2016年6月30日木曜日

梅ジャム

 震災後、初めて梅ジャムをつくった。今年(2016年)は今までになく実がなった。手でもぎり、棒でたたき落としても残っている。冬の剪定がへたくそで、枝が天へと伸びた。上部の実にまで棒が届かない。それでも、かごに二つ=写真。これをすべて梅ジャムにしたら、冷蔵庫では保管しきれない。知り合いにどんどんあげよう、ともくろんだのはいいが……。
 口にふくめばとろける梅干しより、カリカリの梅漬けが好きだ。それも実の大きい高田梅が。で、梅漬けをつくるために高田梅の苗木2本を手に入れ、夏井川渓谷の隠居の庭に植えた。

 実が収穫できるようになったころ、1本が台風にもまれて倒れ、根っこが少し浮いた。かしいだ幹にコンクリートブロックを当てて支えた。やがて震災と原発事故がおきた。庭が全面除染の対象になり、表土を取り換えるときに、ご丁寧にこの木も除去された。残る1本は、震災後、実の収穫を休んだ。2回ほど剪定しただけにとどめた。それが、今年は鈴なりだ。

 梅漬けを――の夢は、初めて実を収穫したときに消えた。実がそばかすだらけだ。そばかすは一種の傷。そこから硬化したり腐敗したりするので、結局、梅ジャムにするしかない。それさえちゃんとやろうとすると、手間ヒマがかかる。

 食感のいいジャムにするには、裏ごしをする。「教科書」どおりにやろうとして、馬の毛をつかった裏ごし器を探していたら、街の曲物屋さんから「馬の毛はもう料理人も使っていないよ」と笑われた。「教科書」はすでに時代に合わなくなっていた。
 
 震災前の自分のブログを参考にして、①梅を一晩水につける②ザルにあけてへたを取る(数が多いので、楊枝ではなく千枚通しを使ったら、先端部の表面が梅酢で腐食し、黒くなった)③ホーロー鍋で皮にひびが入るまでゆでる④さらに5~10時間水につけて酸味をやわらげ、道具を使って種を取る――。
 
 このあと、やわらかくなった梅の実を木ベラでつぶしながらこしていくのだが、これに時間がとられる。今回も種を取るところまでは、なんとかいった。裏ごしをして中火でことこと、という段階にいく前に時間がなくなった。「あとはやって」。カミサンにバトンをタッチしたが、カミサンもガス台の前に立ち続けるわけにはいかない。結局、小瓶ひとつ分をつくっただけに終わった。
 
 梅ジャムをつくるには、そのための時間が主、ほかの用事は従くらいの余裕がないといけない。いろんな用事の合間に梅ジャムを、なんてことでは、いい味のジャムにはならないのだ。前も反省し、それを忘れていて、収穫はこれまで最高だったのに、つくったジャムの量は最低だった。

2016年6月29日水曜日

光る直線

 梅雨の晴れ間の日曜日(6月26日)。朝メシ前の土いじりを終えて夏井川渓谷の隠居から対岸の林をながめていたら、時折、朝日を浴びて銀色に輝く直線がある。風の加減で光る直線は長くなったり短くなったりする。望遠カメラで撮って画像を拡大すると、右側のモミの大木の陰から左側の広葉樹へ斜めにまっすぐ線が伸びている=写真。見た目だけでも5メートル以上はあるだろうか。
 昔、だれかが「自然界に直線は存在しない」と言っていたのを覚えている。で、山野を巡るたびに“直線探し”をする。アシナガバチの巣は六角形の集合体(ハニカム構造)だ。直線の組み合わせではないか。雲の切れ間から光が帯状に差し込んでいる状態を「ヤコブのはしご」という。これも光の直線だろう。流星だって瞬間的に光の直線を描く――。

 自然界で見られる、この種の直線にクモの糸がある。でも、クモの子が空に糸を伸ばして旅立つのは晩秋ではないか。隠居から対岸の林までは100メートル前後離れている。光る直線は電線並みに太い。軒下のクモの糸がそう見えるのかと思ったが、それだとカメラの焦点が合わない。やはり、クモのおやじが糸いぼからひり出した糸か。

 さて、もうひとつ、人工的な線の問題が起きた。数日前から茶の間のテレビに一本、緑色の線が水平に入るようになった。画面の地色によって、部分的に赤くなったり黄色くなったりする。

 家電のホームドクターに連絡すると、修理専門の業者がやって来た。テレビ内部の故障で、直すと5万円前後はかかるという。業者のアドバイスに従って、しばらく線入りのままがまんすることにした。光る直線といっても、こちらは始末が悪い。

2016年6月28日火曜日

いわきファームツアー(下)

 シャプラニールのいわきツアーは今度で7回目。去年(2015年)までの「被災地訪問ツアー みんなでいわき!」が、今回は「いわきファームツアー」に衣替えした。
 去年は6月6~7日に実施された。いわきに住む人との対話と現場の視察を通じて、被災地の今を知ってもらおう――と、震災前からオリーブ栽培を続けている「いわきオリーブプロジェクト」の中軸、木田源泰さんの農園を訪ねた。今年も同じ農園で、オリーブの木の根元の草むしりボランティアをした=写真。

 いわきは日本でも有数の日射量を誇る「サンシャインシティ」。同プロジェクトではこの気象条件を生かし、耕作放棄地を活用して、オリーブオイルや加工品を生産・販売する6次産業化を目指している。

 なぜオリーブ畑で除草が必要なのか。去年、木田さんの話を聞いて納得した。野菜と同じで、草が生えていると虫が寄ってくる。すると、害虫が現れる。シンクイムシは苗木の根元近くに穴をあけ、内部に入り込んで苗木を枯らす。私も、同じように草引きを怠ってナス苗を枯らしたことがある。

 去年は、木田さんの「感動」が参加者に“伝染”した。その場面がよみがえる。植えられて5年前後の幼木が、キンモクセイに似た小花をいっぱい付けていた。そこへミツバチが現れた。発見したのはツアー参加者だ。木田さんがミツバチの来訪を知って興奮気味に語った。「初めてミツバチが来た、オリーブの蜂蜜ができるかもしれない」
 
 ミツバチの力もあってか、去年初めて搾油が行われた。今年は? そんなにミツバチはやって来なかったという。それでも、オリーブはあおい小さな実をいっぱい付けていた。
 
 シャプラのツアーにはリピーターが多い。「もう何回いわきへ来ているかわからない」という女性とは、4月末にも会っている。いわき湯本温泉に前泊した初参加組もいる。温泉もまたいわきの魅力には違いない。「おいしく楽しくいわきに触れる一日」になったことと思う。

2016年6月27日月曜日

いわきファームツアー(上)

 今年(2016年)3月12日まで、いわき市で交流スペース「ぶらっと」を運営していた「シャプラニール=市民による海外協力の会」がきのう(6月26日)、日帰りのいわきファームツアーを実施した。
 5年に及ぶ東日本大震災緊急救援・復興支援活動は終わったが、いわきとの縁が切れたわけではない。いわきの魅力、復興状況を見てもらおう――そんな視点からツアーが企画された。首都圏から12人、地元から私ら夫婦2人の計14人が参加した。

 ツアーの目的は、いわきの野菜を使った中華料理店「華正楼」で昼食をとり、対岸の木田農場・オリーブ園で草むしりボランティアをしたあと、「ぶらっと」が入居していたスカイストアを訪ねる――の三つ。「いわき駅正午集合・午後5時解散」がミソだ。

 華正楼には夏井川渓谷の隠居で土いじりをした帰り、遅い昼食時にときどき寄る。だいたい五目焼きそばにする。今回初めてランチを食べた。食卓がたちまち皿でいっぱいになった=写真。

 店の若いシェフとは、平成22(2010)年度から27年度まで実施された市の「いわき昔野菜」発掘調査事業のなかで知り合った。昔野菜は、流通にのった「いわき野菜」とは別の、「もうひとつのいわき野菜」だ。

 同事業では①昔野菜(在来作物)の発掘・調査②展示・実証圃(ほ)での栽培③昔野菜フェスティバルの開催④昔野菜に関する冊子の製作――などが展開された。食の安全、地産地消といった農の営みの原点に立ち返り、次世代に種子と食文化を継承しようという動きが生まれたとき、“原発震災”が起きた。

 原発震災では、福島県の第一次産業が風評被害の嵐に見舞われた。市は、放射線量を調べて公開する「見せる化」事業を始めた。その過程でさらに、生産者と料理人のきずなが深まり、「地産地消」への理解を深める市民が増えた。伝統と創造の融合、行政と市民の協働……。多様な「食文化都市」づくりの可能性が生まれた。
 
 それはさておき、今回初めて食べたランチでは酸辣(スーラー)味のスープをお代わりした。甘く煮つけたミニトマトのデザートも不思議な味がした。こちらは研究熱心なシェフらしい創作か。

「地産地消」の魅力は、いながらにしてそれを口にし、手に入れることができることだ。それを食べたくなったらそこへ出かけていかなければならない。「カツオの刺し身を食べたくなったらいわきへどうぞ」。それと同じで、「いわきの若いシェフの料理を食べたくなったらいわきへどうぞ」。それぞれ違ったいわきファンが増えることが、ほんとうのいわき支援になる。

2016年6月26日日曜日

「ホー、アンチョビ」

 若い母親が車で迎えに来た。いわき市役所の南方、小高い丘の団地にパン屋がある。食事ができる。彼女と幼い娘、私たち夫婦の4人でランチをした。
 店の前に山が広がる。ウグイスが林縁でさえずっていた。店の人がいう。「娘は、『ホケキョではなくて、アンチョビと聞こえる』って言ってます」。「ホー」と前奏が入って「ホンチョビ」と続く。「アンチョビ」と聞こえないこともない。
 
 ウグイスは場所によってさえずり方が異なる。夏井川渓谷=写真=では「ホー、ホケキョ」のほかに、「ホー、ホケベキョ(チョ)」と一音多くさえずる個体がいる。毎年、「ホケベキョ」がいるということは、代々、そのさえずりを学習しているのだろう。渓谷にすむウグイスだけかと思ったら、河口に近い平野部でさえずるなかにも「ホケベキョ」派がいた。

「ホー、アンチョビ」はしかし、パン屋の関係者らしい「聞きなし」かもしれない。イワシの刺し身を食べても、塩蔵品を口にしたことのない人間には思いもつかない発想だ。

「ベーコン」を「霊魂」と聞き間違えた詩人の詩がある。<「霊魂を食べて ふとるのよ」/というこえが どこかでしたので/急に胸が悪くなって目が覚めた>(村野四郎「霊魂の朝」)。「霊魂」を食べる?――ありえないことだとしても、聞き間違いから「震えるような1行」が立ち上がった。それを詩と呼ぶ。

「豆腐とこんにゃく」という民話は方言の掛詞(かけことば)で笑いを誘う。棚から落ちて大けがをした豆腐をこんにゃくが見舞う。「お前はなんぼ棚から落ちてもけがすることがないからいいな」。豆腐がこんにゃくをうらやましがる。すると、こんにゃく。「いやいや、おれだって生きたそらねえ。ほだって、毎日『今夜食う(こんにゃくう)、今夜食う』って言われるもの、生きたそらねえべや」

 最近知った例――。若い仲間が車中でラジオを聴いていた。次は「ゆず」と紹介された曲を聴きながら、しゃれたイントロだなぁ、今までにない曲調だなと思っていたら、「U2」だった。「ゆず」と「U2」。ラジオの声がなまっていたのか、耳が疲れていたのか。さっそく“聞き間違いコレクション”に加える。ついでに、久しぶりに「U2」を聴いてみる。
 
 暮らしのなかでおこる、こうした突拍子もない言葉の連結やずれが「霊魂」を味わい深いものにしていくのだろう。

2016年6月25日土曜日

爆破予告

 きょう(6月25日)は、朝のうちにいわき駅前再開発ビル「ラトブ」=写真=へ行く。4~5階に市の総合図書館が入居している。13日からきのう(24日)まで、特別整理のために休館していた。江戸時代のいわき地方のシイタケ栽培に関して、ほかの市立図書館にはない郷土資料を読みたくなった。
 実は24日に再開するものと勘違いしていた。たまたま23日夜、総合図書館長氏に会った。「休館は長かった、あしたやっと行ける」と言ったら、「(再開は)25日ですよ」とくぎを刺された。

 その24日夕、外出先で息子からケータイに連絡が入った。「今どこにいる? ラトブに爆破予告だって」。図書館に行っているかもしれないと思ったのだろう。

 帰宅してツイッターをのぞくと、「ラトブに爆破予告」の情報があふれていた。フェイスブックには避難を余儀なくされたラトブ入居者、あるいは利用者の情報もアップされていた。警官が動員されて立ち入り禁止の黄色いテープが張られている――その写真も載っていた。やがて、入居者が避難解除の情報を伝えた。

 十数年前、男女共学になる前の磐城女子高(現磐城桜が丘高)で文化祭を狙った爆弾騒ぎがあった。警察が校内のごみ箱などを点検した結果、“いたずら”とわかった。インターネットが普及する前は、「愉快犯」というくくりで推論できたが、今はゆがんだ「承認欲求」にも思いを致さないといけないようだ。

 警察担当の新米記者だったころ、この種の記事を書くことで模倣犯が出ないか、悩んだことがある。無視するわけにはいかないが、犯人の思惑に加担したくもない。注意喚起の意味から事実を小さく報じるだけにしたものだった。

 今回はメールで爆破予告がなされたという。ここは再発防止のために犯人を捕まえてお灸をすえてほしい、という思いがある。一方で、マスメディアが大きく取り上げれば、犯人は勝ち誇った気分になる。けさの新聞もおおむねそんな感じで写真なし、2段か1段の見出しだった。(そういえば、ある全国紙の支局もラトブに入っていたな)

 ラトブに入居している弁護士氏のつぶやきが胸に入った。「犯人は、弁護士を名乗っているらしい」「犯人が見つかったら、営業損害の集団訴訟をやりましょう!と声掛けでもすればよかったかな……」。ネットで検索したら、「弁護士」をかたる人間の爆破予告事例が多かった。コピペ感覚の模倣犯か。

2016年6月24日金曜日

崩れる渓谷

 夏井川渓谷は落石の常襲地帯だ。東日本大震災では、あちこちで落石・土砂崩れが起きた。5年たった今も、ソネ(峰)の直下、あるいは中腹が崩落して赤茶けた岩盤を見せている。
 隠居の対岸に限っていえば、150メートル前後の谷底から600メートル余の山頂まで、標高差はざっと450メートル。もっと下流ではその差がさらに大きくなる。標高は低くても「深山幽谷」(V字谷)の様相を呈する。岩盤が至る所で露出している。風化してもろくなっているところも少なくない。

 V字谷に散在する小集落をつなぐのは県道小野四倉線。急傾斜地は落石を防ぐためにコンクリート吹きつけが行われるか、ワイヤネットが張られるかしている。ときどき落石の痕跡がある。小は大人のこぶし大、大はサッカーボール大の石が道端に転がっている。

 昔、大規模な崖崩れが起きたところにロックシェッドが設けられた。今、その補強工事が行われている。隠居の対岸、谷寄りの岩盤があのとき(2011年3月11日)にかなり崩落した。今は砕かれたかけらが巡視路のそばに積み上げられている。

 祖父から「ここはジャクヌケ」「ここは〇〇のボッケ」などと実地に教えられたという知人がいる。「ジャクヌケ」は土石がヘビのように崩れ落ちた(落ちてくる)場所。土石流が起こりやすい沢だろうか。「ボッケ」は小高い丘。マツタケ採りは道なき道を動き回る。そういうときの目安になるのだろう。V字谷はそんな場所だらけだ。
 
 隠居の対岸は、奥山より目前の中腹が怖い。ある日、対岸から轟音がとどろいた。木々がワサワサ揺れた。落石だった。あとで確かめたら、30センチ大の石が4、5個、巡視路に散乱していた。
 
 夏井川渓谷には、下流から江田・椚平・牛小川の3集落がある(小川町分)。あるとき、椚平を通過しようとしたら、対岸のソネが崩落して赤茶けている=写真=のに、助手席のカミサンが気づいた。最近崩落したのか、前に崩落したのかはわからないが、赤みが強い。ということは、震災後だ。
 
 いずれにしても、夏井川渓谷は日常的に落石・岩盤崩落を繰り返している。「絵はがき」の世界ではない。危険地帯に身を置いているという自覚が欠かせない。

2016年6月23日木曜日

「父の日」焼酎

 茶の間の南に庭がある。庭を背にして仕事をしている。晴れた日には戸を開ける。虫が入ってくる。鳥の声が聞こえる。正岡子規の『病牀六尺』にならえば、ノートパソコンと向き合う「座卓1メートル」の世界だ。夜は、そこが晩酌の席になる。
「父の日」の晩から、「田苑」とは違った麦焼酎=写真=をなめるようにして飲んでいる。疑似孫の親から、父の日必着で届いた。

「母の日」と「父の日」は太陽と月のようなものだ。カミサンの父母も含めて親はすでに彼岸に渡った。「母の日」「父の日」になにもしなかった自分を棚に上げていうのだが、「母の日」は明るく輝いている。今年も疑似孫の親から花が届いた。

「父の日」の朝、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、市街に戻って、スーパーで昼食用に「牛めし」を買った。ふだんは食べない。「父の日 いつもありがとう」のワッペンが張られていた。それに引かれて、自分で自分をねぎらうことにした。(フェイスブックで父親が、息子から「父の日、おめでとう」のメッセージが入った、と嘆いていた。笑ったが、「父の日」を忘れないだけいい)

 夕方、酒の入った会合から帰ると、プレゼントが届いていた。「母の日」だけでなく「父の日」にも――。ありがたいことだ。

 このところ、なにやかやと忙しい。晩酌の時間になってようやく、その日の出来事を振り返る。夏至。フェイスブックに日の出の情報がアップされて、初めて気づいた。夏至を忘れているほど気持ちに余裕がない。その代わりというか、「座卓1メートル」の世界に身を置いていると、ときどき庭を振り返ることがおきる。
 
 朝、庭にウグイスがやって来て、崩れた感じのホーホケキョをやった。季語でいうと「老鶯(ろうおう)」。プラムの実が色づきはじめた。二股に分かれた幹の一方が菌に侵されている。「ギ、ギ」とか細い声。立ち枯れを見つけたコゲラかもしれない。アシナガバチもふわふわ飛んでいる。ウグイス、コゲラ(ほんとうにそうだったら)は珍客だ。

 マチ場ながら庭には尽きない自然のドラマがある。今週いっぱいは、「父の日」の焼酎をなめながら、そのドラマを反芻する。思い出した。「ジッ」とか「チッ」とかいう虫の声も聞いた。そろそろニイニイゼミが鳴きだすかもしれない。

2016年6月22日水曜日

「追加除染」不要

 どういうわけか今年(2016年)は、月の後半になると用事が押し寄せる。6月もこれからほぼ毎日、用がある。きのう(6月21日)は午後、人と会う用事が三つ。家を出たり入ったりして午後6時半に戻ると、いわき市除染対策課から封書が届いていた。
 夏井川渓谷に隠居がある。その再モニタリング結果だった=写真。「追加除染の必要はありません」。疲れが吹き飛んだ。

 いわき市ではまず、事故を起こした1Fに近い市北部4地区(久之浜・大久、四倉、小川、川前)で除染が行われた。当時の新聞によると、対象住宅約8500軒のうち①地上1メートルで住宅地内の平均が毎時0.23マイクロシーベルトを超える全体除染は約2600軒②0.23以上の地点が1カ所でもみられた部分除染は約4600軒――だった。現在も市内のどこかで住宅の除染作業が行われている。
 
 わが隠居は小川地区にある。2013年2月に事前モニタリングが行われた。年間1ミリシーベルト以下であるためには、計算式に従って毎時0.23マイクロシーベルト以下でないといけない。平均0.24だった。その年の師走、庭の全面除染が行われた。表土がはぎとられ、山砂が投入された。庭がまるで砂浜のようになった。

 それから2年余。今年2月、再モニタリング調査を実施するかどうか、意向を聴く手紙が届いた。実施してもらうことにした。自分でも測定してわかってはいたが、第三者のデータがあればなおいい。
 
 きのう手にした資料によれば、3月18日に建物の周囲8カ所で再モニタリングが実施された。最大は雨樋下の0.19、最小は庭の菜園わき0.12。計算したら平均0.144だった。アリオスと地続きの平中央公園に設置されているリアルタイム線量計のデータとそう変わらない。いわきの平常値0.05前後の約3倍だが、事故直後に比べたらかなり減衰した。
 
 さて、きょうから来週にかけて、ときどきネクタイ、いやループタイをして出かける。それと別に、毎朝晩、糠床をかき回さないといけない(漬物は私の担当)。隠居の庭で栽培しているキュウリやナスもやがて糠床に入る。安心の材料がまたひとつ増えた。

2016年6月21日火曜日

福島県初の「恋人の聖地」

 田村市の「あぶくま洞」が「恋人の聖地」に選ばれた。ラベンダー園を見下ろす敷地内に「誓いの鐘」も設置された――という新聞記事を読んで、少し前に訪ねた栃木県・那須高原の「恋人の聖地」を思いだした。
 那須の山々を北に仰ぐ標高1000メートルちょっとの山腹に展望台が設けられていた。東に那須野と南北に連なる八溝山系が見える。その奥の阿武隈の山々はかすんでいてよく見えなかった。

 一角に「恋人の聖地」のモニュメントと、恋人が2人一緒にふもとの温泉街を見下ろせる横長の「のぞき窓」=写真=がある。ふもとの夜景が、ピエロが踊っているように見えるのだそうだ。ピエロの鼻が赤く光って見えたら必ず2人は結ばれる――とモニュメントにあった。

 ひとり、窓からふもとをのぞいたのは、日が傾くには少し早い午後。ときめく力がなくなっていたのか、街並みからピエロを想像することはできなかった。若いカップルが展望台まで来るのは、しかし、現実にピエロの鼻が赤く光って見えるか見えないかより、そういう「物語」に好奇心が刺激されて、だろう。

 展望台から北東へ進んで三つ目の尾根の山頂にゴヨウツツジ(シロヤシオ)が群生している。山頂の一角、草原と林の境目にも「恋人の聖地サテライト マウントジーンズ那須」があった。ダケカンバとゴヨウツツジが接触しているのを、恋する2人に見立てた。こちらは見た瞬間、乾燥した春先などに強風でこすれて燃えださないか、心配になった。

「恋人の聖地」は、静岡市にあるNPO法人地域活性化支援センターが選定している。よく知られた人たちが理事になっている。少子化対策と地域の活性化への貢献をテーマに、観光地域の広域連携を目指すプロジェクトだそうだ。

 あぶくま洞には一度入ったことがある。山の陰にあるふるさとへ行くのに、ときどき、あぶくま洞の前の道路を利用する。ラベンダー園は敷地内の斜面を利用したものだろうか。前はなかったように思う。
 
 近くには「星の村天文台」がある。というより、あぶくま洞敷地内のてっぺんにあって、歩いて行けるようになっているのだとか。
 
 阿武隈高地のイメージは、私のなかでは星の降る庭。空が澄んでいるので、星が大きくうるんで見える。そもそも星の村天文台は、あぶくま洞と対をなす施設らしい。あぶくま洞で「地底の宇宙」を体感し、星の村天文台で「本物の宇宙」を体験する。昼は神秘の鍾乳石に、夜は満天の星に永遠の愛を誓う――そう考えると、福島県内初の「恋人の聖地」はなんともスケールが大きい。

2016年6月20日月曜日

緊急避難的収穫

 これは収穫なんてものではない。虫のえさをつくっているわけではないのだ。キャベツをこのまま置いておくと、中心部まで食い荒らされる。筋だけになった外葉をはがし、緊急避難的に結球部を切り取った。それでも表面は穴だらけ=写真。最後はその葉もはがして、アオムシたちのフンを水で洗い流した。
 夏井川渓谷の隠居に小さな“週末菜園”がある。5~6月はいつもサンタンたるものだ。虫が野菜にとりつく。

 今年は、アブラナ科の野菜はキャベツだけにした。4月下旬、ポット苗の青キャベツ、赤キャベツ各5株を買って植えた。5月下旬になると、青キャベツの一つが病気にかかったらしく、灰色の粉が取りついたようになった。これは引っこ抜いて菜園から遠ざけた。

隠居へ行くたびに葉のへりの欠けや穴が多くなる。“主犯”はアオムシだ。5月29日は午前と午後でアオムシを20匹ほど退治した。その後もかなりの数をブチッとやった。体長が7ミリ前後のカメムシの仲間が葉にとりついている。これもキャベツ食害の仲間だろう。

 きのう(6月19日)は――。青キャベツは穴だらけ、アオムシはほとんどいなかったが、カメムシがびっしり取りついていた。赤キャベツは逆に、アオムシの“集会場”になっていた。1株平均10匹余、計50匹以上のアオムシをブチッとやった。

 昔、春に一度カブの種をまいて収穫し、すぐまた残った種をまいたことがある。芽が出たのはいいが、カブラヤガの幼虫とカメムシの仲間に食害され、若葉がすべて消えた。以来、梅雨どきにカブや二十日大根を栽培するのをやめた。梅雨どきのアブラナ科はあぶない、やられる――20年以上“週末菜園”をやっていても学習効果がないのは、まだ頭で栽培しているからだ。

 スーパーで売っているキャベツは見た目もきれいで、大きさも15センチ以上ある。緊急避難的に収穫したわが隠居のキャベツは、小は9センチほどのソフトボール大、大は13センチほどの砲丸大だ。
 
 何はともあれ、収穫した以上は食べてやらないと。ゆうべ、千切りにしてもらい、マヨネーズと醤油で味付けをした。カミサンは「硬い」と言っていたが、少し時間をおけばマヨと醤油の塩分で“浅漬け効果”が出る。しんなりしてうまくなる。客観的にうまいかどうかはわからないが、主観的にはうまかった。

