2015年5月11日月曜日

詩人の死

 5月8日(金)のその記事は、なにか奥歯にモノがはさまったような感じですっきりしなかった。読売新聞の「くらし家庭」欄、<こどもの詩>の選者が交代する。で、詩人長田弘さんが選んだ作品は8日が最後――と書きながら、次の選者については触れていない。(きょう5月11日の読売に、死亡記事、評伝のほか、「くらし家庭」欄に長田さんが担当する最終回に自分のメッセージを載せることを希望した、とあった)
 記事に添えられた長田さんの写真に驚いた。新聞や雑誌でずっと見てきた、ふっくらとした顏ではない。顔の骨格が浮き彫りになるようなやせかただ。なんとなく気になっていたら、フェイスブックで長田さんの死を知った。

 5月3日に亡くなった。享年75。福島市に生まれ、子どものときに田村郡三春町で過ごした。阿武隈の山と川、光と風、人といきものを知っている詩人――と、三春と同じ田村郡(当時)生まれの私は勝手に想像してきた。

 田村郡、阿武隈高地――それで彼の詩が好きになったわけではない。世の中が高度経済成長時代に入り、急速に暮らし向きが変わっていくなかで、自分の生き方を考えずにはいられなかった。学校は理工系の高専でも、気持ちは文系――同じ思いの先輩と一緒に同人雑誌をやるなかで、同時代の詩人としての長田さんを知ったのだった。

 10~20代に書きなぐったノートがある。度重なる引っ越し、今度の大震災でもなぜか残った。ふだんはベッドの下でほこりにまみれている。震災を経験して、「手元」ではなく「足元」に置くことにしたのだ。

 18歳のとき、先輩から長田さんの第1詩集『われら新鮮な旅人』(思潮社、1965年)を借りた。その1篇をノートに書き写していた=写真。

「花冠りも 墓碑もない/遊戯に似た/懸命な花を死んだ/ぼくたちの青春の死者たちは もう/強い匂いのする草と甲虫の犇(ひしめ)きを/もちあげることができないだろう。」。最初の6行を赤線でかこった。なぜそうしたかは、50年近く過ぎた今、思い出せない。

 以来、長田さんの詩とエッセーは人生の伴走者になった。日常をやさしく、深いことばでとらえる。ぬか漬けだって、長田さんの手にかかるとつくる歓びに満ちたものになる。詩人は死んだが、ことばは本のなかで生きている。『食卓一期一会』(晶文社、1987年)を読み返そう。

0 件のコメント: