2016年3月31日木曜日

花も鳥も虫も

 福島地方気象台はきのう(3月30日)、福島市のサクラ(ソメイヨシノ)の開花を発表した。いわき地方も至る所でソメイヨシノが開花したようだ。フェイスブックに花の写真がアップされている。
 わが家の庭では、プラムの白い花がほぼ満開になった=写真。おととい朝はいわき市役所へ向かう途中、国道6号上空でツバメを見た。今年初めてだ。きのうは街の帰り、夏井川の堤防を通ったら、対岸の茂みでキジの雄が「ケン」と一声鳴いた。ウグイスもへたなさえずりを繰り返していた。

 砂が除去されてグラウンドのように広くなった、対岸の河川敷は何年もたたずに草に覆われ、岸辺にヤナギが繁茂した。その若木が早緑色に芽吹いている。一気にいわきに春が到着した。

 ハクモクレンやプラムの花が咲いて、ツバメが南から渡ってきたとなると、虫だって――。花やツバメは人間に害をもたらすものではない。が、生け垣のマサキは毎年、ミノウスバ(蓑薄翅)の幼虫に食害される。春の到来が早い分、幼虫が孵化してうごめきだしているかもしれない。きのう朝、歯磨きしながら見ると、2ミリほどの幼虫がかたまっていた。例年よりほぼ1カ月早い出現だ。

 ミノウスバは、わが家では毎年晩秋、小春日のころにマサキの生け垣に卵を産み付ける。卵はそのまま越冬し、新芽が膨らみ始める春の終わりごろに孵化する。幼虫は最初、かたまって新芽を食べているが、成長するにつれて木全体に散らばり、さらに新芽を食べる。こうなったら手に負えない。常緑のマサキがあっという間に“落葉樹”になる。
 
 晩秋でも初冬でもいい、卵が付着した枝を剪定すれば問題はないのだが、「まだいい」「まだまだ大丈夫」「こうなったら春先に」と、先送りしているうちに手に負えなくなる。

 ミノウスバのかたまりを見たからには、剪定ばさみで枝・新芽ごと除去するしかない。初めて、3月にミノウズバの幼虫退治をした。しかし、これですんだわけではない。敵は波状的に孵化する。それに合わせてときどき新芽をチェックして、はさみを入れる。

「花より団子」は花も団子も同列で、どちらを選ぶかの話だが、ミノウスバの場合は「花より団子より虫」だ。花や鳥に浮かれてはいられない。年度代わりに伴う行政区の届け・更新、虫退治、学生相手の資料づくり……。この時期、頭が三角・四角・六角になる。

2016年3月30日水曜日

3月が終わる

 3月が終わる。そう思ったら、書いておきたくなった――。桃の節句が近づくと、カミサンが床の間に人形を飾る。雛(ひな)人形ではない。ドレスを着た青い目の人形、和服を着た黒髪の人形、その他いろいろ。リアルな表情の、赤ん坊くらいの人形が何体も並ぶと、大人でもいささか異様な感じを受ける。
 桃の節句に女の子の人形を飾り、端午の節句には兜(かぶと)を飾る――夫婦二人だけになってからのカミサンの習慣だが、孫にはいい迷惑らしい。

 6年前。上の孫は3歳、下は1歳だった。自分のブログに上の孫の反応が載っている。青い目の人形には近づかない。前の年も、カミサンが人形の一部を棚の上に飾った。そのときには攻撃的にさえなった。「かわいい」のではなく、「怖い」のだ。

 その怖さ、不気味さは伝染するらしい。先日、間もなく小学校に入学する下の孫がやって来た。床の間の人形を見てあとずさりをする。「人間が寝静まった夜中に人形が動き出すんだよ」と、カミサンがフランス人形を孫に近づける=写真。半信半疑ながら、孫は体をずらして人形との距離を保つ。孫が怖がるのは人形の表情がリアルだからだろう。
 
 それから3週間ほどたってまた下の孫がやって来た。床の間から人形が消えている。父親が「人形はいないぞ」というと、ほっとした表情で茶の間を動き回っていた。
 
 太宰治は子どものとき、寺で地獄絵を見ておののいた。昔は、大人が平気で子どもに地獄の話をした。私も祖母から聞かされた。「うそをつくと地獄で閻魔(えんま)様にべろ(舌)を抜かれるぞ」
 
「地獄」はどんなところで、「閻魔様」はどんな顔をしているのか、具体的なイメージが浮かんだわけではないが、恐ろしい印象だけは残った。あとで本か何かで「地獄絵」を見て、怖さが増幅した。その経験からいうのだが、子どものころは、怖いものがひとつやふたつはあった方がいい。孫から見ると、祖父母は「いうことを聞いてくれる人」、そして「怖い話をする人」でもある。
 
 ――なんて書いて、一夜明けたら、庭のプラムが白い花を付けていた。そういえば、いわき市庁舎の東隣、交差点の角に枝を広げるソメイヨシノもきのう(3月29日)、花が一輪咲いていた。きょうは5~6輪開いて「開花」になるのではないか。娑婆(しゃば)にも春は来る。

2016年3月29日火曜日

携帯ストラップ更新

 携帯電話のストラップが切れて、結び直して使っていた。それでも二度、三度とゆるんではずれる。新しいストラップに替えた。ピンクの「ちりめんふくろう」になった=写真。
 もう4年前のことだ。富岡町から避難している、当時93歳のおばあさんから手づくりの「ちりめんふくろう」をもらった。1年後には紐が切れて新しいものに替えた。それから3年。片方の目が取れ、紐も切れた。というわけで、たまたま家に残っていた「ちりめんふくろう」をカミサンが出してきた。初代は翼が赤、2代目は青、3代目はピンクだ。

 自分のブログに当たってわかった。おばあさんは原発避難を余儀なくされた。いわきで借り上げ住宅に住み、話し相手もいない日々を送っていた。ところが――。

 シャプラニール=市民による海外協力の会が2011年10月、ラトブに交流スペース「ぶらっと」を開設する。と、娘さんが母親のつくった「ちりめんふくろう」を飾った。欲しい人はどうぞ。飾ると、すぐなくなる。作品がたまると、また「ぶらっと」に飾る。おばあさんは俄然、張り合いが出てきた。富岡町にいたころもストラップをつくってはみんなに配って喜ばれていたという。

「ぶらっと」は、翌年4月にはイトーヨーカドー平店2階に移る。おばあさんはそこで「ちりめんふくろう作り」教室の先生も務めた。「ふくろうは一つひとつ違うの。(ふくろうを)つくっていると肩がこらないの。つくってプレゼントするのが楽しみなの」。おばあさんの話は聞いて愉快だった。

 おばあさん母娘は、やがて「ぶらっと」から足が遠のいた。それでいいと思う。「ぶらっと」を必要としなくなるのが「ぶらっと」の究極の目的だから(「ぶらっと」は3月12日に閉鎖された)。そう考えつつも、おばあさんは97歳、真新しい3代目の「ちりめんふくろう」に触れていると、今も元気に「ちりめんふくろう」をつくっているだろうか、と祈るような気持ちになる。

2016年3月28日月曜日

早朝の出会い

 その人とは震災後、早朝の散歩で出会った。ある朝、わが家の前のごみ集積所に生ごみが散乱していた。カラスにやられた。散乱ごみを片付けていると、その人もほうきとチリ取りを持ってやって来た。隣組ではない。が、私より先に“惨状”を見つけて、「散歩する道だからきれいにしないと」と駆けつけた。
 やがて、その人は楢葉町からの原発避難者だとわかった。近所の戸建て住宅に住む。年2回の、まちをきれいにする市民総ぐるみ運動にも率先して参加する。珍しいケースだが、2年続けて隣組長を引き受けている。少しでもホームコミュニティ(受け入れ地域社会)のためにできることをしたい。口では言わないが、その思いで暮らしていることがわかった。

 先日、朝の5時半過ぎ、新聞を取りに玄関の戸を開けると、東の空が赤く染まっていた=写真。散歩を休んで2年4カ月。朝焼けと出合うのはほとんどなくなった。暗いうちに新聞を取るか、寝坊して遅く外に出るか、どちらかになった。その人はしかし、今も早朝散歩を続けているにちがいない。きれいな朝焼けに出合っているかもしれない。

 きのう(3月27日)午後、区の総会が開かれた。ある隣組の班長であるその人も出席した。顔を合わせるなり、私が散歩を休んでいる話をした。「ドクターストップがかかったものだから」。総会がすんで懇親会に移った。その人も残ってくれた。ほとんど区の役員しかいなかったので、その人を紹介した。

 区の役員のなり手がいない。隣組によっては、順番で回ってくる班長の役を拒む人もいる――。いつか、その人にも区の役員になってもらいたい。そう考えていたのだが、「今年中に(楢葉の家へ)帰ります」という。うーん。それはそれで喜ばしいことだが、ずっとここにいて一緒に地域のためにがんばってほしかった、という思いもある。

 初めて名刺を交換した。総務大臣委嘱の行政相談委員をしている。地域のために一生懸命になれる人だからこそ、委嘱されたのだ。楢葉へ帰る前に一度「うちへ遊びに来てください」といって別れた。 

2016年3月27日日曜日

里の新団地

 夏井川渓谷の隠居やいわき市立草野心平記念文学館への行き帰りに、たまにそこを通る。いわき市小川町高萩。夏井川の右岸と支流・小玉川の左岸にはさまれた山すその平地だ。
 小玉川左岸の水田にブルドーザーが入ったと思ったら、たちまち戸建て住宅ができた=写真。双葉郡からの避難者のうち、富岡・大熊・双葉・浪江4町共通の復興公営住宅だ。福島県が建設した。道路の反対側、夏井川に近いところにも同じ住宅ができる。小玉川に近い方は「家ノ前団地」、夏井川に近い方は「高萩団地」というらしい。前者は53戸、後者は計80戸と、県の広報にあった。

 福島県・浜通りの自治体はそれぞれ、東に太平洋、西に阿武隈の山並み、間に人間が集中して住む平地の、「ハマ・マチ・ヤマ」のつながりとしてとらえられる。小川町高萩は川の流れからいえば、ヤマが終わってマチが始まる扇状地の最初の里だ。JR磐越東線の小川郷駅がある。通りには家が並ぶ。が、すぐ裏には田畑が広がる。その田畑が宅地に変わった。

 先日、公示地価が発表された。いわき市は昨年(2015年)、全国の上昇率トップ10を独占した。今年は高止まりになっている。小川地区はどうか。調査対象地点には入っていない。それだけ農村色が濃いということなのだろう。

 同じ小川地区に震災前から住宅の「ミニ開発」が進められているところがある。小学校の近くで、区の総会で初めて新規加入世帯があることを知る、といった状況が続いている。春分の日に、その地区に代々住むカミサンの親戚が言っていた。そこから中心市街地の平までは車でおよそ20分だろうか。通勤しやすく子育てしやすいうえに、自然が豊かな地区だ。

 宅地のミニ開発と同じで、沿岸部の災害公営住宅建設(市)に一段落がつき、県の復興公営住宅建設も農村部へ移ってきた、ということか。双葉郡の山寄りの農村部には、小川と似たような里の風景が広がっている。内陸部に住んでいた人にはどこか懐かしい土地になるのではないか。新年度にはホームコミュニティ(受け入れ地域社会)との共生が始まる。

2016年3月26日土曜日

「西へ避難を」

 双葉郡からいわき市へ移り住んだ人に5年前の避難の様子を聞いた。それが目的ではなく、いろいろ聞くなかで避難のときの話になった。
 シャプラニール=市民による海外協力の会に頼まれて、スタッフとともに交流スペース「ぶらっと」の協力者・利用者のインタビューを続けている。シャプラは震災直後からいわきへ支援に入り、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営してきた。先日、4年半に及ぶ「ぶらっと」の活動を終えた。いわきでの5年間の活動を報告書にまとめる。その手伝いだ。

 おととい(3月24日)は富岡町の女性、きのうは双葉町のご夫婦にお会いした。震災直後、「1F(いちえふ)」が危ないというので、町民は「西へ避難を」と指示された。いわき市と同様、双葉郡も西に阿武隈の山が連なっている。「西へ避難を」は山を越えて田村市その他へ移動することだ。

 ある人は川内村経由で田村市常葉町=写真=に何日かとどまった、ある人は川俣町に避難したあと一時帰宅し、その帰りに常葉町でスクリーニングを受けた。「常葉は私のふるさとです」。自分のなかで冷静と興奮が入り混じってくるのがわかった。

 1年前(2015年)、いわき地域学會はサントリー文化財団の助成を得て、大熊町の『熊川稚児鹿(しし)舞が歩んだ道――福島県双葉郡大熊町』を出版した。熊川稚児鹿舞の歴史や保存会の組織・活動などを調査し、原発事故に伴う休止・復活までの足跡を、夏井芳徳副代表幹事がまとめた。

 巻頭言を書いた。そのなかで、大熊町民のつづった避難手記を紹介した。大熊町民が「西へ避難するように」と言われて阿武隈の峠を越えて田村市に入ると、常葉町民が温かく迎えてくれた――。

 60年前の「常葉大火」のとき、各地から義援金・物資をいただいた。常葉町民はその「恩返し」の意味も込めて避難民を受け入れたはずだ。以下は巻頭言の全文。
               ☆
 福島県東部を阿武隈高地が南北に縦断している。浜通りと中通りの分水嶺でもある。中通りの田村市と、東京電力福島第一原子力発電所が立地する浜通りの双葉郡大熊・双葉町とは、分水嶺を横切る国道288号で結ばれている。「原発震災」が発生した際には、この「都路街道」が避難路になった。
 田村市消防隊常葉地区隊が平成26(2014)年4月17日に発行した小冊子『常葉大火の記録と記憶』からの孫引きだが、一時、大熊町から田村市常葉町に避難した男性の手記の要約を次に掲げる。
 ――震災翌日の朝、「西に向かって避難してください」という役場職員の指示に従って、男性は妻とともに車で阿武隈高地を越え、田村市都路町に入る。避難所はすでにいっぱいだった。さらに西へ行くように言われ、同市常葉町にさしかかったとき、消防団の誘導で体育館に避難することができた。
「常葉町の人たちは私たち避難民を暖かく迎えてくれました。寒い時期でしたが毛布、布団などもたくさん用意していただき、暖房器具、食料品なども用意していただきました。こんなにうれしい事は今まで経験したことはありませんでした」
 少したってから、男性はボランティアで来ていた町民に尋ねる。「なぜこんなに親切にしてくださるのですか」「昔、常葉大火の時に大熊町の消防団にはすごくお世話になりました。ですからその時のお礼をしなければと思いました。こんなことは平気です。私たちは当たり前のことをしているだけです」――
 私事で恐縮だが、田村市常葉町は私のふるさとである。小学2年生になったばかりの昭和31(1956)年4月17日夜、東西に延びる一筋町(都路街道)から出火し、折からの西風にあおられて町の3分の2が焼失した。近隣市町村をはじめ全国の自治体・団体・個人から多くの救援物資・義援金をいただいた。子供なりにありがたく感じたことを今も覚えている。
 その大火から55年後に原発事故が起きた。どちらも着の身着のままで避難したのは同じだが、災害の質は大きく異なっている。大火事では町が焼け野原になった。でも、同じ場所にがんばって新しく家を建てることはできる。そうして常葉の町並みはよみがえった。原発事故は、そうはいかない。家を追われ、土地を追われ、仕事も暮らしも奪われて、家族はバラバラになった。コミュニティも事実上、分解した。
 大熊町熊川字宮ノ上地内に鎮座する諏訪神社では、祭礼に稚児鹿舞が奉納された。氏子は、今は会津やいわきなどに分散して避難生活を送っている。その土地の生業・生活から生まれたハレの行事は、その土地にあってこそ、その土地の人々の喜びや誇りと結びつき、一体感を醸成する。それだけに、「全町避難」がもたらした精神的・文化的打撃は、余人には測りがたい。
 いわき地域学會は3・11後、「震災復興事業への支援・協力」を事業の柱の一つに加え、微力ながら被災地域や避難自治体での調査・記録活動を繰り広げている。平成24(2012)年度にサントリー文化財団の助成を得て『高久・豊間地区総合調査報告書』をまとめた。26年度もまた、同財団の支援を受けて「地域を奪われた伝統芸能の継承に向けた方策の研究とその実践」を研究テーマに、本書をまとめることができた。あらためて同財団に感謝を申し上げる。
 個人的には半世紀余前のささやかな恩返しの気持ちを添えつつ、本書が宮ノ内の人々の絆を深め、「熊川稚児鹿舞」の継承の一助になることを願ってやまない。

2016年3月25日金曜日

ネギ坊主の子ども

 あのとき――。在来作物の「三春ネギ」だけは種を切らさないようにしたい。そのためには栽培を続け、食べながら残して種を採る。そう決めた。
 20年近く前、夏井川渓谷の隠居の庭で家庭菜園を始めた。今は母国で暮らすオーストラリア人に教えられたが、「ベジパッチ」だ。パッチワークのパッチと同じで、それぞれ畳1枚くらいのスペースで、ニンジンとかキュウリとかキャベツとかを栽培した。よくいえば少量多品種栽培。菜園はそれらいろいろの野菜で最大、畳10枚くらいの広さにまでなった。

 3年前(2013年)の師走、隠居の庭が全面除染された。三春ネギは秋に種をまく。翌年初夏に定植し、さらに1年後、ネギ坊主から種を採る。除染作業が控えていたので、その年は種まきを中止した。1年後、前年の種をまいたら発芽した。とりあえず1年の空白は埋まった。
 
 ネギの種は冷蔵庫で保管する。発芽率は2年目には急落するが、「まあまあ」だった。しかし、ハウスと違って露地栽培だから「すくすく」育つのは難しい。虫にやられる。天気に左右される(根は湿気に弱い)。虫のなかでも大敵はネキリムシだ。根元をチョキチョキやるので、根っこは残っても大きくは育たない。あっという間に10分の1に減った。

 暖冬の今シーズンは、地上部は枯れて縮こまったものの、春になってたちまち元気を取り戻した。葉の根元にはネギ坊主の子どももあらわれた=写真(白いポツポツは石灰)。いつもの年より少し早い感じがする。

 ネギ坊主の子どもはやがてすっくと茎をのばす。初夏には丸くふくらんで先端に小花をいっぱい付ける。黒い粒々が見えるようになると種を採ることができる。去年は食べるのを控えた。その分、種がたくさん採れるはずだ。
 
 採種~保存~播種~定植~採種まであしかけ3年はかかる。本来ならうねに採種用のネギが残り、同時に秋に種をまいた苗床があるのだが、去年は種が採れなかったので苗床はない。今年はその種が採れる。秋には「新規まき直し」ができる。

2016年3月24日木曜日

ふくしまの歌人展

 もう10日ほど前になる。フランス人女性写真家ら4人を勿来関文学歴史館へ案内した。「ふくしまの歌人」展が開かれていた(5月17日まで)。福島県信夫郡瀬上町(現福島市瀬上町)生まれの門間春雄(1889~1919年)と、交流のあった伊藤左千夫、結城哀草果などの短冊、斉藤茂吉の歌碑拓本が展示されている。 
 春雄は、山村暮鳥のネットワークのなかで知った。忘れられた歌人でもある。暮鳥は大正元(1912)年、日本聖公会の牧師として平町に赴任する。同時に、文学の伝道師としても活動する。同3年5月には文芸雑誌「風景」を創刊するが、それに春雄が散文詩「鏡」を寄稿した=写真。
 
 創刊号には三木露風、前田夕暮、室生犀星、白鳥省吾ら、文学史に名を残す詩・歌人の作品のほか、磐城平地方の文学青年の作品、県内の春雄の作品が載る。中央と地方の詩人らが同じ器のなかで作品を発表するという刺激的な修練の場でもあった。このとき暮鳥は30歳、春雄は25歳。中央の詩・歌人も夕暮31歳から省吾24歳までと、暮鳥と同世代で若かった。
 
 文歴の展示パネルによれば、春雄は醤油醸造業を営む家に生まれ、31歳で夭折するまで、歌人として活発に活動した。長塚節に傾倒し、節の死後は斎藤茂吉に学んだ。夏目漱石・河東碧梧桐らとも交流があった。
 
 いわきの詩風土は暮鳥から始まる。暮鳥がまいた詩の種が芽生え、花開いた。いわきの詩風土をテーマに語ることは、暮鳥とその仲間を語ることでもある。春雄は、その点では客人のようなものだが、暮鳥のネットワークを語るときには欠かせない。別の意味でも要注意だ。公民館から市民講座の要請があってレジュメをつくるときなど、漢字変換に失敗して「門間」が「門馬」になる。
 
 ネットで検索しても、(皆無ではないが)暮鳥と春雄の関係は見えてこない。現に、福島県立図書館の「レファレンス事例詳細」では、春雄と暮鳥の関係文献は紹介されていない。文歴の春雄パネルに暮鳥が出てこないのはそのためだろう。事前にわかっていれば、情報提供くらいはできたのに。
 
「暮鳥圏」の人々を調べていくとおもしろい。第5号(大正3年10月発行)には、福島県安達郡石井村(現二本松市)生まれの歌人、並樹(木)秋人(1893~1956年)の短歌作品「合掌」が載る。箱根町に彼の歌碑がある。ヒメハルゼミは箱根町の天然記念物だが、昭和22(1947)年、同町湯本の早雲寺境内で秋人が発見したのがきっかけだった。

 単に好奇心から調べているだけだが、そのことが思ってもいなかった次の調べを引き出す。なにかの役に立つかどうかは二の次。「暮鳥圏」はまだまだ謎に満ちている。

2016年3月23日水曜日

ドイツの新聞

 土曜日(3月19日)にドイツの二つの新聞、フランクフルター・アルゲマイネ=写真=とフランクフルター・ルントシャウ(いずれも3月11日付)が届いた。
「震災アーカイブ事業」に取り組むいわき明星大の客員研究員が、1月から3月末までドイツのフランクフルト大に短期留学中だ。同大で27日まで日本の東日本大震災展が開かれている。研究員が展示・解説を担当した様子が11日付のルントシャウに載る=写真左。1ページ全部を使っている。見出しの「ダス・フクシマ・アルヒーフ」は「福島アーカイブ」ということだろう。

 研究員とは震災の年の暮れに東京で知りあった。その後、いわき明星大に職を得、ときどきわが家へ来るようになった。で、その気安さもあって、ドイツの新聞は丸5年がたつ東日本大震災をどう伝えるのか、3月11日付のアルゲマイネがほしいと言ったら、航空便で送ってよこした。ありがたいことだ。

 アルゲマイネはブランケット判(福島民報・民友と同じ大きさ)の全国紙、ルントシャウはタブロイド判(いわき民報と同じ大きさ)の地元紙だ。ドイツ語はわからない。が、「アベ」「ツナミ」「フクシマ」といったキーワードから、アルゲマイネが「原発震災」から丸5年の日本を1面トップで報じたことはわかった。

 1面写真のキャプションに「ナガツラ」とあった。月命日の11日に、警察は大津波で行方不明になった人たちの捜索を続けている。宮城県石巻市・長面(ながつら)の海岸で黙祷をささげる捜索隊の姿に、こちらも厳粛な気持ちになった。

 アルゲマイネを手に入れたかった理由は、もうひとつある。同紙の前身、フランクフルター・ツァイトゥングは、ナチス・ヒットラーの時代に休刊に追い込まれた。戦後、後継紙として復活したのがアルゲマイネだ。ヒトラーに迎合した新聞は戦後、息の根を止められた。

 日本の新聞はどうか。戦時中、「大本営発表」を報じ続けながらも、GHQの占領政策のなかで生き延びた。ドイツと日本の新聞では「覚悟」が違う。政府の言いなり、いや政府の御用を買って出る新聞があらわれるのは、こんな歴史が影響しているのではないか。

 ま、それはさておき、3月11日の翌日、福島県が、全国紙5紙に5年間の支援に感謝する全面広告を載せ、二つの県紙にそういう広告を載せたという全面広告を載せた。6年目の頑張りを示すユニークな広告だった(誰がつくったかは容易に想像がついた)。

 共同電によれば、政府もアルゲマイネなどに現地の大使名で感謝の広告を載せた。11日付のアルゲマイネには載っていないから、前日に広告が載ったのだろう。研究員がフランクフルトにいるというだけで、ついつい新聞の東西、歴史にまで愚考が及んだ。

2016年3月22日火曜日

ハクモクレン開花

 きのう(3月21日)、東京でサクラ(ソメイヨシノ)の開花が発表された。いわきのソメイヨシノは4月4日前後らしいが、早咲きで知られる平の街なかのサクラはすでに満開だ。若い知人がきのう、フェイスブックに写真をアップしていた。
 おとといの春分の日、街を通った。街路樹のハクモクレンが咲きだしていた。ほぼ満開の木もあった=写真。信号待ちをしながら思い出したことがある。去年(2015年)の4月3日に、シャプラニール=市民による海外協力の会のいわき駐在スタッフが、「名前聞いたけど忘れちゃった花が満開です」とハクモクレンの花の写真をフェイスブックに上げていた。

 ハクモクレンの開花は、去年に比べると少し早い。ソメイヨシノはどうだろう。去年、旧小名浜測候所の標本木で確認された開花は4月1日だった。いわきでは、平地(市街)のソメイヨシノが咲きだすころ、山峡(夏井川渓谷)のアカヤシオが咲きだす。

 日曜日に墓参りをしたあと、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。庭から双眼鏡で対岸の林をチェックした。アカヤシオ(イワツツジ)の花はなかった。小流れの「スプリング・エフェメラル」(春の妖精)、キクザキイチゲもまだ土の中で眠っている。ウグイスのさえずりも聞かなかった。歌うまでには春機が発動していないのか、たまたま沈黙していただけなのか。
 
 この20年余の間で3月中にアカヤシオが咲きだしたのは一、二度。最も早かったのは3月20日過ぎ、彼岸の中日に花を見たことがある。今年はまだその気配がない。
 
 花や鳥の生物季節情報はこれまで、ラジオで知ることが多かった。ラジオは双方向のメディアだから、それが可能だった。今やラジオに加えて、フェイスブックやツイッターで知ることが多くなった。東京では2月前半にハクモクレンのつぼみがふくらんだ。フェイスブックで、リアルタイムで知った。1カ月は早いということだった。

 さて、夏井川渓谷の春の祭り(春日様)は、アカヤシオの花が見ごろの4月中旬の日曜日に開かれる。日曜日夕方、帰宅すると渓谷の区長さんから電話がかかってきた。「あした(3月21日)、区の総会を開く……」。予定が詰まっているので欠席するが、春の祭りには参加する旨伝えた。渓谷では、ソメイヨシノではなく、アカヤシオが春の到来を告げる花だ。

2016年3月21日月曜日

彼岸の中日

 きのう(3月20日)の春分の日。専称寺の裏山に浮かぶ夕日を寺のふもと近くから見た=写真。時間は午後4時40分ごろ。場所によっては本堂の真後ろに見える。ふもとではなく、本堂の裏で見たら、もっと厳粛な気持ちになったのではないだろうが。
 まずは22年前の拙文(1994年3月9日付いわき民報「みみずのつぶやき」=本堂を照らす夕日)から――。

「浄土宗の名越派本山・専称寺。この本堂は秋・春の彼岸の中日、裏山に沈む夕日が本尊の後光になるように設計されたのではないか、という話を聞いた」「浄土宗には阿弥陀三尊来迎図がある。三尊は人の臨終に際して現れ、安心して西方浄土へいらっしゃい、と誘う。それを絵にしたのが来迎図」だ。

「専称寺の裏山は竹林だが、尾根は鞍部になっている。その鞍部に沈みつつある夕日を見に行って驚いた。話の通りに本堂を照らしていたのだ。板壁をはずしたら本尊の阿弥陀如来に後光が差すに違いない。/観念の西方浄土と現実の寺とをつなぐ見事な工夫である」

 歴史研究家の故佐藤孝徳さんに教えられた。彼の著書『専称寺史』(1995年刊)にも「本堂裏山は西方に日が没するのを、彼岸中日になると本堂で拝することができる『山越阿弥陀(やまごえあみだ)』のようになっている」とある。夕日を見に行ったのは、春分の日の半月前だった。秋・春分の日だけ「照らす」なんてことはありえない。そのころ、夕日が阿弥陀如来に“化身”する。
 
 去年(2015年)秋。夏至や冬至、春分・秋分といった1年の節目の日の太陽の光によって聖地が結ばれる現象・配置があることを知った。研究者の内田一成さんと話して、考える幅が広がった。

 専称寺は本堂がやや北に向いているので、夏至の日に朝日がまっすぐ本堂にさしこむのではないか、という。で、秋分の日や冬至の日没時、夏井川の左岸堤防から対岸の専称寺を見た。時間が合わなかったり、見る角度が違っていたりして、日没点はよく確認できなかった。
 
 今年は2月下旬から、「専称寺の夕日」を見るようにしてきた。その結果と、きのうの夕日の位置から、裏山から夕日が本堂を「照らす」のと、裏山に「沈む」のを分けて考えるべきだと思った。22年前に見たときには、裏山に「隠れる」ことはわかったが、鞍部に「沈む」ところまでは確かめていない。「沈む」に近いのは冬至のときかもしれない。
 
 ついでながら――。2012年9月の秋分の日近くに、カンボジアのアンコールワットを訪ねた。遺跡は正面が真西を向いている。秋・春分の日には、三つある尖塔の中央から朝日が昇り、参道の延長線上に夕日が沈む、ということだった。
 
 旅行中は雨季で、曇雨天だったために太陽を拝めなかったが、乾季の今は観光客が荘厳な夜明けに立ち会って感動しているかもしれない。きょうのアンコールワットは晴れ、最高気温38度の予報だ。けさも感嘆の声に包まれたのではないか。
 
 もうひとつ、ついでながら――。專称寺は、東日本大震災で本堂が「危険」、庫裡が「要注意」と判定され、ふもとの総門も大きなダメージを受けた。いずれも国の重要文化財に指定されている。現在は総門がほぼ修復され、本堂の解体・修復作業が進められている。

 このため、一般の立ち入りは制限されているが、おとといときのう、中腹の梅林が開放された。今年は早めに梅の花が満開になった。本堂が落成したら、「観梅と夕日観賞」ができるか。

2016年3月20日日曜日

カラスとの闘い

 行政区の総会を前に、区の役員会を開いた。会計監査を行い、予算・決算、事業報告・計画案を了承した。カンパニーと違ってコミュニティは「安全・安心」が目的だ。毎日が無事に、平穏に過ぎることを願って、役員は1年間活動してきた。
 地域の平穏を破るカラス=写真=の話になった。わが区の場合、隣組から要請があれば区費でごみネットを購入する。会計さんが「毎年、ごみネットを更新する班があります。大事に使ってください」。すると、すぐ「カラスにネットを破られるんです」。大事に使っていても更新せざるを得ない、という反論が出た。なるほど。現場の声を聞かないとわからないことがある。
 
 私も役員会の何日か前、市役所から電話を受けた。「○○のごみ集積所は、カラスにごみ袋をつつかれて生ごみが散乱している。区長にそのことを伝えろ、ということなので。だれから?匿名です」。そういう苦情があったことを役員さんに伝えながらも、私はその電話が解せないのだった。
 
「銘々自分の戸の前を掃け/そうすれば町のどの区も清潔だ。/銘々自分の課題を果たせ/そうすれば市会は無事だ。」。私は、ゲーテが死ぬ直前に書いた4行詩「市民の義務」が、コミュニティの原点だと思っている。「いつもごみ集積所の掃除をしている」という役員さんがいた。苦情の電話より実践ではないか。

 わが区の世帯数はざっと335。アパートなどの未加入世帯を加えれば、実数はどのくらいになるのか。未加入でも現実には同じコミュニティのなかで暮らしている。当然、ごみが出る。既存の集積所を利用すればトラブルの元になる。で、最近は新たに大家=不動産業者が市にごみ集積所の設置を申請することもある。
 
 ごみネットをかぶせただけでは脇が甘い。カラスはすきまを見逃さない。そこからごみ袋をつついて生ごみを引っ張りだす。歩・車道に生ごみが散乱する。
 
 どのごみ集積所でもカラスとの闘いが続く。エンドレスだ。が、そのエンドレスをできるだけ平穏なものにしたい。まずは生ごみをレジ袋や新聞紙に包む。「えさはないぞ」というシグナルをカラスに送ることだ。そこから始めるしかない。

2016年3月19日土曜日

原発事故関連死

 3月ももう3分の2が終わる。この10日間は震災から丸5年の11日をはさんで、毎日、ばたばたと過ごした。日曜日(3月13日)、朝。庭へ出ると、青空に魚の骨のような雲があった=写真。巻雲のなかの「肋骨雲」というやつだろう。
 変な雲が現れるとすぐ「地震雲?」と騒ぐ向きもあるが、純粋に雲の形を楽しめばいい。巻雲は最も高い空にできる。そこに強風が吹いているとき、魚の骨のような雲になることが多いという。この雲も少しZ状に巻いている。

 久しぶりだな、雲をながめるのは。人は人に最も感動するが、雲にも、庭の花にも、夕日にも慰められる。そういえば――朝晩、家の上空を鳴きながら通過するハクチョウの声を聞かなくなった。越冬地の夏井川(平・塩~中神谷)から姿を消したのは、1週間前だったか。あの年は川を溯上してきた津波に驚き、飛び立ったまま戻ってこなかった。それ以来の早い北帰行だ。
 
 3月にしては晴れて暑くなったおととい(3月17日)、わが家(米屋)に近所のおばさんがやって来た。楢葉町から原発避難中の親類が近くに住む。奥さんが避難直後からわが家へ顔を出すようになった。ご主人は家にこもりっきりだった。そのご主人が正月、病院で亡くなったという。奥さんもこのところ足が遠のいているので、知らなかった。

知らせを聞いて、とっさに「原発事故関連死」という言葉が思い浮かんだ。楢葉町は昨年(2015年)9月5日、避難指示が解除された。ご主人も希望がわいて元気になるかと思っていたが、かなわなかった。

 原発避難後、病気や体調の悪化などで死亡した、いわゆる「震災関連死(原発事故関連死)」は福島県で2031人(3月14日現在の県統計)と、事故から5年たった今も増え続けている。原発事故さえなければ、楢葉のこのご夫婦もふるさとで平穏な日々を営んでいたはずだ。ご主人が死期を早めることもなかったはずだ。

 避難してきた当初は、ご主人も近所まで来たからと店に顔を出すことがあった。ときどきは注文を受けて品物を届けることもあった。

それが――。ご主人は、楢葉では土いじりを楽しむ毎日だったが、避難先ではその土がない。知った人もいない。ストレスがだんだん蓄積されたのだろうか。いつか家にこもって、たびたび楢葉への帰還を口にするようになった。奥さんの介護の苦労が年ごとに増えていった。
 
ご主人の「死因」ははっきりしている。ある日突然、ふるさとと生きがいを奪われたのだ。その日から「死」へと転がっていったのだ。原発がなければ……。けさは暖かい春の雨が降っている。

2016年3月18日金曜日

天心と六角堂

 日曜日(3月13日)にフランス人女性写真家デルフィーヌら4人を、いわき市暮らしの伝承郷に案内した。伝承郷の次に茨城県境に近い勿来関文学歴史館を訪ねると、一人が、茨城県天心記念五浦(いづら)美術館が近いようですね、という。カーナビで知ったのだろう。
 彼は天心ファンなのだそうだ。震災後、着物姿で鈍行列車で五浦へやって来た。六角堂は見られなかった。では――。考古資料館(常磐)行きを中止して、急きょ、五浦美術館へ向かった。昼食もそこでとった。
 
 五浦美術館へは年に3、4回行く。わが家の店頭に同美術館のポスターを張っている。お礼に招待券が届く。勿来を越えて北茨城市へ入ると、なぜか北関東の光を感じ、北関東の空気を吸っている気分になる。今度もそうだった。
 
 この日はいわきのミュージアム巡りを考えていたので、招待券は持っていかなかった。天心ファンが世話になっているお礼だと言って、チケットを買ってくれた。
 
 美術館では岡倉天心記念室と企画展を見た。記念室には詩人タゴールや、その縁者で詩人、そして天心最晩年の恋人であるプリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー夫人の写真も展示されている。そのへんは、私は素通りしたが、デルフィーヌは違った。英文の手紙を読んで、国境を越えた愛に心打たれたのか、壁によりかかって涙ぐんでいたと、カミサンがあとで教えてくれた。
 
 美術館を出たあと、茨城大学五浦美術文化研究所へ足を延ばした。六角堂や旧天心邸がある。六角堂は五浦海岸の断崖から突き出た“舌”の上に立つ。東日本大震災の大津波で流失したが、1年後、樹齢150年といういわき市田人町の大杉を使って再建された=写真。この六角堂といわきのつながりを、どうしても4人に伝えたかった。
 
 ネットで確かめたのだが、大杉を製材したのもいわきの材木店だった。六等分にしてさらに五角形の柱にした。南の柱には南をむいていた部分を使い、北の柱には北向きの部分を使う――という具合に、山にあったときと同じ状態で六角堂の骨組みができた。
 
 旧天心邸の庭に「津波到達点」を示す表示板がある。六角堂は浸水高7.3メートルで流失した。海に近いので、そのことは容易に想像しうる。が、崖の上の天心邸軒先まで水に浸かるとは。津波の高さは10.7メートルほどに達したが、それは六角堂側だけでなく、向かい側にも断崖がせり出して、地形が内湾状になっているためらしい。驚き、おののいた。
 
 五浦は天心と海、アジアとのつながりだけでなく、津波の恐ろしさを学ぶ場にもなった。

2016年3月17日木曜日

暮らしの伝承郷

 日曜日(3月13日)にフランス人写真家のデルフィーヌと、彼女の友達3人(2人は日本人)をいわき市暮らしの伝承郷に案内した。
 日本人の同行者が古民家に興味を持っていた。男性は京都の山里で訪日外国人向けの里山ツーリズム事業を立ち上げた。ならば、いわきの古民家を見るのもいいのでは――伝承郷の元ボランティアガイドでもあるカミサンが勧めた。

 いわきの「縄文」を知りたい――これはデルフィーヌ。そのうち「歴史」も知りたい、となった。では、こうしようと提案したのが、いわきの中央部(伝承郷)~南部(勿来関文学歴史館)~その中間(考古資料館)と巡って、湯本の温泉旅館でかけ流しのお湯につかることだった。

「人間ナビ」になって車で車を案内した。伝承郷にはいわきの古民家が5棟ある。丘をはさんで手前の3棟、真ん中の旧猪狩家を中心に、両隣の旧高木・川口家を見た。カミサンが中に入ってあれこれ説明した。旧猪狩家の庭には、その家で生まれ育った詩人猪狩満直の詩碑がある。こちらは私が説明した。

 里山ツーリズムを手がけている男性が旧猪狩家を見るなり、京都の古民家との違いを指摘した。旧猪狩家には屋根の上に小さな屋根(煙出し)がある。京都のかやぶきの家にはそれがない。煙は屋根の端から出すらしい。なるほど。煙出しにも垂直と水平の違いがあるのか。
 
 曇天のうえに少し寒かった。そうこうしているうちに、周囲の丘(雑木林)からウグイスのさえずりが聞こえた。2年ほど前までは朝晩、夏井川の堤防を散歩していた。散歩を続けていればもっと早く初鳴を聞いたはずだ(そうだ、夏井川のハクチョウも先週末には姿を消した)。
 
 民家を見たあとは管理棟の常設展示室をのぞいた=写真。企画展示室では「炭鉱(やま)への想い 菊地正男作品展Ⅱ」が開催中で、たまたま知人が2人、ボランティアで受付をしていた。次は勿来文歴だ。車で30分はかかる。いわきの広さをあらかじめ伝えておいた。
 
 バイパスを南下して文歴に着くと、彼が言った。「天心記念五浦美術館が近いんですね。私、天心が大好きなんです」。では、見終わったらそこへ行こう、昼食もそこでとろう――となった。(続く)

2016年3月16日水曜日

若者と古民家

 フランス人の女性写真家、デルフィーヌが昨年(2015年)8月に続いて、わが家の向かいにある義伯父の家にホームステイした。故郷のマルセイユの親友(女性)と、京都に住む日本人男女2人が一緒だった。いずれも30歳前後の若者だ。
 マルセイユの親友は日本語を話せない。が、京都の2人はフランス語がペラペラだ。若い女性はまだ大学生。男性はフリーの編集者で同時通訳もする。彼は日英仏中西の5カ国語を話す。今はロシア語を学習中だという(語学の天才か)。

 3月11日に南相馬市でボランティアをしたあと、いわきへやって来た。2日目、土曜日は原発避難中の双葉郡富岡町へ出かけた。夜には「ホウレンソウ鍋」を囲んで酒を飲もうと、しぐさでデルフィーヌに伝えた。

「ホウレンソウ鍋」は一種のしゃぶしゃぶだ。ニンニクとショウガをスライスして水を張った鍋を卓上コンロに置き、火をつけて塩味をととのえる。それだけ。あとは赤根を切り取ったホウレンソウの葉を1枚ずつ鍋に入れ、同時にスライスされた豚肉をさっとくぐらせて食べる。

 鍋の説明が不十分だったせいもあるのだろう。日本人の感覚では飲んでから食事となるが、気を遣って外で食事をしたうえに、道に迷って帰宅するのが9時半になった。たまたま孫たちが宵にやって来た。フランス人の話をすると、会いたいという。しばらく待っても帰ってこない。会いたいならジイバアの家に泊まるしかない。それはまだできないらしく、あきらめて帰った。

「ホウレンソウ鍋」をつつきながら話した=写真。大学生は京都市内の古い民家(シェアハウス)に住んでいる。同時通訳氏は京都の北、かやぶき屋根の農家で知られる美山町の手前、右京区京北(けいほく)に東京からIターンした。京都の観光地からちょっと離れた山里だ。外国人を対象にした里山ツーリズムを手がけている。冬場を除いて客があるらしい。

 私も20年余前から、夏井川渓谷の隠居で週末を過ごしている。その経験からしても、若者と古民家の結びつきは意外ではない。哲学者の内山節さんの著作を読んでいるとわかるのだが、若者が山里暮らしに興味・関心を抱き、都会から移住するケースが増えている。彼もまたその一人で、自分で山里をフィールドに仕事をつくりだした。

 農山村では、人間が自然にはたらきかけ、自然の恵みを受けながら暮らしている。美しい農山村景観はその関係のなかで維持されてきた。観光の先にあるディープな日本の日常――ぜひ内山さんの本を読むように勧めた。

 あとでネットで検索したら、彼は2014年春、外国人向けインバウンド事業(ディスカバー・アナザー・キョウト)を立ち上げた。それが先日、京都信金が主催する「地域の起業家大賞」で最優秀賞に選ばれた。

 古民家ならいわき市暮らしの伝承郷にある――カミサンの提案で、翌日曜日(3月13日)の朝、車を連ねて出かけた。その話はまたあした。

2016年3月15日火曜日

感謝を伝える会

 ほんとうは、こちらから感謝を伝えないといけない、そんな思いなのだが――。シャプラニール=市民による海外協力の会が東日本大震災後、初めて国内支援に入った。3月12日、いわきでの5年間の活動に区切りをつけ、きのう(3月14日)、活動に協力してくれた行政・団体・NPOその他の人々を招いて、いわきの椿山荘で「感謝を伝える会」を開いた=写真。
 大地震・大津波、そして原発事故。放射能への不安・恐怖が広がり、福島県浜通りへの物流・救援がストップした。そのとき、シャプラがやって来た(シャプラの創立メンバーの一人が平高専=現福島高専の寮のルームメートで、いわきの人間だった。その関係で、創立当初からシャプラとかかわっている)。
 
 あのとき、一時避難から帰って3日後の3月26日。いわき市社会福祉協議会のK常務理事からカミサンに電話が入った。「あした、シャプラが社協に来る」。初耳だった。その翌日の動きを、ざっと拙ブログでなぞる――。
               ☆
 日曜日の27日午前、わが家にNGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」の副代表理事、事務局長、国内活動グループチーフの3人がやって来た。野菜の差し入れがありがたかった。カミサンがシャプラのいわき連絡会を引き受けている。いわきでの中期的な支援活動を考えているという。

 19日、北茨城市に入った。ボランティアが集まってきたので、次はいわきへ――いわき市の「うつくしまNPOネットワーク」と連携し、22、23日と避難所への救援物資運搬活動を展開した。

 北茨城からいわきへ活動拠点を移したのは、例の「原発事故」でいわきへのボランティアの足が止まっているからだ。短期から中期へ――次の戦略が必要になっている、そんな判断もある。

「シャプラ」としてなにができるか。いわき市社会福祉協議会の常務理事に会い、市市民協働課長のアドバイスを受けて、いわき市南部で復興のための活動を始めつつある「勿来ひと・まち未来会議」のリーダーに会いに行くことにした。旧知の人間だが、ケータイの番号などは知らない。

 ここは市勿来支所へ駆けつけ、支所長の知恵を借りるに限る。支所長と情報交換をしているうちに、地震・津波の災害現場を見て回った副市長が偶然、支所長室にやってきた。市のナンバー2の話は、シャプラニールが何をしたらいいか、大きな参考材料になった。

 やがて「未来会議」のリーダーとも連絡が取れ、津波被害に遭った海岸部で落ち合った。(中略)

「未来会議」のリーダーが「帰りに岩間と小浜を見て行ってほしい」という。大津波で壊滅的な被害に見舞われたところだ。道はと聞くと、「生活道路」だから立ち入り禁止にはなっていない。

 被災地に踏み込んで息をのんだ。分厚いコンクリートの堤防が破壊され、押し流された。堤防・道路・民家とつらなる海辺の風景は消え、大地がえぐられ、むき出しになっていた。小浜は海側の家並みが壊れて海がざっくり見えるではないか。

 そのあと、小名浜、永崎、中ノ作、江名と回って平へ戻った。超現実的な風景が延々と続いていた。あらためて被害の甚大さを思った。
                ☆
「感謝を伝える会」では6団体が感謝状を贈られた。いわき地域学會までその栄に浴した。それぞれの代表がコメントを述べた。

 私の番になった。私は、シャプラのマンスリーサポーターでもある。これからどうなるのだろう――震災から半月、漠たる不安を抱いていたとき、力強い“援軍”が現れた。道案内を兼ねて社協~市役所~市勿来支所~関田・須賀海岸と巡った。そんなことを話した。
 
 私より先に勿来のリーダーが、私からの電話がシャプラとつながる最初だったと述べたことも手伝って、話しているうちに急にこみ上げてくるものがあった。涙声になるのを抑えられなかった。
 
 それから5年。シャプラは「取り残さない」「地元とともに」のシャプラ精神で、いわきで活動を続けた。謝辞の最後に、自分でもなぜそうしたのかよくわからないのだが(つぶやくだけの人間なので)、「シャプラ、ありがとう!」と叫んでいた。そういう自分に私自身が驚いた。

2016年3月14日月曜日

ハヤシ君の死

 去年(2015年)夏、いわき市立美術館で「神々の彫像 アンコール・ワットへのみち展」と同時に、ロビーで「ニュー・アート・シーン・イン・いわき 松本和利展」が開かれた。ジャンルは「インスタレーション」というやつだろうか。途中、「8月9日一部展示替え」の予定が前倒しされた。作家が体調を崩して再入院したためだった。
 それから7カ月余、旧姓・林、ハヤシ君が亡くなった。享年64。きのう(3月13日)、通夜へ行き、年を取っても若々しい遺影と対面した。
 
 彼と知り合って40年余がたつ。高校で美術部に所属し、短大でデザインを学んだ。20歳で福島県総合美術展洋画の部で県美術賞を受賞した。社会人になってからは「育児無死グループ展」を開催し、個展を開き、若い美術仲間と「スタジオCELL」を結成した。実験的・挑戦的な若い彼(ら)を、少し年上の新米記者である私が取材した。

 東日本大震災の直後、四半世紀余り中断していた創作を再開した。実験的・挑戦的な作風は健在だった。それが、美術館のロビーという大きな空間で「ニュー・アート・シーン」を展開するきっかけになったのだろう。
 
 個展が始まる前、本人がわが家に案内はがきをいっぱい持ってきた。そのとき初めて重い病気にかかり、入院していたことを知った。「オープニングパーティーに出てほしい」というから、軽い気持ちで承知した。

 やがて同じ日の同じ時間帯に別の行事が入った。オープニングパーティーは残念ながらパスするしかない。初日午後、作品を見に行ったついでに事情を話して謝った。「乾杯の発声をしてもらいたかったんだけど」。それは、それは……。

 3・11直後に開いた個展のタイトルは「3・11沈む」だった。「ニュー・アート・シーン」では「3・11沈む…浮ぶ…変形した時をサンプリング」に発展した。美術館のロビーを埋め尽くした、多様な作品群に息をのんだ。

 彼が20歳で県美術賞を受賞したときの、いわき民報の記事。「『わからない作品でも、何度も足を運んで鑑賞しているうち、何か得るものがあるはずです。わかろうとする柔軟な頭脳の持ち主になってほしい』と現代美術を不可解とする人たちへの批判も、熱を込めて語る」(たぶん私が書いた)。
 
「何度も足を運んで鑑賞」すると決めた。コミュニケーション(作品との会話)より、まずはバイブレーション(作品との共振)だ。「ニュー・アート・シーン」へは2回行き、本人と話をした。3回目のときには再入院したあとだった=写真。

 前にも書いたが、5年前の創作再開時には「林和利」として作品を発表した。「ニュー・アート・シーン」では「松本和利展」になっていた。「林和利」として生き、「松本和利」として死んだ。最後に大きな仕事をしたので、自分の人生に悔いはないだろう――今はそう考えている。

2016年3月13日日曜日

「ぶらっと」終了

 きのう(3月12日)は日中、昼前から交流スペース「ぶらっと」で過ごした。外へ出るたびに空気が冷たくなっている。春から冬に逆戻りしたような感じだった。「ぶらっと」へ戻るたびに「さぶ~」が口をついて出た。
 夕方5時前、スタッフが天井からつり下げていた「交流スペース ぶらっと」のプラスチック板をはずした。この日、いわきへ取材に来た滋賀県の彦根東高校新聞部員も加わって、最後に記念撮影をした=写真。

 午後3時ごろ、人の出入りがあわただしくなる。高校生記者がスタッフ、居合わせた利用者にインタビューをする。彼らは一泊二日の日程でいわきへやって来た。私も取材を受けた。

 復興の度合いを数字で表すとどのくらいか――数字では答えられないので、私が感じるいわきの現状を話した。被災者の内面を想像する力を持ってほしい、現場を見てほしい、現場を見ることでなにか得られるものがあるはず――そんなことも話した。

 もらった「彦根東高校新聞」を読む。タブロイド判8~26ページで、年10回発行しているという。レイアウトは一般紙とスポーツ紙の中間といったところ、だろうか。デジタル技術にたけた高校生らしい自在さがある。被災地取材を継続している。質問や速記の仕方が高校生のレベルを超えている。

 生徒の一人に逆質問をする。「新聞記者になるの?」「理系なので」「理系だって科学記者になれるよ」。地元記者も「ぶらっと」終了の取材に来た。プロの若手記者と高校新聞の記者と、記事を読み比べたくなった。

 取材を受けている間に、浪江町から避難している夫妻が顔を出した。「ぶらっと」で知り合った。「いつかまた飲みましょう」。別れのあいさつではなく、次に酒杯を交わす確認だ。南相馬市出身の元スタッフもやって来た。

