2015年12月20日日曜日

バス運転手

 BS-TBSの「地球バス紀行」をよく見る。12月17日は米・ロスアンゼルスのダウンタウンが舞台だった。バスの運転手は、一部の国を除いて穏健・親切なことで共通している。ロスの黒人運転手も例にもれず、人のよさそうな人物だった=写真。
 乗客のいのちをあずかっている以上は、プロの運転手には常に安全運転が求められる。ちょっとしたことでカリカリ、イライラするようだと、急発進したり急ブレーキをかけたりしかねない。乗客のけがと交通事故のもとだ。
 
 毎回、運転手はどんな表情をしているのか、興味を持って見る。というのは、義叔父がいわきの山里(三和町上三坂)で路線バスの運転手をしていたからだ。運転中はもちろん、私生活でも寡黙・温厚・篤実を絵にかいたような人だった。無事故・無違反が義叔父の誇りだったろう。それさえ自慢するわけでもなく、静かに余生を送って彼岸へ渡った。
 
 職業人としての、当たり前の仕事が、こちらが年を取るにつれてすごいことなのだと思えるようになった。尊敬する人間の一人でもある。
 
 義叔父の配偶者は私の叔母。叔母は毒舌で知られた人で、今も上三坂の人に会って、「○○の甥です」というと、「いやぁ、……」と叔母に毒舌を吐かれたことを話す。叔母の毒舌は、「有頂天」を「落胆」に変え、結果的にその中間で「また頑張るか」と思わせる効果があった。私がそうだった。

 義叔父は、本人はそんなことを意識するわけもなかったろうが、戦後の復興と、それに続く高度経済成長を、地方のそのまた地方の片隅で支えた。「地球バス紀行」で運転手を見るたびに、ここにも義叔父がいる――そう思うのだった。車内の様子や車窓からの眺め、バスを降りての散策は、ほかの旅番組と同工異曲だ。「路線バス」というところにだけ、私は引かれる。
 
 ついでながら――。三和へ行くと旧上三坂宿に寄り道して、叔父叔母のマイホームを横目に見ながら帰る。
 
 およそ2カ月前、同じ上三坂出身の同級生が亡くなった。通夜・告別式・火葬・精進あげと骨になるのを見届けた。骨あげまでの間、火葬場で故人の妹さんらと雑談した。そのとき、「上三坂宿、上市萱宿も昔のままだったら、『いわきの大内宿』になれたんだよな」なんて勝手なことを語った。

 市街地の平から山里の上三坂に義叔父が転勤し、車庫兼社宅に住むようになったのは、昭和30年代前半だったか。車庫は上三坂宿から少しはずれたところにあった。バスは今の国道49号ではなく、旧道の長沢峠を走ったような記憶があるのだが、定かではない。義叔父の運転するバスの車窓から見た下市萱の風景と上市萱宿のかやぶき屋根の連なりを今も鮮明に覚えている。

0 件のコメント: