2015年8月31日月曜日

8月の終わりに

 地域新聞に身を置き、やめてからは日本の新聞を視野に入れながら、いわきの地域メディアの歴史を調べてきた。そのさなかに東日本大震災が起きた。地域紙、県紙、全国紙の役割の違いが鮮明になった。
 それはそれとして、戦前・戦中の新聞を考える際のキーワードは「言論統制」「大本営発表」「1県1紙」などだろう。今年(2015年)、終戦70年を迎えて、あらためて「戦争とメディア」のことを考えないではいられなかった。
 
 先日、映画館で新作の「日本のいちばん長い日」を見た。それにからめて次のようなことを書いた。

「先の太平洋戦争では、戦時体制が進むなかでまっさきに地域新聞がつぶされた。5紙あったいわき地方の日刊紙は1紙に統廃合され、さらに『1県1紙』政策のなかで福島民報の『磐城夕刊』に組み込まれる。戦局が悪化すると、今度は休刊の憂き目に遭い、終戦時にはそれを伝える地元の活字メディアは存在しなかった」

 地域紙の側から見ると、日本のメディアは3層構造になっている、というのは当たり前のことだが、中央の視点は必ずしもそうではなかった。山田健太専修大教授が『3・11とメディア』(トランスビュー、2013年)のなかでこんなことを言っている。

「3・11を経て、多層的なメディアの重要性が改めて確認された。ここでいう多層の意味は(中略)主として到達エリアによる違いをさす。/具体的には、新聞でいえば(中略)、ナショナル/ローカル/コミュニティの三層構造が存在する」。テレビやラジオも同じ三層構造――という指摘に、やっと中央が地域を「発見」したか、という思いを抱いた。

 いわきの例でいえば、いわき民報はコミュニティペーパー、FMいわきはコミュニティ放送だ。戦争になると、真っ先にコミュニティメディアが整理される。それが歴史の教訓だ。
 
 原発事故報道に関してメディアは読者・視聴者から「大本営発表」という批判を受けた。では、ほんとうの「大本営発表」とはどんなものだったのか――それを調べる過程で再確認したことは、メディアは戦争とともに成長してきた、ということだ。日清・日露戦争で報道合戦を繰り広げ、部数を伸ばした。「1県1紙」政策も、今あるメディアにはプラスに作用した(競争相手が権力によって淘汰された)。
 
 メディアを「産業」として見ると、「編集」が〈反権力〉をうたっても「経営」は〈親権力〉に傾く。太平洋戦争下のメディアは、その両方が一体となって権力に協力した。それを繰り返さないという保証はない。それよりなにより、ドイツと違って日本のメディアは戦後も温存された。

 極限状況になればなるほどメディアは権力のお先棒をかつぎ、あおり、たきつける。8月15日にBSプレミアムで旧作の「日本のいちばん長い日」が放送された。ポツダム宣言に対するメディアの反応がよくわかる新聞記事が登場した=写真。「笑止!米英蒋共同宣言/自惚れを撃破せん/聖戦を飽くまで完遂」(毎日新聞)
 
 吹けば飛ぶような一寸の虫がいうのもなんだが、メディアが勇ましいことをいいはじめたら要注意だ。このごろのメディアにそんなきざしがないかどうか。フリージャーナリストら2人が殺されたとき、某紙のコラムニストが「仇をとってやらねばならぬ、というのは当たり前の話である」と書いた。のけぞった。
 
 8月の終わりに、列島で「安保法案」への抗議集会が開かれた。けさの朝日はそれを大々的に取り上げ、読売は「賛成」デモもあったことを加えて小さく伝えていた。ニュース判断がこんなにも違うのは、やはりすごい。

2015年8月30日日曜日

原発事故処理機関

 いわき市民には縁遠かった国の機関だ。ひとつは、環境省。いわきに「中間貯蔵施設浜通り事務所」ができた=写真。もうひとつは、JAEA(国立研究開発法人日本原子力研究開発機構)。同じように「いわき事務所」ができた。いわき駅前大通りの南側、新川緑地をはさんだビル街の一角にそれぞれ入居している。
 巨大地震と大津波で東電.福島第一原子力発電所の原子炉が次々に事故を起こした。

 事故の原因はいまだに解明されていない。その解明と事故収束作業、廃炉作業が並行して行われている、というところだろうか。ニュースにこそならなくなったが(その作業が当たり前になったから)、原発のある郡の南隣の市に住む人間としては、毎日がいつ崩れるかわからない断崖の道を歩いているようなものだ。

 JAEAには事故を起こした原発の廃炉という使命がある。報道によると、双葉郡楢葉町に、廃炉に必要な研究開発の実証試験をし、事故をおこした原発内部の状態を“再現”したなかでロボット操作などを実験する「モックアップ(原寸模型)施設」ができる。いわき市内の事務所はその後方支援基地だろう。

 中間貯蔵施設は、これまた報道によれば、1Fの立地する大熊・双葉町にまたがって建設される。環境省の浜通り事務所では、除染作業で出た県内の汚染物質の輸送計画やルート設定、予定地の用地交渉などを担当するらしい。原発避難者がいわきに2万4000人ほどいる。それもあって、いわきに出先機関を設けたのだろう。
 
 これらの仕事は、大げさな物言いではなく、世界史・人類史に書き留められるようなレベルのものだ。
 
 きのう(8月29日)、わが家にやってきた行政マンとこんな話になった。いわきへやってきた事務所の人たちは、いわきの住みよさを肌で感じているに違いない。観光とは別に、仕事と生活を通していわきの魅力を中央に発信できる存在になってくれるだろう。
 
 使命は使命としてがんばってもらう一方で、いわきで暮らすことになったからには、いわきのカツオを、自然を、温泉を、文化を楽しんでもらいたいと思う。そうあってこそ、困難な仕事にも立ち向かっていく力が出るというものだ。

2015年8月29日土曜日

クラシックカー

 身の回りの珍風景第2弾――きのう(8月28日)のコダカラソウに続いて、きょうはクラシックカーを=写真。
 わが家の道路向かいに田んぼを埋め立ててつくった駐車場がある。舗装はされていない。ほかは宅地になり、そこだけぽっかり残った。

 今は秋の長梅雨のようだが、7月後半から酷暑が続いた。8月に入ると室温が35度になることもあった。あんまり暑いので、わが家から駐車場をはさんだ向かいの伯父(故人)の家に“避難”して仕事をした。

 8月3日午後1時半ころのこと――。資料読みに疲れ、縁側に立って外を眺めたら、駐車場にクラシックカーが止まっていた。

 駐車場にカバーのかけられた車があった。スポーツカーらしかったが、カバーが取られてどこかへだれかが運転して行くこともあったが、車そのものを見たのは初めてだ。

 車にはうといので、この写真からはさっぱり情報を引き出せない。メーカーは、製造年代は、どんな人が乗っていたのか……。クラシックカーは2人乗りで、道路へ出ると街の方へ走り去った。まだ帰ってこない。もう帰ってこないのかもしれない。

 一般道路でクラシックカーを見たことはあったか、なかったか。「クラシックカーが○×に集結した」という新聞報道に接したことはある。テレビニュースを見たこともある。それだけのことで、車そのものにあまり興味がない。

 3・11後は、いわきの交通量が増えた。原発事故の避難者が2万4千人もいる。加えて、事故の収束作業や除染作業に従事している人間が全国各地からやってきた。

 いつの間にか車のナンバープレートを見る癖がついた。いうまでもなく、いわき市だから「いわき」が大半だが、南の「沖縄」から北の「旭川」まで、各地の車が走っている。

 高級車も目立つ。主に、レクサス、ベンツ、BMW、アウディ。このごろはクラウンも。「レクサスの売れ行きは、いわきが日本一」。地元の中古ディーラーがあきれていたが、何を基準にしたものかは聞きもらした。
 
 私が見たクラシックカーは、そうした高級車志向とは無縁に、カーマニアが所有していたものだろう。ジャガーも見た。ランボルギーニも見た気がするが、自信はない。一瞬の夢だったか。

 ※追記=車に詳しい後輩によると、車は「スーパーセブン」というやつで、ロータス、ケ―タハム、レプリカと、いろいろあるらしい。クラシックカーのかたちをしているが、バリバリの現役で、最近も軽自動車として販売されたものがあるとか。スポーツカータイプの趣味の車にはちがいない。

2015年8月28日金曜日

コダカラソウ

 玄関の外に見たこともない多肉植物がある。径10センチほどの小さな鉢に植わってある。植物自体も手のひらにのるくらいに小さい。葉のふちにフリルのようなものがいっぱい付いている=写真。サボテンならトゲ、トゲの代わりのフリル、といった感じだ。
 カミサンに聞くと、知人から「『いっぱいあるので』ともらったけど、名前は知らない」という。ネットで検索した。「多肉植物」「多肉植物 種類」「多肉植物 種類 名前」と次から次にキーワードを入力して検索したが、なかなかそれらしいものにはたどりつけなかった。

 ベンケイソウ科のコダカラソウ(子宝草)という植物らしい。葉のふちにできたのは「子株」(無性芽)で、これがポロポロ地面に落ちると根づいて自活するそうだ。知人が「いっぱいあるので」といったのは、その繁殖力の強さを示しているのだろう。

 原産地はマダガスカル島とか。葉が子孫を増やす――というのは「進化」なのか、「深化」なのかはわからないが、特異な生態にはちがいない。マダガスカル島らしくておもしろい?

 同島には興味をそそられる動植物が少なくない。「星の王子さま」にも登場するバオバブの木の、独特のかたち。このところ、亡くなって十数年たつ画家松田松雄の図録をパラパラやっている。初期の作品に描かれた樹木のかたちがバオバブにそっくりなことを思い出した。

 動物では、ひなたぼっこの姿が変わっているワオキツネザル、横っ跳びに移動するサル(ベローシファカ)もいる。あとはカメレオンなど。みんなテレビで記憶に刻印された。

 これは蛇足――といったら、しかられるか。コダカラソウは、子どもの欲しい夫婦には吉兆の植物として知られているようだ。きょう(8月28日)は午後、4回目のいわき創生戦略会議が開かれる。人口減少に歯止めをかけ、新しい仕事を生みだすための戦略を練るのが目的だ。コダカラソウにあやかりたいものだが……

2015年8月27日木曜日

写真師白崎民治

「いわきの石炭産業の父」片寄平蔵(1813~60年)に、高崎今蔵(1825~1912年)という盟友がいる。その子孫の家に古い肖像写真が残っているというので、先日、いわき地域学會の仲間と調べに行った。
 今蔵は、平蔵よりは一回り年下だ。人生の半分は江戸時代を、半分はまるまる明治時代を生きた。享年87。当時としては長生きした方だろう。

 同行した仲間の一人はいわきの石炭産業に、もう一人は写真技術にくわしい。肖像写真の人物を特定するには至らなかったが、どこで撮られたものかはすぐわかった。写真が張られていた台紙の裏に英語と日本語で表記されていた=写真。日本語では右から「仙台市東一番町/人像専門写真師/白崎民治製」(現代表記にした)とある。

 ネットで「写真師白崎民治」を検索した。仙台の商人で文化人、柴田量平の『東一番丁物語』がタネ本らしい。それによると、民治は山形県出身、写真師江崎礼二の門下生で、明治21(1888)年に仙台で開業した。同30年、仙台で初めて活動写真を紹介した、ともある。

 仙台は明治22年、市制が施行される。つまり、民治がこの肖像写真を撮ったのは同22年以降ということになる。それ以上の情報は得られなかった。が、江崎礼二、柴田量平が出てきたので、ついでにいえば――。
 
 俳句・短歌革新運動を展開した正岡子規に影響を与えた人間に、磐城平出身の歌人天田愚庵(1854~1904年)がいる。清水次郎長の養子になる前、戊辰戦争で行方不明になった父母妹を探すため、旅回りの写真師になった。師匠は江崎礼二。白崎民治よりは3歳年上だ。同門の2人に接点はあったか、なかったか。

 詩人山村暮鳥は磐城平時代、雑誌「風景」を発行した。大正3(1914)年10月号の表紙絵を描いたのは、当時24歳の柴田量平。孫娘の夫は歌手の稲垣潤一で、二人は2001年に共編者として『仙台・東一番丁物語 柴田量平選集』を出している。妻とは死別した。こういう枝葉から新しい課題が見えてきたりする。

2015年8月26日水曜日

岩手で松田松雄展

 岩手県立美術館(盛岡市)で10月3日から11月29日まで、松田松雄(1937~2001年)の回顧展が開かれる。陸前高田で生まれ、いわきで死んだ画家の、初期から晩年までの作品を展示する。
 きのう(8月25日)、案内状が届いた。この2年、松田が昭和54(1979)年、いわき民報に週1回、1年間連載した随筆「四角との対話」を書籍化するための、娘・文さんの奮闘を見てきた。間もなく、36年ぶりにオンデマンド出版される(まずは電子版で、という)。回顧展を見据えた作業でもあった。

 昭和40年代のいわきの美術シーンをリードした「草野美術ホール」で松田と出会った。ともに駆け出しの画家と新聞記者だった。独身、貧乏、議論好き……。今はスペインにいる画家阿部幸洋は20歳を過ぎたばかり。画家の山野辺日出男も、陶芸の緑川兄弟も議論の輪に加わった。そこから、いわき市立美術館建設請願へと市民運動が始まった。松田はそのエンジン役だった

「四角との対話」の連載が始まると、「事前校正」役を買って出た。もっと深く、もっと鋭く、もっと正確に――を心がけた。このとき、松田の心の奥底をのぞいたような気がする。松田はその後、原因不明の病に倒れ、7年余の闘病生活の末に他界した。

 松田の晩年、いわき市立美術館で2人展ながら回顧展が開かれた。東日本大震災をはさんで2回、まちのギャラリーでも回顧展=写真=が開かれた。うつむいて静けさをたたえる家族、横たわる黒いマントの民……。松田の作品に内包されている「悲しみと祈り」が、3・11を経験してより深まって見えた。
 
 さて、岩手である。実は42年前、新婚旅行で宮沢賢治の「イーハトーブ」を訪れた。結婚披露宴に松田が出席し、仙台泊のあと訪ねた盛岡の画廊でまた松田と会った。その晩、松田が居酒屋へ案内し、私ら夫婦にフグ刺しをごちそうしてくれた。「畑のキャビア」といわれる「とんぶり」も初めて食べた。

 そのころは非現実的と受け止めていた賢治のことば「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」が、3・11後、私の胸中でリアルなものになった。
 
 イーハトーブを意識しながらの40年余だった。そもそも、当欄の「磐城蘭土紀行」は、「イーハトーブ」にちなむものだった。「いわき」を「イワキランド」とみなし、司馬遼太郎の「愛蘭土(あいるらんど)紀行」にあやかって「磐城蘭土紀行」とした。

 案内状は、その意味ではイーハトーブとイワキランドを往還する松田からの「おいで、おいで」に違いない。「盛岡へ旧婚旅行、といくか」というと、カミサンがOKした。10月3日のレセプションは無理だが、1週間後の日曜日、11日には東北新幹線を利用して、日帰りで「イーハトーブ」の空気を吸って来ようと思っている。

2015年8月25日火曜日

じゃんがら歌謡?

 元の職場から電話がかかってきて、「Kさんという人が会いたがっている」という。
 前にも同じ内容の電話が入った。Kさんと連絡をとって会うことにしたが、タイミングが合わない。で、ズルズル半年?近くたってしまった。それもあって、すぐケータイで連絡をとり、1時間以内に会うことにした。「あげたいものがある」ということだった。

 Kさんは私より2歳くらい若い。15年ほど前、病に倒れて左半身が不自由になった。が、リハビリをがんばったのだろう。待ち合わせの場所に車を運転し、右手で杖を使い、ひとりで歩いてやって来た。言語も明瞭だ。

 Kさんとは、市役所が企画したまちづくり関係の会議か、同じような市民レベルの会議で出会ったように記憶する。どちらにしても40代、二十数年前のことだ。以来、たまに顔を合わせるようなことはあったが、この十数年は縁もなく過ぎた。

 震災後、経験と管理能力を買われて、週に何日か双葉郡内の事業所へ通って仕事をしている。その話は前に電話で聞いた。

「あげたいもの」とは、「じゃんがら念仏踊り」=写真=の歌を基調にした創作曲のCDだった。彼自身、青年会で「じゃんがら」をやってきた。「じゃんがら魂」が全身にゆきわたっている。そこから生まれた曲だという。

 若いときから日本画を手がけてきたという。初耳だ。俳句も始めたという。やわらかな感性が「じゃんがら」由来の曲をつくったのだろう。

 父親が俳人だった。今は90歳を超えて実作を休んでいる。俳号を聞いて思い出した。職業人としても俳人としてもお会いしたことがある。俳句のある家庭環境のなかで育った。本人は日本画に情熱を注ぎ、病に倒れたあとはふと俳句に興味を持って句作を始めたそうだ。

 今の彼の活力源は句作。短詩形文学がリハビリにも、ハンディをもった生き方にもプラスに作用している。表現意欲が生きる力に結びついている。率直にそのことを伝えたら、自作の句「一ひらの散る風もなき桜かな」をナプキンに書いてよこした。「これはもうあなたの代表句になるね」といったら、うなずいた。CDはこれからゆっくり聴く。

2015年8月24日月曜日

映画「日本のいちばん長い日」

 先の太平洋戦争では、戦時体制が進むなかでまっさきに地域新聞がつぶされた。5紙あったいわき地方の日刊紙は1紙に統廃合され、さらに「1県1紙」政策のなかで福島民報の「磐城夕刊」に組み込まれる。戦局が悪化すると、今度は休刊の憂き目に遭い、終戦時にはそれを伝える地元の活字メディアは存在しなかった。
 いわきの地域メディアの歴史を調べている過程で、玉音放送とGHQのメディア政策にも目がいくようになった。とりわけ、昭和20(1945)年8月15日正午の天気や気温、花やセミ、ラジオの性能、年代・性別・場所による受け止め方の違いなどに興味がある。
 
 今年は終戦70年。節目の8月に入るとすぐ、BSプレミアムで「玉音放送を作った男たち」が放送された=写真。情報局総裁(国務大臣)下村宏に光を当てたドラマだ。以前、坂本慎一著『玉音放送をプロデュースした男 下村宏』(PHP出版、2010年)を読んでいたので、実際の展開を思い出しながら見た。下村宏は、前職の日本放送協会長時から玉音放送のアイデアを温めていた。
 
 おととい(8月22日)は、いわき地域学會の市民講座で、やはり終戦70年を意識して「昭和20年8月15日のラジオと新聞」と題して話した。玉音放送を実際に聞いた人がいるかもしれない、いれば体験談を披露してもらいたい――そんな思いで臨んだ。
 
 いわき地域学會はざっと20年前、戦後50年と地域学會創立10周年を記念して、戦中・戦後を中心とした市民の生活記録『かぼちゃと防空ずきん』を刊行した。そのなかから玉音放送について記している28人について、年齢・性別・どこで聞いたのか・ラジオの音声の状態・その他(受け止め方など)に分類したものを、話に加えた。
 
 受講者にひとり、玉音放送を聞いた人がいた。当時、12歳(小6)。男子だったためか、放送を「いっそう頑張れ」というふうに受けとめたという、母親から聞かされていたという男性は、「ラジオははっきり聞こえたようだ」といった。すると、通信機器や技術に詳しい地域学會の仲間が当時の電波状況やラジオについて解説し、話に膨らみを持たせてくれた。

 ポツダム宣言受諾から玉音放送までの経緯は、半藤一利著『日本のいちばん長い日 決定版』(文春文庫)に詳しい。今年の8月15日、BSプレミアムで昭和42年公開の映画「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督)が放送された。それからほぼ50年後、同じ原作で原田真人監督の映画「日本のいちばん長い日」が公開されている。

 市民講座の余熱のせいか、きのう、映画を見に行った。旧作では顔の見えなかった天皇を、本木雅弘が熱演した。最高意思決定者としての深い孤独と寂寥がにじみ出ていた。

2015年8月23日日曜日

天井から降る〝きなこ″

 茶の間のカウチにすわって本を読んでいたら、いつの間にか左腕に直径5ミリほどの黄色い粉のかたまりが付いていた。見た目は〝きなこ″。振り払うと、また左腕に〝きなこ″が付いた。
 おかしい。腕の中から〝きなこ″がわきでるはずはない。上から降ってきたのだ。頭上にあるのは天井だ。天井板を支える竹筒に何カ所か穴が開いている=写真。天井板にもすきまができている。

 およそ20年前、その竹筒の穴で起きた、ハチによるハチへの〝襲撃事件を思い出した。

 天井の竹筒にジガバチモドキらしいハチが巣穴を開けた。ジガバチモドキは野外で小型のクモを狩り、巣に運んで幼虫のえさにする。

 その巣穴を襲撃するハチがいた。ルリジガバチらしかった。巣穴からクモをくわえては捨てている。ポトリ、またポトリ。しばらくたつと、茶の間の畳の上に体長2~3ミリのクモの子がいっぱい転がった。

 竹筒の巣穴を見たが、穴のヘリには〝きなこ″のようなものはなかった。しかし、その後もカウチのカバーのへりに〝きなこ″が落ちて、一筆でさっとやったようになっている。竹筒ではなく、天井板のすきまから落ちてきたのだろうか。そこに、〝きなこ″を落とす何かがいるのだろうか。

 なぜこんなことが茶の間で? 家はすきまだらけ。3・11後はさらにゆるくなった。もともと夏には戸と窓を開けておく。室内が庭の延長になる。虫たちには次世代を生み育てるマンション、と映るのか。しかし、〝きなこ"が降ってきたのは、その日一日だけだった。

 今年は、キイロスズメバチは営巣しなかった。天井の竹筒の巣穴を出入りするハチも見ない。おととい(8月21日)はジガバチが茶の間に現れたが、すぐ姿を消した。

 曇りが続いた天気も、きのうは晴れて急に暑くなった。室温は朝のうちに30度を超えた。夜10時前には雨になった。それでも、縁先ではさかんに虫が鳴いている。茶の間にはコオロギとゴキブリ。戸と窓を全部閉めて寝ると、朝まで熟睡できた。蚊取り線香も焚かずに蚊に刺されずにすんだのは、今夏初めてだ。

2015年8月22日土曜日

10年ぶりの再会

 8月20日午後6時少し前、同級生の車で夏井川に架かる「平神(へいしん)橋」を渡った。6~9時までは流灯花火大会のために車の通行ができない。「この車で通行止めだな」と言いながら進むと、流灯目的の歩行者が橋の上をぞろぞろやって来た=写真。
 たまたまその夜、街で飲み会があった。バス停に立っていると、わが家へ来て用をすませた同級生がわざわざ車を回してきた。帰る方向とは逆だが、送っていくというので、厚意に甘えることにした。

 いわきで在宅ホスピスケアを始め、青森で継続し、今また北海道でシステムの構築を進めている旧知のがん外科医が、いわきの大学へ集中講義にやって来た。いわき時代、海に近い農村の友人宅でときどき一緒に酒を飲んだ。友人から連絡があり、飲み仲間の弁護士を加えて、4人でおしゃべりをした。

 主義・主張は異なっても、それぞれ地域の片隅に生きる人びとのためにプロフェッショナルな知識と技術を生かそうとする姿勢に共感し、誘われると喜んで会い、飲み、話すようにしている。

 ドクターがいわきを離れてから10年。その間に東日本大震災と原発事故が起きた。弁護士は原発訴訟に奮闘している。「人生で今が一番忙しい」。間もなく70歳になる弁護士を筆頭に、友人68歳、私67歳、ドクター63歳。年を重ねるごとにカネにならないことで忙しくなっている。

 飲み会では以前と同様、仕事の話のほかに哲学や文学の話になった。いちいちここでは書かないが、哲学者内山節の思想のこと、作家池波正太郎と藤沢周平との比較、原発事故でキノコを採取する楽しみが奪われたが「キノコ訴訟」は可能かどうか、コミュニティのなかでの孤独死予防と在宅ホスピスケアの連環など、次から次に興味深い話が続いた。

 それぞれ少し体形は変わったものの、やっていることに変わりはない。考え方そのものが揺るがない。「みんな単純だよね、生き方が」というと、「単純かもしれない」と同意した。
 
 人によっては屈折する人生について考えたとき、いつも思い出す詩がある。ウージェーヌ・ギュヴィック(1907~97年)というフランスの詩人の短詩だ。17歳のころ、恩師から借りた訳詩集から書き写した。訳者は忘れた。
 
 生命は増大すると
 ひとがぼくらにいうとき、それは
 女たちの肉体がもっと大きく
 なることではない、木々が
 雲の上に
 そびえはじめることではない、
 ひとが花々の最も小さなものの中へ
 旅行できることではない、
 恋人たちが愛の床に幾日も
 とどまっておれるということではない。
 それはただ単に
 単純に生きることが
 むつかしくなるということだ。

 早朝、仕事があるという友人はウーロン茶で付き合った。授業のあるドクターは一次会でホテルへ帰った。弁護士は飲み足りない、いや話し足りないのか、私を二次会に誘った。着いたところは後輩の店、うまい日本酒を飲ませるところだった。流灯花火大会はとっくに終わっていたが、頭のなかでは花火が鳴り続けていた。

2015年8月21日金曜日

「才重さん」のこと

 きのう(8月20日)の夏井川流灯花火大会で3週間に及ぶいわきの夏のイベントが終わった。昼は、街で用事をすませてとんぼ返りをし、茶の間で高校野球の決勝戦を見た。6回裏の同点打には思わず叫んだ。よし! 東北勢初の全国制覇もと、ひとりで盛り上がったのだが……。なんだか一時、「うっぷん」が晴れたような感覚になったのは、東北の人間だからか。
 流灯花火大会と高校野球が終わって思うのは、しかし、そのことではない。月遅れ盆に珍しい経験をした。

「じゃんがら念仏踊り」を見たいというので、日本に滞在中のフランス人写真家デルフィーヌと、東京に住むイギリス人の会社員ジェシカを、草深いムラの新盆の親せき宅に案内した。
 
「じゃんがら」を踊る青年会がやって来るまで、座敷で稲荷ずしを食べたり麦茶を飲んだりしながらおしゃべりをした。カミサンのいとこ(故人の妹)が2人にいろいろ説明した。ジェシカが通訳するので、多少込み入った話もできる。

 その家に欧州人がやって来たのは初めてだろう。いつの間にか「国際結婚推進論者」だった先祖、いとこの祖父(ということはカミサンの祖父でもある)、「才重さん」の話になった。才重さんは戦後、何年もたたずに山仕事中の事故がもとで亡くなったそうだ。
 
 戦中は、国粋の風が吹き荒れていた。開明的なことを口にするわけにはいかなかった。民主主義がやってきた戦後であっても、マチから遠く離れたムラに国際結婚を勧める人間がいた、という“事実”に私は驚いた。
 
 そんな才重さんだから、「2人が(この家に)来たことを喜んでるよ」と、いとこは2人に伝えた。それから鴨居に掲げられている写真や賞状などのあれこれを2人に解説した=写真。不思議な光景だった。
 
 親せきから「恵里(えり)の本家」と呼ばれている家だ。才重さんはムラのリーダーだったのだろう。田舎にあっていろいろ本を読み、新聞・雑誌を手にして、日本の行く末を考えていたからこそ、国際結婚推進論者になったのかもしれない。
 
 今年は「終戦70年」の節目の年。「カレンダージャーナリズム」と揶揄されながらも、8月には見ごたえのあるテレビ番組、読みごたえのある新聞記事が少なくなかった。それに加えて、保守ではあっても排外主義ではない人間がいた、孫がそれを記憶していた(親が語って聞かせていたか)、ということを知って、特別な「じゃんがらの夏」になった。これも「じゃんがらの力」だろう。

2015年8月20日木曜日

「親鉦」?それとも

 同級生からあずかった「鉦(かね)」=写真=を、「じゃんがら念仏踊り」に詳しい仲間に見せたら、開口一番「大きい」。「『親鉦(おやがね)』といって、じゃんがら念仏踊りのリーダー役がほかより大きい鉦を持つときがある」という。
「じゃんがら」ではなく、寺で使われていた可能性もある。ひとつは「伏鉦(ふせがね)」。凸面を上にして、たたく。凹面のつばには、脚が3つ付いている。その脚はない。脚があった形跡もない。

 つばまでの外径は14センチ、重さは1キロ強。前にも書いたが、「じゃんがら」の場合、右わき下から肩越しに、ひもで、鉦をつるした“ハンガー”を支え、左手で鉦の下部をつかんで「チャンカ、チャンカ」とやる。鉦の下部をつかむのは鉦がぶらぶらするのを防ぐため、というのは門外漢にもわかる。

 つばの部分に「宝永戊子(つちのえね)十一月吉日 ニイタ 西山」と彫られてある。それを見た瞬間、「宝永戊子 十一月吉日」と「ニイタ 西山」は字が違う、と仲間がいう。「『宝永戊子 十一月吉日』は製作年月日で、『ニイタ 西山』はあとから付け加えられたのではないか」。見ると、確かに「宝永戊子 十一月吉日」の字は大きく深く、「ニイタ 西山」の字は小さく浅い。

 宝永5(1708)年につくられた鉦を、後年、四倉・仁井田の西山家が入手した(と推定される)。それは江戸時代かもしれないし、明治時代になってからかもしれない。
 
 鉦をめぐる話は以上だが、いわきは「じゃんがら念仏踊り」の歴史と伝統の厚みがあるところ。「じゃんがら」にまつわるこうした物語のかけらは広い市域にいくらでも落ちているのではないか。『じゃんがら拾遺物語』なんて編めそうだ。

2015年8月19日水曜日

辛み大根の種

 三春ネギ以外では初めて、辛み大根を栽培して種を採った。
 2012年夏、知人から会津産の辛み大根の莢(さや)が届いた。中に種が眠っている。初秋、親指の爪を立てて莢を割り、中から種を取りだして、夏井川渓谷の隠居の菜園に3粒ずつの点まきにした。冬に収穫した。
 
 翌2013年は、師走に隠居の庭が全面除染され、菜園が消えた。三春ネギも含めて野菜栽培を休んだ。
 
 2014年春に野菜栽培を再開した。知人からもらった辛み大根の莢が残っていたので、初秋に種を採り、まいて育てた。何株か越冬させた。それが、春に花を咲かせて実を結んだ。葉が枯れかかったころ、時期をずらして2回、莢を収穫し、陰干しにした=写真。
 
 辛み大根の莢はこぶ状だ。爪をたてると“発泡スチロール”状の殻が裂け、中から直径1ミリ余の赤玉(種)が現れる。知人からもらった莢は割と簡単に裂けた。ところが、その子孫はどうだ。小ぶりなうえに硬い。親指が、「生爪」がはがれかけたように痛くなった。まるまる3日たった今もうずく。
 
 大根は(白菜もそう)、おおよそ月遅れ盆が終わったころ、種をまく。辛み大根そのものが野生種に近いからか、種の生命力は強い。知人のもとに届いたのは2010年。そこから2012年にわが家へ届き、さらに1年休んでいのちをつなぎ、自前で種を採るところまできた。
 
 親指では痛くて長続きしないので、カッターナイフで莢に切れ目を入れ、左右に動かして莢が割れかけたところで爪を入れると、種が簡単に採れた。切れ目を入れすぎて種が切断されることもある。一点集中なので、目は疲れる。なにか拡大鏡付きの種採り道具がないものか。
 
 なにはともあれ、早く種を採りだしてまかないと、時期を逸することになる。植物は人間の都合に関係なく、自然の移り行きのなかで生きているところがいい。

2015年8月18日火曜日

「高速」で田人へ

 月遅れ盆の休みが終わり、日常の暮らしが戻ったきのう、8月17日。小雨の降る早朝、家の前のごみ集積所にカラス除けのネットを張ったら、あとは自分の時間だ。今週の土曜日(8月22日)、いわき地域学會の市民講座が開かれる。「昭和20年8月15日のラジオと新聞」と題して話す。レジュメを仕上げないといけない。それに集中した。
 レジュメのかたちがあらかたできあがったころ、カミサンが「田人にオープンした西洋アンティークの店に行きたい」という。先日、新聞に情報紙(フリーペーパー)が折り込まれた。それに載っていた。田人の国道289号沿いにある。遅れてやってきたお盆休みと思い、気分転換を兼ねて「高速」で出かけた。

 常磐道のいわき中央ICから勿来ICまでおよそ15分、勿来ICからその店までおよそ15分。「高速」では大型車の後ろになった。すさまじいほど水しぶきをまき散らして疾走する=写真。雨の高速道は初めてだ。怖い。多少は緊張しながら走っていると、次から次に追い越し車線を車が飛ばしていく。「負けん気」は事故の元と言い聞かせながら、法定速度で走った。

 店の駐車場に着くと、母屋から店主が現れた。「アッシー君」としては、頭をニュートラルにして、カミサンと若い店主とのやりとりを聞いているしかない。店主は、奥さんが北茨城市平潟の骨董屋(行ったことがある)の娘であること、子どもが生まれたので田人に移住し、今年5月に開業したこと、美容師からの転身であること、などを語った。

 ひとつの敷地内に母屋と店がある。若者がなぜ山里暮らしを志向するのか、という問いへの答え、実例でもある。ここで私も話に加わった。物件を探していたら空き家があった。うまく借りることができたという。私自身、週末は山里(夏井川渓谷)の隠居で過ごすので、そのへんの動向には興味がある。
 
 店は、母屋の前にあった馬小屋を利用した。いや、その小屋の梁(はり)などを再利用したというべきか。地震でガタガタになった。いわき市南部の田人だから、3・11よりは1カ月後の巨大余震、田人を震源とする直下型地震でやられたのだろう。店名「スティブル」は英語の「馬小屋」に由来する。

