2015年9月17日木曜日

十一屋と新島襄

 詩人山村暮鳥が磐城平時代によく訪ねた店がある。平・三町目2番地の「十一屋洋物店」だ。大番頭さんとよく話しこんでいるのを、お手伝いさんが目撃していた。文学好きの大番頭さんで、2人はひまを見つけては近くの洋食屋「福寿軒」へ出かけたそうだ。
「十一屋」は、江戸時代末期には旅宿だったらしい。最近、いわき地域学會の先輩から教えられたが、21歳の新島襄が函館から密航してアメリカへ留学する途次、磐城平の城下に寄っている。そのとき泊まったのが、この「十一屋」だ。

『新島襄自伝』(岩波文庫)=写真=の〈江戸から函館へ〉の項によると――。元治元(1864)年春、新島襄の乗った帆船「快風丸」が江戸から函館へ東北の太平洋側を北上する。途中、中之作(現いわき市)に寄港する。3月28日のことだ。

 その日の日記――。中之作港は港口に暗礁、東西北に岩礁がある。「若(も)し不案内にしてこの港へ参れば必ず危難に逢わん事、疑なし」。そして、その日は「早々、上陸いたし、当所見物し畢(おわ)り、仙台屋と申す家へ逗留す」

 中之作のにぎわいぶりは「戸口百に満たず、然(しか)るに娼家居多(きょた)。如何となればこの地石炭を出し、且(か)つ種々の物件この港より内陸十五、六里四方へ運ずる故、始終商船の出入り絶えざるによる」。幕末、内陸の白水村弥勒沢で発見された石炭の積み出し港が中之作だった。

 新島襄は、翌29日にはこの地方の中心地、磐城平の先の「赤井嶽(閼伽井嶽)と云う名山を見物せんとて参りしが、折り悪しく途中にて烈風雷雨に逢い、漸く夕刻平城迄参りし故、遂に赤井嶽に参らず、その処に一泊せり。但し、旅舎は十一屋清蔵と云う。……」

 中之作は海食崖に囲まれた漁港で、古くは商港としても栄えた。『新しいいわきの歴史』(いわき地域学會)によると、西国・徳島の斎田塩は銚子・那珂湊経由で中之作に荷揚げされた。中之作は福島県の中通りとハマを結ぶ、いわゆる「塩の道」の出発点でもあった。
 
 東日本大震災では、中之作は沖防波堤などの港湾施設が功を奏して、ほかのハマよりは被害が少なくてすんだ。津波が、一気にではなくじわじわ来たのだとか。犠牲者はいなかった。「仙台屋」はどこにある(あった)のか、中之作の港に建設業関係の「仙台屋」があるようだが、それか。

 平の「十一屋」については、大正の暮鳥のほかに幕末の新島襄も調査対象に入ってきた。大正時代、隣の三町目1番地には洋食屋「乃木バー」があった。合わせて調べる楽しみが増えた。

0 件のコメント: