2015年8月24日月曜日

映画「日本のいちばん長い日」

 先の太平洋戦争では、戦時体制が進むなかでまっさきに地域新聞がつぶされた。5紙あったいわき地方の日刊紙は1紙に統廃合され、さらに「1県1紙」政策のなかで福島民報の「磐城夕刊」に組み込まれる。戦局が悪化すると、今度は休刊の憂き目に遭い、終戦時にはそれを伝える地元の活字メディアは存在しなかった。
 いわきの地域メディアの歴史を調べている過程で、玉音放送とGHQのメディア政策にも目がいくようになった。とりわけ、昭和20(1945)年8月15日正午の天気や気温、花やセミ、ラジオの性能、年代・性別・場所による受け止め方の違いなどに興味がある。
 
 今年は終戦70年。節目の8月に入るとすぐ、BSプレミアムで「玉音放送を作った男たち」が放送された=写真。情報局総裁(国務大臣)下村宏に光を当てたドラマだ。以前、坂本慎一著『玉音放送をプロデュースした男 下村宏』(PHP出版、2010年)を読んでいたので、実際の展開を思い出しながら見た。下村宏は、前職の日本放送協会長時から玉音放送のアイデアを温めていた。
 
 おととい(8月22日)は、いわき地域学會の市民講座で、やはり終戦70年を意識して「昭和20年8月15日のラジオと新聞」と題して話した。玉音放送を実際に聞いた人がいるかもしれない、いれば体験談を披露してもらいたい――そんな思いで臨んだ。
 
 いわき地域学會はざっと20年前、戦後50年と地域学會創立10周年を記念して、戦中・戦後を中心とした市民の生活記録『かぼちゃと防空ずきん』を刊行した。そのなかから玉音放送について記している28人について、年齢・性別・どこで聞いたのか・ラジオの音声の状態・その他(受け止め方など)に分類したものを、話に加えた。
 
 受講者にひとり、玉音放送を聞いた人がいた。当時、12歳(小6)。男子だったためか、放送を「いっそう頑張れ」というふうに受けとめたという、母親から聞かされていたという男性は、「ラジオははっきり聞こえたようだ」といった。すると、通信機器や技術に詳しい地域学會の仲間が当時の電波状況やラジオについて解説し、話に膨らみを持たせてくれた。

 ポツダム宣言受諾から玉音放送までの経緯は、半藤一利著『日本のいちばん長い日 決定版』(文春文庫)に詳しい。今年の8月15日、BSプレミアムで昭和42年公開の映画「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督)が放送された。それからほぼ50年後、同じ原作で原田真人監督の映画「日本のいちばん長い日」が公開されている。

 市民講座の余熱のせいか、きのう、映画を見に行った。旧作では顔の見えなかった天皇を、本木雅弘が熱演した。最高意思決定者としての深い孤独と寂寥がにじみ出ていた。

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