2016年12月31日土曜日

スペインからのFB友申請

 先日、スペインからフェイスブックの友達申請がきた。名前(もちろん日本語ではない)に覚えがあった。東日本大震災前、阿部幸洋(いわき市出身でスペイン在住の画家)と一緒にわが家へ来た青年ラザロ=写真=だ。後日、彼のタイムラインをのぞくと、あった。2014年10月4日に、阿部の個展を取り上げた現地のテレビ2局のニュース映像がアップされていた。
 阿部が住んでいるのはスペイン中部、ラ・マンチャ地方のトメジョソ。アントニオ・ロペス・トーレス美術館がある。そこで2年前、日本人画家・阿部の個展が開かれた。油絵の本場・欧州、なかでもピカソたちを輩出したスペインで――。ニュース価値としては十分だ。

 阿部がインタビューにスペイン語でこたえていた。日本に帰ってくると、いわき弁で通す。一日中、キャンバスと向き合っていればいい、というわけではない。日々の営みがある。妻のすみえさんが亡くなったあとは、自分で雑用もこなす。スペイン語は暮らしの命綱だ。ラザロのほかに、いわき出身でグラナダ在住(今は帰省中)の草野弥生さんがちらりと映っていた。

 いわき市立美術館の佐々木吉晴館長がプライベートで個展を見に行った。帰国後、話を聞いた。アントニオ・ロペス・ガルシア(1936~)というスペインの現代美術を代表する画家がいる。トーレスはその叔父さん。やはり画家だ。画家の眼力がガルシアの才能を引き出した。スペイン現代美術の世界で阿部が画家として評価されたからこその個展だったのだ。

 個展にはいわきの知人たちが観光を兼ねて出かけた。学校の後輩が添乗員を務めた。草野さんがガイド役だった。その様子は、草野さんのフェイスブックでわかった。
 
 ラザロが阿部と一緒に日本へ来たのは、すみえさんが急死した5カ月後だ。すみえさんはラザロを小さいころからかわいがっていた。ラザロは阿部夫妻の息子のような存在だ。
 
 この青年は言語感覚が優れている。英語はディズニーのアニメ映画で学習したという。日本語も阿部夫妻と接して多少はなじんでいただろう。が、滞日中、一日ごとに日本語の語彙を増やして、基礎的な会話はこなせるようになった。耳がいいから言葉をまねることができる。記憶力がいいからその言葉が残る。そういう語学の天才がいるのだと舌を巻いた。

 当時27歳、ということは間もなく34歳だ。コンピューターを駆使したアート(漫画もかく)と、「3D」で大きな倉庫のデザインなどを手掛けているということだった。フェイスブックのプロフィールを見たら、変わらずにそれらをやっている。
 
 東日本大震災が起きたとき、阿部が心配し、ラザロがそれを代弁するように、Eメールをくれた。2011年3月15日。その日午後、私たちは義妹と娘、息子一家の3家族で“原発避難”をした。ラザロからのメールを知ったのは10日後、帰宅してからだった。

 日本語としてはめちゃくちゃだが、ラザロの心情、阿部の心配が透けてみえた。「津波のひどい! そちらの状況は? あなたは大丈夫ですか? 私は非常に心配している いわき市が避難? 危険核? 幸洋は言った。私は怖いよ! 非常に注意してください。元気を出して! ラザロ」。「原発の状況を見ながら生きていきます。大丈夫、負けない」。そう返信した。

 今年(2016年)、熊本と鳥取が大地震に見舞われた。暮れには糸魚川が大火事になった。高萩市では震度6弱の直下型地震が起きた。「元気を出して!」「大丈夫、負けない」。ラザロのおかげで、1年のしめくくりに5年9カ月前のあのときを思い出した。

2016年12月30日金曜日

キノコカービング

 きのう(12月29日)の続き――。いわきキノコ同好会の総会・勉強会を終えて懇親会に移ったとき、FB友でもある四倉の吉田健二君が“アカヤマドリタケ”をバッグから取り出し、テーブルに飾った=写真。
 果物や野菜を利用したカービング(彫刻)がある。木で野鳥や魚をつくるカービングもある。ケン君は鳥や魚の代わりにキノコを彫る。それをみんなに見てもらうことにしたのだ。アカヤマドリタケはまだ製作途中だという。

 アカヤマドリタケはイグチ科のキノコ。傘の裏が“ひだ”ではなく、“管孔”(細かい穴が密集)になっている。石森山でも夏井川渓谷でも真夏になると現れる大型キノコだ。

 幼菌ならそのままスライスしてバター炒めに。大きいものはゆでて傘の裏の管孔をはがす(下痢予防)。傘は適当に刻み、柄はスライスする。傘は大根のおろしあえにしてもいい。柄はわさび醤油で。大きなイグチの柄は弾力があって、アワビのようだ。余ったら冷凍保存をする。

 イグチ系、とりわけヤマドリタケは、ヨーロッパではトリュフ並みの名菌らしい。イタリアでは「ポルチーニ」、フランスでは「セップ」、ドイツでは「シュタインピルツ」と呼ばれて歓迎される。いわきで採れるのはヤマドリタケモドキ。ヤマドリタケにはまだ出合ったことがない。

 ケン君がキノコカービングを始めたのには、福島ならではのワケがある。野生キノコは、福島県内では会津の一部を除いて摂取・出荷が制限されている。採って食べられないとなれば、私は「撮るしかない」、ケン君は「彫るしかない」となった。

 カービングのアカヤマドリタケを見た同好会の冨田武子会長が、柄の網目状の点々について、ある色(名前を忘れた)を混ぜると、より本物に近い色になるとアドバイスした。会長は画家でもある。ケン君にとってはキノコの色、形をより精巧なものにしていくうえでいい機会になったのではないか。

2016年12月29日木曜日

キノコ勉強会

 きのう(12月28日)の夜9時38分ごろ、茨城件高萩市で震度6弱の地震が発生した。いわき市平では、体感で4(気象庁の観測でも4)だった。6弱は、いわき市でも3・11と1か月後の4・11、4・12の3回経験している。4・11,4・12はいわき市南部が震源だった。
 
 いわき市南部の「井戸沢断層」の先、茨城県北部に「高萩断層」がある。常陸(茨城)・磐城(福島)の「常磐」地区はまだまだ要注意ということだろう。
 
 6弱では、あわてて外へ飛び出した、立っていられずに車に手を置いた。地面が波打った。家のなかでは本や食器がなだれを打って落下した。高萩でもそんな家が多かったのではないか。
 さて、きょうはキノコの話――。年3回の観察会はパスしているので、年末に顔を合わせる機会が唯一の情報収集の場だ。その年のいわきのキノコの状況がコンパクトにわかる。おととい夜、内郷のクレールコート(旧内郷館)でいわきキノコ同好会の総会・勉強会・懇親会が開かれた。

 勉強会では、会長の冨田武子さんがプロジェクターを使って、今年のいわきと他地域で開かれた観察会で確認された希少種、同定不明種などを主に紹介した。カワムラジンガサタケ、アオミドリタマゴテングタケ、キイロウラベニタケ、ナツコウタケ……。初めて聞くキノコの和名だ。モモイロダクリオキン(桃色ダクリオ菌)は、胞子が不気味だった=写真。
 
 懇親会では、それぞれが「今年のキノコ」を報告した。いわきの人間が知りえた菌界の最新情報だ。私は8月初旬、ロシアのサハリン(樺太)で見聞したキノコの話をした。
 
 同好会の目的はキノコを深く知ること。それには「食べる」ことと同時に、「見る」「調べる」ことが入る。観察会で採取されたキノコを同定する。よくわからないものは会長が持ち帰り、顕微鏡で胞子を調べる。そんな集まりだ。
 
 私は、「食べる」「見る」どまりで、顕微鏡で「調べる」ところまではいかない。が、同好会に入って学ぶうちに、「食べる」に関してはとても臆病になった。キノコを知れば知るほど「きれいだけど怖い」「美しいけど手が出ない」「地味でも危ない」――そんな気持ちが強くなってきた。
 
 これは食毒とは別の観点からいうのだが、顕微鏡による胞子の形・色は別の意味で面白い。胞子まで見ないと同定できない。しかし、胞子を見ても同定できないものがある。「ナスと一緒に食べると中毒しない」という迷信以上に、菌界は不思議に満ちている。奥が深い。

2016年12月28日水曜日

孫のジェイボード

 息子の家に出向いて“学童保育”をしたときのこと。宿題を終えた小1の孫が「ねぇ、見て」といって外に飛び出した。スケートボードのようなものに乗って、コンクリートの庭を大きく小さく円を描きながら回っている=写真。
 ボードを操れるようになったことを自慢したかったのだろう。最後はドヤ顔・腕組みをして、大きく円を描いて止まった。上の小3も操れるが、少しぎこちない。

「ジェイボード」だという。スケボーは“四輪車”、ジェイボードは“二輪車”だ。バランスをとるのが難しそうだが、下の孫の動きを見ると、ちょっと運動神経のいい子どもはすぐ慣れるらしい。ボードは二つの卓球ラケットをグリップでつないだようなかたち(8の字に似る)。そこに足を乗せ、前足と後ろ足で交互にボードを振ると、推進力がついて前進する。

 小1は、将来は体育会系に進みそうな感じを抱かせる。最初に驚いたのは、保育園でのかけっこだった。陸上選手のように前傾して飛び出し、腕も前後によく振れている。私は福島高専時代、陸上競技部に所属していた。主に400メートルを走り、1600メートルリレーに加わった。ランナー経験者としてみても、下の孫は短距離向きの走りをしている。

 今年(2016年)、小学校に入学した。最初の運動会でリレーのメンバーに選ばれた。最初のランナーは1年生。紅白各2チーム(鉢巻組と帽子組)がスタートラインに勢ぞろいして走り出す。下の孫は2番目で次にバトンをタッチした。2学期の終わりに持久走大会が行われた。1年生は校庭を3周した。1番でゴールしたそうだ。

 1番になったり、2番になったり――いいライバルがいる。持久走の1番がよほどうれしかったらしい。顔を合わせると、本人が誇らしげに告げた。

 短距離も持久走もとなれば、いつかは種目を絞らないといけなくなる。いや、十種競技(タレントの武井壮は元日本チャンピオン)という選択もある――おやおや、何を考えてるんだ、おれは。ジェイボードを巧みに操る孫に、つい元陸上競技選手の妄想を重ねてしまった。

2016年12月27日火曜日

これが年の瀬

 役所はあした(12月28日)が「仕事納め」の日。年が明けてからでもいいが、年内にけりをつけておきたいものがある。ぎりぎりになっていわき市の某課にメールを入れ、書類を届けた(仕事と所属する団体の業務のため)。メールはともかく、実際に足を運んでみると、年の瀬のあわただしさが身にしみた。
 12月の半ば――。平消防署の近くで赤信号になった。西隣は平市民運動場。運動場のはずれ、国道6号沿いで消防団の若手が「はしご乗り」の練習をしていた=写真。ああ、年の瀬だな――そのときはヒトゴトのように軽く思ったものだ。

 今年(2016年)最後の週が始まった。年内にやっておきたいことを書き出して、きょうはこれを、あしたはあれを――と決める。月曜日(12月26日)は冒頭の役所のほかに、銀行へ行って当面の生活費を引き出し、信用組合で区内会に振り込まれた資源回収還付金を下ろした。
 
 わが家から近い順に用を足すと決めた。ところが、信組の駐車場は満パイ。銀行の駐車場はかろうじて何台か空いていた。役所へ行くと「駐車場は満パイです」。それでもいちおう巡って空きスペースを探したがない。再び信組へ行くと、別の駐車場に空きがあった。2時半だった。そのあと再び役所へ向かい、庁舎南側の立体駐車場に止める。三つの用を足すのにえらく時間がかかった。これが年の瀬なのだ。
 
 新聞社を離れてからはいつもトウジシャ。記者は「風景」を見るだけだったが、トウジシャは「風景」を構成する一員、コミュニティのなかで繰り広げられるあれこれに関係する。当然、喜怒哀楽が生まれる。元ブンヤとしては「風景」の内部、つまり暮らしのなかに眠るニュースを掘り起こすのが楽しみになった。
 
 これもそのひとつ。江戸時代の年末の川柳に「掛取りの帰らぬうちはうなって居」(仮病をつかう)がある。現代は新聞など月々の「掛取り」が基本だが、年末にはそれが早まって押し寄せる。銀行から帰ってきたら、カミサンが「ガス屋さんが来たけど、支払いはあしたにしてもらった」という。間に合わなかったか。

2016年12月26日月曜日

除夜の鐘まで5日

 近所にイノシシが現れた話を前に書いた。日をおかずに今度は日中、わが家の向かいの歩道をキツネが歩いているのを、カミサンたちが目撃した。イノシシもそうだが、キツネも次の日また現れたという。最初の目撃者とは別の人たちが目撃した。 
 もとは畑と水田だった住宅密集地だ。道路をはさんだ南側は畑。そこは住宅に囲まれたところに畑が少し残っているだけ。イノシシはそんなところで目撃された。キツネは道路の北側、もとは水田の住宅地の空間に消えた(カミサンの故伯父の家あたりに、だという)。

 生きものだけではない。気象もおかしい。12月21日(冬至)に用があって街へ出かけた。平・正内町の国道6号沿いに立つデジタル温度計が「20℃」を表示していた。師走で20度とは! クリスマスイブの24日に、いわき駅前のラトブへ行ったら、半そでの女性がいた。外国人は冬でも暖かくなると半そでになる。が、日本人の、それも40~50代と思われる人だった。
 
 これは温暖化といえるかどうか――。夏井川渓谷の牛小川では、師走のうちにフキノトウが出る。わが隠居の敷地内にフキの自生スポットがある。以前は年末にフキノトウを摘み、元日になると刻んで雑煮にちらしたものだ。今年(2016年)も隠居の近くの小流れにフキノトウが出ていた=写真。正月を待たずに、刻んでみそ汁にちらした。
 
 温暖化を測る事象は、渓谷では冬の滝だ。氷結量が減っている。真冬の2月あたまに天然氷をとって冷凍庫に保管し、夏にオンザロックにするのだが、今年の2月にはとりそこねた。
 
 キツネの話に戻る。昔、夏井川の河口近くの林縁で姿を見たことはある。そちらでキツネが追われるような大開発が行われた話は聞かない。沿岸部では東日本大震災後、自然大改造(「防災緑地」「高台住宅」づくり)が行われている。その影響? まさかここまでは及ばないだろう。
 
 キツネの冒険をめぐってあれこれ考えているうちに、今年も残すところあと5日しかないと気づいてあせる。ジングルベルが終わり、除夜の鐘を聞くまでにどのくらい宿題を片づけられるか。

2016年12月25日日曜日

続・糸魚川大火

 糸魚川大火で被災者が初めてわが家(の跡)を見たというニュースに接して――。
 7歳のときの夜の大火事体験がフラッシュバックのように襲ってきた。昔(といっても阪神・淡路大震災がおきた直後)、被災地図=写真=をかいて、ミニミニリレー講演会でしゃべったことがある。そのときの資料が先日、出てきた。地図のなかで田んぼと山にはさまれた通りで黒くなっているところが焼失したエリア。その中に「わが家」と裏山の「避難先」という書き込みもある。
 
 20歳ごろ、大火事体験を踏まえて何編か詩を書いた。そのひとつ、「大火事の後」というものを分解しながら、当時7歳の子どもの「こころ」を振り返ってみる。

「どうだい、見ろよ/すっかり砂漠じゃないか!/鳩も三輪車もみな灰になっちっまったのさ/おれたちの秘密もなにもかも、ね」

 一夜明けた空にはヘリコプター。「だけどもういい、ヘリコプターが/空にひしめいてても/白い水はいらない、雨もいらない/くそっ! いまいましい焔(ほのお)の貪欲さだ/おれたちの積木箱もピストルも/青空の臍のむこうに帰っちまったよ」。子どもには自分のおもちゃや乗り物が焼けたことがこたえた。子ども用自転車も買ってもらったばかりだった。それが燃えてなくなったことが残念でならなかった。
 
 翌日から翌々日にかけての光景。「親父もおふくろもそのまたおふくろたちも/だまって立っている。焼けぼっくいみたいに/これがみんなの待ってた夜明けなの?/この立ちんぼが、焼けぼっくいが?」「それでも、それでも、切ないのさとっても/すすけた指でみんな灰かきまわしてる/もえた愛情や貨幣なんかを探してる/どしてもおれたち炊き出しのおむすび食べられない」。わが家の焼け跡から熱でぐんにゃり曲がった10円玉が出てきた。
 
「坊やのおうちはどこ?」。近所のおばさんら大人何人か、同級生、牛1頭と、東西に延びる家並みから少し北側の山すそに避難し、町が燃え続けるのを一睡もせずに見続けた。夜がしらじら明け、同級生と2人で、学帽をかぶり、ランドセルを背負ったまま(それだけしか持ち出せなかった)、白煙がくすぶる焼け跡に下りていくと、尋ねられた。

 あとで小名浜の叔父から「産経新聞に載ってたぞ」と教えられた。声をかけてきたのは記者だった。消防団の分団長をしていた父親が遠くに立っていた。そこが自分の家があったところかもしれないと思いながらも、口をついて出た言葉は「知らない」。「おれたち、<おうちを探す子ら>だって?/畜生、おわらい草さ、冗談さ/新聞記者なんて、しょせん/虚妄の商人、事件のコレクター」。詩を書いた2年後、「虚妄の商人」になった。
 
 こんな散文詩も書いた。「風と火がごっちゃになって、ある町を、一夜のうちに焼野原にしたときのこと。最後の最後まで、みごとによく燃えたのは、道々のデンシンバシラであった。丸くて長いすらりとした木であったから、ほんとによく燃えた。そこで、こんどは、燃えないコンクリのデンシンバシラが、酒屋だの、床屋だののバラックが、なかば完成した、ちょうどそのころに、昔よりはずっと立派にきれいに立てられた」

 バラックから本格住宅へ――。「常葉大火」では間もなくそういう流れができた。糸魚川ではどうなるのか。

 火事は「思い出」まで灰にする。私は小学1年生までの写真がない。私の赤ん坊のときの顔は、幼児のときは、小学校に入学したときの様子は――まったく思い出せない。人生の最初期の写真が欠落しているものだから、記憶はあいまいなままだ。今はデジタル技術がある。パソコンが無事だったら……などとテレビを見ながら、7歳に戻って自分の家の焼け跡に立っていた。

2016年12月24日土曜日

いわきの合併史を学ぶ

 いわき市は今年(2016年)10月1日、市制施行50周年を迎えた。今のいわき市になる前に、同じエリアで「明治の大合併」と「昭和の大合併」を経験している。
 先週の土曜日(12月17日)、いわき市文化センターでいわき地域学會の市民講座が開かれた。小宅幸一幹事が「市制施行50周年、いわきにおける合併の歴史」と題して話した=写真。市職員OBで行政資料や新聞記事を駆使したいわきの近代史研究には定評がある。合併という極めて政治的・行政的過程を、一種の人間ドラマとして読み取ることができた。

 ミーハー的な関心で二、三アンテナに触れたことを書く。新自治体名はいつの場合でもなかなか決まらない。

「明治の大合併」では内務大臣の訓令が出た。①旧各町村名は大字に残し、著名な名称はなるべく保存する②各町村合併で参語折衷する(地名をまぜる?)など、斟酌(しんしゃく)に努めて民情に背かない③参語折衷がむずかしい場合は山岳・河川・旧跡など、著名なものによって名前を付ける――。

 川部村=中心となる小川村と沼部村から一字ずつ。永戸村=上・下永井村と合戸村、渡戸村から一字ずつ。田人村=中心となる旅人村と黒田村から一字ずつ。赤井村=閼伽井嶽から。いわきの鮫川村=鮫川から、同じく平の下流の夏井村=夏井川から。
 
 いわき市が誕生する10年ほど前の、昭和30(1955)年前後の「昭和の大合併」でも、新自治体名が決まるまでには曲折があった。小名浜町、江名町、泉町、鹿島村、渡辺村が合併して「磐城市」になる。鹿島地区では、いったん小名浜町に編入し、磐城市が誕生する際、一部が常磐市に分離・合併するなど、揺れに揺れた。
 
 小宅さんは新市名が決まる過程で「鹿島村の関係者が古来の地名『磐城』を市名とすることを提案」したのが受け入れられた、と話した。講座が終わって確認する。歴史に詳しい関係者=政治家は限られる。「八代義定か」というと「そうだ」という。八代は詩人山村暮鳥の後援者、詩人三野混沌(吉野義也)と若松せい(作家)の結婚の労をとった考古学研究者。1年先輩の祖父でもある。

