2015年10月31日土曜日

カフェタヒラ

 きのう(10月30日)朝、私のブログを読んだ若い知人から電話が入った。平高専(現福島高専)の寮誌「くずかご」8号を借りたい、というので同意した。間もなくやって来て雑談になった。平・三町目界隈の歴史の話が主だった。私が、新島襄の泊まった十一屋とか、大正時代の西洋料理店「乃木バー」のことを調べていると言ったら、目がタカになり、耳がウサギになった。
「三町目ジャンボリー」にかかわっているという。日曜日の街なかに人を呼び込もうと、三町目商店会の青年部が始めたイベントだ。そのイベントに歴史をからめたら、いいトピック(話題)になる。その土地の履歴に触れて楽しめる。こちらが知っている情報(たとえば「山村暮鳥と十一屋」など)は提供するよ、となるのは自然の成り行きだ。

 情報収集の一手段として、いわき総合図書館のホームページをのぞくことを勧めた。<郷土資料のページ>に地域の新聞・地図・絵はがきなどが収められている。オープンデータだ。「いわきの大正ロマン・昭和モダン」に興味があるので、ときどき大正・昭和時代のいわき地方の“電子新聞”を見ている。関東大震災後のいわきの様子などがわかる。

 彼が帰ったあと、思い出したことが二つあった。一つは暮鳥の詩。暮鳥の磐城平時代、好間・川中子(かわなご)の「猪狩ばあさん」が十一屋の前で種物売りをしていた。「三町目ジャンボリー」の元祖のようなものではないか。
 
 暮鳥の詩「穀物の種子」は「猪狩ばあさん」をモデルにしている。そのエピソードがおもしろい(詳しくは小欄、2013年1月29日「暮鳥と洋物店」、同2月1日付「種物売りばあさん」を)。「三町目ジャンボリー」の次の展開の材料になるかもしれない。

 もう一つ。大正時代、三町目の「乃木バー」と同じ西洋料理店に「カフェタヒラ」があった。「カフェタヒラ」では、暮鳥のまいた種から花開いた詩人の詩集出版記念会が開かれている。平の本町通りだと思うが、どこかわからない――数年越しの宿題だ。彼と話した余韻から、もしかしたら広告にあるかもしれないと、<郷土資料のページ>にある新聞をチェックした。

 図星だった。大正12(1923)年11月13日付「常磐毎日新聞」(12日夕刊として配達)に広告が載っていた=写真・上。「松島湾の養殖カキ貝の取次店を始めた、カキフライ1枚20銭」といったことを宣伝している。ポイントは店の所在地。「平町紺屋町(住吉屋本店前)」。「一町目あたり」という推測は外れた。その先、松ケ岡公園寄りに店があった。

 平成17(2005)年夏、いわき市立草野心平記念文学館で「山村暮鳥展――磐城平と暮鳥」が開かれた。図録に「平町市街全図」が載る。それを引っ張り出して紺屋町付近を探る。通りの南側に「住吉屋」、道路向かいの角に「警察署」(現せきの平斎場)、その西隣、すなわち住吉屋の向かい(前)は「一九イ」と「一八ノ一」番地。そのどちらかが「カフェタヒラ」だと知った=写真・下。
 数年間、悶々としていたものが、調べる切り口をちょっと変えただけで、あっという間に、いながらにしてわかった。デジタル技術のすごさだが、今回はたまたまヤマ勘が当たったのだ。これで99%は決まり、あとは記録と証言を拾えば「カフェタヒラ」の場所が確定する。

2015年10月30日金曜日

同期生の死

 福島県議選の告示(11月5日)まで1週間を切った。きのう(10月29日)のいわき民報に立候補を予定している16人の顔写真が載った。それにも刺激されての回想――。
 きのうのブログで少し書いたが、平高専(現福島高専)の同期で、寮の部屋が一緒だった永山茂雄クン(元県議)が水曜日(10月28日)に亡くなった。享年67。
 
 昭和39(1964)年4月、平高専の3期生として入学した。寮に入った。当時は機械、電気工学、工業化学の3科だけ。3年生(5年生までまだそろっていなかった)の高学年寮とは別に、低学年寮は2年生を部屋長(室長だったか)に、1年生が各科1人割り振られた。
 
 25号室だった。機械は常葉町(現田村市常葉町)出身の私、電気は浪江町出身のOクン(今は平市街のある商店会の会長)、化学は三和村(現いわき市三和町)出身の永山クン。そのOクンからきのう、電話がかかってきた。「茂雄クンのことだな」「そう、びっくりした」。何年か前、高専の後輩が亡くなったときよりも、寮の同室の1人が他界した衝撃のほうが大きかった。
 
 永山クンはいわき市役所に入り、昭和40年代後半、できたばかりの公害対策課員として奮闘していた。私もいわき民報の市政記者になり、永山クンらの仕事を追いかけた。いわきの公害問題を解決したい、という思いでは、行政マンも記者も同じだった。

 その後、生態学と釣りの技を生かして、いわき民報に「いわきの淡水魚」を連載した。私が依頼した。平成5(1993)年には『ふるさとの魚 いわきの淡水魚』として、いわき地域学會から発刊された。たぶんそのころが永山クンと濃密に付き合い、腹を割って話ができた最後だろう。
 
 畑違いの財政部門に回り、しばらくして市役所をやめ、市議選に立候補して当選した。やがて県議に当選し、衆議院議員選挙に出て落選してからは、政治活動から離れたようだった。政治家だから毀誉褒貶は付いて回った。彼の奥さんと私のカミサンが親戚だったこともあって、姻戚としてのつきあいは続いた。

 2日前に当欄で平高専の寮誌「くずかご」が出てきた話を書いた。永山クンが何か書いていないか、ぱらぱらめくっていたら、あった。3年生の終わりの昭和42年2月発行の第8号だ。編集責任者は私。〈故郷めぐり(Ⅱ)――三和町・常葉町〉と題して、三和町について永山クンが、常葉町については私と同郷の後輩Eクン(のちに東北学院大学教授)が書いている。私が書かせたのだろう。
 
 永山クンのたむけに、「いわきの自然三和」と題した彼の18歳の文章(一部省略)を載せる。すでにこのとき、政治に関心を持っていたことがわかる。
                 *
 新天地ブラジルでは、市の郊外の定義として半径五百キロと定めてあるそうである。それなら、日本においても小国意識をぬぎさり、市の中心より数十キロまでを郊外とすればはなはだ壮観であるが、いままではそうもいかなかった。しかし、それに近づいてか、いわき市は四十キロまでが市内である。
 
 ためしに福島県地図をみてもらおう。郡山―平間は国道49号線で結ばれている。その中程を見よ。何もないだろう。かってそこは、うっそうたる森林にかこまれた忘れられた土地だった。しかし、今90%コンクリートのハイウェイがつらぬくブラジルならぬ新天地となった。
 
 ここがいわき市の西端の一つ三和町の上三坂である。ここは、偉大なる政治家のため(注・により?)大正の末すでに電燈がつき、耕地面積の60%は区画された水田となっていた。教育、通信も私的に建設された学校と郵便局によってなされた。隔ぜつされた中に栄えたインカ的存在だったのである。(中略)
 
 時代の要求は「うさぎおいしかの山」を「レジャー追いしかの山」に変えてしまった。幼少の時分は文明にあこがれたが今、その文明はそれをうらぎり自然をくいつくし、わがフルサトの自然も取りさろうとしている。真の自然を見た(い?)ものは早急に三和町を訪れる。まだその息吹を失っていない。

2015年10月29日木曜日

リンドウ開花

「ゲストハウス」(義伯父の家)の庭に、去年(2014年)の秋、カミサンが「ドクターのリンドウ」を移植した。うまく根づき、数日前に花が咲きだした=写真。
 ドクターが亡くなって13年。奥さんが東京の息子さんの家の近くに引っ越して1年。手放した家の庭でもリンドウが咲きだしたことだろう。
 
 いわき市は昭和61(1986)年、「非核平和都市宣言」をした。市民有志が中心になって短期間に何万人もの署名を集め、市と市議会を動かした。政治運動とも市民運動とも無縁だったドクターが署名運動の中軸・事務局長を引き受けた。そのときに知り合った。

 署名運動の原点になったのは、元いわき短大学長の故中柴光泰さんのソネット(14行詩)「つまらないからよせ」。いわきの同人詩誌「詩季」が戦後40年の節目に特集を組み、顧問格・中柴さんが珍しく詩を書いた。

「原爆をつくるよりも/田をつくれ/それとも/詩をつくれ//これが存在するものの一念だ/さきごろ咲き出した水仙も/そう言っていた/日ごろ無口な庭石も/そう言っていた//田にはくらしがある/詩にはいのちがある/しかし原爆には何もない/ただ限りなく/つまらないだけだ」

 東日本大震災を経験してからは、「原爆」も「原発」も同じ、「存在するものの一念」として「くらし」と「いのち」を守れ、という思いが強くなった。それがまた「非核平和都市宣言」をしたいわき市の精神にもかなうのだと。

 たびたびドクターの家にお邪魔した。シャプラニール=市民による海外協力の会の活動に理解を示し、哲学者内山節さんにも興味を抱いて多くの著作を読んだ。若い人間から学ぶこころを持っていた。
 
 ドクターが亡くなったあとは、奥さんからときどき、本や衣類を整理したからと、電話が入った。3・11前はバングラデシュの子どもたちのために、3・11後はプラス被災者・原発避難者のために換金・リサイクルを重ねた。

 ドクターの家の庭には秋になるとリンドウが咲き誇った。ドクターが亡くなったのは11月15日、「七五三」の日だ。それで、必ずその日にドクターを思い出し、リンドウを思い出すので、私は勝手にドクターの命日を「竜胆(りんどう)忌」と決めている。

「もう家を空ける」という去年の秋、カミサンが庭からリンドウを掘り取り、義伯父の家の庭に移植した。なかなか根づかないと聞いていたが、無事に「いのち」をつないだ。きのう(10月28日)は夏を思わせる暑さだった。さらにリンドウがほころんだことだろう。

 話は変わる。昨夜、「非核平和都市宣言」運動にもかかわった友人から電話が入った。平高専(現福島高専)寮で同じ部屋だったN君(元県会議員)が亡くなった、という。腹にメスを入れたことは本人から聞いていた。出会って52年。カミサン同士が親戚のため、姻戚関係になったことも重なって、多少複雑なつきあいをしてきた。今はただただ合掌。

2015年10月28日水曜日

高専寮

 きのう(10月27日)は満月だった。宵の6時、近所へ出かけると東の空に月が輝いていた。夜8時前、ハクチョウが鳴きながらわが家の上空を飛んで行った。そのあと、BSプレミアムで「宇宙兄弟」を見た。きょうの話と関係ないが、とりあえず月に引きつけられた夜だった、ということを――。
 朝日新聞の<プロメテウスの罠>は、「百姓飛行士」(阿武隈高地と元宇宙飛行士の話)から「僕たちの廃炉」(福島高専の学生とロボットの話)に変わった。阿武隈はわがふるさと、シイタケ原木の一大生産地だが、原発事故後はシイタケも原木も売れなくなった。福島高専(旧平高専)は、中退したもののわが母校だ。入学と同時に入寮した。同じ寮で暮らしている専攻科の学生が登場する。

 つい先日、カミサンが裏にある義弟の家の物置の中身をダンシャリした。ほぼ半世紀前の“遺物”が出てきた。「平高専磐陽寮」の寮誌「くずかご」=写真(茶色い部分は日焼け)、10~20代の日記、その他。見た瞬間に冷や汗が出た。

「くずかご」は昭和41(1966)年5月発行の3号をはじめ、4・6・8号のほか4冊。3・4号は1年先輩が編集局長、6・8号は私(3年生・18歳)、あとは後輩が責任者になっていた。女子の文章も載っている。男子寮のほかに、女子寮が独立した管理棟にあった。

 大学受験とは無縁の5年制、既存の制度でいえば高校・短大を合わせた工業系のカレッジ(現在はプラス2年の専攻科も)だ。昭和37年に創設されて5年目、まだ卒業生は出ていない。わら半紙にガリ切り――というのが、いかにも時代を感じさせる。それ以上に感じ入ったのは、隔月で「くずかご」を出していたことだ。その情熱はどこからきたのだろう。

 50年後にどんな人間になり、どんな暮らしをしているか――なんてことはもちろんわからない。しかし、50年たった今は逆に、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の気分で振り返ることができる。ただし、50年前にタイムスリップして、「もっと我慢して勉強する私」になってもなぁ……。

「くずかご」の寄稿者を見ると、今は大学教授、ある市の元市議会議長、大手子会社の元社長などがいる。同じ釜の飯を食った先輩には弁理士、高校教諭、医師、弁護士も。議論好きの人間が多かったから、書くことも苦にならない、自分たちの雑誌を出そう、となったにちがいない。福島県内をはじめ、県外から学生がやって来た。出身地を紹介する欄があったのはそのため。

 東日本大震災では、原発事故の影響で卒業式が中止され、入学式が延期された。学校ごと県外へ避難する案も議論されたという。きょうの<プロメテウスの罠>。「学校の調査では、全学生の1割に当たる約120人の自宅が警戒区域や計画避難区域とされ、津波や地震で自宅を失った学生も34人いた」(寮があってよかったと、元寮生はこのくだりを読みながら思った)

それから5年目。ロボコンで培った技術が廃炉作用に欠かせなくなった。「いちえふ」に最も近い高専としての重要性が増している。

2015年10月27日火曜日

マゴジャクシ

 夏井川渓谷の隠居へ出かけても、東日本大震災後は、対岸の森へはめったに足を運ばなくなった。おかげでもう一人の私「モリオ・メグル氏」の出番もほとんどない。キノコは生えるが採れない――ではつまらないではないか。
 日曜日(10月25日)。早朝の一斉清掃が終わり、行政区の保健委員(成り手がいないので区長が兼務)として、決められたごみ集積所を回り、出されたごみ袋の数を集計したあと、渓谷の隠居へ直行した。朝ご飯は隠居で食べた。

 カミサンは隠居の居間を夏座敷から冬座敷に替えた。快晴、強風。外にいると鼻水が垂れ、手がかじかんだ。首都圏では「木枯らし1号」が吹いたという。東京には「木枯らし1号」が吹いて、いわきには吹かないのか。こういう気象庁の「定義」がいわきの人間には理解できない。

 風に倒れた1本の三春ネギを、土を寄せて立て直すともうやることがない。カメラは2台。1台は望遠レンズ付き、もう1台はいつも持ち歩いているもの。いつもの1台だけだったら、モリオ・メグル氏も動き出さなかった。クリタケは決まって10月25日前後に採った――モリオ・メグル氏の記憶がよみがえり、首と肩からカメラを提げて森へ入った。
 
 モリオ・メグル氏が定点観測を始めて20年。対岸の森の中の道沿いだけでもチェックポイントがいくつかある。別に思い出そうとしないのに、森の中に入るとキノコを採取した場所と時期がぱっと思い浮かぶ。頭ではなく、体にしみこんだ記憶は消えることがない。
 
 第一のチェックポイント、「木守の滝」周辺。キノコは見当たらない。第二ポイントは小さな平坦地。木々が林立している。モミの大木が枯れて倒れていた。
 
 その根元にチョコレート色の傘を持ったキノコが3本。マンネンタケと思ったが、仲間のマゴジャクシだった。根っこから掘り取り、帰って計測すると、傘の長径は13センチ、柄の長さは28センチあった=写真(ひもから下は地中部)。
 
 それからさらに奥へ進む。モリオ・メグル氏の記憶に従って2~3、チェックポイントをのぞいた。谷側の大きな倒木(名前がわからないのがしゃくだが)にツキヨタケと思われるキノコがわんさと出ていた。急斜面を下りて確かめるほどの気持ちがわかないのは、毒キノコとわかっているから?
 
 その先へ少し行ったあと、Uターンした。ずっと奥まで行けるが、すでに晩秋で森は乾いている。キノコはたぶんない。
 
 つり橋付近まで戻ると、隠居の隣人がいた。キノコの話になった。「マツタケは1本、とろけかかったのを採っただけ」だという。8月中旬からの曇雨天がキノコの発生を促したが、終わりも早めたのだろう。
 
 マゴジャクシはそんな季節のなかで形成された“芸術品”だ。床の間か、テレビのわきに飾っておこう。

2015年10月26日月曜日

カツ刺しと冷凍バナナ

 きのう(10月25日)の日曜日夕方。いつもの魚屋さんへ行くと、バナナがあった。「また?」「そうです」。今回は6本だけ残っていた。先客がいた。刺し身のほかに、バナナも何本か買って行った。
 ほぼ1カ月前。魚屋さんの店頭に、バナナの入った段ボール箱があった。「なに、これ?」「売ってるんです」。魚類と青果が一緒の市場へ行ったら、「バナナを買ってくれ」と言われたそうだ。一房16本で300円だという。バナナは毎日食べているので、カミサンがすぐさま反応した。1本あたり20円弱。今度もそんなものだった。

 カツオがあればよし、なくてもよし。日曜日はとにかく刺し身――と決めて20年余になる。この1カ月はチリ津波や台風などでカツオ漁船が出漁できずに、サンマその他の刺し身が続いた。「きょうは?」「カツオがあります」。4本仕入れたが3本はダメ。残る1本の4分の1、一筋(ひとすじ)をさばいてもらう。「うまいですよ」というとおりに新鮮で舌が喜んだ。

 たまたま先客の話になった。ご主人が警察官という若い奥さんだった。平日はいつご主人が帰ってくるかわからない。わかっているのは日曜日だけ。で、日曜日は刺し身が多いのだそうだ。わが家と同じではないか。(料理を作らなくてすむ、という点でも、奥さんの精神安定剤になっている?)

 バナナはどうか。若い奥さんは幼いわが子の離乳食にでも使うらしい。わが家では、カミサンが刻んだバナナにヨーグルトをかけて食べる。魚屋の若だんなに教えられて、バナナの皮をむいて切ったものを冷凍=写真=して食べたこともある。今回は、「うちの親は解凍したバナナに牛乳を入れ、スムージーにしている」と教わった。いろいろ食べ方(飲み方)がある。

 干し柿を冷凍して正月に食べる家がある、という話を前に書いた。その延長で、庭の渋柿が熟して甘くなっている今、それを凍らせて食べたらどうだろう。凍っていれば、がぶりとやっても汁がこぼれない。「柿アイス」だ。今度試してみよう。

2015年10月25日日曜日

周縁と中心

 半年に一度は通る山里で、市役所がらみの会議があった。そこは中心市街地から二十数キロ離れたいわき市の三和町下永井地区。カミサンの同級生の実家がある。敷地内に同級生の叔母さんの家もある。ともに売り家だ。叔母さんの家の囲いに、前はなかった「売家」の看板が見える=写真。
 知人は首都圏に住む。うしろの山と畑付きで売りに出した。引き合いはあった。足を運ぶ人もいた。建物や自然環境は申し分ない。が、いまだに買い手はない。
 
 売ると決めた時点で家財のダンシャリが行われた。カミサンに声がかかった。個人の家や医療福祉施設にあると役立つものがある。リサイクルのために、知り合いに声をかけて何度か通った。わが家では洗濯機その他をもらい受けた。

 いわきはハマ・マチ・ヤマに分けられる。私は阿武隈高地の田村郡常葉町(現田村市常葉町)で生まれ育ち、いわきの平地で暮らしている。水源(ヤマ)で産湯を使い、下流(マチ)で子育てをした、というところだろうか。今は週末、その中間地帯、永井とは山をはさんで向かい合う夏井川渓谷の小集落で過ごす。
 
 夏井川流域でも上・中・下流で違いがある。隠居のある谷間の集落は、広域都市いわきを考えるうえでの、私の基本的なフィールドだ。

中心(マチ)から周縁(ヤマ・ハマ)は見えない。見えるのは、周縁が中心に影響を及ぼすとき、たとえば凶作や水害、不漁のときだけだ。東日本大震災のときがそうだった。今はまた、マチの人の意識からハマもヤマも遠ざかっているにちがいない。
 
 いわきの山間部、川前が合併前の「川前村」のままだったら、「三和村」のままだったら、「田人村」のままだったら――過疎化・高齢化対策に躍起になっているはずだ。隠居のある夏井川渓谷の小集落でも、子どもの姿が消えた。空き家が見られる。

 会議の前に、会場の元永井中学校周辺を車で巡ると、人の気配のない家があった。3・11で屋根のグシが壊れ、それを覆っていたシートがちぎれ、さらに割れた瓦がそのまま残っているのは、空き家の証拠だ。毛細血管の末端のような周縁では、まだ震災の始末がついていない家がある。

 ヤマへ出かけた翌日、つまりきのう(10月24日)の夕方、いわき駅前にあるラトブの総合図書館へ行くと、異常に駐車場が混雑していた。駐車スペースは空いているのに、出入りする車が数珠つなぎだった。

 急きょ、車の誘導に当たった警備員に聞くと、「(ラトブ)開業8周年なんです」という。ラトブは平成19(2007)年10月25日に開業した。つまり、きょう。ということは、個人的なことだが、前日の10月24日は、私の「退職8周年」の日だ。そういう人間の目から見た周縁の静けさと中心のにぎやかさだった。

2015年10月24日土曜日

NHKも「せどがろ」と

 きのう(10月23日)のNHK福島「はまなかあいづ」のなかで、キャスターの吾妻謙アナウンサーが夏井川渓谷と背戸峨廊(せどがろ=江田川渓谷)を探訪する番組が放送された。
 最初に夏井川渓谷の紅葉の様子を伝えた。わが隠居は画面の右外にあって映らなかったが、隣の「錦展望台」から対岸の紅葉を吾妻アナが紹介した。アカヤシオその他が色づいているという説明に、おっ、正確じゃないか――。カエデは一部が色づいた程度で、赤く燃えるのはあと半月ほどたってからだろう。NHK福島の紅葉情報(カエデ)も、当然、夏井川渓谷は青葉マークのままだ。

 吾妻アナはそのあと、夏井川の支流である江田川=背戸峨廊へ入る。東日本大震災後、「トッカケの滝」から先は立ち入りが禁止された。それが今年8月8日、解除された。と思ったら、9月の大雨で再び「トッカケの滝」までしか入渓できなくなった。

 渓谷入り口の駐車場そば、草野心平筆「背戸峨廊」の自然石柱のわきに吾妻アナが立つ=写真。さて、なんと言うか。「せとがろう」か、「せどがろ」か――試験官のような思いで注視したら、「せどがろ」だった。よし! 思わずガッツポーズをとる。「せとがろう」だったNHKが「せどがろ」に変わった。

 なぜ「せどがろ」であって「せとがろう」でないかは、9月20日付小欄「せどがろ」などを読んでもらえばわかる。山をはさんで東側を流れる川の名が「加路川」。その流域の住民が山の裏を流れている川なので、江田川を「背戸(うしろ)の加路川=セドガロ」と呼びならわしていた。それに、草野心平が漢字を当て、滝や淵に名をつけた。

 いわき市立草野心平記念文学館はもとより、市の観光部門が「せどがろ」と表記し、取材にもそう答えるようになったことが大きいようだ。

 活字メディアのなかには、ちゃんと「せどがろ」とルビを振るところも出てきた。あとは道路の案内表示。アルファベットが「Setogaro Gorge」になっている。「Sedogaro」に直してもらわないと。ついでにいえば、「せどがろ」は庶民の口承地名なのだから、「背戸峨廊」について「『背戸』は隠れたところ、『峨廊』は岩壁がそそりたったさま」とかいう言い方はやめた方がいい。

2015年10月23日金曜日

『いわき鳥類目録2015』

 日本野鳥の会いわき支部の川俣浩文支部長から、支部創立50周年を記念して発行した『いわき鳥類目録2015』=写真=の恵贈にあずかった。A4判、225ページ、フルカラー。いわき市内で撮影された鳥類246種と外来種6種が収録されている。
 画像と解説文のほか、①和名と目科名②観察地と留鳥・夏鳥・冬鳥・漂鳥・・旅鳥・迷鳥などの区分③漢字名と大きさ④確認記録(過去10年程度)⑤いわきで見られる時期――が載る。珍しい鳥、バーダーあこがれの鳥などは、生息地保全の観点から撮影場所を明らかにしていない。
 
 野鳥から始まり、野草・菌類へと興味・関心が広がり、いわきの自然を“丸かじり”しなくては――と思い定めて40年近く、気が向いたときだけ歩き回ってきた人間には、この目録は願ってもない「いわき鳥類図鑑」だ。
 
 専門家ではないから、勝手な素人基準でランク付けをしてみる。特A=撮影がきわめて困難、A=生息・飛来していた驚き、B=前に見たり、見たいと思ったりしていた鳥に写真で出合えた喜び・懐かしさ――。写真も一緒に紹介できればわかりやすいのだろうが、そうする技術がない(興味があれば、ネットで鳥の写真を検索してみてください)。
 
『目録』の収録順から、アオバト(A=留鳥)、ヤマシギ(特A=留鳥)、ハチクマ(B=夏鳥)、アオバズク(B=夏鳥)、アカショウビン(特A・A・B=夏鳥)、ブッポウソウ(特A・A・B=夏鳥)、ヤイロチョウ(特A・A・B=夏鳥)、ホシガラス(B=漂鳥)、ホシムクドリ(B=冬鳥)、ノゴマ(B=夏鳥)などに驚喜した。

 ほかに、台風や季節風などの、通常ではありえない要因でいわきまでやって来た迷鳥に、オオグンカンドリ、コグンカンドリ、シロハラクイナなどがいる。その一種、オウチュウを初めて知った。ヒヨドリ大で、全身が青みがかった黒色をしている。中国東部・台湾・東南アジア・インドなどに分布する。日本では数少ない旅鳥とあるが、それは西日本のことだろう。

 NHKの自然番組(BSプレミアム、NHKスペシャルなどを含む)は、人間と費用と時間をかけるからこそ見ごたえのある内容になる。が、『いわき鳥類目録2015』は、撮影のための支部員の努力と献身=何年にもわたる張り込み・空振り、その逆の僥倖・遭遇が繰り返されて初めて成った。仕事を終えたあとのフィールドワークには、ただただ頭が下がる。

 私よりは少し若い川俣さんとの、野鳥を通した付き合いも20~30年になるだろうか。今は、フィールドで数年に一度くらい顔を合わせるだけだが、彼の粘り強さにはいつも舌を巻く。

 ついでながら、『いわき鳥類目録2015』をいただいたとき、野田市で放鳥されたコウノトリの話をした。9月下旬、いわきに飛来したメスの「未来(みき)ちゃん」を2日間探し回ったという。写真を撮ることはできなかったが、さすがに情報をキャッチするのは早い。「末来ちゃん」は、今(10月20日現在)、兵庫県加西市付近にいる。

2015年10月22日木曜日

冷静と恐怖の境目

 きのう(10月21日)の午後3時4分ごろ、突然の地響きに足が止まった。海岸までもうすぐという夏井川下流左岸のある事業所で用をすませ、外へ出たばかりだった。
 戸外にいるとあまり揺れは感じない。が、はっきり地の底から鳴動が伝わってきた。海の方からやって来た。最初はキジの母衣(ほろ)うちのようにドドドド、やがて地面も建物もガタガタ揺れた。長く続くかもしれないと身構えたが、地震波は意外と早く街の方へ、山へと向かっていった。

 ――きのうは朝から動き回った。年度の後半・10月が始まり、行政と行政区がらみの小さな仕事がいくつか重なっていた。すべて「締め切り」がある。自分の用事をはさみながら、何件かをまとめて片付けることにした。

 街なかの信組で、区内のアパートを管理している不動産屋さんから振り込まれた区費を下ろしたあと、ある事業所を訪ねて区費協力金のお願いをした。その足で班長名と戸数、行政資料の配布必要数などを記した資料を市役所に届け、すぐ内郷の市保健所へ車を飛ばした。

 保健所に地区保健委員会の負担金を届けると、とんぼ返りで総合図書館へ。ピンポイントで『国見町史』をパラパラめくり、近世文芸関係の8ページをコピーしてから、予約時間に歯科医院で歯の治療を受けた。
 
 帰宅途中、夏井川の堤防(平・塩地内)に出てハクチョウの有無を確かめる。ダイサギたちに交じって2羽のコハクチョウが羽を休めていた。昼食をとり、一休みをしたあとは、区の会計さんと一緒に区内20事業所ほどを回って区費協力金のお願いをする。これがきのうのメーンの仕事だった。――
 
 冒頭の事業所はその一環で、区内にある事務所が改築中のため、間借り中の場所をネットで検索して訪ねたのだった。そこはアグリパークいわきという観光いちご園の一画。追尾型の太陽光発電システム=写真=を備えているので、前から興味を抱いていた場所だ。
 
 3・11のときには、自宅の茶の間にいた。当日のブログによると、午後2時46分ごろ、だんだん揺れが大きくなった。ただごとではない。庭に飛び出して車の屋根に手を置いた。車がぼんぼんとびはね、前後した。二本の足では立っていられなかった。

 揺れていたのは何分だろう。揺れが収まった時点で家に入ると本棚が倒れ、食器が落ちて割れ、テレビが倒れていた。2階の本箱はもっとすごかった。倒れて足の踏み場もなかった。

 ちょうど小学生の下校時間だった。低学年の女の子が隣の駐車場にぺたりと座り込んで泣いていた。石のかけらが頭にぶつかったという男の子がいた。歩道そば、民家の大谷石塀が崩れて歩道をふさいでいた。このかけらが頭に当たったのだという。間一髪、昭和53(1978)年の宮城県沖地震の二の舞にならずによかった、とそのときは安どしたのだが……。
 
 さて家に帰るとすぐ、カミサンが興奮した面持ちで状況を説明した。3・11のときには、いわきは震度6弱だった。大地が波打ち、裂けるかと思った。それに比べたら、きのうの震度4はかわいいものだ。モノが落ちることもなかった。

震度3までは「おや、地震」が、4になると「おっ、地震!」になる。「冷静と恐怖の境目」がこのへんにあるようだ。まだまだ余震は続く。

2015年10月21日水曜日

アンケートも同じ

 いわき地域学會の10月の市民講座(17日開催)は、地理学の大谷明幹事が担当した。「いわきの地誌――地域の地理的事象の過去・現在・未来を共に考えてみましょう」というテーマで話した=写真。
 講座のなかで受講者からアンケート(意識調査)をとった。地域学會では2016年秋、会員による総合調査の一環として『いわきの地誌』の発刊を予定している。そのなかに意識調査の結果を盛り込みたいということで、編集担当の大谷さんが調査を進めている。

 これまでの意識調査から浮き彫りになったことのひとつ――いわきは車がないと生活しにくい地域である。その車に関して、運転マナーの低さを指摘する転入者が多かったそうだ。たとえば、ウインカーは交差点を右左折する直前、ひどいのは曲がってから作動させる。私も含めて受講者は日々、同じことを目撃している。

 東日本大震災が起きる前の2011年1月5日付小欄で同趣旨のことを書いた。それを再掲する。
 
 ――先日、若い人間と酒を飲んだとき、「いわきは車の運転の荒さでは有名」という話になった。とっさに、40年前の“駆け出し記者”のころの話を思い出した。
 
 同年代の「同業他社」氏が福島からいわきにやって来た。仲良くなって、あれこれしゃべるうちに、「いわきの人間は、車の運転がおっかない。だから、青信号になってもすぐには発進しないようにしている」と言った。赤信号でも突っ込んでくる車がある、ということだろう。

 彼は転勤を重ねて、やがて同じ浜通りの北部で仕事をするようになった。ある日、わが家にやって来た。「いわきは車が多い。めまいするくらいだ」。<浜通りの北部はいわきより人口が少ない。車も少ない。いわきよりゆったりしているから、車の流れになじまないのだろう>と思った。

 そうではなかったのだ。単に、人口を反映した車の量の違いではなくて、いわき人の荒い運転の本質が神経を刺激していたのだ。

 若い人の話はこうだ。「『なにわ』と『いわき』の平仮名ナンバーは警戒される。運転が荒いから」。「なぜ、いわきの車は運転が荒いのか? ヤマ(炭鉱)とハマ(漁業)があったから」。別の「同業他社」の先輩が指摘していたのと同じ理由を述べる。

 とっくに人間は一世代、交代した。社会的なルール・マナーはその間に学習しただろうが、相変わらず車の運転は荒い。

「荒れた運転」はしかし、そこに暮らす人間にはわからない。それが当たり前だから。他地区の人の運転との違いを科学的に示すようなデータはないものか。――
 
 合図の遅い右左折、信号軽視だけではない。突然の割り込み、車線変更も目立つ。そう書いている私自身も「朱に交われば赤くなる」ところがないではない。信号が青になると、誰よりも早く発進したくなる。どうでもいいことに負けん気がはたらいたり、正義感が作用したりする。
 
 車の流れを阻害するような走りをしている車を追い越したら、覆面パトカーだった、ということもある。状況に応じて運転するのが基本だとしても、いわきの場合は状況に動じない運転も大事になる。怒らず、競わず、いらつかず――とりあえず、この三つを唱えて運転することだと、自分に言い聞かせているこのごろ。

2015年10月20日火曜日

大活字本

 遠近両用のメガネをかけているが、新聞や本はずっと裸眼で読んできた。ところが最近、いちだんと“花眼”度が進み、日によってはメガネなしでは新聞活字がぼやけるようになった。(こうしてお年寄りは新聞から離れるのかもしれない)
 いわき総合図書館に大活字本コーナーがある。図書館のホームページを開いて間宮林蔵関係の図書を検索したら、吉村昭の『間宮林蔵』(上・中・下)があった。この際、大活字本を読んでみるか――すぐ図書館へ出向いて借りてきた=写真。

 大活字本の『間宮林蔵』は講談社文庫を底本に、2012年、埼玉福祉会が上・中・下の3冊本として発行した。文字の大きさが5ミリ強、つまり16ポイント。1行31字、1ページ11行だ。なにかに似ている、なんだっけかな、そうだ、小学校低学年の教科書だ――。

 書籍は通常9~10ポイント、新聞は縦8.6ポイント・横10.8ポイントの扁平文字だ。普通の書籍は、新聞より早くメガネなしでは読むのが難しくなった。

 おっと、文字の大きさの話ではない。なぜ間宮林蔵か、吉村昭か、だ。吉村昭は徹底した資料の読み込みと現地取材による「事実」の構成に定評がある。そのうえ、歴史書では得られない人間の内面の描写にすぐれている。東日本大震災後、吸い寄せられるように『海の壁 三陸沿岸大津波』と『関東大震災』を読んだ。

 南の台湾は日清戦争、北の樺太(カラフト=現サハリン)の南半分は日露戦争の結果、日本の統治下に入った。それも1945年の敗戦で終わる。

 台湾へは同級生たちと二度行った。また行きたい、そんな気持ちがわく島だ。樺太では、同級生の父親がある村の村長をしていたという。この同級生にとって樺太は、自分が生まれたかもしれない幻の島だ。
 
 今年に入って三回、いわきで学生時代の仲間が集まり、旧交を温めた。そのとき、同級生と樺太に行こうか、という話になった。私の方は、野口雨情と宮沢賢治の足跡を追ってのことだ。
 
 それに、いわきから北海道へ渡り、地元の更科源蔵らと交流した詩人に猪狩満直がいる。彼らが発行した同人誌のひとつが「北緯五十度」だ。北緯50度は樺太の真ん中を横切る。そのラインがロシアと日本の国境になった。更科らにとってそこは「日本の極北」、その誇りを秘めて雑誌のタイトルにしたのだろうか。
 
 それらもろもろの思いが重なって、「間宮海峡」を発見し、樺太が島であることを確認した『間宮林蔵』を読み始めたのだった。(若いときに一度、林蔵の評伝や本人の口述筆記「東韃地方紀行」を読んだ記憶がある)

知り合いの作家乾浩さんの『北夷の海』(新人物往来社)も、図書館から借りた。林蔵と、ともに樺太を探検した松田伝十郎が主役の作品が収められている。こちらは普通の活字本だ。

2015年10月19日月曜日

いわき学検定

 土曜日(10月17日)、日曜日と、いわき市の中心市街地に音楽が鳴り響いた。10月恒例の「街なかコンサート」だ。駐車場は最寄りの市文化センターをはじめ、いずれも満パイ状態。土・日とも駐車場探しに苦労した。
 たまたま2日間、いわき地域学會の行事が続いた。土曜日。市文化センターで月例の市民講座を開いた。日曜日。市生涯学習プラザで「いわき学検定」=写真=を実施した。講座では、いわきをめぐる講師と受講者のやりとりが楽しかった。検定はその逆で、受験者とは距離を置いて“試験官”に徹した。

 いわき地域学會は、いわきを総合的に調査・研究することを目的にした個人参加の集団だ。いわゆる「地域学」「地元学」といわれる分野で、30年余前から活動している。いわきの歴史・考古・地理・民俗・自然その他でわからないことがあれば、その道の専門家である会員に聞く――現役のときも今も地域学會の“総合知”に助けられている。
 
「いわき学検定」は、地域学會の“総合知”をもとに企画・実施された。65人ほどから申し込みがあり、当日は約50人が90分・100問に挑戦した。

 狙いは「学ぶ・わかる・楽しむ」体験を通じて、「わがまち・いわき」の魅力を知り、まちづくりや観光に生かしてもらう――というところにある。1次試験を突破した人が「いわき学博士号」取得をめざして2次試験に挑む。
 
 結果的には「難問」が多かったようだ。ふるいにかけるのが目的の試験ではない。いわきの魅力を知る人を増やすのが狙いだから、できるだけ多く上位の成績者が2次試験に進めるようにした。
 
 2日間とも「音楽の海」を泳いで「学びの島」にたどりつく、といった感じだった。街なかコンには知人が何人か出演した。東京からやって来たグループもいる。聴きたい気持ちを抑えながら建物の中に入ると、音楽がやんで静寂に包まれた。ドアひとつで動が静に切り替わる不思議をかみしめた。

2015年10月18日日曜日

42年ぶりの盛岡

 42年ぶりの盛岡市は、いちだんと都市化していた。とはいえ、仙台市のように高層ビルが林立しているわけではない。見上げる空は広かった。
 もう1週間前になる。10月11日の日曜日に岩手県立美術館で「松田松雄展」を見たあと、松田夫人と娘の文さんの案内で盛岡市内を巡った。

 市の中央を北上川が流れ、街なかで中津川と雫石川が合流する。中津川は東の北上高地、雫石川は西の奥羽山脈に発する。その山並みの間に広がる盆地のまちが、宮沢賢治のいうイーハトーブはモリーオ市だ。

 雫石川を越えて県美へ行き、中津川に近い官庁街にある店で土産品を買い、裏が北上川の、賢治ゆかりの光原社を訪ねた(川の名前と位置関係は帰宅してから確認した)。観光客が次から次にやって来た。カネには縁のなかった石川啄木と賢治だが、土産品や書籍などを通して後世の人たちを養っている。賢治人気は40年前よりさらに高くなっているのではないか。

 光原社へは42年前にも行った。記憶はほとんど薄れていたが、隣家との境の白壁に賢治の言葉が書かれているのは覚えていた。店の前の通りが新しくなっていた。いわき市平の本町通り(一~三町目)同様、車がスピードを出せないよう、わざとジグザグになっている=写真。ただし、こちらは相互通行ができる。
 
 県美だかの情報ボックスに、第71回希望郷いわて国体冬季大会開始式一般観覧者募集チラシがあった。スケートは2016年1月27日、スキーは同2月20日に開始式が行われるという。42年前にも、岩手で冬季国体が行われた。それと、小岩井農場へ行ったとき、雪まつりの雪が足りなくて、自衛隊が出動して雪をかき集めていたような記憶がある。
 
 新婚旅行から42年たって、またまた岩手で冬季国体が開かれる。雪のない県をのぞいて冬の国体が国内を一巡したことになる。年をとるはずだ。

2015年10月17日土曜日

ハクチョウ飛来

 疑似孫の父親がきのう(10月16日)朝、自宅周辺を飛ぶハクチョウの写真をフェイスブックに投稿していた。猪苗代湖に飛来したのが10月3日。すぐいわき市まで南下するのではないかと期待したが、意外に時間がかかった。
 午後遅く、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。10月4日の日曜日はいわきサンシャインフェスタに参加し、次の日曜11日は盛岡市へ出かけた。隠居へは9月27日の日曜日以来、3週間近くいっていない。あす10月18日の日曜日も、いわき地域学會主催の「いわき学検定」がある。いくらなんでも間を空けすぎた。

 隠居の菜園に生ごみを埋め、三春ネギと辛み大根に追肥をしなければ。ついでに、ハクチョウの写真も――。いつものカメラのほかに、望遠レンズを装着したカメラを車に積んだ。

平地の小川町三島で道路が夏井川と並走する。3羽のコハクチョウが羽を休めていた=写真。マガモも一緒に飛来した。1時間後に通ると、コハクチョウは30羽前後に増えていた。その足でさらに2カ所を巡る。

 いわき市内にはハクチョウの越冬地が4カ所ほどある。南部の鮫川に1カ所、北部の夏井川に3カ所。夏井川は、上流から小川町三島、平中平窪、平塩に飛来する。中平窪は、上流の久太夫橋から見ただけだが、50羽超はいただろうか。塩は6羽だった。合計で100羽前後と、飛来初日にしては数が多い。

 過去のブログを見ると、いわきの夏井川には10月10~29日にハクチョウが飛来している。2012年以降は10月中旬の飛来が続く。姿を見せるのがやや早まっている感じだ。

 さて、いわきのメディアはどう報じるか。季節情報の一つとして初飛来を素早く伝えるのか、それとも連絡がないからとそのままにしておくのか。鳥のひなじゃあるまいし、自分から情報を取りに行かないでどうする――なんて、近年は「ハクチョウ飛来」と「メディアの感度」をセットで考えるようになった。

2015年10月16日金曜日

詩集『桜蛍』

 桜の季節に飛ぶから「桜蛍(さくらほたる)。「蛍は/深く重機の入った場所を探すように/ゆっくりと/海岸線を飛んでいるのだ」という。「復興が進んで/瓦礫(がれき)となっていた津波の跡は消えたが/海に残った悼みが/戻る家の目印までも消してしまった」。そのうえ「津波で行方不明者になった家が/あった辺り」の土中からも、蛍の羽ばたく音が聞こえる――。
 現実に「桜蛍」というホタルがいるわけではない。が、津波で亡くなった人、行方不明のままの人の魂が帰る場所を失った。「桜蛍」はその表象だろう。海岸堤防がかさ上げされ、そばに砂丘のような防災緑地が建設されている。消えた集落の背後にあった小山は削られ、住宅地になる。ふるさとは生きている人間にさえ「見知らぬ土地」のように変貌した。
 
 木村孝夫さん=平=から詩集『桜蛍』(コールサック社、2015年)の恵贈にあずかった。詩集のタイトルと同じ作品を読んで、以上のようなことをまず思った。
 
 木村さんとは、シャプラニール=市民による海外協力の会が運営する交流スペース「ぶらっと」で知り合った。2013年には詩集『ふくしまという名の舟にのって』(竹林館)を出し、翌2014年には福島県文学賞詩の部で正賞を受賞した。『桜蛍』は『ふくしまという名の舟にのって』と「兄弟詩集」だという。

 前詩集のあとがきにこうある。「奉仕活動を通して傾聴した被災者の方々の気持ちや、毎日のようにニュースになっている原発事故の収束状況などを下地として、作品を書き上げている。今も原発周辺はそのままだ。汚染水問題もあって刻々と状況が変化している。作品はその状況の変化を、心の状況と照らし合わせながら書いている」

 それから2年がたった。「この詩集は、できるだけ避難者の内面的なものを描くという目的を持って書いています。どこまで避難者に寄り添い、その思いに触れ、描き切れたのかは分かりませんが、書きながら、何回も被災場所に行ったり来たりしながら、また奉仕活動を通して多くの避難者の声を聴きました」(『桜蛍』あとがき)

 追い求めるテーマは重い。が、木村さんは重いままには書かない。利休百首に「点前には強みばかりを思ふなよ強きは弱く軽く重かれ」がある。現役のころ、コラムもそうありたいと思ってきた。重いものは軽く、軽いものは重く――そういう詩があってもいい。

 たとえば、辻征夫(1939~2000年)の「婚約」という短詩。「鼻と鼻が/こんなに近くにあって/(こうなるともう/しあわせなんてものじゃないんだなあ)/きみの吐く息をわたしが吸い/私の吐く息をきみが/吸っていたら/わたしたち/とおからず/死んでしまうのじゃないだろうか/さわやかな五月の/窓辺で/酸素欠乏症で」

 木村さんの詩にも似た<軽み>がある。たとえば、「背負う」。砂浜に来ると誰かを背負っているような感覚になる。少年の自分かもしれない。「寂しくなったら/ここに来てよ/またおぶってやるからね」。でも「叔父さんの背中は丸いから/夕陽がよく/すべり落ちるんだよ」。こういう比喩が好きだ。

「横になると牛になる」も、悲しいユーモアに包まれている。原発事故がもたらした事象のひとつに「野生化した牛」がある。それをテレビが伝える。

「テレビのこちら側では/食べてすぐ横になろうとするのを/我慢している/肥えて出荷できない/もう一匹の牛がいるのだ」「食べてすぐ横になると牛になる/その話をしたら/仮設住宅の人が笑っていた//そうなったら仮設住宅の中は/牛だらけだと」。ニュースにはならない、いや報じきれない避難者の内面が透けて見える。詩の力だ。

2015年10月15日木曜日

岩手の新聞と福島の新聞

 東日本大震災から4年7カ月の10月11日。盛岡市の岩手県立美術館へ「松田松雄展」を見に行った。その帰り、東北新幹線盛岡駅で駅弁と同日付の岩手日報=写真=を買った。
 昼食は美術館のレストランでとった。松田松雄は陸前高田市の出身。岩手の海の幸と山の幸を組み合わせた「松田松雄展スペシャルメニュー」もあったが、残しそうなので普通のランチにした。

 駅の待合室で岩手日報に目を通した。おや、原発事故関連の記事がない――。帰宅してから同じ日の福島民報を開き、「原発事故」とそれに伴う「避難指示解除準備区域」「風評被害」といった語句が含まれている記事を数えてみた。

 一般記事、連日掲載の「ふくしまは負けない 明日へ」1ページ、特集「3・11から4年7カ月」1ページ、ほかに放射線量データ・記事、投書・読者文芸(短歌)なども加えると、記事数は30本前後になる。一般記事の場合はあらかた「東日本大震災と東京電力福島第一原発事故」と連記される。
 
 これに対して、岩手日報は2本。1面コラム「風土計」が、南相馬市から「原発事故」で故郷の一関市へUターンした人を取り上げ、オピニオン欄で宗教者が「原発ごみ」の処分場と北上高地の関係について注意を喚起する文章を寄稿していた。3・11関係の記事には「東日本大震災」とあるだけだった。

 地域のメディアは地域とは「運命共同体」の関係にある。メディアは当然、地域の課題と向き合わざるを得ない。県紙レベルでいえば、沖縄は米軍基地、長崎・広島は原爆、熊本は水俣病、福島は原発事故。福島と岩手のメディアを比較すると、岩手では放射性物質は日常の思考の外側にあるようだ。その証拠に、盛岡駅ビルでは通路で野生キノコが販売されていた。

 福島県では会津地方の一部をのぞき、野生キノコは出荷が制限されている(いわき市などは摂取も)。1分間ほど野生キノコの前に立っていたが、ナマはかさばるので断念し、代わりに水煮のキノコを一袋買った。なぜだか悔しい思いがこみ上げてきた。

2015年10月14日水曜日

松田松雄の回顧展(下)

 盛岡市の岩手県立美術館は2001年に開館した。いわき市立美術館(1984年開館)より後発だが、市町村を超える県レベルの施設だけに規模はいわき市美より大きい。
 企画展示室で開催中の松田松雄展を見たあと、2階の常設展示室をのぞいた。10月10日に今年度の3期目の常設展が始まったばかりだ。常設展は3つの会場に分かれている。常設展示室、萬鐵五郎展示室、松本竣介・舟越保武展示室を回った。舟越の彫刻に心が洗われた。

 あとは図録を買って、タクシーで盛岡市内へ――。ミュージアムショップに寄り、図録を手にしてカミサンの買い物を待っていると、おおっ、松田夫人と娘の文さんがショップに入って来た。ブログに書き、文さんにフェイスブックで展観する日を伝えていた。どこにいるか見当をつけてやって来たのだろう。

 図録は買わないでという。娘の文さんから携えてきた図録をいただく。ショップへの売り上げ協力はその分減ったが、カミサンがいろいろ買い込んだ。そのあと外へ出て、入り口付近の看板の前で記念写真を撮った=写真。

 いわきの草野美術ホールで出会い、結婚して子どもができると、同じ幼稚園に子どもを通わせた。松田がなくなるまで濃淡はあったが、途切れることなくつきあいが続いた。それもあって、奥さん同士は記念撮影をしてバイバイ、というわけにはいかない。

 盛岡県美は広大な盛岡中央公園のなかにある。館内のレストランに入り、窓際のテーブルで私ら夫婦は昼食をとりながら、時折、犬を連れて散歩する人を眺めては積もる話を続けた。
 
 そのうち文さんが「あっ」といい、つられて外を見ると、いわきの歯科医氏と美術家の奥さんが歩いている。4人が手を振ると奥さんが気づいた。レストランに入ってきて「やあやあ」となったが、タクシーを呼んでいるとのこと。あいさつをしてすぐ別れた。
 
 イーハトーブはモリーオの美術館で、イワキランドからばらばらにやって来た3家族が顔を合わせる偶然――もちろん、それを用意したのは松田松雄だ。

 食事をすませたあと、私ら夫婦は夫人の運転、文さんのナビで盛岡市内へ戻った。42年前、新婚旅行で訪れた光原社や土産品店などへ案内してくれた。盛岡駅にも送ってもらった。タクシーを止めたり、道を尋ねたりするわずらわしさもなく、母娘にまかせっきりの、モリーオ滞在6時間の楽しい旅だった。

2015年10月13日火曜日

松田松雄の回顧展(上)

 岩手県立美術館で10月3日から11月29日まで、松田松雄(1937~2001年)の回顧展が開かれている。
 広い企画展示室の入り口から出口へと、松田の作品の変遷がわかるように空間が構成された。展示作品は90点。私が松田を知ったのは昭和46(1971)年で、回顧展にはそれ以前の作品も何点か展示された。
 
 会場に入るとすぐ左に、昭和43年制作の最初期の作品「風景『人』」=写真(図録から)=がある。今回初めて見た。筆遣いは素人っぽい。絵を描く喜びと不安が交錯しているように感じられて、<ここから始まったのか、彼は>とほほえましくなった。
 
 図録の表紙に使われた「風景(山)」も、今回初めて見た。女性の乳房(と私はみてしまう)を見事に造形化している。ユーモラスなものさえ感じられた。
 
 松田と出会い、突然の病気と療養、そして死を迎えるまでの28年余。さらに、今度の回顧展。私のなかでは、松田への認識は変わらない。いや、回顧展を見てかえって深まった、といおうか。昭和57(1982)年、彼が45歳のとき、個展の図録に小論を書いた。自分とは何かという人間存在への根源的な問い、早くに亡くなった母への思いとそれを根底にした母性への畏敬――。

「作品は変貌しても生と死の黙示劇的構造に変わりはない、と私には見える。それは彼が技術を売り物にする画家とは異なり、精神の飢餓のようなものに突き動かされて絵を描き続けるタイプであるからだろう。人間の悲しい闇の部分を提示しながらも、そこに祈りのような聖性が漂っているのはそのためで、これはきっと彼が見た地獄の深さに私達が慰撫されていることを意味する」

 東日本を大津波が襲い、中近東で空爆やテロが発生するたびに、なぜか松田の家族像や群像の作品が思い浮かぶ。いや、凄惨な時代だからこそ、松田の絵が必要とされている。そう思えるほどに、彼の作品は普遍性を内在させている。

 そのことと関係するのかどうか、私には広い企画展示室が、いのちが生まれ育つ原点としての「子宮」のように思われた。松田が無意識的であれ意識的であれ、絵にし、文章にしてきたものの根底には「母性への回帰」がある。具象から抽象へ、意味から記号へと表現のかたちが変わっても、彼のなかにある「存在と聖性」は一貫していた。

2015年10月12日月曜日

初めての東北新幹線

 日帰りで盛岡市へ行ってきた。お目当ては岩手県立美術館で開催中の「松田松雄展」。いわき~郡山は高速バス、郡山~盛岡は東北新幹線を利用した=写真。
 東北新幹線は初めてだ。郡山には止まらない「はやぶさ」という“弾丸列車”がある。行きは郡山発午前10時7分の「やまびこ43号」、帰りは盛岡発午後5時54分の「やまびこ54号」に乗った。いずれも盛岡止まり・盛岡発だ。日帰り、郡山と盛岡から乗り換えなしで――となると、「やまびこ」のこの2本しかない。

 郡山―盛岡間は実キロで255.6キロ。ここを最高時速275キロ(「はやぶさ」は320キロ)で疾走する。下りは2時間、上りは少し早くて1時間52分で行き来する。上下の列車がすれ違うと、ゴーッという音とともに車体が小刻みに揺れる。灰色の雲が広がる雨模様、ときどき雨のため、車窓から西側の山並みはほとんど見えなかった。
 
 帰りは、前の列車が遅れた影響で8分遅れの発車になった。8分遅れは痛い。「やまびこ54号」が遅れたまま郡山へ着くと、午後7時54分になる。高速バスは郡山駅前発7時55分だ。ホームから降りて駅を出た瞬間、バスが動きす、次のバスまでほぼ1時間待ち、ということになりかねない。何度もケータイを出して、時刻を確かめては気をもんだ。

 遅れた理由がよくわからない。新幹線のホームのアナウンスに、カミサンが首をひねった。「シカと衝突したために遅れた、と言ってたよね」と同意を求める。確かに「……シカ」と聞こえた。

 帰宅してからネットで検索すると、夕方、山形新幹線で「つばさ」がカモシカをはねる事故が起きた。同新幹線は福島で東北新幹線と合流する。その影響で遅れたのだろう。「シカ」は「カモシカ」だった。秋田新幹線でクマがはねられた、山形新幹線では前にもカモシカが……といった具合に、東北地方の新幹線では野生動物との衝突事故がときど起こるらしい。

 それはともかく、長距離移動の場合、途中なにかあって乗り継ぎがうまくいかなくなったら……と、先走って考えてしまうことがある。今回もそうだった。高速バスが何かの事故にまきこまれて身動きがとれなかったら、新幹線の切符がパーになる。貧乏性の悪い癖だ。

 ときどき、せっかちにもなる。朝6時半に家を出たあと、コンビニへ寄ってお茶を買いながら、もしかしたら予定のバスより前のバスに乗れるかもしれない――。パーク・アンド・ライドの始発停留所へ急ぐと、そのバスが止まっていた。が、駐車場に入ったところで無情にも出発した。30秒の遅れだった。

「車を見たのだから、待ってくれてもいいのに」。カミサンはぶつくさいうが、情で遅らせたらバスの運行システムがおかしくなる。新幹線はなおさらだ。多くの列車が高速、広範囲に動いているシステムでは、1本が遅れただけで連鎖的に影響が及ぶ。それを限定的に抑え、やがて復旧するのもまた、このシステムのすごいところ。
 
 帰りも「バスが目の前で発車」となりかねなかったところを、「やまびこ54号」が馬力をかけて、郡山着は2分遅れですんだ。気持ちだけ早足になって駅を出ると、バスはまだ来ていなかった。

2015年10月11日日曜日

五郎丸ポーズ

 ラグビーのワールドカップがイギリスで開かれている。日本は強豪・南アフリカに勝ち、「大金星」「歴史的勝利」とマスメディアを興奮させた。にわかに日本チームが脚光を浴びた。個々の選手にも光が当てられた。なかでもあのポーズ、五郎丸歩選手のキックにはラグビーを知らない人間も目を丸くした。
 日本が南アに勝って間もないシルバーウイーク最終日、長男一家が遊びに来た。小2と年長組の孫がジイ・バアと遊んでいるうちに、上の子が「五郎丸ポーズ」をとった=写真。ひざをそろえ、中腰になり、印を結ぶような姿勢をとる。父親が高校時代、ラグビー部に所属していた。一緒にテレビを見て覚えたのだろう。私もテレビのワイドショーで彼の「ルーティン」を知った。

 孫のポーズはもちろん、五郎丸選手のようにはいかない。どうしても5、6歳ごろにやった「カンチョウポーズ」になる。しかし、8歳の子が五郎丸選手をまねるくらいだから、ラグビーのナショナルチームはメディアを介して日本列島に強烈な印象を残した。

 南アに勝ったあと、スコットランドに負け、サモアに勝った。南アに勝っただけですごいのに、サモアにも勝って力が本物であることを証明した。イギリス時間10月11日午後8時(日本時間12日午前4時)からアメリカと対戦する。スコットランドがサモアに辛勝したため、ベスト8には入れなかったが、予選プールで2勝し、3勝目もありうるのはすごいことだ。

 さて、きのうは10月10日。きょうは東日本大震災から4年7カ月の節目の日。けさはこれから、日帰りで「松田松雄展」を見に盛岡へ出かける。郡山から新幹線に乗る。

 イベントや大災害の「月命日」に意識が引っ張られていたが、10月10日は旧「体育の日」、父親の誕生日で命日だった。父親が73歳で死んだとき、孫である私の子は15歳と13歳。私が73歳のとき、長男の子、つまり孫は14歳と12歳か。「五郎丸ポーズ」が祈りのポーズにみえてきた、なんていうのはうそだが、人の生き死に、登・退場は振り返れば速い。

2015年10月10日土曜日

ビルの窓ふき

 9月末のことだった。いわき駅前のラトブへ行ったら、屋上から垂らしたロープに支えられて作業員が窓ふきをしていた=写真。
 風はなかったが、ふく窓の位置を変えるたびに体が左右に振れる。“空中遊泳”を歩道から見上げているうちに、超高層ビル建設現場でアルバイトをしていた若いころのことを思い出した。

 昭和43(1968)年、日本初の36階建て超高層ビル「霞ケ関ビル」(地上高147メートル)が完成した。その3年後、47階建ての「京王プラザホテル」本館(同178メートル)が開業する。そのどちらでも建設中にバイトをした。

 当時、若者の手っ取り早いバイトのひとつが「土方」だった。肉体労働だ。でも、超高層ビルの建設現場では、タワークレーンが鉄骨を吊り上げ、次々に階数を増していく。何の技術も持たない若者の仕事は、主にコンクリートのガラや残材の片付けなどだ。私は途中から、現場監督や作業員が昇降するための仮設エレベーターの運転を担当した。

 霞ヶ関ビルでは、建物が完成したあともしばらく本設エレベーターのボタン押しをした。エレベーターボーイだ。

 超高層ビルの窓ふきはさすがにロープを垂らして、というわけにはいかない。屋上に窓ふき用のゴンドラとそれを移動させるためのレールが設置されていた。屋上から専門職の乗ったゴンドラが窓に密着するように降りてくる。見ているだけでも胃がキュッとなった。

 若いときのバイトの名残か、エレベーターに乗るとすぐボタンの前に立つ。気分はエレベーターボーイだ。ラトブの場合は利用階のボタンがエレベーターの側面にも付いている。混んでいるときは「○階、お願いします」と頼まれる。客の乗り降りが多いと開ボタンを押し続け、様子を見て閉ボタンを押す。

 それでも動き出す瞬間、決まって「重力」を意識する。ビルの窓ふきを見てもそうだ。自分であれ、他人であれ空中に浮遊していることがなんとなく落ち着かない。絶えずそうなのは高所恐怖症だからか。

2015年10月9日金曜日

中之作「津波の碑」

 小名浜港アクアマリンパークで「いわきサンシャインフェスタ2015」が開かれたときのこと。港の「さんかく倉庫」を再活用した小名浜美食ホテル・潮目交流館の内陸側出入り口の前の、何かの設備の囲いにこんな表示のあるのが目に留まった。「2011.3.11/東日本大震災/津波浸水深ここまで▼」
 そうだよな、こういう表示がないと津波のことを忘れてしまっているよな――と思いつつ、四倉の国道6号の「津波標識」と、中之作港の「津波の碑」=写真=を思い浮かべた。

 2013年3月下旬、「道の駅よつくら港」手前の国道6号沿いに新しい標識が立った。「東日本大震災/津波浸水区間/ここから」とあった。「津波浸水区間起終点標識」というらしい。「津波標識」を見ると、いやでも3・11を思い出す。

「津波の碑」は中之作・折戸モニュメント建設委員会が市の補助を受けて中之作港の一画に建てた。碑のそばに「来襲した津波の高さ5メートル」を示すポールが立つ。被災からちょうど4年の今年(2015年)3月11日に除幕された。中之作は幸い犠牲者がいなかった。それを踏まえた碑文の一部――。

「昭和四十(一九六五)年頃の中之作港は漁業の全盛期であり、地元漁船は百隻を数え、県下有数の水揚げを誇っていた。(略)街は潤い、にぎわっていた。それが、このたびの災害により状況は一変し、漁業組合、中之作港漁民センター、海産加工地帯、冷蔵庫団地地帯、ことごとく崩壊。街中は金融機関をはじめ、商店街、人家数十軒が倒壊した」

「しかしながら当地区は、日頃から避難訓練を行っていたため、これだけの大災害にもかかわらず、一人の死者も出さずに済んだことを誇りとする。(略)なお、この石碑脇にあるポールの高さは、来襲した津波の高さ(約五メートル)であることを留め置く」

 中之作は海食崖に囲まれた漁港で、古くは商港として栄えた。『新しいいわきの歴史』(いわき地域学會)によると、江戸時代、西国・徳島の斎田塩は銚子・那珂湊経由で中之作に荷揚げされた。中之作は福島県の中通りとハマを結ぶ「塩の道」の出発点でもあった。

 ハマでは、禍福は海からやってくる。災いの記憶はいずれ薄れて消える。それを「見える化」したのが津波標識や表示・記念碑だ。あさって(10月11日)、3・11から4年7カ月。

2015年10月8日木曜日

思いは北へ

 日本の東方沖を超大型の台風23号が北上している。きょう(10月8日)、いわき地方はその影響で西の風が吹き荒れるとか。朝6時半現在、風は冷たく、茶の間のガラス戸が時折、ガタン、ガタンと鳴っている。
 きのうは北風だった。雲のかたまりが目に見える速さで北から南へと移動していた。きのうに続いてきょうも体感温度が下がりそうだ。

 きょうは「燃やすごみ」の収集日。きのうは「燃やさないごみ」と「容器包装プラスチック」の収集日だった。「燃やすごみ」の日はカラス除け、「容器包装プラスチック」の日は風が強ければ飛散防止のためにネットをかぶせる。きのう、そのネットへのごみ袋の入れ方が悪かったのか、3~4個吹き飛ばされていた。車で出かけるところだったが、拾い集めてネットに戻した。

 いわき駅のびゅうプラザで東北新幹線の切符(郡山―盛岡)を買った。窓口に並んでいると、古巣のトップが券売機でサッサッとやり、「こっちでも買えるよ」と一声かけて外へ消えた。券売機を利用するのは在来線の一駅ないし二駅区間くらいと思っているアナログ人間は、こういうときには一歩も二歩も遅れをとる。

 それでも我慢して並んでいると、別のところから現れた駅員氏がどうぞと券売機へ誘導した。言われるままに指タッチを繰り返す。往復料金を払う段になって1万円札を5枚入れたら、切符とおつりが出てきた。拍子抜けするほど簡単だ。待たないですむ。

 北風の吹き荒れる中、北への往復切符を買ったあと、もしや夏井川に北からハクチョウが飛来していないかと、夏井川の堤防を利用して帰った。毎年、新川との合流部でハクチョウが越冬する。そこに1羽、白い大型の鳥がいた。急いで車を止め、写真を撮って拡大すると……。ハクチョウではなく、首を低くして水中の魚を狙っているダイサギだった。くちばしが黄色いのでわかった。

 その下流1キロ強のところに夏井川鮭増殖漁業組合の簗(やな)が設けられた=写真。セイタカアワダチソウも黄色い花を咲かせ始めた。サケの溯上(そじょう)が始まったようだ。

 組合が採捕し、人工採卵をして育て、年が明けて放流した稚魚が北の海へ渡って成長し、3~5年後に帰って来る。ということは、震災後放流された稚魚が成長して戻り始めていることになる。

 このところずっと北緯50度がらみの本を読んでいる。野口雨情が訪ね、宮沢賢治が妹の死後に訪れたカラフト(サハリン)を、もしかしたら来年(2016年)、同級生と訪ねる。還暦を機に始めた“海外修学旅行”の5回目だ。

 おとといあたりから座卓代わりだったこたつにスイッチを入れた。カバーはまだかけない。10月前半、寒さをうんぬんする時期ではないが、今年はちょっと冷えが早いようだ。盛岡、ハクチョウ、北緯50度、そしてサケ。「銀河鉄道の夜」が生まれた北の世界へと思いはふくらむ。

2015年10月7日水曜日

草野健遺稿集

 2年前(2013年)の9月20日、元草野美術ホールオーナー草野健さんが亡くなった。享年95。3回忌に合わせて『ホラ吹き10年 草野健遺稿集』が刊行された=写真。息子のカズマロ君がおととい(10月5日)、わが家へ持参した。なかに本人の“生前弔辞”が載っている。〈あとがきに代えて(本物の弔辞)〉には、私を含む3人の弔辞が収められた。
“生前弔辞”の一部。「あなたは運のよい人でした。/戦争中は、生死の間を彷徨(さまよ)うような危険にいくたびか遭遇しながらも、その都度生きて帰り、仲間を驚かせました。/(略)子育てと商売下手なあなたは五十才のとき、六十五年も続いたコンニャク屋を廃業してしまいました。(略)あなたは、新たに建てたビルの三階に、美術展の会場を作りました」

 そこから草野さん、いや「おっちゃん」と若い美術家たちとの交流が始まり、現代美術を主として収集するいわき市立美術館の設立へとつながる。駆け出し記者だった私もその渦の中で鍛えられた。下仲人までしてもらった。

“生前弔辞”の続き。「この会場はいつのまにか、老若男女のたまり場となり、あなたはホールの『おっちゃん』とよばれましたね。/これも当地に美術館ができたので、役目が終えたとばかりに、あっさりとホールを閉鎖してしまいました」

 ホール時代、いや若いときから創意・工夫の人だったらしい。後ろではなく前から作品を出し入れする額縁や、段差でも安定している車いすを発明して特許を取った。絵を描き、尺八を習い、杖道に汗を流し、パソコンをいじり、文章を書いた。社交ダンスや英会話に挑戦した。八十何歳かで通信制の高校にも入学した。

「あと何年生きるかよりも、生きている間何を為したかの問いに応えむ」をモットーにしていた人らしく、知的好奇心に裏打ちされた生涯学習の後半生だった。遺稿集にはその軌跡がつづられている。家族、とりわけ少し早く亡くなった妻への感謝の気持ちも。

 昭和54(1979)年、草野美術ホールの仲間の一人だった画家の故松田松雄(1937~2001年)が、いわき民報に私小説的美術論「四角との対話」を連載した。それを、娘の文さんが36年ぶりに書籍化した。頼まれて私があとがきを書いた。ほぼ時を同じくして2人の本が世に出た。

 カズマロ君にそのことを話すと、驚いていた。文さんから『四角との対話』が2冊届いたので、1冊をおっちゃんの霊前にと進呈した。『ホラ吹き十年 草野健遺稿集』は、直接、松田家に届けるということだった。
 
 松田松雄の、生まれ故郷での回顧展が10月3日から11月29日まで、岩手県立美術館(盛岡市)で開かれている。きょう(10月7日)は、郡山―盛岡間の東北新幹線の切符を買いに行くとするか。

2015年10月6日火曜日

コウノトリは山梨へ

 千葉県野田市で放鳥されたコウノトリ3羽のうち、1羽がいわき市へ現れた。と思ったら、もう山梨県上野原市へ移動した。
 3羽にはGPS(衛星利用測位システム)の発信器が装着されている。9月22日にいわきで撮影されたメスの「未来(みき)ちゃん」の写真がフェイスブックにアップされた。いわきの「鳥見人(トリミニスト)」にとって、コウノトリ飛来は大事件だ。

 野田市のホームページで移動経路を確認した。7月23日、放鳥。そのあと、足利市(群馬県)付近で過ごし、8月10日現在で猪苗代湖北部(福島県)に。翌11日現在で白石市(宮城県)にいて、名取市を経て月遅れ盆から1カ月余は仙台市付近にとどまっていた。9月24日~10月2日現在ではいわき市に滞留し、きのう(10月5日)現在では上野原市にいる。
 
「未来ちゃん」が撮影された場所は、夏井川下流のわが家の対岸、平・菅波地区だ。10月3、4日と、小名浜港アクアマリンパークへ往復した。車にはいつも使っているカメラのほかに、望遠レンズ付きのカメラを積んだ。途中、電柱や高木の先端を気にしながら車を走らせた。

 江戸時代、徳川吉宗の治下、享保・元文期に全国で生物相調査が行われた。博物学者の丹羽正伯(1691~1756年)が企画し、幕府が諸藩に通達した。今風にいえば、大正9(1920)年に初めて行われた国勢調査より200年、現在よりは300年近く前に初めて日本列島の「いきもの国勢調査」が行われた、というところだろう。

 昭和62(1987)年、安田健『江戸諸国産物帳――丹羽正伯の人と仕事』(晶文社)が発行された=写真。翌年1月には、産物帳を基本文献に、環境庁(現環境省)が江戸時代の「全国鳥獣分布図」をまとめ、発表した。記事の切り抜きが安田本にはさまっていた。コウノトリ飛来に刺激されて、本と切り抜きを読み返した。

 明治以後、絶滅したいきものにオオカミやカワウソ、トキなどがいる。ところが、江戸時代はまだまだ生物相が豊かだった。

 トキは古くから蝦夷(北海道)、陸奥・出羽(東北)といった東北日本に多かった。コウノトリは全国に生息し、カワウソは蝦夷・佐渡・伊豆七島などを除いてほぼ全国に、同じくオオカミも島々を除く本土に生息していた。

 福島県内の産物帳としては、阿武隈高地の三春藩領「草木鳥獣諸色集書」が残っている。それによると、領内にトキやカワウソがいた。むろん、オオカミも。磐城平藩その他も同様だとしたら、放鳥コウノトリとはいえ、いわきの空に100年ぶり、200年ぶり、という時間単位で大型鳥が姿を見せたことにならないか。

 20世紀は環境破壊の世紀だった。21世紀は環境回復の世紀にしないといけない――大きな流れでいえばそうなる。トキやコウノトリがいるマチになれば、少しは自然環境が回復した証しになる。その意味では、「未来ちゃん」にずっととどまってほしかったのだが(写真を撮りたかった)。

 上野原市をグーグルアースで見たら、神奈川県の北西端、相模原市藤野町に隣接していた。藤野には自然に囲まれた中で持続可能なライフスタイルを模索しているコミュニティ(トランジション藤野)がある。震災後知り合ったご夫妻が少し前、そこへ移住した。Nさん、見上げる空に放鳥コウノトリが飛んでいるかもしれませんよ。

2015年10月5日月曜日

いわきサンシャインフェスタ

 日曜日(10月4日)の夜が明けると、テレビと一部新聞が報じていた。ラグビーのワールドカップで日本がサモアに勝った。この日、小名浜港アクアマリンパークでいわきサンシャインフェスタ2015の2日目(最終日)が開かれた。サモアには悪いが、日本チームを誇らしく思いながら出かけた。
 フェスタは太平洋諸国舞踊祭やいわき大物産展、いわき産農産物収穫祭、いわき地球市民フェスティバルなどの、同時・同場所での開催というかたちがとられた。地球市民フェスティバルに毎年、シャプラニールいわき連絡会として参加している。初日はパネル展示だけだったが、日曜日はカミサンがシャプラのフェアトレード商品を販売した。

 荷物と手伝いを含む人間を運んだあとはやることがない。会場をぶらぶらしたり、車に戻って昼寝をしたり……。

 舞踊祭では、スパリゾートハワイアンズのフラガールがオープニングを飾った。太平洋諸国の踊りは、なんとサモアからのスタートだ。

 関東圏に住む在日サモア人が出演した。舞踊祭の実行委員長を務める後輩の話だと、いわきのホテルに泊まり、テレビで試合を観戦した。母国の敗戦に出演を辞退して帰ってしまうのではないかと思うくらいに落胆した。

 サモアの駐日大使は女性。「大使から連絡がきて一緒にテレビ観戦をしないかといわれたが、別の用事があって行けなかった。テレビ取材が入ったらしい」。そのひとつが、日曜日夜の「Mr.サンデー」だった。大使と在日サモア人の一喜一憂が放映された。ある全国紙もきょう(10月5日)の福島版でいわきでの大使らの様子を伝えた。

 舞踊祭の観客のおおかたは、数時間前に日本がサモアに勝ったことを知っていた。出演ダンサーもそれを前提にして、踊りの合間にグチをこぼしたり、横になって泣くしぐさをしたりした=写真。「でも日本が好きです」。いちだんと拍手がわいた。日本人の慎ましさとサモア人の率直さが溶け合って、温かい空気が生まれた。いい光景だった。

 サモアに限らない。トンガやフィジーを含めて太平洋諸国の人々は体が大きい。ラグビーも強い。日本チームに外国人が多くいたといっても、それだけで勝てるものではない。

 目の前を闊歩する巨体に圧倒されながら、かえって日本のラグビーの強さを思った。世界一の練習量に裏打ちされた波状攻撃、格闘技仕込みの低タックルと、体格的な不利を補う戦術が奏功したことが素人にもよくわかった。太平洋諸国ダンサーが一堂に会したからこそ、ついラグビーにまで連想が及んだ。