2015年8月14日金曜日

「じゃんがら」を見に

 知り合いのフランス人写真家デルフィーヌが「じゃんがら念仏踊り」=写真=を見たいというので、義父の生家へ案内した。
 デルフィーヌとは震災の翌年(2012年)5月、シャプラニールが平に開設した交流スペース「ぶらっと」で出会った。彼女は津波や原発事故の被災・避難者を取材し、去年(2014年)春、ベルリンで芥川賞作家多和田葉子さん(ドイツ在住)と「詩と写真展」を開いた。
 
 その後もいわき入りし、浜通りの写真取材を続けている。今年は1年、日本に滞在する予定で、7月に続いて8月初旬にいわき入りした。すでに浪江町や南相馬市を訪ねている。それとは別に、「じゃんがら」を見たいというので、義父の生家に連絡し、「じゃんがら」の時間を確かめておいたのだった。

 一族の間では「恵里(えり)本家」で通じる「高久(たかく)の親戚」だが、正式な地名は「平鶴ケ井」。海に近い滑津川右岸域、南から北へとU字型に丘の尾根が延びる。その間を埋める田んぼのどん詰まりの山際にある。
 
 去年(2014年)の暮れ、前当主でカミサンのいとこ(85歳)が亡くなった。新盆(にいぼん)である。盆の入り(8月13日)の夕方5時(正確には5~6時の間)に「じゃんがら」の一行が来るというので、新盆回りを兼ねて、デルフィーヌと日本語のできるイギリス人女性、それにカミサンと私の4人で、4時ごろに着いた。
 
 庭で「じゃんがら」が行われていた。地元の青年会だった。5時に来るのは、内陸部の小川の青年会だという。
 
 研究書によれば、「じゃんがら」は江戸時代初期、磐城地方に伝えられた。青年会が伝承し、新盆の家々を回って念仏を唱え踊る現在のような形になったのは、近代以降のこと。それ以前は老若男女が思い思いに輪をつくって唱え踊ったらしい。

 いわき市はすっぽり「じゃんがら文化圏」に入る。それどころか、南は茨城県北茨城市まで、北は田村郡小野町と双葉郡双葉町まで、西は石川郡古殿町・平田村も「じゃんがら」圏だ。私が生まれ育った田村市にはない。初めて見る人は浜通り南部独特のエンターテインメントに強烈な印象を受ける。
 
 小川の青年会が到着したのは6時ごろだった。鉦(かね)を鳴らしながら屋敷に入ってきた一行の1人が、デルフィーヌを見て「おっ、外国人だ」とうなった。それも刺激になったのか、踊りは力強く、統一が取れていた。「盆でば米の飯……」の歌も披露した。前の「じゃんがら」は歌なしだったとかで、ギャラリーの拍手もいちだんと大きかった。
 
 フランス人、あるいはイギリス人の目に「じゃんがら」はどう映ったろう。海に近い街道から奥の山際へと入り込み、いわきのお盆を象徴する念仏踊りに触れて、またいわきを好きになってくれただろうか。
 
 ――けさ(8月14日)は5時13分、久しぶりにやや強い地震で目が覚めた。わが家の近くの「ゲストハウス」(伯父の家)に泊まったデルフィーヌたちはどうだっただろう。やはり飛び起きたか。

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