 母屋の廊下に1歳くらいの子どもが立っていた。手を振ってもじっとしている。それはそうだ。この子はやがて幼・保どちらかの施設に通い、やがて小学校に入学する。親が送迎するか、スクールバスの世話になるか。教育には頭を悩ませることだろう。
 
 集落の一角に小学校の分校があった。「増田レポート」に反発する人間としては、山里に活力を与える若い世代のために、子育て支援のために、行政は我慢して分校を残すべきだった――現実には難しい「選択」であっても、財政効率だけで考えてはいけないものがある。あらためてそんなことを思った。

2015年8月17日月曜日

猫の墓

 人間の送り盆が終わったら、猫の野辺送りが待っていた。3匹いた猫のうち最後の1匹がきのう(8月16日)、朝8時前に息を引き取った。ターキッシュアンゴラ系の雌で、避妊手術をしたあと、ぶくぶく肥っていたのが、今夏、急激にやせた。最近はえさも食べなくなって、ちいさなスフィンクスのようにじっとしていることが多かった。
 震災時、わが家には茶トラの雄「チャー」と、それより若い同じ茶トラの雄「レン」、そして太った雌の「サクラ」がいた。

「チャー」は老衰が進行していた。後ろ足を引きずり、排便もきちんとできなかった。その猫が震災を機によみがえった。自分で歩いて、排便もできるようになった。が、奇跡のいのちは1年で尽きた。

 その後は「チャー」の前で小さくなっていた「レン」の天下だった。「レン」と「サクラ」は、時を前後して拾われてきたためか、きょうだいのように仲がいい。しかし、「レン」にも老衰の兆しが見えるようになった。今年(2015年)春の彼岸の中日、「レン」が死んだ。それから5カ月後の送り盆の朝、サクラが後を追った。
 
 行政区の精霊送りは朝6時に始まる。区の役員が時間を決めて祭場の管理をする。「サクラ」のいのちが尽きかけていることはわかっていたので、早朝5時台、ときどき様子を見ていたら、5時半すぎに猫ノミが体毛の先端に現れてきた。臨終のサインだ。カミサンを起こしたあと、精霊送りの祭場へ出かけ、いったん朝食に戻るといのちが尽きる寸前だった。

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)の庭は広い。梅の木の下に「チャー」の墓がある。「レン」はときどき、「チャー」に威嚇されていた。あの世でもケンカするようでは困るので、離して埋めた。あとで、孫が母親の手を借りて墓標を立てた。精霊送りが終わったあと、隠居へ「サクラ」を運んで「レン」の隣に埋めた=写真。カミサンが庭のミソハギを手向けた。
 
 この5年弱はともに3・11を経験した「震災家族」だった。その3匹が土に帰った。これで、わが家は人間のほかに、飼っている生きものはいなくなった。しばらくは、ヒト科の生きものだけでいい。そんな思いでいる。

2015年8月16日日曜日

いちばん長い日

 BSプレミアムできのう(8月15日)午後1時半から、岡本喜八監督の映画「日本のいちばん長い日」が放送された=写真。白黒、157分。茶の間で見るにはけっこう長い。原作は昭和40(1965)年、終戦20年の節目に公刊された大宅壮一編『日本のいちばん長い日』。映画は同42年に公開された。
 手元には半藤一利著『日本のいちばん長い日 決定版』(文春文庫)。もともとは文藝春秋社の編集者だった半藤さんが執筆し、事情があって<大宅壮一編>として刊行された。その後、物書きとして一本立ちし、大宅夫人の許可を得て自分の名義に戻したという(『決定版』あとがき)。終戦50年の節目の年だった。

 作品は、ポツダム宣言を受諾し、昭和天皇の「玉音放送」が行われるまでの一日、すなわち8月14日正午から翌15日正午までの24時間を克明に記録したノンフィクションだ。ラジオが重要な役割を果たしている。で、きのう、『決定版』を一日で読み終えようと決めて、朝から斜め読みを続けた。3分の2を過ぎたころ、テレビで映画が始まった。ほぼ原作通りの展開だった。

 文庫本のカバーに役所広司や本木雅弘らの顔写真が並んでいる。最初の映画からほぼ半世紀、終戦70年の今年(2015年)、再び映画化されたのだという。監督は原田真人、こちらは136分。いわきでも上映中だ。

 ネット情報を基に主な新旧キャストを見ると、阿南陸相(役所広司、旧・三船敏郎)、鈴木首相(山崎努、旧・笠智衆)、迫水内閣書記官長(堤真一、旧・加藤武)などで、旧作では顔の見えなかった昭和天皇を本木雅弘が演じている。

 それはそれとして、きのうは朝からあわただしかった。8時。12日からゲストハウス(伯父の家)に泊まって浜通りを中心に動き回っていた、フランス人のデルフィーヌとイギリス人のジェシカがいわきを離れるために、あいさつに来た。「じゃんがら念仏踊り」はいわきを知るうえで貴重な体験になったことだろう。

 正午。テレビで全国戦没者追悼式典を見る。天皇が式辞を読みかけたら、黙祷になった。こちらがあせってしまった。晩の6時。行政区の役員が参加して、区内の集会所前に精霊送りの祭場をつくる。竹はきのう伯父の家の庭から、杉の葉はおととい夏井川渓谷の隠居から調達した。その間に、本を読み続け、映画を見続けた。
 
 それで、少しは平和についても考えた。が、私には大きな平和より小さな平穏がふさわしい。朝晩、糠味噌をかきまわして糠床の安定を保つ。月・木曜日にはごみ集積所にネットをかけてカラスの襲来を防ぐ。戦争になれば糠床やごみネットどころではない。日常の小さな平穏こそが大きな平和のいしずえになる。
 
 天下・国家を論じる<オトコのジャーナリズム>より、地域の片隅で人の泣き笑いとともにある<オンナ・コドモのジャーナリズム>の方が性に合っている。そんな、柄にもないことを考えたので、「玉音放送」から70年の今年、8月15日は個人的にも「いちばん長い日」になった。
 
 小さな平穏のために、きょうは朝6時前、精霊送りの当番として集会所へ行く。9時前には収集車がやって来て、お盆の供え物を回収する。それが終わって初めて、ほんとうの盆休みがくる、といったところだろうか。

2015年8月15日土曜日

「じゃんがら」のゾウリ

 青年会のメンバー13人が「じゃんがら念仏踊り」を終えて家に入り、新盆の霊前で一服した。玄関と軒下の犬走りにずらりとゾウリが並んだ=写真。「カノマティー/クロマティ―」「熟/男」「ガッツ/石松」「タイガ/ウッズ」……。なるほど、どれがだれのゾウリかすぐわかるように、遊び心たっぷりの書き込みがされている。そうしないと履き間違えられるのだろう。
 一服にはビールも出る。2年前、出会った「じゃんがら」に若い仲間がいたので、聞いてみた。炎天下、熱中症対策は「ビールです。さっきまで太鼓をたたいてました。もうへろへろ」。最近、テレビで知ったのだが、アルコールは脱水作用があるので、かえって熱中症を促進する。危険だということだった。缶ジュースを手にした若者がいたのは、そのへんを心得てのことか。

 今年の月遅れ盆はうまい具合に曇天が続いている。そのうえ、ときどき雨になる。13日夕方、青年会が現れたときに雨なら家の中で踊ってもらうしかない――私たちが訪ねた家ではそう決めていたようだが、たまたま雨がやんだ。農家は庭も座敷も広い。室内で踊るかもしれないよと、連れの英・仏人女性にいうとびっくりしていた。
 
 ハプニングも起きる。鉦をたたく撞木(しゅもく)はT字形をしているが、その頭が取れて、「ただの棒」になった鉦たたきもある。それでは、きれいな音は出ないだろう。

 さて、異国の女性2人が「じゃんがら」を見た話をブログに書いたら、同級生が触発されて電話をよこした。「実家の倉庫から『じゃんがら』の鉦が出てきた。『宝永』とか『西山』とか彫られている」。じゃんがら研究者が見たらなにかわかるかもしれない――というと、新盆回りの帰りに、わが家へ鉦を持ってきた。

 直径は14センチ。大きな灰皿のような形をしている。つばの部分に「宝永戊子(つちのえね)十一月吉日 ニイタ 西山」と彫られてあった。重い。こんなものをずっと片手では持ちきれない。自分で撮った「じゃんがら」の写真をよく見たら、鉦は柱に取り付けるL字ハンガーのようなもの(木製)に紐でつるされている。そのハンガーは右肩から左肩にかけられた紐で支えられている。なるほどそれなら大丈夫だ。

