2016年8月31日水曜日

防災士教本

 台風一過――。いわき地方では、心配されたほどには被害がなくてすんだ。わが家では、玄関わきの鉢植えが倒れることもなかった。テープで囲ってそばの柱にしばりつけた=写真。それが効いたかどうかはわからない。鉢植えが倒れるほどの暴風ではなかったようだ。
 道路向かい、故義伯父の家の庭に植わっている萩は、しかし根元から折れた。木は、低木でも横倒しになると場所をふさぐ。片づけはカミサンにまかせて、私は米屋の店番を兼ねて市民文学の「文字読み」を続けた。
 
 まだ暴風雨のさなかにあったときだ。テレビを見ながら、カミサンが「なんで高潮になるの」と聞く。「高気圧で押さえつけられていた海面が、低気圧(台風)になって膨張するから」と答えたものの、ほんとうはどうなのか。そばに置いてある『防災士教本』を開いて「風水害と対策」の章を読んだ。

 風速が毎秒17.2メートルを超えると「熱帯低気圧」から「台風」に名称が変わる。台風の中心が九州、四国、本州、北海道の海岸線を横切ったときをもって、台風の「上陸」とする。台風の中心付近は気圧が低く、1ヘクトパスカル下がると海面が1センチ上昇する――「上昇」を「膨張」と言い換えても間違いではないだろう。
 
 台風9号のときと同じように、一時、いわき市全域に避難準備情報が出された。テレビのデータ放送でいわきの24時間雨量をチェックする。思ったより少ない。風もそうだ。というわけで、様子見をしているうちに台風が過ぎていった。倒れた萩はもともと道路側に傾いていた。折れるべくして折れたのかもしれない。
 
 少しずつ青空がのぞくようになった午後3時半すぎ、友人の娘さんが2歳の愛娘を連れてやって来た。2歳児は「さんぽ」と称して家の中をせわしく歩き回る。 “お相手”をしながらふと思った。きょう、ちゃんと歩いたのはこれが初めてだぞ。「豆台風」は疲れを知らなかった。

2016年8月30日火曜日

台風警戒

 きょう(8月30日)、いわき市内の小・中学校は臨時休校になった。隣の草野地区にあるカレー料理店も休業を決めた。夜に予定されていた同地区(9行政区のうち泉崎・下神谷・赤沼・六十枚の4行政区)の原子力防災図上訓練も延期された。
 下神谷・赤沼・六十枚区は夏井川の最下流左岸域~沿岸域に位置する。カレー料理店は下神谷にある。1週間前、台風9号が接近したときには、防潮林の陸側、横川(夏井川と仁井田川の河口をつなぐ)の水位が上がったため、未明に避難勧告が出た。
 
 今度の台風10号はきょう午後、東北地方に接近・上陸する。台風統計を取り始めた昭和26(1051)年以降、東北上陸は初めてのことだとか。強い勢力を保ったまま上陸するため、福島県知事もわざわざ記者会見で警戒を呼びかけた。
 
 9号の避難勧告にからんで、近所の人と話していてガクゼンとしたことがある。わが行政区は神谷地区の中神谷南区、隣は草野地区の下神谷区だ。下神谷と中神谷の区別がつかない、横川がどこにあるかわからない、目の前を流れる三面舗装の三夜川(農業排水路)がそれか――これでは洪水の危険が迫ったとき、いのちが危うい。
 
 昔は田んぼか畑だったところで、土着の人はほとんどいない。土地の地理や歴史に通じていなくても暮らしは成り立つ。が、自然災害はそうはいかない。今でも大雨になるとすぐ歩道が冠水する。「水害常襲地帯」に住んでいるという認識が必要だが、どうだろう。最低でも主要道路や川の名前・位置、区内の中層建築物くらいは頭に入れておきたいものだ。
 
 きのう、カレー料理店に用事があったので、夏井川左岸堤防~六十枚橋~右岸堤防~海岸道路と遠回りをしながら出かけた。右岸河口部の公園では作業員の乗ったクローラ(無限軌道)式の草刈り機がフルスピードで回っていた=写真。広大な河川敷では重機型の草刈り機を投入しないと間に合わない。閉塞している夏井川河口では、高波が砂丘を超えて川の方へ押し寄せていた。これでは大雨時、横川の水位が上がるに決まっている。
 
 遅まきながら、帰宅後、市の防災メール配信サービスを受けられるよう、登録をすませた。パソコンなので外出中は情報に接することができない。とはいえ、在宅ワークの身にはこれでおおむね間に合うだろう。
 
 先日の原子力防災図上訓練のときにも痛感したが、行政区内の情報連絡網を確立すること、地名や川の名を明記した区内のマップを用意すること――これが当面の課題になる。けさは起きるとすぐ、玄関わきの鉢物をテープで固定した。

2016年8月29日月曜日

市民体育祭

 きのう(8月28日)、平六小の校庭で神谷地区市民体育祭が開かれた=写真。台風~前線~台風の合間の曇り空と、熱中症予防にはうってつけの天気になった。
 雨で1週間延期となれば、仕出し屋(弁当・反省会の飲食物)への連絡、テントの撤収、出場メンバーの再編成など、それぞれがまた一からやり直さないといけない。子どもを守る会、区の役員の苦労が一回ですんだことに、まずは安どした。
 
 体育祭は9月第一日曜日開催が恒例になっている。今年は9月4日だ。一方で4年に一度の市議選が同日告示、11日投・開票で行われることが決まった。同小の体育館が投票所になる。雨で1週間延期しても投票とダブらないためには9月後半にずらす、あるいは8月最終日曜日に前倒しする、しかない。結果的には前倒しで正解だった。(ミンミンゼミが鳴くなかでの開催は初めてかもしれない)

 時代の風はまず地域の片隅を吹き渡る。大型店が進出したときには路線商店のいくつかが廃業した。小学校の学級が減ったり球技大会出場メンバーの確保が難しくなったりするのは、少子・高齢化のあらわれだろう。体育祭の競技種目も、世代・性別を細かく分けたリレーなどは選手確保が難しくなってきた。

 それでも回を重ねること42回というのは、自賛になるがすごい。地域によってはとっくに中止したところもあるだろう。でも、継続するためには時代に合わせて大会要項を変えていく必要がある。そういう曲がり角にきていることも間違いない。
 
 やはり、リレーは盛り上がった。わが区は予選落ちしたが、決勝は見ごたえがあった。1位、2位の区がそれこそ抜きつ抜かれつのレースを展開した。わが区は、「玉入れ」では抜群の成績だった。
 
 そうそう、○×で勝ち残りを決める「ウルトラクイズ」では今、本州をうかがおうとしている台風10号のアジア名「ライオンロック」(香港の山の名前)が問題に出た。臨機応変に問題を出すところは親睦第一の体育祭らしくてよかった。けさはすでに雨。「ライオンロック」はあすが正念場だ。

2016年8月28日日曜日

サハリン⑪日本車

 ロシアのサハリン、ウラジオストク、ナホトカに共通していたのは、植生、そして行き来する車がほとんど日本車だったこと。日本語ガイド氏によると、85%が日本車、しかもその大半がトヨタだ。 
 きのう(8月27日)、晩酌中にふと、小名浜港からも中古車がソ連(現ロシア)へ輸出されていたことを思い出した。
 
 ネットで確認すると、同港では昭和64(1988)年がソ連への“中古車輸出元年”だったらしい。当時はよくわからなかったが、ゴルバチョフの「ペレストロイカ」(再構築)による“雪解け”のひとつだったようだ。木材を運搬して来た船員がお土産を買うように中古車を買う――そういう「個人輸入」だった印象がある。
 
 島(サハリン)ではコルサコフ(大泊)、シベリア大陸(ウラジオストク、ナホトカ)ではナホトカが中古車の陸揚げ地らしかった。
 
 それからおよそ30年後。あちこちへこんで錆びた超年代モノからピカピカのレクサスまで、どこへ行っても日本車であふれていた。トラックやタクシーなどは、日本の企業名がそのまま残っている=写真。
 
 感心したことがある。横断歩道では歩行者優先が徹底されていた。台湾やベトナムでは冷や冷やしながら横断したものだが、ロシアではスーッと車が止まる。日本はやはり台湾とロシアの中間だな、と思った。
 
 サハリンと大陸との違いもあった。島は未舗装道路が多いのか、ほこりと泥まみれの車が大半だ。洗車してもすぐ泥んこになる、だからそのままにしておく? ウラジオストク、ナホトカではきれいな車が多かった。

 それともうひとつ。日本車だから長持ちするとはいっても、道路の路肩には何台も故障車が止まっていた。日本だとすぐJAFに頼むところだが、ロシアでは同様の組織がないのか、あっても費用が高いのか、自分たちで修理するのが当たり前のようだった。
 
 私は20代半ばで車の運転を始めた。パブリカ、ギャラン、アコードと乗り継ぎ、会社を辞めると同時にパジェロからフィットに切り替えた。いずれも中古車だ。40年前のパブリカはともかく、アコードあたりはサハリンか大陸で走っているかもしれない。しばし目を凝らしたが、もとよりナンバーはロシア式で細長い。わかるはずもなかった。

2016年8月27日土曜日

台風のアジア名

 ほんとに降ってる――5時すぎに起きると、雨音が耳に入った。ゆうべの“最新情報”では、「朝から昼にかけて断続的に雨」だった。あとは曇り、あす(8月28日)の日曜日も「明け方まで雨」のあと曇り。熱中症にはならないから、ぎりぎりいい“天の配剤”かもしれない。
あす、近くの平六小校庭で神谷地区市民体育祭が開かれる。9月11日の日曜日にいわき市議選投開票が行われる。雨で1週間延期されても投開票とダブらないようにするため、9月第一日曜日と決まっている体育祭を前倒しした。

 ところが、台風が連続して日本列島をうかがい、前線も通過して雨がちな日が続いた。今週はたびたびパソコンやテレビのデータ放送で浜通り(いわき地方)の気象情報をチェックした。ついでに台風情報も。と、台風10号に「ライオンロック」という名前が付いていた。どういうことだ、これは!

 ネットで検索すると、気象庁の「台風の番号の付け方と命名の方法」に出合った。平成12(2000)年から、北西太平洋または南シナ海の領域で発生する台風には、日本ほか14か国の同領域内で用いられている固有の名前(加盟国などが提案した名前)を付けることになった、とある。台風のアジア名だ。

 あれがそうか。2010年9月19日、3泊4日の台湾の旅を始めて2日目、「凡那比(ファナピ)」という台風に島が直撃された。テレビで知った=写真。(新幹線で高雄へ行くメーンの日程が中止になり、5年後、その新幹線に乗りたくて台湾を再訪した)

 今度、調べてわかったのだが、台風の名前は順に繰り返し使われる。大きな被害を出した名前はその後、リストから外されて、その台風だけを指すものになる。5年前の「ファナピ」がそうして“永久欠番”になった。

「ライオンロック」は香港(山の名前)、次いで「コンパス」(日本=コンパス座)「ナムセーウン」(ラオス=川の名前)「マーロウ」(マカオ=めのう)「ムーランティ」(マレーシア=木の名前)「ライ」(ミクロネシア=ヤップ島の石の貨幣)と続く。

 5年前は、この「ライ」のところが「ファナピ」だった。「サンゴ礁を形成する小さな島々」の意味、ということだったから、やはりミクロネシアの言葉だろうか。

 きょうは午後から校庭でテント張りをしたり、いすやテーブルを並べたりする。きのうまで土・日の気象予報は「午前曇り、午後雨」だった。それが、午後には快晴の影響もあってか、「午前雨、午後から日曜日は曇り」に変わった。予報通りなら万々歳だ。

2016年8月26日金曜日

袋中上人の涙

 いわき地域学會の第318回市民講座が先週土曜日(8月20日)、いわき市文化センターで開かれた。夏井芳徳副代表幹事が「袋中上人著『琉球神道記』を読む」と題して話した=写真。
 袋中(1552~1639年)は、今のいわき市で生まれ育った浄土宗の学僧。関ヶ原の戦い後、いわき地方を治めていた岩城氏が滅亡する。その激変のなかで袋中もふるさとを去り、中国で仏教を学ぼうとしたがならず、琉球へ渡って浄土宗を伝え、沖縄初の史書「琉球神道記」を著した(いわき地域学會編『新しいいわきの歴史』)。沖縄の伝統芸能「エイサー」の始祖ともされる。

 夏井副代表幹事は「琉球神道記」の概略を話し、末尾に付された袋中の七言絶句を紹介した。

 袋中は知の巨人だった。その学僧が<那覇夜雨>という詩のなかで「古郷ヲ憶想スルコト、宵夕(しょうせき)、切ナリ/涙、細雨ヲ兼ネ、深更ニ至ル」と、ふるさと・いわきを思って一人涙を流している。袋中の内面がうかがい知れて興味深い。夏井副代表幹事ではないが、こういうときの袋中とは酒を酌み交わしたくなる。
 
 さて、と――。袋中上人を触媒にしていわきの「じゃんがら念仏踊り」と沖縄の「エイサー」が関係している、といった話がこのごろ広まりつつある。そうか?
 
 じゃんがら念仏踊りの研究者でもある夏井副代表幹事はそうした風潮に危惧を抱く。いわきでじゃんがら念仏踊りが始まるのは、袋中上人が沖縄へ渡ったあと、半世紀もたってからだ。袋中とじゃんがら念仏踊りは関係がない。こういう民俗芸能は一人の人間の創案(たとえば、祐天上人じゃんがら説)で始まるものだろうか、外からではなく土から湧き出るようなものではないのか、とこれは私の感想。

 同じような俗説に、「平七夕まつり大正8年起源」説がある。仙台に本店のある七十七銀行が平支店を開設した年を、平七夕祭りが始まった年と混同したのが“定着”した。
 
『いわき市と七十七銀行――平支店開設70周年に当たって』(七十七銀行調査部、平成元年発行)に七夕飾りの写真が掲載されている。キャプションは「七十七銀行平支店の七夕飾り(昭和5年)」。昭和10(1935)年8月6日付磐城時報にはこうある。「平町新興名物『七夕飾り』は今年第二回のことゝて各商店とも秘策を練って……」。平七夕まつりは昭和5年以降、9年あたりを起源とするのが妥当ではないのか。

 草野心平が“命名”したとされる「背戸峨廊(せどがろ)」(江田川)についても、あるときから「せとがろう」の読みが蔓延した。心平らが江田川を探検した当時の関係者の文章に当たると、読みは「せどがろ」、心平の創案ではなく地元の人間が呼びならわしていた「セドガロ」に、心平が「背戸蛾廊」の漢字を当てた。
 
 地域学會の初代代表幹事・故里見庫男さんの言葉に「事業はまじめに、記録は正確に」がある。「われわれは、われわれが現に生活している『いわき』という郷土を愛する。しかし偏愛のあまり眼を曇らせてはいけないとも考える。それは科学的態度を放棄した地域ナショナリズムにほかならないからである」(地域学會図書刊行のことば)。正確なことばで語れ――に尽きる。

2016年8月25日木曜日

元診療所がカフェに

 夜は浅田次郎の小説集「帰郷」を読みながら眠りに就く。2行でも3行でもいい、引き締まってテンポのいい文体に触れることで、小説の醍醐味を体にしみこませる。それを“鏡”にしてひたすら朝から夕方まで“市民文学”を読み続ける。夕方には目がかすみ、頭が重くなる。
 近くに仮オープンしたばかりのカフェがある。カミサンが「行ってみよう」というので、気分転換を兼ねて出かけた。平六小そばの、元診療所の建物を利用した「スープカフェあかり」=写真。

 昔、診療所の主は「やけど医者」として有名だった。昭和28(1953)年9月24日、詩人草野心平が平六小(旧神谷小)の校歌をつくるため、下調べにやって来た。晩には、「やけど医者」大場家で歓迎の宴が開かれた。心平と、校長やPTA役員らがごちそうをつついてにぎやかに語り合った。
 
 心平のいとこの草野悟郎さん(当時平二中校長)も同席した。というより、悟郎先生の口利きで心平が来校した。「歴程」369号(草野心平追悼号)に悟郎先生が書いている。
 
 心平来校2年前に発行された『神谷郷土史』によれば、大場家は父子で村医・校医を務めていた。若先生の夫人はPTA副会長。ずっと後年、私ら夫婦が子どもを連れて神谷へ引っ越して来たときも「やけど医者」は健在だった。先生が亡くなり、やがて奥さんが交通事故で亡くなったあと、母屋も診療所も空き家の状態が続いた。(追記:マイカー時代に入って、診療所は神谷から草野駅前に移ったということです。したがって、写真の診療所は神谷時代のもの。「草野のやけど医者」は後年のことのようです)

 平成21(2009)年。前年秋に会社を辞めて時間に余裕ができたとき、近くの神谷公民館の市民講座「基本のえんぴつ画」に参加した。10月に終了する前、公民館の周辺で写生会が行われた。建物が和洋折衷の元診療所をスケッチした。そこだけが「昭和モダン」のにおいを発していた。

「スープカフェあかり」はちょっと前まで平市街にあった。「移転再オープン」だという。初めて診療所の中に入った。床は板張り、窓は下の2枚が曇りガラス、上の2枚が素通しだ。診察室なので外から見られないように、という配慮だったか。店の南面は神谷耕土(水田地帯)。北側は小川江筋が流れる山裾の小集落。北側の素通しガラスにイナゴが張り付いていた。

 童話的、いやだれかの短編小説にでも出てきそうなちんまりした店だ。あずきのスムージーでのどを潤しながら、横長の素通しガラス越しに広がる青空と雲に見入った。

2016年8月24日水曜日

原子力防災図上訓練

 いわき市平の神谷(かべや)地区は、事故を起こした1F(いちえふ)からは40キロ前後、冷温停止状態の2Fからは30キロ圏内にある。2Fを起点にすれば、およそ市の北半分がこの圏内だ。
 東日本大震災から1年8カ月後の平成24(2012)年11月、いわき市は福島県地域防災計画で「UPZ(緊急時防護措置を準備する地域=原発からおおむね30キロ)」に指定された。原子力災害に対する防護措置を講じる必要があり、住民の意識づけも兼ねて、昨夜(8月23日)、神谷公民館で地区の課題を知るための原子力防災訓練(ワークショップ)が開かれた=写真。

 いわき市は原発事故を想定した地域防災計画を策定中だが、その骨格となる「広域避難先」がすでに決まっている。平地区は「南」が茨城県の石岡・つくば市など8市1町。ただし、東海村に原電があるのでその事故も想定して、「西」への避難を考慮しなければいけない。こちらは新潟県などを避難先に調整中だ。
 
 今回は最初の図上訓練(自助・共助・公助でいうと共助の部分)でもあり、「情報伝達」と「避難」の二つをテーマに、いわゆるKJ法で課題を整理した。神谷地区8行政区のうち半分の4区が参加した。残り4区の訓練は今夜、同じ場所で行われる。
 
 役員や民生委員ら4~7人が区ごとに班を編成し、付箋に課題を書きだしたあと、内容が似たものをグループ分けしてキーフレーズを抽出した。
 
 たとえば「情報伝達」では①情報の入手に不安②災害弱者の把握が難しい(個人情報が壁になっている)③連絡態勢ができていない、「避難」では①もっと近くに集合場所がほしい②ルートが不明確③共助態勢が決まっていない――などが挙げられた。隣組に入っていないアパートの住人への連絡・避難の呼びかけはどうするのか。これも課題に書き加えられた。
 
 神谷地区の一時集合場所は平六小、同二中、市北部憩いの家(北部清掃センター内)だが、二中は高台にある。大型バスは入れない。二中が集合場所の区からは「集合場所には適さない」といった声が出た。市の机上プランは地域の実情に合わせて修正されるが、いったん決まった集合場所を変えられるかどうかはわからない。
 
 3カ月後の師走には、同じように避難の課題解決のための方策を探る訓練(ワークショップ)が開かれる。5年余前のパニック(原子炉建屋爆発、屋内退避・食料枯渇、自主避難)は二度とごめんだが、万一には備えなければならない。今回初めて、区の役員間とはいえ広域避難のための課題共有がなされた。

2016年8月23日火曜日

ごみ・台風・セミ

 きのう(8月22日)のいわき市は、台風9号の影響で午後から風雨が強まった。夜には三度、瞬間的に電圧が低下して真っ暗になった。「風台風」だった。
 雨が来る前にやることがある。一つはごみ集積所のネット出しと違反ごみへの張り紙。もう一つは今度の日曜日に開かれる地区市民体育祭プログラムの協賛事業所への配布。

 先週の木曜日(8月18日)、「燃やすごみ」の日に、可燃・不燃・容器プラ・製品プラ・ペットボトルと分別すべきものがごちゃ混ぜになったごみ袋があった、そのままだと収集車は持って行かない。カミサンと二人でごみ袋を開けて分別し、新しいごみ袋にペットボトルを入れて、張り紙をした(ペットボトルは「燃やすごみ」の日には回収されない)。

 その張り紙が週末の雨でぬれ、字が判別できなくなった。で、きのう朝6時、新しく書いて集積所に残った違反ごみに張り紙をした。本人がそれを見たかどうかは確認しようがないが、張り紙をした違反ごみ袋はやはり積み残された。ごみ出しルールの維持・徹底は一時的なもので、住む人が変わればまたやり直し。「シジフォスの神話」と同じで、我慢してそれを繰り返すしかない。

 朝ご飯を食べたあとはすぐ、鉛色の雲が厚く覆うなか、体育祭のプログラムを協賛事業所に配って回った(住民にはすでに回覧網を通して配っている)。

 その時刻、テレビでリオ五輪の閉会式が行われていた。開会式の日にはサハリンにいた。始まりも終わりも映像をちゃんと見ていないので、私の中では五輪の流れが気の抜けたビールのようなものになった。

 それでも、雨が降る前にやることはやった。あとは自分の時間だ、と思いつつ、この時期、ほぼ1か月続く「文字読み」(400字詰め原稿用紙でざっと4000枚前後)に入った。

 ふと気づいたのだが、庭の柿の木が沈黙している。アブラゼミが、ミンミンゼミが、ツツクボウシ=写真=が連日、競うように鳴き交わしていたのが、風雨の強まりとともにピタリとやんだ。セミも風雨から身を守るのに精いっぱいなのだろう。
 
 7号はいわき沖を北上した。9号はいわきの西側の中通りを北上した。今度の週末もまた雨に見舞われそうだ。きょう夜は、市主導の原子力防災図上訓練が近くの公民館で行われる。これまた雨の確率が高い。

2016年8月22日月曜日

台風の合間に

 きのう(8月21日)の日曜日は、いわき市平のアリオスで「フラガールズ甲子園」が開かれた。隣接する平中央公園ではアリオスパークフェスと地球市民フェスティバルが併催された。カミサンが代表の「シャプラニール=市民による海外協力の会」いわき連絡会が地球市民フェスに参加したので、朝と午後遅く、フェアトレード商品の運搬役を務めた。
 日中は夏井川渓谷の隠居で息抜きをした。公園から隠居へ直行し、朝9時すぎ、キュウリやナス、辛くないトウガラシを収穫したあと、対岸の森に入った。
 
 雨台風(7号)がいわき沖を通過するとすぐ低気圧が来て、まとまった雨が降った。と思ったら、今度は三つの台風が接近しているという。一つ(11号)はすでに北海道を襲い、残る二つのうち9号が本州に迫っている。合間の快晴、猛暑だ。
 
 森もようやく湿って菌糸が動き出し、地上に子実体(キノコ)が発生しているのではないか――そんな期待があった。散歩は控えるようにといわれている身なので、斜面を上ったり下りたりはしない。森の中の道沿いだけを確かめる。イグチ系の大きな不食キノコ=写真=はあったが、夏キノコのチチタケは見られなかった。
 
 木々の葉が朝日を遮っているといっても、すでに暑熱がこもっている。森の中の「木守の滝」の前に立つと、涼風が吹き寄せてきた。天然のエアコンだ。汗が引くまで、しばらくそばの倒木に腰をかけていた。
 
 元気なころはずっと奥(下流)まで往復したものだが、隠居が見え隠れするところまでにとどめた。それでも休み休みだから往復1時間はかかった。
 
 あとは朝寝だ。横になったとたん、足の指にチクッと刺されたような痛みを感じた。アブだった。アブは清流の生きもの。環境の度合いが測れる点ではいいのだが、人間が来たなと思うとどこからともなく現れる。朝寝どころではなくなった。なんとなくぼんやりしながら持ち込んだ仕事をした。
 
 きょうはこれから台風9号の影響で大雨になりそうだという。今週もいろいろ行事が入っている。日曜日には地区の市民体育祭がある。雨で延期という事態は避けたいものだ。

2016年8月21日日曜日

サハリン⑩白鳥湖

 サハリンとシベリアの旅から帰って、それこそン十年ぶりで「銀河鉄道の夜」を読み返した。宮沢賢治の北方志向性をあらためて思った。 
 ジョバンニの父親は漁師で、北の海へ漁に出かけている。父親は大きなカニの甲羅とトナカイの角を学校に寄贈したことがある。今度はジョバンニにラッコの上着を持って来るかもしれない。
 
 20歳のころ、賢治の童話をむさぼり読んだ。ジョバンニやカムパネルラといった名前から、「銀河鉄道の夜」の舞台はイタリアのどっかの街、と思っていたが、やはりこれは北の街の物語だ。カニ・トナカイ・ラッコ……サハリンで目にし、耳にしたモノたちが重なる。
 
 ユジノサハリンスクから北の元泊(ボストチヌイ)へ行き、賢治ゆかりの栄浜(スタロドゥブスコエ)へ戻る途中、賢治が「銀河鉄道の夜」の発想を得たとされる白鳥湖に寄った。

「銀河鉄道の夜」には「白鳥の停車場」が登場する。次の南の駅は「鷺の停車場」。海岸道路に沿う林の切れ目の奥、湿地の向こうに白鳥湖が広がっていた=写真。道路の反対側、海岸寄りの水辺の林にはアオサギの集団ねぐらがあった。偶然だが、白鳥の次は鷺だった。

 北極圏で子育てを終えたハクチョウは、日本列島などへ南下して越冬する。春はその逆で、北極圏の繁殖地へ向かって北上する。サハリンでは南下・北上の途中、白鳥湖などで一時羽を休めるそうだ。それを狙う密猟者もいると、ガイドのワシリーさんが眉をひそめた。

 銀河鉄道の列車には、カムパネルラのほか、タイタニック号の遭難者と思われる集団も乗り合わせる。カトリック風の尼さんもいる。「もうぢき白鳥の停車場だねえ」「あゝ、十一時きっかりに着くんだよ」。ジョバンニとカムパネルらのそんなやりとりに、現実の白鳥湖や栄浜駅跡、湖沼、海岸、アオサギの集団ねぐらが重なる。
 
 白鳥湖の岸辺の樹下にクルマユリの花がひとつ咲いていた。サハリンの旅の記憶のなかで、なぜかこれだけが強烈な色を発している。

2016年8月20日土曜日

サハリン⑨オオカミ

 ネットで拾った情報だが、北海道の「ヒグマの会」が平成11(1999)年、サハリン(樺太)でヒグマとシマフクロウの研究交流会を開いた。ガイドはワシリー氏。たぶん、われわれのガイドだったワシリー氏だ。
 翌12(2000)年、札幌で第20回「ヒグマフォーラム」が開かれる。サハリン州立大学のタチアナ・クラシコさんが「サハリンのヒグマと自然と人々」と題して報告した。通訳はワシリー・ミハロフさん。彼だろう。
 
 彼は、北海道でヒグマの生態調査に参加したことがある。学者や研究者にとっては貴重な案内人にちがいない。

 彼の話を聞いていて、日本列島につながる「北からの道」が頭に浮かんだ。間宮海峡は厳寒期(2~4月)、凍結する。ということは、毎年、大陸とサハリンが“地続き”になる。大陸の動物が島へ渡って来る。大昔の氷期にはもっと多くの動物が往来したことだろう。

 ワシリーさんの話では、サハリンにはカワウソが生息する。ヒグマもいる。大陸のアムールトラやオオカミが目撃されることもある。ヤマネコも大陸から凍った海峡を渡って来たが、今は姿を見ることはない。

 4年前、オオカミのつがいが現れ、猟師が罠をしかけて捕まえた。その剥製がサハリン州郷土博物館(旧樺太庁博物館)に展示されている。1階左側の動植物コーナーにオオカミがいた=写真。ヒグマもカワウソもいた。

 空を飛ぶ鳥や蝶でもなく、水の中を動き回る魚やアザラシでもなく、陸地を自分の足で移動する四つ足にとって、凍結した海峡は「新天地」への道だったのだろうか。

 自然はいつも生きやすいとは限らない。もっといいところがあるのではないか――生存本能が人間を含めた生き物を旅へと駆り立てる。厳寒期、間宮海峡が凍結すると、最短部8キロで大陸と島がつながる。グレートジャーニーは、「冒険」ではなく、「避難」のようなものではなかったか。

 日本ではオオカミもカワウソも絶滅した。日本のオオカミはどこから、どういうルートで渡来したのか。「北への道」と「北からの道」、両方から資料を読み直すと、また違った風景が見えてくるかもしれない。

 ――71年前のきょう(8月20日)、「北のひめゆり」事件が起きた。樺太西海岸の真岡にソ連軍が上陸すると、真岡郵便局の女性電話交換手が自決を図り、9人が亡くなった。けさ、ラジオが伝えていた。

2016年8月19日金曜日

サハリン⑧イワツツジ

「これはなに?」=写真。アザミに似た花を咲かせつつある大柄な植物だ。「野生のゴボウ」と日本語ガイドのワシリーさん。道端や林縁などに群生していた。人里にも普通に生えている。大きな葉がなにかに似ているとは思っていたのだが……。日本では根菜。でも、ロシアでは根を食べる習慣がない。雑草だ。
 ハナウドも大柄な雑草だった。内陸部でも沿岸部でも、道路沿いに連続して散形状に花をつけていた。ワシリーさんは、「家畜(牛)のえさ用に(シベリア)大陸から持ち込まれた。今は問題になっている」といった。在来植物をおびやかすほど繁殖している、ということだろう。

 一方で、人々の暮らしに欠かせない植物もある。「イワツツジ」がそのひとつだ。夜はユジノサハリンスクの街なかでビールを飲みながら食事をした。その雑談のなかで、ワシリーさんの口から「イワツツジ」という言葉が飛び出した。シロップやジュースにして飲むのだという。

 イワツツジ? 夏井川渓谷のアカヤシオも、地元の言葉(方言)で「イワツツジ」だ。それか。いや、そうではない。よく聞くと、コケモモに似た灌木(の実)のことだった。樺太アイヌの間では「エチイチャラ」、通称「アタマハゲ」だとは日本へ戻って、検索してわかった。
 
 北海道日本ロシア協会編のサハリン平和の船事業報告集『ふれっぷす』第30号(2015年版)に、元泊の北隣の知取(しるとる)町がふるさとの男性が書いていた。道端で売られていた木の実(コケモモ、アタマハゲ)を見て、「子供のころ、食べた甘酸っぱいアタマハゲを兄弟たちにお土産として、買いました」。われわれが利用したのと同じ海沿いの国道だろう。この夏も露店が各所に出ていた。
 
 男性の姉たちは「家の裏山の山間辺から、よく山にのぼり、フレップ採りと山菜(ラワンフキ、ワラビ等)採り、特にキノコで大きいムラサキシメジをとった」。フレップはコケモモのこと。北原白秋の樺太紀行文集『フレップ・トリップ』(岩波文庫、2007年)の「トリップ」も、同じような実(エゾクロウスゴ?)だとか。ラワンブキはアキタブキの仲間だ。大陸同様、島にも自然の恵みがあふれている。
 
「イワツツジは山奥に群生している」とワシリーさんがいった。「シロップはウオツカや水に加えて飲む。ウオツカを飲みすぎても、次の日、頭が痛くならない」。二日酔い防止になるということだろう。そしたら「アタマヨシ」でもよかったのに、「アタマハゲ」とはなぁ――なんて、あれこれ自他の顔と頭を思い浮かべながら愚考した。

2016年8月18日木曜日

サハリン⑦マス釣り

 台風7号は昨夜(8月17日)、北海道で温帯低気圧に変わり、オホーツク海を北上へ――という情報に接して、あの穏やかな海にも白波が立っているにちがいないと、ついサハリン(樺太)の東海岸にまで想像がおよんだ。
 8月初旬の旅でサハリンの自然に触れた。といっても、ユジノサハリンスク(豊原)~スタロドゥブスコエ(栄浜)~ボストチヌイ(元泊)までざっと150キロの国道沿線(東海岸)の風景を見ただけだが。
 
 最初の50キロは内陸山地の峠越え、残りは延々とオホーツク海沿いを往復した。ヤナギランの話を前に書いたが、その延長で動植物について印象に残ったことを紹介しておきたい。
 
 日本語ガイドのミハリョフ・ワシリーさんとはウマが合った。どうやらサハリン有数の「インタープリター」(自然解説者)のようだった。動植物はもちろん、菌類も「トドマツの林にはハナイグチが出る」といったように、和名で教えてくれる。こちらも和名で質問する。
 