 間もなく活動終了の午後5時を迎えようとするとき、南相馬市からの避難者が初めて「ぶらっと」を訪れた。何かのイベントで「ぶらっと」の地元スタッフの世話になったらしい。「ぶらっと」の活動が終わると聞いて、スタッフにあいさつに来たのだった。「窓からのぞくだけで帰るつもりだったが、(スタッフがいたので)入って来た」という。

「ぶらっと」という場所だけでなく、スタッフもまた原発避難者や地震・津波被災者と一緒に歩んできた――最後の最後に、「取り残さない」活動を象徴するエピソードに触れて、寒さも吹き飛んだ。そう、またそれぞれの新しい一歩が始まる。

2016年3月12日土曜日

もう一つのコミュニティ

 人はさまざまなコミュニティに属している。私の場合だと、行政区、いわき地域学會、いわきキノコ同好会、シャプラニール=市民による海外協力の会(いわきの交流スペース「ぶらっと」)、高専の同級生たち……。
 日々の暮らしのフィールド=行政区が基礎的なコミュニティだとすると、「ぶらっと」その他は「もう一つのコミュニティ」だ。属しているコミュニティが多ければ多いほど、得られる情報も多くなる。それだけ判断の精度も上がる(たぶん)。

「ぶらっと」はきょう(3月12日)で4年半の役目を終える。東日本大震災・原発事故がおきるとすぐ、シャプラは北茨城を経由していわきへ緊急支援に入った。それから半年後、「ぶらっと」を開設した。

 きのうは利用者が何人も「ぶらっと」を訪れた。私とカミサンが出かけた午後には、双葉郡からの原発避難者、いわきの地震被災者など数人がいた。シャプラの創立時からかかわっているという女性も、3月11日だからと横浜からやって来た。いわきリピーターの一人だ。原発避難の女性は「ぶらっと」、そしてスタッフへの感謝と別れのあいさつをして帰った。

 この日は金曜日。「ぶらっと」の教室から発展した健康運動クラブ(午前)、将棋クラブ(午後)の例会が、「ぶらっと」の斜め向かい、いわき市生涯学習プラザで開かれた。夕方、将棋が終わってお茶を飲みに来た人たちと歓談した=写真。拙ブログで紹介した「被災者のオアシス」の作者と、初めて話した。詩を書き、将棋もやるKさんが紹介してくれた。

「ぶらっと」は小さいが、確かなコミュニティだった。這って歩くのがやっとのような人が、「ぶらっと」へ通いだして二足歩行を取り戻した。人に会って元気になった――そういう人がいることを、双葉郡からの避難者が教えてくれた。最後の最後に、いや最後の最後だから、居合わせた人に伝えたかったのかもしれない。

 “暗夜航路”を余儀なくされ、波間に漂っていた人たちには、「ぶらっと」は一筋の光をともす灯台だったのだと思う。

「ぶらっと」はきょうで閉鎖されるが、「ぶらっと」でできたつながりはそれぞれのなかで続く。にしても、じっくり話すのはきのうが初めて、という人が少なくなかった。あれから6年目に入ったきょうもそうだろう。

2016年3月11日金曜日

被災者のオアシス

 家から北東~南の方角に海がある。久之浜・四倉・新舞子・沼ノ内・薄磯・豊間……。きょう(3月11日)は起きるとすぐ、そちらの方を向いて手を合わせた。2時46分がきても忘れているかもしれないので――。
 シャプラニール=市民による海外協力の会の交流スペース「ぶらっと」の壁に、「『ぶらっと』の一日《詩》」と題する紙が張られている=写真。イトーヨーカドー平店に「ぶらっと」があったとき、利用者の一人が書いた。

「ひさしぶりの買い物/ショッピングセンターでの片隅で/数人が談笑 サークルなどで楽しんでいた/時間をもてあましていた私は/壁に書かれた交流スペース『ぶらっと』/の文字に誘われるように入った」

 詩の後半。「将棋の好きな私は将棋の駒音に/心が動いた そこに『よかったらどうぞ』の声/被災者のオアシス『ぶらっと』すぐに/ファンになった それから将棋を指して/将棋の三手も読めないものが/老後の人生まで読も(う)として/笑いがあった」

「ぶらっと」の日常のヒトコマが描かれている。詩というよりは散文だが、「ぶらっと」と利用者の出合いや心情が伝わってくる。「ぶらっと」利用者は将棋を指す人だけではない。デッサン教室や健康運動教室、手芸教室など、それぞれの目的・関心・興味に合わせてやって来た。「震災砂漠」のなかのオアシスだった。教室は今、いくつかが自主運営をするサークルに成長した。

 私は、津波で家族を失ったわけでも、家が流されたわけでもない。原発事故でふるさとを追われたわけでもない。地震で家が大規模半壊に近い半壊の判定を受けた。少しだけ改修工事をした。いわきの内陸部に住む「B級被災者」なりにできる支援がある――そう考えて、昔からかかわっているシャプラニールに伴走してきた。

 きょう、「いわきリピーター」が「ぶらっと」に来るというので、午後には夫婦で出かける。あしたは、できれば一日、「ぶらっと」にいて終了を見届けたい(義弟が退院し、店番を頼めるようになった)。
 
 その前にしないといけないことがある。ゆうべ、地元の知人から電話がかかってきた。水を流すと下水が詰まるところがある、という。この5年間、放射能がらみで側溝の土砂揚げができない。側溝の土砂揚げをしないと、ちょっとした雨でも冠水する――懸念されていたことだ。それが、いよいよ現実になってきたか。これから現場を見に行く。それからどうするか決める。
 
 いわきの内陸部の「日常」は、表面的には復旧したかのように見える。が、側溝の土砂のように手つかずのものもある。もう蓋をかぶせてすませてはいられない。これが、「原発震災」から5年がたついわきの現実だ。

2016年3月10日木曜日

海外への発信

 10日ほど前になる。いわき民報の「復興推進だより 人・ふれあい・希望」欄(月曜日)に、「いわき明星大 独で写真展/研究員が復興歩みを語る」が載った=写真。
「震災アーカイブ事業」に取り組むいわき明星大の研究員がドイツのフランクフルト大に短期留学をしている。同大からの要請で3月27日まで資料を展示している。3月4~6日にはイギリスのケンブリッジ大で写真展を開く――ということが紹介されていた。記事に添えられた写真に、展示会場で現地の人たちに解説する研究員が写っていた。

 研究員とは震災の年の暮れ、東京での集まりで知りあった。早稲田の博士課程に在籍していた。その後、いわき明星大の客員研究員になり、たびたびわが家に来るようになった。「おっ、ドイツでも頑張ってるな」。身内の人間を見るような思いで記事を読んだ。

 東日本大震災・原発事故は世界にどう伝わっているのか。伝わっていないとすれば、どう伝えるのか。

 東洋大のあるゼミでは、いわき市海岸保全を考える会が発行した『HOPE2』を英訳した。同書は震災と原発事故に遭遇したいわき市民や双葉郡の人々、ボランティアなどの証言集だ。130人が一人称で体験を語っている。インターネットを利用して「原発震災」を世界に発信している。

 研究員と同様、ゼミの教授ともシャプラニール=市民による海外協力の会を介して出会った。シャプラは国際NGOの日本の草分けだ。いわき出身の私の同級生が創立メンバーの一人だったので、45年前の創立時からかかわっている。

 そのネットワークのなかで、単発ながらアジアや中近東、アフリカなど、紛争・災害後の復興期にある国・地域でコミュニティ開発プロジェクトの計画立案に当たっているNGOや行政機関の職員と話したり、NGO・NPO関係者やシャプラの支援者と会ったりした。

 シャプラがいわきに開設・運営している交流スペース「ぶらっと」のボランティアだったTさんとともに、フランス人の女性写真家やドイツ在住の芥川賞作家多和田葉子さんと話したこともある。写真家と作家は2014年の2月18日から3月28日まで、ドイツのベルリンで写真と詩の2人展を開いた。
 
 フランス人写真家はあした(3月11日)、またいわきに来る。私の義伯父の家を拠点に、何日か南相馬市でボランティア活動をする。交流スペース「ぶらっと」はあさって閉鎖される。
 
 それぞれの5年が終わり、6年目が始まる。「イチエフ」の廃炉作業はまだ準備段階だ。「廃炉に40年」というが、100年だってありうる――イチエフをはさんで暮らしている浜通りの人間は、だんだんそんな気持ちになっているのではないか。それでも、ここで生きていく。

 原発事故の罪深さを世界が共有しないと、またどこかで地獄の釜の底が抜ける。そうならないよう、もっともっと国内外に「福島」を発信し、「福島」を見てもらう必要がある。そんな思いを抱くなかで、あす「3・11」を迎える。

2016年3月9日水曜日

71年前の空爆

 戦後71年、いや「平空襲71年」だ。『米軍資料 日本空襲の全容 マリアナ基地B29部隊』(小山仁示訳/東方出版)と、復刻版の『日本の空襲―1 北海道・東北』(日本の空襲編集委員会編/三省堂)を読んで、「平空襲」はパイロットの恣意的な焼夷弾投下らしいと知ったのは7年前だった。
 拙ブログ(2009年3月11日付)をざっとなぞる――。昭和20(1945)年3月9日夜、米軍のマリアナ基地を飛び立ったB29爆撃機325機は、日が替わった真夜中の10日午前零時過ぎから東京の市街地に焼夷弾の雨を降らせた。同じ時間帯にB29が1機、鹿島灘方面から現いわき市平市街に現れ、100発の焼夷弾を投下した。

「東京大空襲」では死者・行方不明者は約10万人に及んだ。同じ日、平では西部地区の紺屋町・古鍛冶町・研町・長橋町・材木町などが炎に包まれ、20人前後が死傷した。

 平ではこのあと、敗戦間近の7月26日朝、B29爆撃機1機が投下した1発の爆弾で平第一国民学校(現平一小)の校舎が倒壊し、校長・教師の3人が死亡し、60人が負傷した。さらに7月28日深夜、北から侵入して来たB29爆撃機3機が大量の焼夷弾を投下し、平駅前から南の田町・三町目・南町・堂根町など約6ヘクタールを焼き尽くした=写真(『いわき市史』に載る被災地図)

 平はなぜ空爆を受けたのか。3月の攻撃目標は東京市街地、7月28日の目標は青森市街地だった。機体の不調、飛行条件、搭乗員の過失などで指示された目標を攻撃できない場合、臨機に目標を定めて投弾することがある。「ターゲット・オブ・オポチュニティ」(臨機目標)という。それだったらしい。