「宝永戊子」は宝永5(1708)年のことだ。その1年前、富士山が大噴火をし、南東斜面に「宝永山」ができた。江戸にも火山灰が降った。「十一月吉日」はむろん陰暦、「ニイタ」は四倉の仁井田、「西山」は同級生の名字。これから何が読み取れるのか。いわき地域学會の仲間に解析をしてもらおうと思っている。

 きょうは「玉音放送」から70年の節目の日。関係者の評伝や学者の論考を読むと、なぜ8月15日正午を選んだのか、がみえてくる。ラジオの聴取率は当時、正午が一番高かった。盂蘭盆に合わせてこの日、日中戦争の戦没英霊法要の全国中継が行われたこともある。そういったことが伏線になっていたようだ。
 
 きょうの「じゃんがら」は、その意味では新盆供養ばかりか、戦争犠牲者を供養する戦後70年の節目の踊りになる。

2015年8月14日金曜日

「じゃんがら」を見に

 知り合いのフランス人写真家デルフィーヌが「じゃんがら念仏踊り」=写真=を見たいというので、義父の生家へ案内した。
 デルフィーヌとは震災の翌年(2012年)5月、シャプラニールが平に開設した交流スペース「ぶらっと」で出会った。彼女は津波や原発事故の被災・避難者を取材し、去年(2014年)春、ベルリンで芥川賞作家多和田葉子さん(ドイツ在住)と「詩と写真展」を開いた。
 
 その後もいわき入りし、浜通りの写真取材を続けている。今年は1年、日本に滞在する予定で、7月に続いて8月初旬にいわき入りした。すでに浪江町や南相馬市を訪ねている。それとは別に、「じゃんがら」を見たいというので、義父の生家に連絡し、「じゃんがら」の時間を確かめておいたのだった。

 一族の間では「恵里(えり)本家」で通じる「高久(たかく)の親戚」だが、正式な地名は「平鶴ケ井」。海に近い滑津川右岸域、南から北へとU字型に丘の尾根が延びる。その間を埋める田んぼのどん詰まりの山際にある。
 
 去年(2014年)の暮れ、前当主でカミサンのいとこ(85歳)が亡くなった。新盆(にいぼん)である。盆の入り(8月13日)の夕方5時(正確には5~6時の間)に「じゃんがら」の一行が来るというので、新盆回りを兼ねて、デルフィーヌと日本語のできるイギリス人女性、それにカミサンと私の4人で、4時ごろに着いた。
 
 庭で「じゃんがら」が行われていた。地元の青年会だった。5時に来るのは、内陸部の小川の青年会だという。
 
 研究書によれば、「じゃんがら」は江戸時代初期、磐城地方に伝えられた。青年会が伝承し、新盆の家々を回って念仏を唱え踊る現在のような形になったのは、近代以降のこと。それ以前は老若男女が思い思いに輪をつくって唱え踊ったらしい。

 いわき市はすっぽり「じゃんがら文化圏」に入る。それどころか、南は茨城県北茨城市まで、北は田村郡小野町と双葉郡双葉町まで、西は石川郡古殿町・平田村も「じゃんがら」圏だ。私が生まれ育った田村市にはない。初めて見る人は浜通り南部独特のエンターテインメントに強烈な印象を受ける。
 
 小川の青年会が到着したのは6時ごろだった。鉦(かね)を鳴らしながら屋敷に入ってきた一行の1人が、デルフィーヌを見て「おっ、外国人だ」とうなった。それも刺激になったのか、踊りは力強く、統一が取れていた。「盆でば米の飯……」の歌も披露した。前の「じゃんがら」は歌なしだったとかで、ギャラリーの拍手もいちだんと大きかった。
 
 フランス人、あるいはイギリス人の目に「じゃんがら」はどう映ったろう。海に近い街道から奥の山際へと入り込み、いわきのお盆を象徴する念仏踊りに触れて、またいわきを好きになってくれただろうか。
 
 ――けさ(8月14日)は5時13分、久しぶりにやや強い地震で目が覚めた。わが家の近くの「ゲストハウス」(伯父の家)に泊まったデルフィーヌたちはどうだっただろう。やはり飛び起きたか。

2015年8月13日木曜日

再び「静かな家」に

 たったそれだけのことに? そう。改良を要望して1年3カ月。やっと家の前の道路のへこみにアスファルトが盛られた。前回は要望して7カ月だった。
 道路にへこみができ、中・大型車が通るたびに「ズン、グラッ」と家が揺れる。一日5回としても1年で1800回、「ズン、グラッ」とくれば、家そのものがゆるむ。階段に積んでおいた本が、地震もなく、風もないのに、突然、崩れ落ちたことがある。家の前の道路を通る車の振動でそうなったとしか思えない。
 
 へこみができた原因ははっきりしている。2010年6月、局地的な豪雨に見舞われて家の前の歩道が冠水した。当時の行政区長がたまたま目撃して冠水防止策を市に要望した。年が明けた1月、業者が側溝に穴をあけ、車道中央の下にある下水道管と直結した。土を埋め戻し、アスファルトで路面を修復したが、これが次第にへこみ、中・大型車両が通ると家が振動するようになった。
 
 工事のあと、東日本大震災が発生し、家の基礎がこわれた。その後遺症もあるのだろう。とはいっても、道路の土を掘り返して戻す段になったら、何回か細かく土を固めてやらないといけない。下水道業者はそのへんがわかっていない。一気に土を戻して上から一回固めただけではないか。地中にすき間が残っているから、車の往来ごとに沈みこむ――土木屋さんの見立ては厳しかった。

 行政区で新年度が始まるとすぐ、区内の「箇所検分」をして壊れた側溝のふたの取り換えなどを市に要望する。道路のへこみの改善も、まず2012年に要望した。それからほぼ7カ月後の師走、家の前の市道のへこみにアスファルトが盛られた。家の振動が収まった。

 と思ったら、再びへこみが始まり、「揺れる家」に戻った。2014年5月、再度、市に要望した。今年も再要望した。ようやく月遅れ盆前に工事が行われた=写真。

 おととい、きのうと家の揺れを感じなくなった。静かだ。不思議なもので、そろそろ役所に問い合わせてみようと思っていたところに、工事車両が現れたのだった。平地区だけでそうなのだから、市全体ではかなりの件数になるのだろう。いちいち市議会議員に口利きを頼むようなことではない。担当の若い職員とはすっかり顏なじみになった。

2015年8月12日水曜日

“川中島”がきれいに

 平・鎌田町の夏井川流灯花火大会は、今は8月20日夜に決まっている。昔の流灯会は、当時の新聞によると、大正時代は旧7月16日、昭和5年には同7月20日(二十日盆)に開かれている。だいたい新暦9月の前半だ。大正13(1924)年は9月1日夜、「関東大震火災遭難」者の一周忌追悼を兼ねて行われた。
 夏井川流灯会(現流灯花火大会)は大正5~7年の間に始まったようだ。オープンデータ化されたいわき総合図書館の郷土資料(地域新聞)を時折チェックするが、今のところ5年か7年かは、私のなかでは“取材不足”のためにはっきりしない。
 
 年中行事化されたあとの「関東大震火災遭難追悼」兼流灯会の様子。「鎌田橋上は人の山を築き墜落しかねまじき雑踏にて警官は声を涸らして群衆を堰(せ)き止め青年団は提灯を振りかざして混雑を取繕った(以下略)」(大正13年9月3日付=2日夕刊=常磐毎日新聞)。大変なにぎわいだった。

 一説では、大正5(1916)年、鎌田山にある弘源寺の住職が、夏井川の氾濫による水難犠牲者と遊泳犠牲者を弔うために始めた。それを、2年後に鎌田町青年団が引き継ぎ、何十年もたったあとの21世紀に入って、地元の区内会が受け継いだそうだ。ほぼ100年の歴史をもつ。大正13年はお寺と青年団の共催だったことが新聞の記事からわかる。

 7月14日、いわき市文化センターで夏井川水系河川改良促進期成同盟会の総会が開かれた。親水空間づくり、河川拡幅などが行われた結果、鎌田から中神谷(かべや)の間に“川中島”がいくつか出現した。総会ではそうした場所でのヤナギ繁茂による水害不安を訴える声が出た。
 
 特に、流灯花火大会が開かれる平・鎌田の“川中島”は土砂が年々堆積し、ヤナギで覆われた。水害の不安と同時に、灯籠流しに支障をきたさないかという心配もふくらんだ。
 
 要望から1カ月もたたないある日――。鎌田の“川中島”のヤナギがきれいに刈り払われていた=写真。夏井川を管理するのは県いわき建設事務所。こんなスピード処理は近年、見たことがない。地元から要望が出ていたかどうかはともかく、公の場で要望を受けたからにはすぐ対応せざるを得なかったのだろう。地元区長としては「やれやれ」という気持ちだったのではないか。
 
