2015年9月30日水曜日

ネパール女性とフェアトレード

「シャプラニール=市民による海外協力の会」がきのう(9月29日)、いわき市生涯学習プラザで全国キャラバン「フェアトレードが変えるネパールの女性たちの暮らし」を開いた=写真(地機=じばた=織りの実演)。
 9月20日に熊本市からスタートし、中津市(大分)、福岡市、札幌市を巡っていわき市へ。そして、きょうは福島市。さらに石巻市、仙台市、江東区、新潟市、浜松市、名古屋市、豊島区を経て、10月12日、逗子市(神奈川)で終わる。東日本大震災復興と原発事故収束作業の拠点になっているいわきでは、「ネパール大地震緊急報告」を兼ねた。

 ネパールの女性起業家ラム・カリ・カドカさん(60)が、自身で立ち上げたフェアトレード団体WSDOの活動や商品開発、生産者であるネパール人女性を取り巻く状況、そして大地震の現状を話した。WSDOはネパールにおけるシャプラのパートナー団体のひとつだ。

 シャプラは3・11後、いわきへ緊急支援に入り、2011年10月からは交流スペース「ぶらっと」を開設・運営している。フェアトレードの報告会には25人ほどが参加した。大半は「ぶらっと」を利用している原発避難者や一般市民とその知り合いなどだった。
 
 4月にネパール大地震が発生し、シャプラがすぐさま緊急支援活動に入った。シャプラと縁のできたいわき市民を中心に、寄金が相次いだ。今も「ぶらっと」などに浄財が寄せられている。ネパール大地震は人ごとではない、シャプラの本来の活動も知りたい――報告会にはそんな思いの人が多かったようだ。

 ネパールは、昔の日本のように男尊女卑の根強い国。ラム・カリさんはそんな風習のなかで、女性が手に職を持つことの重要性を強調した。働いて得た収入を子どもの教育費に充てられる、祭りや病気にも備えることができる。働ける場所をつくることで女性の自立と自信につながる。むらのなかにそういう“ブランチ(支店)”をつくることが課題だと述べた。

 WSDOで生産される手工芸品の8割は日本など海外で販売される。ネパール国内で販売されるのは残りの2割だが、大地震以来、国内の売り上げが落ちた。
 
 労働の正当な対価としての「モノを買う」ことが、生産者の地位向上と尊厳を守ることにつながる――フェアトレードはそういうものだとしたら、まだまだできることがある。消費の一部をそれに振り向けるだけでもいい。ネパールに限らないが、「モノを買う」ことでできる「市民貿易」、それがフェアトレードだということだろう。現場の声を聴いてそんなことをあらためて思った。

2015年9月29日火曜日

タッチケア講座

 シャプラニール=市民による海外協力の会が3・11後、いわき市で緊急支援活動を展開し、今も交流スペース「ぶらっと」を運営している。「ぶらっと」は2011年10月、ラトブに開設された。その後、イトーヨーカドー平店へ移り、今はスカイストアに間借りしている。
「ぶらっと」が開設されて少したったころ、知人で針きゅう・マッサージ師の新田隆さんが、被災者のための健康運動教室を始めた。やがて「ぶらっと」一番の人気教室になった。今年(2015年)4月には、参加者がみずから運営するクラブに発展・解消した。その直後に新田さんが急死した。53歳だった。

 新田さんが生前、企画していた事業がある。タッチケア講座だ。10月11日(日)にいわきアリオス中リハーサル室で開かれる。チラシ=写真=には「おだやかに、手のぬくもりを伝えながら優しく触れていくタッチケアは、身体的な効果だけでなく、ストレスの緩和やPTSDの予防など、心のケアに役立つ」とあった。
 
 2012年11月、吉野せい賞授賞式に合わせて、評論家の柳田邦男さんが草野心平記念文学館で、「いのちの危機と言葉の力」と題して講演した。(内容はいわきの総合雑誌「うえいぶ」第46号に詳しい)
 
 震災後の被災者ケアの様子などを話した。「被災者にとって、本当に心も体も解放され癒されたボランティアの支援活動のナンバーワンは何かといったら、足湯ボランティアです」
 
 柳田さんは主として坊さんが実施したそれを具体的に紹介する。「仮設に行って、大きなたらいにお湯を入れて、足を洗って、もんであげて、そして背中や腕をさすってあげたりする。黙ってそれをやっていると、今まで口もきかなかった、鬱状態になっていたようなおばあちゃんが少しずつ笑顔を取り戻して、『本当に気持ちいいねぇ。ありがとう』なんて言ったりする」
 
 タッチケア講座はこの延長線上にあるものだろう。主催するのは「いわき虹の会」で、「ぶらっと」利用者で新田さんとも交流のあった知人が、新田さんの遺志を引き継ぐかたちで代表に就いた。NPO法人タッチケア支援センター理事長中川玲子さんが講師を務める。
 
「ぶらっと」が主催する教室は、受講者自身が運営するクラブ(サークル)へとかたちを変えてきた。タッチケア講座もまた、「ぶらっと」とつながりながら、新田さんらが独自に準備してきた事業だ。

 シャプラはきょう(9月29日)午後3時半から、いわき市生涯学習プラザでネパール全国キャラバン「フェアトレードが変えるネパールの女性たちの暮らし」を開く。

 ネパールの女性起業家でフェアトレード団体WSDO代表のラム・カリ・カドカさんがWSDOの活動や商品開発、生産者であるネパール人女性を取り巻く状況、そして大地震の現状を伝える。興味のある方はぜひ――。

そして、タッチケア講座も。受講翌日の10月12日、希望者はハンドマッサージのボランティア活動を実践するという。タッチケアをされる人からする人へ、こちらも興味のある人はぜひ(連絡先:080-3471-0533)――。

2015年9月28日月曜日

「むら祭り」

「むら祭り」の原点を見るような思いだった。マスメディアが取り上げることもない、ディープないわきの地域の、小さな神社の秋祭り。ほんとの「宵」祭りに境内で子どもたちが「花笠踊り」と、大人も加わった「棒使い」=写真=を奉納する。
 去年(2014年)、いわき地域学會の若い仲間がフェイスブックに動画を投稿した。平地ながら小学校の分校があるところ、そしていわきの民俗学の草分け、高木誠一(1887~1955年)が本拠としていた平北神谷(かべや)。白山神社の宵祭りの様子がていねいに紹介されていた。

 小5から「棒使い」に“出演”している仲間の長女が中学生になった。すると大人扱いをされるのか、若衆の青いハッピではなく着物を羽織らないといけない、ということになったらしい。羽織る着物があったら、というので、両親とわが家へやって来た。カミサンが着物をみつくろった。

 わが家は、カミサンが米屋のかたわら、古着のリサイクルステーションのようなこともしている。「使わなくなったから」と衣類を持ってくる人がいる。「欲しいものがないか」と探しに来る人がいる。あらかたは古着リサイクルのNPO「ザ・ピープル」に回される。

 話を聞いたからには、宵祭りの演武を見に行かないと――。わが家から北神谷までは車でおよそ10分。宵祭りの当日、夫婦で出かけた。

6時過ぎ、すでに夜のとばりが降りている。道路沿いの鳥居をくぐり、ところどころ照明のついた石段を何十段か登ると、やや広い境内に出る。外部者には全体が緑で包まれているから、昼間でもそこに神社がある、とはわからない。ネットの地図で参道を確かめた。

 神社の中には地域のリーダーとおぼしき人たち、境内には子どもたちと模擬店を担当するお母さんたち。演武が始まるまで、フランクフルトソーセージとトン汁で小腹を満たした。
 
 司会の紹介もあってわかったのだが、太刀と棒の「棒使い」には小学5年生同士から始まって、母子、父子、いとこ同士、中一同士と、さまざまなペアが出演した。母親も父親も、子どものときに演じて体が覚えている。若い母子はこの日のために首都圏から里帰りして出演したという。

 純粋な観客(部外者)として感じたのは、ここで生まれ育った人たちの郷土愛は、こうした祭りから醸成されるのではないか、ということだった。小さいときから見て、聞いて、参加する祭りでは、みんながスターになる。拍手を浴び、おひねりの雨が降る。まさに一人ひとりが主役の「ハレの日」だ。土地の伝統芸能のすごさだ。

 実際、見上げると、木々の黒い葉影越しに十四夜のまん丸い月が輝いていた。日中は雨がぱらついた。宵には晴れて、お月さんまで子どもたちを祝福した。

 双葉郡楢葉町で家を流され、両親も流されたという人がいた。避難先の北神谷で一人住まいをしているということだった。北神谷には大熊町から避難してきた人もいる。農村部には農村部の風習・しきたりがある。郷に入れば郷に従え――である。知り合いの子が出演するので見に来たそうだ。私らも同じだ。最初に仲間の次女が出演し、やがて着物を羽織った長女が出演した。

 そうだ、大震災直後、断水したために、ここ北神谷の仲間の家まで井戸水をもらいに来た。それを思い出した。カミサンが賽銭箱に小銭を投じた。

白山さまは稲作のための水を供給する山の神、とネットにあった。今年はすでに稲刈りが始まった。農村部は「水社会」でもある。祭りは、むら=地域共同体としての結束の固さを再確認する場、ともいえるのだろう。

