2015年11月12日木曜日

箱館の伊達林右衛門

 高倉健さんの命日(11月10)をはさんで、BSプレミアムで主演映画が連続して放送された。しょっぱなは7日夜の「駅 STATION」。北海道の増毛(ましけ)駅が舞台の刑事の物語だ=写真。
 陸奥出身(今の福島県国見町)の豪商伊達林右衛門の2代あとが幕末、「増毛山道」を私費で開削した。崖の続く海岸から別の海岸へと険しい山を越える道だ。ノルウェーには、フィヨルドから内陸へと急峻な山を越える「ニシンの道」があった。「増毛山道」にもそういう意味合いがあったのだろう。(現在は廃道になっている)
 
 北海道の地理も歴史も知らなかったときには漠然と見ていたが、「増毛山道」を知った今は、一帯の風土を目に焼きつけるためにもしっかり「駅 STATION」を見た。

 箱館の伊達林右衛門(清兵衛=今の国見町出身)の存在を知ったのは30年前だろうか。江戸時代後期の俳僧・一具庵一具(1781~1853年)=出羽・村山出身=を調べていたら、師匠の松窓乙二(1756~1823年)=白石=と、門人でパトロンの伊達林右衛門に出合った。俳号・布席。同郷で松前本店の先代(布席は養子)もまた青標という俳号を持つ遊俳だ。
 
 伊達林右衛門(布席)には実業家としての顔と、文化的なパトロン、あるいは俳句を楽しむ教養人としての顔があった。当時の豪商や豪農がそうだったように、「余力学問」を生きた。

 乙二は二度蝦夷へ渡り、箱館に滞在して当地の遊俳を指導している。乙二の死後は、一具が蝦夷の俳人たちと交流した。一具が蝦夷へ渡ったかどうかは定かではない。一具は若いころ、磐城平藩の山崎村、専称寺で修行した、その一点だけで、この30年間、一具を軸にした「俳諧ネットワーク」を調べている。

 それと、もう一つ。間宮林蔵と伊達林右衛門(松前の青標か)がつながっていた。蝦夷と乙二や一具の関係を調べるときのキーパーソンは、当然、伊達林右衛門だ。が、当主は代々、林右衛門を名乗っているので、林蔵と面識のあった林右衛門が乙二・一具とつながりのある林右衛門とは限らない。いつの時代の林右衛門かを見極める必要がある。

「林蔵は、松前で面識のある伊達林右衛門の店におもむき、寄宿先のあっせんを依頼した。林右衛門は、蝦夷地御用達として箱館に店をかまえ、三人扶持を給与され苗字も許されている豪商で、江戸にも店を置いていた。店の者は、快く承諾し、かれに小さな家を提供してくれた」

 吉村昭の小説「間宮林蔵」を読んでいたら、伊達林右衛門の名前が出てきた。樺太(現サハリン)が島であることを発見して松前に戻った林蔵に、寄宿先を提供した。林蔵はそこで幕府に提出する報告書「東韃地方紀行」「北夷分界余話」をまとめる。

 小説「間宮林蔵」に触発されて、伊達林右衛門を検索にかけたら、いろいろおもしろいことがわかった。「増毛山道」がその一つだった。

 伊達屋は近世から近代へと日本が大きく変わる中で表舞台から姿を消す。NHKの朝ドラ「あさが来た」の商家と同じように、蝦夷地(北海道)にも新時代についていけずに没落していく商家があった。

伊達林右衛門は、俳諧史(俳諧ネットワーク)にとどまらず、大きな北海道史(政経ネットワーク)のなかで見ていくべき存在なのだろう。伊達屋を軸にして、北の大地から日本の近世~近代をながめると、また違った風景が見えてくるのではないか。

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