 明13日から15日までは月遅れ盆、新盆回りが行われる。いわき地方では、新盆供養のじゃんがら念仏踊りの鉦(かね)の音が響く。20日、夏井川で流灯花火大会が開かれると、いわきの夏は終わる。

2015年8月11日火曜日

9つの窓

「夏休みの子どもの絵日記みたい」。最近の小欄についての、カミサンの“お言葉”だ。内心「コンチクショウ」と思いながらも、返す言葉がない。
 どこでなにをした――のオンパレード。それに、8月5日から一日を除いて書き出しが「きのう」になっている。「きのう、どこでなにをした」。「きのう」でなかった日は「きょう」だ。暑さのせいだな、これは――自分を慰めてはみたものの、ワンパターンに陥っているのも事実。

 ということで、きょう(8月11日)は書き出しを変えてみた。でも、「まくら」を取ると、また同じ書き出しになった。

 ――きのう午後、いわき・ら・ら・ミュウ向かいの新小名浜魚市場=写真=3階大会議室で「いわき創生戦略会議」の2回目の作業部会が開かれた。「まち・ひと・しごと創生法」に基づいて、いわきの目指すべき姿・方向性を、まちづくり・ひとづくり・しごとづくりの3つの作業部会に分かれて議論するもので、私はまちづくり部会に所属している。

 6月、月1回のペースでいわき駅前のラトブ6階、いわき産業創造館で会議が始まった。3回目の今回は小名浜。次回以降は山間地でも開催予定という。ハマ・マチ・ヤマのいわきの地域構造を理解するには悪くない。

 いわき市は昭和41(1966)年10月1日、5市9町村が合併して誕生した。来年(2016年)、市制施行50周年を迎える。かつては日本一の広域都市だった。「平成の大合併」のモデル都市のひとつになった、と私は勝手に解釈している。

 この欄でもたびたび言っているが、いわき市全体を見ようとしても広すぎて見えない。で、3つの流域(下流部に人口集中地区=平・小名浜・勿来がある)と、ハマ・マチ・ヤマを組み合わせた「3極3層」としてとらえると、広い行政圏が身近な生活圏のレベルで見えてくる。
 
 きのうの作業部会でも、いわきの地域構造を踏まえた議論をしようと、若い人に提案した。そうしながら、「3極3層」観を発展させた「9つの窓」観の方が若い人にはよりわかりやすいかな、とも思った。
 
 創生戦略会議が始まってから考えるようになったことだが、いわきという正方形の市域に縦、横各3本の直線を引くと「9つの窓」ができる。いわき地域を「9つの窓を持った正方形」と見たらどうか、ということだ。
 
 下からハマ・マチ・ヤマ、左から鮫川・藤原川・夏井川(大久川を含む)流域の軸。「ハマ・鮫川」という小窓がある。「マチ・藤原川」という小窓がある。「ヤマ・夏井川」という小窓がある。
 
 それぞれの窓には地域固有の課題が映っている。もちろん、横に共通のもの(ハマの漁業、ヤマの高齢化・過疎化など)、縦につながるもの(上下流の関係)もある。いわきの目指すべき姿・方向性は、この「9つの窓=マルチ画面」に映し出されている。そこから優先すべきものをどう選び出すか、だ。
 
 小名浜魚市場は津波で被災した。漁業自体も試験操業レベルの厳しい状況にある。が、漁業復興へ向けて新しい魚市場が稼働した。
 
 鮮魚を扱う閉鎖式の施設らしく、空調システムは最高レベルにちがいない。時折、窓の外を横切るウミネコを眺めながら、若い人と議論を進めているうちに「9つの窓=マルチ画面」が見えてきたのは、快適な空調のせいだったか。ただ、議論を深めるには時間が足りない。

2015年8月10日月曜日

サマーセミナー

 きのう(8月9日)は朝10時から、いわき市暮らしの伝承郷で「いわき昔野菜保存会」のサマーセミナーが開かれた=写真。伝承郷の館長が「いわきの盆」について、私が「いわきの伝統食」について、それぞれ30分話した。保存会の会員約20人が受講した。
 伝承郷にあるかやぶきの古民家は5棟。丘をはさんで手前に3棟並ぶうちの左端、旧川口家が会場になった。江戸時代から代々、宿場町(内郷御厩町)で醤油業を営んでいた――と案内にある。事前に知っていれば、「伝統食」の話に味をつけられたのに、気づくのが遅れた。古民家=農家という思い込みに支配されていた。
 
 広間と上座敷をぶち抜き、雨戸と障子戸を開け放した屋内は涼しかった。向かい山から渡ってくる風が心地いい。横になって朝寝をしたかったが、我慢した。
 
 20年前に『いわき市伝統郷土食調査報告書』が公刊された。市観光物産課(当時)がいわき地域学會に調査・編集を委託した。歴史や民俗に詳しい故佐藤孝徳さんを委員長に、数人が調査に従事した。私は主に編集・校正を担当した。一部、調査にも同行した。
 
 調査報告書を基に話した。いわきの食文化の特色は①浜の料理が多彩で豪華=「海の道」で千葉・茨城とつながる②農山村はよごし類・てんぷらなど全国共通のものが多い=山里もまた地続きの他自治体と簡単につながる――といったことを紹介した。
 
 最初に伝統食のはかなさを強調した。伝統食はその土地の第一次産業、産物と結びついたものだから、その産業がすたれ、産物が手に入らなくなると、食の技も食習慣も消滅する。伝統食だから盤石、などということはない。
 
 しかし、伝統食は創意工夫のなかで絶えず生みだされるものでもある。盛衰を繰り返しながら、過去から未来へと伝統食は姿を変えて受け継がれていく、ということも併せて話した。
 
 磐城(今のいわき市、富岡・楢葉・広野町、川内村)には東北で最も早く江戸の食文化が流入した。江戸は醤油の一大消費地。醤油が「食の革命」をもたらした。磐城―江戸の海上交通路の近くに醤油醸造の地(銚子・野田)があった。磐城にもそこから醤油が入ってきた。ただし、村々に醤油業が起きるのは幕末以降――といった話は、時間がなくて半分はしょった。
 
 立秋の日に一服した酷暑が、翌日には復活した。サマーセミナー、古民家(醤油業)のうす暗い涼しさに刺激されて、昭和30年代前半の、阿武隈は町場の夏休みを思い出していた。
 
 近所の神社に毎朝、子どもたちが集合した。ソメイヨシノかなにかの樹下にゴザを敷き、長い座卓を出して「夏休みの友」をやった。少年団が主催したのだったか。それを終えると、川へ水浴びに行った。「緑陰教室」がないと、ナツトモはぎりぎりまでやらない――という現実があったのだろう。
 
 サマーセミナーでは、いわきの昔野菜を使った特製弁当を食べたあと、伝承郷の畑で栽培している昔野菜のうち、1種類(名前を忘れた)を収穫した。昔野菜保存会員は伝承郷畑ボランティアでもある。私も登録しているが、今回は話して食べるだけにして、農作業は遠慮した。

2015年8月9日日曜日

立秋の交通事故

 きのう(8月8日)は、久しぶりに茶の間の温度が30度を割った。朝から夜まで、涼風が家の中を吹き抜けていた。
 平七夕まつり最終日、そして会場のまんなかを南北に走るいわき駅前大通りを、「いわきおどり」のチームが踊り巡る日。現役のころは職場から近かったので、毎年、踊りを見に行った。にぎわいを想像しながら、一日、茶の間で過ごした。
 
 暦の上では「立秋」。カミサンに言われて気がついた。連日の酷暑が一服し、北東からの涼風に包まれながら、あの有名な和歌を思い出していた。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」。仕切りドアの代わりにつるしてある布が一日はためいていた。今年は、秋がきたことが「さやかに(はっきり)見え」た。
 
 酷暑はぶり返すだろう。が、「暑中見舞い」は立秋を境に「残暑見舞い」に変わる。マスメディアの広告を見ると、この日から「残暑」になっていた(「暑中」のままのゆるい地域メディアもあったが)。
 
 実はきのうの明け方、体が冷えて目が覚めた。ん?! 夏風邪を引いたか、と思ったが、たぶん大丈夫だろう。それもあって、ゆうべは久しぶりに田苑をのどの奥でお湯割りにした(最初はストレートでぐいとやり、すぐお湯で追いかける、という飲み方)。そのくらい、しのぎよかった。仕事もはかどった。
 
 その晩酌を始めようとしていたら、突如、近所で救急車の「ピーポー、ピーポー」が鳴りだした。急病かと思ったが、外から帰ってきたカミサンが交通事故だという。道路に出ると、パトカーと事故処理車が来ていた=写真。人身事故だった。
 
