2015年7月31日金曜日

「内郷学」講座

 2015年度の「内郷学」講座が先日(7月23日)、スタートした。福島県俳句連盟副会長でいわき市俳句連盟会長の結城良一さん(80)=内郷生まれ、常磐在住=が、「俳句から見える炭鉱における人々の暮らし」と題して話した=写真。
 サブタイトルは「昭和38年度福島県文学賞受賞 ヤマの歌人飯村仁さん(内郷御厩町)を偲んで」。ヤマ(炭鉱)の俳句と短歌を紹介しながら、今は知る人も少なくなったヤマの労働と暮らしを解説した。

 農山漁村の労働と違って、ヤマの労働は地底で行われる。その労働を基盤にしてヤマの暮らしが営まれる。一般の市民には、地底の労働も炭鉱長屋の暮らしもなかなか想像がつかない。森の中を歩くときに、自然と人間の仲介役(インタープリター)がいると理解が深まるように、「ヤマの文学」にもインタープリターが必要だ。

 結城さんは常磐炭砿が閉山したあとも西部砿業所に残留し、石炭を掘った。昭和47年、句集『発破音』で福島県文学賞正賞を受賞している。ヤマの仲間に16歳年上の飯村仁さんがいた。飯村さんも同38年、歌集『冬の嵐』で県文学賞正賞を受賞した。

 昭和48年5月29日午後2時半ごろ、常磐炭砿西部砿業所で坑内火災が発生し、4人が死亡した。そのなかの1人が飯村さんだった。事故が起きた日、飯村さんは一番方として入坑、二番方の結城さんらと交替し、帰る途中、煙に巻かれ、一酸化炭素中毒死した。
 
『聞き書き100人「常磐炭田エピソード100」』のなかで、結城さんが事故に遭遇したときのことを振り返っている。

「一番方より申し送りを受けて5分とたたない間の出来事だっただけに、火災の火元の判断に苦慮した。電車坑、炭ベルト坑、ずりベルト坑、と煙が充満、一時は死を覚悟したが幼い子供のことを考えると、なんとしても生き抜かねばと歯を食いしばった」

「電車坑には一番方作業終了者が昇坑をあせり煙の中で右往左往してパニック状態であった。しばらくして煙は立坑坑底からと分かった。煙を避けるには反対方向の泉立坑に逃れなければならないと大勢の仲間を説得して脱出した経緯がある」

 極限状況だったことはわかるが、地上で暮らす人間には坑内の構造、様子がいまいちわからない。どうしてもインタープリターが必要になる。

 飯村さんの作品についても解説がついて、やっと深い情感が理解できた。たとえば、「共稼ぐ妻と朝朝行き違う午前七時のわが夜勤明け」について、結城さんは「三番方は夜10時から朝6時まで」というコメントを入れた。ヤマから帰る夫と勤めに行く妻とが朝、道で出会う。妻は夫の無事を確認して足取りも軽くなる――そんなことまで想像できる。

 俳句であれ短歌であれ、ヤマの“基礎知識”がないと作品の理解が深まらない。ヤマの労働と暮らしを知るうえで、この「内郷学」は数少ないチャンス、いや「最終講座」ではないかと思った。「炭田カフェ」でヤマの作品解説講座をシリーズ化できないものか。

2015年7月30日木曜日

「郷土史研究家」

 BSプレミアムの「世界ふれあい街歩き」はほぼ欠かさず見る。おととい(7月28日)はスペイン南部の古都グラナダが舞台だった。
 いわき市内郷出身のKさんがスペイン人のご主人(フレディ)とグラナダに住んでいる。日本人観光客のガイドをしたり、テレビロケ隊などのコーディネーターをしたりしているので、もしかしたら番組に関係しているのでは――と思いながら見ていたら、大図星、フレディが登場した=写真。

 あとで番組のホームページで確かめると、「郷土史研究家のフェデリコ・エルナンデスさん、55歳。アルハンブラ宮殿を紹介してくれました」とあった。

 2009年秋、スペインに住むいわき市平出身の画家の奥さんが急死した。彼女も平出身だ。半年後、画家がわが子のようにかわいがっている青年を伴って、個展のために帰国した。すると、当欄にグラナダのKさんからコメントが寄せられた。

 Kさんは毎年、正月にはフレディとともに帰国する。コメントでつながって以来、帰国するたびに会うようになった。今年はお母さんの新盆のために、間もなく帰国する。それを前にした、フレディのテレビ出演だった。

 テレビを見終わってすぐ、フェイスブックを介してKさんに連絡した。それでわかったのは、フレディはロケバスの運転手をしていた。ふだんから運転手兼コーディネーターの仕事をしているので、現地の都合で急きょ、出演する羽目になったのかもしれない。

 ま、現地に住む人間はだれでも郷土の歴史を知っている、あるいは興味を持って調べている、という意味では「郷土史研究家」だ。フレディが「郷土史研究家」でもおかしくはない。が、たまたま生身のフレディを知っている人間としては、驚きがまさった(メディア論的にはいささか……)。

 それよりなにより、食卓で隣にいる人と話すような感覚で、リアルタイムで、日本のいわきとスペインのグラナダとで電子的な会話をしている。便利な世の中になったものだ。サマータイムを実施している欧州との時差は7時間。いわきの夜9時はグラナダの昼2時だ。シエスタの邪魔をしたかな。

2015年7月29日水曜日

カワミドリ

 夏井川渓谷の隠居には、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件がおきた平成7(1995)年から通っている。今年でちょうど20年になる。
 同じころ、旧知の植物の先生を中心に、渓谷の植生調査が行われた。前橋営林局(現関東森林管理局)が、一帯を「阿武隈高地森林生物遺伝資源保存林」に設定した。そのための基礎資料を得るのが目的だった。平成9年3月に調査報告書がまとめられた。

 以来、夏井川渓谷の植物でわからないことがあると、この調査報告書を開いてきた。が、3・11に本がなだれをうち、本棚も倒れ、それらを片づけるなかで調査報告書をどこに置いたかわからなくなった。

 先日、同じ渓谷の隣の集落に住む友人が、街なかのわが家にシソ科のカワミドリという野草を持ってきてくれた。なるほど葉や花穂(かすい)の姿がシソに似る。ハッカのようなにおいもする。薬草だという。

 隠居の周辺では、見たことも聞いたこともない花だった。友人もフェイスブックに写真をアップしながら、「山のカワミドリが今年も花を咲かせました。……さして珍しい草でもないのに、あちらこちら歩いてもあまり見かけません」と記していた。
 
 調査報告書に当たらねば――いわき総合図書館のホームページで所蔵の有無をチェックしたがなかった。ネットはどうか――検索すると調査報告書があった。ネットにはあらかた答えが用意されている。すごいものだ。

 カワミドリは、調査報告書には記載がなかった。シソ科として記載されていたのは、キランソウ・ツクバキンモンソウ・クルマバナ・イヌトウバナ・ナギナタコウジュ・カキドウシ・ホトケノザ・ヒメオドリコソウ・ラショウモンカズラ・ヒメジソ・イヌコウジュ・ウツボグサ・ヤマハッカ・キバナアキギリの14種。半分は知らない。見ていても区別がつかないだけなのかもしれないが。

 地べたをはうようなカキドウシやホトケノザと違って、カワミドリはしゃんとしている。花穂にびっしりついた小花はシソと違って唇形花だ。ギボウシの花を米粒よりも小さくしたような感じ。精巧にできている。

 花を見ているうちに、人間のミドリさんの顔が思い浮かんだ。和名が珍しい。カワ、ミドリ。カワ、ではないが、ミドリさんの名字も水にちなんだものだ。彼女の「守り花」にいいか、なんて、これはいつもの妄想。

2015年7月28日火曜日

酷暑避難

 おとといの日曜日(7月26日)、東北南部の梅雨が明けた。気象台が発表するいわき市の気温はハマの小名浜のため、7月に最高気温が30度を超えたのはこの日だけ。内陸部の山田は、7月だけできのうまでに30度越えの真夏日が13日を数える。平も同じ内陸部。わが家の室温はきのう、今年最高の34度になった。小名浜の気温がいわきの気温だと思ったら大間違いだ。
 茶の間にいるだけで熱中症になりかねない。道路向かいの奥、おじ(故人)の家に朝から“避難”した。最初はエアコンをかけて、午後は戸を全開して資料読みをした(いろいろ予定がつまっているので)。

 茶の間で仕事をするとアブナイと思ったのは、朝。8時ごろ、近くのコンビニへ買い物に行ったら汗まみれになった。歩いただけでそうなるなら、日中、熱気がこもる茶の間にはいられない。

 関東甲信地方の梅雨が明けたのは7月19日。「北関東のいわき」も一緒に梅雨が明けた――そう思わせるほど、いわきでも山田では19日以降、ほぼ真夏日が続いている。きのうはしかも、月の最後の月曜日。市立総合図書館は月1回の、美術館は定例の休館日だ。そちらへ逃げ込むわけにもいかない。

 というわけで、この1週間はおじの家にいる時間が多くなった。床の間におじの書がかかっている。カミサンが夏向けに選んだ。「石橙茶香清暑後書/窓梧韵晩涼餘 虹波書」とある=写真。

 句としては七言の2行「石橙茶香清暑後 書窓梧韵晩涼餘」で、ネットで検索したところでは、<昼下がり、石の腰掛にすわって茶の香りを味わい、夕暮れ、書斎の窓に涼しげな梧桐の風声を聞く>ということらしい。「虹波」はおじの雅号だ。

 今は「清暑」ではなく「酷暑」、「晩涼」はわが家では「熱帯夜」だが、夏の感じは出ている。作者は清の政治家鄒炳泰(?~1820年)だそうだが、むろんよくわからない。

 酷暑に生きものたちも調子を狂わせているのだろうか。先週書いたが、夕方、オジの家に白いハトが迷い込んできた。わが家にも夜、アブラゼミが飛び込み、きのうは日中、クロアゲハが入り込んだ。ハグロトンボ(神様とんぼ)もやってきた。

 クロアゲハは今朝も天井下の壁に張りついている。ハグロトンボも天井からぶら下がっている。この程度の暑中見舞いならかわいいものだが、何日か前、キイロスズメバチが玄関前をうろついていた。家の中に入りこむようになるとコトだ。

2015年7月27日月曜日

松本和利展

 いわき市立美術館で、「神々の彫像 アンコール・ワットへのみち展」とは別に、「ニュー・アート・シーン・イン・いわき 松本和利展」がロビーで開かれている=写真。会期はアンコ―ル展と同じ8月30日まで。 
 松本は旧姓・林。5歳年下で、今年(2015年)、62歳になる。3・11を経験して、四半世紀余り中断していた創作を再開した。2011年の月遅れ盆に、当時勤めていたネクスト情報はましんで個展を開いた。そのときもそうだが、今度も突然、個展の案内状が届いた。本人がわざわざ持参した。
 
 新米記者のころ、平の草野美術ホールで取材をし、若い美術家たちと知り合った。彼はまだ高校生だったかもしれない。高校美術部の卒業展だか、定期的な作品展だったか忘れたが、そこで彼の名前を胸に刻んだ。

「ニュー・アート・シーン・イン・いわき」のために本人がデザインし、美術館が編集・発行したリーフレットの年譜、学芸員による解説を読んで、一気にこの40年余りの、彼とのつきあいがよみがえった。

 高校を出て、短大でデザインを学び、印刷会社に勤めた。その間に、20歳で福島県総合美術展洋画の部で県美術賞を受賞した。社会人になってからは「育児無死グループ展」を開催し、個展を開き、若い美術仲間と「スタジオCELL」を結成した。取材を兼ねて、伴走するように、彼(ら)の活動を見てきた。

「わかる作品」ではない。20歳で県展の美術賞を受賞したときの、いわき民報の記事にこうある。

「いつもは穏やかな好青年だが、絵画のことになると堰を切ったように話すその口振りからは、内に秘めた絵画への情熱がうかがえる。/『わからない作品でも、何度も足を運んで鑑賞しているうち、何か得るものがあるはずです。わかろうとする柔軟な頭脳の持ち主になってほしい』と現代美術を不可解とする人たちへの批判も、熱を込めて語る」

 学芸員が解説の冒頭に引用したこともあって、図書館で記事をコピーして全文を読んでみた。「絵画」を「インスタレーション」に置き換えると、40年以上たった今の作品にも通じる。創作の根底にあるものは変わっていない。

 3・11直後に開いた個展名は「3・11沈む」、そして今度のニュー・アート・シーンは「3・11沈む…浮ぶ…変形した時をサンプリング」だ。大地震・大津波・原発事故と、かつてない災禍を経験して不安や無力感に襲われた。それをはねのけるように創作活動を再開した。すると、今度は重い病気に襲われた。入院中にパソコンで作品をつくった。会社も辞めた。
 
 4年前の「3・11沈む」についての、私の文章の一部――。床を3月のカレンダーに見立てて、そこに沈みこむ紙袋を配した。それが基本。ほかにも、廊下の壁面を利用してドットと数字を組み合わせた紙の作品を掲示したり、照明を落とした部屋に光を放つ作品を配したりと、林君は工夫を凝らしている。震度・線量・死者数・避難日数……。数字の受け止め方は人それぞれだろう。

 今回も、作品の質としては4年前と変わっていない。が、美術館のロビーという大きな空間を埋め尽くした、多様な作品群に息をのんだ。作品との「コミュニケーション」の前に、「バイブレーション」がきた。わからないけどすごいぞ、と体が反応した。

 4年前の創作再開時には「林和利」として作品を発表したが、今回は「松本和利展」になっている。「林和利」から「松本和利」として再生する、という決意と祈りが込められているのかもしれない。

2015年7月26日日曜日

朝採り野菜

 きのう(7月25日)の朝、夏井川渓谷に住む友人が野菜を持ってきた=写真。自宅前の菜園で栽培しているキュウリ、トマト、トウガラシ、ピーマンが袋に入っていた。文字通りの「朝採り野菜」だ。さっそくトマトをガブリとやった。皮がやわらかい。さっぱりした甘みが口の中に広がった。
 早朝7時前から1時間ほど、公民館で刈り草をごみ袋に詰める作業をした。8月1~2日、平六小体育館と神谷公民館を会場に、防災サマーキャンプが開かれる。平地区の小学4~6年生50人ほどが参加する。会場のひとつ、公民館をきれいにして子どもたちを迎えようと、公民館スタッフと地区の区長が出て敷地内の草刈りをした。

 薄曇りとはいえ、むしむしする暑さになった。区長の中には80歳の人もいる。軽作業であっても重労働にはちがいない。「年寄り半日仕事」でいえば、一日のエネルギーをそれで使い果たした。帰って、朝風呂につかった。そのあとに届いた野菜だ。いい栄養補給源になった。

 10時すぎには鹿島荘での「かしま福祉まつり」に出展するカミサンを送り届け、戻って、茶の間で仕事をした。昼メシはめんどくさいのでとらなかった。夕方は5時から、太陽の里いわきの夏祭りが開かれる。朝、一諸に草刈りをした区長たちが顔を出すことになっている。5時前にでかけてすぐ失礼し、夕風呂につかった。さすがに腹が減ってきた。

 いつもより2時間早く、晩酌を始める。つまみは朝届いたキュウリ。「もろきゅう」ならぬ「みそきゅう」にした。二つに割ると、表面がみずみずしい。実際、口にすると水分がたっぷり含まれていた。やわらかかった。

 直売所のキュウリだから新鮮かというと、そうでもないときがある。水分が飛んで、中が白く変質しているのは糠漬けにしてもまずくて食えない。久しぶりにほんとうの「朝採りキュウリ」を味わった。

 実は、野菜は「従」で、主役は「カワミドリ」という野草だった。友人の家の敷地内に生えている。同じ溪谷にあるわが隠居の周辺では見たことがない。それで、現物を1本届けてくれたのだった。夏野菜がピークを迎えて採れて困るほど。「もらってくれるところはないか」と思案しているうちに、わが家を思い出したのだという。

 これから渓谷へ出かけ、超特急で土いじりをして、朝めし前に戻る。ついでに、カワミドリの有無も確かめる。

2015年7月25日土曜日

丑の日の「う」

「うな重」を食べなくなったわけではない。師走にカミサンの実家(米屋)で、機械でもちをつく。ドラム缶を利用したまき釜でもち米を蒸(ふ)かす、釜番をする。昼は米を注文してくれるうなぎ屋さんから「うな重」を取る。「うな重」を食べるために、毎年、「釜じい」をしているようなものだ。
 わが家は米屋の支店。土用の丑(うし)の日には、同様に米を注文してくれる近所の料理屋さんから「うな重」を取る。いや、取っていた。

 近年、ウナギが激減し、2014年には国際自然保護連合のレッドリスト最新版に「絶滅危惧種」として掲載された。乱獲が大きい。「うなぎのかば焼き」に目のない日本人の食文化に赤信号がともっている。

 平賀源内(1728~79年)は「日本最初のコピーライター」だった。八巻俊雄著『広告』(法政大出版局、2006年)によれば、その道のプロとして報酬も得ていたらしい。

最初は明和6(1769)年、「えびす屋兵助の漱石香(歯磨き粉)」を扱い、安永4(1775)年には「音羽屋多吉の清水餅」の広告コピーを書いた。

同じ年、売れないうなぎ屋の相談を受け、「丑の日には『う』の字のつくものを食べると夏やせしない」という民間伝承にヒントを得て、「本日丑の日」の紙を店頭に張り出すことをアドバイスした。「うどん」でも、「ウリ」でもよかったのだろうが、「うなぎ」が受けて大繁盛し、土用丑の日にうなぎを食べる習慣が定着した。
 
 ついでにいえば、寛政6(1794)年には作家山東京伝が世界最初の広告コピー集を出す。フランスの作家バルザック(1728~79年)も広告コピーを書いた。

 中国最初のコピーライターは蘇東坡(1036~1161年)という説もある。油餅「東坡肉(トンボウロウ)」をつくり、「水も入れず、酒を多めに、下火でゆっくり煮込んでおいしく食べられる」という広告詩をつくった。貧乏人は豚肉を食べた。豚肉をおいしく調理する方法を蘇東坡が考案した、というわけだ。

 以上、『広告』からの受け売りだが、源内が仕掛けた「う」の字のつく「うなぎのかば焼き」は、今や値段的に庶民が食べられるものではなくなった。「値段が高くて売れない、注文してくれなくてもいいよ」。料理屋さんからいわれたのは、東日本大震災が発生した年だったろうか。
 
 震災の片づけ・復旧作業、いわきで支援活動を始めた国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」の手伝いもあって、「うな重」どころではなかったのも確かだが。

 その料理屋さんから頼まれたという。値段は高いが、おつきあいだ。米屋の本店ではともかく、支店のわが家では震災後初めて、「うな重」を食べた=写真。ゆうべ(7月24日)、酒のさかなに、箸で小分けしながら、源内先生はこんな事態になるとは想像もしていなかったろうな――などと空想をめぐらせて。

2015年7月24日金曜日

アンコール・ワットへのみち展

 いわき市立美術館で「神々の彫像 アンコール・ワットへのみち展」が開かれている。8月30日まで。「丸彫りの神像や仏像を、アンコール王朝時代を中心に、その周辺の彫像や関連遺物とともに紹介」している=写真(チラシ)。
 2012年9月中旬、学生時代の仲間とベトナム・カンボジアを旅行した。カンボジアではアンコールの遺跡群を見学した。それもあって、美術館の「神々の彫像」群を興味深く見た。

 たまたま、いわき総合図書館の新着図書コーナーに早稲田大学学術叢書12内田悦生著『石が語るアンコール遺跡――岩石学からみた世界遺産』(早稲田大学出版部、2011年)があった。借りて読んでいるところに、「アンコール・ワットへのみち展」が始まった。

 アンコールの遺跡群では、「アンコール・ワット」はもちろん、「バンテアイ・スレイ」の「東洋のモナリザ」と称される女神のレリーフ、「バイヨン」の四面塔尊顔などに魅了された。雨季の終わりで、降ったりやんだりの日々。左手に傘、右手にカメラを持ってシャッターを押した。

『石が語るアンコール遺跡』によると、遺跡の主な建築材料は砂岩・ラテライト・レンガ・木材など。砂岩は①灰色~黄褐色砂岩②緑灰色硬砂岩③赤色砂岩――で、赤土のラテライトは周壁・参道・基壇表面あるいは内部に使用されている。近くのクレン山南東麓に石切り場の遺跡が多く残る。切りだした砂岩は水運あるいは象や牛を利用して建築現場まで運ばれたのだろうという。

 遺跡がどう造られ、レリーフがどう彫られたか。旅行後に見たテレビのドキュメント番組によると、中央(内部)から建造が始まり、外へ、外へと造営された。積み上げられた砂岩の壁面にはレリーフが施されるだけの厚みがあった。

「アンコール・ワットへのみち展」では、砂岩だからこそというべきか、「神々の彫像」群の、表情の繊細さ、衣装の精緻さ、女神の上半身の豊満さに引かれた。きめこまやかなアンコールの美を堪能した。とはいえ、神々しいほどの「東洋のモナリザ」に比べると……という思いもまた禁じ得ない。「東洋のモナリザ」が飛び抜けて美しすぎるのだ。

 関連イベントがいろいろ用意されている。7月26日午後2時には『石が語るアンコール遺跡』を著した内田早稲田大学教授が「アンコール遺跡の謎を解く――岩石学からのアプローチ」と題して講演する。夏井川渓谷にある隠居で土いじりをしなければならないし……、聴きに行くかどうか思案中。いや、早朝に土いじり、午後は美術館で勉強、という手もあるか。

2015年7月23日木曜日

涼風とハトとタクシー

 わが家は、茶の間に熱がこもる。冬はいいのだが、夏は暑すぎて仕事にならない。それどころか、注意力が散漫になる。朝、神棚にあげるごはんを冷蔵庫にしまおうとしたのは、頭の老化でなければ熱中症の前兆現象にちがいない。
 店(米屋)から自宅の玄関までは南北一直線に風が通り抜ける。茶の間は風の通り道のわきにある。空気がそよとも動かない。そのうえ、南は庭。照り返しが背中を焼く。扇風機を動かしても、天井部にたまった熱は抜けない。茶の間の温度はこのところ連日、30度を超えている。

 きのう(7月22日)の夕方、とうとう近所のおじ(故人)の家に“避難”した。今は誰も住んでいない。南側に幼稚園と民間の空き地(駐車場)が広がる。家が建て込み、海からの風が遮断されたわが家と違って、おじの家ではまだ涼風が吹き抜けていく。

 風になでられながら、横になって本を読んでいると、ときどき上下のまぶたがくっつく。わが家では暑くて昼寝もままならなかった。気がつくと、午後6時近くになっていた。
 
 玄関のあがりかまちに、来たときにはなかった段ボール箱があった。ばらして燃やすごみとして出すことにしていたという。ン? 中に白いハトの置物がある。いや、生きたハトだ=写真。カミサンに聞けば、「何も入れてない」「ハトがいる」「エッ」
 
 よくわからないが、私より少しあとに白いハトが飛び込んできて、段ボール箱の中で羽を休めていた。カミサンが容器に水を入れて段ボール箱に置こうとした瞬間、ハトは勢いよく飛び立った。ケガをしている様子はなかった。足環もしていなかった。
 
 ハトも熱中症の一歩手前までいって、たまらず人間の家に避難したら、いい休み場があった、ということだったのかもしれない。
 
 涼風と白いハトに心を奪われたためか、6時半開始の飲み会の時間が迫っていることをすっかり忘れていた。カミサンも午前中は、夜、飲み会があるとわかっていたそうだが、午後になって暑さにげんなりしているうちに忘れてしまった。
 
 わが家に戻り、行政区の役員さんに電話をしようと、たまたまそばのカレンダーに目をやったとき、飲み会の予定が入っていることを思い出した。あわてて着替え、タクシーを呼んで出かけた。
 
 きょうはこれから外歩きをする。曇りがちなのでよかった。が、飲み物は携帯しよう。

2015年7月22日水曜日

マメダンゴが出現

 夏井川渓谷にある隠居の庭は、おととし(2013年)の師走に全面除染された。表土が5センチほどはぎとられ、代わりに山砂が敷き詰められた。1年半たった今も、庭は砂浜のように日光を反射してまぶしい。
 庭木に囲まれた玄関前のそこだけ、わずか5センチほどの表層に人間の食用になる珍奇なキノコの菌糸が眠っていた。これが梅雨期に入るとめざめて、あちこちに丸いかたまりをつくる。ツチグリの幼菌(方言名マメダンゴ)だ。

 土中にあるので、発見は難しい。表土がはぎとられる前は、コケに覆われていた。コケを手で圧(お)すと、幼菌の硬い感触が伝わる。それを、指を入れて採った。

 コケごとはぎとられたあとは、ツチグリの菌糸が残っているとは思えない。除染から半年後の去年(2014年)はあきらめてチェックする気にもならなかった。今年はどうか。土いじりの合間に、気分転換を兼ねて玄関前の庭をなめるように見た。オヤッ! 茶色く汚れた親指大の“小石”があちこちにあるではないか=写真。コケが消えた分、マメダンゴが砂上に露出していた。

 ここまで色が汚れていると、内部は胞子が詰まって黒、あるいは紫色になっている。そうなるともう「食不適」だ。比較的色の淡い4個を採った。
 
 マメダンゴの旬は6月下旬。まだ小指大で白く、土中にある。内部も“白あん”状態だ。7月に入るとこれが親指大に膨らみ、胞子が形成される。

 無量庵の庭にツチグリが発生するとわかったのは、2009年の梅雨どき。ヒトデのように外皮の裂けた成菌がコケの上に現れたのを見つけてからだ。いながらにしてマメダンゴが採れるとは、と小躍りした。

 マメダンゴご飯(炊き込み)にする。取りたての絹サヤと一緒にみそ汁にする。外皮のこりこりとした歯ざわり、“白あん”のぐにゅっとした軟らかさとほのかな甘み――梅雨どきの、阿武隈高地独特の珍味だ。
 
 さて、あきらめていたマメダンゴが採れた。きれいな山砂の中で成長した。二つに割ると“白あん”と“黒あん”が半々だ。“黒あん”はごみ容器に入れて山へ戻す。“白あん”は……。ここでは食べたとも、食べなかったとも書かないでおこう。

2015年7月21日火曜日

谷間のヤマユリ

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ行くのは半月ぶりだった。7月19日、日曜日昼前。晴れてはいるが雲が多い。谷風も吹いている。天然のエアコンが作動するなかで、休みやすみ土いじりをした。
 三春ネギとトウガラシに追肥をし、ネギの溝に指を差し込み、土をほぐして現れたネキリムシ(ヤガ=野蛾=類の幼虫)7匹を退治した。わずか3メートルほどの溝に7匹とは、いくらなんでも多すぎる。溝は2列つくったが、1列の半分がそうしてネキリムシにやられた。

 子どもの夏休みが始まった。街から溪谷へと車で駆け上がるとき、頭に浮かんだ花がある。ヤマユリだ。

 半月前の渓谷にヤマユリの花はなかった。が、街なかの寺社林の斜面などではヤマユリが咲きだしていた。いつもの年より1週間は早い感じがした。溪谷でも7月12日の日曜日ごろには咲きだしたはずだ。

 イノシシはヤマユリの根が大好き。それで姿を消したところもある。渓谷の小集落のおばさんが昔、こぼしていた。友人の家の庭のヤマユリも、イノシシにやられた

 渓谷の入り口、小川町・高崎の夏井川第3発電所があるあたり、山側のガケに生えるヤマユリが満開だった。その先、「地獄坂」を上りつめて渓谷に入ると、隠居の牛小川まで、道々、ヤマユリが咲き誇っていた。隠居の庭のはずれにも咲いていた=写真。近寄ると、芳香に染まるようだった。

 私の記憶のなかでは、ヤマユリは「水浴(あ)び」「セミ捕り」「入道雲」「梅雨明け」と結びついている。標高500メートルほどの阿武隈の山里では、ヤマユリが咲くころ、夏休みが始まる。プールがなかったので、子どもたちは毎日、川へ水浴びに出かけた。里山でセミを追った。青空には入道雲。かたわらには、夏休みに入ったばかりの高揚感を象徴するヤマユリの花。

 セミは、まずニイニイゼミ、ついでヒグラシ、アブラゼミ。夏井川渓谷でもニイニイ、アブラゼミが鳴き、昼すぎ、空が雲に覆われると、ヒグラシが鳴いた。
 
 関東甲信地方は、この日(7月19日)、梅雨明けが発表された。今年は「西から東へ」の順序が崩れ、中国・近畿・東海は関東甲信より一日遅い20日ごろに梅雨が明けた。九州北部と四国、北陸、東北(南部、北部)はまだ。気象が北関東と同じいわき地方は、もう梅雨が明けたも同然だろう。

2015年7月20日月曜日

「熊川稚児鹿舞」練習見学会

 手元に『熊川稚児鹿(しし)舞が歩んだ道――福島県双葉郡大熊町』(いわき地域学會、2015年3月刊)がある。サントリー文化財団の助成を得て、熊川稚児鹿舞の歴史や保存会の組織・活動などを調査し、原発事故に伴う休止・復活までの足跡をドキュメントとしてつづっている。以下、同書を参考に記す。
 夏休み、そして3連休初日の7月18日、土曜日。地域学會はいわきワシントンホテル椿山荘で「熊川稚児鹿舞」練習見学会を実施した=写真。各地に離散する大熊町民を中心に、いわき市民、マスメディアなど約70人が詰めかけた。

 主催者を代表してあいさつした。震災後、地域学會は事業の柱に「震災復興事業への支援・協力」を加えた。その一環として、「熊川稚児鹿舞」復活までの調査・研究を手がけ、練習見学会を企画した、ということを話した。

 本の巻頭言に、大熊町民のつづった避難手記を紹介した。大熊町民が「西へ避難するように」と言われて阿武隈の峠を越えて田村市に入ると、常葉町民が温かく迎えてくれた。その町が半世紀以上も前に大火事になったとき、大熊町の消防団に世話になった、そのときのお礼をしているだけ――。常葉町はわがふるさと、個人的な思い出に触れると長くなるので、それはよした。

 大熊町の行政区に「熊川」がある。小良浜・新小舘・熊川の3地区からなる。稚児鹿舞が行われているのはその中の熊川地区だ。そこに暮らす戸数約60戸の人々は地元・諏訪神社の氏子であり、稚児鹿舞保存会の会員でもある。稚児鹿舞は大熊町の無形民俗文化財に指定されている。大津波で神社も、鹿頭などの用具を保管していた地区の公民館も流された。そこからの復活だった。
 
 小学生4人が鹿役、大人1人が道化の野猿役となって舞を演じる。原則4年間(小学4年生から中学1年生まで)は同じ子どもが演じ、次の小学生4人にバトンタッチをする。
 
 鹿役の4人は兄弟2組で、それぞれ避難先のいわきと会津若松の両市に分かれて暮らす。そのために両市を行き来して練習を重ねてきた。去年(2014年)の7月20日、つまりきょう、会津若松の応急仮設住宅で夏祭りが開かれた際、初披露され、4年ぶりに舞が復活した。
 
 当然ながら、私はこの稚児鹿舞を初めて見る。演じる時間の長さ、複雑な振りだけでも大変なのに、鹿頭を付ければ重い、暑苦しい。重労働には違いない。休憩時間に母親たちからうちわで風を送られていたが、熱中症になりかねないほどのハードさは、子どもたちの様子からもわかる。
 
 練習が終わったあと、地域学會のスタッフの1人が一番小さな子どものところへ行って、「よかったよ~」と握手を求めていたが、練習を見た全員が同じ気持ちだったろう。大熊町民も、いわき市民も最後はけなげさに胸が熱くなったのではないか。

2015年7月19日日曜日

ネパールからの手紙

 シャプラニール=市民による海外協力の会のネパール・カトマンズ駐在員から、シャプラ支援者あてに手紙が届いた=写真。4月25日に発生した「ネパール大地震」の支援活動報告を兼ねる。
 
 それによると、シャプラは現在までに六つの郡で支援活動を実施してきた。ヒマラヤ山脈のふもとにあるラスワ郡もそのひとつで、支援の届きにくい村で米を配布したときの写真が同封されていた。その村は、地震でほぼすべての家が倒壊しただけでなく、土砂崩れで畑が流され、村民は非常に困難な状況にあるという。
 
 シャプラは、バングラデシュやネパールなどの南アジアが活動エリアだ。経済発展や開発援助から「取り残された人々」が、みずから問題を解決すべく活動することを重視し、そのプロセスを外部者・媒介者として支援している。ネパールでは、「住民主体の洪水リスク削減プロジェクト」「カトマンズ盆地におけるレストラン児童労働の予防と削減への取り組み」を展開中だ。
 
 駐在員の手紙には「通常の事業に加え、一日でも早いネパール復興を願い、活動しています。また、たくさんの外部支援が入る中で、長くネパールで活動してきた知見と経験を活(い)かし、人々が支援から取り残されることのないように活動を進めていきたいと考えています」とあった。
 
 震災前はキャラバンで、震災後は何度かいわきに来た元ネパール駐在員が現地に入り、別の地域の被災状況をシャプラのホームページで報告している。
 
 以前支援していた組合の人間がシャプラスタッフに同行し、村や郡のトップと話し合って支援策を決めるのに協力した。たとえば、その村は、人が1人通るのがやっとという崖の道の先にある。「より弱い状況にある人々のことに想像をめぐらし配慮した活動を、かつて支援先だった人びとと一緒にできることをうれしく思った」という1行をうれしく思った。
 
「取り残された人々」の「エンパワーメント」(人々に夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っている素晴らしい、生きる力を湧きださせること=ウィキペディア)を目指すシャプラの活動が着実に根づいていることを示す報告ではあった。

2015年7月18日土曜日

「いただかせていただきます」

 三度、三度の食事でなくてもいい。食べ物を出されたときには「いただきます」という。日曜日(7月12日)、ネパールを応援するイベントで初めて、ネパールカレーを食べた=写真。これももちろん、「いただきます」といって。
 7月10日夜のNHK東北Z「ふるさとにカンパイ!」でこんなことがあった。盛岡出身の若いママタレントが秋田の麹(こうじ)屋を訪ねて、甘酒を口にした。そのとき、口から出たのが「いただかせていただきます」。これにはのけぞった。さすがに本人もおかしいと気づいたのだろう、次になにかを口にしたときには「いただきます」に直っていた。

去年(2014年)のNHK紅白歌合戦でのひとこまを思い出す。以下、3連12行は小欄の引用(抜粋)。

 V6が伍代夏子さんの「ひとり酒」でバックダンサーをつとめた。歌が始まる前の白組司会・嵐とのかけあいのなかで、三宅健クンが「伍代さんの後ろで踊らせていただき……」というつもりが、「踊らされて……」とやってしまった。思わず爆笑した。すぐ後ろのイノッチ(井ノ原快彦)が頭をペタンとやったのが、またほほえましかった。

 敬語講師山岸弘子さんによれば、聞き手に違和感を与える「させていただきます症候群」には5つのタイプがある。<「さ」はいらない>型がその1つ。

「踊る」の場合――五段活用の動詞は「せていただきます」に接続するから、敬語を遣うなら「踊らせていただきます」だが、「させていただきます症候群」にかかっていると、「踊ら『さ』せていただきます」と過剰になる。「さ」は要らない。三宅クンはそのへんがごっちゃになって言い間違った。「踊らされている」ことも確かだが。

 そして、今度の「いただかせていただきます」はその用法がおかしいとはっきり分かる言葉「いただきます」に付いたから、本人も「あれ?」となったのだろう。

 田中章夫著『日本語スケッチ帳』(岩波新書)によると、「いただく」は本来、「もらう」とか「食う」といった意味の動詞だ。それに、「読んでイタダク・読ませてイタダク」のような「へりくだり」(謙譲)の用法を持つようになったのは、幕末のころの江戸言葉においてであり、比較的新しい言い方、なのだそうだ。

 いつもの癖で、動詞に謙譲の「いただく」を付けたから、「フジサンヤマ」のような「いただかせていただきます」になった。「……せていただきます」は要らない、といえる、格好の例として使える。

とはいえ、こうして「……(さ)せていただきます」をあげつらっていると、その言い回しになじんで口にしてしまわないか、という心配がないわけでもない。ミイラ取りがミイラになる、ということわざがあることだし。

2015年7月17日金曜日

じゅうねんよごし

 7月14日の「あさイチ」は田村市からの生中継だった=写真(「カブトン」とイノッチ)。昔から阿武隈高地で栽培されているエゴマ(方言名「ジュウネン」)を紹介していた。
 田村市の、ゆるキャラ「カブトン」のいる常葉町で生まれ育ったので、小さいときから「じゅうねんよごし」を食べてきた。「ごまよごし」と変わらない。種から油をとったり、炒ってすりつぶして「よごし」にしたりするのは同じだが、ゴマはゴマ科、エゴマはシソ科だ。植物としての姿かたちはちがっている。

 ジュウネンはいわきの「昔野菜」でもある。白ジュウネンと黒ジュウネンがある。葉は青ジソにそっくり、花もシソと同じように穂状に咲く。

 いわき市山田町の後輩の家で、夏の暑い盛りに「そうめんの冷やだれ」を食べたことがある。たれにはジュウネンが使われた。炒ったジュウネンとサンショウの皮を擂り鉢で擂り、味噌を入れてさらに擂り、水を加えてのばし、醤油その他で味をととのえたのだという。
 
 以前、この簡略版、サンショウ抜きで「そうめんの冷やだれ」をカミサンがつくった。酷暑にげんなりして、食欲もわかなかったが、それなりに腹を満たすことができた。

 阿武隈高地ではほかに、彼岸には「じゅうねんぼたもち」(春)と「じゅうねんおはぎ」(秋)もつくる。このごろは「えごま油」も販売している。「あさイチ」では、そのしぼりかすの「パウダー」も紹介していた。
 
 シソにそっくりの葉も塩漬けにして、“じゅうねんおにぎり”にしたりする。小学4年生のころ、一度だけ、母親から海苔(のり)ではなく、シソの葉で包んだおにぎりを渡されたことがある。
 
 町が大火事に遭って3年もたっていなかった。「海苔も買えないのか」。家々が復興に向かって歩んでいても、内実は再建のための借金を抱えて貧しかった。あれはもしかしたら、シソではなくてジュウネンの葉ではなかったかと、テレビを見ながら思った。同時に、貧しいなりに食文化は豊かだったのだな、とも。。
 
 エゴマは韓国料理にも使われる。震災が起きた年の夏、津波被災者・原発避難者支援に奮闘していたNGOの仲間と韓国料理店で暑気払いをした。カクテキ(大根さいころキムチ)、キュウリのオイキムチ、モヤシとゼンマイのナムル(ごま油あえ)、海鮮チジミ(お好み焼き)、ごま油を塗ってほんのり塩味を加えた韓国ノリ。そして、エゴマの葉と唐辛子の漬物(たまり漬け?)が出た。

 いわきで手に入れた会津の「七味」は唐辛子、ジュウネン(エゴマ)、サンショウ、陳皮(ミカンの皮)の四味だった。一般に「七色唐辛子」と言われるので、四味では少々物足りない。が、香りは高かった。
 
 エゴマ、いやジュウネンはこうしてみると、食卓の名脇役らしい。ジュウネンのよごしを、阿武隈の実りを食べたくなった。

2015年7月16日木曜日

“川中島”のヤナギ

 河口から5キロほど上流の夏井川左岸域に住む。現役のころは職場の行き帰りに、退職後は朝晩の散歩に、そして今は街からの帰りに堤防を利用している。
 河川拡幅、堆砂除去をしたところほどヤナギがすごい。たとえば、8月20日夜に流灯花火大会が開かれる平・鎌田。“川中島”がヤナギで覆われている=写真。それを見るたびに不安になる。しかも、そう感じるのは私だけではなかった。

 もう40年近く前だろうか。幼い子を連れて夏井川まで散歩に行った。そのとき、この川はどこから流れて来るのか、気になった。水源は大滝根、ふるさとの山だ。それを知ってからは、夏井川は自分の体の中を流れる血と同じになった。

 その夏井川で旧建設省の「ふるさとの川」整備事業が始まったのはいつだろう。20年前、いや25年前? 親水空間をつくるのが目的で、鎌田地区では川幅が広げられ、広場や階段が設けられた。が、その結果として“川中島”ができた。中島にはやがて草が生え、ヤナギの木が茂り始めた。2008年には一度、ここでヤナギの伐採が行われている。
 
 鎌田の下流、平・山崎(右岸)では堆砂除去と県道付け替え工事、河川拡幅工事が行われた。野球場が2面も取れるような河川敷になった。しかし、それもつかの間、大水のたびに草が茂り、今では岸辺までびっしり若いヤナギ林が形成されている。河川を拡幅したはずが、かえって狭まってしまった印象がある。住民の不安の種も芽生えてしまった感がある。

 夏井川は、河口そのものが打ち寄せる波で砂丘化し、閉塞している。流れに勢いがない川を広げたのだから、「川の3作用」(侵食・運搬・堆積)に従って、浅瀬に砂が取り残されてたまる。中洲ができる。川幅が狭くなる。そんな変化は毎日、川を見ていれば分かることだ。

 おととい(7月14日)、いわき市文化センターで夏井川水系河川改良促進期成同盟会の総会が開かれた。最後の「その他」の時間になって、ヤナギ繁茂の不安を訴える声が地元出席者から出た。風雨が凶暴化している今、「リバーウオッチャー」でもある住民には、心配がつのるばかり。けさ起きると土砂降りだった。台風11号が北上している。

2015年7月15日水曜日

ネパールパーティー(下)

 ネパール応援の「ナマステ!ネパールパーティー」は、いわば女性パワーが結集したイベントだった。
 主催したのは、夫がネパール人の日本人女性と、夫が日本人のネパール人女性が立ち上げた「いわきからネパールを応援する会」。それを、ベルギーで東日本大震災を知ったいわき出身の女性が中心になって手伝った。
 
 東日本大震災とネパール大地震と――。異国で母国の災禍を知ったとき、人間はどんな気持ちになるか。司会を担当したベルギー帰りの女性は、当時のつらさを振り返った。母国から遠く離れていて情報が入らないもどかしさが大きかったのだろう。ネパール大地震では、日本にいるネパール人が同じような思いを抱いている――それが、イベントを手伝う原動力になったようだ。
 
 イベントには、東日本国際大の留学生も何人か参加した=写真。準備段階から手伝った留学生もいた。その彼が、東日本大震災から2年後、短時間のホームビジットでわが家へやって来た留学生だった。
 
 司会を担当する女性が準備段階から気をもんでいた。留学生たちがいわき駅から植田駅まで電車でやって来るはずなのに、まだ着かない。連絡がきたときには、イベントが始まる直前で、迎えに行ける車がなかった。

車は2台が必要だった。ここは、なんの手伝いもせず、会費を出してネパールカレーを食べただけの“臨時スタッフ”、私の出番だ。会場の錦公民館から、別の1台とともに植田駅へ直行し、駅舎前にいた男女6人をピックアップした。実は30年余り前、いわき民報の勿来支局で“ひとり支局長”をやっていたので、そのへんの地理には詳しい。傍観して終わったら自分が情けなくなる。
 
 プログラムが進んで一段落したとき、カミサンが留学生たちに話しかけた。「ホームビジットで留学生を受け入れたことがある」。私が受けて「名前はゴビンダ」というと、仲間が彼を指さした。準備を手伝った彼ではないか。髪型が変わり、ほおがこけていたので、わからなかった。

 彼の生まれ故郷はインドに近い平原のチトワン郡。「亜熱帯」に属し、ベンガルトラやインドサイ、ヌマワニなどが生息する。ネパール大地震が発生した直後、国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が緊急支援活動を展開した地域でもある。シャプラのホームページで、リアルタイムで知った。

 東日本大震災時には、原発事故のために仲間と一時、東京へ避難した。そのころはまだ日本語がよくわからなかったから、日本人の何倍も心細い思いをしたことだろう。そして、今度は母国の大地震だ。どうだった? 「家は壊れたけど、(家族は)みんな大丈夫だった」

 駅からピックアップした中に、彼の奥さんがいた。「2カ月前にやって来た」という。大地震の直後ではないか。彼にとっては家族とともに最も安否が気になる存在、危機に直面して離れて暮らすことができなくなった――そんな心理が作用したか。20代後半の彼は、間もなく大学の3年生になる。アルバイト先も替えるという。

