2015年11月26日木曜日

情報紙「一歩一報」最終号

 3・11被災者を支援するいわき連絡協議会の情報紙「一歩一報」が12月1日付で最終号を迎えた=写真。 
 東日本大震災直後からいわき市で津波被災者・原発避難者の支援活動を続けているNGO・NPOが連絡協議会を発足し、うち5団体が共同で「一歩一報」を創刊した。といっても、その前にそれぞれの団体が情報紙を出していたから、一本化したというべきだろう。平成25(2013)年6月から月1回、2年半、31号をもって発行を終えた。
 
 団体のひとつ、「シャプラニール=市民による海外協力の会」が平成23(2011)年3月下旬、いわき市に緊急支援に入り、引き続き今も被災者の生活支援活動をしている。昔から関係している団体なので、ずっとシャプラに伴走してきた。

 交流スペース「ぶらっと」を開設し、情報紙「ぶらっと通信」を発行した。借り上げ住宅(戸建て・アパート)に入居した被災者の見回りも、活動の柱にした。「ぶらっと通信」創刊準備号から「一歩一報」最終号まで、数えると4年間・50回余にわたって情報紙の校正を手伝った。間接的ながら、原稿を通して見えてきたものもある。
 
 それはそれとして、シャプラが交流スペース「ぶらっと」を開設・運営する直前の様子はこうだった、ということを、震災から半年後の2011年9月29日付の小欄から確認しておきたい。
                *
 いわきで復興支援活動を展開しているNGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が先日、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」のいわき産業創造館に行政、経済団体、市内NPOなどの代表を招いて意見交換会を開いた。

 いわき市(市民協働課、復興支援室)、富岡町、広野町の関係者のほか、いわき市社会福祉協議会、いわき商工会議所、平商連、いわき市民コミュニティ放送、いわきNPOセンター、ザ・ピープル、勿来まちづくりサポートセンターが参加した。

 シャプラニールがいわき市で行ってきた支援活動を報告するとともに、今後予定している活動、たとえば「被災者向け交流スペースの設置・運営」といったことについて説明し、意見を聴いた。

 シャプラは来年(注・2012年)で設立40周年を迎える。市民によるNGOとしては日本で最も古い組織だ。いわき出身の私の友人が創立メンバーの一人のため、個人的に前からシャプラとかかわっている。もともとはバングラデシュとネパールで「取り残された人々」の支援活動を続けているNGOである。それが、東日本大震災の惨状に急きょ、国内でも支援活動を展開することにした。

 宮城、岩手両県と違って、福島県の浜通り、北茨城市を含むいわき市には原発事故もあってNGOが入っていない。そこで3・11のあと、北茨城から支援を開始していわきに移り、以後、いわきを拠点に被災者に向き合った活動を続けている。

 救援物資の運搬、災害ボランティアセンター運営の支援、一時借り上げ住宅入居者などへの生活支援プロジェクト(調理器具セットを配布=約950件)、久之浜、豊間両中生徒のための夏休みスクールバス運行と、時間の経過とともに変わるニーズにこたえてきた。

 生活支援プロジェクトでは調理器具セットを届けながら、聞き取り調査をした。そこから①コミュニティの分裂②土地勘もなく、知り合いも少ない不安③高齢者、要介護者、病気を抱える人がいる世帯の多さ④買い物・通院・通学の不便さ⑤情報不足⑥仮設住宅・雇用促進住宅への支援の集中⑦先の見えない不安――が見えてきた。

 なかでも、被災した自宅に残る世帯に支援が届いていないこと、民間住宅入居者にとって不公平感があることがわかったという。同じ被災者ながら「見捨てられている」という思いを抱いている人々がいる。そういう人たちを取り残してはならない――これが、シャプラの基本的な姿勢と言ってもいいだろう。

 そこで、そういう人たちのために①交流スペースを設置・運営する(常駐スタッフの配置・情報コーナーの設置)②情報紙を発行する③「声を聴く会」を開催する―などのプランを、意見交換会の席で提案した。これに対して、シャプラへの期待・アドバイス・注文、その他行政への要望といったものが出された。広野町、富岡町の関係者の意見は傾聴に値するものだった。

「仮設住宅からバス停まで遠い。仮設の前にバス停を移せないか」(広野町)「いわきには4000人がいる。県外にいる6000人も、ほとんどがいわきに来るのではないか。(シャプラが町より)先行して交流スペースを運営してくれるとありがたい」(富岡町)

 シャプラの交流スペースは10月9日、「ラトブ」2階にオープンする。落語やキルトなど、被災者の息抜きになるような催しも企画されている。
               *
 それから4年がたった。つながりのできた原発避難者にも生活の変化がみられる。しかし、一人ひとり選択の中身は異なる。広野町のある人は帰還した。富岡町のある人は帰還を断念していわきに家を建てた。ほかにも、ここでは書けない葛藤に出合ったりする。

 シャプラはこの4年半、バングラデシュやネパールで培った災害緊急支援・生活支援の経験を生かして、被災者の自助・自立の手伝いをしてきた。交流スペースで展開してきた各種教室のサークル化、NPOや自治体による交流スペース・サロンの開設、町の交流サロン「まざり~な」の展開などでも主導的な役割を果たした。

 交流スペース「ぶらっと」は、震災からまる5年がたつ2016年3月11日の翌日、土曜日をもって活動を終える。「一歩一報」最終号に告知が載った。シャプラを知る人間としては、これまでよくやってくれた、あとは南アジアでの本来の活動にエネルギーを注いでほしい――そんな思いだ。

0 件のコメント: