2015年7月5日日曜日

新美南吉展

 いわき市立草野心平記念文学館で夏の企画展「新美南吉展―光りかがやく作品」がきのう(7月4日)始まった。9月6日まで。4日、同記念館事業懇談会に出席したあと、館内の展示室をのぞいた。
 20歳のころ、宮沢賢治の童話を読みふけった。児童文学について語り合う人間もいた。新美南吉はその人間を通じて知った。南吉は15歳のときに、日記に「悲哀は愛に変る」と記したという。「ごん狐」に、賢治作品にも通じる献身と犠牲、それこそ南吉が心に秘めた「悲哀と愛」を感じた。

 そのころまで阿武隈、いやどこの里や山里でも、大人が真顔で狐に化かされた話をしていた。そうした民話が暮らしのなかに息づいている“狐文化”のなかで生まれ育った。

6、7歳のころの記憶。「あれは何の声?」「狐」。山中の一軒家である母方の祖母の家に泊まった晩、向かい山から聞こえてくる狐の鳴き声に、だまされたらどうしよう、と縮み上がった。「ごん狐」もそんな“狐文化”の延長線上で読んだ。

 賢治没後の昭和9(1934)年、東京・新宿で「第1回宮沢賢治友の会」が開かれる。その席に心平も南吉もいた。2人の関係はそれ以上に進展したかどうか。

作品を介したつながりでいえば、皇太子夫妻(現天皇・皇后両陛下)と旧小川町立小川小・中学校戸渡(とわだ)分校生との交流が挙げられる。

 心平記念文学館発行の冊子=写真=によると、昭和34(1959)年、同36年、分校生が皇居に地元のヤマユリの球根を寄贈する。そのお礼に、お2人から『新美南吉童話全集』(全3巻)とメタセコイアの苗木が贈られた。

 分校はやがて廃校になり、建物は「戸渡リターンプロジェクト」の拠点として再利用された。その後、震災・原発事故がおきる。プロジェクトの顛末(てんまつ)は、当事者のYさんのブログ・フェイスブックに譲るとして、旧分校に設置されたリアルタイム線量計は現在、0.27前後で推移している。

 南吉の話からそれた。「おじいさんのランプ」も忘れがたい物語だ。文明開化の世になって、ムラの家の明かりが行灯(あんどん)からランプに替わり、ランプからさらに電灯に替わる。いうならば「明かりの変遷史」だ。

 山中の祖母の家には、江戸と明治の明かりが残っていた。昭和30年代後半、ふもとにある叔父(祖母の二男、長男は戦死)の家の隣に移転するまで、祖母の家には電気がなかった。夜はいろりの近くにランプがともり、寝床には行灯が用意された。そんな薄暗い家の中にいるだけでも怖いのに、狐の鳴き声が響くと、もうふとんをかぶって寝るしかなかった。
 
 そう、悲しみを含んだ懐かしさ――われわれ団塊の世代までは、南吉の作品の時代背景、舞台(ムラ)がまだわかる。不夜城のように明るいマチで育った世代や現代っ子は南吉の作品世界にリアリティーを感じられるかどうか。夏休みになったら、孫と一緒に隠居に泊まって、幽霊のまねをして「マモー」とやりたくなった。

0 件のコメント: