2015年1月31日土曜日

第5回いわき昔野菜フェスティバル②

 いわき昔野菜フェスティバルは、2011年1月末に1回目が開かれた。江頭宏昌山形大准教授が講演者、パネルディスカッションのコーディネーターとして、欠かさずフェスティバルに参加している。5回目の今年は「各地の伝統野菜を守る取組みについて」と題して、最新の調査結果を報告した=写真。

 1年に1回はいわきを訪れるようになって(いや、調査には来ているのかもしれないが)、市役所、リエゾンオフィス企業組合、生産者と、いわきに知友が増えた。参加者もリピーターが多いのではないか。「一昨年、昨年と選にもれた」。3年ぶりにフェスティバルに来ることができた、という知人がいた。私もそうだが、いわきには江頭ファンが増えている。

 江頭さんは今回、北海道から沖縄まで、全国各地の伝統野菜を守る取り組み事例を報告した。行政レベルでは主に県が手がけている。NPOが中心のところもある。そのなかで、いわき市の「昔野菜」事業は、調査・栽培・普及・図譜発行と、複合的な取り組みがなされている、しかも、県ではなく市が手がけている、という点で、全国に誇れる先進事例であるらしい。

 ここからは江頭さんの話を聴いての空想――。伝統野菜は季節と場所と量が限られる。そのため、流通経路にはのりにくい、いや排除される。自家消費に押し込められる。

 ところが、「経済的価値」とは異なった「物語的価値」には富んでいる。嫁に来るとき、母親が種をもたせてくれた、越中富山の薬屋が種を持ってきた、……。その家、その地域に継承されている伝統野菜には独自の物語があるのだ。
 
 その種・株はしかし、常に消滅の危機にさらされている。伝統野菜を守り、継承しようとすれば、種を、栽培される場を、広くはコミュニティーを守らないといけないのではないか。その支えになるのは「いいものは割高でも買う」という消費者の思い。つまり、「フェアトレード」の精神だ。
 
 逗子フェアトレードタウンの会の理論的支柱でもあるフェアトレード研究者、長坂寿久元拓殖大教授によると(逗子で長坂さんと一緒に講演したミステリーハンターのタレントさんのブログの受け売りだが)、フェアトレードはコミュニティー活動であり、地域開発運動である。いわきの昔野菜にフェアトレードの概念をつないだら、新しい光が見えてくるかもしれない。

2015年1月30日金曜日

第5回いわき昔野菜フェスティバル①

 第5回いわき昔野菜フェスティバルがおととい(1月28日)、沿岸部のいわき新舞子ハイツ=写真=で開かれた。いわきリエゾンオフィス企業組合を事務局に、いわき市農業振興課が主催した。

 応募者が定員の200人を上回ったため、今年も抽選が行われた。年々、参加希望者が増えている。1回目のフェスティバルのあとに原発震災が発生した。以来、福島県内農産物の風評被害が続いている。そうした逆境のなか、いわきの消費者が必死になって放射能について学んだ結果の選択(参加者増)だ。

事業が震災前にスタートしていたことが、昔野菜が地域の宝であること、かけがえのないものであることを再認識させ、継続させる力になった(ように思う)。震災後では、復旧・復興の声にかき消されて昔野菜どころではなかったろう。

 昔野菜(在来作物)の「三春ネギ」を栽培している。それで、2010年夏に2回、市の広報祇とリエゾンオフィス調査員のインタビューを受けた。以下は、広報紙に載った記事を受けての、当時の私のブログ(抜粋)。
 
 ――「広報いわき」2010年8月号に、「いわきの伝統農産物を次世代へ」と題する特集が載った。「近年、食の安全・安心や地産地消への関心が高まり、伝統的な食文化を見直す動きが広まっています。このような中、市では、地域に伝わる昔ながらの在来作物を次世代へ継承するための取り組みを進めています」

 記事では、在来作物とは何か、なぜ在来作物が大切なのか、などについてふれたあと、①在来作物の発掘・調査②展示・実証圃(ほ)での栽培③(仮称)スローフード・フェスティバルの開催④在来作物に関する冊子の製作――を柱とする事業をPRしている。――
 
 事業を展開している農業振興課の当時の園芸振興係長と、広報広聴課の女性が拙宅へ取材に来た。それが、「いわき昔野菜」事業とかかわる始まりだった。「(仮称)スローフード・フェスティバル」は「いわき昔野菜フェスティバル」になり、「冊子」は「いわき昔野菜図譜」に結実した。頼まれて、図譜に毎回「はしがき」を書いた。
 
 新舞子ハイツを訪ねるのは、震災後初めてだ。この施設も津波に襲われたが、よみがえった。「昔野菜」事業も消えるどころか、かえって盛んになった。
 
 震災3カ月後、担当の係長氏に「風評被害を防ぐため、土、作物の線量チェックを定期的に行うことを勧めます」といったメールを送ったことを思いだす。その後、画期的な「見える化プロジェクト“見せます!いわき”」事業が始まった。
 
 昔野菜事業を介して、学者・生産者・料理人など、いろんな人と出会った。このつながりも大切な財産になった。

2015年1月29日木曜日

V字飛行

 土曜日(1月24日)の朝、勝手口の外にある灯油缶と牛乳瓶を手にもって、足で玄関の戸を開けようとしたら、「コーコー」と鳴きながらハクチョウの小群が飛んで来た。
 雲ひとつない青空をバックに、10羽ほどがV字形に編隊を組み、南西の夏井川から北東の山側へと向かっていた。とっさに「カメラを」と思ったが、手がふさがっている。白い体が朝日に輝いてきれいだった。
 
 小欄で何度も書いているので気が引けるのだが、ハクチョウが朝晩、家の上空を通過する。鳴き声が降ってきても、いつものことだからと気にも留めない。が、空の色と時間によっては美しい瞬間があるのだ。

 月曜日、朝から茶の間のこたつに陣取って仕事をした。午後になるとさすがに腰のあたりが重くなった。外の空気も吸いたくなった。カメラをぶらさげて夏井川の堤防まで散歩に出かけた。歩いて出かけるのはそれこそ2年2カ月ぶりだ。
 
 夕方4時――。近所の家の庭のロウバイが咲いて、香気を放っていた。無風だが、空気は冷たい。人間はたまに「寒ざらし」をすることで気持ちがシャキッとするのではないか。そんなことを考えながら歩いていると、音もなくハクチョウが数羽、山陰や河口周辺の田んぼから夏井川の休み場へ帰ってくるところだった。気づいたときには、ファインダーのなかでけし粒になっていた。
 
 こうなったら狙って撮るしかない。帰宅して、2階の物干し場で20分ほど北東の空を眺めた。不意に小群が現れる。夕方も鳴きながら飛んでくるグループがあるが、この日はみんな黙って川へ戻っていく。しかも曇天。灰色をバックにしたハクチョウでは、鮮やかさに欠ける。わずかに撮れた1枚がこれだった=写真。青空にくっきりとV字を描く編隊を撮るまで粘ってみるか。

2015年1月28日水曜日

オープニングパーティー

 街のギャラリーから展覧会の案内はがきが来る。オープニングパーティーが開かれる場合もある。平のギャラリー界隈で土曜日(1月24日)夜、阿部幸洋絵画展のオープニングパーティーが開かれた=写真。

 阿部さんは毎年、スペインから里帰りをして、ふるさとのいわき、その他で個展を開く。オープニングパーティーは画家本人、そして仲間と旧交を温める場でもある。

 いつもの顔ぶれがそろったなかに1人、80歳は超えたと思われるおばあさんがいた。品のいい顔をしている。紫色の毛糸の帽子をかぶり、ラクダ色のコートに同系色の厚手のマフラーをし、手袋をして傘を持っている。

 阿部作品の新しいコレクターだろうと思ったが、ぽつんと1人、隅のいすに座っているのが不思議だった。だれかが声をかけるわけでも、だれかに話しかけるわけでもない。祝辞と乾杯の発声が終わって参加者がテーブルの上の料理に群がると、おばあさんも加わった。

 そのうち、おばあさんの姿が消えた。おばあさんを知る知人が遅れてやって来た。顔を合わせたあとにいなくなった、と知人がいう。料理の出るイベントに現れては“持論”を語り、料理を食べて帰るのだそうだ。知人の地元では知られた存在らしい。

 いつ、どこで、どんなイベントがあるか、常にチェックしていないと料理にはありつけない。なんという情熱だろう。

 昔、「葬式ばあさん」というのがいたそうだ。弔問客になりすましてお斎(とき)の料理を食べに来る。貧しい時代だったから、見て見ぬふりをして追いたてるようなことはしなかった。

 現代の「パーティーばあさん」は貧しいのか、寂しいのか。会費制のオープニングパーティーではないから、基本的には「だれでもウエルカム」。そこをついてきた。人間っておもしろい。

2015年1月27日火曜日

阿部幸洋絵画展

 いわきからスペインに渡って35年目。中部、ラ・マンチャ地方のトメジョソに居を構える画家阿部幸洋さんの絵画展が、平のギャラリー界隈で開かれている=写真。2月2日まで。

 阿部さんは昨年10月、トメジョソにあるアントニオ・ロペス・トーレス美術館で大きな個展を開いた。油絵の本場で画家として認められたあかしだ。それを記念するふるさとでの絵画展で、スペインでの個展にも出品した、比較的大きな作品3点を含む小品25点が展示されている。

 彼の20歳のころから作品を見ている。風景を写真のように描くスーパーリアリズムの技法は、若いときに“封印”した。今はラ・マンチャ地方の風物、壺などの静物を描く。

 個展のたびに何かテーマを決めて描いている。今回はピンク色を意識して使っている。曇ってはいるが、ピンクがかった明るい空――朝焼け・夕焼けかと聞けば、主に午後の空に引かれて描いているという。作品を「実景」と見る必要はない。画家がとらえた建物・平原・丘・空、夜の街灯……。それら一切が画家の内部で点滅した結果としての心象風景だ。

 トメジョソでの個展には、いわきから知人たちが観光を兼ねて出かけた。学校の後輩が添乗員を、内郷出身の草野弥生さん(グラナダ在住)がガイドを務めた。草野さんのフェイスブックを通じて個展や知人たちの観光の様子が手に取るようにわかった。

 いわき市立美術館の佐々木吉晴館長もプライベートで個展を見て来た。アントニオ・ロペス(1936~)というスペインの現代美術を代表する画家がいる。甥である彼の才能を見いだしたのは、叔父の画家アントニオ・ロペス・トーレスで、その名前を冠した美術館だということも、彼を介して知った。

 作品がインターナショナルのレベルで評価されるまでには、それこそ毎日コツコツと色を研究し、技を磨いてきた長い年月があった。そんなことをあらためて実感する絵画展だ。

2015年1月26日月曜日

アセビの花

 きのう(1月25日)は日中、3週間ぶりに夏井川渓谷の隠居(無量庵)で過ごした。1月下旬から2月上旬がいわきの極寒期。室温は午前10時に着いた時点で氷点下3度だった。この時期、朝8~9時の室温は氷点下5度が普通だから、一時的に寒がゆるんでいるのかもしれない。濡れ縁の、雨だれ受けの鉢の水も凍ってはいなかった。

 隠居の庭の道路際にアセビが植わってある。ほんの一部だが、花を咲かせていた=写真。植物の世界では、最も寒さが厳しいときに目覚めるものがある。その1つがアセビ。今年は早い。

 年末には土が凍っていて取れなかった辛み大根だが、きのうは簡単に引っこ抜くことができた。生ごみも地面を掘って埋めた。昨秋埋めた生ごみが、タヌキかハクビシンかにほじくり返されていた。凍土では生きものも手が出ない。スコップがスーッと入っていくような状態だから、生きものも前脚で簡単に土をかくことができるのだろう。

 近くに夏井川支流の中川から小集落を巡って本流に注ぐ用水路がある。厳冬だとしぶき氷ができる。それがない。

 帰宅して、し忘れたことを2つ思い出した。フキノトウが下の庭に出る。それをチェックしなかった。対岸の木守の滝に氷柱ができる。1月下旬にかけらを採取して、夏まで冷凍庫に入れておく。この天然氷を取りに行かなかった。雪がチラつくことはあっても、鼻水が垂れるほど寒くても、暖冬で推移している。氷柱は採取できるほどではなかっただろうが。

2015年1月25日日曜日

いわきは広い

 福島民友新聞のきのう(1月24日)の1面コラム「編集日記」=写真=です。自己宣伝ですみません。(新聞では▼で起承転結を示しているが、ここではいつものように行分けにした)
                 ☆
 いわきで取材などで話をしていると、「いわきは広いから」と言うのをしばしば耳にする。「単純にひとくくりにできない」「いろんな側面がある」というような意味を込めているようだ。

 では「広い」とどうなるのか。いろいろ考えてみたがつかみきれないでいた。この言葉の意味を理解する一つの視座を与えてくれたのが、いわき地域学会の代表幹事を務める吉田隆治さん。

 いわきを横断する夏井川、藤原川、鮫川の3流域と、海岸沿いの浜、平野部のまち、阿武隈山系の山の縦に延びる3地域からなる3極3層の見方で、吉田さんは約25年前にまちづくりの考え方として提案した。流域や地域ごとに独特の文化や交易圏をつくり、人々の考え方に影響を与えてきたという。

 この「広いいわき」に海岸線ルート53キロを含む総延長119キロの自転車道路網が既存の道路も活用して整備される。吉田さんの言葉を借りれば「毛細血管ができる」。

 北から南に広がる浜の食文化や内陸の異なる風習……。変わらないことや異なることを体で感じられる手段が一つ加わる。今まで見えなかったいわきが見えてくるかもしれない。
                 ☆
 地域紙の記者にとって大事なのは、天下・国家を論じることではない、生活の現場からニュースを掘り起こすことだ。その現場(いわき)をどう見るか、私の場合は「3極3層」という考え方だった。この欄でもときどき触れている。

「編集日記」氏に以前話したことがあって、自転車道路網の整備計画が発表されたのに合わせて、再度話を聞かせてくれとやって来たのだった。(人の文章ですみません)

2015年1月24日土曜日

NHK東北Z(下)

 阿武隈高地に関する放射能関連情報をネットで検索すると、NHK・東北Zに登場した東大の先生の「高線量地帯周辺における野生生物の生態・被曝モニタリング」報告があった。日本生態学会での放射能汚染研究の概要もあった。
 
 日本勤労者山岳連盟による「山と登山道の放射線量測定結果について」(2012年5月17日付)に興味を持った。わがふるさとの山、例えば大滝根山(1193メートル)、鎌倉岳(967メートル)の線量はどうなっているのか。
 
 大滝根山は最高値1.987マイクロシーベルト/時(1185メートル地点)。ところが、鎌倉岳は705メートル地点で6.256マイクロシーベルトだった。事故を起こした1Fから西に30キロ、国道288号をはさんで南に大滝根山、北に鎌倉岳が向かい合っている。全村避難中の葛尾、飯舘村は鎌倉岳のすぐ北東から北に位置する。
 
 放射線量の測定は震災から半年余あとの、2011年10月から翌年4月にかけて行われた(大滝根山は10月、鎌倉岳は11月)。それから2年後の鎌倉岳の様子を、2013年11月4日付の毎日新聞福島版「ルポ福島 鎌倉岳の空間放射線量」(藤原章生記者)で知った。藤原記者は確かいわき市出身の編集委員だ。1年前、昔の職場の後輩が新聞のコピーを届けてくれた=写真。
 
 アップされた勤労者山岳連盟の測定結果に、月刊「登山時報」2012年7月号に掲載された野口邦和・日大准教授の講演記事が添えられていた。そのなかに、鎌倉岳の「頂上東側の登山道を外れた藪(やぶ)の中で10マイクロシーベルト/時の値を示した。これは測定器上限を超え線量計が振り切れた値である」という記述がある。
 
 毎日新聞のルポ記事に、そのくだりに対応する部分があった。見出しだけ紹介する。「山頂直下『測定不能』から7マイクロシーベルトに」。2011年の測定と照らし合わせると、2年後には線量が減衰したことがわかる。半減期2年のセシウム134が減った結果だろう。にしても、高い。
 
「登山時報」にはさらにこうあった。「汚染物質は低い風により運ばれ、地形の影響を受けた。風や雪の影響を受けた山の東側斜面に蓄積し、谷間に水が淀み、ホットスポットが表れた」。南北に伸びる阿武隈の分水嶺が“壁”になって、主に東側の山の斜面が放射能にまみれた。

 山岳連盟の場合は、阿武隈の山々、広くは福島県の山々の登山ははたして可能か、が測定の目的だ。原発事故からほぼ1年が過ぎた時点では「避難区域外の山であれば、被曝量が問題になることは少ない」という評価だった。それから3年がすぎた。問題になる度合いはさらに下がったというべきだろう。
 
 鎌倉岳は小学校の遠足で初めて登った。頂上から双葉の海が見えた。大滝根山へは、中年になって何年か続けて登った。阿武隈の山の子として育った以上は、阿武隈の山の「今」と向き合い、考え続けないと申し訳が立たない――3・11後はそんな思いが残響している。

2015年1月23日金曜日

NHK東北Z(上)

 放送から1週間。番組に刺激を受けて、ときどき、ネットで阿武隈高地の放射能関連情報を集めている(その話はあした)。

1月16日夜、NHKの東北限定番組・東北Z「生命(いのち)に何が起きているのか――阿武隈山地・科学者たちの挑戦」=写真=が放送された(「高地」ではなく「山地」にこだわる理由があるのだろう)。

 NHKは、通常のニュース報道のほかに、NHKスペシャル、ETV特集といった、ディレクターによる調査報道を手がけている。今度の<東北Z>のディレクターに記憶があった。震災直後、初めて阿武隈高地の放射能汚染を明らかにしたETV特集取材班のディレクターの1人だった。継続して取材をしていることに敬意を表するとともに、NHKの取材陣の層の厚さに感じ入った。
 
 番組の案内文をかみくだくと――。原発事故で放射能に汚染された阿武隈の森は、今、世界的に注目されるフィールドとなった。長期にわたる低線量被曝は生物にどんな影響を与えるのか。研究者が森に分け入り、細胞・遺伝子レベルでの影響の有無を調べている。住民とともに調査した3年間の記録だ。ウグイス・牛・ヤマメなどが取り上げられた。
 
 阿武隈はわが先祖の墳墓の地。調査に協力した飯舘村民が言う。「人生が狂った、春は山菜、夏は釣り、秋はキノコ……(それができなくなった)」「何の楽しみもなくなった」。自然の恵みを暮らしの中に取り入れて生きてきた山里の人々の胸中を思うと、怒りがわいてくる。
 
 浪江町の牧場では、牛を安楽死させたこともある。その牛も調査に供された。しかし、それでも5~10年、調査を続けないと評価はできないという。地道な調査の「現況報告」だった。
 
 阿武隈高地で生まれ育った人間としては、とにかく科学的・客観的なデータが欲しい。わかったこと、わからないことを踏まえて伝える番組に好感が持てた。

2015年1月22日木曜日

アラレの話

 東京はきのう(1月21日)朝、雪が舞ったとか。いわきは午後になって天気が崩れ、平地で雨になった。山間部は雪だったか。けさ、起きるとすぐ家の前の道路を見た。凍結はしていなかった。

 先日、魚屋さんで天気の話になった。「このごろ、おかしいですよね」「凶暴化してるよね」。年末も押し詰まった大みそかの晩、6時ごろ。10分余だったが、アラレが降った=写真。雷まで鳴った。そのときの話をしたら、「四倉では車が出せないほどアラレが積もって道が真っ白だったそうです」と教えてくれた。

 縁側のプラスティックの波形スレート屋根にアラレが当たり、激しい音を立てた。慌てて車の屋根に毛布をかぶせた。アラレが手の甲に当たって痛かった。(アラレといい、ヒョウという。その違いは、氷の粒の径だそうだ。5ミリ未満がアラレ、以上がヒョウ。ヒョウの落下速度は時速100キロに達するとか。痛いはずだ)
 
 2011年3月11日の1カ月後、4月11、12日と、いわき市南部を震源とする震度6弱の巨大余震が起きた。
 
 11日、夕方5時16分。激しい縦揺れと同時に雷雨が襲った。バキバキバキ! 火花を散らしながら雷が落ちるのを見た。すぐ停電した。「天変地異」とはこのことか――心底、そう思った。このとき、鮫川渓谷の石住では山崩れが発生し、車で走行中の男性を含めて4人が死亡した。
 
 激しく屋根をたたくアラレに、4・11の記憶がよみがえった。雷、アラレ、もしかして竜巻も? 2014年の締めくくりにまたまた「天変地異」かと、恐ろしくなった。
 
 魚屋さんへ出かけたのは、小名浜の寺で「かんのん市」が開かれた日曜日(1月18日)の夕方。朝から冷たい季節風が吹き荒れていたので、予約分の仕事を終えたら、早仕舞いをするつもりでいたという。それが、午後には風がやんだ。おかげで、いつもの日曜日のように刺し身を口にすることができた。

冬場は、カツオが入らないからあるもので決める。ヤリイカとアジにした。「やっぱり地球温暖化のせいだよね」。アラレと強風の話を切り上げて、魚屋をあとにした。

地震で家がつぶれていたら、竜巻で屋根を飛ばされていたら……。がたぴしでもまだ住める、こたつと石油ストーブで温もりながらテレビを見、刺し身をつついてグイッとやれるありがたさを思った。

2015年1月21日水曜日

神谷の白菜

 きのう(1月20日)のブログの終わりにこんなことを書いた。小名浜の徳蔵院で「初観音」が行われたときのひとコマ――。

<「かんのん市」は一種のフリーマーケットだ。知人夫妻は神谷産の白菜や米などを並べた。カミサンが白菜を2玉買った。小名浜で地元・神谷の白菜を手に入れる不思議。これも、コミュニティー意識のなせるわざだろう>
 
 その白菜の話。「かんのん市」の翌朝、白菜を8つ割りにして縁側で干した。午後3時すぎには甕(かめ)に漬けこんだ=写真。それが、おととい。
 
 きのうの夕方、甕を見るともう水が上がっていた。この冬は2回漬け込んだが、塩の振りが甘く、水の上がりが遅かった。それで、今回は水の上がりを早くするために天日干しの時間を短くした。葉先までまんべんなく塩を振った。思った通りにすぐ水が上がった(やった! こんなことでもうれしくなる)。重しをひとつ取り除いた。
 
 買った白菜は、外見はみずみずしいものではなかった。白菜を栽培したことがあるので、真冬はそうなる、とはわかっていても、白茶けていた。それこそ、真冬の畑にさっきまでかじかみながらいた――そんな感じだった。
 
 さて、水は上がったが、食べるにはまだ早い。けさ、葉っぱをちょっとつまんだら、ストレートに塩味がした。葉っぱも草っぽい。塩がなじんでいないのだ。

シャキッとしながらしんなりしている、という状態になるまで、あと1日、いや2日。白菜漬けとしては初めての、歩いていける範囲内での「地産地消」が始まる――なんて、勝手に意味づけをしてしまう人間がいた。

2015年1月20日火曜日

かんのん市

 毎年1月15日前後の日曜日、いわき市小名浜大原の徳蔵院で「初観音」が開かれる。今年は18日だった=写真。

 国際交流のイベントが縁で住職の奥さんとカミサンが知り合った。以来、初観音と同時開催の「かんのん市」で、カミサンが「シャプラニール=市民による海外協力の会」のフェアトレード商品を展示・販売している。もう10年以上になるだろうか。

 私は運転手なので、「かんのん市」が始まる前に送り届け、終わるころに迎えに行く。祭りは1時間ちょっとで終わる。往復の時間がもったいない。今年は駐車場で資料読みをすることにした。

 風は強かったが、車内にいると陽光がさしてほんのり暖かい。30分ほどで睡魔が降りてきた。環境が変わっても朝寝の習慣は変わらなかった。今年はともかくも、そうして初めて寺にとどまった。

それと、もう1つ。「かんのん市」に新しく参加した知人夫妻がいる。知人は同じ平・神谷地区の区長仲間だ。カミサンを境内に送り届けたときに、似たような人がいる、と思った。向こうも同じように感じたという。駐車場に車を止めたあと、境内に赴くと、知人もすぐ気づいて、「やあやあやあ」となった。

 奥さんとカミサンも、初対面ではなかった。豊間に大きな病院がある。そこに看護師として勤めていた。その病院にはカミサンの知り合いがいる。奥さんの同僚で、一度、彼女と一緒にわが家(米屋)を訪ねたことがあるそうだ。

 それぞれのつながりから、たまたま「かんのん市」で一緒になった。そう、人はさまざまなコミュニティーに属している。私も知人も前日、区長協議会主催による地区の「新春の集い」を終えたばかりだ。翌朝、小名浜で顔を合わせるとは思ってもいなかった。

「かんのん市」は一種のフリーマーケットだ。知人夫妻は神谷産の白菜や米などを並べた。カミサンが白菜を2玉買った。小名浜で地元・神谷の白菜を手に入れる不思議。これも、コミュニティー意識のなせるわざだろう。

2015年1月19日月曜日

“復興糠漬け”

 きのう(1月18日)の日曜日、小名浜で用事をすませたあと、海寄りのルートで帰宅した。途中、15日に本オープンした豊間復興商店街「とよマルシェ」へ寄った。

 冷たい西風が吹きつけていた。トイレを借りている間にカミサンの姿が消えた。足踏みしながら外に立っていると、「ベジタブルShiGA」から顔を出した。野菜を買ったあと、店の経営者やそのお母さんと話をしていた。お母さんがコーヒーを出してくれた。

 国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が震災直後、初めて国内支援に入った。いわきに拠点を定めて津波被災者や原発避難者の緊急支援、生活支援活動を展開した。今も平で交流スペース「ぶらっと」を運営している。

 震災から2カ月近くたったころ、シャプラは緊急支援から生活支援へと活動の中身を切り替えた。アパートなどの一時借り上げ住宅に入居している世帯を対象に、調理器具セットの無料配布を行った。7月末までに950セットを配った。

 シャプラのいわき連絡会を引きうけているカミサンが、スタッフとともに初日に配ったなかに、豊間で牛乳製造業を営んでいた志賀さん母子がいた。息子さんに会って調理器具セットを渡した。酒を飲んでいるようだった。

 大災害のあとの一家の大黒柱の心情はどんなものか。私の少年時代の経験だが、大火事で家が類焼したあと、父親が制度資金を借りて家を再建した。借金が重くのしかかったためか、夜になると酒を飲んで荒れた。突然、家を流され、仕事を失ったハマの人も、ふるさとを追われた双葉郡の人も、未曽有の災厄に押しつぶされそうになっていた。息子さんの失意がわかるような気がした。
 
 豊間の災害公営住宅ができると、内陸のアパートから引っ越した。その近くに住宅向けの復興商店街ができた。息子さんが八百屋を始めたのは、やがて牛乳製造を再開するためでもある。カミサンが調理器具セットを届けたときの印象をいうと、「今は飲んでいないですよ」といっていたそうだ。

 それより、私にはお母さんの話が面白かった。パック入りの漬物に「自家製漬物」とあったので、聞くと「私がつくるの」という。「漬物おばさん」で通っている、ということだった。糠漬けと白菜漬け、それに具だくさんの創作漬物を買った=写真。

「糠漬けは冬もつくってるんですか」と私。「そう。前は27年間、同じ樽(たる)3つでつくってたの」。その糠床も津波に流された。いのち以外、みんな流された。「すると、この糠漬けは新しい糠床で、ですよね」「そう、3、4年前からやってるの」「お母さんは糠床から復興を始めたんだ」

 暮らしの中で真っ先に“復興糠漬け”を始めた85歳のお母さんの元気が、息子さんの背中を押したのではないだろうか。

2015年1月18日日曜日

山の向こうは雪

 いわきの平地で暮らしながら、いつも阿武隈の山の様子が気にかかる。阿武隈の山里に生まれ、育ったからだろう。

 冬場、山肌に雪がないからといって車で阿武隈のふところ深く入っていくと――。道路は曲がりくねって、日なたと日陰が交互にあらわれる。南側の道端に杉林があると、雪が解けずに圧雪状態になっていたり、凍結したりしている。これまで何度か「ツツツー」とやって凍りついたことがある。
 
 全天候型タイヤをはいた4輪駆動車でさえそうだから、ノーマルタイヤのフィットに切り替えてからは冬の里帰りを控えている。今シーズン、初めてスタッドレスタイヤをはいた。少しの雪なら山を越えられるのでは、と思っているが、やはり踏み切れない。

 阿武隈の雪情報は、テレビではなくツイッターやフェイスブックを通じて手に入れる。この一両日も川内村が銀世界になった、二ツ箭山の頂上部だけ冠雪している、水石山が雪をかぶった――写真付きの投稿から阿武隈の山々の雪の様子を想像する。そのたびにふるさとは遠くなる。
 
 いわきでは、山がそうであっても平地では雨が降っただけ、あるいは一時みぞれになっただけ、というケースが多い。そのうえ、午後になると山の雪はあらかた消えている。街を走っているかぎりは、ノーマルタイヤでも不都合はない。その油断を自然は衝(つ)いてくる。

 例年、冬場は国道6号の常磐バイパス沿いに、国土交通省平維持出張所と福島県いわき中央警察署連名で「凍結・積雪道路のノーマルタイヤ走行は道交法違反(福島県道路交通規則)」の看板が立つ=写真。スタッドレスタイヤに切り替えてからは平気になったが、去年までは看板を見るたびに罪意識を感じたものだった。

2015年1月17日土曜日

坂村真民の詩

 月の初めには、交流スペース「ぶらっと」に届く双葉郡の自治体の広報紙に目を通す=写真。浪江・双葉・大熊・富岡各町の広報紙には、県内外に分散・避難した町民の声が載る。除染の進み具合や常磐道の部分開通など、その時々の町の様子も載る。

 <おやっ>と思うときがある。浪江町の平成27(2015)年1月号。町長に続く議長の新年あいさつの中に、坂村真民(1909~2006年)の詩が引用されていた。

「避難生活の長期化や復興の遅れが人の心を蝕んでいきます。放射能に対する考え方や帰る、帰らない、帰れないなどの意見の違いで弱い者同士で争い合いがないようにお互い気を付けなければなりません。そして、今の私たちにしかできないこともあります。私の言葉ではうまく表現できないので……」と断ったうえで紹介したのが、坂村真民の「あとから来る者のために」だった。

<あとからくる者のために/苦労をするのだ/我慢をするのだ/田を耕し/種を用意しておくのだ、あとからくる者のために/しんみんよ お前は/詩を書いておくのだ、あとからくる者のために/山を川を海を/きれいにしておくのだ、あああとからくる者のために/(以下略)」。『坂村真民全詩集』(大東出版社)には、これとは違ったかたちの「決定詩」が載る。

 あとから来る者のために、山を、川を、海をきれいにしておくのだ――ここがポイントだろう。放射能に汚されたふるさとを、汚されたままでは次の世代に渡せない、元の環境を取り戻すために頑張るのだ、という覚悟の表明でもある。

 実は先日、学校仲間の飲み会があったあと、ネットで先輩の情報を探ったときにも、坂村真民の詩に出合っている。先輩は平成24(2012)年11月、白河市議会議長として詩碑の除幕式に出席した。その10年前、愛媛県に老詩人を訪ね、思いのたけをぶつけたら、ふすま1枚分の直筆詩を送ってくれた。その詩「これからこれからと」が碑になった。
 
 常磐道広野IC~常磐富岡IC間が再開通した同26(2014)年2月には、復興祈念プレートが除幕された。坂村真民の詩「念ずれば花開く」が彫られている。
 
 これは静かな坂村真民ブームではないのか。東日本大震災という「地獄」を経験して、人を励ます真民の詩が広く受け入れられるようになっているのではないか。
 
 けさ(1月17日)、阪神・淡路大震災が発生した5時46分直後に目を覚ましたあと、「これからこれからと」を口の中で唱えてみた。<二度とない人生だから/これからこれからと/わたしもわたしに呼びかけて/励んでいこう>

2015年1月16日金曜日

「日本のハワイ」50年

 いわき市常磐藤原町のスパリゾートハワイアンズがきのう(1月15日)、オープン50周年を迎えた。14日付のいわき民報の企画広告=写真=を見ながら、しばし17歳の心に帰った。

 平高専(現福島高専)に入学して2度目の正月だった。陸上競技部の1年先輩に誘われて、オープン直後の「常磐ハワイアンセンター」へ遊びに行った。先輩はガールフレンド2人を連れてきた。先輩の中学校の同級生だったように記憶している。
 
 エネルギー革命によって、石炭産業が終焉を迎えつつある時期だった。阿武隈の山の中から夏井川を下ってやって来た少年には、そうした地域の実情はみえていなかった。温泉を使った屋内プールができて、フラダンスを踊る女の人がいる――面白そうな遊び場ができた、それだけだった。
 
 炭鉱から観光へ――今だからこそ認識していることだが、石炭産業が隆盛のころは邪魔モノだった温泉水を生かして、観光業へと業種を転換した。「一山一家(いちざんいっか)」の精神で失業者を出さないように、会社が新しい受け皿(企業)をつくった。それが成功した。そのへんのいきさつは映画「フラガール」に詳しい。先輩はそのころ、常磐の炭鉱住宅に住んでいた。
 
「日本のハワイ」だから「冬に泳げるところ」がミソ、いや「日本のハワイ」を売り込むにはオープンが真冬でなければならなかったのだろう(と、この年になってやっと合点がいった)。

 先日、湯本温泉のホテルで高専OBの集まりがあった。先輩の同級生がハワイアンセンターで遊んだ話をした。「〇〇クン(先輩)の奥さんは一緒にいた女の子?」「ではないです」「そうだよな」。17歳。同じ年ごろの女子がいるだけでときめいただけに、そのへんの記憶は鮮明だ。ところが、先輩の同級生がいたことをすっかり忘れていた。

 日曜日や祝日にはアイドル歌手がやって来た。私らは行かなかったが、女子中学生などはいつもその話でもちきりだった。そのころ、常磐ハワイアンセンターは少年少女の「聖地」だった。

2015年1月15日木曜日

「訂正」と「おわび」

 朝日新聞の訂正記事が変わったというから、1月12日付の紙面をパラパラやっていたら、スポーツ欄にあった=写真。私がデスクだったら「バカヤロー」と怒鳴ったかもしれないような単純ミスだ。まちがったワケを伝えつつ、最後に「訂正しておわびします」という文章を添えている。

 見出し代わりのカット(訂正を線で囲んでいる)は変わらない。変わったのは2つ。前はまちがった個所だけの訂正だったのが、なぜまちがったかを書いている。「訂正します」で終わっていたのを、「訂正しておわびします」と、「おわび」を追加している。

 44年前の昭和46(1971)年春から平成19(2007)年秋まで、いわきで地域新聞の記者・編集者をした。「訂正しておわびします」、あるいは「おわびして訂正します」になじみすぎるくらいなじんできた。

 地域新聞は読者との距離が近いだけに、まちがった記事を書くとすぐ電話がくる。ほとんどが聞きまちがい・写しまちがいといった初歩的なミスが原因だ。おととい(1月13日)の訂正記事に、成人式の記念品受領者の名前をまちがえた、というものがあった。

 小さな組織だから、記者は常に評価の最前線に立たされる。ミスには率直に頭を下げる。訂正記事に「おわび」が入るのは当然のことだ。

 大手新聞には、「訂正」には「おわび」は要らない、「おわび」は訂正のレベルを超えたもの、といった“不文律”があるのかもしれない。でも、地域新聞のOBからみると、それは発信側の勝手な線引きにすぎない。

 全体からみると何百万分部の1、何十万部の1、何万分部の1かもしれないが、個々の読者からいえば、新聞(社)とは1対1の関係、つまり個別・具体なのだ。そのへんの認識が弱いのではないか。
 
 朝日のほかはどうだろう――。ネットで訂正記事のカタチを探っていたら、池上彰さんが産経の総合オピニオンサイト「iRONNA」のインタビューにこたえているものがあった。タイトルがいい。「産経さんだって人のこと言えないでしょ?」
 
 そのなかに「最近、日経新聞の訂正も非常に丁寧になりました。前はただ『訂正します』という言葉だったのに、最近は『お詫びして訂正します』に変わった」とあった。
 
 読売はどうか――。きのう(1月14日)の社会面(36面)右隅にグレー地の白抜き明朝体で「訂正 おわび」のカットがあった。前は、そんなカットはなかったのではないか。

「13日【二面】フランスの連続銃撃テロ事件を受けた『行進に参加した首脳ら』の表で、米ホルダー司法長官は参加していませんでした。確認が不十分でした」。カットで訂正・おわびをしているから、本文に訂正・おわびの言葉は不要、ということなのだろう。なるほど、考えたものだ。

2015年1月14日水曜日

ネットの中の干し柿

 年始あいさつにカミサンの実家(米屋)へ行ったときのこと。南側の軒下の物干し竿に柿がつるしてあった。ほかの家のようにすだれ状ではない。2個をひもで結んで1組にし、それぞれに青いネットをかぶせている=写真。当主(カミサンの弟)がカラスに手を焼いて自衛した。

 中身がなくてネットだけのものもあった(片方がずっと下に垂れている)。ネットをかぶせても、カラスに破られて柿を持っていかれたのだという。

 いつの話かは聞きもらしたが、軒下の干し柿の数がいつの間にか少なくなっている。近所に住む姉(カミサンの妹)が店の手伝いに来る。最初はその姉が黙って持っていたのかと誤解していた。物置かなにかの屋根にのぼったとき、干し柿の残がいがあった。それでやっとカラスが“犯人”とわかった。

 カラスはめざとい。記憶力もいい。わが家でも、週に2~3回はごみネットでの攻防戦を展開している。何度も書いているが、家の前の歩道にごみ集積所がある。早朝、ごみネットを出すのが遅れると、生ごみが食い散らかされる。プラ容器だからと言って安心はできない。けさ(1月14日)もつつかれる前に黄色いごみネットを出した。

 おっと、ほんとうはカラスより干し柿の話をしたかったのだ。小さいころはおやつ代わりに食べたが、大人になってからは食べようとも、つくろうとも思わなかった。それが、人生の日暮れにさしかかって変わってきた。むしょうに懐かしい。

 昔、いわき地方の方言や郷土料理に詳しい知人の家を訪ねたとき、冷蔵の干し柿をもらった。知人の家ではそうして保存しておいて、正月に干し柿を食べるのだそうだ。

 その習慣は、知人が亡くなった今も続いているだろうか。原発震災がその食習慣を断ち切りはしなかっただろうか。

2015年1月13日火曜日

専友会

 きのう(1月12日)の続き――。平高専(現福島高専)の「入学者」の集まりである「専友会」が、久しぶりにいわき市で開かれた。いわき湯本温泉、ホテル美里が会場になった=写真。幹事が級友で、いわき開催ときては欠席するわけにいかない。十数年ぶりに参加した。

 個人的なネットワークから発展した集まりだから、参集範囲は限られる。それでも、出欠の返事をよこした先輩は弁理士、弁護士、会社役員、地方政治家、大学教授、元高校教師、サラリーマン生活を終えて民生委員や町内会に関係している人と、多彩だ。

 席上配られた返信はがきのコピーや近況報告を手がかりに、帰宅後、ネットで先輩の情報を探った。

 情報処理学会がコンピューターとトップ棋士との対局を望んで日本将棋連盟に挑戦状をたたきつけた。連盟の指名で女流棋士が受けて立ったが、コンピューターに敗れた。そのときの学会の会長が大学教授の先輩(1期生)だった。

 その技術がスペースシャトルにも使われた、化学分析用の機器を開発・製造している郡山市のベンチャー企業は、2期生が社長だ。「隠れた世界企業」だという。複合型ショッピングセンターの開発を手がける会社の経営者で、白河商工会議所副会頭を務める2期生もいる。

 弁理士の1期生がこれら2期生と連携し、特許などの知的財産を保護したり、中央と地方のパイプを生かして地域活性化事業を展開したりしているという。
 
 ほかに、石巻に住む2期生と話をしていたら、小名浜に住むいわき地域学會の先輩といとこだということが分かった。津波被害を気にかけていたのでその場でケータイをかけ、いとこ同士で話をしてもらった。石巻の自分の会社は港の近くにあった。グーグルアースで見ると、そこは更地になっている。
 
 そうそう、以前は湯本で定期的な飲み会があった。そのときのメンバーでもあるホテルの女将さんとも久しぶりに顔を合わせた。「ふっくらして、お元気そうで」「いやいや、むくんでるだけ」。これらも含めて、やる気を喚起する刺激的な集まりになった。

2015年1月12日月曜日

「ただの人」

 50年ちょっと前の、創立3年目の平高専(現・福島高専)。機械、電気、工業化学の3学科があった。修学年限は5年、定員は各学科40人。私ら3期生が入学した時点で学生数は3~1年生計120人余だった。

 土曜日(1月10日)に「期」をこえ、「科」をこえ、「卒業・中退」をこえた、もうひとつの同窓会「専友会」がいわき市常磐湯本町のホテル美里で開かれた。

 今は一緒に“海外修学旅行”をする別の科の仲間が、自己紹介を兼ねて当時の先生が3期生について評した言葉を披露した。これは解けないだろうという問題を出したら、1期生は解いた。それに比べたら――という話だ。「1期生は『神様』、2期生は『仏様』、3期生は『ただの人』」。別の先生にも、テストの平均点数が年々下がっていると言われたことがある。

 参加したのは1期生5人プラス奥方1人、2期生10人、3期生8人、4期生1人。すまいは福島県内を中心に、横浜、東京、宮城、茨城、遠くは京都などだ。68~65歳になっても、先輩・後輩の関係は変わらない。いや、先輩が慎み深くふるまうほどに緊張する。それぞれ個性的な「来歴」と「現在」は別に書くとして、とりあえず2つのことを記しておこう。

 1つは、湯本の温泉旅館の「今」について。3・11直後は、原発事故の収束作業に従事する作業員の宿舎になっているところが多かった。ホテル美里には、専友会のほかに県内3高校の硬式テニス部が泊まった=写真。震災前と同じように温泉旅館として機能しているのがうれしかった。

 もう1つは、1次会の締めに歌った校歌だ。学校は旧平市時代の昭和37(1962)年にできた。その4年後、私ら3期生が3年生のときに常磐地方14市町村が合併して「いわき市」が誕生した。それに合わせて、校名が「平高専」から「福島高専」に変わった。
 
 草野心平作詞の校歌も、「タイラ高専」から「フクシマ高専」に1音増えたが、参加者はもともとの「平高専」にこだわった。草創期、自分たちで道を切り開いてきたという自負、愛着がそうさせたのだろう。これも一種の「刷り込み」にはちがいない。

2015年1月10日土曜日

ブレンド甘梅漬け

 JAいわき市の女性部高萩支部(小川)がつくる「甘梅漬」には、カリカリの「梅漬け」と軟らかい「梅干し」がある。パック入りだ。食べてしまうと赤ジソと赤い甘梅酢が残る。

 捨てるのはもったいない。赤ジソは天日に干して細かく刻めば、ふりかけ(「ゆかり」は登録商標なのだとか)になる。梅を塩漬けにしたときに出る梅酢なら、ラッキョウの甘酢漬けに使える。赤いラッキョウ漬けもあるらしいから、甘梅酢もそれに利用できるだろう――しばらく「次」の使い道を考えていたら、ひらめいた。

 会津出身のNGOスタッフからもらった梅干しがある。彼女の実家の「家庭の味」で、やや大きめの梅を、たぶん四つに分けて種を除いたものだ。アントシアニンの色が美しい。梅漬けと梅干しの中間くらいの食感だろうか。砂糖をまぶしたら、いいお茶請けになる。
 
 それを、甘梅漬けにしよう。ブレンドコーヒーならぬ、ブレンド甘梅漬け。小さなガラス容器に梅干しを入れ、甘梅漬けのシソと梅酢を加えた=写真。途中、つまみ食いをしながら味の変化をみたが、少しずつ「甘梅漬け」(梅干し)に近づいてきた。それがなくなったら、いよいよ赤ジソを干してふりかけにする。そこまでいけば赤ジソも本望だろう。
 
 さて、きょう(1月10日)は午前中、回覧物を配り、カミサンの用を足して、夕方、湯本の温泉旅館へ行く。先輩から後輩まで、主に寮生活を経験した学校仲間の一泊新年会がある。いわき開催は何年ぶりだろう。折から常磐関船町では、金比羅神社の例大祭が行われる。JR湯本駅前あたりまでにぎわいが及んでいるのかどうか、初めてこの目で確かめる。というわけで、あすのブログは休みます。

2015年1月9日金曜日

冷蔵庫の後ろのいきもの

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)はふだん、人の気配が消えた物置と変わらない。動いているのは冷蔵庫だけ=写真。

 現役のころは毎週末、泊まって土いじりをしたり、森を巡ったりした。1泊2日を毎週続けると年に100日余、ざっと3分の1は渓谷で過ごしたことになる。自由時間を手に入れてからは、逆に行く回数が減った。泊まることもほとんどなくなった。雨戸を開けて光と風を入れるのは年に40日ほどだろうか。

 家のあるじが小さな生きものに取って代わられたのではないか――このごろ、そんな気がしてならない。仕事をしていたころ、土曜日の夜に茶の間でひとり酒を飲んでいると、すみっこにノネズミが現れることがあった。家のところどころに黒いゴマのようなものが落ちている。特に、最近は台所でそれが目立つ。ノネズミのフンだ。

 玄関の上がり框(かまち)の下、床下との仕切り板に穴が開いている。障子と柱の間にはすき間ができている。台所には換気扇がある。開け閉めをほとんどしない障子やガラス戸のすみっこは、テントウムシとカメムシの集団越冬スポット。それはわかっているのだが、ノネズミにとっても出入りしやすいガタピシの構造になっているのはまちがいない。

 昨秋、朝早く隠居へ出かけ、台所で朝食をとっていると、足元をノネズミが横切って行った。おやおや、台所から野っ原へ朝帰りかい――そう思ったものだが、どうやらすみついているらしい。年明けの3日朝、カミサンが台所で金切り声をあげた。「冷蔵庫の後ろにネズミがいる!」

「冷蔵庫・ネズミ」の言葉を聞いて、とっさに「自販機・サーファー」を思い出した。サーファーは冬、波乗りをして体がこごえると、海のそばにある自販機に抱きつく、のだそうだ。自販機の排熱が体を温める。それと同じで、冷蔵庫の排熱がノネズミを引き寄せたのだろうか。だとしたら、ノネズミが冷蔵庫の方からやって来て足元を駆け抜けていった理由がつく。

 そういえば、おととし(2013年)の秋、玄関のたたきにアオダイショウの抜け殻が落ちていた。ヘビはネズミの天敵。ノネズミがいる以上、アオダイショウがいても不思議ではないが、脱皮の場所にするまで人の気配が消えていたということだろう。ヘビもノネズミも嫌いな人がいる以上はしかたがない。冷蔵庫の周りに薬剤を買ってきて置いた。

2015年1月8日木曜日

とよマルシェ

 年末にカミサンのいとこの葬式があり、豊間の葬儀場から墓へ納骨に同行したあと、葬儀場の斜め前に仮オープンした復興商店「とよマルシェ」=写真=を訪ねた。豊間で津波被害に遭った民宿、食堂、野菜・惣菜、鮮魚の4店が営業している。プレハブ仮設の商店街で、暮れの20日に仮オープンした。来週15日に本オープンする。

 八百屋で白菜大玉2個を買い、隣の食堂でラーメンを食べた。友人の甥がラーメン・半チャーハンを食べていた。豊間で酒の小売店を営んでいた。家は残ったが、住めなくなった。母の実家がある2地区先の友人の家に疎開し、津波をかぶった酒類を運んで仮店舗を出した。

震災から4カ月後、友人の家を訪ね、甥の仮店舗をのぞいた。缶ビールを3000円ほど買ったら、「<震災モノ>です」と、芋焼酎の四合瓶をくれた。しばらく部屋に飾っておいてから飲んだ。そんなことを思い出しながら、「『とよマルシェ』に参加しなかったの?」と聞くと、「声はかかったんですが、通うのに遠いので」。

仮設商店の近く、葬儀場の隣に豊間の災害公営住宅ができた。手前に戸建て住宅、奥に集合住宅が建つ。そこに住む人々のための店だが、私らのような行きずりの客や観光客も立ち寄りやすいところにある。

買ってきた野菜はすぐ割って干し、甕(かめ)に漬けた。仕事始めの5日、夜に客人が来たので食べてもらおうと思ったが、まだ葉先がかたかった。2日我慢して、きのう(1月7日)、初めて食べた。パリッとした歯ざわりが心地よかった。

2015年1月7日水曜日

田んぼのハクチョウ

 いわき市の夏井川でハクチョウが最も多く飛来するのは、平・平窪。日中は左岸(平窪)と右岸(赤井)に分かれて、田んぼで落ち穂や二番穂をついばんでいることが多い=写真。
 
 その下流、平・塩~中神谷のハクチョウも、日中はどこかの田んぼへ出かけて食事するのだろう。
 
 朝8時半ごろになると、わが家の上空を鳴きながら飛んでいく。毎日のことなので、いちいち庭へ飛び出して仰ぎ見るようなことはしない。たまたま外に出ていたときに眺めると、2羽だったり、5羽だったり、3羽だったり……。いつも北東の方角へ向かっていく。夕方は4~5時に、やはり鳴きながら同じコースを戻ってくる。
 
 鳥インフルエンザが問題になって以来、夏井川白鳥を守る会は平窪でのえさやりを自粛している。塩~中神谷では対岸のMさんが軽トラで毎朝、えさやりにやって来た。Mさんは平成24(2012)年6月に亡くなった。それを知らずにいた。
 
 おととしの年末、ハクチョウにえさ(くず米)をまくおばさんに出会った。午後3時すぎ。堤防を利用して街から帰る途中、何十羽ものハクチョウが空に現れ、らせん状に下降しながら着水した。ちょうど、堤防そばの家から“白鳥おばさん”がやって来てえさをまいた。おばさんが岸辺に立つと、ハクチョウたちが寄ってくる。あわてて飛んでくるものもある。

 そのとき初めておばさんと話した。「日中はどっかに行ってるみたいね。そろってからえさをやるようにしてんの」。朝はMさんが、午後はおばさんが――。Mさんの死を知らなかったので、没後1年半たってもそんなことを思っていた。
 
「どっかへ行く」その先の一つが北東の方角だった。そちらの方角に若い仲間が住んでいる。先日、ハクチョウの話をしたら平・北神谷や四倉・長友の田んぼにいっぱいいるという。北神谷も長友も、塩~中神谷の夏井川からみると北東の方角だ。疑問が解けた。いつかそちらへ足を延ばして写真を撮ろう。

2015年1月6日火曜日

サケの刺し身

 週末には刺し身を食べたくなる。いつも行く魚屋さんは正月休みで開いていない。土曜日(1月3日)の朝、スーパーへ買い物に行くとビンチョウマグロのさく(切り身)があった。夕方、刺し身が食べたくなって買いに行ったら売り切れていた。代わりにノルウェー産の生サケを買った。自分で薄切りにした=写真。

 晩秋から春先まで、生のカツオは入荷しない。その間は行きつけの魚屋さんに何があるのか聞いてから、買う刺し身を決める。イカ、タコが中心だが、師走には天然ブリを口にした。メジマグロもあれば食べる。

 スーパーで売っているサケの産地を見たらフィヨルドが頭に浮かび、生の味を確かめたくなった。ずいぶん脂がのっている。「トロだね」とカミサンが言った。

 もう5年余り前のことだ。還暦を記念して仲間と同級生が住む北欧へ“修学旅行”をした。ノルウェーのフィヨルドにはとりわけ感動した。

 フィヨルドは氷河が大地を削り、そのあとに海水が入ってできた地形(入り江)をいう。実際に見たのはソグネフィヨルド(世界最長204キロ、最深1308メートル)の最奥部、世界遺産のネーロイフィヨルドだ。
 
 帰ってから北欧関係の本を読みあさり、テレビの旅番組を追い続けた。水産業関係の専門書も図書館から借りて読んだ。そのときのメモの一部。――ノルウェーでは南部のフィヨルドを中心にサケを養殖している。コンピューターによる自動給餌(きゅうじ)によって、残餌の沈殿による環境の悪化、魚体の品質低下を防いでいる。単一国としては日本が最大の輸入国。

 スーパーへ行くと、魚類コーナーではサケの産地を確かめるようになった。チリかノルウェーか、どちらかだ。刺し身用を買ったのは今度が初めてだった。病みつきになりそうで怖い。

2015年1月5日月曜日

“仕事始め”

 家の前の歩道にごみ集積所がある。きょう(1月5日)は今年最初の「燃やすごみの日」。午前7時前、カラスが家のそばで鳴いた。10羽以上が群がり、生ごみを散らかしていた。あわてて黄色いごみネットを張った。今年の“仕事始め”はカラスに勝ちたかったのだが、ちょっと油断した。

 生ごみを片づけていると、毎朝散歩をしている近所の人(双葉郡から避難中)がごみ袋を持ってやって来た。散歩中に散乱ごみを見かけたので片づけに来たのだった。もう1カ所、ごみの散乱している場所がある。そこを片づけてくると言って出かけた。ありがたいことだ。
 
 それから十数分後、消防車のサイレンが――。次から次に真っ赤な車がやって来る。平市街の知人から電話が入った。2階に上がって見ると、400メートルほど西の住宅地から黒煙が立ちのぼっていた。
 
 さて、本題。いわき地域学會は年に10回(5月~翌年2月)、市民講座を開く。2カ月分をまとめてはがき、時に手紙で会員に知らせる。きのう、1月(17日)と2月(21日)の講座案内をはがきに印刷し、投函した。これも私の“仕事始め”だ。

 はがきの原稿は年の瀬に用意しておいた。年末年始の休みに入ったとはいえ、それぞれの家にはやることがある。大掃除、年始回りと応対、家族慰安、……。事務局の若い仲間が年末年始休最後の4日朝、「9時からやりましょう」と電話をかけてきたので、急いで部屋を暖めた。

 わが家から少し離れたカミサンの伯父の家が事務局だ。ふだんはNGOのスタッフが住んでいる。2カ月にいっぺんは、短時間ながら「シェアハウス」になる。

 家は高床式で、庭に面した床が半地下式の物置になっている。そこに3・11から1年半後、四倉の旧家からダンシャリで出てきた資料(ごみ袋で十袋余り)を保管している。市役所を定年で退職したあと、四倉の商工会に勤めた知人から連絡がきて、とりあえず地域学會で仮保管をすることになった。少しでも地域の資料を“救出”したい、そんな思いもあった。

 はがきの印刷を終えたあと、カミサンが物置から資料を取り出し、若い仲間に整理を頼んだ=写真。平電力会社が戦中、国策によって東北配電(現東北電力)に統合されるまでの資料が主で、以前、関心のありそうな人に声をかけたが、反応はなかった。

 資料のなかに、若い仲間の興味をひくものがあった。夏井川の支流・小玉川に建設した発電所の写真帳、そして当時の新聞つづり。新聞つづりの表紙には「大滝發電所問題切抜綴」と書かれてある。

 このつづりをしばらく手元に置くことにした。いわき総合図書館が電子化していない旬刊紙「磐城評論」の現物が含まれていること、水力発電所が政治・裁判問題になっていたこと、戦後、いわき民報を創刊した野沢武蔵氏が関係していること、などが理由だ。少し時間をかければ、市民講座で話すくらいの材料はそろうだろう。
 
 まずは本筋とは別の周辺の資料から、公開・解読していく。と同時に、調査・研究の呼びかけをネットですることにした。

2015年1月4日日曜日

氷の力

 きのう、1月3日。半月ぶりに夏井川渓谷の隠居(無量庵)で過ごした。新年を迎えたので、長男一家と次男夫婦もやって来た。

 この時期、隠居で最初に確かめるのは水道管だ。11月末には台所の温水器の水抜きをし、洗面所の元栓を締めた。温水器は、行けば使う。帰るときに水を抜く。12月中旬にもそうした。

 濡れ縁に屋根の雨だれを受けるバケツとこね鉢がある。いずれも水がいっぱいで、表面から5センチほどが凍っていた。孫が父親に氷の円盤を取ってもらって遊んだ=写真。

 こね鉢にはひびが入っていた。孫がさわると、ポロリとはがれた。水は凍ると膨張する。焼き物に詳しいカミサンの話では、氷の力に焼きの甘い陶器は耐えられない。前にも同じように浅鉢が割れた。

「西高東低」の気圧配置になると、いわきでは晴れて風が強くなる。落ち葉が舞いあがり、水平に飛んで行く。地面はカチンカチンに凍結している。辛み大根の収穫をあきらめ、堆肥枠に穴を掘って生ごみを埋めた。それでも溪谷の奥、標高の高い川前町や三和町よりはましだ。籠場の滝のしぶき氷はまだ薄く、小さい。

 ささやかな昼食会を終え、それぞれの家族が帰ったあと、戸締まりをして隠居を離れた。車で10分ほど行ったところで、突然、カミサンがつぶやいた。「温水器の水を抜いてなかった」「一発でやられる!」。すぐ後続車と対向車をやり過ごしてUターンした。

「ま、いいか」なんてそのまま家に帰ると、まちがいなく温水器から水が噴きだす。洗面所と合わせて隠居ではもう5、6回、水道管の凍結破損事故が起きている。私の“水抜き忘れ”が原因だ。カミサンが途中で思い出さなかったら、7回目の凍結破損事故が起きていた。

2015年1月3日土曜日

まだまだ知らない

 きのう(1月2日)はカミサンの実家で年始客の応対をした。といっても、義父の親類が何人か来るだけだ。今年は喪中だったり、年末に葬式ができたりして、やって来たのは義父の甥の子に当たる人だけだった。

 3・11のときには現役の救急隊員だった。休日で趣味の沖釣りを終え、陸に上がったところで大地震に遭遇した。すぐ近くの分遣所へ駆けつけ、同僚と沿岸住民の避難広報に走り回った。
 
 1年後の春分の日、カミサンの実家へ線香をあげに来た。そのとき初めて、大津波の前と後のハマの様子を聞いた。港で避難を呼びかけていたら、大津波にさらわれていただろう、という。

 いわきでは特に、塩屋埼灯台をはさんだ豊間と薄磯地区で被害が大きかった=写真(豊間・2011年7月24日撮影)。その北、「白砂青松」の新舞子は、防潮林が津波のエネルギーを減衰したからかもしれないが、大きい被害は免れた。

「海釣りをするからわかるが」と元救急隊員氏は言った。「磯が被害を大きくした」。豊間と薄磯にはそれがあるが、新舞子にはない。「津波は海底を伝ってやって来る。陸の近くに磯があれば一気に波が盛り上がる」。(そういえば、「舌状浅瀬」という言葉があったな)

 3・11から4カ月後、NHK「ニュースウオッチ9」で、豊間地区の津波の特徴を調べた静岡大客員教授大和田清隆さん(いわき出身)の見解をもとに、いわき駐在の記者がレポートした。内容は、豊間の特殊な海底地形が被害を大きくした、東北大災害制御研究センターの解析によって「舌状に張り出した浅瀬で津波が集まり、大きくなった」ことが裏付けられた、というものだった。

 それぞれの専門家には既知のことが一般の人間には伝わらない。住んでいる地域の歴史はもちろん、自然の特質についてもまだまだ知らない。「集合知」を市民に還元する役割を担うのは地元メディア。防災面から地域を知る連載企画を組めないものか――などと話を聞きながら思ったが、現役ではなかった。

2015年1月2日金曜日

「させていただきます」

 V6が伍代夏子さんの「ひとり酒」でバックダンサーをつとめた=写真。歌が始まる前の白組司会・嵐とのかけあいのなかで、三宅健クンが「伍代さんの後ろで踊らせていただき……」というつもりが、「踊らされて……」とやってしまった。思わず爆笑した。すぐ後ろのイノッチ(井ノ原快彦)が頭をペタンとやったのが、またほほえましかった。

 NHK紅白歌合戦で最も印象に残ったシーンだ。変な敬語、「させていただきます症候群」の実例として記憶されるだろう。
 
 大みそかに広島の甥と娘(短大1年生)が遊びに来た。いわきの疑似孫(中3女子)と母親も来た。娘たちは19歳と15歳。初対面ながらアニメの話で盛り上がり、さっそくフェイスブックの友達になった。
 
 2人の話が半分以上わからなかった。「カン〇〇」(半分忘れた)「〇〇〇〇」(忘れた)といった<4音短縮語>や、「超――」「めっちゃ――」「やばい」が飛び交う。19歳は兵庫県の短大で声優コースに籍を置いている。15歳は小説や宮沢賢治の童話を読んでいる。言葉にはそれなりに敏感な方だろう。
 
「なまってないね」。19歳が15歳を評したのを機に、割って入った。仲間内で通じる言葉も、ジイ・バア、オジ・オバその他、さまざまな世代がまじりあった“社会”では通じないことがある。言葉の遣い方を切り替えられるようにするといいねと、これは老爺心。

「言葉は人だからね」。小さいときから疑似孫に礼儀・作法のようなことを言い聞かせているカミサンが付け加えた。例に挙げたのが「させていただきます」。「~させていただきます」は「~いたします」で十分、過剰な敬語だということを自覚して、という老婆心だった。それから数時間後の実例だ。

 敬語講師山岸弘子さんによれば、聞き手に違和感を与える「させていただきます症候群」には5つのタイプがある。<「さ」はいらない>型もその1つ。

「踊る」の場合――五段活用の動詞は「せていただきます」に接続するから、敬語を遣うなら「踊らせていただきます」だが、「させていただきます症候群」にかかっていると、「踊ら『さ』せていただきます」と過剰になる。「さ」は要らない。三宅クンはそのへんがごっちゃになって言い間違った。「踊らされている」ことも確かだが。

2015年1月1日木曜日

戦後70年

 きょうは2015(平成27)年の元日。「戦後70年」の始まりだ。「原発震災紀元5年」でもある。床の間の飾りが正月用に一新された=写真。すがすがしい。

 左の小箪笥(こだんす)の上に古い厨子(ずし)がある。高さはおよそ50センチ。中に木製の仏像が入っている。昔、カミサンがどこからか手に入れた。観音開きにした厨子の前には香炉やお鈴(りん)、さかずき、写真など。模擬仏壇だ。

 暮れの12月30日に大掃除をした。現役のころは出勤日だったので、掃除と正月様の飾り付けはカミサンにまかせっきりだった。今もそれは変わらない。朝のうちに回覧物を配布して戻ると、模擬仏壇の掃除を頼まれた。残るところ2日しかないという年の瀬になって、珍しくやる気になった。夕方には白菜を漬けた。「年寄り半日仕事」でいうと、3日分くらいの仕事をした勘定だ。

 仏像は約40センチ。精巧なミニチュアといった感じだろうか。厨子も仏像も軽くはたきをかけ、モップと布でふいた。香炉の灰も、線香の燃えかすを取り除いてきれいにした。

 仏像の奥に父親の戒名を記した紙や、幕末の俳僧一具庵一具の写真(本の口絵にあった肖像画を接写)があった。すっかり忘れていた。
 
 厨子のわきに硫黄島の海岸の黒い砂が入った小瓶がある。父親がその島で戦死したいわき地域学會の先輩が慰霊の旅に加わり、遺骨代わりに持ち帰った。同じように母の兄もその島で亡くなった。遺骨代わりに分けてもらい、田村市の実家と伯父の家の仏壇に供えた。二十数年も前のことだったか。

「戦後70年」は「玉砕70年」「空襲70年」「原爆70年」でもある。あるいはそれぞれの兵士の死から71年、72年、73年……でもある。年の初めに硫黄島の黒い砂を見つめ、孫の未来の時間を重ねて思うのは、「戦後」がこのままずっと続くように、ということだ。