 3月10日は、「臨機目標」に切り替えたのが5機あった。そのうちの1機が平上空に現れ、焼夷弾を捨ててUターンをしたのだろう。7月28日に出撃したのは65機。うち3機が「臨機目標」に切り替えている。これが青森からの、あるいは途中からの帰路、平に焼夷弾を捨てたのではないか。

 パイロットが気候の関係で操縦ミスを犯した、焼夷弾を積んだままでは帰れない。たまたまレーダーに映った下の街(平)に、空の上から「ポイ捨て」でもするように焼夷弾をばらまいた。理由は燃料の関係で機体が重いと基地まで帰れないから――そんな適当なものだったのではないか。

 シリアでは空爆が続く。上空のパイロットには地上の暮らしが見えない。無人機による誤爆も、となれば、攻撃する側の非情さだけが際立つ。これに、自爆テロが加わる。巻き添えを食うのはいつも市民。そんなことにも思いが及ぶ「平空襲71年」の朝だ(時間の感覚でいえば、空襲があったのは「9日深夜」)。

2016年3月8日火曜日

前兆地震

 あすは3月9日。5年前のこの日、三陸沖で地震が起きた。宮城県栗原市では震度5弱。津波注意報も発令された。さらに2日後、東北地方太平洋沖地震(災害名・東日本大震災)が起きた。 
 これまでの「3・11研究」では、3月9日の前兆地震どころか、1カ月前の2月から「ゆっくり滑り」が発生していたことがわかっている。それが引き金になった可能性が高いともいう。
 
 地震のメカニズムにも津波にも無知すぎた。「ゆっくり滑り」は初耳だし、9日の地震もいつもの単発としか思えなかった。

ただ、9日の自分の行動と意識は鮮明に思い出すことができる。その日撮った写真がある。ブログでも地震のことを書いている。変な地震だった、という印象がある。
 
 この日は今年(2016年)と同じく平日の水曜日。朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。日曜日に用事があって行くのがずれたのだ。庭のすみっこに生ごみを埋めたあと、「春」を探した。前日までに降った雪が三春ネギの苗床に残っていた。が、風呂場の前のスイセンは花を開き始め、下の空き地ではあちこちでフキノトウが頭を出していた。そこへマヒワの小群が現れた=写真。

 15年も渓谷へ通って初めて写真に収めたマヒワたちだ。内心小躍りして隠居へ戻り、こたつに入った。間もなく正午、というとき――。家がカタカタいいはじめた。急に風が吹き始めたか、と思うくらいに、揺れは静かにやってきた。軽い身震いのようなものがしばらく続いたあと、家全体がガタガタ揺れ始めた。揺れは長かった(2日後にこれを超巨大にしたカタカタ・ガタガタがきた)。

 とっさに対岸の林を見た。モミや裸の木の枝が雪をかぶっている。林床も雪に覆われている。急斜面だから、しょっちゅう落石がある。見た目には、異常はなかった。NHKのラジオはすぐ地震放送に切り替わり、津波への警戒を伝えた。なにを偉そうに。そのときのアナウンサーの命令口調に鼻白んだ。
 
 2日後、庭の石垣が一部崩れ、対岸の岩盤もあちこちで崩壊した。石垣はまだそのままだ。しばらく「震災遺跡」にしておくしかない。
 
 あれから私はなにか学んだだろうか。3・11はいうまでもない。3・9のラジオ放送に感じた「うんざり」の根っこには危機感の欠如、慢心があった。隣郡の原発には無関心だった。
 
 日常的に危機意識を持続するのは難しい。しかし、防災への意識を高めることはできる。3・11以後、車のガソリンが半分になるとすぐ満タンにするのが習慣化した。区長が自主防災会の代表を務めている関係で、「防災士」の資格も取った。「防災士教本」を座右に置き、「災害とコミュニティ」のことをときどき考える。
 
 あした起きることはきのう起きている。遠い未来は遠い過去に似ている。時間の感覚を少し長く取りながら目の前のことに当たれ――そういう思いだけはいくぶん深まった。

2016年3月7日月曜日

街歩き

 土曜日(3月5日)は午前中、いわき市立草野心平記念文学館の事業懇談会に出席した。ついでに、企画展「草野心平のスケッチ」をのぞき、「東日本大震災後に生まれた文学」展を見た。後者は「全国文学館協議会共同展示3・11文学館からのメッセージ」で、いわきと相双地区の詩人7人の作品を展示している。
 木村孝夫さん(いわき)の作品もある。木村さんとは、シャプラニール=市民による海外協力の会が運営する交流スペース「ぶらっと」で知り合った。2013年には詩集『ふくしまという名の舟にのって』を出し、翌2014年には「ふくしまという名の舟にゆられて」で福島県文学賞詩の部正賞を受賞した。2015年にも詩集『桜蛍』を出している。たまたま会場で一緒になった。

 午後はいわき地域学會の巡検に参加した。オープンデータや著作権などについて学んだあと、実際に平の街を歩いて=写真=歴史的事象や場所などの位置情報を「フィールドペーパー」に落とす方法を学んだ。私はその一部、本町通りの西側、紺屋町~長橋町を歩いた。

 大正時代、山村暮鳥がまいた種が芽生え、花が開いた。当時の地域紙によると、同14(1925)年、「平二丁目のカフェータヒラ」で詩の会が開かれている。ところが、同時期の「カフェータヒラ」の新聞広告には「平町紺屋町(住吉屋本店前)」と「平町一丁目横町」のふたつがある。
 
「カフェータヒラ」は、「二丁目」の記事が正確であれば3カ所あったことになる。狭い街でそんなことがありうるのだろうか。「住吉屋本店」は現「せきの平斎場」の斜め向かいにあったから、「紺屋町」の「カフェータヒラ」は場所が特定できる。
 
「二丁目」の「カフェータヒラ」は「一丁目横町」(西村屋横町?)のそれではないのか。横町の小道を境に、一町目から二町目に町名が変わったはずだから、「一丁目横町」は「二丁目横町」でもある。「文学カフェ」には少なくとも本店・支店があったことが推測できる。「フィールドペーパー」に落とすにはまだまだ調べが必要だ。

 さらに状況を複雑にする記事もある。昭和4(1929)年には、「平カフェー本店」で詩集の出版記念会が開かれた。「カフェータヒラ」ではない。「平(あるいはタイラ)カフェー」で「本店」だ。いよいよ迷路に踏み込んでしまった。

 長橋町では性源寺を訪ね、「戊辰役戦没者之碑」や山門の弾痕を見た。山門は磐城平城の門のひとつだったという。西軍の総攻撃を受けて城が落ち、明治になって門が払い下げられ、同寺に移築された。

 そんなことを盛り込んだ地域情報がオープンデータ化されることで、街歩きがより面白くなる。アナログ人間にはよく理解できないのだが、デジタル技術を取り入れることで「知る」世界がいちだんと広がることだけはわかった。

2016年3月6日日曜日

可処分時間

 夏井川渓谷の隠居の下の空き地にフキノトウがやっと頭を出した=写真。秋にヨシを刈ってもらった。枯れヨシに隠れて、いや、それをふとん代わりにしてよく見えなかったのだ。から揚げにして苦い春の味を楽しんだ翌朝、訃報が届いた――。
 こんなことを考えていた。アナログ人間だから紙の情報がないと落ち着かない。新聞は毎日4紙、週単位では5紙を読む。本は図書館から借りてくる。仕事も出かける用事もないときには、だいたい本を読んでいる。ところが、というべきか。デジタル社会になって、インターネットで情報を取れるようになった。次から次にキーワード検索をしていると、あっという間に時間が過ぎる。

 朝からノートパソコンを開いて調べ物をしているときがある。あれっ、まだ新聞を読んでないぞ――近ごろ、「新聞が第一」の暮らしではなくなったことにがく然とする。起きるとまず新聞を読む、ではなく、まずパソコンを起動する。スマホとにらめっこの若い人と、どこがどう違うのか。いながらにして情報を取る“魔力”に支配されている点では同じだ。

 最近は、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」にはまっている。若い仲間に教えられた。「磐城」で検索をかけると、あるわ、あるわ。仲間も苦笑していたが、休日にパソコンを開いているとすぐ昼になる、夕方になる。「新聞離れ」「テレビ離れ」の原因はこれか。

 会社を辞めてからは、自分で時間をコントロールできるようになった。が、可処分時間をネットに取られてしまっていいのだろうか。そんな思いも年々ふくらむ。自分の年を考えると、もう時間はない。

 彼はしかし、それさえ考える暇もなく逝った。享年48。きのう(3月5日)、後輩記者の通夜式に臨みながら、彼の無念を思った。原発震災のまっただなかを、踏みとどまって取材に駆け回った「ローカリスト」だった。会うたびにやせていくのが気になった(「殉職」という言葉が頭をよぎった。にこやかな表情の遺影に、ただただ頭を下げるしかなかった)。

 残った者はだからこそ、仕事でも余暇でも時間を大事にしてほしい。仕事ではきちんとアナログ情報を伝える。同時に、私生活ではちゃんと可処分時間を確保する。自分の時間は自分でつくるしかない。時間は待ってはくれない。

2016年3月5日土曜日

ライスキングの上映会

 明治の末期に渡米し、大農場を経営して「ライスキング」と呼ばれた国府田敬三郎(1882~1964年)の生涯と、現在の「コウダファーム」を描いたドキュメンタリー映画「ドス・パロスの碧空(そら) SEED」が完成した。孫の現オーナー、ロス・コウダがいわき市小川町の国府田家を訪問するのに合わせ、敬三郎の母校である小玉小学校で上映会を開催する。ぜひ観覧を――。 
 小川町の国府田英二さんから案内のはがきが届いた。昨年(2015年)暮れにも、敬三郎が訓導(先生)を務めていた同市三和町・旧差塩小中学校で上映会が開かれている。市三和支所の地域振興担当員に街でばったり会ったとき、彼がその話をしていた。今度は敬三郎のふるさとでの上映会だ。おととい(3月3日)午後、出かけた。
 
 同小5・6年生と、回覧板で開催を知った住民で会場の体育館は満パイになった。そこに、国府田さんからの案内はがき組が何人か加わった。
 
 いわきでは、昨年2月に撮影が行われた。ライスキングの生涯を軸に、ふるさと小川町とカリフォルニア州のコウダファームの映像を交互に映しながら、敬三郎の思いを孫のロスが受け継ぎ、さらに時代に合った米作りをする姿が描かれる=写真。水田があまりにも広大なために軽飛行機で種をまく。その種がまるで雨のように水田に落ちるシーンが印象に残った。
 
 映画とは直接関係ないが、アメリカを代表する詩人にゲーリー・スナイダー(1930年~)がいる。若いころ、日本で禅を学んだ。
 
 詩集『絶頂の危うさ』(原成吉訳=思潮社刊)は妻のキャロル・コウダにささげられた。キャロルの母はジーン。ジーンをうたった詩もある。ジーンは日系アメリカ人で、カリフォルニア州ドス・パロスで農業を営んでいた日系二世のウイリアム・コウダと結婚し、メアリーとキャロルをもうけたという。するとキャロルは敬三郎の孫、ではないか。

 敬三郎と愛恵(よしえ)夫妻の間にはウイリアム(貞一)・エドワード(敬二)・フローレンス(米子)の3人の子どもがいた。ロスはエドの子どもで、キャロルはロスのいとこ――ほんとうはそのことを確認したかったのだが、国府田さんらの邪魔をしてもいけないので、映画を見ただけで帰って来た。
 
 映画で何度も強調されていたのが、ネバーギブアップ精神だ。太平洋戦争がおきると、敬三郎らは強制収容所に入れられた。財産も失った。戦後、再び福島県人の粘り強さを発揮して大農場を築き、帰化権獲得運動に奔走する。昨年、カリフォルニアは大干ばつに襲われた。ロスはそれでもあきらめない――。原発震災に苦しむ福島県人を激励する映画でもある。

2016年3月4日金曜日

回復するちから

 賠償金をもらって遊んで暮らしている――原発避難者のなかにはそういう人もいるだろう。が、それは人の目に触れやすい「表層」の一部にすぎない。いわきの精神科医が見た、かつてない大災害(大津波と原発事故)による喪失体験、つまり心の「深層」はわれわれ一般被災者の想像を超えるすさまじいものだった。
 1カ月前、熊谷一朗著『回復するちから――震災という逆境からのレジリエンス』(星和書店)=写真=を、著者のお父上からいただいた(「レジリエンス」は「精神的回復力」のこと)。著者は1967年生まれ。これまでに『深淵から』『深淵へ』『スピリチュアルメンタルヘルス』を上梓している。

 前書き(「はじめに」)に「痛みに共感し、罪悪感や無力感を受けとめ、共にすることが精神治療の基本であることに変わりはありませんが、震災と原発事故というこの圧倒的な出来事を前に、正直どうすることもできないことが多かった」とある。それほど突然の、理不尽な喪失を多くの人が体験した。
 
 詩人も精神科医もことばが生まれる根源的なところで仕事をしている――と考える人間には、詩集や人間の内面に触れ得る熊谷さんのような文章に出合うと引かれる。精神科医自身も患者の症状に同期して心身が不調になることがある。そのことも告白している。

 熊谷さんは震災の年の師走、ふるさとの平に心療内科を開院した。『回復するちから』には、津波で妻と10カ月の息子を失った男性、海で自殺を図った電力会社の社員、仮設住宅に入居したものの「幻臭」に襲われる女性などの“物語”が載る。突然、生活が暗転し、つらく、苦しい体験を余儀なくされた。それでも、人間は生きる。生きるための回復力を持っている。希望の書でもある。
 
 いろいろ文章を引用したいのだが、一例だけ。「本来なら心療内科などとは無縁で、豊かな自然に恵まれ、満ち足りた日々を送られていた方々である。幾分落ち着きを取り戻されたとはいえ、未だに先の見えない不安は隠しようもなく、苦しみは継続している。(中略)苦しみの根本のところは無論金銭で賠償できるはずのものではなく、むしろ新たな差別の元凶となることも多い」
 
 それが、いわきで暮らす被災者・原発避難者の「内部の現実」なのだ、ということ。そこに思いを致さずして共生も融和もないのではないか。
 
 もっとも涙したのは、翌月から小学1年生になるという男の子のレジリエンスの物語だ。2歳のときに小学校に入学する直前の兄を津波で失った。死の不安が知らずしらずのうちに幼い心に蓄積していった。入学を前に初めて怖くなり、眠れなくなった。食べ物も受け入れなくなった。この強迫症状は震災から4年後にあらわれた。

 精神科医がその子にわかるようにゆっくり話を続ける。「お兄さんが亡くなったことは、家族にとっても、君にとっても、とても悲しいできごとだった。けれどそれはもちろん、誰のせいでもない。それに○○君は○○君で、お兄さんとは全く別の存在だから、安心してね。夏には赤ちゃんも生まれるみたいだし、○○君も亡くなったお兄さんに遠慮することなく、学校に行って大丈夫だよ」

 幼い子は幼いなりに兄の年齢の死という、得体のしれない恐怖を抱いていたのだろう。「安心してね」「学校に行って大丈夫だよ」。そのあと、「彼はそのままの姿勢で前屈みに突っ伏し、うわーんと張り裂けるように、強く泣いた。長く泣いた。小さな身体の、どこからこれほどの声量が出てくるのかと驚くほどの、泣きっぷりだった。ほっとする。私もようやく肩の荷を下ろす」。

 記憶にある6歳の私。その年齢になり、4月に入学を控えた私の下の孫。それらが重なって、胸のなかにたまっていた不安・恐怖その他の感情のかたまりがほぐされて、やっとほんとうの自分を取り戻したこの子に、胸の中でエールを送る。

2016年3月3日木曜日

シャプラの5年

「シャプラニール=市民による海外協力の会」の会報「南の風」が届いた。トップ記事は特集「いわきでの5年間を振り返る」=写真。
 シャプラはもともと、バングラデシュやネパールなどで活動しているNGOだ。そのNGOが東日本大震災・原発事故後、いわきへ支援に入り、3年間の活動継続を決めた。①被災者の生活再建のメドがつき、正常な生活を送れる道筋が見える状態になること②行政やNPOなど地元の力によって細かなニーズに対応できる体制・ネットワークができること――を目標にしたという。

 時間の経過とともに被災者のニーズも変わる。発災直後は①災害ボランティアセンターの運営支援・コーディネート②一時提供住宅への入居が決まった被災者への調理器具セットの提供③物資無料配付――などを続けた。その後は、主に借り上げ住宅(アパートなど)の入居者を対象に、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営している。活動期間も2年延長した。

「ぶらっと」は、①生活情報・支援情報・イベント情報の提供の場②友達とのおしゃべりの場③デッサン・編み物・刺繍などの教室の開催の場④困っている人の相談の場――などに活用された。情報紙も発行した。いくつかの教室はサークル化されて、利用者みずからが自発的に運営するところまできた。
 
 海外での活動と同様に、いわきでも「取り残された人々」の存在を念頭において活動を続けた。昨年(2015年)4月にネパールで大地震が発生したときにはいち早く支援に入り、今なお復旧・復興のための活動を続けている。
 
 いわきでの経験がネパール支援に生かされている。そのひとつが、コミュニティラジオ局と一緒に「ぶらっと」のようなコミュニティセンターの運営に取り組んでいることだ。あるセンターへは学校帰りの子どもたちが立ち寄り、安心して過ごせる場所になっている。別のセンターはテント暮らしで疲れた人々の憩いの場になっているという。

 ネパール初のコミュニティセンターも、運営に利用者の声が生かされ、利用者が運営にかかわっていくことが期待されている。「『ぶらっと』の運営も地域のボランティアに支えられていました。決してシャプラニールだけで運営できたわけではありません。住民の皆さんと一緒にセンターを盛り上げる。その中で利用者が、コミュニティが元気を取り戻していくのだと思います」。
 
 発災から半年後、「ぶらっと」がオープンした。いわき芸能倶楽部の面々がオープニングのイベントを盛り上げた。それを思いだした。私のなかでもこの5年間、「ぶらっと」がもうひとつの暮らしの柱になっていた。
 
 昔、元いわき短大学長の故中柴光泰さんが「つまらないからよせ」というソネット(14行詩)を書いた。
 
「原爆をつくるよりも/田をつくれ/それとも/詩をつくれ//これが存在するものの一念だ/さきごろ咲き出した水仙も/そう言っていた/日ごろ無口な庭石も/そう言っていた//田にはくらしがある/詩にはいのちがある/しかし原爆には何もない/ただ限りなく/つまらないだけだ」
 
 それにならって、存在するものの一念として思う。原発を輸出するよりも「ぶらっと」を輸出せよ、事故はこりごり――。

2016年3月2日水曜日

ふるさとの記憶展

 大津波に襲われたいわき市平豊間・薄磯・沼ノ内3地区の集落が、1軒1軒地図帳のなかに再現されたのは2013年秋だった。いわき地域学會の前代表幹事山名隆弘さんらが立ちあげた「プロジェクト傳」や、多摩美大環境デザイン学科研究室などが協力して「失われた風景」を<町図絵>として再現した。
 知人の家がある(津波で流されたり、地震で壊れたりした)。復興住宅が建設されたところは、山が海をさえぎる水田だった。前浜の磯には、漁師の口承地名(塩屋埼灯台の前はウスイソ・タチネ・アカゲイ・ナカマワリ・フダラクなど)が付いている――昔の家並み(世帯主のほかに屋号のある所はそれも)を「見える化」したからこそ、失われたなりわい・暮らしにも思いが至る。

 あさって(3月4日)まで、いわき駅前のラトブ6階・産業創造館企画展示ホールで「ふるさとの記憶 ふくしま特別展」=写真(チラシ)=が開かれている(NHKなど共催)。こちらは<町図絵>の立体版だ。家並みや地形が3次元化され、世帯主などの情報が透明板に書き込まれてびっしり立っている。

 いわき市久之浜町と、原発避難を余儀なくされた相双地区の富岡・大熊・双葉・浪江・小高や新地の町並みが再現された。金曜日(2月26日)に見に行った。避難者と思われる人がそれぞれの町の立体地図に見入っていた。

 私は、やはり見知った町(久之浜)に足が向いた。孫たちの、もう一組の祖父母が住む家(たまたま残った)がある。津波とその後の火事で消えた旧道沿いの家並みがある。上の孫が祖母に連れられて買い物に行った店が、その並びに立っている。一人も犠牲者を出さずにすんだ海辺の幼稚園もある。磯には名前が付いている(胸の中で笑ったり、泣いたり、立ちすくんだり……)。
 
 その裏返しが、行ったこともない、あるいはただ通過しただけのまちの“ジオラマ”だ。同じ浜通りでも、知らない空間は<見える化>されてもピンとこない。生活者の意識はそんなものなのだろう。とすると、それよりもっと遠くに住む人たちには、福島県はすでに意識から消えている。そんな思いもよぎった。