『残丘舎遺文 八代義定遺稿集』(2001年、八代義定遺族会発行、非売)の年表・昭和28年の項には「鹿島村が小名浜町と湯本町に分村合併となったため村長の職を辞職、小名浜町助役となる」とある。この裏には合併に伴う地区の利害・妥協・苦悩などが埋まっていた。

「いわき市」も、「磐城」では旧磐城市中心の合併ととらえられる、「石城」では周辺の石城郡に市部が吸収された印象がもたれる、「岩城」はすでに秋田県岩城町として存在する、というわけでひらがな名になったという。

2016年12月23日金曜日

糸魚川大火

 新潟県糸魚川市の市街が大火事に見舞われた=写真(NHKテレビ)。宵の6時、午前10時半に出火し夕方も延焼中、というニュースに接して、記憶がよみがえった。
 糸魚川は南から北へ、最大瞬間風速24.2メートルの強風が吹き荒れた。あのときは、最大25メートルの西風だった。東西に延びる一筋町が火の海と化した。火災旋風もおきた。そのときの経験から10時間は燃え続ける、と思った。2年前(2014年4月17日)に書いたブログを再掲する。年数は今に変えている。
                *
 1年のなかで最も厳粛な気持ちになる日がある。むろん、個人的にだが。4月17日。60年前のこの日、夜。東西にのびる一筋町があらかた燃えて灰となった。昭和31(1956)年の「常葉大火」(『常葉町史』から)だ。

 自分の誕生日や結婚記念日は忘れても、この日だけは大火事の記憶がよみがえる。たぶん、生死にかかわることだったからだ。半世紀余りあとの還暦同級会で、共に避難した幼なじみがしみじみと言っていた。「あのとき、焼け死んでいたかも」。それぞれが荒れ狂う炎に追われ、着の身着のまま、家族バラバラになって避難したのだった。

 乾燥注意報が出ているなか、一筋町の西の方で火災が発生した。火の粉は折からの強風にあおられて屋根すれすれに飛んで来る。そうこうしているうちに紅蓮の炎が立ち昇り、かやぶき屋根のあちこちから火の手が上がる。町はたちまち火の海と化した。

 一夜明けると、見慣れた通りは焼け野原になっていた。住家・非住家約500棟が焼失した。少し心身が不自由だった隣家(親類)のおばさんが、近所の家に入り込んで焼死した。それがたぶん、一番ショックだった。

 いつからか自分を振り返るとき、あの大火事の一夜を境にして、それぞれの家の暮らし向きが変わった。それぞれの人間の生き方・考え方が変わった、あるいはいやおうなく定まった――そう思うようになった。私がこうしていわきで暮らしているのも、大火事がもたらした結果だと。
 
 7歳では泣かなかった「こころ」が、46歳のとき、阪神・淡路大震災の被災者を思って泣いた。東日本大震災では、泣くだけでなく震えた。

 大火事のあと、全国から救援物資や義援金が届いた。いわきからも、双葉郡
からも。そのときの恩を町民は(いわきに移り住んだ人間も)忘れない。3・11後、近所に住むようになった被災者・避難者に、そのときの恩をかえさなくては――そんな思いで接している。

「やっと家のローンを払い終わった」。大火事から30年余が過ぎていたように思う。ぽつりともらした亡母のことばが今も耳に残る。大災害からの再生にはそのくらいの時間がかかる。ところが、放射能はどうだ。1世代、いや次の世代、その次の世代になっても帰れない、というところがあるかもしれない。

 きょうは、わが4・17から、阪神・淡路の1・17を思い、東日本の3・11を振り返る日にする。
                 *
 糸魚川の被災者の今とこれからを思う。津波被災者や原発避難者を、シリア難民を思う。避難者、難民、被災者。言葉はどうあれ、私のなかではすべてがひとつになる。

2016年12月22日木曜日

来るだけ支援

 前にも書いたことだが、福島大学の学生が一定期間、応急仮設住宅に住んで被災者と交流する「いるだけ支援」が話題になったことがある。コミュニティの役員をしていて、一番避けたいと思っていること、それは「孤独死」。「いるだけ支援」の目的もそこらしい。
 大学へ行ったら「いるだけ支援」をしたいと、高2女子の“孫”がいうので、「『来るだけ支援』もあるぞ」と伝える。ピンときたらしい。年に何度か、一家がわが家へ来てカレーライスを食べる。「そのことか」というので「そうだ」と伝える。

 カミサンが先日、誕生日を迎えた。その日の夜、小1男子の孫から電話がかかってきた。「ありがとう、クリスマスプレゼントを買ってあげなくちゃね!」(それを聞きながら思う、「オレの誕生日のときには、電話はなかったなぁ」)

 それから2日後のおととい(12月20日)、高2と中3の“孫”と親がカレーライスを食べに来た。焼酎の「田苑」と手製のバースデーケーキ=写真=を持って。
 
 ふだんは夫婦2人だけ。「日だまり」のような暮らしだったらいいが、「雨」も降れば「風」も吹く(夫婦げんかのことを言っているのではない、念のため)。そういう日常に“孫”たちがやって来るのは、いい刺激になる。今の子は何を考えているのか。小1から高2までと話していて、学ぶことがいっぱいある。来るたびに成長している。それを知るのは喜びだ。だから、それも「来るだけ支援」のひとつ。
 
 小学生のときに宮沢賢治を読むように言った。中学生のときには、生徒会長になった話を聞いた。高校生になると活動の範囲が広がった。おとといは大学へ行ったら社会学の勉強をしたいというので、ひとつのたとえとして本質と現象、詩人と新聞記者の違いの話をした。というより、文学を根っこに置いて社会を考えてきた、という体験談になった。
 
 小学生の男子孫はこのごろ、わざと「じじい」と言い間違えるようになったが、女子孫はちゃんと「じいじ」と敬ってくれる。中3孫が(これはすごいと思っているのだが)、ささっと私らの顔をスケッチした。来るたびに描いてくれる。漫画のレベルを超えている。それを残していく。これもまた「来るだけ支援」だ。

2016年12月21日水曜日

FMいわき感謝のつどい

 FMいわきが今年(2016年)9月1日、開局20年を迎えた。それを記念する「感謝のつどい」がおととい(12月19日)、いわきワシントンホテル椿山荘で開かれた(写真=記念のリーフレットなど)。株主やスポンサー、番組出演・協力者など230人が出席した。
 招待客の数と顔ぶれを見て思ったことがある。FMいわきはこの20年間でいわきのコミュニティメディアとして定着した。とりわけ、東日本大震災時に公共災害放送の役割を果たし、安否情報・生活情報を発信し続けて、市民の心のよりどころになった。以来、「いわきに欠かせないメディア」という認識が市民の間に深まった。それが、これだけの人の参加となったのだろう、と。

 地域紙に身を置いた人間から言えば当たり前のことだが、東日本大震災を機に、「日本のメディアは3層構造」ということが認識されるようになった。
 
 山田健太専修大教授が『3・11とメディア』(トランスビュー、2013年)で言っている。「3・11を経て、多層的なメディアの重要性が改めて確認された。ここでいう多層の意味は(中略)主として到達エリアによる違いをさす。/具体的には、新聞でいえば(中略)、ナショナル/ローカル/コミュニティの三層構造が存在する」
 
 テレビやラジオも変わらない。ナショナル放送(キー局)があり、ローカル放送(ラジオ福島)があって、コミュニティ放送(FMいわき)がある。渡辺弘社長はあいさつのなかで、AM放送のラジオ福島がFM化を進めていることを挙げながら、競争と協力といった意味のことを話した。あとで調べたら、AM放送のFM化は災害時の難聴解消対策だという。
 
 FMいわきも災害時の市民への情報提供を目的に、難聴地域の解消を図るため、いわき市内山間部を中心に13中継局を設置した。双葉郡広野町の北、楢葉町にも中継局が設けられた。市民に身近なローカル・コミュニティメディアは東日本大震災後、災害放送機能を強化した。そのことを再確認するつどいでもあった。

2016年12月20日火曜日

むかご飯

 夏井川渓谷の紅葉が見事なころ、JR磐越東線江田駅下の広場にテント村ができる。一角で川前の農家が野菜を直売する。あるとき、ナガイモの「むかご」(直径1センチほど)が売られていた。ナガイモはとろろにして食べる。むかごの味はとろろと同じだという。それはそうだろう。 
 ナガイモは種いもを植えて育てる。やがて地上部から茎が伸び、つるになって支柱に巻きつきながら葉を茂らせる。秋になると、地中では新しくできたいもが大きくなり、地上では葉の付け根にむかごができる。むかごは食用にも、種いもにもなる。
 
 平地のわが家の生け垣に、野生のヤマノイモやキカラスウリのつるが巻きついたことがある。夏井川渓谷の隠居に生えたキノコを土ごと持ってきてほぐし、残土を庭の片隅に捨てたら、そうなった。残土に種が含まれていたのだろう。ヤマノイモにはちゃんとむかごができた。
 
 ヤマノイモで思いだしたことがもうひとつ。イノシシはヤマノイモも好物らしい。土手がほじくられていた。ヤマノイモを掘ったら土を埋め戻すのがマナーなのに、それをしない。たちの悪い人間が増えたと思ったら、犯人はイノシシだったという話を山里で聞いた。
 
 買ってきた川前のむかごは炊き込みご飯にした=写真。むかご飯だ。淡泊な味、サトイモのような食感。少し塩気が足りなかったか。むかご入りのみそ汁も口にした。かめば問題はないが、丸いままのむかごがのどに詰まって、一瞬、呼吸ができなくなった。年寄りにはむずかしい食べ物かもしれない。

2016年12月19日月曜日

テレビが家に来たころ

 いわき市の水石山(735メートル)にテレビ中継局ができて本放送が始まるのは、昭和33(1958)年3月1日。いわき市立図書館がデータ化した当時のいわき民報をチェックしてわかった。平を中心としたいわき地方のテレビ文化はそこから始まる(勿来や小名浜はどうだろう、東京のテレビ放送がじかに見られたはずだ)。
 そのころのいわき民報には、たびたびテレビの広告が載る。あるメーカーのテレビは現金価格7万3000円だ。当時の大卒初任給は1万3500円というデータがある。大卒はそんなにいなかった。よくて高卒。私が生まれ育った阿武隈の山里では、大半が中卒で就職した。大卒の新入社員でも給料の5.5倍、今の相場に換算すれば100万円くらいか。

