2015年12月14日月曜日

第6回いわき昔野菜フェスティバル

 6回目のいわき昔野菜フェスティバルが土曜日(12月12日)、中央台公民館で開かれた。午前中は「売りたい・作りたい・使いたい」人や料理人・加工業者などのための商談会、毎回おなじみの種子交換会、初心者向け栽培ミニ講座、調理体験教室が開かれた。
 午後は、昔野菜の生産者らを交えてリレートークが行われた=写真。初回から講師とコメンテーター・アドバイザー役を務めている山形大の江頭宏昌教授が、今回も全国の動きを紹介しながらいわきの取り組みを評価し、生産者や料理人、今年発足したいわき昔野菜保存会の面々を激励した。
 
 フェスティバルは年々充実している。いわき昔野菜を「知ってもらう」から「活用してもらう」に重点が移り、中身も「参加型」(江頭教授)に進化した。
 
 縁あって、初回から参加している。今回は昼前、用事があったので、午後のリレートークだけ聞いた。たまたま案内された席の隣にいたのが沿岸部の永崎で「かんぴょう」づくりをしている作山さん夫妻だった。人生の大先輩だ。せっかくの機会なので、前々から疑問に思っていたことを聞いた。
 
 かんぴょうといえば栃木県だが、栃木県となにか縁でも? 「バクロウ(牛馬売買人)が栃木から(ユウガオの)種をもらってきたんだ」とか。そこから「磯仕事」としてユウガオ栽培が始まった。
 
『いわき昔野菜図譜』(2011年3月発行)に由来が書いてある。「永崎の方々が栃木方面へ出かけた際にかんぴょう作りを知り、その作業が夏の朝飯前の磯稼ぎ(磯辺付近の早朝農作業)として最適だろうと考え、種子を持ち帰り、隣組間で種を分け合いながら栽培が広まった」

 作山さんは「磯仕事」といい、図譜は「磯稼ぎ」という。要は漁・農を組み合わせて暮らしを維持してきたということだろう。偶然が根づいて、何軒か漁業の合間にユウガオを栽培し、かんぴょうづくりをしてきた。ところが――。高齢化に津波が追い打ちをかけた。
 
 作山さんは、ユウガオの種を天井近くに置いておいた。それが幸いした。胸まで浸水した。ほかの家では種が水につかってしまったために捨てるしかなくなった。で、それっきり栽培もやめた。「種が残っていること自体、奇跡なんだ」。作山さんの話に思わず感動した。

 昼食は予約制で四つの料理店でつくった弁当が出た。私は頼まなかったから現物は見ていないが、その日の夜、知人が華正楼の弁当の写真をフェイスブックにアップした。驚いた。四角いプラ弁当が3×3の9のパーツに分かれている。方形のお膳に9つの豆皿を並べた懐石料理をテレビで見たことがある。それの中華版だ。パーツは小鉢に似せたつくりで、模様が全部違っていた。

 江頭教授は、1年前(2014年)、山形県鶴岡市がユネスコの<創造都市ネットワーク>に「食文化」の部門で加盟・認定された経緯などを紹介した。端的にいえば、①出羽三山と精進料理②黒川能ともてなし料理③50種類以上の在来作物が暮らしに根づいている――ことが大きい。

 それだけではもちろんない。鶴岡市役所の広報文によると、同市では山・里・海の四季折々の食材が育まれ、年間を通じて多様な食文化を楽しむことができる。食材の生産者のほか、シェフ・料理人など食文化にかかわる人材が豊富。「生きた文化財」である在来作物の研究と活用にかかわる活動も盛んだ。

「山・里・海」は、いわきでは「ハマ・マチ・ヤマ」になる。広域性が食文化の多様さ、豊かさの源泉であるという点では、いわきも鶴岡と同じだ。大地震・大津波・原発事故の、いわば「千年に一度の危機」が、かえって生産者・シェフ(料理人)・官民のつながりと創意を生んだ。それもこれも大震災の前の年から、市が「いわき昔野菜」事業を始めていたからだ(これまでに掘り起こした昔野菜は約70種類になる)。

 震災後だったら、土建事業的な復旧・復興の声にかき消されて昔野菜どころではなかったろう。ユウガオの種と同じで、これも奇跡的なことだったと後世、いわれるようになるかもしれない。

 経済としての生産~加工(料理)~消費のほかに、文化としての生産~加工(料理)~消費もある。昔野菜がそれで、やりようによっては「食文化創造都市いわき」が可能だろう。伝統と創造が融合した、新たな食文化が輝く時代がきた、とはいえないか。

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