2016年2月29日月曜日

ほんとうの川

 夏井川渓谷を代表する景勝は「籠場の滝」。魚止めの滝で、滝を越えようとジャンプする魚を、籠を仕掛けて難なく捕ったのでその名がある。あまりに美しいので殿様が籠を止めさせた――なんて、いつ、だれがいいだしたのだろう(そういう史実があるのだろうか)。
 ふだんは水量が少ない。落下する白い水の帯も細く弱い。ところが、きのう(2月28日)は大雨のあとでもないのに、白い瀑布となって水煙まで上げていた=写真。滝の下流も上流も、あおく澄んでいるのは同じだが、水量がいつにも増して多い。淵はより深くなり、早瀬は流れがより速く、白くなっている。
 
 渓谷の隠居(無量庵)に着いて内外に異常がないのを確かめたあと、周囲をぶらぶらした。それで、「荒ぶる滝」の理由がわかった。
 
 隠居の近くの夏井川に、直線距離で4キロほど下流の発電所に送水する取水堰がある。右岸に隧道(導水路)が伸びる。その水門が閉められ、堰の水門が開いて、水が本川に集中している。
 
 発電所が稼働中は、夏井川のそばに隧道を流れる「第二の夏井川」がある。われわれがふだん眺めている「籠場の滝」は、分水されたあとのおとなしい流れだった。それが、補修かなにかの理由で導水路が底を見せ、ほんとうの川の流れが復活した。
 
 堰の近くに行くと、かすかに生臭いにおいがする。なんだろう。堰のすぐ上流は泥をかぶった石が一部露出していた。泥のにおい? そのなかにひそんでいた虫たちの死がいのにおい? 少し離れると、いつもの空気のにおいになる。
 
 導水路の取水口から隧道までの間に沈砂池がある。底をさらしていた。山側には砂がたまっている。ここから腐臭が立ちのぼっているようには感じられない。やはり、本流の泥の、有機物の腐敗臭だろうか。
 
 それはともかく、渓谷の川はつかの間ではあっても躍動している。荒々しく、エネルギッシュに。川自身が本来の「渓谷の春」を楽しんでいる。特に、「籠場の滝」の白い瀑布と水煙は格好の被写体だ。

2016年2月28日日曜日

オーケストラの力

 今年もFMいわきからコンサートの案内状が届いた。たまにはクラシックで気分転換を――金曜日(2月26日)朝、いそいそとアリオスへ出かけたら、開場時間を開演時間と勘違いしていた。30分早く着いた。館内を探検しているうちに時間がきた。去年(2015年)と同じ大ホール3階右側そでが指定の席だった。
 震災後、FMいわきと東京都交響楽団が協力して「ボクとわたしとオーケストラ~音の輪でつながろう」を開いている。小学生(午前の部)と中学生(午後の部)が無料で招待された。FM開局時からしばらく、パーソナリティー相手におしゃべりする番組に出ていたのと、FMの支援組織「まちづくり倶楽部」に名を連ねているので、その関係で案内状が来たのだろう。

 大ホールがほぼ満席になったところで、団員がステージと客席から「ラデツキ―行進曲」を演奏しながら入場した。開演前はざわついていた子どもたちだが、行進曲が始まると静かに聞き入り、自然に手拍子がわいた。去年もそうだった。今年で5回目、たぶんずっとそうなのだ。
 
 ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、J.シュトラウス2世のポルカ「雷鳴と稲妻」「観光列車」、エルガーの行進曲「威風堂々 第一番」が演奏された。ラデツキ―もそうだが、行進曲には、きょうもあしたも胸を張って、前を向いていこう(指揮者の大野和士さん)――という思いがこめられている。

 去年と同じく、最後の曲目「威風堂々」の前に、子どもたちが全員で「ビリーブ」を歌った=写真。大人にはNHKの昔の自然番組で、子どもたちには学校の卒業式などでなじみの曲だ。震災後は、歌詞がより身近なものに感じられるようになった。

 今年のアンコールは「ロンドンデリーの歌」。われわれには「ダニーボーイ」といった方がわかりやすい。アイルランド好きの人間としては、余韻が長く続く終わり方だった。

 日常は「小事」の連続だ。宿題・課題が解決したと思ったら、すぐまた別の宿題・課題がやってくる。ときに、こうして現実を離脱して音楽につかり、心のアカを落とすと、少し元気になる。それこそがオーケストラの持つ力だろう。

 元気がチャージされた勢いで翌日(きのう)、ある女性宅へ出かけた。「行政区の役員になってくれるとありがたい」。その場では断られたが、帰宅すると間もなく電話がかかってきた。「地区のために少しでも協力しないと……」。頭のなかでラデツキ―行進曲が鳴り響いた。

2016年2月27日土曜日

「ぶらっと」の仲間

 東日本大震災から半年後、国際NGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」が、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」に地震・津波被災者、原発避難者のための交流スペース「ぶらっと」を開設した。その半年後にはイトーヨーカドー平店に移転した。
 この間、シャプラの職員、現地採用スタッフとボランティア、利用者が「ぶらっと」で交流した。今はティーワンビル斜め前のスカイストアに入居している。3月11日の翌12日・土曜日、「ぶらっと」は閉鎖される。(今、気づいたが、3月のカレンダーは5年前のそれと同じだ)

 バングラデシュやネパール、インドなど南アジアで「取り残された人々」の支援活動を展開しているシャプラは、みぞうの原発震災を受けて初めて国内支援に入った。いわきを拠点に活動を続けて5年。震災前からシャプラを知る人間としては、もう十分、ありがとう、あとは本来の仕事にエネルギーを集中して――そんな思いでいる。
 
 おととい(2月25日)、「ぶらっと」の元スタッフやボランティア仲間が集まってささやかな食事会が開かれた。ボランティアのTさんがご主人の仕事の関係で中国へ移住した。いわきへ里帰りするたびに10人前後が集まる。

 浪江町から避難して、いわきで働いているNさんが店を予約した。初めて会ったときには小学生だった娘さんは、広野町に開校した高校の1期生。電車で通っている。で、学校の帰りにいわき駅前のその店で合流した。制服にみんなの目が集まった。

 富岡町のYさんは、「ぶらっと」のボランティアを経て同町の交流サロンで働いている。常磐に家を建てたという。つらいことはおくびにも出さず、いつも相手に「ありがとう」という。双葉町から避難した元スタッフRちゃんはいわきの青年と結婚して母親になった。人形のようにかわいい。「整形したの?」とよく聞かれるそうだが、地顔だ。
 
 ほかに、元スタッフ(フラダンスと司会のプロ)、ボランティア(ピアノ教室のおばさん先生)、私ら夫婦。交流スペースの情報紙「ぶらっと通信」もみんなが協力して発行した。
 
 5年前、4歳だったTさんの愛娘は今、小学3年生。中国のインターナショナルスクールに通っている。英語のほかに、中国語も学ぶ。昔、「唐詩選」を原音で読みたくて、いわきの中国語教室で1年ほど勉強したことがある。おちびちゃんの発音を聞いたら、ちゃんと「四声(しせい)」(アクセント)ができている。子どもの適応力はすごい。
 
 そのおちびちゃんが、さっさっさっとみんなの似顔絵をかいた。私とカミサンも思い切りデフォルメされて、小学生並みのかわいい人間にえがかれた=写真。ハンチングの帽子が一見、長髪に見えるところが気に入った。

 食事会の翌日(きのう)には、シャプラから3月14日にティーワンビルのいわきワシントンホテル椿山荘で「感謝を伝える会」を開く、という知らせが届いた。活動を支えてくれた人々に感謝の気持ちを伝えるのが目的だが、ほんとうはこちらがシャプラに感謝を伝えたいくらいだ。最も困難に直面していたとき、シャプラが現れた――それを思いだすたびにこみあげるものがある。

2016年2月26日金曜日

シリアの今

まずは2008年の拙ブログ(8月12日付)を再掲する。東日本大震災もシリア内戦もおきていない。ごくごく平穏な日々だった。
                 *
シリアの「アレッポの石鹸」=写真=で洗髪するようになってから、だいぶたつ。それまでは液体シャンプーで髪の毛を洗っていた。毎日洗うほど潔癖ではない。何日かおくと頭皮がかゆくなる。それが洗髪の目安。あまりにかゆくて洗髪前にごしごしやると、ふけがこぼれ落ちる。なんとかかゆみとふけを抑えられないものか。

 そんなとき、アレッポのオリーブ石鹸に出合った。オリーブオイルとローレル(月桂樹)オイルのほかは、水と苛性ソーダを加えただけで3昼夜釜たきし、ゆっくり時間をかけて熟成させたものだという。添加剤や合成香料は一切入っていない。これが肌に合ったのだろう。オリーブ石鹸を使いだしたら、かゆみが消えた。ふけも出ない。シャンプーを使っていたときと同じくらいの日数で頭を洗っているのに。

 先日、頭を刈ってもらった。シャンプーで洗髪された。次の日にはもう頭がかゆくなった。薄くなったわが頭には工業的に生産されるシャンプーその他が合わないらしい。

 8月3日にいわき市暮らしの伝承郷でいわき地域学會主催の「いわき学・じゃんがら体験プロジェクト」が開かれた。ちょうど実習の時間に、小名浜港で港づくりを学ぶ外国の「港湾開発・計画研修員」が伝承郷の見学に訪れた。ついでだから「じゃんがら」を見てもらった。

 なかにシリアからやって来た研修員がいる。ハワイアンズで開かれた歓迎会で謝辞に立ち、「草野心平のカエルの詩を学校で学んだ」と言ったそうだ。草野心平記念文学館の学芸員によれば、心平の詩はアラビア語には翻訳されていない。英語の翻訳詩だったのだろう。