 東京では昭和28年にテレビ放送が始まる。大相撲が放送される。力道山のプロレスも。人々は街頭テレビに群がった。地方に波及するまでには多少時間がかかった。阿武隈の山里は当然、いわき地方よりテレビの普及が遅れた。

 小学生のときだった。近所のラジオ屋の店頭に据え付けられたテレビで大相撲を見た。冒険活劇「月光仮面」を見た。プロ野球とプロレスはその後、わが家の茶の間に据え付けられたテレビで見た。同じころ、少年マガジンやサンデーが創刊された。団塊の世代は週刊漫画雑誌とテレビに熱狂した最初の子どもたちだった。

 先週の12月15日、BS朝日「ザ・ドキュメンタリー」で<昭和のヒーロー力道山の真相~プライベート映像が語る男の素顔>を見た=写真。いわきのメディア史を調べていて、テレビが茶の間に入ってきたころの様子を、同じ日、公民館の市民講座で話したばかりだった。奇縁だなと思いながら見た。

 リングでの英雄は刺されても死なない――当時の少年はそう思っていたので、力道山の不慮の死がなかなか理解できなかった。昭和38(1963)年12月15日没。ちょうど命日の放送だった。力道山の命日が頭に入っていれば、市民講座も少しは盛り上がったか。
 
 力道山や月光仮面のほかに、生身のヒーローは長嶋、王、若乃花(初代)、ちょっと遅れて大鵬。高度経済成長期と重なる昭和30年代は、とりわけテレビという新娯楽が加わって輝いていた。

2016年12月18日日曜日

ネギの首巻き

 水曜日(12月14日)のNHK「ためしてガッテン!」はネギ特集だった。「あさイチ」でも12月7日にネギを特集したばかり。番組の違いをどう出すのか、興味をもって見た。
「あさイチ」はネギの料理が主だった。「ガッテン」はまあ、ネギの科学と文化史のようなもので、モンゴルの野生ネギとイングランド・ウェールズの巨大ネギには驚いた。人間の背丈ほどの長ネギも登場した。

「ガッテン」から――。大学の名誉教授がモンゴルへ行き、ネギのルーツの野生種を探す。枯れた植物が岩山の中腹にあった。種をこぼしたあとのネギ坊主と葉が残っていた。ついに野生ネギと出合った名誉教授の目には涙が。ウェールズのネギは白根が大根並みに太い。わが「ネギ研究」はまだ極東どまりだと知る。

 ネギには風邪の予防・鎮静作用があるという。東京の多摩動物公園で、冬、チンパンジーに生のネギを食べさせたら風邪の予防・鎮静に効果があった。福岡市動物園がそれをまねてチンパンジーに生ネギを食べさせている様子を、昔、ニュース番組で見たことがある。

 のど風邪がなかなか治らない。常備の風邪薬を日に三度飲んだが、いっこうによくなる気配がない。近所の診療所へ持病の薬をもらいに行ったついでにのどを診てもらい、せき止め・たん切り・抗生剤を処方してもらった。やっと鎮静しつつある。

 それと前後して、阿久津曲がりネギに刻みを入れたのをガーゼにくるんで首に巻いた=写真。今も巻いている。「ガッテン」を一緒に見たカミサンが、昔は風邪をひくとネギを首に巻いたというので、ネギのアリシン効果に期待をかけることにした。首のネギは一日ごとに替え、役目を終えたものはみそ汁に入れて食べる。ネギは根っこもから揚げにできる。無駄なところがない。

2016年12月17日土曜日

木っ端の置物

 手のひらにのるペンギン親子が気に入った。木製の置物、今風にいえば木工クラフトだ。それはあげない、という。代わりにもらったのが、カバのようなハゼの親子の置物。
「お寺の『木鼻』を組み立てるので見に来たら」。連絡がきて、宮大工の豊間の仕事場へ行った話を前に書いた。

 宮大工自慢の「木鼻」を見たあと、「こんなものもつくってんだ」。見せてくれたのが、掌中(しょうちゅう)に収まる7センチ前後の木製の置物だ=写真。ペンギンやハゼの親子のほかに、恐竜親子、象のペア(一方の背中にハートがのっている)、ウサギなどがある。二つないし三つに分解できる。
 
 宮大工の「余技」といえばいえる。が、これを本業にしている木工クラフト作家もいる。大工職のすごいところは、家を建てるときにも、掌中に入るようなミニチュアを製作するときにも、手を抜かないことだろう。
 
 余った木っ端を使うというから、一種の廃物利用だ。そこに貫かれているのは、大工の棟梁としての誇り、木への愛着。と、書きつつ、作品はしかし、愛らしい動物だけではない。「秘すれば花」で書かないが、ひとり職人が自作をながめて悦に入る、同業がそれを見てうらやましがる、そういうたぐいの作品もある。
 

 動物クラフトは、値段は聞かなかったが売り物だ。震災後、豊間支援に訪れた人にはプレゼントしたという。「オレはもらってない」というと、「あれっ、やんなかったっけ?」。で、冒頭のようなやりとりになった。

2016年12月16日金曜日

金子みすゞの長門市

 金子みすゞについて調べたことがある。平成20(2008)年1月5日、野口雨情記念湯本温泉童謡館=写真=がオープンした。それから間もなく、館長の故里見庫男さんから「(童謡館で)毎月1回、童謡詩人について話すように。最初は金子みすゞ。あとは自由」と言われた。驚きながらも「はい」と答えるしかなかった。会社をやめた直後だった。宿題を与えられて図書館通いを続けた。
 金子みすゞの生涯がわかるようになって、やっと童謡館でしゃべる自信がついた。研究者ではもちろんない、新聞記者が調べたらこんな感じでした、という話をした。以後、何人かの童謡詩人を調べ、都合17回しゃべった。

 そのとっかかりになった、みすゞのふるさとについて書いてみる。長門市は面積が約357平方キロメートル、人口3万5千人ほど。面積はいわきの約4分の1、人口は9分の1だ。昭和29(1954)年、みすゞのふるさと・港町の仙崎村などが合併して最初の長門市が誕生する(昭和の大合併)。さらに、平成17(2005)年、周辺3町を吸収して新「長門市」になる(平成の大合併)。
 
 里見さんは自然地理学を専攻した。阿武隈高地と中国山地の共通性を『夏井川流域紀行』のなかで書いている(昭和63年、いわき地域学會のメンバーがいわき民報に毎週1回、1年間連載した。それを単行本化した)。簡単にいうと、いわき市は「東に海があり、西に山がある」、長門市は「北に海があり、南に山がある」。地形的には似ている。

 海に面したまちから少し山へ入ったところ、音信(おとづれ)川沿いに長門湯本温泉郷がある。今はやっているかどうか知らないが、「ゆもと湯けむり5名湯」=宿泊スタンプラリーを定期的に開催していた。参加「湯本温泉」は、北から「ニセコ湯本」「岩手湯本」(湯田温泉峡湯本)「岩瀬湯本」(福島県天栄村)「いわき湯本」「長門湯本」の5温泉だった。
 
 長門温泉の旅館で日ロ首脳会談がきのう(12月15日)始まった。きょうも行われる。いわき市でいえば、常磐の湯本温泉のどっかの旅館で、といった感じだろう。
 
 長門市には行ってみたいミュージアムが二つある。金子みすゞ文学館と香月泰男美術館だ。プーチン氏は、みすゞに会いに行っても香月には……、なんてうがった物言いはよす。

2016年12月15日木曜日

師走も半ば

「のど風邪」が治らない。熱はない。で、普通に仕事をしている。が、せきと痰が出る。せきをすると腹の筋肉が痛い。意図せずにせきで腹筋運動をしているようなものだ。
 のどの調子が少しよくなったなと思った晩、小名浜公民館で90分、話をした。翌日起きたら声が枯れている。どうしよう。一日おいたきょう(12月15日)は午後、神谷公民館でやはり90分、しゃべらないといけない。とりあえず、トローチをなめてしのぐしかない。

 こんな「のど風邪」は初めてだ。風邪が治りにくくなったのは、50代あたりから自覚している。ますます治りが遅くなっている。アルコールはのどによくないとわかっていても、飲まないと精神によくないから、ますます治りが遅くなる。

 で、このところ外へ出るときにはマスクをする。回覧を配る。忘年会に参加する。小名浜へ出かける前、たまたま孫をスイミングスクールへ送るのを頼まれた。風邪をうつすわけにもいかないので。マスクをかけたまま送り届けて帰宅すると、家の周りがなんとなくあわただしい。人だかりがしている。おまわりさんが小学生から事情を聴いていた。マスクのままでいるのがはばかられた
 
 カミサンたちに聞くと、「刃物を持った男が歩いていたんだって」。えっ、今度は刃物男か! 前に拙欄で書いたが、同じエリアでイノシシが現れた。おまわりさんが棒のようなもの(「さすまた」だろう)を持って追いかけていたのを、近所の人が目撃している。イノシシは次の日も現れた。

 交通事故=写真=にイノシシ、刃物男、少し前には抱きつき男……。「師が走る」どころか、「おまわりさんが走る」例が増えている。地域の安全・安心が少しずつ変質しているような感じがないわけでもない。「新しい安全・安心」を考えないといけないか。(けさは寝坊したが、のど枯れは少し収まっていた。マスクは欠かせない。ま、おしゃべりもなんとかなるだろう)

2016年12月14日水曜日

絵物語「月光仮面」

「月光仮面」がいわき地方の地域新聞に連載されていたはず。いわき民報だったか、三和(さんわ)新報だったか。「三和新報」改題紙の「夕刊ふくしま」だった=写真。
 いわき市立図書館のホームページに「郷土資料のページ」がある。新聞・地図・絵はがき・企画展示・その他――の5つのジャンルに分かれている。東日本大震災が発生する数日前、「広報いわき」3月号の特集記事で知った。以来、6年近く、たびたび利用している。いわきの近代史を調べるうえでは欠かせない電子資料の宝庫だ。
 
 あるとき(震災後、少したった初夏のころ)、どこかの新聞をクリックしたら、絵物語「月光仮面」に出合った。原作者はもちろん、川内康範。おや、いわきの子どもたちはオリジナルの「月光仮面」を読むことができたんだ――そのときは、そんな程度の感想で終わった。

「月光仮面」といっても、若い人はピンとこないだろう。今の「仮面ライダー」の元祖のようなものだ。日本のテレビ史上、最初のスーパーヒーローだった、といってもいい。

 テレビ草創期の昭和33(1958)年2月24日~同34年7月5日、TBSで放送され、子どもたちが熱狂した。私ら団塊の世代(昭和22~24年)も10歳前後だったので、夢中になって電気店のテレビを見た(阿武隈高地ではまだ家庭にまではテレビが普及していなかった)。
 
 が、仮面をかぶり、マント代わりに風呂敷を首に巻くようなことはしなかった。それをしたのは下の子たちだ。小学校に入るか入らないかの子が「月光仮面」になりきって、塀から飛び降りてけがをした。私の5歳下の弟がそうだった。1年余りで「中止」になったというから、親たちが騒いだのだろう。

 いわき地方のメディア史を調べているうちに、「月光仮面」の新聞連載を思い出した。そこからが長かった。何新聞で、いつごろの掲載だったか――「郷土資料のページ」を開いては空振り、開いては空振りを繰り返した。膨大なデータ量だから、「筋」をはずすといくら時間をかけても「答え」にはたどりつけない。

 もういいや、最後に収められている「夕刊ふくしま」でも見てみるか――。すると、最初のデータ(昭和34年6月6日付)に「月光仮面」の文字があった。これだ! 初回は同年6月11日で、翌35年2月5日まで、2回にわたって計182回掲載された。

 横題字の下に「三和新報 改題」と入ったものもある。元福島民報記者遠藤節(俳優中村敦夫の父親)が独立して発行した地域紙の一つだと知る。川内康範は終戦後、一時、いわきで暮らした。遠藤節とは「刎頸(ふんけい)の仲」だったという。
 
 連載を知らせる「社告」に掲載された「作者の言葉」――。「月光仮面は、テレビ、映画、漫画、小説にはなっていますが、新聞に絵物語として発表するのはこれがはじめてです これまでに幾度出すようにもいわれてきましたが、どうもその気になれなかったのは、やがて、“夕刊ふくしま”が出るであろうことを期待していたからです」
 
「私は、いまから約7年程前に平市や湯本町に住んでいたことがあり、海岸通りの各土地にはたくさんの知人がおります だから、『夕刊ふくしま』に私の作品を発表することは、第二の郷土である福島とのつながりをさらに深めることになると信じてます。少年少女諸君、どうぞ応援して下さい」。「月光仮面」にとっていわきは特別の地だった。

2016年12月13日火曜日

作家東田直樹

 日曜日(12月11日)のNHKスペシャル「自閉症の君が教えてくれたこと」を見た=写真。2年前に放送されたドキュメンタリー「君が僕の息子に教えてくれたこと」の続編だ。「自閉症の君」とは東田直樹さん、24歳。自閉症で会話ができない。が、紙に書かれたパソコンのキーボードと同じ配列の文字盤を押しながらの発語=コミュニケーションはできる。そうして、番組では質疑応答が繰り返された。
 その「文字盤ポインティング表現法」で紡ぎだされる言葉がすごい。作家として仕事をしている、というのもうなずける。「僕は人の一生はつなげるものではなく、一人ずつ完結するものだと思っています。命がつなぐものであるなら、つなげなくなった人はどうなるのだろう。バトンを握りしめて泣いているのか、途方にくれているのか」。ここでうなってしまった。

 2年前、番組を見たあと、すぐ彼の本『跳びはねる思考』(イースト・プレス、2014年刊)を買って読んだ。

「人生という物語が、いつ終わってしまうのかわかりませんが、僕は、ひとつひとつのできごとに解説が必要な長編小説ではなく、単純明快な詩を描き続けたいのです」。木にたとえると、地上に現れているのは「散文」、それを支える根っこは「詩」だ。今度は作家、いや詩人には世界がどう映っているのか、という興味から番組を見た。今度もこちらの見方・考え方が広がった。

『跳びはねる思考』をまた読み返す。「自然はどんな時も、人々に平等です。そのことが僕の心を慰めてくれるのです。(中略)つらい気持ちは、どうしようもありませんが、ひとりではないと思える瞬間が、僕を支えてくれます」「僕が植物をうらやましいと感じるのは、考えなくてよいからではありません。植物は、どのような環境の中にあっても美しく咲こうとし、種を残そうとするからです」

 2年前、番組づくりに携わったディレクターがガンになり、闘病生活を送った。職場復帰を果たしたものの、月に1回の検査が続いている。ハンディキャップを負ったディレクターの目で、あらためて東田さんを取材したいと思ったのだという。

 内面を知ること、知ろうとすることの大切さ。それを教えてくれるのは、やはり文学ではないだろうか。人の心の奥底にまで思考の錨(いかり)が届くからこそ、東田さんは作家(詩人)として生きている。自閉症の東田さんの内面を伝える番組を見て、またそのことを思った。

2016年12月12日月曜日

「釜じい」の日

 カミサンの実家は米屋。師走に入ると、お得意さんや親せき、世話になった人に歳暮のもちを配る。きのう(12月11日)、一日がかりでもちをついた。といっても、もちは電気もちつき器でつくる。それ以外は手作業だ。
 ドラム缶を利用した“まき釜”に蒸籠(せいろ)を重ねてもち米を蒸す。それをもちつき器に入れる。できたもちは重さを量って袋に詰める=写真。私は毎年、火の番、「釜じい」だ。

「釜じい」の仕事は、まき釜の火力を一定に保つこと。燃料は、義弟が1年がかりで廃材を確保する。焚き方にはコツがある。しかし、何年やっても年に1回ではこつが飲み込めない。今回も「入り口で燃やすように」と指導を受けた。
 
 ドラム缶の奥で燃やすと煙突に炎が抜ける。手前で燃やすと焚き口から炎があふれる。中央の釜に炎を集中させるには釜の近くの焚き口で燃やすことが肝心、というわけだ。絶えず同じような状態でお湯を沸騰させないといけない。水蒸気を利用する点では原発もまき釜も同じだと、「釜じい」をやるたびに思う。
 
 火はただ見ているだけでもあきない。火を見ながら、心のなかではあれこれ考えている。これはこうしよう、あれはこうしよう。しかし、どうにも次の手が浮かばない。わが家のこと、地域のごみ問題のこと……。ま、日常は小さな応用問題の連続だ。
 
 昼飯はこれまで出前の「うな重」だった。今年は、手製のカレー。朝、うな重の記憶がよみがえって、いっとき幸せな気分になった。土用丑の日に、うな重を食べなくなって久しい。今年は「うな重」を味わわずに終わる。
 
 夕方は「どこで刺し身を買うか」悩んだ。行きつけの魚屋さんはお父さんの葬儀がすんだばかりで休みのはずだ。2、3軒、もちを配って街へ戻り、駅前でパック入りの刺し身を買った。なんだか「仮の昼食」「仮の刺し身」という言葉が浮かんだ。

2016年12月11日日曜日

お寺の「木鼻」

 宮大工のS君から電話がかかってきた。「あした(12月8日)、●○寺の『木鼻』を組み立てるので、見に来たら」。●○寺へ行くと、それらしい雰囲気はどこにもない。急いで電話をかける。「『豊間の仕事場で具合を見るために組み立てる』って言ったっぺよ」。晩酌の終わり近くのやりとりだったので、肝心の場所の確認がおろそかになった。豊間海岸沿いの工務所へ急行した。
「木鼻」は木のはしっこで、水平材から突き出た部分に施された彫刻などの装飾のことを言うそうだ。木鼻彫刻の傑作のひとつは日光東照宮の極彩色の象や獏(ばく)、獅子などだろう。

 豊間の宮大工の木鼻は、それに比べたらシンプルだ。外観は丸みを帯び、側面には“一つ巴”のような、おたまじゃくしのような曲線が彫り込まれている=写真。「波か」と聞けば「稲の種」だという。木鼻は三つ、ひとつひとつの大きさは目見当で高さ50センチ、長さ150センチほどか。

 28年前の平成元年、松材で本堂軒下壁面の木鼻をつくった。出組(でぐみ)という技法だそうだ。北向きの木鼻が風雨にさらされ、湿って腐り始めた。それで、今度はヒノキ材の木鼻に替えることにした。

 組み立ててみて不具合があれば微調整をする――その最後の仕上げを私に見せたくなったのはどうしてだろう。ふだんは普通の大工の仕事をしている。しかし、自分の本領はこれだよ、ということにちがいない。確かに、宮大工の棟梁としての仕事を見るのは、今度が初めてだ。

 修業中の20歳前後から画家や書家、詩人らと交わり、いわき市立美術館ができてからは学芸員とも付き合いを深めた。なぜ美術に傾倒してきたのか、木鼻を見てわかった。宮大工は木彫家でもあった。その修業のために早くから画家たちと交流してきたのだ。宮大工としての矜持(きょうじ)が私に電話をかけてよこしたのだ。「オレの木彫作品を見てくれ」と。

 東日本大震災では自宅が全壊判定を受け、そばにある仕事場が大津波で浸水した。本人は押し寄せる津波からかろうじて逃げのびた。木鼻をつくるのに丸カンナなどが必要だが、それは津波に浸かってさびていた。磨いて再生させた。11月22日の震度5弱の地震では、津波警報が発令された。道具を車に積んで、急いで高台に避難したという。

 寺の注文品だから、美術展に出品されるわけではない。軒下壁面にはめられれば、見上げる人もいない。近くで、じっくり見ることができるのは、この最後の仕上げのときだけ――そう、その日しかなかったのだ。

2016年12月10日土曜日

鳥インフルエンザ

 朝は8時ごろ、夕方は5時ごろ、わが家の上空をハクチョウが鳴いて通過する。去年(2015年)までの例でいうと、日中は四倉方面の田んぼで過ごし、夕方は平・塩の夏井川へ戻る(この冬もそうだろう、いちいち確かめてはいないが)。
 いわきの夏井川では、平・平窪、平・塩~中神谷、小川・三島でハクチョウが越冬する。日曜日(12月4日)、三島にはハクチョウのほかにオナガガモが多数飛来していた=写真。

 福島市で1週間前にオオハクチョウが死んで見つかった。鳥インフルエンザの簡易検査で陽性反応を示した。県は半径10キロ圏内を野鳥監視重点区域に設定した。北海道大学で確定検査をしたところ、ウイルスは強毒性の高病原性であることが判明した。巡回活動を強化するという。

「鳥インフルエンザ」と聞くと、亡くなった馬目さん(白鳥おじさん)を思い出す。前にも紹介したが、日本野鳥の会いわき支部報「かもめ」第126号(2015年4月1日発行)に掲載された、前事務局長峠順治さんの「左助・左吉と過した2200日~馬目夫妻の白鳥物語」によると――。