2016年6月19日日曜日

真夏日

 きのう(6月18日)は、朝のうちはまだ風が通り抜けていたからよかったものの、正午近くになるとほぼ無風になった。すると、背中がじわじわ熱せられて汗がにじみ出てきた。
 南に面した茶の間で仕事をしている。南東北の梅雨が明ける7月下旬ならともかく、梅雨の晴れ間(旧暦5月14日の五月晴れ)に熱気に包まれるのは、今までにもあったかもしれないが、最近では初めてだ。

 あまりの熱気に目の前の電波時計を見ると、29度を超えていた。数値が29.4から29.5、29.6と、0.1刻みで上昇する。ちょっと用を足しに行って戻ると、12時51分に30.1度になっていた=写真。屋内でそうなら、外はもっと高いだろう。

 午後1時すぎ、街へ出かけた。平の五色町交番そばのデジタル表示板が32度を示していた。今年初めての真夏日だ。夕方帰宅して福島地方気象台のホームページで確かめたら、「今日の最高気温」が小名浜でも12時59分に31.7度、今年最高だった。なんと、なんと! 昼下がり、いわきではマチもハマも蒸し風呂状態になった。

 車中に、カツオの刺し身用の「マイ皿」を置いておいた。いつもは日曜日に買いに行くのだが、酒を飲む会合が入った。で、一日早く食べることにした。夕方4時半、車に戻って皿に触れると熱を持っている。魚屋で水で冷やしてから、盛り付けてもらった。

 ゆうべは、茶の間を開け放したまま、晩酌をした。夜の10時近くなっても室温は26.5度。こう暑い日にはやはり、にんにくじょうゆにつけたカツ刺しが「こでぇらんねぇ(最高だ!)」――となる。阿武隈の山猿がいわきに根っこをはやした理由の一つが、このカツ刺しだ。3・11を経験してからはなおさら「こでぇらんねぇ」くなった。

2016年6月18日土曜日

おだてもっこ

 先日、赤ちゃんをおんぶする、熊本地方の「もっこ」が「あさイチ」で紹介されていた=写真。いやあ、久しぶりに「もっこ」ということばを聞いた。
 小学校の低学年生のころ(今から60年近く前)、ばあさん連中に「おだてもっこにのって」ウンヌンと「ほめられた」ことがある。ほめられたと思いながらも、ばあさん連中の表情から、いい意味なのかどうかわからなかった。子どもなりに複雑な思いでいたことを覚えている。

「おだてもっこ」がイメージできなかった。「もっこ」はわかっていた。底が網目状になっている運搬具で、前と後ろの左右の端が綱で結ばれている。その綱に棒を通して石などを運んだ。昭和30年代前半くらいまで、山里では幹線道路も、毛細血管のような生活道路も未舗装だった。そんな地域の道普請などに「もっこ」が使われた。

 あの「もっこ」がなぜ「おだてもっこ」になるのか。10歳にも満たない子どもの思考力・想像力では理解ができなかった。

「おだてともっこにはのりやすい」ということわざがある。おだてるとその気になりやすいたとえに使われる。それが、阿武隈の山里、あるいはいわきの平地では、「と」が消えて「おだてもっこ」になる。

 いわき市教委発行の『いわきの方言(調査報告書)』(平成15年)には、「おだてもっこ」は「おだてること」とある。例として「おだてもっこにはのるな」が紹介されている。報告書を編集した人間の意思が反映されている。ついでに「もっこ」を見る。ない。熊本では「もっこ」、いわき地方ではただの「おんぶひも」、ということだろう。
 
 それはそれとして、孫2人が「おだてもっこにのせる」とその気になる年ごろになった。ジイバアは、孫をほめて、ほめて、その気にさせるのが役目。「もっこ」から、孫だったときの私と、今の孫たちの思いが重なった。

2016年6月17日金曜日

種を冷蔵庫へ

 ネギ坊主の数は多かったが、少しタイミングが遅れたらしい。思ったほどには種が採れなかった。すでにこぼれ落ちたものが少なくなかったようだ。
 夏井川渓谷の隠居で昔野菜の三春ネギを栽培している。先日、雨の中、傘をさしてネギ坊主を摘み取った話を書いた。翌日、天日に干し、乾いたところでネギ坊主の一つひとつに眠る黒い種を、殻をたたいたり、振ったり、もんだりしながら取った。

 一つの花序にはどうやら三つのベッド(子房)があって、それぞれ種が二つ、抱き合うように形成される。種は花序の数の6倍、ということだろうか(間違っていたらごめんなさい)

 実用書には、種殻やごみはフーフーやって取り除くとあるが、なかなかうまくいかない。種まで飛ばしてしまう。で、ある年から、「いわき一本太ネギ」の生産者である塩脩一さん(平)の教えを受けて、水につけてより分けるようにした。これが、簡単でいい。

 ステンレス製のザルに種もごみもまとめて入れる。水を張ったボウルにそれをつける。すると、種殻や中身のない種が浮いてくる。ザルのすきまからは細かい砂やごみがこぼれ落ちる。ザルの底に残った種だけを新聞紙の上に広げて陰干しする=写真。これだけ。

 乾いたら小瓶に乾燥剤とともに入れて、冷蔵庫で保管するのだが、梅雨に入ってぐずついた天気が続いている。新聞紙もやっと乾いたようなので、けさ(6月17日)、小瓶と乾燥剤を用意した。あとで冷蔵庫にしまう。

 三春ネギは「秋まき」系だ。10月10日ごろに苗床をつくって種をまき、翌春、定植する。収穫は秋から冬。一部を採種用に残して越冬させたあと、初夏に種を採る。2年がかりのサイクルだ。
 
 庭の全面除染があって、一度、種まきを中断した。以来、2年間、数本を引っこ抜いて食べたほかは、ひたすらネギ坊主のためだけに栽培を続けた。
 
 夏井川渓谷の小集落・牛小川で栽培されている三春ネギはおそらく、田村郡からいわき市川前町を経由して種が伝わった。「自産自消」で種が継承されている。しかし、種は簡単に途絶える。その危険が常にある。種が切れたら、また近所のおばさんに頼んで苗をもらえばいい、と思っていたが、そんな甘いものではなくなってきた。「今はもう自分の家で食べる分しかつくってないの」
 
 ネギの種は寿命が短い。持って2年だ。栽培し続けないことには種が残らない。とりあえず、今年の分を確保したのでホッとしている。

2016年6月16日木曜日

ブルーシート

「平成28年熊本地震」から2カ月。家々の屋根がブルーシートに覆われている映像を見るたびに、5年前のいわき地方の光景が思い浮かぶ。ただ、いわきのブルーシートと熊本のブルーシートは、大きさが違うようにも感じられた。
 東日本大震災(地震名は東北地方太平洋沖地震)では沿岸部が大津波に襲われ、壊滅的な被害を受けた。内陸部のわが家の周辺では、石塀が倒れたり土蔵が傾いたりしたが、倒壊家屋はなかった。もちろん、居住に耐えない「全壊」、住むには大規模修理が必要な「大規模半壊」の家は、いわき市内でも少なくなかった。

 いわきでは屋根の頂部の“グシ”が壊れ、瓦が割れたり落ちたりしたため、そこだけを覆うブルーシートがほとんどだった。熊本のはグシだけを覆ったものもあるが、屋根全部を覆っているのが目立つ。内陸直下の「横ずれ断層型」が建物に大きなダメージを与えたのだろう。

 福島県内では、瓦屋さんが休みなく働いた。忙しすぎて自殺した業者もいる。わが生活圏では1年が過ぎたころから、ブルーシートが一つ、また一つと姿を消した。
 
 今は、屋根にブルーシートのかかった家はない、といいたいのだが、山里ではボロボロになりながらもシートがかかったままの家がある=写真。街なかにも屋根が全面ブルーシートの家がある。事情があってそうしているのだろう。わが家の近所では、ブルーシートこそかかっていなかったものの、瓦が一部壊れたままの家があった。その修理が済んだのはつい最近だ。

 九州でも、家の屋根からブルーシートが消えるまでにはかなりの時間がかかる。東北の経験を生かしてほしい――そう思っていた矢先に、福島県抜きの「東北5県」復興支援カタログがネットに載り、炎上した。福岡市に本部のあるグリーンコープ連合という組織には福島県は存在しないらしい。
 
 ともあれ、見た目の復旧・復興は進んでも、個々のレベルでは「あのとき」のまま、というケースもある。
 
 夏井川渓谷のわが隠居は、屋根は無事だった。庭と下の空き地との間には石垣が組まれている。その石垣が一部崩れた。今もブルーシートで覆ったままにしている。復旧にはカネがかかる。どうしたものか、5年たっても結論は出ない。

2016年6月15日水曜日

トウガラシの花

 夏井川渓谷の隠居で栽培しているトウガラシに白い花が咲いた=写真。日曜日(6月12日)、カメラを地面に置くようにして下向きの花を撮った。いっぱい実ったら、秋以降、白菜漬けに加えたり、一味にしたりする。
 トウガラシの花の写真を撮る2日前、国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」のスタッフがわが家へやって来た。事務所は東京・新宿区にある。雑談のなかで、同区で「内藤とうがらし再興プロジェクト」が展開されており、シャプラもこのプロジェクトに賛同して苗を譲り受け、栽培していることを知った。

 シャプラは、バングラデシュやネパールで「取り残された人々」への支援活動をしているNGOだが、足元でも「内藤とうがらし」再興プロジェクトに協力している。私にはシャプラ流のコミュニティ維持・再生・共創活動の一環と映る。

「内藤とうがらし」「内藤新宿」――とくれば、譜代大名の内藤氏が思い浮かぶ。江戸時代前期、磐城平藩を治めたのも内藤氏。てっきりその内藤氏にからむ野菜だと思っていたが、違っていた。

 NHKの大河ドラマ「真田丸」ではないが、豊臣秀吉が天下人になったあと、大名の人事異動が行われる。さらにその後、徳川家康が天下を取ると、同じように配置転換が行われる。

「三河内藤氏」は家康の側近だ。譜代大名として、6家(信濃高遠、陸奥湯長谷、三河挙母、日向延岡、信濃岩村田、越後村上)に分かれて幕府を支えた(ウィキペディア)。

 日向延岡の内藤氏は、前任地が磐城平藩、同じいわきの湯長谷藩の内藤氏はその分家だ。新宿には高遠藩の江戸・下屋敷(新宿御苑)があった。新宿は磐城平藩の屋敷ではなかったが、内藤一族というくくりでは間接的に関係していた。

「内藤とうがらし」は江戸野菜であると同時に、高遠藩の伝統野菜でもある。実がなったら種が採れる。来年の「苗分け」を待つよりも、赤い実を二つ三つもらって試食し、一つを種採り用に保存する――「三河内藤氏」つながりでいわきでも栽培してみたい、という気持ちになっている。

2016年6月14日火曜日

り災証明

 5年たった今も、車の燃料計の針が半分を切ったら=写真、ガソリンを満タンにする。東日本大震災に伴う原発事故で一時避難した。ガソリンが少ししかなかった。途中でガス欠にならないか……。「備えあれば憂いなし」というほどではないが、アシだけは確保しておきたい。危機感が骨身にしみている。
 きのう(6月13日)の「あさイチ」は、メーンの3人にくまモンが加わって始まった。いきなりの出演に驚いた。「平成28年熊本地震」(4月14、16日に震度7)から2カ月。り災証明や子どもの心のケアの問題を取り上げた。

 大災害は全体的な把握も必要だが、実際には個々の体験・被害の集積だ。1人ひとり、1軒1軒違う。建物の場合は「全壊」「大規模半壊」「半壊」「一部損壊」の4ランクがあって、市町村が評価する。その評価が義援金その他に影響する。

「あさイチ」では、専門家が「一部損壊」と判断されたケースについて再調査を申請すべきだ、とアドバイスしていた。経験者として「同意!」と胸中で叫んだ。以下、当時のブログの抜粋――。

 3・11から半年たった秋、屋根の瓦が1枚割れ、コンクリートの基礎に亀裂が入っていることに気づいた。ブログに書くと、匿名氏から「被災申請を出して判定を受けてください」というありがたいコメントをいただいた。

「り災照明」の申請をしたら、いわき市から調査に来た。母屋は「一部損壊」、離れは「半壊」の判定だった。その後、知り合いの建築士に話すと、「再申請をしたら」という。不服申し立てのようなものである。東京から応援に来ている公務員氏と判定員である建築士2人の計3人が再調査にやって来た。

 水平・垂直を測る道具を使い、家の内外をこまかく見たあと、目の前でマニュアル化されたチェック項目に点数(パーセント)を書きこんだ。「全壊」50以上、「大規模半壊」40~50未満、「半壊」20~40未満、「一部損壊」20未満のうち、「大規模半壊」に近い「半壊」の判定だった。「一部損壊」は、適当な見立てでしかなかった。

 調査した建築士の話では、基礎のコンクリートが割れて家の北西側が少し沈んだ。それで2階北側の床が2センチ近く下がったために、壁と梁との間にすきまができた。道路に面した北側1階の床にボールを置くと、コロコロ転がっていく。台所の外壁、戸のすきまなど、専門家に指摘されるまで知らなかった亀裂、ひずみもあった。

「半壊」の証明書が出るのはざっと3週間後。応援の公務員氏は支援・減免など利用できる制度の説明をする一方で、「一部損壊」の証明書を持ち帰った。

被災者の生活再建を支援する制度の一つに「損壊家屋等解体撤去事業」がある。「半壊」以上の判定を受けた家屋などについて、市町村が所有者の申請に基づき解体・撤去を行う。自ら業者を頼んで解体・撤去しても、基準額の範囲内で業者から払い戻しを受けられる。わが家の離れの解体撤去申請書を市役所に提出した。業者が来て取り壊したのは8カ月後だった。

 母屋も応急修理の手続きを取った。こちらの都合で先延ばしにしていたら、「災害救助法に基づく住宅の応急修理制度の手続きについて(お知らせ)」というハガキが届いた。修理見積書の提出期限は○月○日、工事完了報告書は○月○日――。災害救助にも締め切りがある。
 
 市のホームページから、災害対策本部が2016年6月3日現在でまとめた建物被害(非住家を含む)を見る。①全壊7902棟②大規模半壊9253棟③半壊3万3146棟④一部損壊4万879棟。災害対策本部はまだ解散していない。

2016年6月13日月曜日

三町目ジャンボリー

 いわきの中心商店街に再びにぎわいを――。いわき駅前に再開発ビル「ラトブ」がオープンしたのは2007年10月25日(なぜ覚えているかというと、その前日に会社を辞めたからだ)。4~5階に市の総合図書館が入居した。1~3階は商業エリア。図書館へやって来た市民が、帰りに商業エリアで買い物をする“シャワー効果”をねらった配置だ。
 ラトブ南隣の商店街にかつてのメーンストリート・本町通りがある。きのう(6月12日)、そこで「三町目ジャンボリー」が開かれた=写真。第2日曜日のアリオスパークフェスと連動して、日曜日の街なかに人を呼び込もうと、商店会の青年部が中心になって始めた。一種のフリーマーケットで、店先の歩道に自作の小物などを展示・販売するブースが並んだ。

 現実には、アリオスパークフェス以上にラトブと連動したイベントではないだろうか。いつもはラトブに車を止めて周遊する。きのうはカンニング竹山さんらが出演する「サンシャインお笑いライブ」が6階で開かれた。駐車場は「満車」のはずという判断で、本町通り西端の駐車場に止めた。理由は簡単、駐車券が余っていたからだ。
 
 500円以上の買い物客、あるいは図書館などの利用者は2時間、ラトブの駐車料金が無料になる。図書館へ本を返しに行ったついでに、1階で好みの焼酎を買う――というのが私のパターン(カミサンはときどき食料品を)。三町目ジャンボリーはこのシャワー効果を周辺に取り込む意味合いもあるように思われる。

 前にも書いたが、いわきの中心市街地の一大イベント、平七夕まつりは三町目商店街から始まった。歴史的に見ても市民の関心を呼びそうなエピソードが少なくない。幕末、新島襄が三町目の「十一屋」に泊まっている。大正時代には、その店に山村暮鳥がよくやって来た。西隣には洋食屋「乃木バー」があった。

 昔、街なかの商業デザイン事務所で働いていたカミサンには、いわきの中心商店街は古巣のようなものだ。アリオスパークフェスにも何回か出店してフェアトレード商品を販売したが、今度は古巣の商店街で――という気でいる。旧知の美術家吉田重信さんが店を出していた。次回・9月は一緒に、となったようだ。

 話は変わって、総合図書館はきょうから24日まで、特別整理のために休館する。ラトブ内はもちろん、周辺へのシャワー効果は……。いやいや、それよりなにより、読みたい本があれば四倉、内郷、あるいは小名浜図書館へ行くしかない。この時期の一番大きな悩みだ。

2016年6月12日日曜日

『江戸おんな歳時記』

 カミサンが移動図書館から借りて読んでいた本を開きながら言った。「ここに載ってる人……」は三春藩領常葉村(現田村市常葉町)から、俳人と駆け落ちした主婦ではないか。別所真紀子『江戸おんな歳時記』=写真=の冒頭、<新年・初春・元旦>の項に作品が紹介されている。
 人の来て元日にする庵かな 下総 素月尼
 
 下総の素月尼(そげつに)は夫の恒丸と死別して独り住居の庵が、年始の客の訪れによって始めて元日らしくなったと、短い詩型に自身の境涯を暗示して諧謔味ある詠みぶりである――と解説にある。
 
 俳諧研究者や郷土史研究家くらいしか知らない、マイナーな素月尼を取り上げる著者は何者? 略歴に詩人・作家・連句誌主宰とあった。俳諧評論も手がける専門家だ。一昔前、江戸時代の女俳諧師五十嵐浜藻を主人公にした小説『残る蛍――浜藻歌仙帖』(新人物往来社、2004年)を買って読んだ。忘れていたが、その作者だった。

 江戸時代中期の終わりごろ、阿武隈の山里に、俳諧に取りつかれた男女がいて、老いらくの恋に落ちた。今泉恒丸(1751~1810年)、52歳。もと女(素月尼=1759~1819年)、44歳。ある晩、2人は三春駒にまたがって出奔する。

 前に2人のことを書いたことがある(いわき地域学會図書16『あぶくま紀行』1994年所収「石巌山人のこと)。それからの要約・引用――。

 駆け落ち後、夫婦は江戸に住んだ。文化3(1808)年、大火事で焼け出されると、門人の世話で下総佐原に移住する。指導力が抜群だったのか、門人は常陸・房総合わせて4000人ほどいたという。もと女は恒丸没後、京都で髪をそり、素月尼と名を改めた。函館の斧の柄(おののえ)社に滞在中の俳人松窓乙二(1756~1823年)のもとを訪れ、病を得てそこで亡くなった。

 当時としては、駆け落ちは一大スキャンダルだ。ムラの知識人と子どものいない主婦とが俳諧を介して結びつき、風狂の大海へと泳ぎ出した。2人の生涯に触れるたびに、2人にとりついた文学の魔を思う。

 2人については、矢羽勝幸・二村博『鴛鴦(えんおう)俳人 恒丸と素月』(歴史春秋社、2012年)が詳しい。

2016年6月11日土曜日

郵便物誤配

 郵便番号が定着した今は、自分で出すはがきや手紙はできるだけあて先を省略する。「いわき市平中神谷字○×9-2」の場合は、字名と番地の「○×9-2」だけ。それではなぁと思ったときには「中神谷字○×9-2」にする。年賀はがきは、枚数が多いので徹底して省略する。
 郵便番号制とは数字が正確であれば郵便物は届く、というシステムだろう。しかし、郵便局と個々の家がベルトコンベヤーでつながっているなら別だが、郵便物は昔も今も人間が配達する。
 
 きのう(6月10日)午後遅く、時間的には郵便配達人が近隣を配達中のことだと思うが、近所の人(「東の家」と言っておく)がカミサンあての封書を持ってきた。あて名が同じ字名、名字、名前も昔、同居していた親族と同じだったので開封してしまった、という。中身を見て首をかしげ、あて名の番地を確認して、誤配だと気づいた。
 
 それから間もなく、わが家に郵便物が届いた。なかに1枚、別の家(「西の家」と言っておく)のはがきがまぎれこんでいた。住所を見ると、つい最近まで水田だったところだ。家が建って、順次、人が住むようになった。隣接地区の字名だが、番地がわが家と同じ、名字も同じ。

 30分もたたない間に、わが家にからむ誤配が二つあるとはどういうことだろう。数字が同じ、あるいは名字が同じだから間違った?――では、五郎丸選手とは逆のルーチンではないか。「通信の秘密の侵害だ」と眉間にしわを寄せることもできる。
 
「東の家」に関しては、東日本大震災前にも一、二度誤配があった。「西の家」は、原発避難の人が移り住んだ。郵便配達人にはまだ家が認識されていないのか。ここは、直接、その家に郵便物を届けるよりは、きょうやって来る(かどうかはわからないが)郵便配達人に返して家を教えた方が次の誤配防止になる。

 と書いてきて、思い出したことがある。過日、めったにない数字の偶然に遭遇した。
 
 5月27~28日、栃木県・那須高原の温泉宿でミニ同級会が開かれた。2日目の朝、ゴヨウツツジ(シロヤシオ)の群生地を散策するため、宿の駐車場へ行ったら、仲間の車と尻をくっつけるように止まっている車のナンバーが同じだった=写真。しかも関東圏の同じ県ではないか。こういう数字の偶然なら罪がなくて楽しい。

2016年6月10日金曜日

キュウリとネギ坊主

 日曜日(6月5日)に地区の球技大会が開かれた。その後も用事が続いた。きのう(6月9日)午後、思いたって夏井川渓谷の隠居へ出かけた。わが家を出るとき、雨が降っていた。傘をさしても野菜の様子を見ないと――。
 その前の日曜日。キュウリ苗に花が咲いて、3センチほどの実ができていた。以来、10日余。かなり肥大しているのではないか。三春ネギのネギ坊主も、黒い種子をのぞかせるばかりになっていた。ネギ坊主がばらけて種子が散ってしまったら、元も子もない。

 案の定だった。平ではやや強い雨、小川町でも雨。渓谷に入ると、雨がパラパラ程度になった。傘をさしてキュウリ苗を見る。3センチほどの実が地面にくっつきながら15センチ以上に肥大していた。三春ネギも花茎が折れたり、ネギ坊主が半分にばらけたりしていた。

 濡れていてもネギ坊主を切り取らないと種子が確保できない。ネギ坊主をカゴに集め、ついでにキュウリを入れた=写真。もう少し早く会いたかったねぇ――などと胸の中でつぶやきながら。
 
 野菜は人間を待たない。必要なときに大きくなり、種子をつくる。それを見計らって、人間が収穫したり採種したりする。その時期をはずしたら……。で、雨が降っていたが、いてもたってもいられなくなったのだ。

 キュウリのつるが支柱からずれて“地ばい”になっていた。前回、支柱と支柱の間に、ネット代わりのテープを張った。それにつるを誘引する。キャベツも、アオムシのえさになっていた。結球しつつある葉が穴だらけだ。前回は時間差攻撃(午前と午後)でアオムシを20匹ほど退治した。今回はたちまちそのくらいの数をブチッとやった。

 キュウリの実は、ナメクジにでも皮をかじられたか、傷だらけだった。晩酌用にカミサンが薄切りにして塩でもんだ。皮が硬かった。

 さて、三春ネギだ。採種は簡単。ネギ坊主を乾かしてパタパタやると、黒い種子がこぼれ落ちる。それを集めて一度水につける。中身のない種は軽いので浮きあがる。底に沈んだ種だけをさらに乾かしたあと、小瓶に乾燥剤を添えて入れ、冷蔵庫で10月10日前後まで保管する(三春ネギは秋まき)。冷蔵庫で――がポイントだ。けさは快晴。さっそくネギ坊主を天日に干した。

2016年6月9日木曜日

清掃デー余話

 生活していればごみが出る。決まった日に、決まったやり方で、決まった場所に出す。すると、収集車が来てごみ袋を回収する。保健衛生・環境美化の面からも優れたシステムだ。
 そのシステムに目をつけたのがカラス。「燃やすごみの日」になると、通りに現れる。ごみ袋をつついて、生ごみを路上に食べ散らかす。カラス対策に悩み続けていたある班(隣組)はついに最近、ごみネットから折り畳み可能なごみ箱に替えた=写真。効果は抜群らしい。細道のそばに空き地があったので、できたことかもしれないが。

 カラスを呼び寄せるのは、しかし人間だ。ごみネットの中にきちんと押しこまない。ルール通りに出さない。カラスはそんな人間のスキをついてくる。

 日本人のおおかたはふだんから環境美化に努めている。ポイ捨てしても、違反ごみを出しても平気な人間はごく一部だろう。

 春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動が6月3~5日に行われた。最終日は家の周りをきれいにする「清掃デー」。その日に限って違反ごみが出る。それも早朝、住民が一斉に清掃をしてごみを袋に詰め、決められた集積所に出して、収集車が回収したあと、夜陰に乗じて、だった。
 
 清掃デーの翌日は、わが区は「燃やすごみ」の日。そこに、「燃えないごみ」とは違う、有料の家電リサイクル品(ブラウン管テレビ)が出ていた。当然、回収されずに残る。

 ごみ集積所を管理する班長さんから「どうしたものか」と相談を受けた。前にも同じようなケースがあった。ここは市に連絡して、環境美化の観点から対処してもらうしかない。ごく一部の人間とはいえ、やり方がこすい、いや、せこい?

