2015年11月28日土曜日

ミニ蒸しがま

 先日(11月25日)、晩酌しながらテレビを見ていたら、新潟県阿賀野市でつくられている「蒸しかまど」が登場した。私が子どものころ、いやいやながら番をした「蒸しがま」=写真=のミニチュアではないか。それが、現代風によみがえった(自分の記憶に従って、ここでは「蒸しがま」で通す)。 
 ほんとうの「蒸しがま」(燃料は木炭)は、高さが1メートルほど。ミニは卓上に載る。旅館のお膳に出てくる「釜めし」や「牛鍋」、つまり固形燃料ひとつで食べられるようになる、それと同じだ。「ままごと」でこたつの上で「蒸しがまご飯」を食べたくなった。
 
 半世紀以上前の話になる。両親は床屋をやっていて、客があれば夜遅くまで店を開けている。で、ついつい朝は起きるのが遅くなる。子供に、家の前の道路の清掃やご飯炊きの仕事が回ってきた。ほかの家でもそうだった。
 
 大人になって知ったことだが、ゲーテが死ぬ直前に書いた「市民の義務」という4行詩「銘々自分の戸の前を掃け/そうすれば町のどの区も清潔だ。/銘々自分の課題を果たせ/そうすれば市会は無事だ。」が生きていた。物心づくころに地域と親から自分の戸の前を掃くことを仕込まれたのだと、今にして思う。

「蒸しがま」でご飯を炊く方法は今でも覚えている。羽釜で米をとぎ、炭をおこして蒸しがまに入れ、その上に羽釜をのせて上蓋をかぶせる。漫画なんかを読みながら、しばらく蒸しがまの前にじっとしている。勢いよく湯気が上がったら、素早く上と下の穴に蓋をする。それで羽釜の底が少しこげたご飯が炊き上がる。この蓋閉めのタイミングが遅れるとご飯が焦げてしまう。

 いわき市平で蒸し釜を製造していた、という人の話を聞いたことがある。3軒のメーカーがしのぎを削っていて、それぞれどこかに特徴があった。福島県浜通りの相双地区はおろか中通り、遠くは山形、岩手県辺りまで貨車で送ったそうだ。瓦製造業者が兼業するところもあったという。新潟県でも同じようにつくられていたわけだ。

 7年前、カミサンの実家にある物置を解体したとき、蒸しがまが出てきたので、夏井川渓谷の無量庵へ蒸しがまを運んだ。2回ほど、蒸しがまでご飯を炊いた。その気になれば、今でもご飯は炊ける。

 このごろ、田舎で暮らす若い人が増えている。なんでも電気を使って「チン」するのではなく、自分の体とウデを使って、できるだけ自然に負荷を与えないように暮らす。むしろ「不便」が当たり前、そんな生き方が選択肢の一つになってきたのではないか。そんな人たちには本物の蒸しがまでご飯を炊いてもらいたい気もする。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

函館のきよみ食堂で初めて蒸釜ご飯食べて美味しかったです。茨城の里美地区の元酒蔵で月一蕎麦打ちするのですが、古い蒸釜を見つけました。昔はお金持ちの家にあったんだよね〜。と、管理している友人が言ってました。修理すれば使えるかもしれないと言っていました。
いわきで焼かれたものかもしれませんね。夏井川渓谷の無量庵は蕎麦屋さんでしょうか。