 ほかにも同じようなカップルが2組、いや3組? 大地震がカップルのきずなを強靭にした。

2015年7月14日火曜日

ネパールパーティー(上)

 きのう(7月13日)は一日、なにもしないで過ごした。エアコンのない開放系のわが家の室温が朝のうちに30度を超えた。やることはあったが、「やる気」がおきない。
 前日の日曜日、錦公民館で「ナマステ!ネパールパーティー」が開かれた=写真。カミサンにも声がかかり、国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が扱っている、バングラデシュとネパールのフェアトレード商品を展示・販売した。カミサンと荷物を運ぶ運転手を務めた。会場に詰めっきりだった。その疲れもあった。

 暑さに疲れが重なり、一日遅れの休み(日曜日)をとった(と解釈してなまけてもいいだろうと、自分に言い聞かせる)。

 4月25日にネパール大地震が発生してから2カ月半。東日本大震災を経験したいわき市から、少しでもネパールを応援する気持ちを、復興への祈りを届けようと、市民有志がイベントを企画した。

 夫がネパール人の日本人女性、夫が日本人のネパール人女性が「いわきからネパールを応援する会」を立ち上げた。東日本大震災後、カミサンが知り合った女性が中心になって協力した。

 参加費は1000円(高校生以下は500円)。参加者限定のイベントになったが、中身は濃かった。「ネパールの被災状況・歴史・文化」「ネパール文字で名前を書いてみよう」「サリーを着てみよう」のほかに、映画やネパールカレー、ぎょうざ(モモ)の試食も。

 ネパールカレーはさっぱりした辛さだった。肉も入っていたが、具の中心は野菜。調理されたカレーは3種類で、それを皿のごはんによそって食べた。野菜のなかに、パリパリした食感のものがあった。そのおかげで漬物がいらなかった(パリパリはキュウリ? みんながいっていたサラダがそれ?)

 イベントを支えたのは主婦を中心とした女性で、事前の準備に加わった男性は少年1人と私を含む4人だけ。その1人がネパール人の若者だった。震災2年後の2013年2月、留学生のホームビジットを引き受けた。そのときの留学生だった。やせていたのですぐにはわからなかったが、2年半ぶりの再会だった。その話は、あした。

2015年7月13日月曜日

再会の夏

 東日本大震災で生まれた縁――ということを、ときどき考える。震災がなければ出会わなかった人たちがいる。最初は「たまたま」だったかもしれないが、つきあいが深まるにつれて、会って話すのが「当たり前」になる。「偶然」が「必然」になる。そういう人たちのことを書きたい。きょう(7月13日)は、その一。
 土曜日(7月11日)の夜、小3の娘さんが夏休みになったので中国から一時帰国したTさん母娘と、フランス人写真家のデルフィーヌといとこ(オーストラリア在住)、浪江町からいわき市に避難中のKさん夫妻と、われら夫婦で会食した=写真。

 デルフィーヌとは震災1年後の2012年5月中旬、国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」がイトーヨーカドー平店2階で運営していた被災者のための交流スペース「ぶらっと」(2014年4月、スカイストアに移転)で初めて会った。

「ぶらっと」のスタッフだったRさん、ご主人が海外転勤になる前、いわきにいてボランティアをしていたTさんとともに、われら夫婦も彼女と親しくなった。Kさんも「ぶらっと」の利用者で、デルフィーヌが撮影対象にしたひとりだ。

 その後、彼女は2014年2月18日から3月28日まで、ドイツのベルリン日独センターでドイツ在住の芥川賞作家多和田葉子さんと、詩と写真展「アウト・オブ・サイト」を開く。多和田さん自身もその前年の8月、Tさんの案内でいわき・双葉郡、その他の土地を巡った。その体験が作品集『献灯使』に反映されている。

 多和田さんがいわきへやって来た年の師走、デルフィーヌがTさん母娘と一緒に夏井川渓谷のわが隠居(無量庵)を訪ねた。私が落葉した渓谷林を案内しながら、キノコの話をしたらしい。翌2014年7月末、フランスから乾燥キノコが届いた。

 平仮名がういういしいしかった。漢字交じり文にすると――。「追伸 プロヴァンス産のマッシュルームを送ります。/水にしばらくさらしたあと、オムレツやグラタンなどの料理に使ってみてください。お口に合えばいいのですが……」

 ネットで調べたら、「トロンペット・ド・ラ・モール」(死者のトランペット=和名クロラッパタケ)」で、アンズタケの仲間だった。炊き込みごはんにすると、味も歯ざわりも「コウタケごはん」並みにうまかった。一級品には違いない。

 長々と経過を書き過ぎた。会ってまる3年になる彼女は、すっかり日本語を解するようになっていた。会うたびに日本語の理解が進んでいることがわかったが、今回は片言の英語のカミサンと片言の日本語のデルフィーヌとで普通に会話ができる。
 
 それで知ったのだが、今度は多和田さんと一緒に本を出すという。ベルリンで写真展を開いた以上はそうなるのが当然で、私としてはそれを待望していた。
 
 で、それと関係するのかどうか。いわき地方で月遅れ盆に行われる、新盆(にいぼん)供養の「じゃんがら念仏踊り」を取材したいという。Tさん母娘はその前に中国へ戻る。ならば、今は住む人がいなくなった「ゲストハウス」(カミサンの亡くなった伯父の家)がある、それを使ったらどうか、ということになった。
 
 いわきのために、いや浜通りのために、仕事をしていると思えば、側面からできる協力はしたい、それが人情というものだ。多和田さんも8月には取材に来るらしい。実は2013年の8月、多和田さんが来たとき、Tさんのはからいで、今回会食したところと同じところで会食している。
 
 カミサンの父親が生まれた家の当主の親が昨年暮れに亡くなった。事前に聞いておけば、「じゃんがら」の青年会一行がやって来る日時がわかる。ぜひ、平の田舎も田舎、どん詰まりの旧家の庭で演じられる「じゃんがら」を見せたい。そんな思いがふくらんでいる。

2015年7月12日日曜日

庭のキノコ

 木曜日(7月9日)まで、どんよりして梅雨らしい日が続いた。たまたま7日午後、プラムの木の様子を見ようと庭へ出たら、地面からキノコが生えていた=写真。わが家の庭にキノコが発生するのは珍しい。
 生け垣のサンゴジュやマサキが菌に蝕まれることはあった。プラムの二本立ちの幹の一本にもカワラタケが発生した。実を採ろうとはしごに乗ったら、わかった。前に幹と枝を剪定した。切り口から菌が潜入したのだろう。木材腐朽菌でもシイタケやナメコ、エノキタケなどであれば口にできるが、カワラタケでは食欲がわかない。

 それと同じ理由で、地上に発生するのもアミタケやホコリタケ、タマゴタケならいいが、庭のキノコは残念ながら、私の知識では種類が特定できなかった。

 色はアミタケのような淡黄褐色、柄につばが付いている、ひだは多め――。ネットでわからず、ポケットサイズの図鑑をめくったものの、類似するものが見当たらない。
 
 図鑑がすべてのキノコを収録しているわけではない。それ以上に、実際のキノコには変異が多い。図鑑通りということはむしろ少ない。同じ種類と思っても、別の種類のものがある。乏しい知識と経験をフル動員しながら、「ああでもない、こうでもない」と首をひねったまま時間が過ぎた。

 庭に出るキノコの代表は、夏井川渓谷にある隠居の場合だとアミガサタケ。春に発生する。炒めて食べた。同じ溪谷の知人の家では、それこそ毎年、高床式の縁の下から現れた。今も発生しているだろうか。

 写真は撮ったが、きちんと見ていなかったな――気温が今年最高になったきのう7月11日(あれから4年4カ月がたった)、庭のキノコは影も形もなかった。いや、よく見たら茶黒く縮んで干からびていた。10、11日と晴れて気温が急上昇した。物置を解体して更地にした、その空きスペースから生えたキノコは、直射日光を浴びてたちまちしおれ、乾燥してしまったのだろう。

 直径7センチほどあった傘が、かちかちに乾燥したあとは2センチ強に縮小した。年末に開かれるいわきキノコ同好会の総会兼懇親会に持参すれば、答えが得られるかもしれない。それまで保存しておくことにしよう。

2015年7月11日土曜日

カラスの“から巣”

 近所にカミサンのおじ(故人)の家がある。庭にホオノキの幼樹を植えたら、クスノキが芽生え、ホオノキの背を超えて枝葉を広げた。クスノキは常緑樹。かわいそうだが、ホオノキには成仏してもらった。
 クスノキを生長するままにしたら、見上げるような大木になる。それは困る。きのう(7月10日)、近所のプロ(造園業)に頼んで剪定した。剪定は5年ぶり、三度目だ。
 
 ひとつだけ注文した。こんもり茂った緑の内側にカラスの“から巣”がある。“から巣”をそっくり切り取ってほしい――。プロの手で、あっというまにクスノキは“散髪”された。初めて“から巣”を観察した=写真。直径は40センチほどだろうか。
 
 世の中はおもしろいもので、カラスの好きな人もいれば、嫌いな人もいる。ツバメだってそう。家の玄関で巣づくりを始めると、フンを嫌って壊す人がいる。その一方で、ツバメの“同居”を歓迎する人も、一時的だからと我慢して“共生”する人もいる。家の庭木についても、同じように「一年中緑があっていい」「こんなに大きくしてどうするの」と反応はさまざまだ。

 近くの家のおじいさんによると、今年、カラスは巣ごもりをしなかった。が、5月の初めにカラスが卵を温めているような姿を見た記憶がある。カラスが2年続けて営巣しているようなので、剪定時期を7月まで遅らせたのだった。

 巣はいたって堅牢だ。幹と枝の股(また)に木の枝を組み合わせて円形の“産座”をつくった。下段はやや太い、丈夫な枝。中段はそれより細い枝で、くちばしで枝をしならせながら、編みこんだようだ。がっちり枝がからみあっている。その枝と同じくらいの太さのハンガーが6~7個、組み込まれている。

 電柱に営巣したら、木の枝やハンガーが電線に接触して停電の原因になる。電力会社は神経をとがらせる。金属製の腕木にくるくる回る風速計のようなものが付いている。カラス除けだと電力マンに聞いたことがある。

 さて、じかに卵を産む巣の上部はどうか。ブルーシートのほつれた繊維、綿くず、木の葉が敷き詰められていた。弾力があってやわらかい。“三層構造”になっている。カラスも腕のいい建築家だった。

 “から巣”は庭に置いた。まるでオブジェ。それが太陽と風と雨とによってどう変化するのか、せっかくだからカメラで経過を記録しようと思っている。

2015年7月10日金曜日

前期常設展示「いわきの戦災」

 いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」4~5階に、いわき市立いわき総合図書館が入居している。ラトブが開業した平成19(2007)年10月25日から、ひんぱんに図書館を利用している。
 開業日と前後して会社を辞めたあと、途切れることなく下請けで本を2冊まとめた。必要な新聞記事をコピーするために図書館へ通い続けた。

 野口雨情記念湯本温泉童謡館が同20年正月5日にオープンした。初代館長の故里見庫男さんから、「童謡詩人について話してくれないか」と無茶な注文を受けた。断るわけにはいかないので、これも合わせて図書館で調べた。おかげで、いわき地方の「大正ロマンと昭和モダン」を少しはイメージできるようになった。

 同時に、自分が勤めていた地域新聞の経験を総括するために(大げさに言えば、オレの人生は何だったのか、と問うために)、いわき地方の地域新聞の歴史を調べ始めた。それから4年後、震災の年の秋に始まった図書館の後期常設展示「いわきの地域新聞と新聞人」の資料も、おおいに役立った。

 太平洋戦争が始まるほぼ1年前には、5紙あったいわき地方の日刊新聞が1紙に整理・統合される。さらに、「1県1紙」政策のなかで、いわきの新聞は福島民報の「磐城夕刊」になる。それも、昭和19年には休刊する。終戦時には、地域のニュースを伝える地元メディアはなかった。

 今年6月24日から12月18日まで、総合図書館5階で今年度後期の常設展示「戦後70年、伝える――いわきの戦災」が開かれている。A3判二つ折りの資料=写真=を手にし、同図書館所蔵のいわきの戦災関連図書を眺めていて、ひらめくものがあった。地域紙の強制的な統廃合は「内なる戦災」ではなかったか――。

「新聞用紙の配給」を武器にメディアの統制がはじまり、勝っているうちにはそれなりに正確だった「大本営発表」がウソで塗り固められていく。そうしてポツダム宣言、広島・長崎の原爆投下を経て、玉音放送を迎える。いわきにずっと地域新聞があったなら、「昭和20年8月15日」の様子もわかるのだが……。

「戦後50年」を前に、いわき地域学會が市民から手記を募り、編集・出版した本がある。『かぼちゃと防空ずきん』(平成6=1994年刊)で、中身は全く同じながら、平成22(2010)年、会津若松市の歴史春秋社から『市民が書いたいわきの戦争の記録 戦中・戦後を中心に』と改題したものが出た。

 いわき地域学會は毎月、市民を対象に「市民講座」を開いている。担当の副代表幹事から8月の指名を受けたので、「昭和20年8月15日のラジオと新聞」をテーマに話すことにした。『かぼちゃと防空ずきん』の市民の手記ももちろん引用する。まず、小さなメディアから「内なる戦災」が始まる――という思いをこめて。

2015年7月9日木曜日

写真集団ZERO展

 いわき市の写真集団ZEROの作品展がきのう(7月8日)、北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館で始まった。日曜日の12日まで。
 いわき市は東北の最南端、北茨城市は関東の最北端――と、ひとまずは区分できるが、両市は隣り合っていて、いわき市南部の勿来地区とは結びつきが深い。いわき市の北部に住む人間は、直接の交流がない分、30分ほどで関東へ“越境”し、旅をした気分になれる。

 展示会場に入るとすぐ、星空を仰ぐ子ども2人のシルエット写真が目に入る=写真。案内状に使われていた作品で、「ぼくらの星空」というタイトルが付いている。
 
 41人が1人2~4点を出品した。いわき明星大復興事業センター震災アーカイブ室も特別参加をし、同センターが収集したいわき市と北茨城市の震災関連写真を展示している。写真集団にはリーダーの上遠野良夫さんのほか、何人か知り合いが属している。モーターパラグライダーの「かもめの視線」氏も作品を発表した。

「ぼくらの星空」は、タイトル通りの写真だ。冬の夕日が沈んで間もない時間帯だろう。北斎ブルー(ベロ藍)を思わせる、青~紺~黒のグラデーションを背景に、野外で防寒着をまとい、シルエットと化した子どもが2人。1人は天に向かって両手を突き上げ、もう1人はじっと星たちを見つめている。やや上方には光の軌跡(流れ星、いや銀河鉄道?)も見られる。

 最初に作品を見たとき、今年に入って少したってからだが、写真というよりイラストっぽい感じを受けた。誰も狙わない時間帯と素材、「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラを連想させるような画面構成。実は……、シルエットの子どもは私の孫で、子どもの父親が撮った。

 父親はもう1点、眼光らんらんとしたいきものを流線形化したような作品も出した。が、よく見るとそれは猛禽ではない、飼い猫を素材にしたものらしかった。技法的にはよくわからないが、写真と美術を融合させるようなところで作品づくりをしているらしい。

 最近、新しいカメラとレンズを買った。いわきの人たちの多彩な作品に触れながら、ふだんの撮影とは別に、何かひとつ、たとえば花やクモの巣、ヤカンの「水滴」などを追い続ける必要性を感じたりしたのだった。

2015年7月8日水曜日

江筋の草刈り

 7月最初の日曜日は磐城小川江筋の草刈り日と決まっているのだろうか。5日の朝9時すぎ、わが家から夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ向かうため、江筋沿いの細道をたどると、至る所で草刈りが行われていた。水がせき止められた水路に入って山岸の草刈りをしている人たちもいた=写真。
 磐城小川江筋は夏井川左岸の下流域を潤す農業用水路だ。今から350年ほど前の江戸時代前期に築造された。小川町の三島地内に、夏井川のカーブを利用した多段式、木工沈床の斜め堰がある。そこから山岸に沿って終点の四倉まで全長約30キロにわたって水が引かれ、広大な沿岸の水田を潤す。水道水にも利用されている。
 
 江筋沿いに平浄水場がある。そこからやや上流、江筋に接する小さな神社の境内に、風と水と太陽で発電する学習施設が設けられた。福島高専名誉教授が代表を務める「いわき自然エネルギー研究会」が運営する。
 
 その様子を見るため、江筋沿いに車を走らせることが多くなった。昔のブログを読むと、同じころ、同じように人が出て草刈りをしている。稲作農家にとっては、わが田に引く水は隣の田から来て隣の田へ去る水でもある。郊外を行き来し、古くからの行政区の区長さんらと話をしていて見えてきた、「水社会」のひとコマだ。

 街で暮らしている人にはなかなか想像が及ばないことだが、郊外の水田地帯では畦や土手の草刈りが欠かせない。草むらは農作物に害を及ぼす虫のすみかになる。8月は月遅れ盆。先祖の霊が帰ってくる前にきれいにしておこうという意味合いもあるのだろう。

 山里にあるわが隠居でも、先日、知り合いの造園業者に頼んで一段下の原っぱに群生するヨシを刈ってもらった。隠居が農村景観の一角を占めている以上は、農家でなくとも鈍感ではいられない。自然の移り行きのなかで草を刈る時期はおのずと決まってくるものらしい。

2015年7月7日火曜日

ハナビラニカワタケ

 土曜日(7月4日)の昼すぎ、いわき市立草野心平記念文学館からの帰りに、平・石森山の遊歩道を歩いた。ハナビラニカワタケ=写真=とアラゲキクラゲの写真を撮った。アラゲの発生は予想通りだった。
 石森山を四倉・大野二小側から駆け上がり、すぐ左折して林道絹谷石森線を東のふもと(平・絹谷)へ駆け下りた。途中に遊歩道の出入り口がある。林内の遊歩道は10コース。軸になるのはその出入り口から、すり鉢の底と上部のへりの道路をつなぐ「せせらぎの道」だ。

