2015年12月11日金曜日

大正時代の巨大余震

 東日本大震災からきょう(12月11日)で4年9カ月。だからというわけではないが、大正時代の地域紙(常磐毎日新聞)で関東大震災がいわき地方に及ぼした影響を調べていたら、巨大余震の記事に出合った。
 常磐毎日新聞は震災から2カ月後の11月1日に創刊された。欄外の発行年月日は「大正12年11月2日」だが、実際は「11月1日夕刊」だ。題字下に表示されている。9月1日の本震の記事は、だから存在しない。

 大正12(1923)年11、12月をチェックし、翌13年1月の16日付(15日夕刊)に至って、「再び帝都揺らぐ/群馬県前橋市は/9月1日以上の大地しん」という見出しが目に留まった=写真。(旧漢字と漢数字は新漢字・洋数字に替え、適宜、句読点を入れた)。この余震では19人が亡くなり、638人が負傷したという(ウィキペディア)。

「今朝午前5時30分、東京に再(ま)た復(ま)た激しんあり。被害・しん源地等未だ不明なるも、群馬県前橋市付近は9月1日以上の大地しんなり(午前10時本社着電)」

 間もなく第2報が入る。「疑問の/震源地/電信電話不通/旅客列車脱線」。記事本文から、脱線したのは東海道本線の戸塚―保土ヶ谷間(横浜)で、死傷者はなかった。震源地は「タンザワ付近」。第1報から1時間後の第3報の見出しは「和田倉門は倒れ/二重橋前は陥没/各ビルデング破損して/京浜地方は今尚ほ混乱状態」。

 いわき地方にもすぐ影響が現れた。「平駅に/列車が着かぬ/電報も大遅延/今朝の震災で」。記事本文「上野駅午前6時20分発の下り列車は、平駅に午後12時55分到着となって居るが、今朝の強震の為め此(この)稿を締め切る午後2時10分に至るも、未だ列車は到着しない。又、東京方面への電報は至急電報を除く外は仙台を迂回する為め、非常に遅れると平局員が語って居た」

 東日本大震災は地震名「東北地方太平洋沖地震」、同じく関東大震災は「大正関東地震」だ。4年9カ月前の東日本では前震があり、本震のすぐあとに余震が連発した。92年前の関東でも本震は「双子地震」、そして間髪を入れずに巨大余震が2回発生したという。

 そのあとにまた巨大余震が襲った。関東では4カ月半後の1月15日に、東日本ではちょうど1か月後の4月11日に。後者はいわき市南部が震源地だった。山崩れで4人が亡くなっている。翌12日にも、前日の震源地の北側で巨大余震が発生した。

 92年前の余震は「丹沢地震」と呼ばれているようだ。いわき市南部の余震はなんと? 「東北地方太平洋沖地震」のただの余震なのか。「福島県浜通り地震」という名称もあるようだが(ウィキペディア)、気象庁が名づけたものなのかどうか。

 いずれにしても、関東大震災に死者19人を出す巨大余震があったことは、常磐毎日新聞を見るまで知らなかった。東日本大震災ではその分、余震に対する警戒が甘かった、とはいえるだろう。単に自分を振り返ってのことだが。

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