 歓迎事業に動員されたカミサンに伝承郷で彼を紹介されたとき、「心平のカエエルの詩」と「アレッポの石鹸」でエールを交換した。後日、まだ研修で日本にいる彼にカミサンが草野心平の本を送ったら、シリア観光省のパンフレットと、たどたどしい日本語で「もてなしをありがとう あなた(むろんカミサン)のことを忘れません」という直筆の便箋が届いた。

 シリアは地中海の東端にある。その古い港湾都市が彼のまち、ラタキヤ。アレッポはそこから北東の内陸部にある。首都のダマスカス、アレッポ、ラタキヤに国際空港があるというから、アレッポもラタキヤも、シリアでは「三都物語」になるくらいの中核都市なのだろう。

「アレッポの石鹸」と「カエルの詩」が全く知らなかった「魅惑のシリア」へ誘う。パンフレットを見れば、確かに魅力的な国ではある。

 さて、再び「アレッポの石鹸」である。この石鹸は使ったあとの潤い感がいい。実際、汚れを落としつつも脂肪酸を補うので、洗い上がりの肌になめらかな潤いを残すそうだ。体験者の一人として、ふけ症・禿頭のご仁は一度お試しあれ、と言いたい。
                *
それから7年半後――。きのう(2月25日)の「あさイチ」で、内戦下にある「シリアの今」を知った。番組では、日本でアレッポの石鹸を使っている人や刺繍で生計を立てている難民などが取り上げられた。

20年余、この石鹸を使っているので、買い置きが少なくなると、行きつけの店でまとめ買いをする。シリア内戦が始まり、世界遺産の街アレッポに戦火が拡大した3年半前には、胸が痛んだ。ひとの命はもちろんだが、石鹸工場は無事だろうか――。その後、アレッポの石鹸は入荷量が減り、値段も少し上がった。

 内戦であれ戦争であれ、犠牲になるのは常に庶民だ。シリアでは「国外に逃れられた人々はまだいい方で、国内で居場所を奪われた国内難民は、760万人にも上る。国外、国内を合わせると、シリアで難民化している人たちは、人口の半数を超える」(酒井啓子『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』みすず書房)

シリアの人口は2200万人。国内難民のほかに、国外難民は400万人に上るという。難民計1160万人。「この事態は、第二次世界大戦以来の危機的状況だと言われている」(酒井)

シリアで騒乱が始まったのは2011年1月。その1カ月半後に、日本で大地震と大津波、原発事故がおきた。十数万人という原発難民が発生した。

いわき市は相双地区からの避難民を受け入れるホームコミュニティになった。中近東や欧州にもシリア難民を受け入れるホームコミュニティがある。地元民とのあつれきは、融和策は……。このごろは、そうした視点でシリア難民のニュースを見る。港湾研修でいわきへやって来たシリアの青年は今、どうしているだろう。

2016年2月25日木曜日

鳥と仕事と隣組

 きのう(2月24日)は、朝から波状的に人がやって来た。こんなことはめったにない。半分は年度末がらみの用事だった。
 おととい、行政区の会計さんから電話があった。決算事務をしている、二つの班(隣組)の区費が未納のようだ、という。細かい話は避けるが、きのうの朝と夜、班長さんに連絡をした。

 朝、一人の班長さんが来訪し、用事がすんでしばらく茶飲み話をしていたところへ、友人の娘さんが間もなく2歳になる愛娘を連れてやって来た。「おじちゃんに鳥の話を聴きたい人がいる」という。イタリア料理店の、同年代の奥さんだという。「いつでもいいよ」。たまたまだろうが、娘さんに彼女から連絡が入った。やって来た。鳥が好きだけどよくわからない、ということはわかった。

 バードウオッチングはスズメで始まり、スズメで終わる――昔、だれかに教えられたことを口にしたあと、夏井川渓谷の冬のスズメの話をした。10日ほど前、渓谷でスズメの群れを望遠で撮った=写真。それが念頭にあった。
 
 小さな集落だから、スズメもそうはいない。ところが、冬になると数が増える。スズメには、冬、北海道や高山からやって来る漂鳥のニュウナイスズメがいる。それを昔、渓谷で目撃した。で、急にスズメの数が増えたので、ニュウナイがいるかもしれないと、望遠レンズを向けたのだが、全部ほほに黒い斑点(スズメの証拠、ニュウナイには黒斑がない)があった。
 
 午後は、職場が一緒だった若い仲間がやって来た。フリーの記者として活動している。頼まれた仕事があるらしい。そのテーマならだれに聞け、どこそこにある資料にあたれ、ということは、この年になればアドバイスできる。
 
 すると今度はそこに、「いわき昔野菜」関係のスタッフ3人がやって来た。市役所から受託して進めてきたアーカイブ事業が今年度(つまり3月末)で終わる。成果品として毎年発行してきた『昔野菜図鑑』に、私も頼まれて文章を書いた。そのお礼と事業終了の報告ということだった。
 
 きのう、わが家で話した人間は電話も含めると8人。久しぶりにしゃべりつかれた。それ以上にうれしかったのは、2歳になる女の子が家に入って来て私に会った瞬間、にっこりしたことだ。前に見たのは生まれて半年ばかりの赤ちゃんのときだった。覚えているはずがない。たちまち脳内が「小春日」になった。

2016年2月24日水曜日

ジンチョウゲ開花

 庭のジンチョウゲの小花が開き始めたのは日曜日(2月21日)。夕方、家に帰ると、赤紫のかたまりのなかにポツリ、ポツリと白い小花が咲いていた=写真。
 ジンチョウゲの開花日を記録しているわけではない。が、記憶では、わが家の庭のジンチョウゲが咲くのは3月も後半に入ってからだ。自分のブログでも確認した。すると、わが家の庭では平年より3週間ほど早く咲きはじめたわけだ。

 スイセンは例年、ジンチョウゲより少し早く咲く。今年もジンチョウゲより1週間ほど開花が早かった。
 
 年末のうちにスイセンのつぼみがふくらみ始めた。この調子ではあっという間に咲くかと思ったが、それからが長かった。寒暖の波が繰り返したこともある。やがてつぼみが大きくなると、それぞれが水平に90度傾いて放射状になった。花が開きかけたなと思ったら、次の日は姿がない。雨と風に花茎が折れて、地面にくっつくようにして咲いていた。いやいや自然は厳しいものだ。

 2月中旬には最高気温が20度を超えた。暖冬でも異常だ。夏井川渓谷の滝のしぶき氷も大きくならなかった。2月も下旬となれば、もう滝は凍らないだろう。7月1日前後に「氷室開き」と称して、オンザロックを楽しむために、滝の氷をかち割って冷蔵庫の冷凍室に入れておく。この冬は氷を取ることができなかった。

 フェイスブックでも、暖冬情報が届く。東京ではもうハクモクレンが咲いたのではないか。半月ほど前につぼみが大きくふくらんだ写真を見た。尋ねたら、平年より1カ月は早いようだった。

 白菜漬けはこの冬、3回つくった。きのう(2月23日)は朝、ありあわせのニンジンとしおれかかった白菜を使って切り漬けにした。桶で漬けてもすぐ表面に産膜酵母が張る。浅漬かりでも古漬けのようになってしまう。それがいやで、3回目の白菜漬けを食べ終わった時点で、一夜漬けに切り替えた。これも一種の「生物季節観測」にはちがいない。

2016年2月23日火曜日

専称寺の夕日

 21日の続き――。レイライン(光の道)は見る時間と場所(位置)が大事、そんな思いを実感している。
 おととい(2月21日)の夕方、夏井川下流右岸の小高い丘に立つ専称寺を、左岸遠方から眺めた。きのうは場所を右岸の寺のふもと近くに変え、時間も1時間ほど早めた。すると、夕日が本堂の屋根の上にあった=写真。こういう“事実”が「その瞬間、その場所にいること」の感動を生むのだろう。

 おとといは午後5時半前、寺の本堂から直線でおよそ1.2キロ離れた国道6号バイパス夏井川橋の上から夕日を見た。夕日は専称寺のはるか西方、しかもかなり北側の湯ノ岳~三大明神山あたりに沈むところだった。これは見る場所を間違えたか――。

 翌日(きのう)は午後4時半前、街の帰りに専称寺のふもとへ寄った。寺のある丘がせり出し、夏井川が鋭くカーブしている。川に沿って伸びる道路の路肩まで、丘の影が伸びていた。その影が一部切れて明るいところがある。本堂の裏の鞍部から日が差しているにちがいない。枯れ田のあぜ道へ降りて振り返ると、図星だった。本堂を光で包むように夕日が輝いていた。

 昔、歴史研究家の故佐藤孝徳さんに春分・秋分の日、本堂の裏山に夕日が沈む、ということを教えられた。彼の著書『専称寺史』(平成7年刊)にも「本堂裏山は西方に日が没するのを、彼岸中日になると本堂で拝することができる『山越阿弥陀』のようになっている」とある。四半世紀も前、春分の日より半月ほど早く、裏山の鞍部に夕日があることを確認した。

そのとき、「山越阿弥陀」は夕日=西方浄土の来迎だと実感したものだが、おとといときのうの体験から、本堂裏山の鞍部に夕日が「ある」ことと「沈む」こととはまた別ではないか、そう思えてきた。
 
 前に見たときには、沈むところまでは確かめていない。沈むとしたら、いつが近いか。冬至のときに夏井川橋の上から見たら、本堂のやや南、11時の方向に日が沈んだ。寺のふもとからだと、あるいは本堂の屋根の裏側に沈んだかもしれない。
 
 春分の日までおよそ1カ月。日の出・日の入りは「一日1分」とみて、3月下旬には阿武隈の山並みの日の入りは午後5時50分ごろ、沈む場所ももっと北に移っている。平地の市街地近く、川にせり出した丘の日の入りはもっと早い。

 レイライン研究者の内田一成さんは専称寺本堂の地理的位置を探り、向きからして夏至に朝日と本堂がまっすぐ結ばれるのではないかと推定する。「真正面に夏至の朝日が昇るところでは、真後ろに冬至の夕日が沈む」という設計がなされている「聖地」もあるようだ。その線も否定できなくなった。

 光の道ということでいえば、専称寺の場合は本堂内に安置されている本尊を基点にしないといけないのだろう。本尊と対面したとき、裏山に沈む夕日が阿弥陀如来そのもの、光背そのものになる、ということではないか。それが春分・秋分の日か、冬至の日か、こんがらかってきた。実証あるのみだが、本堂は現在、震災復旧作業が進められて立ち入りができない。

「現場」の感覚では、春分の日のほかに冬至にもう一度、寺のふもとから(ほんとうは本堂から)日の入りを確かめないといけない、という思いになっている。専称寺のレイラインが実証できれば、次は川の参道である「渡し舟の復活」を、というのは気が早いか。(念のため、けさ、ストリートビューで夏井川橋の右岸側から専称寺を眺めたら、本堂の奥に湯ノ岳が見えた。やはり、春分・秋分の日に「山越阿弥陀」が出現するのか)

2016年2月22日月曜日

炭鉱の戦争遺産

 いわき地域学會の第314回市民講座が土曜日(2月20日)、いわき市文化センターで開かれた。野木和夫会員が旧炭鉱敷地内に残る「産業戦士像」について話した。
 先の太平洋戦争下、全国の軍需産業施設(炭鉱や油田など)に11体の「産業戦士像」がつくられた。いわき地方では常磐炭砿と古河好間炭鉱に設置されたという。なかでも、好間の「産業戦士像」はスケールの大きさ、圧倒的な迫力からして全国トップクラスらしい。それらの像が設置された時代状況や製作者(美術家)集団について解説した。

 太平洋戦争では、「一億総決起」とか「一億火の玉」とか、やたらに「一億○○」が使われた。国民総動員体制で戦争に勝つぞ――。「産業戦士像」はその一環として、石炭増産に向けて炭鉱労働者を鼓舞するために製作されたのだろう。

 野木さんは国策プロパガンダ雑誌「写真週報」をテキストに、「産業戦士像」の話をした。写真誌は情報局が編集した。(戦争とメディア、戦争とプロパガンダを考えるうえで格好の材料になる。あとで野木さんから借りて読んでみよう)
 
 情報局は、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、昭和15(1940)年12月6日に発足した。内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局図書課、逓信省電務局電務課の各省・各部課に分属されていた情報事務を統合して設置された内閣直属の機関だ。(ウィキペディア)

 テキストに使用したのは、戦争後半の昭和19年1月26日号。「炭砿は断固掘り勝つぞ 」と題して常磐炭砿を特集している=写真。写真の絵ときに「炭砿戦士の労苦で掘り出された石炭は、いよいよ重点産業へ晴れの出陣だ」(入山炭砿)「毎朝4時半現場へ繰込む父や兄を学童が励まし送る。この心づくしがあって増産が果される」(磐城炭砿)などとある。

<時の立札>には「爆撃機1台をつくるには約200トンの石炭がいる/輸送船1隻をつくるには約3万トンの石炭がいる/炭礦では採炭に死ものぐるいだが、戦力をぐんと強めるにはまだまだ石炭が足りない/それぢゃ、その石炭は全国民で掘らう、さて、その秘法は――」。電灯・ガス・紙・衣料の節約のことで、それが家庭で石炭を掘っていることになるのだと説く。

 総動員体制のなかで、中央の美術家・美術学校生たちも「戦場」に駆り出された。「産業戦士像」は、彼らの手で製作された。炭鉱の戦争遺産でもある。好間の「産業戦士像」がある場所は、聴講に来た同級生に聞いてわかった。今度見てみよう。

2016年2月21日日曜日

レイライン報告会

 きのう(2月20日)は宵の6時半から、BS-TBSの30分番組「太陽と大地の聖地 上田・別所温泉を巡る旅」を見た。土曜日のこの時間はふだん、晩酌をしながら地デジ放送を見ている。BS放送を見る気になったのにはわけがある。
 いわき観光まちづくりビューローが、レイライン(光の道)研究者の内田一成さんに依頼して、いわきの「聖地観光」の可能性を調査している。おととい、いわきでその報告会が開かれた(いやあ、驚くほどの人の入りだった)=写真。先行実例として、別所温泉(別府温泉ではない)が紹介された。
 
 夏至や冬至、春分・秋分といった節目の日に太陽の光と結ばれる「聖地」がある。最新の地質学データやGPS(全地球測位システム)を利用し、聖地の構造を科学的に分析する研究も進んでいる。わけのわからない「パワースポット」とは違って、合理的に聖地性の理由を説明できる。それがレイライン。
 
 別所温泉がレイラインを活用し、「聖地温泉」として発信を始めたら若い女性の心をとらえた。

「信州の鎌倉」がそれまでのキャッチフレーズだったという(いわき市にも似たような言葉がある。「東北の湘南」。すっかり手あかにまみれてしまった)。レイライン資源を掘り起こし、新しい概念として「デトックス」(温泉の力で日常の毒を出す)と「チャージ」(太陽と大地のよい「気」を心身に満たす)が「信州の鎌倉」に加わった。

 JRの観光パンフレットには、「信州・上田/太陽と大地の聖地温泉で/『デトックス』と『チャージ』」とある。BSの番組は、若い女性タレントが内田さんから別所温泉の聖地性を聴くというかたちで展開した。

 報告会ではもう一例、玄界灘に面した福岡県福津市の「宮地嶽(みやじだけ)神社」のレイラインが紹介された。「嵐」が出演するJALのテレビCMがずばり「光の道」を映している。子どもらに誘われて「嵐」のメンバーが石段を上ったあと、後ろを振り返る。すると、まっすぐに伸びた参道の先の海に日が沈むところだった。

 それがちょうど今の時期。ネットで検索したら、きょう(2月21日)から24日まで同神社で「光の道・夕陽のまつり」が開かれる。ストリートビューを見たら、海辺に一の鳥居、神社近くの交差点に二の鳥居、石段前に三の鳥居が立っている。

にしてもなぜ、「夕陽のまつり」が今なのか。内田さんと2、3回話したおかげで理由が説明できる。

 参道が東西の方位なら、春分・秋分の日に参道の先に日が沈む。ところが少し南に寄っている。太陽は冬至のときに最も南に位置し、夏至のときに最も北に位置する。日の出・日の入りの場所は、冬至の日と夏至の日の位置を両端に、北上・南下を繰り返している。で、春分の日よりほぼ1カ月早く参道の先に日が沈む。秋はその逆。去年(2015年)は10月18日あたりだった。

 いわき市平山崎、専称寺の夕日がいよいよ気になってしかたがない。歴史研究家の故佐藤孝徳さんから春分・秋分の日、専称寺本堂の裏山中央に日が沈むと教えられた。裏山は竹林で鞍部になっている。そのへこみに沈む夕日は、西方浄土へ死者を導く「山越(やまごえ)の阿弥陀」そのものだ。

 2カ月前の冬至(12月22日)に、夏井川の左岸から対岸の専称寺を見た。沈んだ地点は本堂の南側、11時の方角だった。やはり、夕日は春・秋分の日に裏山に沈のだろう。
 
 春分の日までほぼ1カ月。きょうの小名浜の日の入りは午後5時22分。平もそう違わない。山崎のどの位置に日が沈むか、街の帰りにでも確かめてみよう。冬至のときよりは北に、つまりより本堂に近づいているはずだ。――肝心のいわきのレイラインは? それは別の機会に。

2016年2月20日土曜日

キクラゲ観察

 夏井川渓谷の隠居の庭にアラゲキクラゲとヒラタケの生える木がある。木の名前はわからない。風で折れた小枝が庭の入り口に落ちていた。アラゲが少し生えている。大きいのは径1センチ=写真、残りは米粒程度だ。キノコの生える木の枝だろうか。
 庭より一段下がった空き地のへりの木には、冬になるとエノキタケが生える。エノキタケは一晩、水にひたしてごみを取ったあと、みそ汁にする。市販されている白いエノキタケと違って、天然のエノキタケはナメコ並みに茶色っぽくて粘性がある。ここ数年はしかし、エノキタケの姿を見ない。

 それでも、冬には必ずエノキタケの木をチェックする。ウオッチングを怠ると、次に見たときにバくされていた、ということがあるからだ。同じように、春から初夏にかけては草木のウオッチングを欠かさない。花から木の名前を覚えていった。ところが、アラゲキクラゲの木にはどんな花が咲くのか、記憶がない。で、今も気になる木のままだ。

 原発事故後はキノコを採って食べることがなくなった。庭の一部を畑にして土いじりをし、あきたら周囲の森を巡る。その逆のときもある。どちらにせよ、自然にどっぷりつかりたくて渓谷に通っていたのだが、このごろは何のために隠居へ行くのか、わからないときがある。だからこそ、同じところ、同じものを見続けることでわかるものがある、と自分に言い聞かせる。

 庭に落ちていた小枝を見てひらめいた。アラゲキクラゲを栽培してやれ。といっても、小枝を自宅に持ち帰り、いちばん湿気のある風呂場に水を張ったバケツを置き、そこに小枝をつっこんでおくだけだが。

 きょう(2月20日)でほぼ1週間。アラゲは同じままだ。大きな木の幹や枝だと、生長すれば大人の耳の倍以上になるのだが、鉛筆ほどの小枝では栄養が足りないのか。

2016年2月19日金曜日

草野心平の年譜

 日曜日(2月14日)、夏井川渓谷の入り口で霧に包まれた=写真。標高が上がると霧は消えた。そこだけたなびいていたのだろう。唐突だが、草野心平年譜も霧だ、と思った。心平生家のある集落を通り過ぎた直後だった。 
 去年(2015年)の11月から4回シリーズで月に一回、神谷(かべや)公民館で「地域紙で読み解くいわきの大正~昭和」と題して話してきた。

 きのう(2月18日)は最終回。「セドガロ」をテーマにした。終戦から2年後の昭和22(1947)年10、11月、中国大陸から引き揚げ、生家で暮らしていた草野心平が、地元の青年会員らと江田川渓谷に入渓する。「背戸峨廊(せどがろ)」が知られるようになる原点だ。その経緯と、その後の展開を取り上げた。

「せどがろ」がいつの間にか「せとがろう」になった。誤読・誤称がなぜ広まったのか。『草野心平全集』や草野心平記念文学館の心平年譜(図録も)には昭和21年9月、上小川村江田の渓谷「セドガロ」を「背戸峨廊」と命名し、点在する滝や沢に「三連滝」や「猿の廊下」などとそれぞれの名を付ける――とあるが、実際には昭和22年10月だった。なぜ誤認されたのか。

 心平研究の第一人者、深沢忠孝氏の筆になると思われる文章。「草野心平研究 2003・11 5」で年譜作成委員会が、既成の心平年譜は「基本的に心平の自筆と口述に基づき、若干の資料に当って作成されたものである。間違い、勘違いの類は壮大多数、実証的研究には役立たない部分が多い」と書いた。心平自身もそれを認めていたという。
 
 心平年譜は、よくいえば謎だらけ。なぜか。心平は時間や固有名詞などにはそんなに厳密ではなかった。詩はともかく、エッセーはそのときそのときの直感的記憶で書いた。心平について調べようとすると、当時の新聞記事や関係者のエッセーなどを基に、事実はこうだった、誤称・誤記がおきたのはこういう理由からだったと、自分で裏を取る作業が必要になる。
 
 市民講座では、話をしながら「壮大多数」の間違い・勘違いがちらついて、苦笑を禁じえなかった。カオス的な人物だから、しかたないといえばしかたない。とにかく心平年譜は鵜呑みにしないことだ、と強調した。以下は付録(いわき地域学會の会報「潮流」に発表したり、拙ブログで書いたりした文章の要約)。
                *
 心平のいとこに、初代の小川中校長で、長らく平二中校長を務めた草野悟郎氏がいる。昭和62(1097)年に随筆集『父の新庄節』(非売)を出した。そのなかに「縁者の目」と題する一文がある。悟郎氏も参加した心平の背戸峨廊探検について触れている。

 心平が中国から故郷の小川へ引き揚げて来たあと、心平の発案で何でもいいから村を明るくすることをやろう、という自由な集まり「二箭会」ができる。小川に疎開していた知識人の講演会、村の誰もが歌える村民歌「小川の歌」の制作、子どもたちによる狂言、村の青年によるオリジナル劇の上演などを手がけた。
 
 江田川渓谷を探索して世に紹介したのも「二箭会」の功績の一つだった、と悟郎氏は書く。そのいきさつはこうである。

「元々この川は、片石田で夏井川に合流する加路(かろ)川に、山をへだてて平行して流れている夏井川の一支流であるので、村人は俗に「セドガロ」と呼んでいた。この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃ちや、釣り人以外には知られていなかった」

「私たちは、綱や鉈や鎌などをもって出かけて行った。総勢十数名であった。心平さんは大いに興を起こして、滝やら淵やら崖やら、ジャングルに一つ一つ心平さん一流の名を創作して行った。蛇や蟇にも幾度も出会った。/その後、心平さんはこれを旅行誌『旅』に紹介し、やがて、今日の有名な背戸峨廊になった」

 ここから分かるのは、村人が江田川渓谷を「セドガロ」と呼び習わしていたこと、その名は山をはさんだ加路川に由来することである。加路川流域に属する内倉・横川地区の住民にとっては、江田川は目の前を流れる「表の加路川」に対して「裏の加路川」、すなわち「セドガロ」なのであった。

滝や淵などの名前はともかく、「背戸峨廊」に関しては、心平は既に呼び名として存在していた「セドガロ」に漢字を当てたにすぎない、ということになる。

2016年2月18日木曜日

教育文化講演会

 関係する平地区青少年育成組織の教育文化講演会がきのう(2月17日)、いわき市文化センターで開かれた。PTA役員とは別に、地域の「当て職」の義務として聴きに行った。
 気の乗らない会議も講演会もある。行政がらみの講演会は特にそうだ。動員確保のための案内が来る。それらの半分はパスする。つきあいきれない。今回はどちらかというと組織の勉強会のようなものだから、欠席するわけにはいかなかった。

 駐車場が込みそうなので、少し早めに出かける。が、同じように考える人が多いのか、すでに満パイだった。しかたがない。一番空いていそうな市庁舎南側の立体駐車場へ向かう。いい具合に2階の入り口そばに1台分だけ空いていた。

 幸先いいぞ! というより、こんなときにはどうでもいいことに感動して気分を転換する。重い足取りが少しは軽くなる。市役所東隣の平中央公園を斜めに横切った。ここでも、これで帰ってから散歩しないですむ、と自分に言い聞かせる。文化センターまで歩かされるのか――ではなく、街なかの自然を眺めるチャンス――だ。
 
 流れる池(水は止まっている)で2人のキューピット(銅像)が水瓶(みずがめ)を掲げている。「よっ、ポコチン君」胸の中で作者の故本多朝忠さんにあいさつしながら通り過ぎる。起伏のある枯れ芝のどこかにオオイヌノフグリが咲いていないものか。視野を大きく取ってゆっくり歩いていると、頭上に1羽、小鳥が現れた。
 
 シジュウカラ? いや、コゲラだった=写真。わりと近い距離から写真を撮ることができた。カメラを車に置いておくわけにはいかない、それだけの理由で手提げバッグに入れて持ち歩いていた。街なかでコゲラに出合い、パチリとやることができた。足取りがいっそう軽くなる。
 
 さて、本題。講演会では、筑波大の水野智美准教授が「心の強い子どもを育てる子育ての秘訣」と題して話した。子どものしかり方、親に求められる言行一致、モンスターペアレンツのだめな理由などを具体的に例示し、「失敗させて自分で考えさせる」ことで子どもは強くなる、とアドバイスした。
 
 聴講したのは、おおかたはPTA関係のお母さんたちだ。私も「孫育て」の参考になるぞ、これは――と、途中から頭を切り替えて聞き入った。
 
 テレビは上手に使えという。テレビのいい点は語彙(ごい)が豊富になること。ただし、見せっぱなしにしてはいけない。時間を決める。そのうえで、とこれは私に置き換えての話だが、孫が「水戸黄門」の再放送を見たとしたら、番組を利用して江戸時代について考える対話をしたらいい、ということだった。そうすることで「テレビを見る深さが深くなる」。なるほど。
 
 もうひとつ。NHKの朝ドラ「あさが来た」の主人公は思いたったらすぐ行動する、発達障害ですよ、という。ネットにもそれを肯定的にとらえるコメントがあった。主人公の「あさ」は、お転婆で落ち着きがなく、空気が読めない。なのに、特殊な能力(そろばん)で才能を発揮する――発達障害の成功例というとらえ方だった。なるほど、なるほど。
 
 本題に戻れば、親も(ジイバアも)失敗や弱点をさらけ出して、ゆるやかに子どもと接した方がいい、ときには演技(うなずく・ほめる、など)も必要だよ、ということだろう。このへんの言葉でいえば「おだてもっこにのせる」か。久しぶりにおもしろい講演を聴いた。

2016年2月17日水曜日

フユシラズ?

 見たこともない黄色い花が白い山砂の庭に咲いていた=写真。花の径はおよそ1センチ。葉も厚めで毛が生えている。植物図鑑で見た高山や寒地の花にそういうのがある。冬の花にはちがいない。
 日曜日(2月14日)、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。庭のすみっこに三春ネギと辛み大根が残っている。この時期、大根の葉はあらかた枯れ、ネギも地上部は短い葉だけになっている。雨がやんだ昼下がり、庭のウオッチングを始めたら、ネギの溝のそばに小さい黄花があった。なんだ、これは――。

 2013年の師走、全面除染で庭の表土がはぎとられ、山砂が投入された。それから2年余がたった今、市から再モニタリング調査を実施するかどうか、という手紙が来た。自分でも半年に一度は放射線量を測っている。孫たちも遊びに来る。第三者のデータが手に入ればなお安心だ。同意書を届けた話を、きのう(2月16日)書いた。

 山砂で覆われた庭は砂浜となんら変わらない。日光を照り返してまぶしい。冬は緑が消えるから、なおさらだ。

 除染から初めての春、白い庭にスギナが生えた。地下茎が広範囲に残っていたためだろう。同じように残っていた鱗茎からスイセンが芽を出し、花を咲かせた。実生(みしょう)のカエデやフジもあらわれた。翌年はスギナのほかに、オオイヌノフグリやアカツメグサ、シロツメグサ、キンポウゲ、ニワゼキショウ、ハハコグサが花をつけた。そして今年(2016年)、冬の黄花だ。

 ネットで調べたら、「フユシラズ」というものらしい。地中海沿岸が原産地の一年草だ。園芸種として日本に入ってきたのが空き地などで野生化した。そうか、わが隠居の庭は、フユシラズにとっては格好の「空き地」なのだ。

 この冬は暖冬で推移している。フユシラズはいわきの平地にもあてはまる。私はもともと、いわきの平地には冬がない、あるのは「春、夏、秋、ちょっと寒い秋」、つまりいわきの平地民はフユシラズだ、と思ってきた。この冬は特にそれを実感している。
 
 いずれにせよ、フユシラズの出現は、震災前のように土いじりに精を出せ、というサインにはちがいない。庭を「空き地」にしてはおけない。

2016年2月16日火曜日

一日遅れのバレンタイン

 きのう(2月15日)は午前中、公民館の市民講座のレジュメを仕上げ、午後は小さな用事を9件ほどこなした。どれも、買う・払う・引き出す・受け取る・届ける・確かめる――簡単なことで、通常ならそんなに時間はかからない。それでも、公民館~ホームセンター~信用組合~銀行~カミサンの実家(米屋の本店)~労災病院~市役所本庁と移動したらくたびれた。
 日曜日(2月14日)、半月ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。封書が届いていた。いわき市小川地区で住宅敷地の再モニタリング調査を実施する、ついては同意・不同意の判断を――。返信期限がきのうだった。

 直接、市本庁の除染対策課へ同意書=写真=を持っていくしかない。ついでに、自主防災会に貸与される防災ラジオを危機管理課から受け取り、別の課にも寄ってこよう。ホームセンターではある班から頼まれたごみネットを買い、信用組合では行政区に振り込まれた古紙回収売却金を引き出して会計さんに届けよう。
 
 自分の、家(米屋)の用事も重なった。公民館にレジュメを届けたあと、本店で米を受け取り、義弟の入院費を預かって病院へ払いに行く。その前に当面の生活費を銀行からおろす。(ほかにも更新手続きの必要な書類が二つある。締め切りが近づいている。今週中にけりをつけよう)
 
 銀行へ行って、偶数月の15日であることに気づいた。客が待合室の長いすを埋めている。信用組合でもいつもの倍の客がいた。2カ月に一度の年金支給日だった。それに、前日の日曜日はバレンタインデーだ。信組では、客にバレンタインデーのプレゼントをしていた。
 
 おとといは夜、カミサンが晩酌時にロイズの生チョコを出した。ゆうべは、信組からもらったチョコとごまスティックを酒のつまみにした。なんであれ、どうであれ、「想定外」のプレゼントはいいものだ。

2016年2月15日月曜日

ETV特集「下神白団地の人々」

 大震災後、いわき市は大津波と原発事故の主要な取材拠点・取材対象地域になった。日常のニュース報道だけでなく、新聞であればコラムや連載の、テレビであればドキュメント番組の――。
 おととい(2月13日)の深夜、ETV特集「下神白(しもかじろ)団地の人々」を見た。登場した人物のなかにひとり、知り合いがいた。もしかしたら、と思って見ていたので、あわててカミサンを起こした。

「原発事故のため、いまなお10万人が避難生活を続けている福島。去年の2月、いわき市に、原発事故による避難者が入居するアパートが完成した。県営下神白団地である。/ここで暮らし始めたのは、事故を起こした第一原発に近い四つの町、富岡、大熊、双葉、浪江の住民、200世帯・337人。(以下略)」(番組のPR記事から)。その団地の1年を追った。

 わが家の近くの借家(みなし仮設住宅)に入居していたおばあさんが、昨年(2015年)初夏、その団地に引っ越した。カミサンが店をやっているので、いつしか茶飲み話をしたり、愚痴をこぼしたりする間柄になった。同居人もいたが、ひとり小名浜の復興公営住宅に移った。

 梅雨の晴れ間、おばあさんのアパートを訪ねた=写真。南向きの窓から海が見える。海風が涼しすぎるので窓は閉めている。同じ町の人が入居しているとはいっても、知り合いはいない。隣の棟にいとこがいる。毎日会っているのでさびしくはない、と語っていた。

 それから8カ月。おばあさんは時折、バスと電車、あるいは親類の車に乗ってわが家へやってくる。電話もかけてよこす。テレビを見た限りでは、集会所でほかの入居者と顔を合わせているようなので安心した。

 番組では、見知らぬ者同士だった入居者の交流の様子、老々介護、コミュニティ交流員やボランティアの姿などが描かれる。クリスマスパーティーの場に、見たことのある若者の顔があった。孤独死があったことも伝える。それでもなお、メディアはついに当事者の思いには触れ得ない、という感慨も覚えた。

 表層・中層・深層――これはいま、私が思いついた3分類だ。通常のニュースは「表層」。連載やコラム、ドキュメント番組は、今までだと「深層」だったが「中層」。ほんとうはその先に、さわればやけどするような当事者の思いが渦巻く「深層」がある。

 取材に応じてディレクターに本音を話したとしても、心に鍵をかけて見せないものがある。特に、自分の来し方行く末、コミュニティ内の摩擦やトラブルなどは、容易には中層、ましてや表層にあらわれない。昔、記者としてコミュニティを取材した経験と、今、行政区の小間使いとしてコミュニティに身をおいている立場からもいえることだ。

 おばあさんは部屋を訪ねてきたディレクターに「(この窓から見える)夕日がきれい」といった。夕日がきれいであればあるほど入居者の寂寥感も深い。そう思えてならなかった。

2016年2月14日日曜日

田んぼがまた消えた

 家の向かいの奥に義伯父(故人)の家がある。裏は三面舗装、幅2メートルほどの「三夜(さんや)川。海岸に一番近い横川の支流の支流で、流路はおよそ5キロと短い。夏井川左岸、平の鎌田~上神谷~塩~中神谷の水田の中央を貫通する排水路だが、途中から住宅が両岸に張りつく。
 中神谷に移り住んだのは35年ほど前。そのころ、道路のすぐ向かいにも田んぼが残っていた。初夏は夜になると、カエルの大合唱が聞こえた。やがて田んぼは埋め立てられ、道路向かいは駐車場に、その奥は宅地になった。そこに義伯父が家を建てて首都圏から移住した。

 東日本大震災では沿岸部が大津波に襲われ、多くの人が亡くなった。家を失った人も少なくない。いわきの北の相双地区からは原発避難をする人が相次いだ。時間の経過とともに、三夜川沿いの田んぼが宅地に変わり、アパートや戸建て住宅ができた。ほかの地区でも事情は同じだろう。

 ある日、義伯父の家の裏からクレーン車の長い腕が伸びていた。家を建てているところだった=写真。田んぼがまた消えた。

 田んぼは何枚残っているのだろう。家から半径100メートルの範囲内を、散歩を兼ねて見て回った。35年ほど前には田んぼが十数枚、いやもっとあったか。畑も小学校の校庭分くらいは残っていた。今は、畑はアパートができて半分に減り、田んぼは3枚あるだけだ。田畑に囲まれて家々が立っていたのが、家々に囲まれて田んぼや畑がある。ずいぶん様変わりした。

 震災の年にはカエルの鳴き声が消えた田んぼもあった。いわき市の川前や川内村がそうだった。おととし(2014年)、1年間の任期でいわきに赴任したNGOの職員が義伯父の家に住んだ。カエルの鳴き声に驚いたといっていたが、今年はその鳴き声がわが家まで届くかどうか。

2016年2月13日土曜日

郵便局の3・11

 あのときはどこでも、だれでも修羅場だったのだと、読み終えて思う。当時、小規模郵便局の局長だった後輩から、<郵便局の3・11>ともいうべき文集『あぶくまの風』が届いた=写真。「福浜OB会」が師走(平成27年)に発行した。
 いわき郵便局のような大規模局からわが家の前の小規模局まで、郵便局はハマ・マチ・ヤマのどこにでもある。福島県浜通りの、小さな局の集まりが「福浜会」、現役を卒業した局長たちの集まりが「福浜OB会」ということなのだろうか。

 小さな局の地震と大津波、原発事故避難体験がつづられている。海岸に近い局のうち、いわきでは四倉新町・久ノ浜・豊間・江名、北の双葉・相馬郡を含めると11局が流失ないし全壊した。ほかに、原発事故で浜通り北部の26局が閉鎖(一時閉鎖も含む)された。OB会員2人も犠牲になったという。

 郵便局には金庫やATMがある。ATM荒らし(未遂)と遭遇した、探していた金庫やATMがガレキのなかから見つかり、重機でこじ開けて現金を回収した――という話が載る。

 いわきのある局長の奥さんが、津波で亡くなった近所の人の身元確認をしたことを、ご主人が書いている。旧知の女性で、前にその状況を記したはがきをもらったことがある。
 
 同じく九死に一生を得た沿岸部(南相馬市・磯部)の局長さんがいる。近所の2人(佐々木節子、渡部克夫さん)から、津波が来るので逃げたらと避難を呼びかけられた。それで局員とともにあわてて避難したら、20分後に大津波が押し寄せた。区長の渡部さんは近所に触れ回っているうちに津波に飲まれて亡くなり、佐々木さんは今も行方不明のままだという。

 局長さんは震災の1年後に退職した。「3月・8月または9月には、磯部地区に足を運びます。震災当時のことを思い、佐々木さん・渡部さんの自宅跡地に向かって、心の中で震災の時のお礼を言って、手を合わせてきます」。たぶん死ぬまで命の恩人が忘れられない。

 元いわき市歯科医師会長の中里廸彦さんが、『2011年3月11日~5月5日 いわき市の被災状況と歯科医療活動記録』をまとめた。遺体安置所で身元不明の遺体特定のために歯を調べた日々。歯科医師会の活動はよく知られていない。それと同じように、<まちの郵便局の3・11>も。
 
 後輩はこんなことも書いていた。震災3日目の3月13日。同い年の外科医のいとこが死んだ。平の自宅から植田町の病院へ通っていた。「地震当夜と翌晩泊りがけで、主に岩間、小浜町の被害者の救護にあたっていたようで、13日朝8時頃、帰宅して食事をしてトイレに入ったのですが、出てこなかったそうです。心筋梗塞のようでした。丁度60歳でした」。痛ましい。
 
 3・11で何人が死んだ、何戸が流失・全壊した――といった統計的な把握はもちろん必要だが、ほんとうに大切なのは個別・具体、1人ひとりの生と死、それと向き合うことだと、あらためて『あぶくまの風』から学ぶ。

2016年2月12日金曜日

ノスリとオオタカ

 至近距離で猛禽を見る、またとないチャンス――。2月7日の日曜日、いわき駅裏の「磐城平城本丸庭園」で鷹匠のデモンストレーションが行われた。磐城平城史跡公園の会が主催した。福島市飯野町の鷹匠高木利一さんら4人が、訓練中のノスリとオオタカの若鳥を連れて参加した。
 
 訓練を始めてまだ日が浅いというノスリ=写真左=が登場した。晴れたが、風が強い。それもあって、ノスリはほとんど動かなかった。ギャラリーが多かったのも影響していたかもしれない。

 代わって登場したオオタカ=写真下=が庭園のへりの木に止まったり、木から鷹匠のもとに戻ったりした。これもなんとなくぎこちない。それでも、鷹匠が生きえのハトをぐるぐる回すと、急襲して脚で押さえ、鋭いくちばしで何度か羽を散らした。

 10年ほど前だったか、夏井川河口でやはり高木さんがデモンストレーションをした。このときの鷹は高木さんの指示に従って、低く素早く飛び回っていた。それ以来の“鷹見”だ。

 鳥類図鑑で眺め、平地の河原や夏井川渓谷で、双眼鏡で旋回する姿を追っても、トビ以外はいまひとつ実感がわかない。成鳥と若鳥では体色も違う。やはりホンモノをみるのが一番だ。

 目がすごい。地上の生き物ではネコ科に似る。「金目」はハイタカ・オオタカ・サシバ・クマタカなど、「黒目」はノスリ・チョウゲンボウなど。フクロウの仲間には「赤目」もいる。ノスリはなんともかわいい。オオタカは幼鳥といえども、相手を射抜く鋭さをもっている。

 きのう(2月11日)は祝日で、NHKが休日体制のため、宵の6時台の「はまなかあいづ」は休み。で、たまたま民放を見ていたら、FTVが郡山市の「猛禽カフェ」を紹介していた。先日、フェイスブックで若い知人が、お城山の鷹狩りイベントにからんでそのカフェの存在に触れていた。

 江戸時代、磐城平藩主が将軍家に鷹狩用のハヤブサを献上した。ハヤブサは海岸にいる。それを捕まえ、世話をする地元の人間がいた。若い知人の親戚だという。「鷹番」を命じられた家の苦労はどんなものだったか。ちょっと知りたくなった。

2016年2月11日木曜日

隠居の隣の水力発電所

 夏井川渓谷の隠居の西隣は、水力発電所の社宅跡地だ。つり橋を渡った対岸に、モダンな建物がある。建物の雰囲気が好きで、ときどき写真を撮る。1カ月前にもつり橋を入れて全景を撮った。取水堰(ぜき)や導水路、排水路、送電鉄塔なども撮る。 
 大震災前の2008年11月中旬(もう7年がたつのか)。小川町商工会(紅葉ウオーキングフェスタ実行委員会)が主催して、隠居の東隣の「錦展望台」を集合・発着場所に、初めて「夏井川渓谷紅葉ウオーキングフェスタ」が開かれた。週末だけの「半住民」である私も、地元住民のひとりとしてコースの案内人になった。

 スタート地点にある水力発電所が、ウオーキング参加者に限って公開された。「水車ケーシング」を初めて見た。
 
 2月7日からいわき市平字紺屋町のギャラリーコールピットで中島秀雄写真展「Hydroelectric ower tation 水力発電所は今」が開かれている=写真。2月6日付の拙ブログで告知をし、初日に見に行った。中島さんはいなかったが、ディレクター氏と少し話をした。

 案内状に2枚、写真が載っている。「水圧鉄管」は会津地方(東京電力)の、「水車ケーシング」はいわき地方(東北電力)の、しかもわが隠居の前の夏井川第二発電所のものだった。夏井川第一発電所の全景、小玉川第二発電所のモダンな建物の写真もあった。
 
 先日の告知のなかで「いわきの水力発電所は見たのかどうか。まだだったら、水力発電所のある夏井川渓谷へ案内してもいい。水力発電所に人がいたときの暮らしと、無人になった現在の様子と、その両方を知っている人たちがまだ地元にはいる。考えようによってはきわめて『福島的』な地なのだから」と書いたが、要らぬ世話だった。
 
 きのう(2月10日)は午後、いわき芸術文化交流館アリオスで小泉純一郎元首相の講演会が開かれた。「福島県内の全原発の廃炉を求める会」が主催した。日本の原発すべてを廃炉にしても日本経済は大丈夫、自然エネルギーでやっていける――明快だが、首相のときにそちらへ舵を切ってくれていたらと、複雑な思いになった。
 
 阿武隈高地は、今や風力発電の一大基地になりつつある。生まれ育ったふるさとの山々のスカイラインにニョキニョキ風車が立ち並ぶ。私は、できればそういう光景は見たくない。少年時代の記憶が汚されるようでたまらなくなる。自然エネルギーにもそういう影はある。
 
 現実の政治を思えば、元首相の話に留飲を下げるだけてはいられない。ま、それはさておき、この週末は久しぶりに夏井川第二発電所を見に行こう。

2016年2月10日水曜日

「栗須参上」

 息子一家が遊びに来たとき、孫の親と英会話教室の話になった。「クリス」という人が開いている教室があるという。姓を聞いたら、いわき市の初代国際交流員ではないか。二十数年前、英語指導助手としていわきへやって来たイギリス人だ。彼には思い出がある。
 市役所発行のいわき在住外国人のための季刊英語広報誌「いわきビジョン」2015年冬号=写真=の和訳を読んで、クリスがいわきにいることを確信した(クリスの奥さんは、いわきの人間だ。姉だか妹だかが私と同じ職場にいたように記憶している)。最新号に彼のインタビュー記事が載っている。

 彼は「いわきビジョン」の創刊にかかわり、取材をして記事を書いた。その広報誌が「シルバーアニバーサリー」(25周年記念)を迎えたことから、現担当者が当時の苦労話などを彼に聞いた。

 そのころ、海に近い親友の家の離れで、いろりを囲んで酒を飲みながら「連句遊び」をしたことがある。全員素人だから、酔いにまかせて五七五と七七をつないだだけにすぎない。ほかにも、いろりの周りの白いふすまに墨で落書きをしたことがある。仲間の画家は絵を描いた。私もそこになにか一行を書き加えたような記憶がある。
 
 あるとき、その離れでの飲み会にクリスが来た。たぶん帰国が決まって、いつもの仲間で送別会を開いたのではなかったか。例によって、ふすまにいたずら書きをした。書を習っているというクリスの筆さばきが秀逸だった。しっかりした楷書で「栗須参上」と記した。これにはみんなが驚いた。今もその字をはっきり思い出すことができる。いわきにいる以上、いつかまた会えそうな気がする。

2016年2月9日火曜日

サイドミラーをつつくシメ

 日曜日(2月7日)。いわき駅裏、お城山の急坂を上っていたら、突然、「カタカタカタッ」と小さく乾いた音がする。見ると、林の前の旅館の駐車場に車が止まっていて(ナンバーは北海道のものだった)、左サイドミラーに鳥がいた=写真。たまたま望遠レンズ付きのカメラを持っていたので、10メートルほどの距離から何枚か撮影した。
 ミラーの前に陣取ってミラーをつついたかと思うと、ミラーの上に移って裏を、向きを変えて自分の後ろを見る。で、またミラーの前に陣取ってはミラーをつつく。「カタカタカタッ」。それを繰り返している。

 そこはいわき市の指定史跡、旧磐城平城の「塗師櫓石垣」のそば。お城山はすっかり宅地化された。石垣は当時の城の姿をとどめる貴重な遺構のひとつだ。東日本大震災では上半分が崩落した。

 江戸時代、磐城平藩は徳川譜代として北方の伊達藩に対峙した。今は、いわきは原発事故収束作業や除染作業にあたる人間の前線基地だ。江戸時代も現在も、江戸(東京)のための北のトリデ、というわけだ 。

 それはさておき、石垣と林に面した狭い空間で同じことを繰り返している鳥は――。ずんぐりしたくちばしと体、顔や背・腹の色からして、最初はコイカルの雌と思ったが、図鑑で確かめたらシメだった。コイカルもシメも冬鳥だ。

 どういうわけか、鏡に映る自分を攻撃する鳥がいる。テリトリーをおびやかす存在と思うらしい。車のサイドミラーかカーブミラーでそれをやる。留鳥のカラスやセキレイ類、冬鳥のジョウビタキの行為が目撃されている。

 この日午前、お城山で鷹匠を招いてのイベントが開かれた。イベントからの帰りに見ると、シメはやはりミラーをつついていた。1時間、いや2時間……。エンドレスだ。人間は眼中にない。こういった変な“事件”がときどき、地域のすみっこで目撃される。

2016年2月8日月曜日

2月の「とろガツオ」

 きのう(2月7日)の日曜日は、朝からいわき市内のイベント・展覧会巡りをして過ごした。カミサンが行きたいところと、私が行きたいところは違う。でも、車は1台。互いに言うことを聞くしかない。昼に一度ひとりで帰宅したあと、すぐまた出かけた。 
 夕方になるとさすがに疲れて、刺し身と焼酎の「田苑」がまぶたの裏にちらついた。「田苑」は昼に買った。刺し身は――。「笑点」の前に外出先からいつもの魚屋さんへ直行すればいい。そのために、朝、車に「マイ皿」を積んだ。
 
 私の顔を見ると、若だんなが黙って冷蔵庫から魚の身を取り出した。天然ブリかな、それにしてはちょっと赤いな。マグロだったら、「マグロです」というはずだけど(私は赤いマグロは食べない)。

「なに?」「カツオです」。おおっ。「2月で“初ガツオ”だ」というと、「アハハ」と笑った。黙って切りはじめたのは「とにかく食べてみてください」という自信のあらわれだろう。「(九州からの)空輸?」「いや、鹿児島ではなく銚子沖で獲れたものです」。すると、すると、「とろガツオ」?
 
 そうだった。2月のカツオだから脂はのっていない、と思っていたが、いやぁ、1年に一度あるかないかの絶品だ。田村郡小野町出身の小泉武夫センセイがいう、「頬落舌躍(ほおらくぜつよう)」だ。
 
 量が多かったので、少し残った。残れば冷蔵庫にしまって、翌朝、ごはんのおかずにする。新鮮だから、朝になっても色が少し落ちるだけで生臭くならない。ちょっとした「海鮮ごはん」を楽しめる。いわきに根を生やしてよかったと、思う瞬間だ。

2016年2月7日日曜日

台湾南部地震

 1年前のきょう(2月7日)は朝、台北市から新幹線を利用して台中市へ行き、南東の山中にある湖「日月潭」を訪ねた。そこで昼食を摂ったあと、再び新幹線で高雄市へ移動した。平地から山中の観光地へとマイクロバスで駆け上がる途中、ガイド氏が1999年9月21日の大地震の話をした。各所で山が崩れ、日月潭の寺も損壊した。寺はその後、日本などからの義援金で復旧した。
 中国や韓国と同じく、台湾も「農暦」(陰暦)で「春節」(旧正月)を祝う。農暦では、きょうが大みそか、あしたが元日だ。月遅れ盆と正月には、日本でも「民族大移動」が行われる。台湾も春節の前後に、人間が都会と田舎の間を大移動する。1年前の拙ブログの文章を抜粋する。
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 台湾中部を襲った「921大地震」は、日月潭の西のふもとにある濁水渓という川沿いの町・集集付近が震源地だった。2400人余が亡くなり、建物約8万棟が倒壊したという。周辺の山々は崩れてはげ山になった。まだその傷跡が残っていた。日月潭の観光名所、玄奘寺と文武廟は、15年たった今は修復している。

 台湾は小さな島なのに、南北にのびる山脈は玉山(日本統治時代は新高山=ニイタカヤマ=3952メートル)をはじめ、3000メートル以上の山だけでも166座ある。そのワケは、大陸側のユーラシアプレートと海側のフィリピン海プレートがせめぎ合って隆起してできた陸地だから、らしい。こんにゃくを両側から押すと真ん中が盛り上がる。それと同じだ。

「921大地震」の際には、日本からいち早く救援隊が駆けつけた。義援金も群を抜いていたそうだ。その恩義に報いようと、台湾からは東日本大震災時、200億円という巨額の義援金が寄せられた。
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 台湾南部できのう(2月6日未明)、大きな地震が発生した。震源地は丘陵地帯の高雄市美濃区。西方40キロほどの台南市で16階建てマンションなどが倒壊した。朝・昼・晩と家を出たり入ったりしながら、ネット経由で台湾のテレビ局(電視新聞台)のライブを見続けた=写真。

 当初、マンションの高さを17階とするメディアもあった。ストリートビューで確かめたら、1階は店、それを含めても16階だった。そのビルが、大木が根元から折れるように倒壊して大通りをふさいだ。なぜ築21年と古くもない建物が倒壊したのか。手抜き工事や設計ミスを指摘する報道もある。

 地震のときの映像を見ると、東日本大震災のときのいわきと似ている。モノが落下する。水がこぼれる。立っていられない。あのとき、茶の間から庭に飛び出すと、地面が波打ち、電信柱がぐらぐら揺れていた。それが間断なく続いた。震源地付近では震度6から5の間だったろう。震災見舞いと犠牲者への哀悼の意を、いわきから。

2016年2月6日土曜日

中島秀雄写真展

 先日、「シャプラニール=市民による海外協力の会」の創立メンバーの一人からファクスが入った。古くからの友人である写真家中島秀雄さんの写真展が、2月7日(あした)から28日まで、いわき市平字紺屋町のギャラリー「コールピット」で開かれる。ぜひ足を運んでみて――とあった。
 知人は、バングラデシュが独立したばかりのころ、いわき市出身の私の旧友と一緒に現地へ農業支援に赴いた。美大出身で、デザイン事務所を経営している。旧友とは縁遠くなったが、3・11後、シャプラがいわきへ支援に入ったこともあって、知人とは深いつながりができた。シャプラのツアーでいわきへ来たり、シャプラの総会時に東京で会ったりしている。

 ファクスには「追伸」があった。いわき市立美術館にかつて勤めていた南嶌宏さん(女子美大教授)が1月に急逝したことが記されていた。私は、名前は知っていたが付き合いはなかった。

 ほどなく、中島さん本人から写真展の案内状が届いた=写真。中島さんは、ヨセミテ渓谷のモノクロ写真で有名なアンセル・アダムスが考案した「ゾーンシステム」という写真哲学を継承し、写真プリントを芸術の領域まで広げたと、知人は絶賛している。「Hydroelectric ower tation 水力発電所は今」というテーマにも引かれた。

 夏井川渓谷へ通うようになって21年。冬、いやそこは主に早春、本州南岸を通過する低気圧の影響で、平地と同じく雪が降ることがある。雪がやんだあとの渓谷の風景は神々しい。それを写真に撮ろうとするとなぜか、いわきの画家松田松雄の晩年のストローク画法と、アンセル・アダムスの雪の木々の写真を思い出す。

「ゾーンシステム」は「明るい部分は明るく、暗い部分は暗く」という、実風景に近い「露出」の決め方をいうらしい。私のようなアマ・甘には、その両立は難しいが。

 中島さんは、再生エネルギーが注目される現在、福島県内にある水力発電所を大判カメラで撮影したという。確かに、案内状のモノクロの写真は、晴れているのに光と影がほどよく抑えられている。
 
 で、いわきの水力発電所は見たのかどうか。まだだったら、水力発電所のある夏井川渓谷へ案内してもいい。水力発電所に人がいたときの暮らしと、無人になった現在の様子と、その両方を知っている人たちがまだ地元にはいる。考えようによってはきわめて「福島的」な地なのだから。

2016年2月5日金曜日

新舞子のブルボン

 今からざっと40年以上前の昭和40年代後半のこと。新聞記者になって「サツ回り」を始めた。同業他社の記者たちとはいわき中央署で知り合った。昭和46(1971)年に数え23歳だった人間は、今、満67歳。ほかの「サツ回り」仲間も、専務になったり論説委員になったりしたあと引退した。
 そのときから何が変わっただろう。アナログからデジタルへ。終身雇用から非正規雇用へ。情報の受発信では便利になったかもしれないが、社会も会社も寛容ではなくなってきた。

 ま、それはさておき――。朝、警察へ行って事件・事故の有無を確かめ、なにもないとなると、そして、そのあと取材の予定がないとなると、ときどき新舞子海岸の喫茶店へつるんで出かけた。情報交換名目の息抜き、あるいはさぼり・腹の探り合い。でも、このおしゃべりから学ぶことが多かった。
 
 喫茶店の名前は「ブルボン」=写真。店の入り口から庭にかけて、彫刻がいっぱい置かれていた。マスターが海岸に打ち揚げられた流木を拾い集めて彫った、ということだった。それで、仲間のテレビ記者がニュースに取り上げたこともある。

 なぜふた昔も前のことを思い出したかというと、最近、マスターのお孫さんがフェイスブックに平市街(紺屋町)の「ブルボン」のことを書いていたからだ。新舞子海岸の姉妹店のようなものだが、街なかの店には、私は入ったことがない。

 海岸の店はずいぶん前に営業をやめた。大津波にも遭っているはずだが、見た目は昔と変わらない。街なかの店も開いているのかいないのか。ちょっと前にテレビが取り上げたときには、朝だけ開店しているようだった。

 それとは別に――ということなのだろう。きのう(2月4日)のいわき民報の記事によると、3月1日までの期間限定で毎週火曜日夜に「ナイトブルボン」と銘打って、お孫さんの知り合いが営業を引きうけているのだそうだ。

 2階の店内も1階の駐車場もカラフルな彫刻作品でいっぱい、というのは見聞きしてわかっている。新舞子時代よりも激しく、カラフルになっているのもわかっている。いつのころからか、ニキ・ド・サンファル(1930~2002年)の、ヘタウマと色遣いを連想するようになった。へたで、キッチュで、それでも一生懸命だから、見るとついほほえんでしまう。
 
 車でいわきの総合エンターテイメントバンド「十中八九」のアルバムを聴いている。「ブルボンじいさん」の歌が出てくる。無礼なのか率直なのかよくわからなかったが、あとでマスターのお孫さんがバンドに参加していると知って、納得した。孫たちからのオマージュだった。
 
「ブルボン」の第一世代としては、街なかの店とは別に、新舞子の店が復活しないものか、という思いが強いのだが。

2016年2月4日木曜日

エア豆まき

 年末には早くも半透明の薄皮に包まれていた庭のスイセンのつぼみだったが、その後、寒暖の変動が大きかったために、そのままの状態で1カ月が過ぎた。最近ようやくつぼみがふくらんで、外側の薄皮がはがれた=写真。
 3日は節分、4日は立春――2月に入ってすぐ、年1回発行のいわきの総合雑誌の編集・校正に区切りがついた。立春には頭を切り替えて4月からの別の仕事の準備に入れる。そう思っていたところへ、「びっくりぽん」がふたつ飛び込んできた。フォト雑誌が大変な誤報をしたという。プロ野球の元スター選手が覚せい剤に手を出して逮捕されたという。ネットで知った。

 元スター選手については自業自得としかいいようがない。が、フォト雑誌の誤報は「よくあること」と片付けるわけにはいかない。その後、ネットに公表された「お詫びと訂正」「間違いが生じた経過のご報告とお詫び」を読んで、「しろうとのコピペと同じではないか。汗もかかなければ、裏も取らない」。田舎の小さな新聞社に身をおいてきた人間として、怒りとむなしさがわいてきた。