 たびたび事故が発生する小さな交差点だ。直進車両とわきから出てきた車両が衝突し、1台が横転しながら宙を飛んで、別の1台にぶつかった。もらい事故に遭った運転者は、「事故を見て急停止した、そこへ車が飛んで来た」という。救急車で運ばれたのは3カ月の赤ちゃんを含む母子3人ということだった。近所の人たちが力を合わせて、横転、屋根とフロントガラスがへこんだ車を起こした。
 
 日常は危険と隣り合わせ。無事であるのはたまたまだ。だれもが一瞬で暗転する危機をはらんでいる。最後は凍りつくようになった立秋の晩方、3人が無事であることを祈らずにはいられなかった。

2015年8月8日土曜日

かき氷とブラックベリー

 きょう(8月8日)の浜通りの天気は「北の風、曇り。昼すぎ、晴れ。所により夜、雨」という予報だ。開けっ放しの2階の窓からひんやりした風が降りてくる。茶の間の気温は朝6時で27.5度。しのぎやすいが、時折、風がやむ。扇風機は必要だ。 
 雨なしの酷暑日が続いている。日中に出歩くようなことはもちろんしない。が、熱がこもる茶の間で仕事をしていると、午後には涼を求めてどこかへ行きたくなる。
 
 水曜日(8月5日)には四倉海水浴場へ出かけた。足を海水につけただけだったが、海風が心地よかった。
 
 翌木曜日は広島に原爆が落とされた日。いわきでは平七夕まつりの初日でもある。午後、いわき地域学會が秋に実施する<いわき学検定>について、「広報いわき」の取材を受けた。近所に亡くなった伯父の家がある。エアコンが付いている。そちらで応対した。おかげで、どこかへ夕涼みに行かなくてもすんだ。
 
 きのう(8月7日)はまた、茶の間で頑張った。夕方、我慢ができなくなって、カミサンを連れて七夕まつりを見に行った。
 
 震災を機に笹飾りが貧弱になった。東西に延びるメーンの本町通りを歩いていて、夕日がまぶしかった。昔は豪華な飾りが連続していたので、夕日の直射を受けるようなことはなかった。その代わりに人は出ている。飾りではなく、人を見に行くまつりになった。母親の引率で来ていた孫たちにばったり会った。知人にも。
 
 それよりなにより、頭に点滅していたのは「ふわふわしたかき氷」だ。若い知人がフェイスブックで、氷を温めてふわふわのかき氷をつくる――と宣伝していたので、それを食べてみたくなった。場所は平和通りのはしっこ。確かにふわふわしていて、すぐ解ける。解ける前に急いで食べようとすると、口の中が急冷されて痛くなる。子どものころ食べたかき氷がそうだった。
 
 そのあと、本町通りの西端、スカイストア内にある交流スペース「ぶらっと」を訪ねた。スタッフは帰ったあとだった。ではと、ストアで夕食の買い物をして帰ることにした。ブラックベリーがあった。熟した桑の実を大きくしたようなものだ。甘いに違いない。買って家で食べたら酸っぱかった=写真。
 
 でも、この酸味には記憶がある。セイヨウフサスグリ(グーズベリー)、阿武隈の山里では「イッサ」といっていた、あおい未熟果の味に近い。いや、食べながらイッサの味と同じだと確信した。
 
 普通は生食よりジャムにするそうだが、私にはイッサの代用食になる。見た目は桑の実、味はイッサ。台所の日よけを兼ねてブラックベリーを栽培する、という手もあるか。

2015年8月7日金曜日

「きのこ雲の下で何が……」

 きのう(8月6日)のNHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」は、見ごたえがあった。広島に原爆が落とされた直後、地元・中国新聞社のカメラマンが写真を撮った。その1枚から、医師の知見や写真の中で生き残った被爆者の証言をもとに、最新のコンピューター技術で映像を立体化した。
 身元を特定することができた1人に、当時、広島高専(現広島大工学部)の学生だった坪井直さん(広島県原爆被害者団体協議会理事長)がいる。もう1人、中学生だった女性も、写真に写っている人々の様子を証言した。

 写真の部分、部分に焦点を合わせ、立体化した映像が映し出される。そのひとつ、路上に横たわる人々の映像=写真=に、いわきの画家、故松田松雄(1937~2001年)の作品が重なった。横たわる被爆者に黒いマントを着せたら松田の絵になる。
 
 松田は今から36年前の昭和54(1979)年、夕刊いわき民報に週1回・1年間、「四角との対話」を連載し、画家としての内面の軌跡を吐露した。その切り抜きが先日、ひょっこり出てきた。松田が新聞社に出稿する前、担当ではなかったが、個人的に彼と対話しながら原稿の「事前校正」をした。
 
 その3年後、松田はいわき市文化センターで個展「黒と白の黙示劇1976―1981」を開く。頼まれて、図録に文章を書いた。「風景(家族)」「風景(民)」シリーズに引かれた。NHKスペシャルの映像から、「風景(民)」の作品が思い浮かんだのだった。
 
 図録の中で、私は「作品は変貌しても生と死の黙示劇的構造に変わりはない」「人間の悲しい闇の部分を提示しながらも、そこに祈りのような聖性が漂っている」「人間を見据えた作業を継続していく限り、彼の黙示劇は見る者をしてこれからも深い悲しみと祈りの地平に立たせ続けることであろう」と記した。
 
 折しも娘の文さんから連絡があった。「四角との対話」をオンデマンドで出版することにしたという。切り抜きを読み返し、松田に代わって「36年後のあとがき」を書いた。
 
 松田は、東日本大震災で壊滅的な被害に遭った岩手・陸前高田市の出身だ。その年、いわきで予定されていた「没後10年展」が、震災で1年延期された。「没後11年展」は、私には震災犠牲者への供養を兼ねたもののようにも思われた。
 
 うつむいて静けさをたたえる家族、横たわる民……。松田の作品に内包されている「深い悲しみと祈り」が、3・11を経験してより深く大きなものになっているように感じられた。
 
 そして、ゆうべ。被爆70年の節目の日に再現された「きのこ雲」の下の惨状に、松田の「風景(家族)」「風景(民)」の作品群が重なり合い、響き合って、鎮魂の思いが強くわきあがってきたのだった。

2015年8月6日木曜日

四倉海水浴場へ

 きのう(8月5日)は午前中、サウナのような茶の間でノートパソコンのキーボードをたたき続けた。午後、仕上げた原稿をネット経由で送ると、もう何をする気にもなれない。少しは解放感が作用して、海へ行こう――カミサンを車に乗せて出かけた。
「マユール」へ行って遅い昼食をとった。このところ、昼はほとんど食欲がない。無理をしてでも食べないと――カミサンは冷やし中華を食べたいといい、、私はカレーをといって譲らなかった。カレーが勝った。

 前夜は睡眠不足も手伝って、いつものようには食べもせず、飲みもせずに寝た。真夜中、滞留する熱気に目が覚めて、この夏初めて扇風機を寝床に持ち込んだ。わが家は、昼は猛暑日に近い真夏日、夜は熱帯夜。それが7月後半から続いている。

 マユールで食事をしたあと、海岸道路経由で四倉海水浴場へ出かけた。四倉は砂浜が広い。車を止めたあと、汀までかなり歩く。素足だとすぐアチチとなる。それが嫌で、サンダルのまま砂浜を歩いた。それでも砂がサンダルに入り込む。熱い。アスファルト路面にフライパンを置いて、卵を割って落とす。と、目玉焼きができる。そんな暑さ=熱さだ。海風が心地よかった。

 平日の水曜日、午後2時半――。海水浴客は150人ほどだった。バードウオッチャーではないが、カウントできるレベルだと、つい自分で確かめてしまう。延べ人数ではどのくらいになるのか。

 海水に足をひたす。カミサンが「水虫に効くんじゃないの」という。半分はそのつもりで来た。それよりなによりショックだったのは――。くるぶしまで海水につけた程度だったが、引いては寄せ、寄せては引く波を見ていて、少しめまいのようなものを感じた。

 阿武隈の山里で生まれ育った。小名浜の海、今のように臨海工場が林立する前の、当時、日本水素の従業員アパートがあった吹松で、従姉妹(いとこ)たちに連れられて、初めて海に入った。小学校に上がる前の、5、6歳のころの記憶。押し寄せる波に恐れをなし、めまいを感じた。

 海水に体ごとつかっていないと、海の感覚は退行するのか。もう30年以上、海では泳いでいない。

 けさも「天日燦(さん)として焼くがごとし……」(三野混沌)だ。日照りの夏、野菜は大丈夫か。