2015年11月29日日曜日

大正の「街頭ラジオ」

 日本でラジオ放送が始まったのは関東大震災後の大正14(1925)年。今年(2015年)は日本の「放送90年」だ。だから、というわけではないが――。きのう(11月28日)、いわきの「ラジオ事始め」を伝える90年前の新聞記事に出合ったので。
 いわき総合図書館のホームページを開いて、電子化された大正時代のいわきの地域紙(常磐毎日新聞)を読んでいる。「関東大震災といわき」を切り口に、広告も含めてじっくり記事を追いかけていると、たちまち時間が過ぎる。おかげで、90年前のいわきのメディア・炭鉱・漁業・政治・イベント・事件・事故といったファイルができそうなくらいに、コピーの量が増えた。

 新聞は世相を映す鏡。切り口次第で違った風景が見えてくる。新聞のおもしろさは「一覧性」、つまり「寄り道」ができるところだ。

 さて、日本のラジオは社団法人東京放送局(JOAK)によって、大正14年3月に仮放送、7月に本放送が始まった。東京、大阪、名古屋と独立して設置された3放送局が翌15年、日本放送協会のもとに一本化される。そうした動きの一方で聴く側はどうだったのか。その様子が常磐毎日新聞からうかがえる。

 ▼同年3月20日付「平町でラジオを/聴取する事が出来る/4月1日から……/常盤屋時計店前に其設備」の記事=写真。冒頭部分を少し紹介すると――。「東京地方に於けるラジオ熱(無線電話)はすさまじい勢ひで流行を極めて居るが本縣は距離の関係で其恩恵に浴する事が出来ない。然るに来月の一日から平町でも完全にラジオを聴取できる」

 常盤屋時計店は一町目にあった。「ラジオ」(「ラヂオ」とも)という言葉はまだ認知されていない。理解を深めるために「(放送)無線電話」という日本語が必要だった。記事には、さらにこうある。「来月一日から同店前に立つ人々に對して東京から送る講演や音樂を完全に聞かしめる事が出来るのである」
 
 ▼同年4月17日付「ラヂオ/街頭に高鳴る/準備既に整ふ」の記事。「豫(かね)て設置計劃されて居た平町一丁目常盤屋時計店のラヂオの聴取器は過日試験の結果頗(すこぶ)る良好にして廿日頃より本式に東京より放送を受くる筈であるが近来石城郡内にもラヂオファンが続出して來た模様で受信機設置し其筋の認可得ればさまで面倒なしに設置……」をすることができた。
 
 ▼同年6月4日付「ヨク聴こえる/大阪の放送/今晩の曲目」の見出し。「平町四丁目磐城工業商會のラヂオは大阪放送局よりの放送が東京からより以上明瞭に聴える由である」

 常磐毎日新聞は前日に夕刊として配達された。「6月4日付」でも、記事中には「本3日」とある。3日午後7時から2時間の大阪放送局のプログラムが紹介されていた。「◁音樂レコード◁大阪毎日ニュース◁浪花節吉田奈良丸◁童謡◁第三絃須磨の嵐◁義太夫野崎村堀江藝妓連」。「報道」よりも「娯楽」色の強いのが放送メディア、ということがここからもわかる。

 きのうは6月5日付までチェックして終わった。さらに見ていけば、いろいろラジオに関して情報が得られることだろう。とりあえずは、ラジオがいわき地方にも普及する最初期の様子について触れてみた。「街頭テレビ」からテレビが家庭に普及していったように、ラジオも「街頭ラジオ」から家庭に普及していった――そういうことだろうか。

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