 外国人写真家が双葉郡に入って取材し、自分のホームページに記事を載せた。それをフォト雑誌の編集者が見つけて連絡をとった。「写真のキャプションを」「そちらでホームページを参照して書いてくれ」となって、締め切りがギリギリだったことも手伝い、「人々が乗り捨てて逃げた車」(震災前からの廃車置き場の車だった)「福島県双葉町」(富岡町の間違い)に仕立てた。

「このいい加減な記事は反原発の足を引っ張っている。現状を見て真面目に反原発をやっている人にとってはとても迷惑だ」。若い知人がネットで発信して誤報がわかった。雑誌が発売になったころ、ネットでそれを紹介する人もいた。誤報を拡散しながら、庶民の反原発の思いに泥を塗る――二重の意味でフォト雑誌は読者を、福島の人間を裏切った。

 地域の自然や暮らし、住む人の思いといった「個別・具体」とは無縁の、粗い福島認識。外国人写真家だってちょこっと双葉郡に入って「空中戦」をやっただけではないか。現場はいつも「地上戦」だよ――そんな思いが交錯する。

 車を運転するときに留意しなければならないことは、「(飛び出さない)だろう運転」ではなく、「(飛び出す)かもしれない運転」だと、よくいわれる。「情報」についても同じことが言える。「(正しい情報)だろう編集」ではなく「(間違った情報)かもしれない編集」がなぜできなかったのか。

 おととい(2月2日)、きのうと、フォト雑誌と元プロ野球選手のことで頭がいっぱいになった。日が暮れると、カミサンが「節分だよ、豆(代わりのピーナッツ)をまいて」という。そんな気分にはなれないので「やりたくない」とごねたが……。

「ピーナッツをまくマネだけでもいいから」となって、玄関の戸を開け、今年の「あきの方」(恵方)の南南東に向かって小さな声で「福は内、鬼は外」をやる。「エア豆まき」だ。台所、店、2階とエア豆をまいて、すぐ晩酌を始めた。

 立春の今朝はどんなものかと庭のスイセンを見たが、まだつぼみのままだった。ジンチョウゲも小花の先が白くなりかけたものがあるが、開花まではもう少し時間がかかりそうだ。花でも見ていないと、胸にたまった泥が落とせない。

2016年2月3日水曜日

階段下の白菜漬け

 この冬は、甕(かめ)ではなく桶(おけ)で白菜を漬けている。夫婦2人だけだから、量はそんなに要らない。桶の容量に合わせて毎回、2玉を割って漬ける。
 1月中旬、小名浜のお寺で「初観音」が行われた。境内では「かんのん市」が開催された。一種のフリーマーケットだ。ずいぶん前から、カミサンが「シャプラニール=市民による海外協力の会」のフェアトレード商品を展示・販売している。人間と荷物の運搬係を務めている。

 去年(2015年)、同じ平・神谷地区の知人夫妻が「かんのん市」に参加して、白菜や米などを展示・販売した。白菜2玉を買った。今年も奥さんが友達と参加したので、同じように白菜を買った。

 夏場は糠漬け。台所に甕(糠床)を置いている。冬場は白菜漬け=写真=に切り替える。その容器も台所に置く。この冬は、白菜を漬けるとほどなく表面に湯葉のような白い膜ができた。「産膜酵母」というやつだ。産膜酵母は塩分が足りないときや、保存温度が高いときに発生しやすいのだそうだ。

 この冬3回目は、「かんのん市」で手に入れた神谷産の白菜を漬けた。暖冬対策として、家の東南に面している台所から北側の階段下に桶を移した。家の中では一番冷え込むスポットだ。わきに浴室とトイレがあって、その間に洗濯機が置いてある。夏はよく猫が洗濯機の上で横になっていた。夏に毛皮をまとった生き物が休むところは冬の漬物にもいいはず、というのが理由だ。

 真冬の白菜は甘みが増してうまい。水が上がってしんなりしてきたので、食べ始めると近所からも白菜漬けが届いた。それを食べ終わるのに1週間。きのう(2月2日)、階段下の桶を見たら、表面に少し白い膜が張っていた。煮汁の「あく」と同じように取り除いた。やはり暖冬が影響しているのだろう。

 白菜漬けは空気にさらすと、たちまち乾いて酸化する。見た目も悪い。ごはんのおかずにはもってこいでも、酒のつまみには難しいから、なかなか減らない。すると、古くなる。古くなればよけい産膜酵母が増える。しみ出した水ごとパックに入れて冷蔵庫にしまえば、多少は「膜張り」にブレーキがかかるか。

2016年2月2日火曜日

ライトセーバー

 平日の夕方、父親に連れられて小2と年長組の孫がやって来た。1時間半ほどあずかった。「ライトセーバーが欲しいなぁ」「なんだ、それ?」。カミサンが「光る剣?」というと「そう」。「スターウォーズ」に出てくる「セーバー(サーベル)」のことだった。チャンバラも日本刀ではなく、サーベルでということなのだろう。
「欲しい」からすぐ「よし」とはならない。ノートパソコンを開いてライトセーバーを検索する。両側に孫が陣取って「もっと上」「もっと下」「グリーンが好き、見せて」と細かく指示する。おもちゃにしては結構な値段ではないか。「欲しいなぁ」「欲しいなぁ」を繰り返すが、買ってやる理由が見当たらない。誕生日はまだ先だ。お年玉はあげたばかりだ。

 孫もそのへんは承知しているらしく、買ってもらえないとわかると、「剣士」になって跳んだりはねたりを始めた。下の子はグリーンのストレッチチューブをぶんぶん振り回して「ライトセーバー」を持ったつもりになっている=写真。「敵」は「ハゲジジイ」と「クソババア」だ。カミサンにしかられながらも、悪口は収まらない。

 そのうち、カウチにあった雑誌の表紙を見て「だれ、この人?」と聞くから、「ババア」と答えたら、下の子が「ジイジが初めて『ババア』って言った」と大喜びした。いや、「わーりんだ、わーりんだ」といったニュアンスではやしたてた。

 お前さんたちの年には――私も悪口が大好きだった。息子たちもそうだった。年齢に「つ」のつく子どもは、悪口を言ったり言われたりしながら成長する。たしか、詩人の川崎洋(1930~2004年)は「悪口は子どもが強くなるためのスパイス」とかなんとか言ってたな。一生悪口を言い続ける人間はいないのだから、さっさと悪口遊びをくぐり抜けることだ。

 さて、翌日。パソコンを開けると、検索画面やフェイスブックの画面にグリーンのライトセーバーの広告が張り付いていた。なんだ、このあざとさは! ときどき言葉を見聞きする「検索連動型広告」というやつらしい。ありがた迷惑でもある。

 すると、すると――エロな検索のあとにはエロな広告が登場する、というわけか。カミサンにもパソコンを見せるので、変な広告が張り付いていると、そちら方面の映像を「見たな」と勘繰られる。そのへんは要注意だ。

2016年2月1日月曜日

深夜バス

 雪がやんだ朝(1月30日)、外出しようとすると、上空を鳴きながらハクチョウの小群が飛んで行った=写真。日中は四倉町長友の田んぼで過ごす。夏井川の中州などで朝を迎えたあと、えさを求めて四倉に移動するのだ。「落ち穂も切り株の二番穂も雪の下だぞ」。いわきでは珍しい雪のせいで、さぞかし腹をすかせたことだろう。
 午後になると、雪が解けだした。「チッタン、チッタン」は屋根からの雪のしずく。時折、響く「ドサッ、ドサッ」は、雪のかたまりが屋根から落下した音。庭は雪と水とでびしゃびしゃだ。家の前の歩道も水分を含んだ雪が残っている。

 宵の6時ちょっと前。バスでいわき駅前の飲み屋街へ出かけた。街は地温が高いのか、雪はほんの少ししかなかった。この雪の残り具合の差が、街と元農村の違いなのかもしれない。予定では6人の飲み会ということだったが、顔を出したのは3人。それでも異業種の楽しい情報交換の場になった。

 珍しく一次会で解散した。2人は広野止まりの下り最終電車で帰った。私は駅前のタクシープールへ。一週間前に「午前様」だったので、「きょうも遅いと◎×◇▽だから」ときつく言われたのが頭にあった。

 土曜日の夜更けなのに、駅前の飲み屋街は若い人たちがたくさん行き交っていた。タクシー乗り場にも列ができていた。「土曜日もにぎやかなんだね」。タクシードライバー氏に聞くと、「今は金曜日より土曜日が忙しいですよ」。

 以下はうろ覚えながら、タクシードライバー氏から聞いた最近の酔客事情だ。湯本や植田の客は少ない。神谷(かべや=私がそう)や平窪、好間の客が多い。これはしかし、「3・11」前から変わらないだろう。神谷よりずっと北の久之浜や広野町にも行くことがあるという。

 原発事故の収束作業や除染作業に従事している東電社員、それ以外の従業員などの宿舎がそちらにもできた。Jヴィレッジにもある。そこからいわきまで飲みに来て、タクシーで帰るという人たちも少なくないということらしい。

 世界で唯一、そこでしかやっていない仕事をしている人間がほとんどだ。飲んで気分転換を図る。それでまた次の日、頑張る。飲みに来る人間の気持ちはよくわかる。

タクシードライバー氏は「社員はバスで帰る」といった。驚いた。そういう「深夜バス」が実際にあるのかどうか、私は寡聞にして知らない。毎日、いわき駅前~Jヴィレッジ間を運行しているバスがあるらしいことは、見て知っている。それの最終便の時間までは利用可能ということか。
 
「せめて忘・新年会のシーズンだけでも、『深夜バス』があればいいのに。マイクロバスでいいから」。飲めばタクシーで帰るしかない身としては、昔から思っていたことだ。社員だけでなく一般人も乗せるとなれば、私もその「深夜バス」を利用したい。もっともそれは法律上、無理な話だが。