2015年9月27日日曜日

「母ちゃん」と呼ぶ声が

 おととい(9月25日)の福島民報社会面に、佐藤福起(ふき)さん、102歳の死亡記事が載った=写真。元いわき地域学會副代表幹事で、拙ブログにもときどき出てくる歴史研究家の故佐藤孝徳さんの母上だ。
 7歳年上の孝徳さんとは、私が30歳前後のころに知り合った。もう40年近く前のことだ。いわき地域学會が旗揚げしてからはたびたび顔を合わせた。彼が浜の昔話や専称寺史を本にするときには校正を担当した。江名の自宅にもときどきお邪魔した。そのつど母上と話した。

 孝徳さんはずっと野にあって歴史研究を続け、やがていわき市文化財保護審議会の委員になり、会長を務めた。平成22(2010)年5月30日、共通の知人でもある氏家武夫さんの通夜へ行った足で友人宅へ寄り、深夜、帰宅直後に急死した。本来なら、一回忌の法要に友人・知人を呼ぶところだが、東日本大震災でそれができなかった。代わりに、三回忌の法要に仲間が呼ばれた。

 佐藤家は港の近くにある。家並みが続き、少し奥まっていたために、津波被害はさほどではなかった。「庭に波がサワサワやって来て、沼のようになった。水は黒くて、ブクブクしてね。(草野から)江名に(嫁いで)来て80年、初めて津波を経験した」と、そのとき99歳の母上が語っていた。

 佐藤家で二度、浜料理をごちそうになったことがある。記録を見ると、二度目は平成3(1991)年7月。「タイが手に入ったので、あしたの晩来い」とざっと10人に招集がかかった。

 まず出てきたのが、タイ、アイナメの刺し身とカツオの塩辛。次に、アイナメの煮物とアワビ、カツオの刺し身。締めくくりは、アワビと貝焼きウニの炊き込みご飯、塩味のタイのあら汁。マンボウの刺し身を食べたのは、その前だったか。いずれも浜の「おふくろの味」、母上と義姉ら家人がつくったものだ。多彩で豪華ないわきの浜の食文化を体験する、またとない機会となった。

 三回忌のときに孝徳さんの盟友で歴史研究家の小野一雄さん(小名浜)が、孝徳さんとの共著『ふるさといわきの味あれこれ』(非売品)を冊子にして霊前にささげた。
 
 平成8(1996)年、朝日新聞福島版に孝徳、一雄さんが「ふるさとの味 いわきから」を連載した。冊子にはそのときの浜の味37編が収録されている。佐藤さんが28編を、小野さんが9編を担当した。体に「お袋の味」がしみこんでいたからこその仕事だろう。
 
 孝徳さんはそばに他人がいようと、母上には「母ちゃん」と呼んで用事を頼んだり、昔のことを聞いたりしていた。記憶力が抜群で、体も丈夫だった。長男を見送り、次男の孝徳さんにも先立たれ、津波にも遭遇した。が、今はまたあちらで一緒になれる。孝徳さんがすぐそこまで迎えに来ているのか、私には「母ちゃん」と呼ぶ声が聞こえてならない。

2015年9月26日土曜日

リコール修理

 ホンダからマイカー(フィット)のリコール修理の「おわびとお願い」の知らせが来た=写真。
 エアバッグのインフレータ(膨張装置)の中から、正常に展開しない恐れがある内部部品(ガス発生剤)が見つかった。「想定しうる被害を未然に防ぐための予防的措置として、該当の内部部品を新品へと交換するリコール修理(無料)を実施」する、とあった。要するに、事故を起こしたとき、エアバッグがちゃんと開かないかもしれない、生死に影響するかもしれない、ということだろう。
 
 最寄りのホンダ販売店へ行ったら、在庫があるのでいつでも交換できるという。ではと予約して、翌日のきのう(9月25日)、新品と交換した。

 前にも同じフィットでリコールがあった。「ヘッドライトが点灯しなくなるおそれがある、ついては部品を交換する」。同じ販売店で交換した。自分のブログを見たら、4年半前のことだった。

 フォルクスワーゲンのディーゼル車排出ガス不正が発覚した。世界で1100万台だという。当然、リコールの対象になる、フォルクスワーゲンはこれで傾く――そんな思いをいだいた。環境と経済の調和を追究し、現時点で開発された最良のディーゼル車が、実は犯罪的なごまかしをしていた。それも1万台や2万台ではない、ケタ違いの数だ――とだれもが思ったことだろう。

 たまたま車に詳しい若い友人がやってきた。事態は深刻という認識で一致した。リコール費用、各国からの制裁金、損害賠償訴訟と、底なし沼が待っている。「政府(ドイツ)が救済するしかないでしょう」「ドイツの東電か」「いや、それ以上だと思います」。ひとりフォルクスワーゲンだけの問題か、ほかに広がらないか。疑問はふくらむ一方だ。

〈原発がおかしくなるのではないか〉と震えたのは、あの日の夕方だった。皮膚感覚で「避難しないと」と思った。一時避難した。以来,史上最大の公害問題と向き合わなくてはいけなくなった。哲学者の内山節さんがいう「文明の災禍」だ。フォルクスワーゲンの世界的な不祥事にも「文明の敗北」を感じないではいられない。結局は倫理なき経済なのか。

2015年9月25日金曜日

あの日の「海の記憶」

 むし歯の子を連れて行き、やがて親もむし歯になって通うようになってから40年近く。かかりつけの歯科医院も今は息子さんの代になった。
 歯茎が化膿して痛くなり、治療を受けて3回目のきのう(9月24日)は、大先生が担当した。会うと、あの非常時の話になる。こちらは口を開けたままだから、「あー、あー」と言い、ときどきあごを動かして同意・了解のサインを出す。

 元いわき市歯科医師会長の中里廸彦さんとは、歯の治療とは別に、今年、何度かお会いした。5月27日夜、友人が事務局を務めるミニミニリレー講演会で、中里さんが、「東日本大震災、福島第一原発事故に被災したいわきの現実―地震・津波・原発事故・風評被害の中で」と題して話した。

 2011年3月18日から7月末まで、歯科医師会有志13人が安置所に通い、身元の判明していない遺体の歯の状況を細かく記録し、警察の鑑識に提供した。その経過が『2011年3月11日~5月5日 いわき市の被災状況と歯科医療活動記録』(2012年刊)に記されている。中里さんはそれに基づいて報告した。

 私が、歯科医師会の活動を知ったのは、たぶん震災の翌年。中里さんと街でバッタリ会ったときだ。「メディアは報じてなかったですね」「そうなんです」。講演で見た資料のひとつに「新聞・TVで報道されてこなかった」とあったのは、世間に歯科医師の活動が知られていない悔しさの表明――ということを前に書いた。

 講演前に中里さんから資料をいただき、後日、別の資料をいただくために自宅を訪れた。そのとき、いわき明星大復興事業センターに「震災アーカイブ室」がある、“未来へ伝える震災アーカイブはまどおりのきおく”として、震災後の浜通り各地の写真や資料を収集していることを伝えた。

 すると後日、資料をいただいたと、わが家にやって来る女性研究員が言っていた。彼女とは震災の年の12月、東京で知り合った。災害社会学が専門で、2012年9月に震災アーカイブ室の客員研究員になった。同じミニミニリレー講演で、中里さんのあとに彼女も話した。津波襲来の写真をアーカイブ室に提供した豊間の民宿「えびすや」鈴木利明さんも顔を出した。

 鈴木さんは中里さんともつながっている。中里さんが東京で講演をする、鈴木さんが写真を展示する、という関係でもある。

 その鈴木さんと久之浜の村岡誼さん(歯科医)、橋本隆子さんの3人が先日、平の界隈で「海の記憶展」を開いた。村岡さんは久之浜で被災した家の柱や庭木でつくった観音像を、橋本さんは同地の草花を再現した染め花を展示した。オープニングパーティー=写真=に出た話をすると、中里さんも展覧会を見に行く予定でいたと応じた。
 
 人にはそれぞれ固有のネットワークがある。中里さんには中里さんの、私には私の。江戸時代の俳諧ネットワークは士農工商という身分を超え、幕藩という地域のしばりを超えて、俳人と俳人が多重・多層につながっていた。
 
 それと同じで、3・11を記録し、伝えようとする人たちはいつの間にか多重・多層につながっていく。女性研究者がさまざまな人とつながり、鈴木さんが同様につながり、中里さんが最近、女性研究者とつながったように。
 
 歯の治療を終えたあと、アーカイブ室の話になった。彼女とは電話で話したという。彼女がわが家の「ゲストハウス」(故義伯父の家)に民泊する話をすると、今度一緒に会って話しましょう、という。3・11以後、つなぎ、つながることの大切さ・重さを強く感じている。

2015年9月24日木曜日

レイライン観光

 レイライン(英語の古語で「光の道」だとか)という観点で、いわきの新しい観光資源を開発しようという動きがある。あるところから声がかかったので、レイラインハンティングのための打ち合わせに参加した。なにか情報がないか、ということだろう。そのときに配られた資料から――。
 一例として挙げられるのが、伊勢・二見ケ浦と岸辺にある興玉神社。夫婦岩の間から昇った夏至の朝日が、興玉神社に差し込み、伊勢内宮へ導かれる。
 
