2015年11月30日月曜日

まずは「焼きネギ」

 日曜日の夜は刺し身と決めている。きのう(11月29日)、いつもの魚屋さんに行ったらタコがいいといわれた。ほかに、田村郡小野町の直売所で買ってきた曲がりネギを、カミサンが焼きネギにした。直売所で、そうするとうまいといわれたからだった。
「ザ!鉄腕!ダッシュ村‼」を見ながらグビッとやっていたら、青森「南部太ネギ」=写真=の焼きネギが出てきた。おいおい、そっちもか。「南部太ネギ」は農業高校生が復活に尽力したおかげで生き残り、栽培農家が増えた。見た目は白根が3分の1、あおい葉が3分の2.結構な長さだ。加熱すると甘く、やわらかい。葉には蜜(みつ=とろみ)があるという。とにかく太い。

 不思議なことに、栽培方法が台湾の「三星ネギ」に似ている。幅の広い高畝に黒いマルチフィルムを張り、いくつか穴をあけて(縦穴法といっていた)、ネギ苗を植える。白根がそんなに長くないのは、白根もあおい葉も食べるからだろう。畝の表面に藁を敷いたら、「三星ネギ」のようにもっと白根を長くできるのではないか、なんて思った。

 きのう(11月29日)、昼前、半月ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。隠居から二つ手前の小集落・江田の道端に紅葉の季節、田村郡小野町のNさんが直売所を開く。もう終わったと思っていたが、仮囲いのパイプをばらし、撤収するために父親と来ていた。ついでに、とろろ芋とゴボウ、ニンジンを並べて売っていた。

「ネギは?」。前に母親と奥さんの2人が売っていたときと同じ質問をした。紅葉の時期、彼の直売所で曲がりネギを買う。1年に一度か二度の顔合わせだが、10年以上も通っていれば、訪ねた瞬間にネギを買いに来た客だとわかる。「すみません、(けさは)霜が降りてたもんで」。畑に入れなかったのだという。ゴボウとニンジンを買った。長い(畑の土はきめが細かくて深いのだろう)。

 そこへ、隠居のある集落の仲間のカットさんが奥さんと車でやって来た。とろろ芋を買ってそのまま頼んでおいたらしい。カットさんの血族がNさんの住む地域にいるかして、Nさんの家族をよく知っているらしかった。カットさんと私が知り合いだと知って、Nさんは驚いていた。(カットさんとは、正月の松のうちに新年会をやる話になった)

 曲がりネギを手に入れるには「小野町の直売所まで行くしかないか」。あっさりNさんは「そうです」という。隠居で一休みしたら、どうしても「曲がりネギ」を手に入れたくなった。「時間が……」と渋るカミサンを車に乗せて夏井川沿いの県道を駆け上がり、「おのげんき会」の農産物直売所へ行ったら、曲がりネギがあった。

 レジの女性に曲がりネギについて質問した。「郡山市産」とあるから「阿久津のネギか」と聞けば、「阿久津ではない。でも、私は阿久津生まれ。阿久津曲がりネギを知ってるんですか」と逆に聞かれたので、少しネギの話をした。

 ネギにとりつかれた人間としては、「阿久津のネギではないのなら、どこのネギか」となる。郡山の「田母神(たもがみ)」だという。阿武隈川沿いの阿久津よりは南の、平田村寄りの地区だ。生産者の名前がラベルに記されてある。いい野菜を作る人だという。(帰りは近くの小野ICから磐越道を利用した。ネギそのものは1束120円、高速料金はその10倍だった)
 
 さてさて、“田母神ネギ”を焼いて食べた感想をいえば、これは阿久津曲がりネギの親戚だ。甘く、やわらかく、とろみがある。ジャガイモとネギのみそ汁にして、自分の脳内に刷り込まれた味の記憶と比べて同じだとなれば、「阿久津」そのものといってよい。田母神は須賀川にも近い。そこで栽培されている「源吾ネギ」は、甘く、柔らかいが、とろみは阿久津ほどではなかったから。

2015年11月29日日曜日

大正の「街頭ラジオ」

 日本でラジオ放送が始まったのは関東大震災後の大正14(1925)年。今年(2015年)は日本の「放送90年」だ。だから、というわけではないが――。きのう(11月28日)、いわきの「ラジオ事始め」を伝える90年前の新聞記事に出合ったので。
 いわき総合図書館のホームページを開いて、電子化された大正時代のいわきの地域紙(常磐毎日新聞)を読んでいる。「関東大震災といわき」を切り口に、広告も含めてじっくり記事を追いかけていると、たちまち時間が過ぎる。おかげで、90年前のいわきのメディア・炭鉱・漁業・政治・イベント・事件・事故といったファイルができそうなくらいに、コピーの量が増えた。

 新聞は世相を映す鏡。切り口次第で違った風景が見えてくる。新聞のおもしろさは「一覧性」、つまり「寄り道」ができるところだ。

 さて、日本のラジオは社団法人東京放送局(JOAK)によって、大正14年3月に仮放送、7月に本放送が始まった。東京、大阪、名古屋と独立して設置された3放送局が翌15年、日本放送協会のもとに一本化される。そうした動きの一方で聴く側はどうだったのか。その様子が常磐毎日新聞からうかがえる。

 ▼同年3月20日付「平町でラジオを/聴取する事が出来る/4月1日から……/常盤屋時計店前に其設備」の記事=写真。冒頭部分を少し紹介すると――。「東京地方に於けるラジオ熱(無線電話)はすさまじい勢ひで流行を極めて居るが本縣は距離の関係で其恩恵に浴する事が出来ない。然るに来月の一日から平町でも完全にラジオを聴取できる」

 常盤屋時計店は一町目にあった。「ラジオ」(「ラヂオ」とも)という言葉はまだ認知されていない。理解を深めるために「(放送)無線電話」という日本語が必要だった。記事には、さらにこうある。「来月一日から同店前に立つ人々に對して東京から送る講演や音樂を完全に聞かしめる事が出来るのである」
 
 ▼同年4月17日付「ラヂオ/街頭に高鳴る/準備既に整ふ」の記事。「豫(かね)て設置計劃されて居た平町一丁目常盤屋時計店のラヂオの聴取器は過日試験の結果頗(すこぶ)る良好にして廿日頃より本式に東京より放送を受くる筈であるが近来石城郡内にもラヂオファンが続出して來た模様で受信機設置し其筋の認可得ればさまで面倒なしに設置……」をすることができた。
 
 ▼同年6月4日付「ヨク聴こえる/大阪の放送/今晩の曲目」の見出し。「平町四丁目磐城工業商會のラヂオは大阪放送局よりの放送が東京からより以上明瞭に聴える由である」

 常磐毎日新聞は前日に夕刊として配達された。「6月4日付」でも、記事中には「本3日」とある。3日午後7時から2時間の大阪放送局のプログラムが紹介されていた。「◁音樂レコード◁大阪毎日ニュース◁浪花節吉田奈良丸◁童謡◁第三絃須磨の嵐◁義太夫野崎村堀江藝妓連」。「報道」よりも「娯楽」色の強いのが放送メディア、ということがここからもわかる。

 きのうは6月5日付までチェックして終わった。さらに見ていけば、いろいろラジオに関して情報が得られることだろう。とりあえずは、ラジオがいわき地方にも普及する最初期の様子について触れてみた。「街頭テレビ」からテレビが家庭に普及していったように、ラジオも「街頭ラジオ」から家庭に普及していった――そういうことだろうか。

2015年11月28日土曜日

ミニ蒸しがま

 先日(11月25日)、晩酌しながらテレビを見ていたら、新潟県阿賀野市でつくられている「蒸しかまど」が登場した。私が子どものころ、いやいやながら番をした「蒸しがま」=写真=のミニチュアではないか。それが、現代風によみがえった(自分の記憶に従って、ここでは「蒸しがま」で通す)。 
 ほんとうの「蒸しがま」(燃料は木炭)は、高さが1メートルほど。ミニは卓上に載る。旅館のお膳に出てくる「釜めし」や「牛鍋」、つまり固形燃料ひとつで食べられるようになる、それと同じだ。「ままごと」でこたつの上で「蒸しがまご飯」を食べたくなった。
 
 半世紀以上前の話になる。両親は床屋をやっていて、客があれば夜遅くまで店を開けている。で、ついつい朝は起きるのが遅くなる。子供に、家の前の道路の清掃やご飯炊きの仕事が回ってきた。ほかの家でもそうだった。
 
 大人になって知ったことだが、ゲーテが死ぬ直前に書いた「市民の義務」という4行詩「銘々自分の戸の前を掃け/そうすれば町のどの区も清潔だ。/銘々自分の課題を果たせ/そうすれば市会は無事だ。」が生きていた。物心づくころに地域と親から自分の戸の前を掃くことを仕込まれたのだと、今にして思う。

「蒸しがま」でご飯を炊く方法は今でも覚えている。羽釜で米をとぎ、炭をおこして蒸しがまに入れ、その上に羽釜をのせて上蓋をかぶせる。漫画なんかを読みながら、しばらく蒸しがまの前にじっとしている。勢いよく湯気が上がったら、素早く上と下の穴に蓋をする。それで羽釜の底が少しこげたご飯が炊き上がる。この蓋閉めのタイミングが遅れるとご飯が焦げてしまう。

 いわき市平で蒸し釜を製造していた、という人の話を聞いたことがある。3軒のメーカーがしのぎを削っていて、それぞれどこかに特徴があった。福島県浜通りの相双地区はおろか中通り、遠くは山形、岩手県辺りまで貨車で送ったそうだ。瓦製造業者が兼業するところもあったという。新潟県でも同じようにつくられていたわけだ。

 7年前、カミサンの実家にある物置を解体したとき、蒸しがまが出てきたので、夏井川渓谷の無量庵へ蒸しがまを運んだ。2回ほど、蒸しがまでご飯を炊いた。その気になれば、今でもご飯は炊ける。

 このごろ、田舎で暮らす若い人が増えている。なんでも電気を使って「チン」するのではなく、自分の体とウデを使って、できるだけ自然に負荷を与えないように暮らす。むしろ「不便」が当たり前、そんな生き方が選択肢の一つになってきたのではないか。そんな人たちには本物の蒸しがまでご飯を炊いてもらいたい気もする。

2015年11月27日金曜日

避難区域の空き巣に実刑

 住民が原発避難中の大熊町で2年間、空き巣を繰り返していたいわきの45歳の男に、懲役2年8月の実刑判決が言い渡された=写真(25日付いわき民報)。立件されたのは未遂1件を含む8件で、骨董品や調度品を主に被害額は263万円余に及んだという。
 1年前にも常習累犯窃盗の裁判があった。避難区域の富岡、楢葉、広野各町で空き巣を繰り返した35歳(当時)の男に、懲役4年が言い渡された。わがふるさとの人間だった。裁判官は「200軒とも300軒ともいう住居に忍び込んで窃盗を繰り返したのは、原発事故により長期間の避難生活を強いられている被害者らに追い打ちをかける行為」と非難した(福島民報)。

 同じ市の人間、同じふるさとの人間だからこそ、なおさら“隣人”の不幸につけ込むふるまいが許せない。と同時に、人間はなぜ不幸を食い物にするのか、それはどんな心の作用によるものなのか――答えのない疑問が胸底にわだかまっている。

 罰当たりは、古今・東西を問わないようだ。関東大震災後の混乱に乗じて「掠奪(りゃくだつ)団」が暗躍した。その一人(女)がいわきで逮捕されたという記事が、大正12(1923)年11月18日付の常磐毎日新聞に載る。

「震災を機とし横浜市内に於て掠奪をほしいまゝにし跳梁闊歩(ちょうりょうかっぽ)した」グループのひとり、「怪婦」がいわきの実姉の家に潜伏していたところを地元の警察が逮捕し、神奈川県警に護送した。その「怪婦」の表現がすさまじい。それはないだろう、うそだろう――という文章が続く(ここでは省略)。

 今年のノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家・ジャーナリスト、スベトラーナ・アレクシエービッチさんの『チェルノブイリの祈り―未来の物語』(松本妙子訳=岩波書店)にも、こんな村人の声が載る。いったん避難してから帰還したらしい。

「三家族いっしょにもどってきたが、家はすっかり荒らされておった。ペチカはこわされ、窓やドアがはずされ、床板ははぎとられていた。電球、スイッチ、コンセントも抜き取られ、使えるものはなにひとつありゃしない」

 東日本大震災が起きたとき、外国メディアは日本人の我慢強さや忍耐力、助け合いや思いやりの精神を称賛した。その裏で何が起きていたか。平成23年の双葉郡内の空き巣被害は前年の約30倍、20件から594件に急増した。一部の人間のふるまいとはいえ、はらわたが煮えくりかえったのを覚えている。

 3・11前からつきあいのある人、あとで知り合った人たちも空き巣被害に遭っていた。広野町の知人。家は大規模半壊で津波が床下まできた。加えて、原発事故の影響から、家族全員が避難した。すると、空き巣に入られた。部屋に足跡が残り、ありとあらゆるものが開けられていた。(2011年7月の話)

 広野町の別の避難民。寝泊まりが自由になったあとも、夜は怖くて泊まれない、といっていた。空き巣被害に遭ったのが大きい。富岡町では、醤油や革靴、衣類まで盗られた、という例もある。(2013年10月の話)

 もう一例。広野か楢葉町のことだったが、一時帰宅をしたら、わが家からテレビを抱えて出てくる隣のじいさんと鉢合わせした。じいさんは一時帰宅をしていたが、まさか隣家の人も同様に一時帰宅をするとは思わなかったのだろう。

 大災害・非常時に遭遇して、タガがはずれて邪心が動き出す、という人間がいる。その邪心はだれにもあるものなのかもしれない。が、おおかたは因果の想像力=倫理がはたらくので、やっていいことと悪いことの区別がつく。人間はいつなんどき、そのブレーキが壊れるかわからない、ということなのか。

 ブレーキが壊れる人間と壊れない人間と、その違いは何なのか――を知りたいのだが……。

2015年11月26日木曜日

情報紙「一歩一報」最終号

 3・11被災者を支援するいわき連絡協議会の情報紙「一歩一報」が12月1日付で最終号を迎えた=写真。 
 東日本大震災直後からいわき市で津波被災者・原発避難者の支援活動を続けているNGO・NPOが連絡協議会を発足し、うち5団体が共同で「一歩一報」を創刊した。といっても、その前にそれぞれの団体が情報紙を出していたから、一本化したというべきだろう。平成25(2013)年6月から月1回、2年半、31号をもって発行を終えた。
 
 団体のひとつ、「シャプラニール=市民による海外協力の会」が平成23(2011)年3月下旬、いわき市に緊急支援に入り、引き続き今も被災者の生活支援活動をしている。昔から関係している団体なので、ずっとシャプラに伴走してきた。

 交流スペース「ぶらっと」を開設し、情報紙「ぶらっと通信」を発行した。借り上げ住宅(戸建て・アパート)に入居した被災者の見回りも、活動の柱にした。「ぶらっと通信」創刊準備号から「一歩一報」最終号まで、数えると4年間・50回余にわたって情報紙の校正を手伝った。間接的ながら、原稿を通して見えてきたものもある。
 
 それはそれとして、シャプラが交流スペース「ぶらっと」を開設・運営する直前の様子はこうだった、ということを、震災から半年後の2011年9月29日付の小欄から確認しておきたい。
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 いわきで復興支援活動を展開しているNGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が先日、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」のいわき産業創造館に行政、経済団体、市内NPOなどの代表を招いて意見交換会を開いた。

 いわき市(市民協働課、復興支援室)、富岡町、広野町の関係者のほか、いわき市社会福祉協議会、いわき商工会議所、平商連、いわき市民コミュニティ放送、いわきNPOセンター、ザ・ピープル、勿来まちづくりサポートセンターが参加した。

 シャプラニールがいわき市で行ってきた支援活動を報告するとともに、今後予定している活動、たとえば「被災者向け交流スペースの設置・運営」といったことについて説明し、意見を聴いた。

 シャプラは来年(注・2012年)で設立40周年を迎える。市民によるNGOとしては日本で最も古い組織だ。いわき出身の私の友人が創立メンバーの一人のため、個人的に前からシャプラとかかわっている。もともとはバングラデシュとネパールで「取り残された人々」の支援活動を続けているNGOである。それが、東日本大震災の惨状に急きょ、国内でも支援活動を展開することにした。

 宮城、岩手両県と違って、福島県の浜通り、北茨城市を含むいわき市には原発事故もあってNGOが入っていない。そこで3・11のあと、北茨城から支援を開始していわきに移り、以後、いわきを拠点に被災者に向き合った活動を続けている。

 救援物資の運搬、災害ボランティアセンター運営の支援、一時借り上げ住宅入居者などへの生活支援プロジェクト(調理器具セットを配布=約950件)、久之浜、豊間両中生徒のための夏休みスクールバス運行と、時間の経過とともに変わるニーズにこたえてきた。

 生活支援プロジェクトでは調理器具セットを届けながら、聞き取り調査をした。そこから①コミュニティの分裂②土地勘もなく、知り合いも少ない不安③高齢者、要介護者、病気を抱える人がいる世帯の多さ④買い物・通院・通学の不便さ⑤情報不足⑥仮設住宅・雇用促進住宅への支援の集中⑦先の見えない不安――が見えてきた。

 なかでも、被災した自宅に残る世帯に支援が届いていないこと、民間住宅入居者にとって不公平感があることがわかったという。同じ被災者ながら「見捨てられている」という思いを抱いている人々がいる。そういう人たちを取り残してはならない――これが、シャプラの基本的な姿勢と言ってもいいだろう。

 そこで、そういう人たちのために①交流スペースを設置・運営する(常駐スタッフの配置・情報コーナーの設置)②情報紙を発行する③「声を聴く会」を開催する―などのプランを、意見交換会の席で提案した。これに対して、シャプラへの期待・アドバイス・注文、その他行政への要望といったものが出された。広野町、富岡町の関係者の意見は傾聴に値するものだった。

「仮設住宅からバス停まで遠い。仮設の前にバス停を移せないか」(広野町)「いわきには4000人がいる。県外にいる6000人も、ほとんどがいわきに来るのではないか。(シャプラが町より)先行して交流スペースを運営してくれるとありがたい」(富岡町)

 シャプラの交流スペースは10月9日、「ラトブ」2階にオープンする。落語やキルトなど、被災者の息抜きになるような催しも企画されている。
               *
 それから4年がたった。つながりのできた原発避難者にも生活の変化がみられる。しかし、一人ひとり選択の中身は異なる。広野町のある人は帰還した。富岡町のある人は帰還を断念していわきに家を建てた。ほかにも、ここでは書けない葛藤に出合ったりする。

 シャプラはこの4年半、バングラデシュやネパールで培った災害緊急支援・生活支援の経験を生かして、被災者の自助・自立の手伝いをしてきた。交流スペースで展開してきた各種教室のサークル化、NPOや自治体による交流スペース・サロンの開設、町の交流サロン「まざり~な」の展開などでも主導的な役割を果たした。

 交流スペース「ぶらっと」は、震災からまる5年がたつ2016年3月11日の翌日、土曜日をもって活動を終える。「一歩一報」最終号に告知が載った。シャプラを知る人間としては、これまでよくやってくれた、あとは南アジアでの本来の活動にエネルギーを注いでほしい――そんな思いだ。

2015年11月25日水曜日

ネギに恋して

 初冬は地場のネギが出回りはじめる時期。一年中ネギを食べてはいるが、うまいと感じるのは晩秋以降だ。最初に口にするのは、田村郡小野町のNさんの曲がりネギだ。夏井川渓谷の紅葉が見ごろの10月下旬になると、JR江田駅近くにNさんが直売所を出す。ただ道端にトロロイモと曲がりネギを並べるだけだが、毎年、ネギを(トロロイモも)買う。
 今年はタイミングが悪かった。週末になると雨、ないし雨上がり。雨上がりの畑にはネギの病気予防のために入れない。で、トロロイモしか売っていない週末もあれば、直売を休む週末もある。曲がりネギを売っているかもしれない週末には、こちらが街に用事があって出かけられない。この秋はトロロイモを買っただけで終わった。

 いわきの平地で生産されるネギは白根が長くて太い。てかてか輝いている。在来ネギは風に折れやすく、規格出荷には向かない。で、自家消費のレベルに後退・縮小した。その在来ネギを探している。平地でも山里でも、直売所にネギがあれば買う。スーパーへ買い物に行っても、赤ネギ(茨城)や九条ネギ(京都)、曲がりネギ(宮城)を見ると、買って“試食”する。
 
 同級生との修学旅行は、土地のネギ文化を知る絶好の機会。京都では青ネギ(葉ネギ=九条ネギ)を食べた。会津の大内宿では、観光客が曲がりネギを一本箸にしてそばを食べていた。それを買ってきた。ベトナムやカンボジアでもネギを食べた。こちらは葉ネギだった。
 
 国内外を旅行するごとに、年を経るごとに、脳内にいわきと日本、アジアのネギ地図が書き込まれる。日本では白根をつくるのに土寄せをするが、台湾には、幅の広い高うねにしてまとめて栽培し、稲わらで畝を覆って白根をつくる「三星ネギ」があった。「三星ネギ」は食べなかったので、また台湾へ行くことがあったら、「三星ネギ」を真っ先に食べようと思う。

 郡山市の阿久津曲がりネギは、師走、いわきのヨークベニマルにも並ぶ。私が夏井川渓谷の隠居で栽培しているのは、その“きょうだい”と考えられる三春ネギ。友人・知人からはどこに畑があるのかと言われるくらいに狭いが、今年は種を採るためだけに栽培している=写真。
 
 三春ネギは初夏にネギ坊主から種を採り、冷蔵庫に入れて保存し、秋に苗床をつくって種をまき、翌春、定植する。秋から冬にかけて収穫し、一部を採種用に残して越冬させたあと、初夏を迎えて種を採る。2年がかりのサイクルだ。
 
 このサイクルが原発事故でおかしくなった。2013年の師走には、隠居の庭が全面除染された。猫の額の菜園もいったん消えた。除染を控えて秋の種まきは中止した。で、翌年秋、前年の残り種をまいたらかろうじて発芽した。当然、越冬した親ネギはない。今年の初夏、ネギ坊主はできず、種は採れなかった。

 前にも一度、種が余ったので冷蔵庫に保管して、同じように翌年秋、種をまいたことがある。発芽率はまあまあだった。が、今年はネキリムシにやられた。生き延びたのは半分以下。ちゃんと生長したネギ苗が少なかったうえに、週末だけの手抜き菜園なので、虫が好き勝手にネギを食い散らした。今年は、三春ネギは1、2本食べるだけにして、種採り用に越冬させる。

 そうそう、きのう(11月24日)、マルトへ買い物に行ったら、九条ネギがあった。いわき海星高校の実習船「福島丸」のラベルが張られたまぐろ加工品もあった。両方を買ってネギトロにした。ネギの緑色と加工品のピンク色とがマッチしていた。

2015年11月24日火曜日

神谷村踏切

 小学生になった今は口にしなくなったが、上の孫が3、4歳のころ、よく「ジューカンカン、ジューカンカン」と言って常磐線の踏切を見たがった。生まれながらの「子鉄」だ。「カンカン」は踏切の警報機の音だからわかる。が、「ジュー」はなにからきていたのだろう。
 踏切のそばで電車が来るのを待つ。警報機が鳴り出し、電車がばく進してくる。それを見て満足する。特急は「スーパーヒタチ」、普通列車は「ジョウバンセン」と呼んでいた。

 大好きな踏切は平市街の東方、夏井川の鉄橋と鎌田山のトンネルを越えた先の「神谷(かべや)村踏切」=写真。街へ連れて行った帰りに必ずそこへ寄るよう、「ジューカンカン、ジューカンカン」を繰り返した。列車が来ない時間帯もある。すると、なんでカンカン鳴らないのかと駄々をこねることも。

 常磐線は明治30(1897)年2月25日、水戸―平(現いわき)間が、同年8月29日、平―久ノ浜間が開通した。久ノ浜駅までの間には草野、四ツ倉駅がある。神谷村踏切はそのときにつくられた、ということになる。

 元神谷村の中神谷地区に立鉾鹿島神社がある。常磐線の線路が参道を横切って敷設された。5月の例祭には堂々とみこしが線路を渡っていく。その日はJR関係者2人が線路のそばに立って、みこしの渡御を見守る。ハレの日だけの禁止解除だ。私も大っぴらに線路を横切る。

 昭和25(1950)年5月、神谷村が平市に吸収合併され、村の名が消えた。それでも踏切には村名が残った。村だった痕跡は今やそこにしか残っていない? 実は孫の「ジューカンカン」のおかげでそこが「神谷村踏切」というのを知ったのだった。
 
 夏井川に飛来するハクチョウ、溯上してくるサケ、そしてこの「神谷村踏切」。土地に現存する社寺や民家、遺跡・遺物、生きものなどを通して、身近な歴史と自然を学ぶことはできる。小学校の学区内だけでも探せば“教材”には事欠かない。学校そのものの成り立ちが地域の歴史を凝縮している。子どもでなくても、そういったものを知ることが喜びになり、誇りに結びつくのではないか。

2015年11月23日月曜日

キューピットの銅像

 遠い日の思い出――。阿武隈の山里から汽車で平駅(現いわき駅)に着いたあと、駅前からバスで小名浜へ向かうとすぐ、ロータリー(円形道路)を右折して国道6号に出た。ロータリーの中央には2人のキューピット(銅像)が水瓶(みずがめ)を掲げている丸い池があった。瓶からは水が噴いていた。今、そのキューピットはアリオスそばの平中央公園にある=写真。
 作者は平の彫刻家本多朝忠(ともただ)さん(1895~1986年)。平・松ケ岡公園にある安藤信正銅像も本多さんの作品だ。大正11(1922)年に建てられた信正銅像は太平洋戦争で供出された。今あるのは昭和37(1962)年に再建された2代目だ。

 先日、四倉で昭和11年に撮影された16ミリフィルムのデジタル版の試写会が開かれた。供出前の信正銅像が映っていた。古い絵はがきでも感じたことだが、初代の銅像は2代目と違って少し控えめなところがある。2代目は威風堂々とした感じで、いかにも激動の幕末に公武合体を成しとげ、欧米に使節団を派遣し、小笠原諸島の領有問題にけりをつけた宰相らしい風貌だ。
 
 きのう(11月22日)、試写会を主催した知人から信正の初代銅像の写真と、2代銅像の「粘土原型ができた」という新聞記事(昭和36年4月8日付いわき民報)のコピーがメールで届いた。先代銅像は、かみしも姿で右手に扇子を持ち、左手をはかまに添えている。現代人にたとえるなら青信号を待つ歩行者といった風情だが、下唇を突き出すように口を結んでいるところが生々しい。

 新聞記事の一部。「平城主安藤信正公の銅像再現は平市八幡小路、彫刻家本多朝忠氏の手で進められ、このほど高さ9・1メートルという大原形(粘土像)ができあがった。引き続き石膏取りに入り6月ごろに終え銅像を鋳造する予定だが、再現費300万円の寄付金の集まりが悪く、銅像完成の成否は拠金如何にかかっているといわれている」。とにもかくにも銅像は完成した。
 
 前にも書いたが、銅像にはモデルがいた。歴史研究家によれば、平の書店経営者だった。ところが、カミサンが本多さんの話として記憶しているのは、別人の絵描きだ。どちらも面長で端正な顔をしていた。断定するような話ではないが、本多さんの付き合いの広さがわかるエピソードではある。

 本多さんは昭和61年に91歳で亡くなった。プロレスや川柳・俳句を好む飄逸の人で、カミサンの伯父を宗匠に、はがきで連句を楽しんでいたこともある。春と秋の彼岸、墓前で飄逸の人と語る。「キューピットの水瓶が乾いている。噴水なんだから水を出してくれよ」と言っているようだった。

2015年11月22日日曜日

アカショウビンとヤイロチョウ

 避難、物資輸送、生活。関東大震災は地方にどんな影響を与えたか――という視点でこのところ毎日、いわき総合図書館のホームページを開き、大正12(1923)年11月(大正の新聞はその月からしかない)以降の地域新聞をチェックしている。前にもチェックしたが、ずいぶん見落としがある。あと何日かはそうやってパソコンの画面を見続けることになりそうだ。
 気分転換を兼ねて庭へ出る。スズメが地面から飛び立つ。ヒヨドリもひと声鳴いて柿の木を離れる。空を飛べない身としては部屋に戻って図鑑をながめ、“エア”バードウォッチングを楽しむしかない。

 先ごろ、日本野鳥の会いわき支部が創立50周年を記念して、『いわき鳥類目録2015』を発行した。A4判、225ページ、フルカラー。いわき市内で撮影された鳥類246種と外来種6種が収録されている。現在の座右の書のひとつだ。どういうわけか、いつもアカショウビン=写真・上=とヤイロチョウ=写真・下=に会いたくなる。現支部長の川俣浩文さんが撮影した。

 川俣さんとは夏井川渓谷で顔を合わせている。ハチクマの撮影にやって来た。わが隠居で鳥談議になった。アカショウビンの話もした。「キョロロロロー」。一度だけだが、渓谷でアカショウビンの鳴き声を聞いた。旅の途中に一休みすることはあるという。幻聴ではなかったのだ。
 
 ヤイロチョウはテレビの自然番組で見ただけだ。いわき地方に飛来していたとは――。『目録』で色合いの妙に触れるたびにため息が出る。どちらも夏鳥だ。

 アカショウビンは、いわきでは大半が数日だけの滞在記録だが、2008年には繁殖が確認されたそうだ。ヤイロチョウは国内希少野生動植物種に指定されている。飛来地として知られる高知県では「県鳥」になっている。
 
 冬に夏井川渓谷の小集落でニュウナイスズメを見たことがある。一度きりだったので見まちがいかと思っていたが、『目録』からいわきへもいっぱい渡って来ることがわかった。同じ冬鳥のアトリは一度、大群が渓谷に現れた。いわきでは少ないという。いわきはハマ・マチ・ヤマに分けられる広域都市。それぞれに種類の異なる野鳥がいる。木々の葉が落ちた冬はむしろバードウォッチングの好機だ。

2015年11月21日土曜日

昭和11年のいわき

 いわき市四倉町の四倉商工会館でおととい(11月19日)の夜、16ミリフィルム=写真=のデジタルテレシネ完成試写会が開かれた。
 映像は昭和11(1936)年に集中的に撮影されたものらしい。モノクロながら、80年前のいわきのマチやハマが映っている。「のぼり旗」や「こいのぼり」のはためく家並みもある。年中行事は陰暦で行われていたはずだから、「端午の節句」にのぼりがはためいたのは、今のように4~5月ではなく5~6月だったろう。木々の葉の茂り具合からも初夏の雰囲気が感じられた。

 1年前の8月末、平・一町目の坂本紙店で「タイムスリップ写真の会」が開かれた。いわき芸術文化交流館「アリオス」が主催した。四倉の知り合いから連絡がきて夫婦で出かけた。今度も連絡がきた。「四倉アーカイブズ」が主催した。

 去年は8ミリフィルムだった。四倉商工会館の倉庫から発見されたといっていた。昭和30年代の四倉のイベント、街並みなどが映っている。今度の16ミリフィルムは、四倉のある家から出てきた。DVD化したことで映像もより鮮明になり、保存・公開も簡単になった。
 
 映像そのものには、音声もテロップもない。興味深いものがいろいろあった。例えば、塩屋埼灯台。昭和11年当時は、下から白・黒・白のツートンカラー、「バンドエイドをした一本指」だ。
 
 初代の灯台は昭和13(1938)年11月5日に発生した福島県北方沖を震源とする地震で大破し、爆薬を使って解体された。鉄筋コンクリート造りの2代目は1年半後に完成したが、終戦間際の昭和20年6月5日、爆撃機によりレンズが大破、8月10日には艦載機の攻撃を受けて職員一人が殉職した。完全復旧は昭和22年5月5日だったという。
 
 平・松ケ岡公園にある安藤信正公の、戦争で供出する前の銅像も見た。作者は平の彫刻家本多朝忠(ともただ)さん。今ある銅像と違って、モデルはより若い人だったようだ。
 
 彫刻家は義父とつきあいがあった。で、彫刻家の最晩年、カミサンと一緒に、その後は子連れで洋館の住まい兼アトリエへ押しかけた。映画に出てくる銅像はすべて本多朝忠作とみてよさそうだ。
 
 四倉の磐城セメントには驚いた。野球のグラウンドがある。テニスコート、弓道場がある。従業員の福利厚生に意を注いだ企業だということがわかる。大浦小学校が鉄筋コンクリートだったのは、学区内に磐城セメントがあったからだろう。

 以上、ほんの数例だが、80年前のいわきにタイムスリップをして楽しんだ。しかし、それも“生ナレーション”(知人が解説した)があったから。映像に音楽、テロップを加えれば、もっと理解しやすくなる。いや、この際だから「活動弁士」を養成したらどうか。活弁付きで出前映写会を開く――立派な文化事業になるのではないか。

2015年11月20日金曜日

阿弥陀如来の指?

 西の空に「阿弥陀如来の指」(私の勝手な言い方)を見たのは10月29日だった=写真。なぜ黒い影が帯状に伸び、先端が丸くなっているのか。はっきりしている「指」は3本だが、ほかにも2本ほど伸びているようだ。下の雲の峰が白いままなのに、上の雲の腹が影で黒くなっている。それで、「阿弥陀如来の指」は低い雲と高い雲の間を伸びてきたのだとわかる。
 雲の切れ間から光が地上にさしこむ現象を「ヤコブの梯子(はしご)」という。これはときどき見る。「阿弥陀如来の指」はその逆で、光によってなにかの影ができ、空中に放射されたということなのだろう。早朝の東の空だったら、さしずめ「大日如来の指」か。
 
 影のもとになるものがわからなかった。きのう(11月19日)のNHKおはよう日本を見るともなく見ていたら、「ネット動画」のコーナーで似たような事例が紹介されていた。そちらは山の影だった。
 
 きのうの小名浜の日没は午後4時25分、10月29日は午後4時42分だった(冬至に向かって日の出は一日1分ずつ遅くなり、日の入りは1分ずつ早くなると思えばいい)。私が「阿弥陀如来の指」を見たのは午後3時45分ごろだから、日没1時間前。まだ太陽は山の上にある。すると、雲の峰の影か。その峰が最低三つはあったことになる。
 
 仏教の「西方浄土」は極楽をあらわす観念とはいえ、現実には太陽の沈む方角を連想してしまう。大昔の人々が午後遅く、雲の切れ間から人間の指のようなものを見たら、その先になにか尋常ではないものが息づいていると思って、かしこまったのではないか。
 
「娑婆苦」の世界に自然現象がかさなって「彼岸」が生まれ、「西方浄土」が生まれ、阿弥陀如来や大日如来たちが生まれたのではないか、などと、いっとき妄想をたくましくするのだった。雲はやっぱり天才だ。

2015年11月19日木曜日

『春と修羅』初版本

「宮沢賢治の詩集の初版本が手に入ったんだけど、見る?」。古本屋をしている若い仲間から電話が入った。「おー、見る」「でも、置いてかない、持ち帰る、高いから」。ほどなくして彼がやって来た。
 賢治の詩集といえば、あれしかない――思った通り、『春と修羅』だった。箱入りの初版本だ=写真。表紙は布装で、触るとザラザラしている。大正13(1924)年4月20日発行だから90年余前の本だが、外観はきれいなものだ。傷みはほとんど見られない。「(古書)市場では120万円はする」「むむ!」

 若い仲間が『春と修羅』を手に入れた経緯はこうだ。岩手で古書店主が集まって市が開かれた。中学生のころから客として通い、今は古書店の先輩・後輩の間柄になった宮城の古書店主が『春と修羅』を出品した。岩手の古書店主が途中であきらめるなか、いわきの彼が一般市場の半値ほどでセリ落とした。

『春と修羅』を箱から取り出し、写真を撮ったあと、表紙を触ったり奥付を眺めたりした。時間にしてわずか10分ほどだが、表紙の布の感触が一日たった今も指先に残っている(忘れないようにしないと)。賢治はこのザラザラにこだわった。

 装丁は染織工芸家広川松五郎(1889~1952年=のちに東京芸大教授)が担当した。アザミが描かれている。山村暮鳥が磐城平時代の大正4(1915)年に出版した詩集『聖三稜玻璃』も、広川が装丁を手がけた。当時、新進気鋭のブックデザイナーでもあったわけだが、暮鳥のいる平へ遊びに来た際、女性と羽目をはずしたかして暮鳥の怒りを買った。

 背文字と箱の字が違う。背文字には「詩集 春と修羅 宮澤賢治作」と入り、箱には「春と修羅 心象スケッチ 宮沢賢治」とある。「詩集」と「心象スケッチ」、「宮澤」と「宮沢」の違いも。背文字は歌人の尾山篤次郎が書いた。箱の文字は賢治の手書きだろうか。

 大正時代に「心象」という言葉は一般的ではなかったろう。先行例として、西條八十が自費出版をした詩集『砂金』(大正8=1919年)の自序には「心象」が出てくる。

 本物の『春と修羅』に触れて、久しぶりに暮鳥・松五郎・八十、そして「心 象」について思いがめぐった。

2015年11月18日水曜日

58年前のG・馬場選手

 プロ野球の巨人軍に身長2メートルを超す日本人投手がいた。ある日、ラジオで巨人の試合を聴いていた子どもが、アナウンサーの伝える情報に仰天する。終盤に巨人の投手が交代した。背がとてつもなく高い。文字通りの超大型新人だ。難なく抑えて、以後の活躍に期待がふくらんだ。馬場正平という19歳の少年投手だった――。
 資料に当たってわかったが、58年前の昭和32(1957)年秋のことだったらしい。とすると、私は小学3年生。馬場投手、のちのプロレスラー・ジャイアント馬場選手が一軍の試合に登板したのは3回、計7イニングにすぎない。栃内良『馬場さん、忘れません』(枻=えい=出版社、2000年)などによると、2回ははっきりしている。
 
 同32年8月25日(日曜日)、阪神戦で8回裏に登板した。同10月23日(水曜日)には中日戦に初先発をして5回まで投げた。残る1試合はいつだったのか。自分の記憶と記録を照らし合わせると、微妙に合わないところがあるが、私がラジオを聴いたのは8月25日の試合だったようだ(テレビはまだ阿武隈の山里には入っていなかった)。
 
 なぜ今、馬場さん? 先週の水曜日(11月11日)、BSプレミアム「ザ・プロファイラー」の<“やさしき巨人”の挑戦 ジャイアント馬場>=写真=を見て、58年前の“デビュー戦”を思い出したのだった。ラジオから想像する強い大男とは違って、テレビで見た顔はやさしかった。レスラーとしてはアントニオ猪木に、人間としてはジャイアント馬場に引かれた。
 
 ついでに、昭和30年代(1955~64年)前半の社会状況をネットで確かめた。馬場投手がデビューした同32年には、歌謡曲の「東京だよおっ母(か)さん」(島倉千代子)「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)がはやった。NHKのラジオドラマ「一丁目一番地」が始まるのもこの年。毎晩、6時半になるとラジオの前に子どもが集まった。
 
 同33(1958)年には背番号3番・長嶋茂雄選手がデビューする。国鉄スワローズを相手にした4月5日(土曜日)の開幕戦で、金田正一投手に4打数4三振という屈辱を味わう。この試合もラジオにかじりついて聴いた。『週刊少年マガジン』と「週刊少年サンデー」がほぼ時期を同じくして創刊されるのは翌34年春。春休みが終わって新学期が始まる、そんな時期の発売だった。
 
 小学2年生になったばかりの昭和31年4月17日夜、大火事で町の3分の2が灰になった。焼け野原から再出発して1年、さらに1年と過ぎたあとに長島選手がデビューし、漫画雑誌が誕生した。新人長嶋選手のキャッチボール相手も、同じく王貞治選手のバッティング投手も馬場さんだったという。

 大災害は大災害として、子どもたちはどんどん新しい世界に溶け込んでいった。高度経済成長期と自分の心身の成長期とが重なった。半世紀も前の子どもと同じように、3・11とその後の風景は、大人と子どもとでは違ったものに見えるにちがいない。

2015年11月17日火曜日

夏井川渓谷の戦争遺産

 土曜日(11月14日)の朝日新聞別刷り・赤be<みちものがたり>は、佐賀県の「唐津街道」だった。太平洋戦争末期、航空機の燃料にするため、松の木から松脂(まつやに)を採集した。その傷跡が「虹の松原」の木に残る。松原を貫く唐津街道の物語としてそれを取り上げた。
 いわきの夏井川渓谷でも、同時期、松根とは別に住民が松脂を採集した。その傷跡が「ハート形」あるいは「キツネ顔」となって赤松の根元近くに残る。実際に航空機の燃料として使われたかどうかはわからない。が、戦争がもたらした、藁、いや松にもすがる「狂気の沙汰」には違いない。

 岩盤が露出したV字谷には先行植物として赤松が生える。それで赤松が群生している。30年以上前から松枯れが進み、老大木を中心にして立ち枯れる、あるいは暴風雨に根こそぎ倒れる、といったことが続いている。

 夏井川渓谷の小集落・牛小川に隠居がある。週末、そこで過ごし始めた20年前、松枯れがピークを迎えつつあった。それでも、若く元気な松は残った。その松が最近また枯れるようになった。

 唐津街道の「物語」に刺激されて、先の日曜日、隠居の裏山にある「戦争遺産」を見に行った。東日本大震災後に一度、急斜面を上ったことがある。持病が亢進してからは、神社の長い石段や4階建てのアパートの階段を上るとすぐ息が切れる。一歩足を運んでは休み休みしながら、急斜面を尾根へと続く元“小道”に出た。林内は荒れたままで笹が繁茂していた。

 松はあらかた幹の上部が折れたり、根こそぎ倒れたり、立ち枯れたまま樹皮がはがれ落ちたりしている。立ち枯れ松には「ハート形」や「キツネ顔」の傷跡が残っていた=写真。が、「戦争遺産」が消えてなくなるのは時間の問題だろう。今が記録保存をするにしろ、そこだけ切り取って現物保存をするにしろ、ぎりぎり最後の時期ではないかと思いつつ、写真を撮る。

 夏井川渓谷の「戦争遺産」については、16年前にも書いている。平成11(1999)年11月16日付いわき民報「アカヤシオの谷から」(31回目)で、経緯はそちらに詳しい。それを次に掲げる。そのときからさらに状況は深刻になっている。文中に出てくる「モリオ・メグル氏」とは、私のなかの架空の人物だ。
                *
 天然林の広がる夏井川渓谷にも戦争の傷跡が残っている、と知ったのは3年前(注・平成8年)。牛小川の春の祭礼の席でだった。
 酒が回るにつれて、みんなが少しずつ饒舌(じょうせつ)になる。新参者のモリオ・メグル氏があれこれ聞いているうちに、いつか太平洋戦争のころの話になった。
 集落の周囲の険しい斜面には、ツツジなどの落葉樹に混じって赤松の大木が生えている。
 太平洋戦争末期、集落に割り当てがあって、その赤松の幹の根元近くに傷をつけ、染み出す松脂(まつやに)を竹筒を使ってブリキ缶にためた、というのだ。
 山里ではそのころ、戦闘機の燃料にするため、大人も子供も松の根掘りに駆り出された。物資の欠乏がもたらした窮余の一策だが、そのための施設が牛小川の近くの谷間にも造られた。松の根だけでは足りず、松脂からも油を取り出した、ということなのだろう。
 漆やゴムの木から樹液を採取するのと、原理は同じである。
「今も松の木にハート形の傷があんだよ」
 この言葉が気になって、モリオ・メグル氏は後日、山に入って息をのんだ。見渡す限りの松の木に「ハート形の傷」がついている。モリオ・メグル氏には、それがキツネの顔のように見えた。松の木と合体したキツネたちが、一斉にこちらをにらみつけている。そんな錯覚にとらわれた。
 その戦争の生き証人、赤松が最近、勢いがない。松枯れ被害は最初、アカヤシオが群生する北向きの斜面に見られた。もう十数年前になるだろうか。緑の葉が赤みを増し、やがて枯れ落ちると幹が生色を失って、白茶け始める。その現象が対岸の南向きの山でも進んでいる。ハート形の傷を持った赤松は主に、この日当たりのいい山に林立しているのだ。
 久しぶりにモリオ・メグル氏が山に入ると、既に何本かは倒れ、何本かは白い菌にむしばまれていた。松枯れの原因は、ある人は松食い虫だろうといい、ある人は酸性雨だろうという。いずれにしても、最後は自然界の分解者である菌が始末をつける。戦争の生き証人もそうやって、いつかは姿を消すのだろう。
「松の木にうらまれっぞ、(松脂は)人間の血と同じだぞ」
 当時、地元の老婆はそう言って悲しんだという。人間の便利な暮らしのつけが回りまわって、この赤松の死になったとはいえないか。

2015年11月16日月曜日

白菜漬け試食

 11月8日にいわき市三和町の「ふれあい市場」で買った白菜2玉を八つ割りにして漬け込んだのが12日朝。すぐ水が上がり始め、14日には重しを半分にした。きのう(11月15日)朝、我慢できずに一つ取り出し、刻んで食卓に出した=写真。
 木の桶を使って漬けた。桶のすきまからじわっと汗のようにしみ出した水もあるが、14日には白菜全体が水につかった。

 漬物の原理はぬか漬けも白菜漬けも同じ。塩分の浸透圧が作用して白菜から水分が抜けてしんなりする。代わりに、白菜に昆布のうまみやかんきつ類の風味がしみ込む。塩がなじんだら食べごろだ。

 余談だが、いわきの新舞子海岸の黒松林が大津波を受けとめ、人的・物的被害を緩和しながらも、その後、かなり枯れたのは根っこからの塩分の浸透圧が原因、ということだった。陸前高田市の「奇跡の一本松」が枯れたのも同じだろう。
 
 この冬最初の白菜漬けは――。しんなり・さっぱりしてはいたが、甘みはあまり感じられなかった。小春日になったり雨になったりしながらも、わりあい温暖ななかで11月8日の「立冬」を迎えた。甘みを増すのは年が明けて厳寒期に入ってから。
 
 もっとも、「立冬」を感じるような状況ではなかった。11月に入るとすぐ吉野せい賞の表彰式、同期生の葬式と続き、来客や事務的な仕事も重なり、8日の日曜日には雨で歩こう会が中止になった。小春日の6日には、11月として初めて蚊に刺された。去年(2014年)までの記録では、10月20日ごろがチクリの最後だったが、一気に半月も延びた。

 冬になると、ぬか床も冷え込んでかき回すのがいやになる。白菜漬けまでのつなぎの大根が少し残っている。今冬最初の白菜漬けができ上がりつつあるので、この大根を取ったら、ぬか床は「塩のふとん」をかぶせて来春まで休ませよう。

 そうだった。きのうは敬愛するドクターの命日だった。朝、カミサンが床の間の仏壇もどきに線香をたてた。フランスで亡くなった人々も含めて、「万霊」を悼む気持ちで手を合わせた。

2015年11月15日日曜日

総合エンタテイメントバンド

 上の孫をサッカーの練習会場へ送迎した。もう一人のジイジに用ができて送迎ができなくなったのだろう。会場の内郷コミュニティセンターまでの道すがら、小2とサシで話をした。車窓に映る景色を見ながら「ごみ屋敷」なんていう。
 このところ、車中でいわきの総合エンターテイメントバンド「十中八九」の初アルバムを聞いている。ダンサーのひとりに「買う」と言ったら、恵贈にあずかった。

「なに、これ?」と孫に言われる前に、「いわきの音楽だよ」と伝える。少し黙っていた孫が、「どこがいわきなの?」と聞くから、ジャケット=写真=を指さして「ほら、じゃんがらの『じゃんがスカ』とか、アンモナイトの曲(『今夜はアンモNight』)とかあるだろう」――とは言ってみたものの、子どもはクールだ。

「じゃんがスカ」の「じゃんが」はいわき地方の伝統芸能「じゃんがら念仏踊り」から、「今夜はアンモNight」の「アンモ」は化石のアンモナイトからきている。いわき市出身の詩人草野心平の詩を歌にした「蛙のうた~るるる葬送~」もある。

 母親のふるさとが化石の宝庫の久之浜・大久地区だから、じゃんがらもアンモナイトも孫は知っている。じゃんがらの「チャンカ、チャンカ」という鉦(かね)の音は、母親の胎内にいたときから聞いている。いわきの人間にとっては、じゃんがらは生まれる前からの、いわきのリズム・音だ。

 ジャンルはわからない。が、なにか楽しくなる楽曲が続く。解説に「ジャズ、ファンク、ロック、スカ、ポップス、ラップなど、様々な要素が自由に重なり合う……」とあった。カオス(混沌)状態はアナキスト・心平に通じるものだろう。

「じゃんがスカ」の歌詞に「赤井岳から七浜見れば……」があるが、これはいわきの別の踊り(やっちき踊り)にも出てくる。もとは猥雑な、よくいえば人間のたくましい生命力をうたったものだ。孫はその後も聞き流しながら雑談に応じた。

 サッカーの練習は午後4時半から始まり、1時間ちょっとで終わった。開始時間前に、遊びを兼ねて仲間とボールを蹴ったり、輪になったりしていた。ラグビーの五郎丸ポーズをする子がいた。孫もわが家に来たとき、五郎丸ポーズをしたが、この輪のなかで覚えたのだろう。

 宵の6時ちょっと前。帰りの車に乗ってしばらくすると、孫が静かになった。まぶたが上がったり下がったりを何回か繰り返したあと、動かなくなった。首がだんだんかしいだ。

 急に睡魔が降りてきたようだ。それを見ながら、自分の小2のときのことが思い浮かんだ。やはり、夕食前に遊び疲れてごろ寝をすることがあった。そんな一夜、町が大火事になった。折からの西風で火の粉が艦砲射撃のように飛んできた。すぐ避難した。いのち以外は灰になった。孫は4歳間際で東日本大震災に遭遇し、私らと一時、原発避難をした。それから5年近くたつ。

 大火事の翌朝、新聞記者から取材を受けた。その経験からいうのだが、小2は小2なりに対象を客観化する目を持っている。「十中八九」のアルバムについて説明したのは、小2としての理解が可能だと思ったから。「あまちゃん」のテーマソングを連想したかもしれない。

 きょう(11月15日)は日曜日(朝6時半過ぎ、雨がやむ)。県議選の投票を済ませたあと、夏井川渓谷の隠居へ出かけ、燃え尽きる寸前のカエデの紅葉を見る。そのあと、草野心平記念文学館へ行く。「十中八九」が出演する。「聴く」だけでは面白さがわからない「見る」バンドでもある。CDをプレゼントしてくれたダンサーも出る。チラシに書いてあった。

2015年11月14日土曜日

「平事件」の舞台

 大正時代、現いわき市平に「カフェタヒラ」という西洋料理店があった話を前に書いた。当時の新聞広告をチェックして、「平町紺屋町(住吉屋本店前)」が所在地であることがわかった。
 平成17(2005)年、いわき市立草野心平記念文学館で「山村暮鳥展――磐城平と暮鳥」が開かれた。図録に載る「平町市街全図」(大正5年)から、住吉屋本店の道路向かいは紺屋町の「一九イ」と「一八ノ一」番地。そのどちらかが「カフェタヒラ」で、東隣の角は「警察署」(現せきの平斎場)だった。

 すると今度は、警察署の所在地の変遷が気になった。いわき総合図書館の『福島県警察史第2巻』(昭和57年刊)、『福島県犯罪史第4巻』(昭和43年刊)、『福島県警察沿革史』(昭和32年刊)にあたる。戦後、平(現いわき)駅前の掲示板撤去問題をめぐって、炭鉱労働者などが一時、平市警察署を占拠する「平事件」がおきた。平市警はどこにあったのだろう。
 
 明治~大正は「紺屋町21番地」。昭和4年には「十五町目31番地」に移り、戦後の昭和23年、十五町目の平地区警察署に新設の平市警察署が“間借り”する。GHQの警察制度改革による。同24年、平市警は新築がなった「田町50番地」の庁舎に引っ越す。同29年、自治体警察は廃止され、その後、いわき市内郷御厩町に警察が移転する。今のいわき中央署だ。
 
 文章にまとめれば簡単だが、平の警察の変遷を知るまで時間がかかった。いわきで生まれ育ったわけではない。平市警と平地区警察が併存していたこともよくわかっていない。平事件の新聞報道、裁判記録を読んでかえってこんがらかった。「十五町目」の警察ではなさそうだ。で、県警本部発行の『沿革誌』などをパラパラやって、やっと「田町」が平事件の舞台だと知った。
 
 新聞にも、被告団が発行した裁判記録にも平市警の所在地は書かれていなかった。市役所や警察、裁判所などはどこに所在するか自明のこと、という判断がだれにもあったのだろう。よその人間、後世の人間にはそれだけで歴史的な大事件の舞台がどこにあったのかあいまいになる。
 
 カミサンに聞くと、一発だった。「あそこの角、いわき民報の通りの、今はヤマザキデイリーになってるところ」。平市警がどこにあったか、記憶している人間がすぐそばにいた。常磐線をまたぐ立体橋の付け根部分だ。『写真アルバム いわきの昭和』(平成21年、いき出版)に、平市警前に群れ集う労働者、傘をさした市民の写真が載っている=写真。私が働いていた職場の2、3軒隣で大事件がおきていたとは……。灯台下暗し、とはこのこと。
 
 裁判資料には、いわき民報初代社長をはじめ新聞記者や平市議など、名前に覚えのある人たちの証言が載っている。事件のリーダーはのちに市議会議員になった。20代で「平事件」に興味・関心をもっていたら、それこそいながらにして取材ができたのに、と思っても時間は取り戻せない。

2015年11月13日金曜日

山里の白菜を漬ける

 雨の日曜日(11月8日)に、いわき市三和町の直売所「ふれあい市場」へ出かけて、白菜の大玉を二つ買った。月、火曜日と曇雨天と雑用が続き、八つ割りにして天日に干したのが11日=写真。その日も午後、用事が重なった。干しすぎてもいけない。きのう(12日)の朝食後、なにはさておきこれをやると決めて、桶に白菜を漬け込んだ。
 甕(かめ)でも桶でもいい。物置からカミサンがプラスチックと木の桶を出してきた。前の日、すきまから水がしみ出なくなるまで木の桶に水を張るのを繰り返した。当日朝も水を張った。ほぼ漏水が止まったので、木の桶でやってみようと決めた。

「タガが緩む」という言葉がある。タガは桶や樽を守る「竹の胴巻き」だ。桶をそのまま置いておくと、乾いてタガが緩む。すると、重力の作用でタガがずり落ち、桶を構成していた木片がばらばらになる。使わない桶はひっくり返して桶、いや、おけ――そうすると乾いてもタガは緩まないと学んだのは、いつだったか。

 辞書には「緊張がゆるむ」「年をとって気力・能力が鈍くなる」といった意味で「タガが緩む」とあるが、桶で白菜を漬けるようになってからは、そうではない、桶の扱い方を知らないからだと思うようになった。個人の能力とか年齢以前の話だ。
 
 入れ物が決まったら、食塩のほかに旨味と風味になるものを加える。冬になればユズの皮で風味をととのえるが、今はない。先日、知人から西日本のミカンをいただいた。皮を残して干した。それを使った。トウガラシは、夏井川渓谷の隠居で栽培したものがある。食べるトウガラシらしく、さっぱり辛くないが、これを使うしかない。

 おととしまでは干したあとの白菜の重さを量り、事前に3~5%の量の食塩を用意したが、去年からはいちいち量らないことにした。塩を振る感覚を指が覚えている。重さも見当がつく。大玉だから計5キロはあるだろう。食べるのは夫婦2人だけ、これで20日間は持つ。そのサイクルで4月末まで、あと7回くらいは白菜を漬ける。

 それにしても、と思う。原発事故で、家庭菜園の野菜を、自家製の漬物を子ども一家に分ける喜びが断たれた。家庭菜園そのものをやめた――という人も少なくないのではないか。

2015年11月12日木曜日

箱館の伊達林右衛門

 高倉健さんの命日(11月10)をはさんで、BSプレミアムで主演映画が連続して放送された。しょっぱなは7日夜の「駅 STATION」。北海道の増毛(ましけ)駅が舞台の刑事の物語だ=写真。
 陸奥出身(今の福島県国見町)の豪商伊達林右衛門の2代あとが幕末、「増毛山道」を私費で開削した。崖の続く海岸から別の海岸へと険しい山を越える道だ。ノルウェーには、フィヨルドから内陸へと急峻な山を越える「ニシンの道」があった。「増毛山道」にもそういう意味合いがあったのだろう。(現在は廃道になっている)
 
 北海道の地理も歴史も知らなかったときには漠然と見ていたが、「増毛山道」を知った今は、一帯の風土を目に焼きつけるためにもしっかり「駅 STATION」を見た。

 箱館の伊達林右衛門(清兵衛=今の国見町出身)の存在を知ったのは30年前だろうか。江戸時代後期の俳僧・一具庵一具(1781~1853年)=出羽・村山出身=を調べていたら、師匠の松窓乙二(1756~1823年)=白石=と、門人でパトロンの伊達林右衛門に出合った。俳号・布席。同郷で松前本店の先代(布席は養子)もまた青標という俳号を持つ遊俳だ。
 
 伊達林右衛門(布席)には実業家としての顔と、文化的なパトロン、あるいは俳句を楽しむ教養人としての顔があった。当時の豪商や豪農がそうだったように、「余力学問」を生きた。

 乙二は二度蝦夷へ渡り、箱館に滞在して当地の遊俳を指導している。乙二の死後は、一具が蝦夷の俳人たちと交流した。一具が蝦夷へ渡ったかどうかは定かではない。一具は若いころ、磐城平藩の山崎村、専称寺で修行した、その一点だけで、この30年間、一具を軸にした「俳諧ネットワーク」を調べている。

 それと、もう一つ。間宮林蔵と伊達林右衛門(松前の青標か)がつながっていた。蝦夷と乙二や一具の関係を調べるときのキーパーソンは、当然、伊達林右衛門だ。が、当主は代々、林右衛門を名乗っているので、林蔵と面識のあった林右衛門が乙二・一具とつながりのある林右衛門とは限らない。いつの時代の林右衛門かを見極める必要がある。

「林蔵は、松前で面識のある伊達林右衛門の店におもむき、寄宿先のあっせんを依頼した。林右衛門は、蝦夷地御用達として箱館に店をかまえ、三人扶持を給与され苗字も許されている豪商で、江戸にも店を置いていた。店の者は、快く承諾し、かれに小さな家を提供してくれた」

 吉村昭の小説「間宮林蔵」を読んでいたら、伊達林右衛門の名前が出てきた。樺太(現サハリン)が島であることを発見して松前に戻った林蔵に、寄宿先を提供した。林蔵はそこで幕府に提出する報告書「東韃地方紀行」「北夷分界余話」をまとめる。

 小説「間宮林蔵」に触発されて、伊達林右衛門を検索にかけたら、いろいろおもしろいことがわかった。「増毛山道」がその一つだった。

 伊達屋は近世から近代へと日本が大きく変わる中で表舞台から姿を消す。NHKの朝ドラ「あさが来た」の商家と同じように、蝦夷地(北海道)にも新時代についていけずに没落していく商家があった。

伊達林右衛門は、俳諧史(俳諧ネットワーク)にとどまらず、大きな北海道史(政経ネットワーク)のなかで見ていくべき存在なのだろう。伊達屋を軸にして、北の大地から日本の近世~近代をながめると、また違った風景が見えてくるのではないか。

2015年11月11日水曜日

いわきで最初の新聞広告

 おととい(11月9日)に続いて、いわき市平・三町目の話を――。
 いわきで最初の民間新聞「いはき」が創刊されたのは、今から108年前の明治40(1907)年5月25日。発行人は吉田礼次郎(1870~1933年)だ。礼次郎は明治中期から新聞販売業を営み、東京日日新聞(現毎日)の増紙拡張に力を入れて、「関東北にその人あり」と称された。旧磐城平藩士の子として生まれ、苦学力行をして一家をなした。郡会議員・議長も務めた。

 来週の木曜日(11月19日)、神谷(かべや)公民館で月1回4回シリーズの市民講座「地域紙で読み解くいわきの大正~昭和」を始める。レジュメづくりの参考にしようと、いわき総合図書館のホームページをのぞき、<郷土資料のページ>を開いて、電子化された「いはき」の創刊号をチェックした。

 創刊号は20ページとボリュームがある。1、2面は欠落している。広告は8~20面に載る。創刊を祝って平の有力事業所や人士が広告を載せている。19面に「祝いはき発刊/弁護士新田目(あらため)善次郎」などとあるのがそれを物語る。

 あったらもうけもの――程度に考えていた平・三町目の「十一屋」の広告が、最初の広告欄(8面)に載っていた=写真。「煙草元売捌/洋小間物商/清 平町三丁目/小島末蔵/十一屋号」とあった。これだけでも大変な情報量である(「清」は、広告では丸で囲まれている。ついでにいえば、大正初期、十一屋の大番頭さんと詩人の山村暮鳥は仲が良かった)。
 
 十一屋については最近、歴史を研究している先輩を介して二つのことがわかった。

 一つは――。江戸時代末期には旅宿だった。21歳の新島襄が函館から密航してアメリカへ留学する前、磐城平の城下に寄っている。そのとき、十一屋に泊まった。『新島襄自伝』(岩波文庫)によると、文治元(1864)年3月28日、襄の乗った帆船「快風丸」が江戸から函館へと太平洋側を北上する途中、中之作(現いわき市)に寄港する。

 翌29日、襄は城下の北西、「赤井嶽(閼伽井嶽)と云う名山を見物せんとて参りしが、折り悪しく途中にて烈風雷雨に逢い、漸く夕刻平城迄参りし故、遂に赤井嶽に参らず、その処に一泊せり」。泊まったところが「十一屋清蔵」、要するに十一屋だった。

 もう一つ――。不破俊輔、福島宜慶さん共著の歴史小説『坊主持ちの旅――江(ごう)正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年刊)にこんなくだりがある。「藩の御用商人である十一屋小島忠平は正敏の親戚である。小島忠平は平町字三町目二番地に十一屋を創業し、旅館・雑貨・薬種・呉服等を商っていた。その忠平はかつて武士であった」

 愚庵は正岡子規に影響を与えた元磐城平藩士の歌僧、正敏はその竹馬の友だ。北海道へ渡り、一時はサケ漁業経営者として成功した。愚庵に「江正敏君伝」がある。不破・福島さんは親友の間柄、福島さんの奥さんは正敏の子孫ということで、北海道の視点から正敏を描いている。
 
 小説では「正敏は、函館で物品を仕入れ、道内各地で売り、逆に鹿皮や鹿角など、道内各地の産物を、函館で直(じか)に売ったり、十一屋を通じて東京や磐城平などに売り捌いたりして、道内のほとんどの地を歩いていた」と、十一屋と正敏の強いきずなも描かれる。

「坊主持ちの旅」は総合をはじめ市内6図書館にある。総合、四倉以外の4図書館では現在、「貸出中」になっている。じわりと人気が出てきたようだ。

 襄の「十一屋清蔵」、小説の「小島忠平」、そしていわきで最初の新聞広告の「小島末蔵」と、十一屋の当主がそろった。清蔵―忠平―末蔵という流れになるのだろうか(丸で囲われた「清」は清蔵の「清」か)。

 平・三町目の商店街は、平七夕まつりの発祥地でもある。昭和5年、町内の七十七銀行が店頭に七夕飾りを取り付けた。すると、三町目の商店主たちが刺激されて七夕飾りを実施する。同9年、本町通りの舗装化で盆行事の「松焚き」が中止になると、それに代わるイベントとして「新興七夕祭り」を立ち上げ、翌10年には平商店街全体のまつりに拡大した(小宅幸一「平七夕まつり考」)。

 今、商店会の若手が中心になって月に1回、「三町目ジャンボリー」を行っている。アート系のイベント「玄玄天」も三町目を中心に展開中だ。「三町目の血が騒ぐ」と、平はおもしろくなる?

2015年11月10日火曜日

白菜を買いに山里へ

 夏はぬか漬け、冬は白菜漬け――と決めている。切り替え時期は5月と11月の上旬。で、雨の日曜日(11月8日)、いわき市三和町の「ふれあい市場」へ足を延ばした。1玉300円の白菜をふたつ買った。
 前日の土曜日、午後2時すぎ。いわき地域学會市民講座の案内印刷・発送準備を終えたあと、少し時間ができた。JR磐越東線江田駅近くの道端でこの時期、小野町の農家のNさんがとろろ芋と曲がりネギを直売している。思い立って車を走らせた。

 雨でなければ土曜日にネギを持って来ると、文化の日に奥さんが言っていた。直売所があるはずの道端に人はおらず、ネギもとろろ芋もなかった。駅前広場のテント村の直売所にも白菜は見当たらなかった。ネギなし、白菜なし――では、なんともおもしろくない。

「神谷(かべや)市民歩こう会」が日曜日、雨で中止になった。ではと、たまっていた用を足すことにした。カミサンの用事で小川へ向かったあと、山を越えて三和町の「ふれあい市場」を目ざした。前日の「空振り」が尾を引いていた。絶対、白菜があるはず、とみての山越えドライブだった。

 大玉の白菜のほかに、カミサンがあれこれ買い物をした。レジ袋では間に合わない。店の人が段ボール箱を出してくれた。重かった。
 
 不思議なもので、時間距離によって行きたくなる場所の回数が決まる。夏井川渓谷の隠居なら、毎週行っても苦にならない。わが家から30分圏内だ。これが1時間圏になると半年に1回、それ以上だと1~数年に1回、あとは偶然、といった感じだろうか。
 
 小川から三和へ山越えをしたら、年に2、3回は突発的に敢行する「山里巡り」をしたくなった。三和から遠野へ抜けることにした。3年ほど前、遠野に金沢翔子美術館が開館した。夏井川渓谷の隠居から、川前~差塩(さいそ)~三和~遠野のルートで車を走らせた。それ以来の、ふたつの山越えだ。
 
 おおよそはセンターラインのない、イノシシが出そうな森の中の細道である。道路標識や案内表示にかえって惑わされ、入遠野の奥で古殿町に入り込んだようだった。
 
 道に迷ったおかげで、谷沿いのカエデの紅葉を堪能した。カミサンはときどき、「バーミリオンレッド」という言葉を口にした。三和の新田(しんでん)だと思うが、人間の生活の匂いと荒々しい自然の厳しさがまじりあっているような場所に出くわした=写真。右側の道の奥に家があった。
 
 このあと、センターラインのある道路にはなかなか出合わなかった。渓流はすべて鮫川へと流れていくはず。渓流に沿って進むと、通行止めの表示があった。古殿町に迷い込んだことを知る。後戻りしながらもさらに下流へ、下流へと車を進めていくと、ようやく見覚えのある道路に出た。遠野トンネルは初めて通った。長いトンネルなのに暗かった。利用車両が極端に少ないのだろう。
 
 余談だが、入遠野は、「入定(にゅうじょう)」の夕暮れの景色が好きだ。魂が吸い寄せられる。だから「入定」なのかと、今回、不意に思ったが、実際はどうなんだろう。(入定は通称地名らしい。入遠野の字名にはない。白鳥=しらとり=というところが入定の中心地?)
 
 もうひとつ余談だが、どんな山奥にも県議選のポスター掲示板があって、いわき市選挙区(定員10人)の立候補者16人のポスターが張られていた。ポスターを張る組織力はどの陣営にもあることを知った。

 ☆追記:「私が言ったのはバーニングレッド」と指摘が入ったので、「バーミリオンレッド」を、「バーニングレッド(燃え立つような朱色)」の意味で受け取ってください。このごろ、耳まで悪くなりました。

2015年11月9日月曜日

雨の三町目ジャンボリー

 わが地元の「神谷(かべや)市民歩こう会」が雨で中止になった。きのう(11月8日)未明、起きると星は見えなかったが、雨は降っていなかった。7時過ぎ、車の窓が少しぬれている。こぬかのような雨が降りだしていた。7時半前、スタート・ゴール地点でもある神谷公民館へ行く。主催する側なので、館長らと雨の予報を踏まえて「中止」を確認した。雨の一日になった。
 前の晩、中止になったらどこへ行くか、カミサンと話した。それぞれ二つ~三つ、たまっていた用を足すことにした。途中、運転手の気まぐれで道順を変え、山里巡りをした。小川から三和へ、三和から遠野へ。道に迷いながらの山越えドライブになった。カエデの紅葉がきれいだった。

 最後はいわきの中心市街地へ戻った。総合図書館のあるラトブに入ろうとしたら、本町通りの角でミニライブをやっている。雨でも「三町目ジャンボリー」を開催しているのを思い出した。
 
 三町目ジャンボリーは、第2日曜日のアリオスパークフェスと連動して、日曜日の街なかに人を呼び込もうと、三町目商店会の青年部が中心になって始めた。店の前の歩道に簡易テントを張った出店が何店かあった=写真。若い知人もいた。

 彼に話したことだが、ざっと100年前、山村暮鳥がこの三町目界隈をよく歩いていた。なかでも三町目2番地の洋物屋「十一屋」の大番頭さんとは昵懇(じっこん)だった。(西隣の1番地には、のちに洋食屋「乃木バー」ができる)

 大番頭さんは読書や文学が大好きだった。2人は、ひまを見つけては近くの洋食屋「福寿軒」へ通った(今はない)。「カツレツ、牛ドンが二十五銭の、懐かしいよき時代でした」と、十一屋のお手伝いさんが回想している(昭和58年7月1日発行の「週刊カメラ」創刊号)。
 
 十一屋では店頭を種物売りの「猪狩ばあさん」に貸していた。ある日、暮鳥とばあさんが話していたと思ったら、しばらくして大番頭さんから「種物売りばあさん」の詩を見せられた。お手伝いさんらは「わけもわからず、ただ、みんなでふき出した」そうだ。

 それは次の「穀物の種子」という詩だったろう。「夢」でばあさんを死なせたのだから、事情が分かっている人たちは笑うほかない。

と或る町の
 街角で
戸板の上に穀物の種子(たね)をならべて売つてゐる老媼(ばあ)さんをみてきた
 その晩、自分はゆめをみた
 細い雨がしつとりふりだし
 種子は一斉に青青と
 芽をふき
 ばあさんは顰め面(づら)をして
 その路端に死んでゐた
 
 三町目に「猪狩ばあさん」ならぬ若者が数軒、戸板ならぬテントを張って商店街に活気を呼び込もうとしている。毎月第2日曜日に開催するようになって6回目。若い知人は「雨ですけど、今回が一番人が出ています」といった。それはそうだ、私ら夫婦も彼から話を聞いてのぞいてみる気になったのだから。継続すれば定着する。定着すればクチコミでイベントが浸透する。東角のレストランのスープがうまかった。

2015年11月8日日曜日

チリのキルト展

 いわき芸術文化交流館「アリオス」の1階東口ウォールギャラリーで、11月5日、「アルピジェラ」の展覧会が始まった=写真。アルピジェラは素朴な、南米チリのキルト。縦40センチ×横50センチほどの大きさの壁掛け十数点が通路の壁に展示されている。30日まで。
 1973年9月11日、アジェンデ政権が軍事クーデターによって倒された。アメリカに後押しされたピノチェト軍事独裁政治が始まるなかで、抵抗する労働者や学生が大勢虐殺され、行方不明になった。

 チラシによると、女性たちはアルピジェラをつくって、不当に逮捕された家族を取り戻すための活動資金に充てた。軍事独裁の圧政を記録し、訴え、証言する動かぬ証拠でもあるという。

「1973年9月11日のサンチアゴ」(写真では手前・上)と題されたアルピジェラには、軍部がモネダ宮殿(大統領官邸)を爆撃する様子が描かれている。「彼らはどこに?」はAFDO(拘留者・行方不明者の家族会)の作業所でつくられた作品で、行方不明者の顔写真がプラカードとして掲げられている様子を描いている(いずれも東北学院大・酒井朋子さんの解説文から)。

 アメリカ大陸にはふたつの9・11があることを知る。北米では9・11は2001年の同時多発テロだが、南米では1973年のチリ軍事クーデターだ。

 アルピジェラは、大島博光(はっこう)記念館所蔵のものだそうだ。大島博光(1910~2006年)は詩人・フランス文学者で、ざっと50年前、担任の先生(英文学者)の家の書斎から借りて読んだ海外の詩集の訳者のひとりが彼だった。チリのネルーダやスペインのロルカをそれで知った。チリやスペインで大きな出来事が起きると、ネルーダやロルカが思い浮かぶのはそのため。

 ネルーダはアジェンデ政権下で駐仏大使になり、任期中の1971年、ノーベル文学賞を受賞する。が、がんに侵され、帰国した翌年、クーデターが起き、そのさなかにアジェンデ同様、悲惨な最期を遂げる(ロルカもスペイン内戦下で銃殺された)。

 たまたまカミサンがアリオスをのぞいたとき、アルピジェラ展が始まったばかりだった。ネルーダの国のキルトと聞いて出かけた。作品を1点1点見ているうちに、同じノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスの作品に『戒厳令下のチリ潜入記――ある映画監督の冒険』(岩波新書)があったことを思い出す。映画監督はミゲル・リティン。彼の作品を見たような記憶があるのだが……定かではない。

 アルピジェラのひとつに「死者たちのために」がある。「独裁による政治弾圧のなかで命を落とした家族や知人を悼み、通りに沿ってたくさんの蝋燭(ろうそく)がともされています」。3・11の一周忌、大津波の犠牲者を悼んで沿岸部に蝋燭がともされた、その光景が重なる。