 左助と左吉は夏井川に飛来後、高圧線にぶつかり、翼をけがして北帰行がかなわなくなった。平成15(2003)年9月の大水で、夏井川の越冬地(平・中平窪)から約8キロ流され、そこに定着する。この2羽が呼び水になって、下流の平・塩~中神谷にも越冬地ができた。

 右岸に住む馬目さんが奥さんとともに、左助・左吉にえさをやるため、早朝、軽トラで左岸に通い続けた。馬目さんの死とともに終わったハクチョウと馬目さんの交流は9年間(うち6年間、2200日は左助たちのために毎日えさやりをした)に及ぶ。堤防をコースに早朝散歩をしていたので、いつのまにか馬目さんとハクチョウ談議を続けるようになった。

 最初に「鳥インフルエンザ」という言葉を記憶にとどめたのは8年前(平成20年)。市役所の職員が「白鳥にえさをやらないでほしい」と、馬目さんに言いに来たそうだ。「渡って来たハクチョウはともかく、飛べずに残ったハクチョウには命がけでえさをやってんだ、見殺しにしろというのか」。役所の物言いに馬目さんは怒った。

 前から言われていることだが、通常の野鳥観察程度なら人間への感染の可能性は低い。ただ①死んでいる鳥や衰弱している鳥には素手で触らない②鳥の排泄物に触れたら手洗い・うがいをする③フンを踏んだら念のために靴底を洗う――というようなことはした方がいい。

2016年12月9日金曜日

シモネタネギ

 おととい(12月7日)のNHK・あさイチは「旬だからネギの特集」だった。群馬の「下仁田(しもにた)ネギ」が登場した。
 震災前、鍋用のネギを探しにスーパーへ行ったときのこと――。カミサンが「下仁田ネギ」を指さして、「『シモネタネギ』がある」といった。「シモニタ!」と注意すると、笑ってごまかした。

「下仁田ネギ」をちゃんといおうとすればするほど、人は“下ネタ”に呪縛されるらしい。番組のレポーター(女子アナ)がやはり、一回「シモネタネギ」とやった。わざわざ字幕に間違いが表示された。「いうかもしれない」と待っていた視聴者が多かったのだろう。私とカミサンも「やっぱり」と大笑いした。

 ま、それは本題ではない。冬ネギは加熱すると甘くなる。甘さがネギの本領だ。下仁田ネギのほかに、深谷ネギ(埼玉)や平田赤ネギ(山形)、仙台の曲がりネギ、山口のふくネギ(フグ専用の小ネギ)、やぐらネギなどが紹介された。

 いわきの山里、夏井川渓谷の隠居で地元の昔野菜・三春ネギを栽培している。スーパーへ買い物に行ったとき、珍しいネギがあると、味を確かめたくて手に入れる。先日は高知の「やっこネギ」を買った。アサツキやノビルに似た小ネギで、山口のふくネギに近い。「ねぎま」にしたら、シャキシャキしてうまかった。

 師走に入れば、郡山市の阿久津曲がりネギがヨークベニマルに並ぶ。日曜日(12月4日)、夏井川渓谷の隠居からの帰り、好間の系列店をのぞいたら、曲がりネギがあった。2束を買った。

 おとといは、マルトで下仁田ネギに出合った。あさイチの影響もあって、夜、鍋物にした=写真。下仁田ネギはすぐやわらかくなる。やわらかくなりすぎたようだった。

 わが家では、原発震災前までは甘くてやわらかい三春ネギの“自産自消”を続けてきた。震災後は菜園を含む隠居の庭が全面除染された。自家採種のサイクルを途切れさせるわけにはいかない――そう決めて、種だけは毎年採っている。味わうどころではない。来年(2017年)こそ、種も味も、といきたいものだ。

2016年12月8日木曜日

祈るしかない

 行きつけの魚屋さんのシャッターが閉まったままになっている。先日、自宅療養中のお母さんが亡くなった。葬式が終わってから半月ほどたつが……。
 すると今度は、お父さんが急逝したという風の便りが届いた。きのう(12月7日)、新聞折り込みの「お悔み情報」(チラシ)で確認した。「ふた七日目に亡くなった」というのはほんとうだった。なんということだ。

 たまたまお母さんが亡くなった直後の日曜日、いつものように刺し身を買いに行った。葬儀を告げる花輪が立っていた。シャッターが開いていた。若だんなが、さっきまでシャッターを閉めていたのだという。「マグロならありますよ」。タコの刺し身も加えてもらったら、「きょうは、おカネはいいですから」。何度払うといってもいらないというので、お悔みをいって帰った。

 ともに85歳。お母さんが亡くなったとき、若だんながいっていた。「おふくろは痛みも感じずに普通に暮らしていられたんですよ。おやじは『当たり所』(文句をいう相手)がなくなっちゃったんじゃないですかね」。がっくりきたのかもしれない。

 先代(お父さん)とは、思えば長い付き合いだ。30代半ば、近所のスナックで食べたカツオの刺し身がうまかったので、ママさんにどこから仕入れるのかを聞いた。以来、日曜日には刺し身を買いに行く習慣がついた。いわき水泳連盟の元会長で、水泳講習会を取材したら指導者が先代だった、ということもある。

 ふだんの暮らしのなかで不幸が連続するなんてことはめったにあるものではない。私が記憶しているのは二つ。

 一つは、昭和8(1933)年のケース。明治40(1907)年にいわき地方で初の民間新聞「いはき」を創刊した吉田礼次郎が63歳で亡くなる。同じ日の夜、病気療養中だった礼次郎の孫娘も息を引き取る。当時の地域新聞に黒ワク(死亡広告)が並んで載った。いわき総合図書館が実施している常設展示「いわきの地域新聞と新聞人」(2011年度後期)で知った。
 
 もう一つは、東北・北海道地方で最も早く肢体不自由児施設「福島整肢療護園」を開設した医師大河内一郎さんの長男と奥さんのケースだ。大河内さんは昭和48(1973)年、脳こうそくで右半身が不随になる。そこへ翌年、大河内病院副院長の長男が、それから10日ほどあとに奥さんが亡くなる。
 
 療護園に勤める友人を介して、大河内さんと会食したのはそれから何年かあとだった。今思えば赤面の至りだが、若造の意見に真剣なまなざしで聞き入っていた。私が今、若い人に学べと自分に言い聞かせているのは、このときの経験が大きい。
 
 夕方、用事を終えて帰宅すると、すごい西空に遭遇することがある=写真。朝寝坊の子どもは朝日よりも夕日に畏敬の念を抱いて育つ。朝の散歩をやめた人間には、なおさら夕空が親しい。その先に西方浄土がある。ただただ祈るしかない。

2016年12月7日水曜日

植物だって動物だ

 もう半月ほど前だが、NHKドキュメンタリー「足元の小宇宙 絵本作家と見つける生命のドラマ」=写真=を見て感じ入った。絵本作家、甲斐信枝さん。85歳になっても幼女の心を失わない。京都・嵯峨野の里山で、甲斐さんのまなざしを通して植物の驚きを見つめ、躍動感あふれる姿を描く――という番組だった。 
 わが子が幼いころ、「かがくのとも」を購読していた。甲斐さんの「あしながばち」や「きゃべつばたけのいちにち」「ひがんばな」を見ていたはずだが、作者の名前を記憶にとどめることはなかった。

 甲斐さんの本『小さな生きものたちの不思議なくらし』(福音館書店)を図書館から借りて読んだ。「私はずっと以前から身辺の植物を写生しているとき、彼らのひそかな息づかいや自分たちのおかれた環境に、敏感に周到に反応し、適応していく気配に動物の匂いを感じ、そのことにこだわり続けてきました」。おっ、植物だって動物だ、ということか。草野心平に通じる考え方・感じ方ではないか。

 いわき市立草野心平記念文学館の粟津則雄館長(文芸評論家)によると、心平のもっとも本質的な特質のひとつは、ひとりひとりの具体的な生への直視にある。それは人間だけでなく、動物・植物・鉱物・風景に及ぶ。

短詩「石」。「雨に濡れて。/独り。/石がいた。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。」。「一つ」ではない「独り」、「あった」ではない「いた」。石もまた人間と同じ質量を持った存在としてとらえられる。

 心平は「あいまいで抽象的な観念にとらわれることなく、弱々しい感傷に溺れることなく、その視力の限りをつくして直視した。彼とそれらの対象とのかかわりをつらぬいているのは、ある深く生き生きとした共生感とでもいうべきものだ」という。

「魚だって人間なんだ」という心平の詩行がある。その延長でいえば、植物だって、動物だって人間なんだ、となる。植物だって動物だ、という感覚は少しもおかしくない。

 詩と詩論を読みふけった10代後半に覚えたことの一つが「極小と極大をつなげる」ということだった。「コップの海」とか「手のひらの世界地図」とかいう比喩がそれに当たる。この番組の場合は「足元」という「極小」と「小」は付いているが「宇宙」という「極大」の連結ということになる。その連結を包んでいるのが、甲斐さんの「深く生き生きとした共生感」とでもいおうか。

2016年12月6日火曜日

文芸雑誌「文祭」

 ネット古書店を営む若い仲間が、戦後間もなくいわきで発行された文芸雑誌を持ってきた=写真。「文祭」「新浪漫文学」「作風」「原型」「去来」「北炎」などで、「文祭」には記憶があった。
『いわき市史 第6巻 文化』で小説・戯曲・評論、詩の項を担当した作家の故草野比佐男さん(三和)が書いている。

「平に来た川内は、そこで富沢有為男に師礼をとり、一方、地元のほぼ同年輩の青年、菅田甫(はじめ)、芳賀他郷等とも結びついて、雑誌をだす。『文祭』がそれである。雑誌の現物にはあたりえないままに菅田甫の記憶にしたがって記せば、創刊が昭和22年(1947)4月1日で4号まで出ており、執筆者には富沢有為男、山岸外史、小高根二郎等を揃えた」

「川内」は川内康範(当時・河内潔士)。後年、テレビドラマ「月光仮面」を書き、「おふくろさん」などの歌謡曲の作詞を手がけた。「富沢有為男」は芥川賞作家で、平市(現いわき市)の北隣・広野町に疎開していた。

 川内が「平に現れたのは、地元出身の夫人の縁によるもの」で、やがて知人である「川内と入れかわりに丹後沢のほとりへ、真尾倍弘と夫人の悦子が移ってくる。真尾のもとへ地元の青少年が日参」し、旺盛な表現・出版活動が展開される。