 つまり、夏至や冬至、春分・秋分といった1年の節目の日の太陽の光によって聖地が結ばれる現象・配置に着目し、観光につなげようというものだ。最新の地質学データやGPS(全地球測位システム)を利用し、聖地の構造を科学的に分析するのが特徴で、いわゆる「パワースポット」とは違って合理的に理由を説明できる。
  
 日本山岳修験学会会員でレイラインを研究しているUさんが概略を説明した。資料にはいわき市内の調査物件として社寺・山・遺跡・施設などがピックアップされていた。Uさんは茨城県出身だから、いわきに精通しているわけではない。レイラインを計算に入れた伽藍配置ともいえる専称寺(平山崎=浄土宗)が抜けている。

 Uさんも薫陶を受けた故佐藤孝徳さん(江名)に教えられたことだが――。春と秋の彼岸の中日、朝日が本尊の阿弥陀三尊を照らし、夕日が本尊の後光になる、そんなふうに専称寺の本堂が造られているのではないか。そう聞いて、今から21年前、本堂の裏山に沈む夕日を見に行った。同寺が開山600年の法要を控えた年だった。

 裏山は竹林で鞍部になっている。そのへこみに夕日が落ちるところだった。西方浄土へと死者を導く「山越(やまごえ)阿弥陀」そのものではないか。観念の浄土と現実の寺とをつなぐ工夫に感嘆した。

 それから14年後の2008年。雨の春分の日から2日後の3月22日、起き抜けに専称寺へ出かけ、朝日を拝んだ=写真。そのときのブログを読み返して、記憶を修正しないといけなくなった。ブログを抜粋する。

 ――朝の5時半過ぎ、山上の境内に立つ。左手に蛇行しながら東流する夏井川。そこに逗留しているハクチョウが朝日にほんのり赤く染まって飛び交っていた。正面から右手にかけては沖積平野。その先に太平洋が広がる。

 磐城平藩の中老、鍋田三善(1788~1858年)は専称寺について、自著『磐城志』にこう記す。「山門の外、坂の中段左右に寮舎が5軒並んでいる。また南側、横に入り組んで5軒がある」。寮舎は坊さんの卵が寝泊まりして修行するところ。それが江戸時代には10軒あった。住持が引退したあとに住んだ「寂光院」は庫裏の東にあり、「東海の眺望類ひなし」と三善は絶賛する。

 今も専称寺からの眺望は比類がない。今朝はそのうえ雲ひとつない日本晴れ。
海から昇った太陽は本堂の中央から見ると、1時の方向にある。真っ正面ではないのがちょっと残念だが、ふもとも、中段の梅林も、本堂も朝日に照らされて美しい――。

 きのう(9月23日)がその秋の彼岸の中日、つまり秋分の日。そして、記憶の修正とは、本堂の正面が真東に向いていなかったことだ。春分の日前後の朝日が昇ったのが1時の方向とは、本堂が東からやや北へ向いているということになる。初めて孝徳さんの話を聞いたときの印象が強すぎたのかもしれない。

 打ち合わせ中にUさんはノートパソコンで専称寺の地理的位置を探り、裏山が鞍部になっていること、本堂がやや北に向いていることを確かめ、春分・秋分の日より夏至に朝日と本堂がまっすぐ結ばれるのではないか、と語った。7年前の自分のブログを読んで、Uさんの推測の方が合理的だと思った。
 
 專称寺は、東日本大震災で本堂が「危険」、庫裡が「要注意」と判定され、ふもとの総門も大きなダメージを受けた。いずれも国の重要文化財に指定されている。現在は総門がほぼ修復され、本堂の解体・修復作業が進められている。
 
 レイラインとしての証明がなされれば、よみがえる専称寺の聖地性がさらに高まる。少なくともこの寺に関しては太陽の動きを計算に入れた配置、レイラインをPRできる。江戸時代、専称寺で学び、やがて幕末の大江戸で俳僧として鳴らした出羽出身の一具庵一具(1781~1853年)を調べている身としては、専称寺に光が当たるようになるのはやはりうれしい。

2015年9月23日水曜日

福島県ハワイ移民の父

 いわきとハワイは、今でこそハワイアンズとフラダンスで絆が生まれたが、歴史的にはこれといったつながりがあるわけではない、と思っていた。
「福島県ハワイ移民の父」といわれる三春町出身の獣医師がいた。勝沼富造(1863~1950年)。父親は元磐城平藩柔術師範だという。幕末、三春藩に“転職”し、養子に入って「勝沼」から「加藤木」に姓を変える。富造は三男で、三春で生まれた。やがて勝沼家を継ぐ。勝沼家の子孫はいわき市好間町に住む。

 いわき市民にも勝沼富造の存在を知ってほしい、いわきとハワイの歴史的なつながりを知ってほしい――いわきハワイ交流会の前会長の要望もあって、いわき地域学會が先週の土曜日(9月19日)、「福島県移民の父・勝沼富造――父は旧磐城平藩安藤家家臣」と題する市民講座を開催した=写真。

 ふだんは地域学會の会員が講師を務めるが、今回は外部講師の橋本捨五郎さん(郡山市)が担当した。橋本さんは富造と同じ三春町の出身で、歴史に名を残す地元出身の富造に興味を抱き、二度も渡米をして調査を重ねた。その成果を小説「マウナケアの雪」として出版した。
 
 橋本さんの話を聞くまで、私は富造の存在を知らなかった。いや、知る機会があったのに、棚に上げておいた。
 
 地域学會の若い仲間が10年近く前、安藤久人さんという人と共著のかたちで『ハワイ移民史――いわきからハワイへの架け橋』(いわきハワイ交流会発行、2006年)の出版にかかわった。そのなかに富造のことが書いてあった。
 
 わが家にあるはずの『ハワイ移民史』が、3・11になだれを打った本のなかにまぎれ、どこに片づけたかわからなくなった。やむをえない、いつものことで、いわき総合図書館へ駆けつけて『ハワイ移民史』を借りた。
 
 橋本さんの話を聞き、ネットで調べ、『ハワイ移民史』を読んでわかった富造の生涯だが、私が興味を持ったのは、彼がハワイで日本語新聞の発行にかかわったことだ。いつものぞく図書館の「新聞」コーナーに、田村紀雄著『海外の日本語メディア――変わりゆく日本町と日系人』(世界思想社、2008年刊)がある。それも借りて読んだ。なんと、勝沼富造について一項を設けていた。

 富造はハワイに移る前、アメリカ本土で大学へ通い、獣医師の資格を取り、アメリカの市民権をとっている。モルモン教にも入信した。やがてハワイへ渡り、一時、移民官として日本人受け入れに奔走する。

「ハワイに渡った勝沼は、その獣医としての技術から、1924(大正13)年の“排日移民法”の発効まで出入管理部門の仕事に従事している。時系列からみて、勝沼が大塚静雄とともに、『やまと新聞』の発行を引き受けるのは、このハワイに到着して間もなくのことであったと考えられる」。大塚静雄については出身地などの記述があったかもしれないが、読み飛ばした。

「『やまと新聞』の経営に参加したあとも、かれはハワイ在住の日本人や二世のための各種の慈善団体、奨学金基金、ロータリークラブの責任者や主要なメンバー、さらには『日布時事』の副社長と、日系人コミュニティの中で働き、信望も厚かった」。ロータリアンということで、社会的な評価がわかる。

 富造は、本職ではなかったが、コラムニストでもあった。「日布時事」に毎週土曜日、「日記の七徳」というコラムを持っていた。

 著者の田村さんは「海外に渡った日本人のうち、文字の書ける者は、こぞって新聞社を興し、そこで記事をまとめ、大声で何らかのことを訴えずにはいられなかった」と書く。富造もその一人だが、書かれた中身は自分の足で書いた、事実に即したものだったという。「大声」ではなく「つぶやき」だったのかもしれない。
 
 半月ほど前、職場を共にした後輩がわが家へ来た。今風にいえば、ブラジルからの「帰国子女」である私の知人に、ブラジルの話を聞くためだった。後輩の親類がブラジルへ渡った。日本語の新聞社で働いている人間もいるということだった。『海外の日本語メディア――変わりゆく日本町と日系人』を読むと、なにか得られるものがあるかもしれない。

2015年9月22日火曜日

ラトブがネパール支援

 いわき駅前再開発ビル「ラトブ」で、9月5日から27日までネパール大震災チャリティーキャンペーンが行われている。その一環で2階の南側エスカレーターわき通路に、「シャプラニール=市民による海外協力の会」のパネルが展示された=写真。
 フェイスブックで知ったが、ラトブではシルバーウイークに合わせ、19日から23日まで1階でステージパフォーマンスが繰り広げられている。ネパール大震災支援と敬老を兼ねたイベントで、広く市民から浄財を募る。それをシャプラに贈る。

 シャプラとラトブは東日本大震災で縁ができた。主にバングラディシュとネパールで「取り残された人々」の支援活動をしているシャプラが3・11後、初めて国内支援に入った。原発事故もあって支援が最も困難な地域となったいわき市で活動し、生活支援・心的ケアが必要な段階になると、ラトブに交流スペース「ぶらっと」を開設した。

 シャプラは2011年10月から半年間、ラトブの店子(たなこ)として「ぶらっと」を運営した。その後、「ぶらっと」はイトーヨーカドー平店に移転し、今はスカイストアに入っている。

 今年(2015年)4月、ネパール大地震が発生し、シャプラがすぐさま緊急支援活動に入った。シャプラと縁のできたいわき市民を中心に、シャプラのネパールでの活動資金の一助にと、寄金が相次いだ。今も「ぶらっと」などで浄財を募っている。ラトブに店を持つ知人がはたらきかけて、ラトブでのキャンペーンが実現した。

 折から、シャプラはネパールの女性起業家ラム・カリ・カドカさんを招いて全国キャラバンをスタートさせた。ラム・カリさんはネパールのフェアトレード団体WSDO代表でもあり、キャラバンではWSDOの活動や商品開発、生産者であるネパール人女性を取り巻く状況、そして大地震の現状も伝える。いわきでは9月29日午後3時から、生涯学習プラザで報告会が開かれる。

 シャプラの設立メンバーの一人が、いわき出身の学友だった。で、四十数年前の設立当初からシャプラを見てきた。カミサンもシャプラのいわき連絡会を引き受けている。シャプラに関しては当事者意識が先に立つ。ラトブへ行ったら、2階の展示パネルの前でちょっと足を止めてほしい。29日のキャラバンにも、ぜひ――。

2015年9月21日月曜日

魚屋でバナナを買う

「シルバーウイーク」といっても、米屋をしていればサラリーマンと違って、ふだんの1週間のリズムで過ごすだけ。きのう(9月20日)の日曜日は夕方、カツオの刺し身を買いにいつもの魚屋さんへ出かけた、ら――。
 顔を合わせたとたん、若だんなが「カツオが揚がらなかったんですよ、津波で」。つまり、ないということだ。津波?低気圧ではなかったの?と一瞬いぶかった。が、すぐ〈ああ、そうだった〉と納得する。金曜日(9月18日)、チリ地震で太平洋の反対側から津波が押し寄せた。

 週に一度カツ刺しを食べる人間は、テレビを見て「沿岸に近づくな」というアナウンスを耳にするだけだったが、漁業者はそのころ、船を沖に出して津波に備えていたのだ。当然、漁をするどころではない。

 しかたない、カツ刺しはあきらめる。代わりに、サンマとタコの刺し身にした。焼きサンマは数日前に食べたが、サンマの刺し身は今シーズン初めてだ。脂ののりはいまいちだった。が、それはそれで「初物」の味を楽しんだ。

 ところで――。魚屋さんの店頭に、バナナの入った段ボール箱があった。「なに、これ?」「売ってるんです」。魚屋でバナナを売っていた。「市場へ行ったら、バナナを買ってくれと言われて」。魚類と青果が同居する卸売市場だから、そういうこともあるのだろう。前にも一度、バナナではなかったが、なにか並んでいたような記憶がある。

 カミサンが値段を聞くと、「一房300円です」。すぐ「買う」となった。あとで数えたら16本、全体の量は2キロ強だった。1キロ当たり150円弱、1本あたり20円弱だ。お買い得だったのだろう。

 若だんなが、ある老夫婦のバナナの保存法だと言って教えてくれた。バナナの皮をむいて、こまかく切ったものを冷凍・保存する――むむむ、それだけでピンときた。

 昔の話だが、干し柿を冷凍して正月に食べる――と、知人が言っていた。バナナもそれと同じだろう。正月のためではなく、冷凍しておけば年中、バナナの「氷菓」を食べられる。試してみよう。

2015年9月20日日曜日

「せどがろ」

 いわき市はおととい(9月18日)、10~11日の大雨で登山道の一部が損壊したため、「背戸峨廊(せどがろ)」の入山を制限した。当面、「トッカケの滝」から先には立ち入りができない。
 8月8日、東日本大震災以来4年5か月ぶりに「トッカケの滝」から奥の「三連の滝」までの立ち入り制限を解除したばかりだが、V字谷より厳しいH字谷(岩壁はほぼ垂直、そこに滝が連続するのでH字谷と、これは私の勝手な造語)ではやむをえない。
 
 と、それはしかし、「まくら」であって、「さわり」はやっと市が「背戸峨廊」に「せどがろ」と正しいルビ(読み仮名)を振るようになったこと、についてだ。それに連動して、夕刊紙にも「せどがろ」と正確な読み仮名が付されるようになった。

「背戸峨廊」の読みが「せとがろう」ではない理由を、本欄でも何回か言及した。その経緯を以前の文章を引用して記す。
 
 草野心平のいとこに、長らく中学校の校長を務めた草野悟郎さん(故人)がいる。「縁者の目」という随筆に「背戸峨廊」命名のエピソードを書き残した。

 敗戦後、心平が中国から帰郷する。すぐ村を明るくするための集まり「二箭(ふたつや)会」ができる。地元のシンボル・二ツ箭山にちなんだ名前だ。
 
 二箭会は、村に疎開していた知識人の講演会や、村民歌(「小川の歌」=作詞は心平)の制作、子供たちによる狂言、村の青年によるオリジナル劇の上演などの文化活動を展開した。夏井川の支流・江田川(背戸峨廊)を探索して世に紹介したのも「二箭会」の功績の一つだったと、悟郎先生は明かす。

「元々この川(引用者注・江田川のこと)は、片石田で夏井川に合流する加路川に、山をへだてて平行して流れている夏井川の一支流であるので、村人は俗に『セドガロ』と呼んでいた」

 加路川流域に住む人間には、裏山の谷間を流れる江田川は「背戸の加路(せどのがろ)=裏の加路川」だった。探検に加わった当事者の一人の、貴重な記録である。「この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃ちや、釣り人以外には知られていなかった」

「私たちは、綱や鉈(なた)や鎌などをもって出かけて行った。総勢十数名であった。心平さんは大いに興を起こして、滝やら淵やら崖やら、ジャングルに一つ一つ心平さん一流の名を創作してつけて行った。蛇や蟇にも幾度も出会った。/その後、心平さんはこれを旅行誌『旅』に紹介して、やがて、今日の有名な背戸峨廊になった」

 つまり、「せどがろ」という呼び名がもともとあって、心平がそれに漢字を当てた、滝や淵の名前は確かに心平が命名した――命名までの経緯をみればそうなる。
 
 最初は「せどがろ」だったのが、いつから「せとがろう」と間違って呼ばれるようになったのだろう。第一、「背戸」は広辞苑でも「せど」であって、「せと」ではない。某放送協会のアナウンサーが「せとがろう」と誤読した、それが広まった――という説もあるが、むろん証拠はない。
 
 気がついたら、活字メディアも電波メディアも「せとがろう」の迷路に入り込んでいた。市民もそれに合わせて「せとがろう」と口にするようになった。誤称・誤記の共鳴現象が今も続いている。
 
 誤称・誤記を正すのもまたメディアだ。元新聞記者として、あらためて心平の「背戸峨廊」命名の経緯を調べ、いわき地域学會の市民講座と、会報「潮流」に発表した。当ブログで「せどがろ」に戻れという意味のことを書いたのが2008年。7年たってやっと観光情報を発信する総本山の市役所に、「せどがろ」の認識が広まってきたというべきか。
 
 先日、〈いわき市の観る!食べる!遊ぶ!買う!徹底ガイドブック〉と銘打った『まるごといわき本』(2015年3月刊)=写真=を手に入れた。「背戸峨廊」にはちゃんと「せどがろ」とルビが振られていた。あとは最も守旧的なメディアが誤記した古い自社記事をコピペせず、自分の頭で考えて「せどがろ」と言う(書く)か、どうかだ。

2015年9月19日土曜日

チーレの海

 おととい(9月17日)、きのうと、テレビをつけっぱなしにしていた。おとといは国会、きのうは津波=写真。チリ沖で大地震が発生し、津波が太平洋の西端、日本列島へ押し寄せる――昭和35(1960)年5月のチリ超巨大地震で、日本でも津波による死者・行方不明者が約140人に達した。その教訓から、地球の裏側、いや反対側の地震であっても警戒が必要になった。
 最近では2010年2月、2014年4月と、「チリで地震、日本に津波、テレビで生中継」が繰り返された。私の脳みそもみごとにパターン化されている。今回もそうだった。「チリで地震、日本に津波」、すると「チリの詩人パブロ・ネルーダの『チーレの海』」が思い浮かぶ。2010年3月1日付本欄に「チリ地震」のことを書いた。それを再掲する。
                *
 チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダ(1904~1973年)の詩に「チーレの海」がある。17歳のときに気に入ってノートに書き写した。チリはスペイン語読みでは「チーレ」。次は、その一部。

 おお、チーレの海よ、おお
 突き立つかがり火のように高い水よ、
 圧力よ、雷鳴よ、サフィアの爪よ、
 おお、塩と獅子の地震よ!
 流れよ、始原よ、遊星の
 海岸よ、おまえのまぶたは、
 大地の正午を開き、
 星々の青さに挑む。

 チリで大地震が発生した。新聞によれば、震源は首都サンティアゴの南西約325キロメートルの沿岸地区。チリは地震国だ。〈突き立つかがり火のように高い水〉とは、津波のことか。今度読み返して、そんな感じにも受け取れた。〈塩と獅子の地震〉が〈突き立つかがり火のように高い水〉をもたらす。それが太平洋を渡って日本の沿岸にも押し寄せた。

 チリといえば、50年前の昭和35(1960年)5月の津波被害が思い起こされる。

 チリからおよそ1万7000キロメートル隔てた日本に、地震から約22時間後に第一波が到達した。そのあと、さらに高い津波が押し寄せた。東北地方を中心に被害が続出し、いわき市でも11世帯57人が被災し、2人が死亡したという。いわきでの最大波高は3メートル以上に達した。

 きのう(2月28日)は、NHKテレビが津波関連の特報を続けた。朝、用事があって新舞子海岸へ出かけた。雨がみぞれに変わり、海の波は白く砕けて荒れていた。

 いわきでも避難勧告・指示が出された。午後には常磐線が運休し、海岸の道路も部分的に通行止めとなった。

 この50年間に日本列島沿岸の防災設備や、情報伝達システムは一段と整備された。津波監視網も格段の進歩を遂げた。人的被害を避けるための避難勧告や指示、交通規制は、「過剰反応」に当たるくらいがちょうどいい。今回の「人的被害なし」がそれを物語る。50年前の教訓がひとまずは生かされた。
                *
 それから5年がたつ。2011年3月には東日本大震災を経験した。それも踏まえていうのだが、「サンティアゴから○○に○○キロ」と「年月日・時間」を更新すれば、今度のチリ地震・津波に関する文章としてもおかしくない。(2010年に常磐線が運休したのは、津波ではなく荒天のためだ)

 有史以来最大規模ともいわれる昭和35年の超巨大地震(マグニチュード9.5)以後、チリ沖では何度か大地震が発生している。2010年代に入ってからは今回で3度目だ。ナスカプレートが南アメリカプレートの下に沈み込むために、チリ沖で巨大地震が発生するのだという。

 超巨大地震以後の震源を地図でなぞると、その北側に震央が点々と並ぶ。チーレの海と日本の海は、ときに「突き立つかがり火のように高い水」でつながる。

2015年9月18日金曜日

『坊主持ちの旅』

 旧磐城平藩士で明治の文学史に名を刻む人物に、歌僧天田愚庵(1854~1904年)がいる。その愚庵が3歳年上の郷友、実業家江正敏(ごう・まさとし=1851~1900年)について小伝を書いた。
『いわき史料集成』第4冊(1990年刊)に、明治30(1897)年刊の「江正敏君伝」(写真版)が収録されている。解説を書いたいわき地域学會の先輩、小野一雄さんによると、正敏は戊辰戦争後、国内を遊歴し、やがて北海道へ渡って漁業経営者として成功する――。

 その正敏と愚庵の少年時代からの交遊をはさみながら、それぞれの生涯を追った小説『坊主持ちの旅――江正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年=税抜き2400円)=写真=が、小野さんの縁で送られてきた。

 タイトルの「坊主持ち」とは、「坊主と行き交ったら荷の持ち手を交替する一種の遊び」のことである。現代の小学生なら、じゃんけんに負けて仲間のランドセルを抱えて歩く、といったようなことだろう。正敏と愚庵の友情を象徴する言葉だ。

 小説は不破俊輔、福島宜慶さんの共著になっている。2人は大学時代の友人で、福島さんの奥さんが正敏の血を引いているのだという。不破さんから恵贈にあずかった。

 愚庵の生涯については、研究論考などがそろっているので既読感があったが、正敏については「江正敏君伝」があるのみ。「北海道で物書きをしている」不破さんが、福島さんと協力して正敏の内面を生き生きと造形した。当然のことながら北海道の文物、歴史なども丹念に描かれている。そこにも引かれた。

 サケ漁業経営者として成功したものの、同業者やアイヌの反発もあって、あとで漁場を返還することになる――正敏の人生の曲折もまた、作品に陰影を与える。

 蛇足ながら(いや、私にとっては本筋か)、正敏は磐城平の本町通りに店を構える「十一屋」と親戚だった。きのう(9月17日)のブログで、新島襄が幕末、十一屋に泊まった話を書いた。小説から十一屋についての新しい知見が得られた。

「藩の御用商人である十一屋小島忠平は正敏の親戚である。小島忠平は平町字三町目二番地に十一屋を創業し、旅館・雑貨・薬種・呉服等を商っていた。その忠平はかつて武士であった」。実はきのう、フェイスブックを介してせがれの同級生が「元武士の屋号らしいですね。士(さむらい)の字の崩しで十一」と、目から鱗(うろこ)のような分析をしてくれた。その通りだろう。

 正敏が商売に興味を持ったのは、この十一屋の存在が大きい。「正敏は、函館で物品を仕入れ、道内各地で売り、逆に鹿皮や鹿角など、道内各地の産物を、函館で直(じか)に売ったり、十一屋を通じて東京や磐城平などに売り捌いたりして、道内のほとんどの地を歩いていた」。それをステップにして、サケの漁場を持った。

 くしくも、北海道を舞台にした小説から磐城平の十一屋に光があたった。愚庵を光源としながらも、正敏自身がその光を反射して十一屋を照らした、というべきだが、開拓移民として北海道に移住し、果敢に挑んで散った詩人猪狩満直(1898~1938年)とは別の、「北への視点」を持ちえたことを、いわきの人間として喜ばしく思う。

 それと――。いわき市に、漢学者を父に持ち、英文学者として、また愚庵の研究者として、1世紀の生涯を歩んだ人がいる。中柴光泰さんだ。幻の著「江正敏君伝」の発掘・紹介に尽力した。先生の著書の一つに『愚庵文献散歩』(1980年刊)がある。あの世でも愚庵研究を続け、文献目録に喜々として『坊主持ちの旅』を書き加えることだろう。

2015年9月17日木曜日

十一屋と新島襄

 詩人山村暮鳥が磐城平時代によく訪ねた店がある。平・三町目2番地の「十一屋洋物店」だ。大番頭さんとよく話しこんでいるのを、お手伝いさんが目撃していた。文学好きの大番頭さんで、2人はひまを見つけては近くの洋食屋「福寿軒」へ出かけたそうだ。
「十一屋」は、江戸時代末期には旅宿だったらしい。最近、いわき地域学會の先輩から教えられたが、21歳の新島襄が函館から密航してアメリカへ留学する途次、磐城平の城下に寄っている。そのとき泊まったのが、この「十一屋」だ。

『新島襄自伝』(岩波文庫)=写真=の〈江戸から函館へ〉の項によると――。元治元(1864)年春、新島襄の乗った帆船「快風丸」が江戸から函館へ東北の太平洋側を北上する。途中、中之作(現いわき市)に寄港する。3月28日のことだ。

 その日の日記――。中之作港は港口に暗礁、東西北に岩礁がある。「若(も)し不案内にしてこの港へ参れば必ず危難に逢わん事、疑なし」。そして、その日は「早々、上陸いたし、当所見物し畢(おわ)り、仙台屋と申す家へ逗留す」

 中之作のにぎわいぶりは「戸口百に満たず、然(しか)るに娼家居多(きょた)。如何となればこの地石炭を出し、且(か)つ種々の物件この港より内陸十五、六里四方へ運ずる故、始終商船の出入り絶えざるによる」。幕末、内陸の白水村弥勒沢で発見された石炭の積み出し港が中之作だった。

 新島襄は、翌29日にはこの地方の中心地、磐城平の先の「赤井嶽(閼伽井嶽)と云う名山を見物せんとて参りしが、折り悪しく途中にて烈風雷雨に逢い、漸く夕刻平城迄参りし故、遂に赤井嶽に参らず、その処に一泊せり。但し、旅舎は十一屋清蔵と云う。……」

 中之作は海食崖に囲まれた漁港で、古くは商港としても栄えた。『新しいいわきの歴史』(いわき地域学會)によると、西国・徳島の斎田塩は銚子・那珂湊経由で中之作に荷揚げされた。中之作は福島県の中通りとハマを結ぶ、いわゆる「塩の道」の出発点でもあった。
 
 東日本大震災では、中之作は沖防波堤などの港湾施設が功を奏して、ほかのハマよりは被害が少なくてすんだ。津波が、一気にではなくじわじわ来たのだとか。犠牲者はいなかった。「仙台屋」はどこにある(あった)のか、中之作の港に建設業関係の「仙台屋」があるようだが、それか。

 平の「十一屋」については、大正の暮鳥のほかに幕末の新島襄も調査対象に入ってきた。大正時代、隣の三町目1番地には洋食屋「乃木バー」があった。合わせて調べる楽しみが増えた。

2015年9月16日水曜日

米配達

 義弟が入院してからきょう(9月16日)で3日目。自分の用事のほかに、米の配達、病院への往復と、急に身の回りがあわただしくなってきた。
 街からの帰り、いつものように夏井川の堤防を利用すると、土手が部分的に赤い色で染まっていた。ヒガンバナが咲きだした=写真。季節の変わり目に、義弟の体も変調をきたしたのだろうか。

 9月のカレンダーには20~23日と赤い数字が並ぶ。間もなくシルバーウイークが始まる。とはいっても、カミサンが米屋をやっているから、カレンダー通りには休めない。義弟が入院した今は、店番を義弟にまかせて羽を伸ばすこともできなくなった。

 カミサンの実家が米屋で、その支店に住んでいる。2人いる弟の1人が支店の米の配達を担当している。カミサンに用事があるときには、義弟が店番をする。義弟がいるからこそ、カミサンも私も日中、自由に動き回ってきた。

 きのうは初めて、義弟に代わって本店へ米を取りに行き、注文のあった個人宅へ届けた。効率は悪いが、私が運転手を務め、カミサンがお得意さんと応対する。その間、店は「配達中」の札を掲げて閉めている。

 私は、米屋の営業に関してはほぼノータッチだ。ほんの少しだが、在宅で仕事をしている。時間のやりくりができるので、知人のカレー料理店にだけは義弟に店をまかせて、カミサンと米配達に行く。当然、米屋の店員という自覚はない。

 締め切りの迫っている仕事があった。毎年8月後半からほぼ1カ月間は、連日、膨大な量の原稿を読まないといけない。そのなかから作品を絞り込み、最終的に授賞作品を決める選考委員会が待っている。

 先週金曜日朝に義弟が体調不良を訴えてから、同級生による一泊飲み会、義弟の入院、米配達、買い物と、茶の間で原稿読みをするどころではなかった。が、それもきのう終了した。
 
 身の回りがあわただしくなったとはいえ、朝、ひとつだけ自分に言い聞かせる。戦争になっても糠床は毎日かき回せ――日常を見失わないための戒めだ。

2015年9月15日火曜日

長い一日

 週末に夏井川渓谷の隠居・無量庵で過ごした。土曜日(9月12日)、同級生が無量庵に集合して旧交を温め、翌朝9時には現地で解散した。私はそのあと少し土いじりをし、隠居の周りを散策してから帰った。小流れにツリフネソウ=写真=が咲いていた。渓谷の季節が秋に移ったことを実感した。
 同級生との触れ合いを楽しんだあとの、週明け14日午前、知人夫妻が来訪した。奥さんは看護師の資格を持っている。カミサンがわが家の後ろの家に住む実弟の話をした。

 4日前の金曜日、本人が具合が悪いというので、私の車で医院へ連れて行った。付き添ったカミサンの話では、その医院では専門外の病気らしかった。別の病院に紹介しておくので、連絡があったら行くように――ということで、土・日と過ぎ、月曜日になった。具合がさらに悪くなっていた。
 
 カミサンが奥さんに相談し、検査結果を見せたら、「すぐ救急車を呼ぶべきだ」という。症状からいって病院からの連絡待ちでいいのか、とモヤモヤしていた気持ちが、元看護師さんのことばでふっきれた。

 すぐ義弟を車に乗せて紹介された病院へ向かう。知人夫妻が同行してくれた。おかげで夕方には入院治療という運びになった。途中、私は予約していた歯医者へ出かけ、そこへカミサンから「すべて完了、ご夫妻に家へ送ってもらった」という連絡が入った。

 私ら夫婦が昼食抜きで弟に付き添うのは当たり前。知人夫妻も昼食抜き、しかも義弟の入院が決まるまで付き合ってくれた。
 
 なぜそこまでできるのだろう――奥さんは看護師だから、ということもある。昼前、カミサンから話を聞いたとたんに、ふんわりとした話し方がプロフェッショナルな口調に変わった。
 
 詩を書くご主人もまた、目の前の人間の窮状を見過ごせない人だ。津波被災者や原発避難者に寄り添った詩を書いている。せめてそばにいるという、そのことだけでどのくらいこちらの気持ちが救われたか。
 
 夜、下着類などをもって病室を訪ねると、義弟は管とつながりながらもベッドに座っていて、酸欠状態がかなり緩和された様子だった。あれこれ欲しいものを注文するので、苦笑した。
 
 3年近く前、私も似たような病気になった。私はドクターに嘆願して「自宅入院」で済んだ。その経験からいうのだが、元看護師さんという「時の氏神」がいたからこそ、義弟は命拾いをした。

病院からの帰り、スーパーで買い物をし(知人にばったり会った)、空腹を満たしたのは夜8時過ぎだった。長い一日だった。

2015年9月14日月曜日

谷間の集い

 夏井川渓谷の隠居・無量庵を宿に、年1回、同級生が集まって1泊2日の飲み会を開いている。平高専(現福島高専)3期のM(機械工学)とC(工業化学)から7~8人が参加する。
 酔った勢いで無量庵からスウェーデンに住む同級生に国際電話をかけ、北欧への還暦修学旅行を敢行したのが2009年秋。以来、海外・国内旅行の合間をみて無量庵に集う。

 今年は、仲間と2月に台湾を再訪し、1、5月にいわき湯本温泉旅館での集まりに参加した。おととい(9月12日)の夜、無量庵で開かれた集いは、その意味では今年4回目の会合だ。

 食料調達担当としては、メーンは刺し身(カツオ大皿1、その他の盛り合わせ大皿1)以外に考えられない。行き付けの魚屋さんに予約したが、台風が接近している、カツオが手に入るかどうかは当日朝にならないとわからない、ということだった。

 折からの大雨で渓谷の道路が通行止めになった。が、これは落石事故の予防措置だ。雨がやむと間もなく規制が解除された。集い当日の早朝には、東京湾を震源とする最大震度5弱の地震が起きた。首都圏組の足は大丈夫か心配になったが、結果的には台風も大雨も地震もしのいで予定通りに集いが実施された。

 先着組から順次ビールでのどを潤し、全員がそろったところで「カツ刺し」を出す。刺し身の盛り合わせを先に出しておいて正解だった。魚屋の若だんなは、1級品ではないけど味はまあまあ、と言っていたが、首都圏の人間には1級品に感じられたのではないか。

 この集いにはいつも「後片付けはおれに任せろ」という人間が参加する。ホストとしては大いに助かる存在だ。が、これまでに何回片づけてくれたことだろう。宴の夜は「まかせろ」が、頭痛の朝を迎えてお昼近くまで眠っていることが多かった。今回は珍しく早々に寝た。朝には完璧なほど、座卓の上をきれいに片づけた。

 私も早い時間にタオルケットをかぶり、敷き布団なしで寝た。夜中、体が痛くて何度も目が覚めたが、そのつど増水した渓流=写真=の音を土砂降りの雨音に間違えた。現役のころは毎週末、隠居に泊まっていたから、早瀬の音と雨音の区別はついた。今は泊まることがなくなって、山里の半住民としての感覚がすっかり衰えてしまったのだ。

 無量庵に人が泊まると、旧知の新聞販売店主が新聞を置いていってくれる。何度目か目が覚めたときには朝5時になっていた。玄関の戸を開けると、軒下のいすの上に新聞があった。現役のころから変わらない。ありがたいことだ。

 コンビニ買いおきのおにぎりとみそ汁で朝食をとったあと、ほぼ全員が一斉に薬を飲み始めた。気持ちは「19歳の老少年」でも、年齢を四捨五入すれば「古希」になる。肉体的な衰えは隠せない。「後片付けはおれにまかせろ」氏が有言実行をしたのも、夜更かしをする体力がなくなってさっさと眠りに就いたからだ。だれもが二日酔いにならずに済んだのはそのためだろう。

2015年9月12日土曜日

モミタケ

 夏井川渓谷を貫く県道小野四倉線はきのう(9月11日)正午、前日午後3時からの全面通行止めが解除された。小さな落石はいつものこと。強い雨になると、「落石崩壊の恐れ」があるために予防的に道路が封鎖される。けさは久しぶりの太陽。まずは日常が戻った。というわけで、秋のキノコの話を、と思ったら、東京湾を震源とする地震だ。調布市で最大震度5弱とか――。
 8月中旬から続く曇雨天は、山のキノコにはどうだろう。野菜には低温と日照不足が痛いが、キノコにはいい刺激、おしめりになっているのではないか。9月に入るとすぐ、いわきキノコ同好会の仲間から連絡が入り、モミタケが2個届いた=写真。大は傘の径が25センチほど、小は大人のこぶしを二つくっつけたくらいの大きさ。閼伽井嶽(標高604.9メートル)産だという。

 この20年の間に同好会の仲間から、モミタケを採った話は聞いても食べ方は聞いていなかった。自分には無縁のキノコというものがある。マツタケ、コウタケ。モミタケもそうだ。どんなふうにして食べるのか――ネットで食べ方・味(食感)などを調べた。
 
 野生キノコは原発事故が起きた年の9月15日から、摂取・出荷制限措置が取られている。調理するつもり、食べるつもりになってシミュレーションをする。
 
 傘の開いたモミタケも、地上に現れたばかりのモミタケもしっかりしている。傘と柄(茎)では食感が微妙に違うらしい。傘はやわらかい。アワビのような食感といわれるのは柄の方か。

 産地の閼伽井嶽では、原発事故の起きた2011年10月初めに同好会のキノコ観察会が開かれた。林内の放射線量は当時0.35前後だった。それからほぼ4年。線量はだいぶ低くなっているのではないか。

 先日届いた同好会の会報第20号に、行政のデータを基に同好会が採取し、測定機関に測定してもらったいわき市内の食菌の放射線量データ(平成26年分)が掲載されている。不検出から最大1万3210ベクレル(コウタケ)まで、種・場所によって線量は異なる。

 よくいわれるのだが、キノコは測定するだけの量を確保するのが難しい。希少種は特にそうだ。1、2個しか採れなかったために測定したら、食べられるキノコがなかった――なんて悲喜劇を生む。
 
