2016年4月30日土曜日

行楽したつもり

 ゴールデンウイークがスタートした。きのう(4月29日)はいわき市泉町に用があったついでに、勿来地区の東田(あずまだ)・後田(うしろだ)・中岡町と、いわき市南部を巡った。市の北部に住んでいる人間には、南部は生活圏の異なる「よそのまち」だ。が、三十数年前、3年間そこで仕事をした。行けば懐かしい気持ちにはなる。
 大型連休後半にはたまっている仕事を片付けないといけない、地元の祭礼もある――同じ市内ながら「よそのまち」へのこのドライブが、今年の大型連休のごほうび、と自分に言い聞かせた。日曜日(5月1日)には郡山市へ行くが、それも行楽と思って運転手に徹する。

 いわきの南部へは国道6号バイパスを利用した。大型連休初日だというのに、思ったより空(す)いていた。行く先々で利用した駐車場も空いていた。遠出する人が多かったのか、逆に家にこもっている人が多かったのか。

 東田町から中岡町へ向かっていたときのこと――。磐城農業高校そばのトンネルを下りたら、JAの直売所「いがっぺ」が目に入った。半年前にオープンしたそうだ。

野菜苗も売っていた。キュウリ、ナス、トウガラシはもう植えた=写真=から、別の苗をと見たが、ピーマンなどには心が動かない。糠漬け用のカブ・キュウリ、その他を買った。カミサンの反応にちょっと驚く。「キュウリは大きいうえに安い」。いわきの北部と南部で違うのか――。

 いわき南部は、大きくは鮫川流域に入る。いわきの中心市街地・平は夏井川流域、つまり北部にある。暮らしの質は、いわきでは「都心」より「副都心」の方がいい?
 
 たとえば、鮫川流域が「いわき南市」として、平中心の行政とは異なった身近な行政を展開していたら、インフラは今よりもっと充実していたのではないか。地域としてはわりと豊かなのに、税金分の還元がない――なんてことも、二つに切った(そうしないと糠床に入らない)キュウリを見ながら考えた。

2016年4月29日金曜日

祖父の家

 夏井川渓谷の隠居=写真=の玄関には庵号を記した額が掲げられている。「無量庵」という。故義父が名付けた。ときどき蕎麦屋に間違われる。その家の“前半生”がひょんなことからわかった。
 昭和40年代半ば(ざっと45年前)、いわき市平字長橋町の元味噌醤油醸造販売業のSさんの家を義父が譲り受けた。家を解体して、そっくりそのまま渓谷に移築した。新築するよりカネがかかったという。居間が二つ、それに台所、洗面所と便所。義父はこれに“展望風呂”を増築した。

 ざっと20年前、私ら夫婦が管理人を引き受けてから――。屋根瓦が古くなって表面のコーティングが消え、放置すれば雨漏りが始まるというので、瓦をふき替えた。手狭な台所も増改築し、濡れ縁を広くした。原発震災が起きると庭が全面除染の対象になり、土のはぎとり・客土が行われた。

 長橋・味噌醤油醸造販売業・S家――これが、わが隠居の“前半生”についてわかっているすべてだった。

 いわき地域学會の同世代の仲間にSさんがいる。最近、渓谷の隠居の元々の持ち主は「半兵衛」と言った、と聞いた。その話を親戚かもしれないSさんにすると、「それは祖父の家です」――親戚どころか直系だった。S家では代々、当主が「半兵衛」を襲名したという。

 4月上旬、渓谷に春を告げる花・アカヤシオが満開のころ、Sさんを隠居に招いた。Sさんは家の内外をじっくり見て回った。そのあと、対岸のアカヤシオの花を眺めながら、私にこの家の“前半生”を聞かせてくれた。

 後日、はがきが届いた。S家のルーツが書かれていた。幕末から近代、先の太平洋戦争のことにも触れている。

 昭和20年3月9日深夜~10日未明、東京をB29が襲った。同じ日、平市街上空に現れた1機が、西部地区に焼夷弾の雨を降らせた。紺屋町・古鍛冶町・研町・長橋町・材木町などで294軒が炎に包まれ、16人が死亡、8人が負傷した。S家も焼け落ちた。

 はがきにはこうもあった。「戦後は、無一物から再建して、この家も」祖父が建てた。家業は伯父が継いだが、その代で力尽きた。私の伯父は文学を愛したが、事業の人ではなかった――。
 
 伯父さんはこの家で亡くなった、と聞いたとき、私は安心した。家は死者が出て初めて、魂の宿る家になる。人に歴史があるように、家にも歴史がある。わが子・孫にもいつか「無量庵」の来歴を語って聞かせようと思う。

2016年4月28日木曜日

キジも畑に

 春たけなわ。いや、いわきの平地ではもう初夏だ。この1週間で季節が巡った感じがする。
 例年だと、5月の連休中に冬眠していた糠床をおこすのだが、この春暖だ。今年は初めて、4月(22日)に前倒しして糠漬けを再開した。

 4月後半に入ると、上着をぬぎたくなるような日が続いた。そんな陽気に誘われたのか、夏井川の堤防そばの畑にキジの雄が現れた。対岸の河川敷からのしてきたのだろう。きのう(4月27日)も街からの帰りに見ると、同じところにいた=写真。

 おとといは、いわきニュータウンへ出かけた。帰りに海を見たくなって新舞子海岸に直行した。かさ上げされた海岸堤防が壁になって肝心の海が見えない。夏井川河口でやっと太平洋に対面した。

 右岸河口に近い堤防で重機が何台か動いていた。サイクリング公園駐車場に入ると、堤防を行き来する車があった。駐車場から上流は一般車両が通行できる。

 夏井川の橋は、河口から平市街までは磐城舞子橋、六十枚橋、夏井川橋(バイパス)、平大橋の四つだ。六十枚橋から河口までは、堤防のかさ上げ工事のために通行止めになっていた。工事が終了し、年度が替わって5年ぶりに通行が再開された。右岸の堤防を、次いで左岸の堤防を“試走“した。ツバメが白い腹を見せながら反転していた。視界が開けて気持ちがいい。
 
 同じ日、車のガソリンを満タンにした。4月でも雪の日がある。後半になればもう大丈夫とみて、ガソリン補給に合わせてタイヤをスタッドレスからノーマルに替えた。

 きのうは早朝、耳を疑った。テレビから? いや、わが家の庭からだ。ウグイスが迷い込んで?さえずっていた。「ホーホケキョ」のソングポストは柿の木か、カエデか。

 糠床の話に戻る。冬は食塩を掛けぶとんにして眠らせる。そのふとんを除いて糠床をかき回すのだが、塩分がかなりしみ込んでいる。最初は捨て漬けをしても味の調整が難しい。カミサンの実家(米屋の本店)から糠をもらってきて、糠床に補給した。今週に入ってやっと、なれた味が戻りつつある。キュウリや大根の浅漬けは、わが家では初夏の味だ。

2016年4月27日水曜日

戸部さんの絶筆

 テレビ局の元報道カメラマン戸部健一さんが亡くなった。きのう(4月26日)のいわき民報「続・ファインダーがくもるとき」が絶筆になった=写真。併せて、戸部さんの姻戚でもある友人(いわき地域学會副代表幹事)が追悼文を寄せた。
 絶筆は、遺族に託されて友人がいわき民報社に届けた。その帰路、わが家へ立ち寄り、戸部さんの死を知らせた。すでに葬儀も家族だけですませたという。

「私は『日本一の幸せ者』かも知れない。いま、何の後顧(こうこ)の憂いもなく、この世を去ることができるのは、多くの知人、友人、そして肉親たちの好意(厚意)によるものです。(唯一ツ、心残りなのは、今年百歳を迎える老母のことだけである。)」。冒頭8行の文章だ。

 もう何年前になるだろう。戸部さんに連載を依頼した。400字詰め原稿用紙に万年筆で刻みつけるようにつづった大きく強い字が目に浮かぶ。
 
 絶筆はしかし、刻みつけるような強さはあったか。文体が「である」から「です・ます」に変わる。意識の清明さが失われる前に、気力を振り絞ってつづったのだろう。内容も、父の戦争体験、自分のベトナム戦争取材体験、国際政治、南京への語学留学と、走馬灯のように変わる。

 ときどき、いわき総合図書館で顔を合わせた。あるときから急激にやせた。「続・ファインダーのくもるとき」の担当者が、びっくりして電話をかけてきたこともある。私は知らなかったが、本人は病気と闘いながらも受容し、平静を保っていたのだ。絶筆でも報道人らしく自己客観の姿勢を貫いた。見事な生の終わり方だと思う。

2016年4月26日火曜日

モグラめ!

 モグラは、庭に何もないうちはトンネルをつくっても「同居人」がいるか、くらいですませられる。ところが、家庭菜園のうねにトンネルができると、人間の目は吊り上がる。
 4月21日付の拙ブログでも取り上げたが、わが家の庭が急にモグラ塚だらけになった。カミサンが「あれもモグラ塚?」と聞くくらいに数が増えた。こちらにはモグラのトンネルができても、目の吊り上がるようなものはない。

 夏井川渓谷の隠居では、事情が異なる。家庭菜園を再開した。今年はまず、キャベツのポット苗10株を植えた。おととい(4月24日)はキュウリ、ナス、トウガラシのポット苗を各2つ植えた。

 キャベツはちゃんと根づいた。と思ったが、1株だけ元気がない。ほかの苗の葉はしゃんとしているのに、しおれて地面にへばりつきそうになっている=写真。うねを横断するようにモグラのトンネルができていた。キャベツを植えるのに土を耕していたので、モグラがトンネルをつくると地面が盛り上がる。それでモグラの仕業とわかった。

 モグラを主人公にしたアニメ映画風にいうと――。畑のうねの下にトンネルがある。モグラが1匹往来している。時折、トンネルの天井から土がこぼれる。ミミズがどさっと落ちてくることもある。モグラはそれを待っていた。すかさずミミズに駆け寄り、あっというまに平らげる。ひげのようなものも垂れ下がっている。モグラは、それには興味がない――。

 ひげのようなものは草の根だったり、野菜の根だったりする。キャベツの葉がげんなりしていたのは、このトンネルのせいだ。直下にトンネルができて、根が宙づりになった。すると、養分も水分も吸収できない。かくして、モグラは菜園の敵になる。
 
 どこにモグラのトンネルができるかはわからない。対症療法的に盛り上がった地面を足で踏み固め(トンネルを崩し)、乾いて悲鳴も上げられなくなった野菜にすぐ水を補給する。
 
 家庭菜園が復活すればするほど、モグラとの闘いも増える。ただし、ほんとうにいい肥料を投入すれば、ミミズがいなくても土はふかふかしている、モグラのトンネルもできない――昔、そんなことを言われたような記憶がある。モグラのトンネルができるのは、もろもろが未熟なためか。

2016年4月25日月曜日

マイ・シロヤシオ

 例年なら、夏井川渓谷では4月にアカヤシオ(方言・イワツツジ)の花が咲き、新緑に包まれる5月初旬、急斜面にシロヤシオ(ゴヨウツツジ=方言・マツハダドウダン)の花が咲く。アカヤシオもシロヤシオも、主として県道小野四倉線の対岸に分布する。
 シロヤシオは毎年咲くとは限らない。咲いても数が少ない年がある。去年(2015年)はほとんど花が見られなかった。
 
 今年のアカヤシオは、4月でも早いうちに開花した。いつもは木の芽が吹く前に咲くが、木の芽も同時に吹いた。すると、シロヤシオも咲けば早いだろう、去年は咲かなかったから今年は咲くはずだ、咲いているかもしれないぞ――。きのう(4月24日)、そんなことを思いながら渓谷の隠居へ着くと、シロヤシオの点描画が展開していた。例年より1週間余り早い。
 
 シロヤシオと開花時を同じくするツツジにトウゴクミツバツツジ(紅紫色)、ヤマツツジ(朱色)がある。白い棒アイスのようなウワミズザクラも前後して咲く。ともに咲きだしていた。
 
「マイ・シロヤシオ」がある。行楽客には木々の緑に遮られて見えないだけだが、むろん県道から気づく人はいる。全体を見るにはガードレールをまたぎ、谷へと下って行かないといけない。足場はよくない。

 岸辺の岩盤に根を張り、天に向かって伸びた幹から枝葉が川になだれるように垂れている=写真。そう、花のかたまりは白いドレスのようだ。

 このシロヤシオの木に気づいたのは震災後だった。県道をぶらぶら歩いているうちに、木の間越しに白のかたまりが見えた。一本の木の花の数としては溪谷随一ではないか。今年も笹竹の茎につかまりながら谷へ下り、ひとり、対岸のシロヤシオの花を見た。心が洗われた。

2016年4月24日日曜日

ワンカップが道に

 空き缶・びんのポイ捨てが後を絶たない。人目につきやすい街なかはともかく、農山村部ではあちこちで見られる。
 夏井川渓谷のわが隠居の前、JR磐越東線と並走する県道小野四倉線もポイ捨てゾーンらしい。日本酒のワンカップがあった。庭にまで転がってきたものもある=写真。このごろはさいわい見かけない。

 ワンカップの空きびんをどう解釈したらいいのだろう。隠居の前あたりに来て、ワンカップの中身が空になる。で、車の窓を開けてポイ捨てをする。“犯人”は助手席の人間で、運転席の人間ではない(と思いたい)。運転席の人間なら「酒飲み運転」になる。別の日にも同じ空きびんがあったということは、同じ道を毎日往復し、同じ時間にワンカップを買い、飲むのが習慣になっているのだ。

 渓谷を縫う県道のガードレールに新たなへこみができていることがある。この20年余、通い続けているからこそわかる小さな異変だ。地元の人間は「酒酔い運転だっぺ」という。ガードレールを飛び越えて谷底へ転落する車もかつてはあったそうだ。

 先日は渓谷に入る手前、夏井川と並行する県道のガードレールが一部はずれて、ロープが張られていた。昼間、車がガードレールを飛び越えて川に落ちた。道路から水面まで5メートルはあるだろうか。ニュースにはならなかったから、けがをしても軽傷ですんだらしい。このケースはおそらくスピードの出しすぎが原因。
 
 ある集まりでワンカップの話をしたら、「ウチの方でも……」と平地の郊外の人間が応じた。除染作業などで往来する車が急増した。それに比例してアルコール類を含む空き缶・びんのポイ捨てが増えた。なかには運転手が……。いやいや、それはないだろうと思いつつ、路上の危険度は前より上がっている――そんな懸念もふくらむのだった。

2016年4月23日土曜日

緊急地震速報の音

 1週間ほど前は、NHKテレビによく「緊急地震速報」が現れた=写真。あのチャイム音をどう表記したらいいだろう。「チャラララン、チャラララン」? 「キャラララン、キャラララン」? 久しぶりに聞く“非常通報音”に、頭のなかでキジの鳴き声が重なった。
 というのも――。結婚したばかりのころ、戸建て・庭付きの老朽市営住宅に住んだ。隣家でキジを飼っていた。突然、「ケンケン」と鳴く。すると、すぐ地震がくる。その繰り返しから、突然、キジが鳴けば「地震!」と身構えるようになった。

 地震には先行する小さな揺れ(P波)と、あとから来る大きな揺れ(S波)がある。緊急地震速報はP波をとらえたものだという。キジが鳴くのもP波を感知して、だろう。「チャラララン、チャラララン(キャラララン、キャラララン)」とキジの突然の「ケン、ケン」は、私のなかでは同工異曲だ。

 NHKによる緊急地震速報の解説、一般のネット情報で知ったが、あの独特のチャイム音は伊福部達(とおる)東京大学名誉教授が作曲した。音響学と電子工学、医療工学の境界分野で活躍してきた人で、「身の回りですでに使われている効果音やアラーム音などに似ておらず、聴覚に障がいのある人や高齢者などにも聞こえやすい音」を選んだ。

 伊福部ときたら、団塊の世代にはゴジラ音楽の伊福部昭だ。チャイム音作曲者の叔父だという。ゴジラの映画は昭和29(1954)年に制作された。阿武隈の山の町で見たのは、その2~3年あとだったような気がする。「ジャジャジャン、ジャジャジャン、ジャジャジャジャジャジャジャン」がおどろおどろしかった。不安と恐怖をかきたてられながらも、引きつけられた。

「チヤラララン、チャラララン(キャラララン、キャラララン)」もまた「伊福部サウンド」ではないか――ネットにはそれを裏付ける情報がころがっていた。叔父さんの作曲した交響曲「シンフォニア・タプカーラ」の第3楽章冒頭のメロディーを援用した、ということだった。こちらもゴジラの「ジャジャジャン」を連想させるような音だ。

 九州の被災者には申し訳ないが、緊急地震速報がキジを、ゴジラを呼びだした。ついでながら、ゴジラの出自はアメリカのビキニ環礁での核実験だった。

2016年4月22日金曜日

「信毎」を読む

 共同通信が3月、東日本大震災5年特集「新たな街づくり――心の痛み 分かち合う」を地方紙に配信した。カミサンが取材を受けたので、関係した記者(いわき在住)が先日、掲載紙を持ってきた。3月12日付の信濃毎日新聞で、1ページを特集に充てている=写真。
 原発避難者といわき市民の「共生」がテーマだ。記事の前文に「ある日突然、原発事故でふるさとを追われた人が隣人になった。生活習慣の違い、賠償金をめぐるやっかみ。避難で受けた心の痛みを分かち合い、共生の街をつくれるか」とある。

「あつれきから共生へ――福島県いわき市での取材を基に作製」したイラストが載る。避難者の意識調査結果や避難者数などの統計、今まで言われてきた「あつれき」のほか、次のような「共生」への取り組みが紹介されていた。

 もの作り=NPOを介した平七夕祭りへの参加など。対話=未来会議inいわきの開催。足を運ぶ=避難者がいわき市民を避難区域に案内。お祭り=いわきおどりに避難者がチームをつくって参加――。半分くらいは、シャプラニール=市民による海外協力の会が交流スペース「ぶらっと」で企画・実行してきたことでもある。

 記者のいわきルポも載る。カミサンの部分。「米店の一角を避難者と市民の交流スペースにしてきた。『うわべだけ仲良くしてもだめ。ぶつかったっていいじゃない』。自身、避難者の中には、親しくできる人もいれば合わない人もいる。『内面を見せ合って付き合うしかない』」

 少し補足する。「市民の交流スペース」は、シャプラニールも加わったNPO法人「3・11を支援するいわき連絡協議会」が設置を進めた、まちの交流サロン「まざり~な」のことだ。プロジェクトは終了したが、米店での活動は今も続いている(震災前から奥さんたちの茶飲み場だった)。

「ぶつかったっていいじゃない」は、避難者・いわき市民の人間性にかかわること。「人を思いやる」という一点だけで、人間的に尊敬できる避難者(市民)もいれば、できない市民(避難者)もいる。付き合っていればわかる。一緒くたにしない、個別・具体で見ていく、ということだ。

 と、ここまで書いてきて、この特集は被災地以外の人々に向けて書かれているものだと気づく。地元福島の県紙は自前で特集記事が組める。共同の特集記事を使う必要はない。そう判断したからこそ、掲載を控えたのだろう。おかげで、初めて「信毎」を読むことができた。

2016年4月21日木曜日

モグラ塚

 平地の“路線商店街”に住んでいる。旧平市の近郊農村で、戦後、ベッドタウンとして開発が進められた。畑は残っているが、家並みにさえぎられて見えない。3・11後は、さらに畑が減った。
 それで、畑や休耕地をすみかにしていたモグラが土中のトンネルを伝って逃げ込んできたのだろうか。隣家との間に奥の家も利用する通路がある。通りから通路へ折れるあたり、側溝ふたのわきにモグラ塚ができた。3軒の家の車が出入りするから、塚はすぐつぶれた。移り住んで三十数年、初めてのできごとだ。

 後日、そこから奥へ直線で7メートルほど、さらに直角に曲がって5メートルほどのわが家の庭に、モグラ塚ができた=写真。

 夏井川渓谷の隠居では、モグラは庭の同居人といってよい。5年半前にこんなことがあった(ブログの内容をざっとなぞる)。

 庭のテーブルで休んでいたら、足元を動く黒いかたまりがいた。頭胴長およそ7センチ。頭をもさもさしながら、コケのあいだにできたジグザグ道を行ったり来たりしている。テーブルの脚の底にもぐりこんだと思ったら、とがった肉色の鼻をひくひくさせては、出たり入ったりしている。

 モグラが地表すれすれのところにトンネルをつくると、土が割れて盛り上がる。野菜の根が宙に浮き、枯れることがある。モグラは畑の邪魔者だ。が、地上でうごめく姿はおどおど、びくびくしていて、絶えずベンチの脚の底から出たり入ったりしている。カメラのシャッター音にも驚いて脚の底に引っこむ。

 モグラは、そんなに地下深くはトンネルを掘らないはずだ。ミミズや幼虫を主なえさにしているからには、地表に近いところに“回廊”がある。その回廊はしかし、かなり広範囲に及ぶらしい。通路も庭も土中にはトンネル網が広がっている?
 
 3・11後の印象だが、カラスが路線商店街に増えた。イノシシは、すでに住宅のある丘陵地で昼間も目撃されるようになった。それに加えてモグラ塚だ。イノシシについては理由がはっきりしている。猟をする人が減った。モグラについては――やはり、畑に囲まれて家があったのが、家に囲まれて畑があるように変わった、そんな自然環境の変化が影響しているのか。

2016年4月20日水曜日

水路遊び

 夏井川渓谷の隠居で小3と小1の孫が“水路遊び”をした。山砂の庭に水路をつくり、風呂場から伸ばしたホースで水を流すと“峡谷”ができた。
“急流”にガンダムのプラモデルを立て、“崖”の上には乾電池でつくった戦車を置く=写真。本人は刀を差している。「真田丸」に立てこもり、ガンダムの世界にワープして、なにものかと戦っている。頭のなかでは、血が沸き肉が躍っているのだろう。

 新たに“支流”をつくり、石を置いたり取ったりして流れを変える。「ダム3(第3ダム?)、決壊!」と叫びながら石をはずすと、“支流”にどっと水が流れ込む。ママゴトには違いないが、実際の水害をシミュレートしているようなところもある。

 長く消防行政に携わっていた知人がたまたま遊びに来ていた。孫の“水路遊び”を見ながら、「学問の始まりです」という。川・流れ・堤防・ダム・洪水(水害)……。遊びのなかから、土木や防災、歴史、自然などへの意識が芽生える、ということか。

 遠いとおい昔、まだ小学校に上がるか上がらないかのころ――。阿武隈の山中に母方の祖母の家があった。かやぶき屋根の一軒家で、明かりは石油ランプ・あんどん・ちょうちん。向かい山からキツネの鳴き声が聞こえてくる夜が怖かった。

 家の東側に池があった。なだらかな裏の沢から木の樋で生活用水を引いていた。樋の先に桶を置いて、たまると屋内の水瓶に運んだ。池で食器を洗い、風呂水をくんだ。池の南東側には小さな雑木林。そのなかに池からの排水路があった。小流れだ。

 鼻たれ小僧だったから興味もなかったが(むろん記憶もないが)、林床にはニリンソウが、キクザキイチゲが咲いていたかもしれない。そんな小流れで笹舟をつくって流した。つくり方は忘れたが、そのへんにある草木を利用してミニ水車をつくり、小流れにかけて回した記憶もある。

 学問をするところまではいかなかったが、今も雑木林を巡り、土いじり(家庭菜園)をし、小流れからクレソンを摘んでいるのは、そういう箱庭的な遊びの楽しさが忘れられないからかもしれない。“水路遊び”は、その意味では日曜日の過ごし方を決める原点になった。

それが、私にとっての「黄金の記憶」。孫たちにとっては夏井川渓谷の「山のおうち」がそうなるのだろうか。

2016年4月19日火曜日

隠居のシダレザクラ

 夏井川渓谷の隠居の庭にあるシダレザクラが満開になった=写真。曇天の日曜日(4月17日)。風が激しい。時折、雨粒が突き刺すように飛んでくる。
「平成28年熊本地震」から3日目。大地の揺れは収束する気配がない。週末に会議が続いた。雨模様のうえに用もある。なんとなく気が重いので隠居へ行くのはよそうかと思ったが……。「せっかく咲いたシダレザクラを見てやらないと」とカミサンがいう。用事を後回しにして出かけた。

 花にも順序がある。街のソメイヨシノと渓谷のアカヤシオ(イワツツジ)は開花時期が同じだ。隠居の庭のシダレザクラは、対岸のアカヤシオより1週間遅い。
 
 十数年前に植えた2本の苗木が平屋の家と同じくらいの高さに生長した。花が全開すると、ピンクのシャワーができる。去年は、噴水状の花の下にゴザを敷いて、孫たちと“食事会”をした。「花見をしましょう、お花の下で食べましょう」と上の孫が言うので、カミサンが喜んで準備した。
 
 シダレザクラの花に引かれて庭に入り込む行楽客がいる。あいさつされれば「どうぞ、どうぞ」となるが、黙ったままだといちおう「ここは民家です」と告げる。
 
 茨城県高萩市からやって来た3人連れは、田村郡小野町の「夏井の千本桜」がお目当てだった。花のシャワーのなかでカミサンといろいろおしゃべりをしていた。庭のあちこちにカエデが芽を出す。実生の苗をあげた、という。一緒に眺めれば、花はより美しい。いや、花が喜ぶ。

2016年4月18日月曜日

かけがえのない日常

 あれから5年ちょっと。胸底に澱(おり)のように沈んでいる“見えないもの”への不安を除けば、震災前の日常が戻ってきたようにはみえる。が、その日常もまた、ほんとうは危険と隣り合わせなのだ。たまたま危険と危険の間をすり抜けて生き延びてきただけ――という見方もできる。3・11を経験したからこその「日常」観だが。
 おととい(4月15日)昼過ぎ、歩いて1分くらいの先で交通事故が起きた。歩行者信号機のある交差点で脇道から出てきたと思われる車がぶつかって、逆「く」の字に道をふさいでいた。物損ですんだらしい。その夜更け、そこから40メートルほどわが家寄りのところでボヤ騒ぎが起きた。消防車がやって来た=写真。「なにごと?」と近所の人たちが歩道にあふれた。

 おおむね人の暮らしは、朝がきたら起きる――日中は仕事に就く(子どもは学校で勉強する)――夜には眠る、その繰り返しだろう。特別なことはなにもない。それこそが日常というものだ。

 当たり前の日常にも波乱はある。大事に至らずに、小事でとどまっている分には「こんなこともあった」ですむ。東日本大震災で当たり前の暮らしが「かけがえのないもの」だったことを思い知らされた。その日常が事故や事件で一瞬のうちに暗転する。
 
「平成28年熊本地震」。熊本~大分の連続地震をテレビで見るにつけ、熊本地震は想定を越えた広域災害になりつつあるのではないか、という思いが募る。東北地方太平洋沖地震の場合、災害名は「東日本大震災」だった。それにならって、熊本地震は「九州北部大震災」と呼びたくなるほどの連続性をもっている。東へ、南西へ、中央構造線に沿って震源が拡大する気配だ。

 南西には鹿児島県の川内(せんだい)原発がある、東の愛媛県には伊方原発がある。いわきには東電1Fの建屋爆発・炉心溶融を経験し、いまだに帰還のかなわない人たちが多く住んでいる。そのいわきで人に会うと、熊本地震に関連して、「原発は大丈夫か」という話になる。「かけがえのない日常」を生きる庶民の間に、また“見えないもの”への不安が広がる。

2016年4月17日日曜日

あのときを思い出す

 最大震度7になった4月14日夜の地震(マグニチュード6.5)は「前震」――きのう(4月16日)未明、マグニチュード7.3の大地震が発生したことから、気象庁はそれを「本震」、14日の地震を「前震」と修正した。
 それだけでも驚きだが、「前震」以降、余震がひっきりなしに発生している。その間に「本震」(最大震度6強)が起きた。前震・本震・余震。大きな地震が入り乱れて、ひっきりなしに発生している、その時間の長さにも驚く。

 おととい、きのうと、家にいるときはテレビをつけっぱなしにしていた=写真。ときどき、「緊急地震速報」が画面に現れる。取材中に発生した余震の映像が流される。ヘルメットをかぶったキャスターの驚きの表情、緊張した声でレポートする若い記者……。
 
 気象庁は地震名を「平成28年熊本地震」と名付けた。127年前の明治22(1889)年7月28日、「熊本地震」がおきた。熊本城が大破している。それを意識した命名だろうか。

「あのとき」のことをずっと思い出していた。いや、記憶が勝手に押し寄せてきた。「東北地方太平洋沖地震」(政府が決めた災害名は「東日本大震災」)。そして、1カ月後の巨大余震。建物倒壊、山津波(地すべり)、道路破壊、橋の落下――熊本地方に、3・11の本震と4・11(および4・12)の余震がいっぺんにきたような感じだ。

 この2日間、人に会えば九州の、熊本・大分の大地震の話になる。「あのときを思い出した」。食べ物がない、ガソリンがない。苦しみを思い出して苦しみ、その苦しみをテレビの向こうがわの人たちが苦しんでいる、それを思ってまた胸が痛む。大地と建物が傷んでいるところへ、今度は大雨の予報だ。土砂災害が懸念される。

 にしても、この余震の大きさ・多さはなんだろう。気象庁は断層帯の3カ所で破壊が起きているのではないか、とみている。今まで経験したことのない状況が続いているらしい。

(と、ここまで書いたところで消防車がサイレンを鳴らして家の前を通った。ン? サイレンがやんだぞ。2階の物干し場から見ると、すぐ近所で赤色灯が回っている。火も煙も上がっていない。外付け風呂がまのトラブルでお湯がわかず、周辺にガス臭が広がった、そのうち風呂がまから煙が上がった、ということらしかった。深夜11時前、消防車が次々にサイレンを鳴らして到着した)

2016年4月16日土曜日

いわき絵のぼり

 端午(たんご)の節句を前に、カミサンが床の間に「鍾馗(しょうき)」の絵のぼりを飾った=写真。尊敬するドクターが亡くなり、奥さんが東京へ移るというので、ダンシャリのたびにリユース・リサイクル品を引き取りに行った。なかに「いわき絵のぼり」があった。
 いわき市教育委員会は昭和55(1980)年、「いわき絵のぼり製作技術」を無形文化財に指定した。技術を保持する高橋晃平、宇佐美シズイさんが認定者になった。平成元(1989)年には石川幸男さんが認定者に加わった。今は3人とも彼岸に渡ったが、それぞれ後継者が絵のぼりの製作を続けている。

『いわき市の文化財』(市教委発行)によると、いわき地方では男子の誕生を祝って、端午の節句に、子どもの母親の実家から絵のぼり(「こばた」ともいう)を贈る風習があった。主に染物屋が製作技術を伝承してきた。戦後はその技術者が急速に減る。

 絵柄は義経・川中島・弁慶・鍾馗などの武者絵や鯉(こい)の滝のぼりなどで、さらし木綿に描かれる。染物店によって作風が微妙に違うようだ。『いわき市の文化財』には、高橋・色彩の妙、宇佐美・女性的刷毛(はけ)づかい、石川・着色が得意、とある。
 
 いわき市暮らしの伝承郷できょう(4月16日)、「端午の節句展」が始まる(5月15日まで)。市民から寄贈された絵のぼりや鯉のぼり、内飾りなどを展示する。ポスターに使われた鍾馗は、今から90年前の大正15(1926)年に製作されたものらしい。それぞれの店で親から子へと直伝されてきたから、作風は極端には変わらない。だれの作品だろう。

 床の間に飾った鍾馗には、朱の角印風に製作者の名が入っている。カミサンが、「昇平」とあるから高橋工房の絵のぼりだろう、といった。そうか――。晩酌をして一夜明けたら、それを忘れた。

 ネットで「いわき絵のぼり」をチェックしていたら、同工房の屋外用のぼりの「鍾馗」と構図・目の描き方がそっくりだ。翌晩、「高橋工房でつくったものだな、これは」というと、「そう言ったでしょ、ゆうべ。すぐ忘れるんだから」と、鍾馗のようになった。

 そうだ、そうだった――と、絵のぼりを初めてじっくり見る。ん? カミサンは「昇平」と言ったが、先代の「晃平」ではないか。どうみても「晃」で「昇」とは読めない。こちらが鍾馗になろうとしたら、すでに眠りに就いていた。(そのとき、NHKが「平成28年熊本地震」の速報から特番に切り替わった)

2016年4月15日金曜日

震度7!

 ゆうべ(4月14日)、NHKのニュースウオッチ9を見ていたら、突然、チャイム音とともに画面に「緊急地震速報(気象庁)」が現れた=写真。左に地図、右に「熊本県で地震 強い揺れに警戒」とあって、その下に九州7県と海をはさんで隣接する山口、愛媛の県名が表示された。背景には熊本市の夜景が映し出され、間もなく明かりが上下・左右に激しく波打った。
 マグニチュードは6.4(あとで6.5に修正)。最大震度は、なんと7! 7の揺れを想像できない。東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)で体験した震度6弱を手がかりにするしかない。当時の様子を拙ブログでみる。
                *
 3月11日午後2時46分ごろ、大地が揺れた。揺れて、波うって、今にも大地に亀裂が入るのではないか、と思われるほどの大地震になった。

 茶の間で横になって本を読んでいた。だんだん揺れが大きくなった。<ただごとではない>。庭に飛び出して車の屋根に手を置いた。車がぼんぼんとびはね、前後する。二本の足では立っていられない。1分、いやそれ以上、揺れていたのは何分だろう。揺れが収まった時点で家に入る。本棚が倒れ、食器が落ち、テレビが倒れている。2階も足の踏み場がない。

 ここは、いわき市平中神谷地内。カメラを手に家の前の道路に出る。ちょうど小学生の下校時間だ。低学年の女の子が隣の駐車場にぺたりと座り込んで泣いている。石のかけらが頭にぶつかったという男の子がいた。見ると、歩道そば、民家の石塀が崩れて歩道をふさいでいた。このかけらが頭に当たったのだという。

 となりは元コンビニ。駐車場が広い。子どもたちはそこにひとかたまりになって、大人になだめられていた。ざっと見たかぎりでは、子どもたちは無事だった。近隣住民にもけが人などはいなかったようだ。地震からおよそ1時間たつが、とぎれることなく余震が続いている。津波が心配だ。
                 *
 そのあと、沿岸部に大津波が押し寄せた。原発が事故を起こした。最大震度は宮城県栗原市で7だった。それ以来の震度7である。

 気象庁の“震度解説”によると、6弱で耐震性の低い木造建物は傾いたり倒れたりするものがある。その2段階上の7では、傾いたり倒れたりする木造建物がさらに多くなる。耐震性の高い木造建物でもまれに傾く。耐震性の低い鉄筋コンクリート造り建物では倒れるものが多くなる。(ネットには、7の建物損壊比率は6強の数倍にはね上がる、とあった。6弱の比ではない)
 
 建物倒・損壊、道路陥没・隆起、水道・ガス・電気のライフライン寸断、土砂崩れ……。熊本の地震では圧死の増加が心配される。夜が明けると、地震のつめ跡がさらにはっきりする。塀も墓石も倒れていることだろう。

2016年4月14日木曜日

「巨大余震」余話

 おととい(4月12日)の拙ブログ「巨大余震があった」に、フェイスブックでいくつかコメントをいただいた。
                 *
「やっと片付けが終わってぼちぼち仕事を再開しようかと思った矢先の巨大余震でした。『心が折れる』という言葉の意味を初めて理解しました」(いわき市常磐)「3・11では家はほぼ大丈夫でしたが、4・11で家が北西にずれ、壁の隙間から朝の光が入るようになりました!」(いわき市山田町)

「4月11日、寒い雪模様の3月と同じような嫌~な天気でした。そんな話をしていたら、ドスンと。雨でしたよねぇ。一時停電になった家についてからボタボタ天井から降ってくる雨と格闘しました。(略)3月は何ともなくて4月に特にやられたという感じではありませんが、3月から既に屋根瓦は落ち壁は剝れ……でした」(いわき市泉町)

「3・11で家が割れるようにひびが入り、4・11でがばっと開きました」(場所不明)
                 *
 4・11(4・12も)は内陸の直下型地震だった。いわき市南部、田人町の井戸沢断層付近と東隣の湯ノ岳断層が動いた。それから5年のコメントに触発されて思い出したことがある。

まず、いわき市内郷――。スペインのグラナダに住む知人の実家の庭で地割れが起きた。母屋の基礎がおかしくなり、蔵にもひびが入った。

 夏井川渓谷――。幹線道路の県道小野四倉線は3・11の落石の影響で通行止めのまま。4月13日、迂回路(国道399号~母成林道~江田)を利用して様子を見に行くと、隠居はブレーカが下りていた。独りで満開のアカヤシオの花見をする。

 1年半後の2012年9月29日、田人町へ――。いわき地域学會主催で被災地巡検が行われた。最大2メートルに及ぶ道路の段差や田んぼを貫く亀裂は、復旧工事などの結果、それとはわからなくなっていた。が、3人の死者を出した御斉所街道の土砂崩れ現場=写真=では、崩落の規模の大きさに息をのんだ。(以上、4・11関連の拙ブログによる「巨大余震」余話)
 
 沿岸部を襲った大津波に比べれば、4・11の報道量は極端に少ない。ピンポイントの地震というとらえ方なのだろう。いわきの内陸部に住む私たちは、3・11の本震の怖さを知った分、4・11(そして4・12)の強烈な余震におののいた。内陸部の「B級被災者」にはむしろ、この巨大余震の「傷」の方が大きかった。それを、市外の人にわかってもらえるとありがたい。

2016年4月13日水曜日

渓谷の春の土の味

 日曜日(4月10日)の夏井川渓谷。山中の小社・春日様を参拝して、ふもとの家の裏の竹林まで下って来たときだ。参道わきに穴ができて、そばに小さなタケノコが転がっていた=写真。「イノシシだよ、掘り出したのはいいが、えぐいので食うのをやめたんだ」。“犯行”に及んだのは未明のことだという。
 イノシシはやっぱりグルメだな――半分あきれながら、「直会(なおらい)」のヤドへ着くと、メーンの刺し身などのほかに、ヤドの奥さんがつくったゼンマイとタケノコの煮物が出た。参会者の一人は葉ワサビの漬物?をふるまった。

 昼前、直会から隠居へ戻る。孫たちがしばらく遊び回り、父親と街へ帰ったあと、隣の集落に住む友人が庭の畑と沢の作物を届けてくれた。白菜の菜の花、ルッコラ、葉ワサビ、クレソン、そして大きく育ったフキ。夫君は平・松ケ岡公園へ花見に出かけたそうだ。午前中は愛犬と裏山を巡った。午後も遅くなって、私ら夫婦が帰宅する前にとやって来た。

 白菜の菜の花と葉ワサビはその晩、おひたしにした。やわらかかった。ルッコラとクレソンはサラダに添えた。

 白菜の菜の花は甘かった。昔、夫君がこんなことを言っていた。白菜の一部は春、菜の花を食べるためにわざわざ種をまく時期を遅らせる――。白菜の菜の花は、東京などの料亭では春の高級食材だ。それが、山里の贈与の文化のおかげで簡単に手に入る。

 持参した友人も言っていたが、フキの生長ぶりには驚いた。4月上旬だというのに、もう40センチ前後になっている。一晩水にさらして、朝はみそ汁に加え、夜は煮物にした。こちらもやわらかかった。ほのかな苦みが早い春の到来を告げていた。

 あれから5年。おおむねデータがそろってきた。いわき地方の野菜は問題がない。家庭菜園ながら土いじりを再開する気になったのもそのためだ。贈与の文化も復活しつつある。渓谷の春の彩りに目が洗われ、土の味に舌が躍った。

 集落の2軒の家からもおこわと赤飯をいただいた。こちらは花見に寄った客人らと会食しているうちにあらかたなくなった。にしても――と、こういうときいつも思うのは、野生のキノコのことだ。狩りに出かけ、採って食べる機会を奪われて久しい。味を忘れてしまいそうだ。

2016年4月12日火曜日

巨大余震があった

 いわきの、特に沿岸部の人間には5年前の3・11が地獄だった。が、内陸部の人間には、1カ月後の4・11(翌12日も含めて震度6弱の、巨大余震2連発)が恐ろしかった。きのう(4月11日)、3・11から5年1カ月と、4・11から5年の日が重なった。4・11、4・12は、揺れが直下から、いきなりきた。
 当時の状況を知ってもらうために、2011年4月12日の拙ブログを再掲する。4月9日に勿来地区災害ボランティアセンターがオープンした。その翌々日だった。
                 ☆
 照島はいわき市泉町下川字大畑地内の海岸から約250メートル沖合にある。ウ(鵜)の生息地として国の天然記念物に指定されている。知人からケータイで撮った照島のかたちを見せられて、うめいた。「ソフト帽(台形)」が「とんがり帽子(三角形)」に変わっていた。

「3・11」から1カ月。4月11日朝、海岸線に沿って勿来地区災害ボランティアセンターへ出かけた。国道6号常磐バイパスならチョク(直)で行けるが、海岸を通って照島をこの目で確かめたかったのだ。

 ところどころ波打ち、亀裂が入り、段差の多い「海岸道路」を南下する。豊間を、江名を、永崎を、小名浜を過ぎる。半月前に通ったときと比べて、道路沿いの光景はそう変わっていない。そんな印象を受けた。が、よく見ると道端にがれきが集約されつつある。少しずつ復旧への歩みは進んでいるのだ。

 小名浜を過ぎて高台の大畑に至り、いわきサンマリーナへと下る。閉鎖中のマリーナの入り口から、ちょっと沖にある照島を見て息をのんだ。「とんがり帽子」どころではない。海面から突き出た「竜の爪」のようだ。知人がケータイで撮った場所とは違うのだろう。高台に戻り、ゴルフ場のあるホテルへと移動すると、「とんがり帽子」が見えてきた。

「竜の爪」はしかし、「3・11」で一気にできたのではあるまい。すでに少しずつ崩落が進んでいた。『いわき市の文化財』(いわき市教育委員会発行)にも、近年崖が崩れて小さくなっていく傾向がある、とある。そこへ「3・11」が起きた。

 方角からいえば、「とんがり帽子」は北から、「竜の爪」は北東から照島を見たときのかたちだ。『いわき市の文化財』には断崖の頂上にウがびっしり羽を休め、そこから逆三角状に生えたトベラなどの植物が見える。添付された写真は北から見た照島。知人のケータイ写真もほぼ同じところから撮っている。

「とんがり帽子」にも、「竜の爪」にも緑はない。丸裸だ。初めて外気にさらされた赤ちゃんのように、岩肌は赤みがかっている。

「とんがり帽子」には、ウは12羽しかいなかった。「竜の爪」を見ると、10羽。もっとも、照島はウの「生息地」というより「越冬地」だ。多くは春が来て北へ帰ったのだろう。――と、これは11日朝の感慨。午後2時46分には、家で1分間の黙祷をした。

 その2時間半後。夕方5時16分にまた、でかいのがきた。震度6弱。「3・11」並みだ。外へ飛び出した。しかも、今度は揺れているうちに停電した=写真(雨で路面が濡れている、店は停電で暗い)。折から雷雨が暴れていた。「地震・雷・火事・津波、そして原発」。バキッ、バキッ。少し先で火花を散らす落雷を初めて見た。本などが少し落下した。照島はさらに崩落したか。

 カミサンはすぐ、風呂に水を貯めた。正解だった。電気はおよそ1時間後に復旧したが、水はその前に再度止まった。いつまで神様は試練を与え続けるのだろう。
       ………………………………………………………
 それから2日後のブログの抄録。

「3・11」以来となる震度6弱の強い余震が、4月11日午後5時16分ごろと翌12日午後2時7分ごろ、いわき市を襲った。11日は即停電したものの、およそ1時間後に明かりが戻った。12日は大丈夫だった。

 11日、水道は浴槽に水を貯めることはできたが、間もなく断水した。あの日からちょうど1カ月で再び振り出しに戻った。12日、平市街に用があって出かけたら、水道局本庁舎で人がひっきりなしに水をくんでいた。不安がまた広がる。

 飲料水だけではない。余震では、いわき市田人(たびと)町石住地内で土砂崩れが発生し、道沿いの民家2棟がつぶれ、3人が死亡、3人がけがをした。命まで襲いにきた。(注・もう1人、車で通行中の中通りの青年が亡くなった)

 現場は、鮫川渓谷を走る「御斉所街道」(県道いわき石川線)沿いの石住小中学校近く。V字谷だから民家の裏山は険しい。

 ニュース写真を見る限り、一帯は杉山だ。崩落地はたぶん伐採跡。その中央付近から土砂が崩れ落ちた。ジグザグに筋が入っているのは伐採時の作業道跡だろう。石住の前の川を渡ると戸草川溪谷。そこへ毎年春、通った。なじみの場所でもある。

(注・田人の断層の直近に家があった知人によると)「魔物」(地震)が自宅のすぐわきを通り抜け、そのまま一直線に土砂崩れのあった石住へと抜けていった。隣家は庭の真ん中を地震が駆け抜けたために家が弓なりに曲がってしまった。その写真がすごい。庭から家の下へと地面がえぐられていた。

 長期断水を覚悟した水道だが、思ったより早く復旧した。近所にある平六小の水道は健在(というより、非常用地下貯水槽が設けられている)で、13日早朝、ポリタンクに飲料水を入れて帰宅したら、家の水道も「細いけど出るようになった」とカミサン。断水はわずか一日半で済んだ。

 浴槽に貯めた水は、スイッチを入れて「あつめ」のボタンを押したら、沸いた。断水したら、水は張ってあっても風呂はたけない――と思い込んでいたが、たけるのだ。

 水甕にしなくてすんだので、2日ぶりに風呂に入る。が、のんびりはしていられない。浴槽につかっているときにドドドッときたら、たまらない。カラスの行水にとどめた。
                 ☆
 いわき市は来月(5月)、巨大余震を引き起こした田人の「井戸沢断層」(正断層)を天然記念物に指定すると、きのう、テレビが伝えていた(3月末に市文化財保護審議会が答申した)。

2016年4月11日月曜日

「子どもは天然記念物」

 夏井川渓谷の小集落・牛小川に地区の鎮守「春日様」がある。祭りは、アカヤシオ(方言名・岩つつじ)の花が満開になる日曜日を見計らって開かれる。今年はきのう(4月10日)だった=写真。
 この冬は温暖気味に推移した。冬だから寒い日もむろんあったが、滝が凍るほどではなかった。地温が思ったより下がらなかったのかもしれない。アカヤシオの花のほかに、かなりの落葉樹が芽吹き、地べたの野草たちが早々と開花した。前にもちょっと触れたが、三春・五春・十春、いや、おおげさにいうと「百(もも)の春」だ。一気に、至る所に春が来た。

 4月も10日に渓谷が「山笑う」状態になるのは珍しい。渓谷へ通い始めて20年余の私だけではない。地元の人たちも「春日様の日に花でこんなにきれいなのは初めてではないか」という。

 現役のころは土曜日、集落の一角にある隠居に泊まって春日様の祭りに備えた。で、早朝、お祝いのおこわを届けてくれる人がいた。今年も「腹を空かせているのではないかと思って、持って行ったら留守だった」。そう、このごろは一人でいろいろやらないといけないことが増えたので、現役のころより忙しい。当日朝にやって来て夕方には帰る、そんなあわただしい週末を送っている。

 集落の裏山、急斜面の中腹に春日様の小社がある。参拝に5分ほど遅れた。街で買い物をしたあと、渓谷へ向かったが、先行する2台の車がトロトロ運転だった。2台とも渓谷の花が目当てだった。

 隠居に着いてすぐ春日様へ向かう。何度も足を止めては息をととのえながら小社が見えるところまで行くと、柏手(かしわで=拍手)の音が聞こえた。それから少したってみんなに合流した。ではと、私のために再度「2礼2拍手1礼」をしてくれた。
 
 参拝後は恒例の「直会(なおらい)」が行われる。去年(2015年)からヤドが替わった。1軒の家の一角に交流スペースができた。納屋かなにかを改造したもので、土間にテーブルといす、一段高いコンクリートの床にはカラオケ装置がセットされている。
 
 そこで談笑していると、私の孫が2人、カミサンとやって来た。父親とアカヤシオの花を見に来た。それを告げるために直会の会場に姿を見せたのだ。

 私を除いて牛小川に住んでいるのは8世帯。子どもは、今春、中学生になった1人だけだ。「子どもは、牛小川では天然記念物だ」という。子どもの歓声が消えて久しい。希少だから価値がある? 下の孫は私の隣の席に座った。「天然記念物」だけに大歓迎された。

 孫は牛小川の隠居を「山のおうち」と言っている。「山のおうち」で過ごす以上は、牛小川の“半住民”には違いない。「山のおうち」にも、人間のつながりがある。自然がきれい、だけではない。そのことを、いつか教えてやろう。

2016年4月10日日曜日

ベジパッチ

 今年は栽培する野菜を増やしたい――。拙ブログで家庭菜園のことをよく取り上げる。「さぞかし庭の畑は広いことだろう、そう思って来たら、どこにあるのかわからなかった」。夏井川渓谷の隠居を訪ねた知人・友人が皮肉をいう。で、少しは楽しんでやっていたころの状態に近づけることにした。
 以前、ニンジンやキュウリ、サニーレタス、二十日大根などをそれぞれ畳1枚くらいのスペースで栽培した。「ベジパッチ」だ。最大10畳くらいのスペースと思っていたが、先日、目測したら20畳分くらいはあった。

 20年ほど前、庭に繁茂していたササタケを地下茎ごと切り、ツルハシで石を取り除いた。落ち葉の堆肥を入れて、少しは畑の土らしくなったとき、東日本大震災と原発事故がおきた。意地で三春ネギの栽培は続けたものの、気力が失せた。

およそ1年半後、菜園を含む庭の表土が5センチほど取り除かれ、山砂が投入された。最初の初夏に二十日大根とカブの種をまいた。畳1枚ほどの再スタートだった。ゆっくりゆっくり、小さくちいさくベジパッチを広げていく。とはいえ、歩みののろいカメさんよりさらにのろい歩みだ。三春ネギを除いてまだ3畳分くらいしかクワが入っていない。
 
 1週間前、ホームセンターでキャベツの苗10本を買った。半分はレッドキャベツだ。生長すれば青・赤・青・赤となるように、レッドと普通のキャベツを交互に植えた=写真。スペースは畳1枚ほど。収穫時にはぎゅうぎゅう詰めになっているかもしれない。以前は4畳分くらい栽培したことがある。“おためし栽培”のようなものだ。

 次は何を? キュウリの苗を買う。ナス苗も、トウガラシの苗も。ソラマメの苗も売っていたな。そのうち、こぼれ種のシソが生えてくる。今年の春~夏は三春ネギを含めて畳7枚くらいのベジパッチを復活させる――そう意気込んでいるのだが、どうなるか。

2016年4月9日土曜日

キョウイクとキョウヨウ

 年度替わりにはいつもそうだ。自分の、家の、その他関係する団体の用事が束になって押し寄せてくる。そういうときこそ楽しまないと。
 道端にタンポポが咲いている。花の根元の総苞(ほう)片を見る。反っていればセイヨウタンポポ、反っていなければニホンタンポポ。1週間前、夏井川渓谷の隠居へ行って小道を歩いていたら、タンポポが咲いていた。総苞片を見た。ニホンタンポポだった。セイヨウタンポポに負けずに生きている――。

 人間がつくったソメイヨシノは、葉が開く前に花が咲く。天然のヤマザクラは花と葉が一緒だ。ヤマザクラの花は地味だが深い落ち着きがある。ソメイヨシノははなやかだ。それにも引かれる。

 たとえば――。義弟を車に乗せて福島労災病院へ行く。内郷駅平線の坂道を下ると、真正面にいわき翠の杜高校のソメイヨシノの花が見える。その帰り、夏井川の右岸道路~六十枚橋~夏井川左岸堤防のルートを通ると、新川堤防(夏井川支流)の、いわき市北部浄化センター(夏井川左岸)=写真=のサクラに出合う。さらに上流には平・塩のサクラ並木がある。

 出かけるから、あるいは動くから出合える花たちだ。それはなにも特別なことではない。たまたま前日、こんな小咄(こばなし)を聞いた。「認知症にならないためにはキョウイクとキョウヨウが大事」。

 キョウイクは「今日、行くところがある」、キョウヨウは「今日、用がある」。ボケないためにはそういう日常を送ろうという話だった。なるほどキョウイク、キョウヨウか。60歳を過ぎたらボランティアを――に通じる。

2016年4月8日金曜日

イノシシは美食家

 小学校の入学式の日の午後、地区の民生委員と区長の合同懇親会が開かれる。ほかの地区でもやっているかどうかはわからない。が、わが地区では恒例の行事だ。午前中はともに入学式に臨んだ。
 夜、翌日の仕事の準備をしないといけないので、「おチャケ」ではなく「おチャ」ですませた。それでも食べたりしゃべったりしているうちに、頭が疲れて酒を飲んだような気になった。

 もともとは農村地帯だが、平地は急速に宅地化された。その奥、小高い丘の陰に小流域がある。このごろはその地域から決まってイノシシの話が出る。イノシシの最新情報、というよりイノシシの多様な姿に触れる。

「きのう(4月5日)、イノシシが(オリに)かかった」。これは小流域の上手の民生委員氏。下手の民生委員氏はあきれたように言う。「まずは土の中のタケノコがやられる。それからジャガイモ、次にカボチャ」。これから波状的にイノシシがやって来る。

 地上に現れないタケノコを掘り起こすのは、しかしイノシシには簡単なことだろう。ヤマイモも、トリュフ(セイヨウショウロ)も見逃さないのだから。

 トリュフは日本にはないと思われていたが、近年、福島県内でも海岸の松林からウスチャセイヨウショウロが、阿武隈の山中からトリュフの仲間が発見されている。阿武隈の場合は、イノシシが掘った穴に残っていた。とっくにイノシシは日本産トリュフを味わっていたのだ。

 フランスではトリュフ狩りに雌の豚を使う。トリュフの香りが、雄豚が交尾期に発する性フェロモンに似ているからだそうだ。それがイノシシに当てはまるかどうかはわからない。が、雌イノシシが雄イノシシの性フェロモンに似た土中の菌をかぎ当てた――それが日本産トリュフだった、ということが証明される日がきたりして。

 日曜日(4月3日)に夏井川渓谷の隠居へ行った。庭に穴ができていた=写真。埋めた生ごみをほじくり出して食べる生き物がいる。イノシシは、こんなおしとやかな掘り方はしない。金網も石も吻(ふん)で飛ばしてしまう。タヌキかハクビシンか。
 
 懇親会でイノシシの嗅覚と吻の強さが話題になったとき、イノシシとトリュフの話をしたかったのだが、我慢した。イノシシの話を楽しんでいるように思われるのも何なので。

2016年4月7日木曜日

サクラが満開の入学式

 満開のソメイヨシノが迎えるなか、新1年生が親に連れられて学校の門をくぐる=写真。きのう(4月6日)、近くの小学校で入学式が行われた。学区内にある行政区の一つを代表して来賓席に加わった。
 小学校の入学式と卒業式には出席することにしている。入学式に臨むのは4回目だ。3月まで幼稚園や保育園の年長組だった子どもたちが、緊張したおももちで入場する。いすに座る。しかし、まだどこかに幼児的なしぐさが残っている。時間がたつと、足をバタバタやったり、あくびをしたり――。

 私がそうだった。もう60年前のことだが、今も思い出すたびに、恥ずかしさと解せなさがないまぜになる。
 
 入学式が始まる前だった。決められた教室に入り、決められた席に座った。うれしくて足をバタバタやっていたら、前の席の女の子が手を挙げた。「先生、後ろの人がいすをけります」。初日から「宗像先生」にしかられた。恥ずかしかった。と同時に、なんでしかられるのかがわからなかった。――孫のような新1年生を見ているうちにそんなことを思い出した。
 
 新1年生が名前を呼ばれ、「ハイ」と返事をして起立し、すぐ着席する。私の下の孫も別の小学校で、こうして少し緊張しながら入学式に臨んでいるのだな――目の前の子どもたちに孫の姿が重なった。

 入学式は午前10時から1時間ほどで終わった。帰宅してしばらくすると、下の孫がランドセルを持って、親に連れられてやって来た。3年生に進級した兄も一緒だった。まずは庭に出て写真を撮る。
 
 カミサンは茶の間の本棚やタンスの上に孫の写真を飾っている。上の孫の入学写真は額に入っている。

 私にはその種の写真がほとんどない。というのも、小学2年生に進級したばかりの夜(4月17日)、町が大火事になった。いのち以外は灰になった。家はもちろん、赤ん坊の、幼児の、小学校入学時の写真も。だから、私はどんな赤ん坊だったのか、どんな5歳だったのか、手がかりになる写真がないので思い出せない。
 
 今の親たちはスマホで即座にわが子の写真・動画を撮ることができる。入学式でもスマホの放列ができた。子どもの写真は親の愛のあかし。いっぱい撮って、目に見えるところにいっぱい飾ってやって――と思わずにいられなかった。

2016年4月6日水曜日

ガン・カモ調査2016

 日本野鳥の会いわき支部の前事務局長氏から、支部報「かもめ」をいただいた。全国一斉に行われた1月中旬恒例のガン・カモ調査結果が別刷りで同封されている。
報告文を読んで「半分びっくり、半分やっぱり」だった。ガン・カモ類の総数は3808羽、去年(2015年)は6959羽、おととしは6386羽。去年より「大幅に減少した。これは山野の鳥と同様に温暖化の影響と思われる」。

「年末は沢山のカモ類が飛来したが、その後の気温上昇により周辺地域に分散したようだ。特にマガモ、クロガモの減少は著しいものとなった」。マガモは去年1561羽が776羽に、クロガモは2606羽が750羽に激減した。

 ガン・カモの象徴は何といっても大型水鳥のコハクチョウだ。いわきの主な越冬地は南部・鮫川の沼部、北部・夏井川の平窪(平)・三島(小川)・塩(平)の4カ所。野鳥の会のカウント数は沼部80羽、平窪167羽、三島79羽、塩171羽の計503羽。去年の668羽、おととしの704羽に比べると、たしかに少ない。

 今からおよそ30年前の昭和56年秋~59年秋の3年間、鮫川流域で仕事をした。冬にはよく沼部へ出かけてコハクチョウを観察した。今は生活圏の夏井川でたびたびコハクチョウに対面している=写真(小川町三島、2015年10月16日)。

今シーズンは秋の10月16日に平窪へ飛来し、3月第2週の末には塩から姿を消した。震災があった年、川を遡上した津波に驚いて飛び立ったが、それと同じくらいに早い北帰行だ。数も驚くほどではなかった。暖冬で植物の開花が早まり、滝も少ししか凍らなかった。冬鳥もそれほど南下せずにすんだのか。いいんだか、悪いんだか。

2016年4月5日火曜日

茶飲み話

 夏井川渓谷のわが隠居は小集落・牛小川の一角にある。隣組がそのまま行政区になっている。週末だけの“半住民”である私も、いちおう隣組の一員だ(私はマチとヤマの、二つの行政区・隣組に属している)。
 小集落には私をのぞいて8世帯しか住んでいない。子どもはKさんの孫1人。典型的な過疎、少子・高齢集落だ。「限界集落」と自嘲する人もいる。

 21年前、高齢の義父に代わって隠居の管理人になった。当時の区長さんのはからいで隣組に加わった。集落の人々と無縁の“別荘感覚”では自然を眺めるだけだが、隣組に入ったおかげで山里暮らしの面白さを知った。

 おととい(4月3日)、ふだんはマチにすむ元区長の息子のSさんが耕運機で田起こしをしていた。田植えが近い。一段落するころ、道端で立ち話をした。「お茶でも」と誘われた。

 玄関のたたきに直結している茶の間のへりに座ると、私が「おばちゃん」といっているSさんのおかあさんがお盆にお茶、おこうこ(たくわん)、裂きいか、お菓子を載せて持ってきた=写真。間もなくきなこもちが出た。もちを平らげるとすぐお代わりを持ってくる。「もっと食べな」となるものだから、それはカミサン用に持ち帰った。
 
 おばちゃんは「三春ネギ」栽培の師匠だ。渓谷へ通い始めたころ、区長さんの家で酒を飲んだ。イノシシに遭遇するのもいやなので、言われるままに泊まった。一夜明けて朝食をごちそうになった。みそ汁はネギとジャガイモだった。これは! 少年時代、田村郡(現田村市)常葉町の実家で食べていたみそ汁と同じ味ではないか。ネギが軟らかくて甘い。
 
 その一杯のみそ汁から、三春ネギの栽培とネギ調べが始まった。最初は、おばちゃんに苗をもらって栽培した。ネギ坊主から種を採った。が、2年続けて保存に失敗した。採種~保存~播種~定植~収穫~採種のサイクルが軌道に乗ったのは3年後だ。
 
 今度も三春ネギの話になった。私は田村地方にならって曲がりネギにするが、おばちゃんはまっすぐの一本ネギにする。「今は自分で食べる分しかつくってないの」とおばちゃん。Sさんは、これまで母親のつくった三春ネギを食べるだけだった。いずれ渓谷の実家の畑でネギなどを栽培するつもりだ。「そのときは教えてくださいよ」という。
 
 三春ネギの種は足かけ3年のサイクルのなかでしか採れない。採種・保存・栽培方法もおばちゃんから聞いて、私なりのやり方(種を冷蔵庫で保存、曲がりネギにする)に変えた。おばちゃんから私、私からSさんへと栽培がつながれば種はとぎれることなく残る。おばちゃんへの恩返しにもなる。「そのとき」がきたら、いわきの平地のネギとの違いや失敗体験などをすべて伝えるつもりだ。

2016年4月4日月曜日

アカヤシオ開花

 きのう(4月3日)は日中、半月ぶりに夏井川渓谷の隠居で過ごした。V字谷だが、集落のあるところだけ少し傾斜が緩やかになっている。とはいえ、谷底(標高110メートル前後)から一番高い山頂(612メートル)までの標高差はざっと500メートル。見上げる尾根は高い。「前山」だけでなく「奥山」もある。
 隠居の対岸、「前山」のアカヤシオ(イワツツジ)が開花した=写真。半月前の「春分の日」には、斜面には色がなかった。
 
 いわき市のソメイヨシノは、平地では三分咲き~満開だった。平地のソメイヨシノと渓谷のアカヤシオは、開花期がほぼ重なる。平地のソメイヨシノがそうなら、谷間のアカヤシオも――“花見ドライブ”を兼ねて渓谷へ駆け上がると、自然の点描画が待っていた。

 夏井川渓谷の道路沿いにもソメイヨシノがある。やっとつぼみが赤くなってきた。次の日曜日の10日は、地元の小社「春日様」のお祭りが開かれる。アカヤシオは前山だけでなく奥山まで、サクラも道端のソメイヨシノから前山のヤマザクラまで、満開になるに違いない。すでに日当たりのいいところではヤマザクラが咲いていた。
 
 アカヤシオは他に先駆けて花をつける。が、今シーズンは暖冬だった。アカヤシオの花のほかに、かなりの数の落葉樹が芽吹いていた。こんなことはあまりない。芽吹いた木々の薄茶・黄・黄緑・黄土色などが目に入ってくる。そちらにも意識がいくのか、アカヤシオのピンクに集中できない。
 
 いうならば、ヤマザクラ・フサザクラ・ソメイヨシノ・その他の庭木が花開いて、渓谷は三春、五春、いや十春に彩られる。ウグイスもさえずりを始めた。

2016年4月3日日曜日

ポプラ並木

 これはポプラ並木だろう=写真。いわきニュータウン内にある。この並木道を通るたびにスペインの詩人、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(1898~1936年)の短詩「水よ おまえはどこへいく?」を思い出す。17歳になるかならないかのころ、長谷川四郎訳で読んだ。その後、長谷川訳の『ロルカ詩集』(みすず書房)を手に入れた。ロルカは詩を読む喜びの原点になった。
 水よ おまえはどこへいく?
 わらいながらぼくは流れる
 海辺まで
 
 海よ おまえはどこへいく?
 
 流れをのぼって ぼくはさがす
 ぼくのやすむ泉を
 
 なにをおまえはしているのか ポプラよ
 
 いいたいことなどありません
 ぼくはふるえることができるだけ
 
 川と そして海から
 どこへぼくの望みを投げようか
 
 (あてもなくカラスが四羽
 高いポプラにきてとまった)

 海辺まで流れる「ぼく」(水)・泉へと流れをのぼる「ぼく」(海)・ふるえることができるだけの「ぼく」(ポプラ)がいる。わかりやすい擬人化だが、川と海から望みを投げるかどうか思案する「ぼく」はだれだろう。ポプラか、ロルカか。
 
 ポプラは写真で見るだけだった。川には物心づいたころから親しんでいた。この詩を読みながら、ふるさとの大滝根川を思い浮かべた。初めて水の流れを意識した。分水嶺を知り、流域を知り、川に沿って人が、物が行き来することを知った。
  
 ロルカはスペイン南部、アンダルシア地方のグラナダ近郊で生まれ育った。詩を地理学的に解釈する愚は承知のうえで、後年、同地方で海に注ぐ大河をネットで検索した。延長657キロのグアダルキビル川がある。グラナダの南を流れる支流のヘニル川もかなり長い。そうした長大な川と流域を想像しながらこの詩を読むようになった。
 
『ロルカ詩集』には長谷川訳のほか、小海永二訳がある。「水よ……」は、長谷川訳は少年のようにさっぱりした口調の「ぼく」、小海訳は少女のようにやわらかな口調の「わたし」だ。最初に「ぼく」に親しんだせいか、「わたし」にはなかなか入りこめない。

 たまたまネットでポプラを検索して驚いた。ポプラはラテン語のpopulus(ポプルス)からきている。語源を同じくすることばにポピュラー(ポップ、ポピュリズム)、ピープルがある。なんだろう、このつながりは――。
 
 にわかには信じられないので、検索を続けると、福岡大学情報数学研究室の柴田勝征教授のホームページにたどり着いた。教授は朝日の「天声人語」(2004年9月15日付)を読んで疑問をいだいた。
 
 看板コラムに、「ポプラ」と「民衆・人民」が語源を同じくする理由として「民衆がこの木の下で集会を開いたことから、この名前が起こった」とあった。ほんとうか? 教授が羅和・羅英辞典で調べたところ、「ポプラ」(女性名詞)と「民衆」(男性名詞)は同音異義語(橋と箸のようなもの)で、発音も「ポープルス」(ポプラ)と「ポプルス」(民衆)の違い(王子と叔父のようなもの)があることがわかった。

 ローマ市民がポプラの木の下に集まり、木陰で集会を開いたのが始まり――は俗説で、ネタ元の『語源辞典』が間違っていた。ロルカもびっくりだが、すると急にこの私の写真、ほんとにポプラかと心配になってきた。

2016年4月2日土曜日

インコのことば

 地震で「全壊」の判定を受けた。たまたま自宅の近くに借り上げ住宅(アパート)が見つかった。アパートの前に市内循環バスの停留所がある。イトーヨーカドー平店に交流スペース「ぶらっと」があったころ、バスを利用してよく通った――。カミサンの実家の近くに住むおばあさんの述懐だ。
 住む場所は変わっても同じ隣組に属している。その点は安心だろう。でも、坐骨神経痛が高じて外出がままならなくなった。無聊を慰めるためにセキセイインコを飼った=写真。ガラス戸越しに見ると、スズメがたびたび現れてはえさをついばんでいる。「スズメにもえさをやってるの。毎朝、えさを待ってるんだよ」
 
 インコは、私が訪ねたときにはカゴの中にいた。部屋に放すこともあるらしい。しばらくたってから、「よいしょ、よいしょ」とインコがつぶやいた。飼い主の口癖をまねたのだろう。インコはそうすることで飼い主とコミュニケーションをとっている。訪ねたときには、インコ用にツルツルの生地の服を着ていた。脚が引っ掛からないようにしているのだという。
 
 半月ほど前、「シジュウカラには単語と単語をつないで文をつくる能力がある」という研究成果が発表された。「ピーツピ」=周囲を警戒、「ヂヂヂヂ」=接近、「ピーツピ・ヂヂヂヂ」=周囲を警戒+接近と、状況に応じて鳴き声を変える。「ヂヂヂヂ・ピーツピ」と語順を変えて聞かせたら、無反応だった。

 ふだんは「チュンチュン」鳴くスズメも、猫が現れると「ジュクジュク」の警戒音に変わる。そういう例はあるが、単語と単語をつないで複雑なコミュニケーションを図るところまではいっていない。今のところそれができるのはヒトとシジュウカラだけだそうだ。
 
 前に、作家の小川洋子さんと科学者の岡ノ谷一夫さんの対談本、『言葉の誕生を科学する』(河出書房新社)を読んだ。岡ノ谷さんは、ヒトの言葉も小鳥のようなものから進化してきたのではないかという。言語の「歌起源」説だ。そして「ある時『歌』から『言葉』へと、大いなるジャンプをなしとげた」という。
 
 オウムやインコはヒトのことばを話すといっても、シジュウカラのように言語の組み立てをするわけではない。が、ヒトを喜ばせる能力は持っている。「インコを置いて泊まりには行けなくなった」とおばあさん。インコに「よいしょ」されて、「シジュウカラの言語能力」や「言語の歌起源説」にまで思いが及んだ。

2016年4月1日金曜日

5年と4日ぶり

 カミサンがシャプラニール=市民による海外協力の会のいわき連絡会代表をしている。震災後、評議員になった。おととい(3月30日)、同じ評議員の大橋正明さん(聖心女子大教授)から電話が入った。「あした朝8時半におじゃまする」。大橋さんがわが家へ来るのは5年と4日ぶりだ。3月のカレンダーが5年前と同じなので、簡単に日数がわかる。
 最初は震災直後の3月27日にやって来た。シャプラはすでにいわき市で緊急支援を続けていた。私ら夫婦が一時避難から帰宅した直後、連絡が取れて、当時、副代表理事だった大橋さんら3人が来訪した。その日、一緒に市内を巡り、中長期的なシャプラの支援方針がかたまった。
 
 シャプラはそれから半年後、交流スペース「ぶらっと」を開設する。シャプラとしては3年の活動予定だったのが、2年伸びて5年になった。「ぶらっと」はこの3月12日、4年半の活動を終えた。きのう、後片付けがすべて終了したので、夜、私ら夫婦とスタッフ2人の4人で会食した。
 
 きのうは、その意味では活動が完全に終了し、スタッフが撤収する区切りの日だ。その日の朝に、5年と4日前、いわきでの生活支援を決めた大橋さんが現れるとは――。

 夏に福島市の高湯温泉で友人夫妻と懇親会を開く。県内も巡る。その下見だという。奥さんが一緒だった。いわきに一泊し、国道6号から浪江町に入り、飯舘村~福島市というコースで浜通りを北上中、わが家へ立ち寄った、というわけだ。ちょうどシャプラのスタッフも来たので、記念写真を撮った=写真。

 元シャプラスタッフの大橋さんは南アジアを中心に、日本のODAとNGO、インドの被差別カーストの人々などを研究テーマにしている。NGOを支援するNGO「国際協力NGOセンター」(JANIC)の前理事長でもある。先日、インドから帰って来たばかりだ。

 この5年、シャプラと大橋さんらを介して、国内外のNGO関係者や大学の先生らと会って話す機会が増えた。地震や津波被災者、原発避難者とホームコミュニティ(受け入れ地域社会)の関係について、考えを深める契機になった。

 同時に、シャプラもいわきで災害支援の経験を積み、知見を深めた。昨年4月25日に発生したネパール大地震では、バングラデシュに出張中の大橋さんらがインド経由で緊急支援に入った。

 現在は コミュニティラジオ局と一緒に「ぶらっと」と同じコミュニティセンターの運営に取り組んでいる。学校帰りの子どもたちが立ち寄って過ごしたり、テント暮らしの人々が疲れをいやしたりする場になっているという。

 ついでながら、シャプラがらみでというか、そこから波及した野次馬的興味にすぎないが――。「バガボンド」や「宇宙兄弟」などを担当したマンガ界のスーパー編集者がいる。日本の駐バングラデシュ大使と同じ苗字だ。顔もなんとなく似ている。親子か? 大使をよく知る大橋さんに聞くと図星だった。

 大使は外務省の局長時代、休日を利用していわきを訪れた。引率の大橋さんに頼まれて、途中から津波被災地を案内した。5年と4日の間にはそんなこともあった。