 草野さんが未見の雑誌なら書いておく意味がある。第2号(昭和22年6月10日発行)、第3号(同8月10日発行)、第4号(同9月10日発行)が残っていた。第2号の表紙裏と目次から、当時27歳の「文祭」編集者・河内潔士の硬骨ぶりと思想的側面がうかがえる。

 表紙裏、下半分の広告。「腐敗せる文学界へ、便乗商人作家へ、抗議の結集! 純文学季刊叢書(単行本形式) 『日本抒情主義』発刊近し」。執筆者に河内潔士のほか、当時22歳の三島由紀夫の名が見える。目次には広告にもある渋沢均(詩)、小池吉昌(詩)、保永貞夫(詩)らの名が。額賀誠志(詩=児童歌劇)と菅田甫(創作)は地元の人間。額賀は童謡詩「とんぼのめがね」で知られる。

 随想「言論の注射」の筆者・プロテスタントは川内自身と思われる。「【和歌滅亡論】このごろしきりに左翼陣営の連中が、さかんに和歌を三流芸術だとか、滅亡をするなどといって元気のいゝところを示してゐるが、一体彼等の言論の何処に真実性なり批判精神があるのか、吾輩にはさっぱりわからん(以下略)」。草野さんが目を通していたら、批判的に論評したに違いない。
 
 ま、それはさておき、裏表紙の広告には戦後2年に満たない当時の庶民の心情が透けて見えるようだ。今はいわきを代表する建設会社が、当時は「演芸社」を営んでいた。「いつも、よい演劇を、美しい音楽を、そして舞踊を、みなさまに贈ることが、わたくしの念願であります」

 第3号、湯本の温泉旅館古瀧の広告には「石城よいよい 湯本の町は 愛の泉の お湯がわく 今度やすみにや 二人でおいで 浮世苦労が わすられる ソウラほんとに ほんに 湯本はよいところ」と、実際あったかどうかはわからないが、「歌」で来訪・入湯を呼びかけている。川内はコピーライターを兼ねていたのかもしれない。

2016年12月5日月曜日

モグラ道

 2週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。カエデの紅葉が少し残っているほかは、渓谷はすっかり冬の装いに変わった。きのう(12月4日)、日曜日。快晴、無風。師走に入ったので、適当に「終わりの小春日」と言っておく。穏やかでいい天気だった(午後は雲が多くなった)。
 庭の片隅の菜園に生ごみを埋め、辛み大根を採り、ネギの苗床=写真=に追肥をした。それから、敷地の境のやぶに生える灌木にエノキタケでも出ていないかと思って見て回ったが、なかった。

 この時期、渓谷の朝日は隠居の真向かい、対岸の尾根から昇る。逆光のなかでクモの糸がキラキラ輝いていた。子グモが糸をのばして空へ飛びたったのだ。たどり着く先は街か海か田んぼか。キラキラのピークは11月。山形の方ではこれを「雪迎え」というそうだが、夏井川渓谷では雪が降らなくとも、同時期にクモの糸が輝く。それから少し遅れて雪虫も現れる。

 クモの糸と雪虫を見たあと、三春ネギの苗床をチェックしてうめいた。一部が盛り上がっている。苗床から先の地面もモコモコしている。地中にモグラ道ができた。

 モグラは農家に嫌われる。野菜のうねの下にモグラのトンネルができると、野菜の根が宙に浮く。水分も養分も吸収できなくなる。トンネルの往来に邪魔になる根は除去される。モグラ道は野菜栽培の障害になるのだ。

 わざわざネギの苗床を狙ったわけではない。菜園に生ごみを埋めている。ミミズが発生する。モグラから見たら、苗床の先にミミズがいた、ということになる。よくも悪くも自然界は不思議に満ちている。

2016年12月4日日曜日

バングラカレーを食べながら

 おととい(12月2日)の夜、カミサンの伯父(故人)の家でバングラデシュカレーを食べる会が開かれた=写真。シャプラニール=市民による海外協力の会が、いわき市内の会員、マンスリーサポーターらに呼びかけたところ、スタッフを含めて12人が参加した。
 シャプラは震災直後からいわきに入り、緊急~生活~心のケアも含めて5年間にわたって支援活動を続けた。12人は、支援活動中にシャプラとつながった人、シャプラが支援している南アジア(バングラデシュやネパールなど)に思いを寄せる人、昔からの会員やマンスリーサポーターなどだ。

「個人情報」の制約もあって、これまで会員やマンスリーサポーターが顔を合わせることはなかった。しかし、仲間が連携するからこそできることもある。シャプラはいわきで交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。ばらばらであっても多くの仲間の支えがあったから5年も継続できた、と私は思っている。その経験・ノウハウが、今、ネパール大地震の支援活動に生かされている。

 シャプラと個人のつながりだけでなく、シャプラを軸にした個人と個人の横のつながりも必要ではないか。それは、シャプラ本来の活動を続けるうえでも有効ではないか――シャプラとかかわったいわきの人間には、恩返しの意味も込めて、会員・非会員を問わないゆるやかなネットワークでシャプラを応援したい、という思いがある。そうすることで「いわき連絡会」にも次につながる道筋が見えてくる。

「カレーの集い」は料理から始まった。料理に参加できる人は夕方4時過ぎにはやって来た。やがて6時過ぎには人が集まり、食事と会話を楽しんだ。

 自己紹介が行われた。当然のことながら、1人ひとりが違う人生を生きている。詩人、フリーペーパー記者、郊外にカフェを開くため古民家を探している人、そば打ちと陶芸に打ち込んでいる人、英語に堪能な人……。詩人は自作詩を朗読した。
 
 世代、性別を超えてゆるやかにシャプラとつながり、シャプラでつながる――人が属するコミュニティは地域社会だけではない。いろんなコミュニティに属していると、多様な見方や価値観に触れられる。それだけ物事の判断がより深く、正確になる。楽しみも増える。これを機に、たとえば「打ち立てそばを食べる会」が企画されたら、私は自家栽培の辛み大根を提供する――なんていう話で盛り上がった。

2016年12月3日土曜日

松くい虫、再び

 1本の赤松の異変に気づいてから5年余りがたつ。夏井川渓谷の隠居の対岸、とんがり帽子のような岩盤の上に生えた赤松が少し“茶髪”になりかけたので、1年間、1~2カ月に1回くらいのペースでカメラを向けた。
 その写真が教える変化を2年前に書いた。――平成25(2013)年11月30日、緑色が勢いをなくして一部に黄色いメッシュが入っていた。同26年3月18日、黄緑色の葉はあるものの、大半が赤みを帯びる。5月4日、あらかた“茶髪”になった。6月8日、“茶髪”が濃くなる。7月22日、先端だけ赤いほかは灰色に。9月21日、そして11月16日、完全に枯れたらしく灰色一色になった。

 岩盤を囲むように赤松が三段になって生えているスポットだ。錦展望台の真向かいにあって、真っ先に観光客の目に入る。頂点の松が枯死したあとは、これといった異変は見られなかった。ところが、先日なにげなく目をやると、下段、中段の赤松の葉にほんの少し黄色いメッシュが入っていた=写真。とうとう。こちらも前記のような色の変化をして立ち枯れるものと思われる。

 黄色いメッシュが現れた時点で松はすでに瀕死の状態、というのが、渓谷の“定点観測”で得られた私見だ。葉が枯れれば赤い樹皮も時間をかけて黒ずみ、はがれ、白い“卒塔婆”と化して、やがて上部から折れて姿を消す。
 
 渓谷の森を巡りはじめた20年余前、松枯れがピークに達していた。直径1.5メートル以上の古木が次々に枯れた。いつころ松枯れが始まったかはわからない。いったん松枯れが収まったなと思ったのは、森巡りを始めてから5年ほどあとだ。
 
 師走に入ると、渓谷では大トリのカエデの紅葉も終わり、モミの暗い緑と赤松の明るい緑だけが目立つようになる。その明るい緑が十数年ぶりに枯れだした。岩盤の露出したスポットだけでなく、あちこちで枯死が目立つ。
 
 樹木医に松枯れの原因を聞いた。若くて元気のいいのは松くい虫の被害に遭わない。十数年前に松枯れ被害を免れた木が年輪を重ねてやられたのだろう、という。

 そこだけ写真で切り取れば天然の盆栽のような美景だが、1年後には見る影もなくなっているのか。にしても、まだ若い松だ。若い松もやられるようになったのではないか。

2016年12月2日金曜日

いわきの除染終了へ

 先日、いわき市から除染の受付と終了の期限が迫っていることを告げる回覧資料が届いた。受付はこの12月で、除染作業は来年(2017年)3月までに終了する、という。
 拙ブログに掲載した写真は、その資料に載る「いわき市内の空間線量率の推移」。左側が事故直後(平成23年7月時点)、右側が最新のデータ(同27年11月時点)だ。

 色からみると、原発震災がおきた23年には川前地区に毎時3.85シーベルト以上の赤のゾーンがあった。27年には0.99~1.93の緑、0.23~0.98の水色のゾーンが残るが、あとはほとんどが0.22以下の青色になった。

 あのとき、NHKETV特集取材班が初めて阿武隈高地の放射能汚染の実態を明らかにした。事故直後の4月3日、「原発災害の地にて」で玄侑宗久さんと吉岡忍さんが対談した。さらには5月15日、シリーズ最初の「ネットワークでつくる放射能汚染地図」が放送され、総合テレビで再放送されるほど大反響を呼んだ。

 私が川前のホットゾーンを知ったのは、原発震災から2カ月弱、ETV特集の二つの番組の間の5月5日だった。そのときのブログの抄録を再掲する。
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 きのう(5月5日)、夏井川渓谷の無量庵(隠居)へ出かけて畑仕事をした。合間に、必要があって川前の知人に連絡した。すぐ来てくれた。用事がすんだあと、「3・11」以後の話になった。原発事故が今も心に重くのしかかっているという(それは私も同じ)。川前は山間地。平野部の平よりは福島第一原発に近い。市街地の市民とは違った危機感を抱いている。

 いわき市は原発事故では「無印」になった。しかし、「緊急時避難準備区域」(福島第一原発から20~30キロ圏内)に入っているところがある。北部の末続、大久。いわきの山間部では小川の戸渡、そして川内村に接する川前の荻、志田名など。いずれもいわき市の行政・経済の中心地である平からはずいぶん遠い。

 川前は安全か――知人の不安、いらだち、怒り、孤立感は、30キロ圏内の同じ川前の住民の気持ちだろう。「どうしたものか」と聞かれても、「そうですねえ」としか言いようがない。

 住民が自主的に放射性物質の線量計測を始めた。ところによっては、2.88マイクロシーベルトアワーという高い値を計測した。単純計算では、積算線量が年間25ミリシーベルト余になる。飯館村と同じような「計画的避難区域」ではないか、これは。

 いわき市は昭和41(1966)年10月1日、14市町村が合併して誕生した。合併のメリットは財政の効率化、デメリットは地域の問題の潜在化。合併前ならば「村の最大課題」だったのが「市の一部の課題」でしかなくなった。

「2.88マイクロシーベルト」は、「川前村」なら全村避難を検討しなくてはならないような危機感に襲われているはずだ。同じ川前でも川と山がある。夏井川のほとりの市川前支所で「0.15マイクロシーベルト」とあっても、双葉郡により近く標高の高い山地の荻、志田名では線量が高い。
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 そのときからでも5年半がたつ。回覧資料によると、市内の保育園・幼稚園、小・中学校は26年3月までに、公園は28年6月には除染が終わった。住宅・道路・事務所の除染も線量率の高い地域から始まった。これが29年3月までに終了する。
 
 わが家の関係でも、渓谷の隠居では庭が全面除染された。平地のわが家は、自分で線量を測っていたこともあって、除染はしなかった。
 
 区としては、23年11月27日、区の役員と子供を守る会の役員、住民など40人近くが参加して除染作業を行った。通学路を高圧洗浄機で除染し、県営住宅集会所・公園周辺の清掃をした。高圧洗浄には大量の水を使う。放射性物質を下流へ“移染”しただけだった。じくじたる思いが今もある。

2016年12月1日木曜日

子猫の命運

 ある夜、息子から電話がかかってきた。「(小名浜から拾ってきた)子猫が死んだ。庭に埋めていいか」。いいも悪いもない。スコップで穴を掘って待っていると、2人の孫もついて来た。
 それから10日後。急に“学童保育”を頼まれた。息子の家で学校から帰るのを待ったあと、わが家へ連れて来た。ん!? 家に入ると、子猫の鳴き声がする。下の孫が「線香は?」という。

 線香はすぐにわかった。庭に眠る子猫に焼香したい、という意味だった。カミサンがすぐ用意をする。生きている子猫は、カミサンが孫に見せたくて、裏に住む実弟の半飼い猫の子を持ち運びゲージに入れて持ってきたのだという。

 カミサン・息子・カミサンの弟――つまり私以外は、そこに猫が、犬が捨てられていれば拾ってしまう派。私はなんでも1匹だけ派で、猫が2匹も3匹もいるような家にはしたくないのに、いる状態がしばらく続いた。その猫たちたちが天寿を全うし、やっと人間だけになったと思ったら、また少しずつ猫の気配が濃くなってきた。

 5日ほど前の深夜、地震でもないのに家の階段の本が崩れ落ちた=写真。なんでこうなるのか? しばらく階段をながめながら思案していたら、2階から子猫が顔を出した。びっくりした。なんでそこにいるんだ? カミサンを起こして聞くと、「私だって知らない」という。日中、家のどっかの戸が開いていたのだろう。カミサンがいらつく私にぶつぶついいながら、子猫2匹をつかまえて外に出した。

 焼香の儀式が終わると、カミサンは孫を連れて裏の家に子猫を戻しに行った。そのあと、茶の間で孫たちと遊んだ。孫のモノマネに爆笑した。若いときのタモリの形態・声帯模写を思い出した。
 
 小3の孫がピコ太郎の「アッポーパイ」と韓国のデモ参加者のまねをする。下の小1がテレビに映った韓国人と同じような表情をし、声を出して“怒り”を表現する。小1でこんなに迫真の演技ができるのか、とびっくりした。韓国の人たちは国政を私物化した大統領に、猫ではなく虎になった。虎の叫びが日本の子どもたちにも届いたのだ。
 
 韓国のできごとだろうと日本のできごとだろうと、メディア(特にテレビ)が繰り返し伝える情報を、子どもたちはあっという間に吸収する。大人社会が子ども社会に反映する。

ノートパソコンを開いてある漢字の意味を調べていたら、下の孫が「これ(ノートパソコン)で、女の人の裸の写真を見るんでしょ」と言った。「違うよ、調べるのに使うんだよ」と返したものの……。いやあ、恐ろしい。大人は子どもに見抜かれている。孫に、猫をかぶらないで、と言われたような気がした。

2016年11月30日水曜日

横道にそれる楽しみ

「どんどん横道にそれて、遊びながら学んでいく――これこそわたしの『銀の匙』授業のやりかたでした」。中学の3年間、中勘助の「銀の匙」を教科書にして現代国語の授業をする。私立灘校国語教師、故橋本武さんの授業はユニークだ。
 橋本武著『<銀の匙>の国語授業』(岩波ジュニア新書)=写真=を読んで納得した。どんどん横道にそれていくなら、『銀の匙』だけでも“読了”までに3年はかかる。
 
 たとえば――。「ぶ」動詞が出てくる。共通する動詞を考えさせる。「あそぶ」「まなぶ」のほかにどんな「ぶ」動詞があるか。それをどういう方法で考えたか。「あいうえお」順で考えたという子がいる。次に、その動詞を漢字で書かせてみる。さらに、歴史、民俗、自然……と次々に踏み込んでいく。要するに、総合学習で丸ごと作品を味わう。これこそが「横道にそれる」醍醐味だ。

 11月6日にいわき市立草野心平記念文学館で第39回吉野せい賞表彰式が行われた。式後、現代詩作家荒川洋治さんが「詩を知るよろこび」と題して記念講演をした。

 荒川さんは冒頭、吉野せいの短編集『洟をたらした神』に触れてこんなことを言った。灘校では、橋本さんが『銀の匙』を教科書にした。いわきでも同じように『洟をたらした神』を教科書にしたらいい――。で、後日、『<銀の匙>の国語授業』を、図書館(ティーンズコーナー)から借りてきた。荒川さんの言わんとしていることがよくわかった。

 実はそのころ、『洟をたらした神』のなかの「麦と松とクリスマスツリー」に関して、作品世界と呼応する資料をネットから手に入れた。
 
「麦と松とクリスマスツリー」のあらすじ――。終戦前年の師走の暮れ・夫の三野混沌(吉野義也)とせいが菊竹山の畑で麦踏みをしていると、炭鉱の捕虜収容所通訳Nさんと捕虜の若い白人が現れる。Nさん「この辺に樅の木はないかねぇ」、混沌「樅はねえなあ、松の木ならどうだ」。Nさんと若者は松林の中に入り、クリスマスツリー用に「ひねくれた一間ばかりのみすぼらしい芯どまりの松」を取ってきた。

 それから8カ月過ぎた真夏の日、Nさんに引率された30~40人の俘虜、いや今は勝ち誇ったアメリカ兵たちが、愉快気に菊竹山へ山遊びに来た。集落の小さい子供たちは「ガム、くんちぇ」。列の後方からあのときの若者がせいの目の前に白いものを投げてよこす。1メートルほどの人絹布に吸い残し5本が入ったたばこの箱。たばこは混沌が吸い、布は肌着の半襟にでもとせいがしまいこんだ。
 
 この作品世界を捕虜の側から照らし出したのが、ネットで見つけたPOW(戦争捕虜)研究会の笹本妙子レポート「仙台第2分所(好間)」だ。捕虜収容所に菊竹山からとってきた松の木を据え、あれこれ飾ってクリスマスを楽しむ。内容は略すが、「麦と松とクリスマスツリー」の世界がより生き生きと立ち上がってきた。橋本流とはこういうことなのだ。
 
 橋本さんの本を読んだあと、『洟をたらした神』の最初の短編「春」について、「注意すべき語句」をチェックしてみた。①動植物=カエルの冬眠・ゆりみみず・陸稲(おかぼ)・粟②農業=万能・唐鍬・新切り叩き・二段返し③その他=乾地湿地・モッコ・地鶏・あひるの卵・浜の祖父の病気見舞い――。これまでいかに適当に作品を読み流していたことか。横道にそれて学ぶことがいっぱいある。

2016年11月29日火曜日

カラスめ!

 家の前の歩道にごみ集積所がある。わが区は月・木曜日が「燃やすごみの日」だ。「燃やすごみの日」と「容器包装プラスチックの日」だけ、黄色いごみネットを出す(容器包装プラの日は風対策)。ネットはわが家で保管している。ネットを出しっぱなしにしておくと景観的にもよろしくない。収集車が来たあとはネットを回収する。
 きのう(11月28日)はネットをかぶせてもお手上げ状態だった。ハシブトガラスが生ごみを食い散らかす=写真。それを片づける。と、また食い散らかす。片づける。またまた食い散らかす。片づける。またまたまた……。収集車が来るまでのわずか2時間ほどの間に4回も攻防を繰り広げた。初めて無力感を覚えた。

 カラスの害を呼び込むのはごみを出す側だ。ごみ出しのマナーがなっていない。で、注意喚起の紙を電柱にくくりつける。すると、しばらくカラスは遠ざかる。しかし、住人が変わるたびにカラスが舞い戻る。最近も張り紙をした。

 きのうは、マナー違反(生ごみがもろに見える)はひとつくらいだった。それは真っ先にやられた。ところがそのあと、ネットをきちんと覆っても、生ごみが新聞紙で覆われて外から見えないようになっていても、袋を引っ張り出して破り、生ごみを散らかした。
 
 わが家の前の集積所だけではなかった。斜め向かいの集積所もやられた。同じ歩道の先の集積所にもカラスが集まって、ごみ袋をつついていた。集団のなかに、「燃やすごみの日」にはどの袋にも生ごみが入っていることを学習した個体がいたのではないか。

 5日前のブログにこんなことを書いた。イノシシがとうとう近所に現れた。「住宅地で害を及ぼす野生動物はカラスがほとんどだった。人間のごみの出し方が悪いとたちまち袋を破って生ごみを食い散らかす。これからはカラスだけでなく、イノシシも警戒しないといけなくなった」

 カラスやイノシシに言わせれば、「マチに現れるようにしたのは人間だよ」となる。人間には「いいね!」でも、動物や植物には迷惑千万なものがある。きのうのカラスのしつこさは、そんな人間の身勝手さに対する“逆襲”、いや“警告”だったのかもしれない。