 さて、今夜は夏井川渓谷の隠居でミニ同級会が開かれる(東京方面からちゃんと来られるだろうな)。というわけで、明日曜日(9月13日)のブログは休みます。

2015年9月11日金曜日

渓谷は通行止め

 きのう(9月10日)は、昼前から雨が波状的に襲ってきた。「線状降水帯」といって、雨雲が連続して同じ「空の道」を通り、雨を降らせる。今回初めて聞いたことばだ。雨と雨の合間に回覧資料を役員さん宅に届けようと思ったが、ぬれる心配があるのできょう午後に持ち越した。
 どこかのラジオがきのう、「きょうは一日、雨模様」と伝えたそうだ。「雨模様」は「雨が降りそうな状態」のことで、雨はまだ降っていない。古いメディアにはベテランがいるからこうした間違いは表に出ないが、ベテランのいない新しいメディアで「雨模様」を使ったのだろう。メディアからもついもれ出てしまうほど、「雨模様」の誤用が一般化しつつあるらしい。

 それはさておき、きのうは茶の間でパソコンを開き、テレビをつけっぱなしにして、大雨情報をチェックした。このところ毎日、400字詰め原稿用紙に換算して300枚前後の他人の文章を読んでいる。合間にチラッ、チラッとテレビを見たり、パソコンでツイッターのタイムラインをのぞいたりしながら、各地の雨の様子を確かめる。

 茨城県常総市で鬼怒川の堤防が決壊した=写真(NHKの10日夜7時のニュース)。テレビの生中継にくぎ付けになった。自衛隊ヘリに救出された人の家が、次に見ると流失している。間一髪の救出劇に、あの日の大津波の映像を思い出した。(きょうはちょうど4年6か月の節目の日だ)

 2011年3月11日。NHK福島放送局のカメラマンがヘリから「平野を襲う大津波」のスクープ映像を撮った。世界的・人類史的に貴重な映像はその年の新聞協会賞を受賞した。受賞者が「新聞研究」2011年10月号に書いた。

「その日、私はヘリ取材の当番として、福島放送局から仙台空港に出張し、ヘリポートに待機していた」。仙台市上空から仙台港へ出たあと、三陸のリアス式海岸をめざしたが、雪雲に阻まれて南下する。と、名取川の流れを遮るように一筋の白波が河口からさかのぼっていくのが見えた――。

「田園をのみ込みながら、巨大な生き物のようにザーと平野を走る大津波。先端がどす黒くなった大津波は住宅や車、農業用ハウスなどに襲いかかり、あっという間に巻き込んでいく」「生中継になっていることを思い出し、アップになりすぎてはいけないと、映像をワイドにすると、土煙が上がり、黒く染まった海岸線そのものが平野を飲みこんでいた」

 今から29年前の8月初旬、集中豪雨でいわき市小川町の夏井川の堤防が決壊した。現場で取材していた後輩が、それこそ間一髪で助かった。彼はあとで別の道に進んだ。たまたま8日に遊びに来た。灰色の天気が続いているものだから、ついつい昔の堤防決壊の話になった。

 大水の夏井川から「ゴーン、ゴン」と音がする。消防団員かだれかがいうには、大水で流されてきた岩がぶつかって割れる音だという。それほど水はすさまじい破壊力を秘めている。

 わが隠居のある夏井川渓谷の道路はきのう午後3時、連続雨量が基準を超えたため、全面通行止めになった。あす土曜日、隠居でミニ同級会を開く。あすは通れるようになると思うが、通れない場合は、マチ場のわが家の向かいのゲストハウス(故伯父の家)で飲み会を開く。

2015年9月10日木曜日

秋の贈り物

 おととい(9月8日)夕方。松田松雄著『四角との対話』の紙本が届いた=写真。オンデマンド出版による「秋の贈り物」だ。新書版287ページ。電子書籍の『四角との対話』はすでに、アマゾンなどで発売になったが、私にはやはり紙の本がしっくりくる。
 画家が1年間、いわき民報に随筆を連載してから36年、原因不明の病に倒れ、長い闘病生活の末に亡くなってから14年。娘・文さんが「回無工房」の名で書籍化した。「回無」は「えむ」と読むのだろう。

 さっそく手にとってパラパラとやる。この夏は、「あとがき」を頼まれたこともあって、36年ぶりに、手元にある新聞切り抜きを参照して全体を校正した。今も「同時代の書」として読める。36年たっても古くならない。父親の文章だから、というだけでなく、画家としての文章を評価しての編集・発行だった、と納得できる。

 いや、それ以上に胸のつかえがとれた思いがする。松田自身が書籍化を試み、印刷所に入稿しながら、いつの間にか作業が中断した。そして、闘病、死。単行本は幻になったと思っていたら、2年前、文さんから連絡がきて、一から入力しなおして本にするという。その思いが結実した。

 そして、きのう夕方。もうひとつの「秋の贈り物」が届いた。東京に滞在中のフランス人女性写真家デルフィーヌから、マルセイユのせっけんと、プチトマト?らしいオリーブオイル漬けが届いた。ローマ字つづりの日本語で次のようなことが書いてあった。

 月遅れ盆に、「じゃんがら念仏踊り」を踊る青年会がやってくる時間に合わせ、新盆(にいぼん)の親せき宅へ案内した。イギリス人のジェシカが同行した。「私たちは、ほんとにすてきな時間を過ごしました。じゃんがらを見て、とても興味を持ちました」「私たちは、秋に松田さんの展示会に行く予定です」

 2人がわが家の近くにある伯父の家に泊まったとき、松田松雄の過去の個展の図録を見せたか、回顧展が開かれる話をしたのだと思う。松田の絵は、東日本大震災の犠牲者を鎮魂し、生き残った者を慰撫する。ブログでそんな感想も述べていたので、頭にとどめておいたのだろう。
 
 松田松雄の、生まれ故郷での回顧展が10月3日から11月29日まで、岩手県立美術館(盛岡市)で開かれる。デルフィーヌには、私たちは10月11日に訪ねることを伝えた。

2015年9月9日水曜日

阿武隈のクマ

 フェイスブックに田村市復興応援隊が「注意!熊出没!」の記事を投稿していた。「9月4日に都路町内で熊の目撃情報がありました。発見された場所は岩井沢字楢梨子(ならなし)地区です。足跡も確認されており存在は間違いないようです」
 岩井沢小・中学校のホームページから、次のようなことが見えてきた。同日午前6時10分ごろ、国道288号の新田バス停付近に体長1メートルほどの子熊が現れた。足跡もあった。近くに親熊がいるかもしれない――。

 いわき市のわが家と田村市常葉町の実家を往復するときに、行きか帰りのどちらかに同国道を利用する。途中、同市都路町岩井沢地内で葛尾村方面へ国道399号が分岐する=写真(2014年9月)。その交差点から東の太平洋側へ1.5キロほど寄ったところに新田バス停がある。国道沿いに田畑と民家が点在する。交差点から西側には岩井沢の集落。その一角に岩井沢小学校がある。

 今は、沿線の田んぼでは水稲が栽培されている。震災に伴う原発事故がおきた2011年春には、20キロ圏外だったが稲作が中止になった。その年6月、放射線量を測りながら実家へ帰った折、新田バス停付近でノウサギが道路を横断するのを目撃した。人の気配が消えたため、臆病なノウサギが日中、堂々と国道に現れたのだ。

 2012年7月31日、田村郡に接するいわき市川前町上桶売字大平地区でツキノワグマの足跡が確認された。夏井川渓谷のわが隠居からは、車で20分ほど山中に分け入ったあたりだ。隠居に回覧チラシ「クマにご注意」が差し込まれていて、クマの出没場所が近いことを実感した。

 阿武隈高地は、南北に福島県を縦断する。同高地にはツキノワグマは生息していないといわれてきた。が、相双地区を中心にずいぶん前から目撃情報が相次ぐようになった。田村市の北方、飯舘村には「熊出没注意」の看板もあるという。いったい何頭生息しているのだろう。
 
 原発事故以来、場所によっては山里から人の姿が消え、山離れ現象も手伝って、自然への人間の圧力がだいぶ薄れた。その分、イノシシが爆発的に増えている。それと同じで、クマも阿武隈に入り込みやすくなっている、ということか。

2015年9月8日火曜日

体育祭、無事終了

 今年(2015年)の5月は晴天続き、6~7月もカラ梅雨だった。ところが、残暑がきつくなるはずの月遅れ盆あたりから“雲行き”がおかしくなった。以来、曇天の日が続く。ちょっと遠出を、という日にかぎって雨に降られる=写真(8月17日=いわき市南部の国道289号)。
 日本列島の気候がおかしくなって、「乾季」と「雨季」に移行しつつある兆しか、なんて思ったりした。いや、今も思っている。竜巻が日常化しつつあることだし。
 
 この1週間は、天気予報が気になって、気になって……。9月6日の日曜日、「神谷(かべや)地区市民体育祭」が開かれる。雨で1週間延期、という事態になるとコトだ。理由は二つ。個人的なことが一つ。もう一つは、団体競技の出場メンバーが1週間後もそろうかどうか――。
 
