2016年3月9日水曜日

71年前の空爆

 戦後71年、いや「平空襲71年」だ。『米軍資料 日本空襲の全容 マリアナ基地B29部隊』(小山仁示訳/東方出版)と、復刻版の『日本の空襲―1 北海道・東北』(日本の空襲編集委員会編/三省堂)を読んで、「平空襲」はパイロットの恣意的な焼夷弾投下らしいと知ったのは7年前だった。
 拙ブログ(2009年3月11日付)をざっとなぞる――。昭和20(1945)年3月9日夜、米軍のマリアナ基地を飛び立ったB29爆撃機325機は、日が替わった真夜中の10日午前零時過ぎから東京の市街地に焼夷弾の雨を降らせた。同じ時間帯にB29が1機、鹿島灘方面から現いわき市平市街に現れ、100発の焼夷弾を投下した。

「東京大空襲」では死者・行方不明者は約10万人に及んだ。同じ日、平では西部地区の紺屋町・古鍛冶町・研町・長橋町・材木町などが炎に包まれ、20人前後が死傷した。

 平ではこのあと、敗戦間近の7月26日朝、B29爆撃機1機が投下した1発の爆弾で平第一国民学校(現平一小)の校舎が倒壊し、校長・教師の3人が死亡し、60人が負傷した。さらに7月28日深夜、北から侵入して来たB29爆撃機3機が大量の焼夷弾を投下し、平駅前から南の田町・三町目・南町・堂根町など約6ヘクタールを焼き尽くした=写真(『いわき市史』に載る被災地図)

 平はなぜ空爆を受けたのか。3月の攻撃目標は東京市街地、7月28日の目標は青森市街地だった。機体の不調、飛行条件、搭乗員の過失などで指示された目標を攻撃できない場合、臨機に目標を定めて投弾することがある。「ターゲット・オブ・オポチュニティ」(臨機目標)という。それだったらしい。

 3月10日は、「臨機目標」に切り替えたのが5機あった。そのうちの1機が平上空に現れ、焼夷弾を捨ててUターンをしたのだろう。7月28日に出撃したのは65機。うち3機が「臨機目標」に切り替えている。これが青森からの、あるいは途中からの帰路、平に焼夷弾を捨てたのではないか。

 パイロットが気候の関係で操縦ミスを犯した、焼夷弾を積んだままでは帰れない。たまたまレーダーに映った下の街(平)に、空の上から「ポイ捨て」でもするように焼夷弾をばらまいた。理由は燃料の関係で機体が重いと基地まで帰れないから――そんな適当なものだったのではないか。

 シリアでは空爆が続く。上空のパイロットには地上の暮らしが見えない。無人機による誤爆も、となれば、攻撃する側の非情さだけが際立つ。これに、自爆テロが加わる。巻き添えを食うのはいつも市民。そんなことにも思いが及ぶ「平空襲71年」の朝だ(時間の感覚でいえば、空襲があったのは「9日深夜」)。

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