「せせらぎの道」にはミツバが群生している。菌類も至る所に発生する。目立つのはアラゲキクラゲとウスヒラタケ。道からそれて林内を巡れば、季節にもよるがタマゴタケ、ウラベニホテイシメジ、アカヤマドリタケ、エノキタケなどに出合える。

 石森山は菌類が豊富な里山。道に迷う心配もない。20代後半からおよそ20年間、丸かじりするように林内を歩き回った。日曜日早朝、わが子をたたきおこして野鳥観察に連れだしたこともある。野草も豊富だ。林内を巡ると、ここでなにを見た、ここでなにを撮った、ここでなにを摘んだ――記憶がたちまちよみがえる。

 毎月最初の月曜日。古巣の夕刊いわき民報に「あぶくま、星の降る庭」というタイトルで、生まれ育った阿武隈高地に関する文章を掲載している。その隣に載るのが、これまた月一掲載の「いのちを描く ボタニカルアートの世界」だ。絵と文を書いているのは冨田武子さん。

 冨田さんはいわきキノコ同好会の会長、私は副会長だ。冨田さんは画家として、私はいわき地域学會の人間として文章を書いている。担当者は2人がキノコでつながっていることを知らなかったにちがいない。私もキノコを取り上げることがあるが、ダブるとまずいので、できるだけ避けるようにしている。

 きのう(7月6日)、冨田さんは石森山のキノコのひとつ、ルリハツタケを取り上げていた。そのなかにこんなくだりがある。「石森山の遊歩道で青いキノコを見つけたことがあった。ルリハツタケとの初めての出会いだった。その後、何回も同じ場所を探しているが、いまだに果たさない」。ルリハツタケは、私も出合いたいキノコのひとつだ。
 
 冨田さんは食用にとどまらず、標本にして保存する科学的愛菌家だが、私は顕微鏡で胞子を観察するようなことはしない、できない。せいぜい採って食べて(あの日以前の話だが)、採取場所と時期を記録するだけだ。
 
 5月は晴れの日が多かった。キノコにはよろしくない日々が続いた。遅い梅雨がきて、「せせらぎの道」にようやく湿気がこもるようになった。アラゲキクラゲは乾燥して縮こまっていたのが、水分をみなぎらせて大きな耳のようになった。今度も目は喜び、口は寂しがっていた。

2015年7月6日月曜日

90歳の危機感

 いわき市フラワーセンターの展示温室で見た熱帯植物の花=写真(黄色いハイビスカス)=の数々が、まだ頭のなかに焼きついている。強烈な色彩に、たまったストレスが少しほぐれた。とはいえ、行事に追われる忙しさは変わらない。世の中もざわついている。
 70、80代が中心の生涯学習サークルがある。リーダー格は90歳のKさん。私の自宅からバス停で3つか4つ離れたところに住む。私が現役のころ、職場にやって来てコラムの感想を述べたのが、知り合った最初だ。もう10年くらいのつきあいになるだろうか。土曜日(7月4日)の夕方、外出から帰って休んでいると来訪した。歩いてきたのかと思ったら、自転車で、だった。

 いわき地域学會の公開行事が2つある。7月18日・大熊町の「熊川稚児鹿舞(ししまい)」練習見学会と、10月の「いわき学検定」だ。地域学會の事務局を引き受けているので、このごろ、毎日のように申し込みのはがきが届く。Kさんは「いわき学検定」の方だった。たぶん最年長の受検者になるのではないか。

 はがきではなく、直接申し込みに来たのは、胸の内にたまっているものを吐きだしたかったからでもあるようだ。「私はみなさんに生かされて、やっと90歳になりました」。「やっと」がつつましいKさんらしい。

 そのあとに、「アベさんは……」と切り出した。「日本を戦争できる国にしようとしている。見てられない。日本が70年前に戻るような感じで怖い」と、戦争体験者としての率直な思いを語った。
 
 今年90歳だから玉音放送を聞いたのは20歳のとき、ということになる。「終戦間際に召集された。上司たちの話を漏れ聞いているうちに、日本は戦争に負けるのだなとわかった。戦争が終わって、これからは言いたいことが言える時代になる、と喜んだ」「戦死した先輩や同僚のことを思うと涙がとまらなくなる」
 
 Kさんは、思想的には右でも左でもない。勤め人としての人生を全うし、今は生涯学習に生きがいを見いだしている、ごく普通の市民だ。戦争の悲惨も、平和のありがたさも身に染みてわかっている。「戦後70年」の節目が「70年前の戦争」の記憶と直結しかねない――90歳の危機感に圧倒された。
 
 今年元日の小欄で、こんなことを書いた。――床の間の厨子のわきに硫黄島の海岸の黒い砂が入った小瓶がある。父親がその島で戦死したいわき地域学會の先輩が慰霊の旅に加わり、遺骨代わりに持ち帰った。同じように母の兄もその島で亡くなった。遺骨代わりに分けてもらい、田村市の実家と伯父の家の仏壇に供えた。

「戦後70年」は「玉砕70年」「空襲70年」「原爆70年」でもある。あるいはそれぞれの兵士の死から71年、72年、73年……でもある。硫黄島の黒い砂を見つめ、孫の未来の時間に重ねて思うのは、「戦後」がずっと続いていくように、ということだ。――
 
 硫黄島にはブーゲンビリアやハイビスカスが自生しているそうだ。太平洋戦争中、最激戦地のひとつになったその島で、兵士たちには原色の花に見とれるような瞬間があったのかなかったのか。フラワーセンターで見た熱帯植物の花の下に、遺影でしか知らない伯父が立っている、そんなイメージが浮かんだ。

2015年7月5日日曜日

新美南吉展

 いわき市立草野心平記念文学館で夏の企画展「新美南吉展―光りかがやく作品」がきのう(7月4日)始まった。9月6日まで。4日、同記念館事業懇談会に出席したあと、館内の展示室をのぞいた。
 20歳のころ、宮沢賢治の童話を読みふけった。児童文学について語り合う人間もいた。新美南吉はその人間を通じて知った。南吉は15歳のときに、日記に「悲哀は愛に変る」と記したという。「ごん狐」に、賢治作品にも通じる献身と犠牲、それこそ南吉が心に秘めた「悲哀と愛」を感じた。

 そのころまで阿武隈、いやどこの里や山里でも、大人が真顔で狐に化かされた話をしていた。そうした民話が暮らしのなかに息づいている“狐文化”のなかで生まれ育った。

6、7歳のころの記憶。「あれは何の声?」「狐」。山中の一軒家である母方の祖母の家に泊まった晩、向かい山から聞こえてくる狐の鳴き声に、だまされたらどうしよう、と縮み上がった。「ごん狐」もそんな“狐文化”の延長線上で読んだ。

 賢治没後の昭和9(1934)年、東京・新宿で「第1回宮沢賢治友の会」が開かれる。その席に心平も南吉もいた。2人の関係はそれ以上に進展したかどうか。

作品を介したつながりでいえば、皇太子夫妻(現天皇・皇后両陛下)と旧小川町立小川小・中学校戸渡(とわだ)分校生との交流が挙げられる。

 心平記念文学館発行の冊子=写真=によると、昭和34(1959)年、同36年、分校生が皇居に地元のヤマユリの球根を寄贈する。そのお礼に、お2人から『新美南吉童話全集』(全3巻)とメタセコイアの苗木が贈られた。

 分校はやがて廃校になり、建物は「戸渡リターンプロジェクト」の拠点として再利用された。その後、震災・原発事故がおきる。プロジェクトの顛末(てんまつ)は、当事者のYさんのブログ・フェイスブックに譲るとして、旧分校に設置されたリアルタイム線量計は現在、0.27前後で推移している。

 南吉の話からそれた。「おじいさんのランプ」も忘れがたい物語だ。文明開化の世になって、ムラの家の明かりが行灯(あんどん)からランプに替わり、ランプからさらに電灯に替わる。いうならば「明かりの変遷史」だ。

 山中の祖母の家には、江戸と明治の明かりが残っていた。昭和30年代後半、ふもとにある叔父(祖母の二男、長男は戦死)の家の隣に移転するまで、祖母の家には電気がなかった。夜はいろりの近くにランプがともり、寝床には行灯が用意された。そんな薄暗い家の中にいるだけでも怖いのに、狐の鳴き声が響くと、もうふとんをかぶって寝るしかなかった。
 
 そう、悲しみを含んだ懐かしさ――われわれ団塊の世代までは、南吉の作品の時代背景、舞台(ムラ)がまだわかる。不夜城のように明るいマチで育った世代や現代っ子は南吉の作品世界にリアリティーを感じられるかどうか。夏休みになったら、孫と一緒に隠居に泊まって、幽霊のまねをして「マモー」とやりたくなった。