 当日、朝6時。花火が揚がった。「体育祭開催」の知らせだ。東隣の草野地区でも花火が揚がった。2発ずつの連弾だ。9時の競技開始のあと、少し強く雨が降った。どうしたものかと思っているうちに、雨がやみ、そのまま予定通り全種目を終えることができた。
 
 神谷地区には八つの行政区がある。その一つの区の責任者なので、行政区の役員と地区の子どもを守る会のメンバーと合同会議を開き、出場メンバーの確保を守る会に頼んだり、体育祭のあとの反省会までの役割分担を確認したりと、けっこう準備に時間をとられた。6月の球技大会とともに、9月の体育祭は地域の一大イベントだ。
 
 延期になるだけでもテントの撤収・張り直しと大変な労力が必要になる。去年がそうだった。今年は、12~13日、夏井川渓谷の隠居(無量庵)で同級生による恒例の飲み会が予定されている。体育祭が延期になればダブるので、ノンアルコールで付き合い、ホストだけ泊まらずに帰宅して、早朝から開催準備に追われるところだった。
 
 出場メンバーのうち、主力になる家族は、1週間後には出場が難しい。ということで、守る会も選手確保に頭を痛めることになる。少子・高齢化のうち、「少子化」がこんなところに顕在してきた。部活や塾もある。子どもがいても参加が難しいのだから、いないところ(農村部)では係累を頼ってよそから補強するということになる。

 とにもかくにも予定通り、無事に終わった。反省会にはカツオの刺し身も出た。不思議なことに、40~20代の若い人たちは「カツ刺し」より鶏の「から揚げ」に手が出るようだった。
 
 日曜日の夜はカツ刺しと決めている。反省会で口にしたものの、いまひとつ満ちたりた気がしない。きのう(9月7日)は一日遅れの日曜日という気分でいたので、夕方、いつもの魚屋さんへ出かけたら、若だんなが開口一番、「カツ刺し、食べたんじゃないですか」。「食べたけど、いつものカツ刺しが食べたくなって」と私。
 
 若だんなも天気がどうなるか、やきもきしていた。草野も神谷も体育祭となれば、反省会用にカツ刺しの注文が殺到する。冷凍食品と違って生ものだから、「1週間延期」となったら目も当てられない。おたがい体育祭が無事に終わったことで、胸中は晴れやかだった。
 
 今年の、ほんとうの反省――リレーの選手を減らす、世代限定をゆるやかにする、などの見直しが必要ではないか。体育祭が始まったのは40年前の昭和40年代後半。当時、少子・高齢化は話題にも上らなかった。少子・高齢化時代にふさわしいルールを――と、本部の記録係の席にいながら、何度も種目に駆り出され、一夜明けると「全身筋肉痛」になった人間は、痛切に思った。

2015年9月7日月曜日

死者とつながる本

 いわき湯本温泉のしにせ旅館・古滝屋の社史が刊行された。ブックレットのような、しゃれた感覚でまとめられている。現当主の里見喜生さんによれば、いわきの若いライターらが文を書き、編集を手がけた。
 いわき地域学會の初代代表幹事・故里見庫男さんは古滝屋の先代社長。その縁で社史に文章を頼まれた。古滝屋には「江戸十番」という名の飲み食いどころがあった。月例で飲み会が開かれた。里見さんがみずから幹事役を引き受けた。貴重な異業種交流の場だったことを、里見さんの死後、痛感した。そのことを書いた。一種のコラムで、1ページの依頼が見開き2ページになった。

 里見さんの専門は自然地理学。地形学の恩師と磐越東線の船引駅で待ち合わせ、阿武隈高地の片曽根山と移ケ岳に同行したあたりが、ライフワークの原点らしい。この二つの山を、私は中学を卒業するまで毎日、眺めながら暮らした。里見さんの「あぶくま愛」が今も私のなかで残響している。

 創業320年に及ぶしにせ旅館の社史は、その意味では、私にとっては「死者とつながる本」だ。

「死者とつながる本」はほかにもある。岩手の陸前高田市で生まれ育ち、いわき市で画家として死んだ松田松雄(1937~2001年)の『四角との対話』が電子書籍になった。発売されたばかりだという。
 
 36年前の昭和54(1979)年、夕刊いわき民報に「四角との対話」という題で1年間、週1回連載し、画家としての内面の軌跡を吐露した「私小説的美術論」だ。その切り抜きが先日、出てきた。松田が新聞社に出稿する前、担当ではなかったが、個人的に彼と対話しながら原稿の「事前校正」をした。
 
 36年後の今年(2015年)、切り抜きを参照しながら電子書籍の「事前校正」をした。娘の文さんに頼まれて、「あとがき」と書籍PR用のコピーも書いた。オンデマンドで紙本出版も行われる。
 
 そしてもうひとつ、草野健さん=写真(2008年4月、ギャラリー界隈での阿部幸洋展会場で当時90歳)=の遺稿集が3回忌に合わせて、命日の9月20日に刊行される。これも「死者とつながる本」だ。先日、息子のカズマロ君から手紙が来た。「あとがき」代わりに私の弔辞を掲載するので了承を――ということだった。否やはない。
 
 草野健さん、いや「おっちゃん」は昭和40年代のいわきの美術シーンをリードした「草野美術ホール」のオーナーだった。ここで私は松田と出会い、今はスペインにいる阿部や、画家の山野辺日出男、陶芸家の緑川兄弟らを知った。同ホールは一種の「梁山泊」で、そこから市民運動の種がまかれ、現代美術をテーマにしたいわき市立美術館が誕生した。
 
 こうして、深く影響を受けた人たちの生き方や考え方を記した本が、ほぼ同時期に息子・娘さんたちの手でこの世に送り出されることになった。彼らの仕事を手伝うことができた、という満足感にひたっている。

2015年9月6日日曜日

「光の丘」へ

 いわき市平上平窪の「光の丘」に7月、野菜直売所&カフェ「晴レル家」がオープンした=写真。昼間、小川町に用事があった帰り、「晴レル家』に寄って一日10食・期間限定のマッサマンカレーを食べた。タイ式カレーとかで、ごはんにかけるよりはスープのようにスプーンで口に運ぶ方が食べやすかった。辛いだけでなく、甘みがあった。
「光の丘」には、東北・北海道地方で最も早く開設された肢体不自由児施設「福島整肢療護園」をはじめ、障がい児者のための施設がたくさんある。いわき福音協会が運営している。創立者は故大河内一郎医学博士(1905~85年)で、「ただ障がい児者の友として」をモットーに、聖書的な信仰に基づいた社会福祉事業を行っている。県立の養護学校もある。

「光の丘」へ足を運んだのは何年ぶりだろう。同協会の幹部になっていた同年代の友人を訪ねた記憶があるが、いつだったか定かではない。そのときよりもさらに施設の数が増えている。

 大河内さんは仕事のかたわら、短歌を詠み、詩と小説を書いた。友人が、やはり詩を書いた。友人とは街なかの古本屋で出会った。22、3歳のころだ。友人は主治医の大河内さんを父のように慕い、文学の世界では同人として2人で詩誌を出す間柄だった。

 昭和48年、脳こうそくに倒れて右半身が不随になる。そのうえ、翌年には大河内病院副院長の長男を、それから10日ほどあとには妻を失う。度重なる不幸から、詩集『雑木林』や『シオンの丘』が生まれた。『シオンの丘』の表紙絵には松田松雄の作品が使われた。
 
 友人が仲介して、大河内さんからフランス料理店や日本料亭へ招待されたことがある。20代のなかごろだった。大河内さんはすでに杖をついていた。今では若気の至りと恐縮するしかないのだが、ずいぶん生意気な口をきいた。が、そんな若造の意見にも真剣なまなざしで聞き入っていた。そのときの、射抜くような目が今も忘れられない。

 詩集『雑木林』を発行したのは昭和49(1974)年。翌年には小説集『蕗のとう』を出版する。いずれもその年の福島県文学賞準賞を受賞した。

 先日、草野心平記念文学館の学芸員嬢からメールが入った。くだんの友人が大河内さんのところにあった資料を文学館に持って行って見せた。そのなかの1点、私のはがきを友人の許可を得て画像として送ってきた。

 小説『蕗のとう』をいただいて、一気に読み終えたお礼のはがきだった。「『カデナ・デ・アモール』『林檎物語』、お話ばかりでなく文になったものを読むと、改めて戦争の悲惨さが身にしみます。戦争が罪なのは人を殺すことはもちろん、人間性をまっ殺してしまうところにあるかもしれない、そんな感想がわいてきます」

「『蕗のとう』は実に新鮮です。〈佐藤先生〉を境に、前半は肉体の躍動、後半は精神の葛藤が手にとるようにわかります。先生はほんとうに快活な悪童だったんですね!/自分を赤裸に表現しているのが、私にはとてもうれしかったです」。消印から、26歳の時のはがきと知った。悪童のエピソードとして知られているのは、山村暮鳥の教会を襲撃し、「土爆弾」(泥爆弾)を投げたことだ。

 大河内さんは昭和60(1985)年5月、長いベッド療養生活の末に亡くなった。大河内さんの初志は今も仲間や後輩たちに引き継がれている。「晴レル家」は、 いわば“社員食堂”のようなものだ。「光の丘」の施設が増え、働く人が多くなった証拠だろう。大河内さんの詩集と小説集を読み返してみよう。