からふたつ、みっつ北にある大滝根山に「田村麻呂伝説」が息づいている。「鬼」は「大多鬼(おおたき)丸」。その一味が鬼ケ城山にもこもっていた、というものである。阿武隈高地で生まれ育った私にとっては、「大多鬼丸」は「まつろわぬ精神」の象徴だ。
 
 大型連休のどまんなか、5月3日の日曜日――。川内村からの帰り、いわきの里鬼ケ城の「ききり荘」で昼めし(山菜そば)を食べた。ほんとうは川内のそばを、と思ったのだが、「予約でいっぱいらしい」と<ちゃわん屋の木工展>の会場で聞いて、5年ぶりにいわきの高原へ足を延ばした。
 
 県道小野富岡線をうっかり田村市まで行き、Uターンして、県道神俣停車場川前線から「いわきの里鬼ケ城」に入った。家族連れが何十組かいた、というところだろうか。きのう(5月6日)まで、行楽客のために桜のライトアップが行われた。
 
 高原を吹き渡る風はひんやりしていた。それよりなにより、双葉郡の原発からの送電鉄塔が間近に立っている=写真。もう十数年前になる。当時の「いわきの里鬼ケ城」の支配人に、「あれが原発の送電鉄塔」と教えられた。「そうか、スカイラインの景観が悪くなったな」程度で、まるで関心がなかった。
 
 ドライブから2時間後、夏井川渓谷の隠居で休んでいると、79歳になるという知人の女性が立ち寄った。「鬼ケ城へ行ってきた」という。「前に行ったとき、帰りに道に迷ったの。鬼ケ城は、平地の平方面からの案内標識はあっても、帰り道を教える標識がない」といっていた。
 
 確かに、それはいえる。私も、今回は山また山から鬼ケ城へ向かった。入り口に立つ大看板を通りすぎ、バックミラーを見て、そこが入り口であることを思い出した。鬼ケ城山の北側から、つまり県道小野富岡線から入る車も少なくないだろう。案内標識の裏には「川前駅へ」、大看板の裏にも入り口と見てわかる表示をすべきだろう。

2015年5月6日水曜日

あぶくま行③県道小野富岡線

 主に田村市の実家への行き返りに、いわきの山あいの道路を利用する。それでも広域都市ゆえに、初めての道、何年ぶりかの道というのがある。そのひとつ、県道小野富岡線を車で走るのは初めてだった。なぜいわきの山奥にあんな立派な道路ができたのか――市街地に住む人間はそんな感覚に襲われるはずだ。
 2015年3月下旬、県道小野富岡線の吉間田(よしまだ)工区2キロ=いわき市川前町下桶売地内=が完成し、開通式が行われた。川前から川内村の上川内へ出るルートのひとつで、市・村境の手前で県道上川内川前線と合流する。その合流部にバイパスが設けられた。
 
 5月3日に川内村へ出かけた帰り、バイパスを利用して川前の「いこいの里鬼ケ城」へ寄った。新たな視点場(ビューポイント)になる橋が2つ。そのへんだけ灰色で横溝の入った10本の帯状の路面になっている=写真。凍結スリップを防ぐための特殊な舗装というのが、これなのだろう。
 
 早くも橋のガードパイプの1本がへし曲がっていた。桶売地区は標高500メートル前後。4月に入って雪が降ったから、そのときにスリップしたか。それともイノシシが現れたためにハンドルを切り損ねたか。あるいは、酒酔い運転? あれこれ想像をたくましくした。
 
 この道は県の「ふくしま復興再生道路」に位置づけられている。原発事故による双葉郡の避難指示区域などと周辺の主要都市などを結ぶ主な路線のひとつだ。いわき市内ではこの道と重なる県道吉間田滝根線のほか、小川町から最も険しい山中を縦断して川内村~田村市都路町~葛尾村~浪江町~飯舘村を抜ける国道399号、常磐道と小名浜港を直結する「小名浜道路」も、復興再生道路に入っている。
 
 県道小野富岡線は2014年9月15日、通行止めになっていた双葉郡内の区間が一般に開放され、全線の通行が可能になった。直後に富岡町~川内村経由で田村市常葉町の実家へ帰った。今度また、川内からいわき市内の同線を利用した。利用した区間をつないでみると、各地に避難している人々の帰還を後押しする重要な路線であることが実感できた。

 この道は鬼ケ城山の北側を通る。南側山腹の「いわきの里鬼ケ城」へ行くには途中で左折しないといけない。うっかり道路標識にしたがって小野方面へ右折したら、大滝根山のふもとへ出た。田村市の標識があった。
 
 それから先のルートは頭に入っている。滝根町へと駆け下り、JR磐越東線の踏切を越え、線路に沿って神俣駅を過ぎたあたりで右折し、山を越えると小野町の飯豊地区で国道349号にぶつかる。磐越道小野ICとあぶくま高原道路の入り口は目と鼻の先だ。
 
 川内の村長さんは「川内村にとっても中通りに通じる生命線」だといっていたが、いざというときにはいのちを守る「避難路」にもなる。

2015年5月5日火曜日

あぶくま行②木戸川

 阿武隈高地の東側斜面から始まる川は、ほぼ例外なく滝のように山中を駆け下り、平地に出てやっと穏やかな川の表情を見せる。そして、すぐ太平洋に注いで短い水の旅を終える。
 流路67キロ。浜通りで最も長いいわきの夏井川がそうだ。相双地区、つまりは浜通り北部の川も、例外なく山中で深い谷を刻む。滑り台のような川である。

 阿武隈高地は、はるかな地質学的な時間のなかで海底から隆起し、陸地になった。そのあと再び隆起して、再浸食が始まった。分水嶺の西側はなだらかな「隆起準平原」、つまり年をとって丸くなったような地形なのに対して、東側はいきりたつ若者のように水が大地をえぐってV字谷をつくる。

 5月3日にいわき市の平地からあぶくまの山里・川内村を訪ねた。川内のまちなかを流れる木戸川は、穏やかな“里川”の風情を漂わせていた。砂利に埋まった川底が透けて見える。その川面をカワウが飛び=写真、カワセミが上流へ一直線に向かい、やがてカルガモがバシャッと着水した。
 
 あぶくまの山と海岸部の平地の関係は、2階建ての家のようなものだろう。水源から始まる小さな渓谷と平地(2階部分)、そのあとに始まる大きな渓谷と平地(1階部分)――。木戸川でいえば、川内のまちなかは「2階部分」にあたる。

 木戸川は川内の“里川”であると同時に、生産と生活に欠かせない“水の動脈”だ。川内を過ぎ、いわき市を抜けると、今度は“谷川”になる。

 グーグルアースや国土地理院の電子地図を利用して、木戸川の始まりから終わりまで48キロを追うと――。水源は夏井川と同じ大滝根山、そしてその北の尖盛(とげのもり)、桧山あたり。川内を南下していわき市の戸渡川を飲みこんだあとは、市境に沿って楢葉町へと駆け下る。木戸川渓谷はこの楢葉町にある。
 
 戸渡から楢葉の溪谷までの道はどうなっているんだろう。フィットなんかでは行けないのか。オフロードバイクや渓流釣りをやっている人間に、いつか聞いてみたい。

 木戸川の下流では、サケ漁が行われている。町の観光資源でもある。津波でサケ養殖施設が壊れた。その復興のために国から交付金が認められた。

 地震・津波、それに伴う原発事故以来、あぶくまの山を、川を、里をこの目に焼きつけておきたい、という思いが強くなっている。山から人間と自然を考え直したい、という思いも。川内を流れる木戸川、好きな川のひとつだ。

2015年5月4日月曜日

あぶくま行①木工と陶展

「みどりの日」のきょう(5月4日)は、起きると雨模様(雨が降りそうな状態)だ。地域の神社の祭りがある。顔を出さないといけない。せめて日中は降らないでほしい――ごみネットを電柱に縛りながら神様にお願いした。
 今年の大型連休はもったいないほどの好天続き。きのう(5月3日)の日曜日=憲法記念日もそうだった。早起きして隠居のある夏井川渓谷の牛小川へ出かけ、その足で牛小川を起点、川前町の荻を終点とする“スーパー林道”(広域基幹林道上高部線)経由で川内村を巡った。

 上川内の木戸川沿いに志賀林業のログハウスが完成した。そこで、下川内に工房を構える志賀敏広さんが「ちゃわん屋の木工展」を開いている=写真。6日まで。木工作品のほかに、本人と奥さんの志津さん、大学生の娘さんの陶器を展示した。「木工と陶」展だ。

 ログハウスの対岸には、河畔林に隠れて見えないが震災後オープンしたコンビニがある。「かわうちの湯」や「あれこれ市場」、村役場もある。それらの施設の対岸にログハウスができた、といった方がわかりやすいか。

 敏広さんは陶芸家ながら、木工にもかなりの情熱を注いでいる。志賀林業から譲り受けた木材で、庭に置くテーブルセットなどをつくる。そのひとつを昔、わが隠居の庭に据えた。脚を交換して今も使っている。

 木工展と銘打つだけに完成度の高い作品が並んだ。室内用のテーブルからベンチ、イス、郵便受け、大きな箸箱と箸まで、ていねいに、時間をかけて仕上げた様子がうかがえる。イスには引き出しが付いている。滑車の付いたイスもある。座ったまま移動できるので、高齢者やデスクワークの人には向いているかもしれない。

 少し早めに着いたので、夫妻はまだ来ていなかった。カミサンが対岸の「あれこれ市場」へ行きたいという。そのあと、自宅を訪ねた。敏広さんが首都圏から泊まりがけでやって来た人たちと庭であれこれやっていた。志津さんは展覧会場へ出かけたというので、敏広さんと少し話したあと、ログハウスへ戻った。娘さんもいた。

 夏井川渓谷はすでに青葉一色になったが、川内は「木の芽前線」が到着して間もない感じ。山が笑っていた。大型連休に花盛りとなるヤマザクラは散り始めていた。川内にも春は例年より早くやってきた。

 川内からの帰り、5年ぶりにいわき市川前町の「いわきの里鬼ケ城」を訪ねた。途中、「あぶくま」の山里を縫って春の花と初夏の新緑を楽しんだ。

2015年5月3日日曜日

後方から・下

 きのう(5月2日)は朝、テレビ小説「まれ」を見たあと、テレビをつけっぱなしにしていたら、カミサンの東京の親友から電話がかかってきた。台所にいたカミサンが受話器を取ると、急に大声を出した。「ほんとだ、出てる!」。つられて見ると、知っている人がテレビに映っていた。国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」の小松豊明事務局長だ=写真。
「週刊ニュース深読み」で<地震から1週間 ネパールは今>を小特集として取り上げた。事務局長氏は、緊急救援活動に入ったシャプラのこの1週間の取り組み、今後の取り組みについて話した。シャプラはこの日、午後1時から東京で最初の緊急救援報告会を開いた。フェイスブックでほぼリアルタイムで中身を知った。

 バングラデシュとネパールにシャプラの駐在員がいる。バングラでは児童教育支援など、ネパールでは洪水リスク削減プロジェクトなどのほか、インドでも紅茶園スラム居住者支援事業を、現地のパートナーNGOと協働して展開している。3・11後は初めて国内支援に入り、いわきで交流スペース「ぶらっと」を運営している。

 現在はシャプラの評議員をしている大橋正明さんが、たまたまバングラでプロジェクト評価の仕事をしているときに大地震が発生した。大橋さんはすぐ仕事を切り上げ、ネパール緊急救援計画を立てた。今はインド経由でネパールのチトワン郡にいる。バングラの駐在員のほか、東京からもシャプラの職員が急派された。前事務局長でシャプラ評議員の筒井哲朗さんもネパールに飛んだ。

 大橋さんらがバングラからインドへ入り、さらにネパールでどう動き、何をしているかが、それぞれの、あるいはシャプラのフェイスブックで手に取るようにわかる。

 おおまかにいえば、現地のNGOや行政と連携し、ビニールシートや医薬品、食料品などを被災者に配布している。なにがすぐ必要かを判断して現地で購入したものだ。緊急支援の経験・ノウハウを積んでいるからこその“即決・即行”だろう。いわきでの緊急救援活動もノウハウの一部になっているのかもしれない。スピードの速さにただただ感心している。

 なにより現地にパートナーNGOがいること、つまりネットワークがあること、さらに土地鑑のあるシャプラスタッフがいることで、政府―マスメディアの「鳥の目」的情報とは別の、より被災者に密着した「虫の目」的情報、それに基づく分析・判断・行動が的確だという安心感がある。後方支援のかなめである東京の現事務局長氏も元ネパール駐在員だ。ネパールを熟知している。
 
 その意味では、今回はシャプラを通じて細かい情報をつかみ、あとでマスメディアで全体的な状況を知る、という流れになっている。
 
 3・11からおよそ2週間後、大橋、筒井さんともう1人がいわきのわが家へやって来た。そこから社協・市本庁・市勿来支所・錦須賀の津波現場と巡り、さらには岩間~小浜~小名浜~永崎と壊滅的な被害に遭った沿岸域を見て回った。シャプラはその後、原発事故の風評被害も重なったいわき支援に本腰を入れる。現事務局長氏はしばらくいわき駐在員を務めた。

 インターネット時代になって、シャプラのフットワークの軽さ、機動性、そして被災者と直結した個別・具体の援助を、わが家にいながらほぼ同時進行的にわかるようになった。だからこそというべきか、ほんとうの支援とは――を40年以上も変わらずに追求しているシャプラの現場主義、愚直さにあらためて敬服している。
 
 それが、私らいわきの人間ができる後方支援の大きな力になっている。個人的には、私より若いが60歳を超えたシャプラの「御大」大橋さんが現場で頑張っている、こちらもがんばらなければ――という気持ちになっている。