2015年10月30日金曜日

同期生の死

 福島県議選の告示(11月5日)まで1週間を切った。きのう(10月29日)のいわき民報に立候補を予定している16人の顔写真が載った。それにも刺激されての回想――。
 きのうのブログで少し書いたが、平高専(現福島高専)の同期で、寮の部屋が一緒だった永山茂雄クン(元県議)が水曜日(10月28日)に亡くなった。享年67。
 
 昭和39(1964)年4月、平高専の3期生として入学した。寮に入った。当時は機械、電気工学、工業化学の3科だけ。3年生(5年生までまだそろっていなかった)の高学年寮とは別に、低学年寮は2年生を部屋長(室長だったか)に、1年生が各科1人割り振られた。
 
 25号室だった。機械は常葉町(現田村市常葉町)出身の私、電気は浪江町出身のOクン(今は平市街のある商店会の会長)、化学は三和村(現いわき市三和町)出身の永山クン。そのOクンからきのう、電話がかかってきた。「茂雄クンのことだな」「そう、びっくりした」。何年か前、高専の後輩が亡くなったときよりも、寮の同室の1人が他界した衝撃のほうが大きかった。
 
 永山クンはいわき市役所に入り、昭和40年代後半、できたばかりの公害対策課員として奮闘していた。私もいわき民報の市政記者になり、永山クンらの仕事を追いかけた。いわきの公害問題を解決したい、という思いでは、行政マンも記者も同じだった。

 その後、生態学と釣りの技を生かして、いわき民報に「いわきの淡水魚」を連載した。私が依頼した。平成5(1993)年には『ふるさとの魚 いわきの淡水魚』として、いわき地域学會から発刊された。たぶんそのころが永山クンと濃密に付き合い、腹を割って話ができた最後だろう。
 
 畑違いの財政部門に回り、しばらくして市役所をやめ、市議選に立候補して当選した。やがて県議に当選し、衆議院議員選挙に出て落選してからは、政治活動から離れたようだった。政治家だから毀誉褒貶は付いて回った。彼の奥さんと私のカミサンが親戚だったこともあって、姻戚としてのつきあいは続いた。

 2日前に当欄で平高専の寮誌「くずかご」が出てきた話を書いた。永山クンが何か書いていないか、ぱらぱらめくっていたら、あった。3年生の終わりの昭和42年2月発行の第8号だ。編集責任者は私。〈故郷めぐり(Ⅱ)――三和町・常葉町〉と題して、三和町について永山クンが、常葉町については私と同郷の後輩Eクン(のちに東北学院大学教授)が書いている。私が書かせたのだろう。
 
 永山クンのたむけに、「いわきの自然三和」と題した彼の18歳の文章(一部省略)を載せる。すでにこのとき、政治に関心を持っていたことがわかる。
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 新天地ブラジルでは、市の郊外の定義として半径五百キロと定めてあるそうである。それなら、日本においても小国意識をぬぎさり、市の中心より数十キロまでを郊外とすればはなはだ壮観であるが、いままではそうもいかなかった。しかし、それに近づいてか、いわき市は四十キロまでが市内である。
 
 ためしに福島県地図をみてもらおう。郡山―平間は国道49号線で結ばれている。その中程を見よ。何もないだろう。かってそこは、うっそうたる森林にかこまれた忘れられた土地だった。しかし、今90%コンクリートのハイウェイがつらぬくブラジルならぬ新天地となった。
 
 ここがいわき市の西端の一つ三和町の上三坂である。ここは、偉大なる政治家のため(注・により?)大正の末すでに電燈がつき、耕地面積の60%は区画された水田となっていた。教育、通信も私的に建設された学校と郵便局によってなされた。隔ぜつされた中に栄えたインカ的存在だったのである。(中略)
 
 時代の要求は「うさぎおいしかの山」を「レジャー追いしかの山」に変えてしまった。幼少の時分は文明にあこがれたが今、その文明はそれをうらぎり自然をくいつくし、わがフルサトの自然も取りさろうとしている。真の自然を見た(い?)ものは早急に三和町を訪れる。まだその息吹を失っていない。

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