2016年7月2日土曜日

休耕田

 通いなれている道沿いの山里だからわかる変化だ。何枚もない水田の1枚が休耕地になっていた=写真。
 農地、特に水田は震災前から担い手が減っている。後継者がいないまま高齢化して耕作をやめた、あるいはほかの農家に耕作を委託した――というケースが少なくない。非農家から見ると、どこの農家も米を作っているように見えるが、実態は深刻だ。

 耕作放棄地の増加は農村景観の崩壊を意味する。農村景観を維持する基本は草刈りと剪定、道普請と用水路の泥揚げ。

 草刈り、これは家の内外だけではない。あぜ道、堤防、場合によっては空き地も。行政区によっては全戸で対応、というところもあるようだが、高齢化でそれができない家が出てきた。加えて非農家が増えている。今までと違った摩擦もおきる。「草刈り機の音がうるさい」「ここはだれが草を刈るのか」。農家の多い行政区の区長さんの苦労がしのばれる。

 農村景観は、自然と人間の関係が可視化されたものだ、と言ってもよい。典型が双葉郡の風景。原発避難によって耕作放棄を余儀なくされた。秋になると黄金の稲穂が広がっていた田んぼが、除染廃棄物を収めた黒いフレコンバッグとセイタカアワダチソウの黄色い花で覆われた。こんな異常な風景は世界の稲作史のなかでも初めてだろう。
 
 それでも、ところによっては試験栽培から本格栽培へと稲作復活の動きが広がる。住民がみずから「限界集落」と自嘲する夏井川渓谷の小集落でも、「米づくりをやめたらすぐ竹林になっちまうんでねぇべか」と言いながら、無事田植えがすんだ。

初夏になると枯れ田はカエルの鳴く青田に変わる。この“当たり前”の風景は、実は人の手でかろうじて維持されているものだった。自然と人間の関係が切れると、たちまち田んぼは荒れた自然に返る。

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