 これとは別に、清掃デーがらみで寄せられた要望もある。隣の区との境界に三面舗装の排水路・三夜川が流れている。あるところでは、民家の庭から木の枝が水面を覆うように垂れさがっている。あるところでは、そばの人道(旧あぜ道?)が草ぼうぼうになっている。家の裏なので毎年、見かねて人に頼んで刈っているが、ほんとうはだれの管理なのか――。

 コミュニティに生じる波風は、こうした保健衛生上の問題が大半だ。半分要望、半分確認のための文書をつくって、近日、市役所へ行く。

2016年6月8日水曜日

締め切りのある生活

 おととい(6月6日)は朝、寺の赤ちゃんがパパと、きのうはそれより少し大きい赤ちゃんがママとやって来た。パパはママの代理で熊本から届いた“抱っこくまモン”を買いに、もう一人のママはフェアトレード商品であるコーヒー豆を届けに来た。私も2人のママを知っている。が、きのう来たママはどちらかといえばカミサンとの付き合いが主だ。
 東日本大震災では、それぞれ被災しながらも大津波や原発事故で避難を余儀なくされた人々の支援活動を続けた。その間に2人はママになった。

 寺のパパは埼玉出身。実家の周囲で栽培されているキュウリやニンジンなどをみやげにいただいた。糠漬けの材料が切れていた(週末は買い物にいくヒマがなかった)ので、すぐキュウリを糠床に入れた。夕方にはいいあんばいに漬かっていた。やわらかかった。

 コーヒー豆のママは高専の後輩でもある。今年(2016年)2月から4月まで週1回木曜日、いわき民報の「くらし随筆」を担当した。久しぶりに歯切れのいい文章に触れた。

 最終回4月28日の「締め切り」と題する随筆=写真=を切り抜いて手元に置いている。「くらし随筆」を引き受けて3カ月間、週1回の締め切りが「何となく過ぎていく日々に輪郭をつけてくれるように感じた」という。
 
 彼女が「くらし随筆」を始めたころ、わが家へやって来た。会って感想を述べたあとに「締め切りのある生活はいいものだよ」と言い添えた。
 
 私がいわき民報をやめたときには「締め切り」から解放されてホッとしたが、3カ月ほど過ぎると「締め切りのない生活」にむなしさを感じるようになった。そこへ、いわき地域学會の若い仲間が「ブログをやりましょう」と言ってきた。若い仲間がおぜん立てをしてくれたおかげで、こうして毎日8年余、ブログを書いている。

 カネがからむ仕事や地域の行事、各種案内・アンケートなどにも「締め切り」はつきものだが、自分自身の暮らしのなかに「締め切り」のあることが私には大事だった――そんな思いで「締め切りのある生活はいいものだよ」と言ったら、最終回の文章に取り入れていた。
 
「締め切り」は「時間に追われるだけではなく、過去と未来をつなぐ今こそを、もっと深く味わうためにあるのかもしれない」。こういう「締め切り」観に触れるとうれしくなる。
 
 そうそう、彼女の兄さんのツイートをフォローしている。だれかのリツイートを見てフォロワーになった。冷静で簡潔な妹の文章に対して、兄さんは少し自虐的ながらもシャープなつぶやきを発する。お笑いコンビ「アルコ&ピース」のピースだ。

2016年6月7日火曜日

ホトトギスに遭遇

 街や夏井川渓谷の隠居へ行くとき、あるいは帰るときのいずれか、山すその田んぼ道や夏井川の堤防を利用する。「翼を持った隣人」に出合えればいいな、そんな軽い気持ちからだ。
 再三書いているが、車を運転するときにはいつも小さなカメラを携行する。隠居へはさらに、望遠レンズ付きのカメラを持っていく。

 キジなら(距離にもよるが)、小さなカメラでもなんとか撮れる。狙って撮るタイプではないからすべて偶然だ。が、これまでの経験から「いそうだな」そう思って車で移動中、スピードを緩めて見ると、いるときがある。キジが、サギが、カルガモが。いずれにしても「ウオッチング第一、撮影第二」だ。

 そんなゆるいウオッチングでも長年続けていると、いい瞬間に出合えることがある。この1週間では――青田から飛び立つアオサギ=写真。わが家の庭にあらわれたシジュウカラ。夏井川堤防上空のチョウゲンボウ、ミサゴ、トビ。こちらはわずか数分の間のタカ三連発だった。

 そして、おととい(6月5日)。平・神谷(かべや)地区球技大会が地元の昌平中・高グラウンド(ソフトボール)と体育館(バレーボール)で開かれた。学校は石森山の中腹にある。そばの林のへりで朝からホトトギスが鳴いていた。

 ホトトギスは夜も鳴く。幼いとき、その鳴き声を聞きながら、祖母が寝物語に怖い話を語ってきかせた。いやでも鳴き声が耳にこびりついている。

 昔、きょうだいがいて、食べもののことで口論になった。食べていないのに「食べたべ」と邪推された方が、身の潔白のために腹を裂いて死んだ。残った方は自分の誤りを悔い、悲しみ、ホトトギスになって「ポットオッツァケタ」=ポッと(腹が)おっつぁ(裂)けた=と鳴き続けているのだという。阿武隈の山里では広く流布している話だ。
 
 そのホトトギスの姿を、ソフトの決勝戦応援中、至近距離で初めて見た。林縁を移動するときのシルエットがチョウゲンボウそっくりだった。

 ついでながら、ホトトギスの聞きなしは「トッキョキョカキョク(特許許可局)」が一般的。それはしかし、おかしいと私は思っている。「『特許許可局』的組織はいつできた? 明治以後ではないか。ホトトギスは江戸時代も平安時代も鳴いていた」。土地によって聞きなしが違うのは当然で、中央の聞きなしにしばられる必要はない。

2016年6月6日月曜日

球技大会で優勝

 はからずも優勝してしまった、というのが選手の実感だろう。きのう(6月5日)、いわき市平の神谷(かべや)地区球技大会が開かれた。旧神谷村8行政区の対抗戦(トーナメント形式)で、男性はソフトボール、女性はバレーボールに汗を流した。ソフトでわが行政区が優勝し、バレーは3位に入った。
 親睦が第一、勝ち負けにはこだわらない――選手の確保に苦労した監督・主将も、ぶっつけ本番で参加した選手も思いは同じ。勝ったチームの反応は例外なく「勝っちゃった」だ。わが監督・主将は優勝に喜びながらも、次の平地区大会の選手確保に頭を痛めることになる。

 行政区の役員は裏方だ。弁当や飲み物を手配し、反省会の準備をする。困ったことに、このごろは春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動と球技大会の日がかちあうようになった。

 今年(2016年)は初日(6月3日)・清潔な環境づくりをする日、2日目・自然を美しくする日/みんなの利用する施設をきれいにする日、そして最終日のきのうは清掃デー=写真=だった。
 
 わが区では、清掃デーは早朝6時半から1時間と決めている。球技大会は7時から会場の設営、8時開会式、8時半試合開始だ。試合の前に一斉清掃に加わった選手もいるだろう。区の役員も清掃デー、球技大会と役割を分担した。(わが家の近所の集積所で9袋ほどが積み残された。違反ごみではなさそうだが……。これから役所に連絡する)
 
 わが区は、去年はソフトが準優勝、バレーも3年前に準優勝をしている。それなりに実力のあるチームなのだが、ソフトの優勝は10年余ぶりだった。
 
 7月の平地区大会は「壮年ソフトボール」という名目だ。40歳以上をそろえないといけない。神谷のほかの行政区から該当する選手を補強する必要がある。裏方(区の役員)としては未知の体験が待っている。

2016年6月5日日曜日

朝のヨガ体操

 日本人に置き換えたら、朝のラジオ体操のようなものだろうか。きのう(6月4日)も書いたが、インドの青年が2人、ホームステイをした。1人が朝、テラスでヨガ体操をした=写真。
 ヨガマットの上で足を屈伸させる、両手を、足を高くあげる、体をねじる……。ゆっくりと静かな体操だが、全筋肉を使って体をほぐし鍛える、といったヨガ行の基本を見る思いだった。

 インド式の朝の体操を眺めながら、昔、しばらく頭を占領していたことばを思い出した。

 江戸時代後期に生きた俳僧一具庵一具(1781~1853年)は出羽で生まれ、磐城平・山崎村の専称寺で修行した。後年、江戸に出て俳諧宗匠として名をなした。

『一具全集』を読んでいたとき――。「瑜伽論(ゆかろん)」とか「腰舟」「浮沓(うきぐつ)」「浮腹巻」といったことばに出合った。腰舟や浮沓・浮腹巻は、人間が水の上を移動するための道具だろう。なにか修行に関係することばらしいことは想像がついたが、「瑜伽論」がわからなかった。「ゆか」」が「ゆが」になり、「よが」つまり「ヨガ」のことだとわかったのはだいぶあとだ。

 サンスクリット語のヨガを漢字に音写したものが「瑜伽」。「呼吸法・座法・瞑想法などの訓練によって,普通の人間以上の高度な心身を実現しようとする修行法」と大辞林にはある。地下鉄サリン事件を起こしたカルト教団の「空中浮遊」も、ヨガから発したものだろう。
 
 水上歩行や空中浮遊はともかく、インドの若者は一種の健康法として毎朝、時間をかけて体をほぐし鍛える。朝日に感謝しながら――。ヨガは秘法でも超能力でもなく、心身鍛錬法のひとつ、いや座禅やラジオ体操などの原点だった?

2016年6月4日土曜日

インドの揚げ菓子

 先日、インドの若者2人がホームステイをした。1人は自分の国のお菓子をいっぱい持ってきた。といってもみやげ用は一部で、あらかたは本人用ではなかったか。
 なかに渦巻き型のお菓子があった=写真。大きさは径5センチ弱。壊れて小さくなったものもある。ネットで調べたら、「ムルック」という揚げ菓子らしかった。原料はチャナダル(ひよこ豆のひき割り)を粉にしたもので、スパイスが入っているようだが、そんなに辛くはない。そば粉のクッキーのような食感だ。

 孫も疑似孫も来て、インドの若者とあれこれやっていた。小3の孫がインドのお菓子を食べて「スパイシー」と言った。「ン、お前わかってんのか、スパイシーの意味を」。食べたのは、ムルックとは別のお菓子だったと、あとで聞いた。

 ムルックをポリポリやっていたら、「プレゼントします」となった。そんなに甘くない分、酒のつまみに適している。2~3日で袋が空になった。
 
 その1週間後、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわき市平で「ネパール大地震復興PROJECT みんなで応援キャラバン」のいわき報告会を開いた。
 
 ネパールの首都・カトマンズにシャプラニールの事務所がある。震災当時、所長だった宮原麻季さんが講演した。同じ日、私は那須高原でミニ同級会があったので、報告会には行けなかった、
 
 シャプラの前事務局長氏も来た。カミサンがタイのみやげをもらった。激辛の「かっぱえびせん」だった。いやあ、辛い。で、今それを少しずつ食べている。
 
 それはそれとして、あとで味な話を聞いた。宮原さんのお母さんはいわき市出身。伯父さん夫妻が講演を聴きに来た。伯父さんはカミサンの小中校の同級生だった。私も名前に覚えがある。あるNPOで一緒だった。

2016年6月3日金曜日

突然、彼岸へ

 せめて那須高原のゴヨウツツジ(シロヤシオ)の写真を添える=写真。ふるさとの田村市常葉町の大滝根山では、シロヤシオの花がまっさかりだろう――。魂は大滝根山を目指してふるさとへ帰ったか。
 近所に住む中学校の同級生が来て、「○○子が亡くなった」と、同じいわき市に住む同級生の名を告げた。

 七つ、八つと「つ」が付く年のころ、常葉町には小学校が4校あった。うち3校の卒業生が中学校で合流した。団塊の世代のど真ん中で、阿武隈の山の町でも同学年の仲間は250人を超えた。
 
 同級生数人がいわきで暮らしている。50代になってからだと記憶するが、いわき組で忘年会を始めた。常連は男性が2人、女性が4人。夏井川渓谷のわが隠居でアカヤシオの花見をしたこともある。その1人が5月29日、肺炎で急死した。享年67。中学校時代は運動能力の高さで一目おかれていたのに、なぜ?

 学年全体の同級会は、20歳のときから5年ごとに開かれている。還暦同級会は郡山市の磐梯熱海温泉で開かれた。「次回はいわきで」となり、3年前にスパリゾートハワイアンズで開かれた。その2年前、東日本大震災に見舞われた。地震ばかりか、津波・原発事故に苦しむ浜通りを支援しようという名目が加わった。
 
 通夜式が終わったあと、坊さんが故人の人となりや団塊の世代で、常葉町で生まれたことなどを紹介した。「今年(2016年)の1月3日に家を訪ねた。ニコニコして迎えてくれた。庭はいつもきれいだった」。で、戒名に明るい心の持ち主という意味の「明心」を入れたという。
 
 そうだった。忘年会ではいつもニコニコして話した。食べ物を作って持ってきた。65歳の同級会のあとは、いわき組は集まりを持っていない。急きょ、来月(7月)、会を開くことになった。棺に納まっている彼女に別れを告げたら、たまらなくなったのだ。

通夜式を終えたあと、仲間が実の姉さんと話した。「いつも集まりを楽しみにしていた」という。それはこちらも同じ。今度の開催日は偶然、彼女の四十九日に当たる。「中陰」を終えて彼岸へ旅立つ彼女を、仲間で見送る。

2016年6月2日木曜日

クマよけ鈴

 場所によって「動物注意」標識の図柄が変わる。いわき市ではタヌキ・イノシシくらいか。北欧にはトナカイ注意、妖精「トロール」横断注意(ノルウェー)の標識があった。土曜日(5月28日)、栃木県・那須から東北道下り線に入ったら、クマの図柄の「動物注意」標識に出くわした。
 那須高原にはツキワグマが生息している。今年〈2016年〉も4月初旬に那須町の丙湯本というところで、5月下旬にはスマートIC那須高原SA付近で目撃されている。那須へ行ってわかったが、どちらかといえば人里だ。それより標高の高い山岳部では普通に動き回っているにちがいない。

 標高1400メートル付近の山にゴヨウツツジ(シロヤシオ)の群生地がある。土曜日の朝、同級生一行でゴンドラに乗って見に行った。乗り場のショップに「熊スズ 販売してます‼」の手書き広告と、登山客への注意書きがあった=写真。山頂の「登山道周辺に熊が出没したとの情報がありました。/遊歩道より先へ行かれる方は、充分に注意下さい。/ラジオや熊鈴等の携帯をお勧めいたします」

 秋田県では5月下旬~末に同じ地域で3人が相次いでクマに殺された。クマ被害防止を呼び掛ける新聞記事によれば、去年(2015年)はクマのえさになるブナの実がまれにみるほど豊富だった。で、今年はクマが親子で活発に移動するケースが多いと予測されている。やはり、クマよけ鈴を、ということだった。

 私たちはゴヨウツツジの遊歩道止まりだったが、それより先に行く登山客は、人によってはリュックにクマよけ鈴を付けていた。いやあ、那須ってすごい。夏井川渓谷にもゴヨウツツジは自生するが、クマはいない。

 夏井川渓谷は福島県立自然公園、那須はあれだけ広大でも日光国立公園の一部だ。国立・県立・市立では美術館の規模やスタッフの数が違うように、自然公園も国・県立ではスケールが違う――なんてことを、クマ図柄の標識を見たあと、脈絡もなく考えた。

 阿武隈高地にはクマは生息しないと、これまでいわれてきた。が、近年、目撃情報が相次いでいる。いわきでも2012年7月31日、田村郡に接するいわき市川前町上桶売字大平地区でツキノワグマの足跡が確認された。夏井川渓谷にもいつかはクマが現れる、そう思っていた方がいいのかもしれない。

2016年6月1日水曜日

5月の終わりに

 5月の終わり(昨夜)に疑似孫がライブハウスで弾き語りをした。「クラブソニックいわき」=写真=といえば、若者にはライブハウスとして知られているが、私ら中高年には元映画館だ。初ステージだというので、ライブハウスになってから初めて出かけた。
「オギャア」と生まれたときから知っている。田村隆一の詩ではないが、およそ六千の日と夜が過ぎたら、しゃべって歌う少女に育っていた。

 文章に興味を持つようになったころ、「春と修羅」の入った『校本宮沢賢治全集』第2巻をプレゼントした。このごろは音楽に夢中になっている。先日、インド人2人がわが家にホームステイをした。母親と一緒にやって来て、私のアコースティックギターをかき鳴らして歌い、2人を喜ばせた。

 実はその前、わが家へカレーライスを食べに来たとき、初めてギターの弾き語りを聴いた。歌ったのはシンガーソングライター大森靖子(せいこ)の曲だという。「いつの間に、ここまで……」と感心しながらも、50年前の自分を思い出していた。

 内郷コミュニティセンターが内郷公会堂と呼ばれていたころ――。学校の寮仲間でベンチャーズのコピーバンドをつくった。同公会堂で初めて人前で演奏した。床は土間だった記憶がある。「テケテケテケ――」に合わせて、同年代の少女たちがゴーゴーダンスに興じた。そんなことをするのは“不良”、漫画を読むのも“不良”といわれた時代だ。

 今は禿頭(とくとう)白髪の団塊をはじめ、世代・性別を越えて音楽が人々の暮らしのなかに溶け込んでいる。疑似孫の両親もどっぷり音楽につかっている。疑似孫のライブ情報は母親から届いた。

 出演者は5人。疑似孫はトップバッター、ということは昔風にいえば「前座」だ。弾き語りをしているときの楽しそうな表情がよかった。いや、楽しんでいる姿を見てうれしくなった。歌の合間のしゃべりも重要らしい。わかりやすいたとえで自然に笑いを誘うあたりはなかなかのもの。表現者としての度胸は母親から、音楽は父親から受け継いだか。
 
 大森靖子の4曲を披露した。最後の「お茶碗」は、♪わたしのお茶碗ちっこいわ……金曜の夜には会いたいなそろそろお米も切れたでしょ――遠距離恋愛?と妙にリアルな日常がうたわれる。客は十数人だったが、初ステージはアマチュアらしい、アットホームなものだった。出演者はこうして、客の拍手と店のスタッフに支えられて育っていくのだろう。