 意外だったのが「マス釣り」の提案だった。元泊から10キロほど北上したところに川がある。ワシリーさんがいうのを「カシコ川」と聞き間違っていたが、日本へ帰って調べたら「樫保(カシホ)川」らしい。いわきでいえば、大久川か滑津川くらいの川だ。
 
 川はグーグルアースで確かめられる。河口の近くを国道が走り、そばに立派な鉄橋がかかっている。そのすぐ上流でワゴン車の運転手がルアー釣りをしてみせた。たちまちカラフトマスがかかった=写真。大きさは50センチ前後か。この魚が濁った川にひしめいているようだった。
 
 ではと、仲間の一人が挑戦した。かかったかなというあたりで、スイーッと針を動かしたために空振りに終わった。運転手の釣ったマスはリリースした。サハリンの川の豊穣を思った。

 元泊は、今はひなびた漁村といった感じだ。沿岸定置網がところどころに見られた。ワシリーさんが村の偉い人に話をつけて、港にあるカラフトマスの加工場を特別に見せてもらった。写真撮影は不可だった。従業員がずっとついて来た。加工の仕方がわかりやすい。頭と尾、内臓をとって身を保存するだけ。あとは海に帰す。カモメたちが群れ集まっていた。

 海から帰って来るマスを川で見、釣りを見、サハリンの観光の本質はここにあるように感じた。エコツーリズム――片田舎のディープなサハリン行だからこそ体験できた「マス釣り」だった。

2016年8月17日水曜日

昭和46年の草野美術ホール

 台風7号がいわき市に接近している。昨16日夜更けからの雨量は小名浜で100ミリを超えた。午前3時に水戸市の南東約80キロにあって、時速30キロで北上している。もう福島県沖に来ているかもしれない(午前6時現在)。

 精霊送りの日(きのう)でなくてよかった。でも、きょう(8月17日)、わが地区は「容器プラ」「製品プラ」の日。このあと様子を見ながらごみネットを電柱にくくりつける。ネットをかぶせないと、風に吹かれてごみ袋が宙に舞う。
 さて、昭和45(1970)年から10年ほど、いわき市の美術界をリードした「草野美術ホール」(および松田松雄)について話してくれ、という依頼がきた。資料もあるといいというので、このところ、記憶を頼りに総合図書館へ通って、自分が書いたいわき民報の記事を主にコピーしている。

 ざっと45年前、同ホールは若者が新しい表現に挑む“実験場”だった。広い壁面をひとりで埋めるには覚悟がいる。同時に、事務室は絵描きや書家、詩人、新聞記者らが出入りし、おだをあげ、サントリーレッドをなめては火花を散らす“梁山泊”だった。

 松田松雄がいた。山野辺日出男がいた。田辺碩声がいた。阿部幸洋がいた。その他、若松光一郎、広沢栄太郎ら先行する世代、林和利ら次世代の高校生もいた。(同ホールを語ることは自分の青春を語ることでもある)

 きのうは夕方、図書館で昭和46年8月26日付=写真=ほかのいわき民報の記事をコピーした。いわき民報の駆け出し記者(取材を始めて3~4か月のころ)のくせに、いっぱしの美術記者のような文章を書いている。

「春夏のいわき美術展回顧/収穫は広沢初個展/めざましい若手と新鋭」が見出しだ。特に、広沢栄太郎と阿部幸洋にスペースを割いた。広沢栄太郎については、画用紙50枚にかかれた「シベリア抑留記」が展示されたこともあるが、なにより会場の奥の壁面右側に飾られた「幼女像」に目がくぎ付けになった。

 そのまま「幼女像」の前に直行した。なぜ引かれたのかはわからない。ことばによるコミュニケーション以前のバイブレーション。「共振」としかいいようがない。それで幼女像にも触れた。

「悲惨なもの、かよわいもの、ちいさいものに対する無言の怒りや愛情はこのシベリアの原体験から出てきたものにちがいない。ちゃんちゃんこを着た、寸たらずのおさげ髪のちいさな『幼女像』はそういった見る者の心を洗い清める名作である」。(この絵は巡り巡って、いま、私のところにある)

 この記事のほかに、1年後の47年12月6日付で「ことしのいわき画壇を顧みる/“東北のパリ”を目ざし/平の草野ホール拠点に」を書いている。これも生意気な文章だ。新米記者の文章というよりはべテランもどきの文章。でも、まあ45年たった今も、当時の空気を感じることはできる。(やはり、草野美術ホールには青春後期の思い出が詰まっている)

2016年8月16日火曜日

精霊送りの朝

 今年(2016年)の精霊送りの祭壇は、少しはお年寄りの気持ちに沿うものになったのではないか――。
 いわき市では環境美化の観点から、精霊送りの場所が決まっている。わが区では県営住宅集会所前の庭に臨時の祭壇を設ける。16日早朝、区民らがお盆の供え物を持って現れる。9時前後にはごみ収集車がやって来る。

 前日、区の役員が出て庭の内外の草刈りをしたあと、四隅に青竹を立て、縄を回して杉の葉とホオズキをつるす。いわゆる「結界」で、なかに座卓を利用したお供え物の安置所をつくる。当日は早朝6時から役員が当番を決めて精霊送りに立ち会う。これまでの経験から、今年は焼香台の位置を変えよう、となった。
 
 道路から祭壇までは石段を三つ上らないといけない。わずか3段でも足の不自由なお年寄りには大変なことだ。手すりにつかまり、やっとの思いで焼香台の前に立つ。ならば、道路からじかに焼香をできるようにしよう――役員の発案で祭壇を90度ずらし、道路に面して設けた。
 
 問題は路上駐車だ。毎年、14日に「駐車自粛」の立て看板を出す。今年は15日午後になっても車が止まっていた。ずっとそのままだと、祭壇の向きを変えられない。夕方、なんとしたものかと思案しながら行くと、車が消えていた。立て看の効果か、あるいは16日朝に精霊送りがあることを思い出してくれたのかもしれない。
 
 これで役員の思いがこもった祭壇ができる。祭壇予定地の周囲の草刈りをしたあと、そばの柿の木を利用するかたちで、道路に向かって祭壇をつくった。
 
 きょう(8月16日)は、朝6時からの当番だった。去年までと焼香の位置が違っていて戸惑う人もいたが、じかに焼香ができる=写真。心配だった天気も、朝から油照りになった。柿の木がいい日陰になってくれた。

草刈りもそうだが、きれいになると気持ちがせいせいする。草刈りのごほうびがせいせいした気分だと気づくまで時間がかかった。それと同じで、石段を上らなくてよかったといわれれば、これもごほうびになる。

2016年8月15日月曜日

サハリン⑥鳥居

 ボストチヌイ(元泊)からの帰途、プズモリエ(白浦)の海岸小丘にある神社跡に立った。鳥居だけが残っていた=写真。鳥居のたもとからは波静かなオホーツク海が一望できた。北に小さな港、南には砂浜が広がっている。漁業中心の寒村のようだった。
 鳥居は石でできている。「笠木」ならぬ「笠石」の中央に掲げられてあった石の扁額が下に落ちていた。「東白浦神社」と彫られてある。鳥居の石柱にも、向かって右側に「奉献(「献」は旧字) 皇紀二千六百年記念」、左側に「柳屋武雄」とあった。

 昭和15(1940)年、神武天皇即位2600年を記念して、日本列島では大々的に奉祝行事が展開された。同じ国内である北緯50度以南の樺太も、例外ではなかった。土地の有力者らしい「柳屋」さんが記念に鳥居をフンパツしたのだろう。そんなことをガイドのワシリー氏に解説する。彼は「そうですか、勉強になりました」と、文字の読みと意味をメモした。

 扁額が落下したワケは、人力では無理、大嵐でもたぶん大丈夫、地震? というのは――1995年、阪神・淡路大震災より4カ月ほどあとに「サハリン北部地震」が起きているからだ。

 震源地はサハリン最北部で、石油採掘のためにできた町・ネフチェゴルスクが壊滅した。住民3200人のうち3分の2が亡くなったという。マグニチュードは7.6、震度は5強から6弱。そのとき石の扁額が落下した? むろん推測の推測に過ぎないが。

 日本統治時代、樺太には各地に神社ができた。ソ連占領後は破壊されるか放置されて朽ちるかしかなかったにちがいない。

 ある日突然、人々のなりわいと暮らしが異なる文化と歴史を持つ人々に取って代わられる。その節目が、ソ連軍が侵攻して来るなかで聞くこととなる玉音放送だろう。きのう(8月14日)も紹介した、当時中学生だったお年寄りの文章にこうある。

 中学校で校旗との決別式があり、校旗の房を各自ひとつ持ち帰ったその帰路、「渡船場近くに行ったら、ラジの声が高く聞こえ、出てきた人が戦争が終わったと足早に走りさった。/家に帰ったら、姉がラジオで天皇の声で戦争に負けたと言っていたと、それを聞き私は立っていることが出来ず、腰砕けのように蹲(うずくま)った」。71年前のきょう、当時、日本最北端の町でのことだった。

 ついでにいえば、玉音放送は日本が統治・占領していたアジアの各地でも、東亜放送網(今のNHKワールド・ラジオ日本だろう)を通じて聞くことができた。

 さらにいえば、昔、いわき市民による戦中・戦後の手記を『かぼちゃと防空ずきん』という本にまとめたことがある。玉音放送に関しては、はっきり聞こえたというのは一人だけだった。樺太ではどうだったのだろう。文章を読む限りでは、住民は敗戦をはっきり認識することができた。ラジオの性能がよかったのか。

2016年8月14日日曜日

サハリン⑤白旗

「村の入り口で警察署長と村長の2人で白旗をかかげて迎える手はずになっていたのに、署長は『自宅で謹慎する』と言って来なかった」。で、同級生の父親(村長)だけが北緯50度の国境線を超えて侵攻して来たソ連軍を迎えた。
 今から71年前の昭和20(1945)年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連軍が対日参戦をした。満州ばかりか、北緯50度で北はソ連領、南は日本領に分かれていた樺太でも、ソ連の侵攻作戦が展開された。同15日に日本がポツダム宣言を受諾しても、北海道占領をもくろむソ連の侵攻はやまない。

 同級生の父親が村長を務めていた元泊村(ボストチヌイ)は、国境と接する敷香(しすか)支庁の管内にあった。南樺太を南部・中部・北部に分ければ、北部に近い中部の北といったところか。

 ウィキペディアによると、南樺太の各地で空襲・地上戦が行われ、停戦・武装解除を経て8月25日には日本内地との海の玄関口・大泊(コルサコフ)占領をもって樺太の戦いが終わる。元泊村は22日に占拠された、とある。

 元泊の駅のプラットホーム=写真=や漁港を見ながら同級生が話すのを聞いて分かったのだが、彼の旅の目的は父親、そしてそれ以上に母親の足跡を確かめることだった。

 彼には異母きょうだいが3人いる。母親の姉の子だ。姉が亡くなって、子育てが難しくなった。妹である彼の母親が請われて後添いに入った。福島県から単身、汽車と船を乗り継ぎ、元泊へ嫁入りをした。その道行きに思いをはせ、さらに戦後、子供を連れて内地へ帰還する、その苦労をしのぶ旅になった。父親はソ連軍の下で引き続き元泊の行政にかかわり、しばらくたってから帰還した。
 
 北海道日本ロシア協会が毎年、「平和の船」事業を実施している。去年(2015年)の報告集『ふれっぷす』第30号をネットで読んだ。当時中学生だった人が侵攻直後の脱出行、戦後の引き揚げの様子を振り返っている。

「(線路を歩いていくと)右側の線路際に赤子の泣き声が聞こえた、(中略)少し歩くと今度は左側にやはり赤子の声が聞こえた。この我が子を捨てなければ自分の身も持たないという、地獄の絵図としか思えない悲惨な現状に直面しても、私はひたすら線路の枕木を踏み外さないよう歩くしか術が無かった」

 このあと中学生はほかの住民とともに、ソ連軍の命令で元の居住地へ戻る。日本へ帰還したのはほぼ1年後の昭和21年9月下旬だった。みずから自宅謹慎に入った警察署長はシベリアへ送られた。

2016年8月13日土曜日

サハリン④「焼け野原」と「松毛虫」

 宮沢賢治の樺太(サハリン)詩篇で、「ん、これは?」というものがふたつあった。「(こゝいらの樺の木は/焼け野原から生えたので/みんな大乗風の考をもつてゐる)」と「松毛虫に食はれて枯れたその大きな山に/桃いろな日光もそそぎ」の「焼け野原」と「松毛虫」だ。いずれも<樺太鉄道>の詩のなかに出てくる。
 大正13(1924)年8月、賢治より1年遅れて樺太を訪ねたオーストリア人の植物学者がいる。東北帝国大学植物学教室主任教授、ハンス・モーリッシュ。『植物学者モーリッシュの大正ニッポン観察記』(瀬野文教訳=草思社)を読んで、「焼け野原」と「松毛虫」が詩に登場するワケがわかった。

「私がサハリンを訪ねたちょうどそのころ、当地では茶色い蛾の幼虫が針葉樹を荒廃させ、大きな損害を与えていた。幼虫が大量に発生して木の葉を食い荒らすのである。地面に積もった幼虫の量は手のひらほどの高さにもなった」

 モーリッシュは続ける。「蛾の幼虫がもたらした損害よりもっとすごいのが山火事による被害で、これが残念なことにひんぱんに起こっている」。推測できる原因はたばこのポイ捨て、木こりのたき火の不始末、そしてこれがもっとも深刻なのだが、「思慮分別のない入植者たちが、手っとり早く耕作地や牧草地を手に入れるために、森に火を放って焼き払ってしまうのではないだろうか」

 樺太の針葉樹はエゾマツとアカトド(トドマツ)が中心だ。ほかに、道路沿いの林ではシラカバ=写真=が目立った。「焼け野原」のあとと同じように、道路を開くと白樺が先行的に生えてくるのだろうか。

 繰り返す。ざっと90年前、樺太では松くい虫が連続発生をしていた。人災ともいえる山火事も頻発していた――こうした事象を背景のひとつにして賢治の樺太詩篇が生まれた。

2016年8月12日金曜日

サハリン③ヤナギラン

 ユジノサハリンスク(豊原)の市街を抜けて平原の間を北へ向かった。畑でトラクターが動いている。取り残しのタマネギがいくつか転がっていた。トマトやキュウリのハウスも何棟かある。それらはしかし、その一角だけといった感じ。あとは草原や林、とこどころ集落――その繰り返しだ。
 草原に点々と紅紫色の花が咲いている。いわきでも見られるミソハギかと思ったが、ヤナギランだという=写真。これが、宮沢賢治の詩に出てくる花か! 
 
 「その背のなだらかな丘陵の鴇(とき)いろは
  いちめんのやなぎらんの花だ」           (<オホーツク挽歌>)

 「やなぎらんやあかつめくさの群落」
 「やなぎらんの光の点綴(てんてつ)」            (<樺太鉄道>)

 「いちめんのやなぎらんの群落が
   光ともやの紫いろの花をつけ
   遠くから近くからけむつてゐる」             (<鈴谷平原>)

 このヤナギランの花畑を見たくてサハリンへやって来たのだ。峠を越えてオホーツク海沿いのスタロドゥブスコエ(栄浜)に出て、さらにボストチヌイ(元泊)へ向かって海岸線を北上すると、より紅紫色や黄色の花の群落が目立つようになった。(シベリア大陸のウラジオストク~ナホトカの道路沿いにも同じ花畑が広がっていた)

 日本へ帰ってミソハギとの違いを調べる。ミソハギはミソハギ科で6弁花、ヤナギランはアカバナ科で4弁花。縦に長く花をつける点では同じだ。黄花で名前がわかるのはオミナエシ(の仲間?)くらいだった。

 大正12(1923)年8月4日(推定)、賢治は汽車の窓から、さらには降り立った栄浜でヤナギランの群落を見た。それから93年後の8月3日、私たちはヤナギランの紅紫色を目に焼きつけ、元栄浜駅のプラットホーム跡に立った。

 <オホーツク挽歌>や<樺太鉄道><鈴谷平原>の詩群を現地の風景に重ねて読むと、賢治の博識と鋭い感性がほぼ自動的に内面に映し出された風景を記録していることがわかる。今流にいえば、スマホで動画を撮るように「心象」をスケッチした。

2016年8月11日木曜日

サハリン②州都

 いわきからは朝の「特急ひたち」で東京駅へ。そこで昼過ぎのJR「成田エクスプレス」で成田空港へ向かった。いわきの天気はよかったが、首都圏に近づくにつれておかしくなった。雷雨のところもあった。飛べるのだろうか――そんな不安が一瞬よぎった。
 夕方4時半。ターミナルビルからバスで空港のはじっこに移動し、オーロラ航空のプロペラ旅客機(ボンバルディア)で飛び立つ。雲海の東北と北海道を縦断し、2時間半後にはサハリン州都ユジノサハリンスク(旧豊原市)に着いた。時差は2時間。空港から市内に入ったときには、現地時間で夜9時になっていた。(以後、現ロシア名と旧日本名がごっちゃになることをお許しいただきたい)
 
 空港で迎えてくれた日本語ガイドと車の運転手とは、5日朝に空港で別れるまで、ホテル以外の時間を共にした。ガイドはたぶん、サハリンでは最高の「インタープリター」(自然解説者)だ。動植物はもちろん菌類にも詳しい。和名に通じているのがありがたかった。学者かと思ったが、狩猟や採集の現場の人らしい。日本語は独学で習得したという。
 
 さて、見知らぬ土地へ出かけると、地形からどんな流域なのかを想像する。台湾でも、南会津でもそうだった。そこから自然をフィールドにした人間と人間の関係、つまり経済や文化の質を思いえがく。
 
 泊まったホテルの東に山が連なっていた=写真。鈴谷山脈だろう。西には樺太山脈がのびる。その間に鈴谷平野が広がる。海は南。ユジノサハリンスクは南へ流れるススヤ川の下流に位置するわけだ。福島県でいえば、川の流れは逆だが郡山市のようなものか。
 
 川を軸にした南北の交易ルートだけではない。山を越える東西のルートもあっただろう。例えば、ノルウェーのフィヨルドの村からは急しゅんな山を越える「ニシンの道」があった。サハリンにも鈴谷山脈の西(内陸部)のアイヌと東(オホーツク海)のアイヌを結ぶ交易ルートがあった。インタープリターを介すると、いろんな「物語」が見えてくる。

 州都は、碁盤目状に道路が張り巡らされていた。日本統治時代、札幌と同じような都市計画が実施された。その意味ではわかりやすい街だった。

2016年8月10日水曜日

サハリン①追憶の碑

 ロシアの極東――サハリン(樺太)に3泊、シベリア大陸のウラジオストクに2泊。5泊6日の旅は「鎮魂と追憶の旅」になった。
 樺太では北から順に、仲間の父親が村長だった元泊村を訪ねた。宮沢賢治が、亡くなった妹トシの魂を追うようにして汽車から降り立った栄浜駅のプラットホーム跡にも立った。内地との往還の地・大泊の港も見た(仲間の母親が、そして賢治が初めて樺太の地を踏んだところだ)。日本が一時、統治していた北緯50度以南の中部・南部地方に当たる。

 シベリア大陸へ移動したあとは、アムール湾とウスリー湾にはさまれた半島の先端・ウラジオストクと、その東方にあるナホトカの港を巡った。

 旅行仲間4人の共通の同級生がざっと45年前、船で横浜からナホトカへ渡り、さらにシベリア鉄道を利用して北欧のスウェーデンに向かい、そのまま住み着いた。青春の冒険かどうかは知らないが、とにかく彼はナホトカの港に降り立って以後、大陸の人間になった。
 
 昭和20年の敗戦以後、ソ連に抑留された日本人兵士たちが何十万人もいる。その一人、いわきのアマチュア画家は、同23年に復員するとすぐ2カ月をかけて、2年半余の強制収容所生活を50枚の画文集にまとめた。収容所では鉛筆で小さなザラ紙に数百枚をかきためた。それを、帰国集結地ナホトカの手前で焼き捨てた。没収されるのがわかっていたからだ。

 それから四半世紀たって、当時、いわきの先端的なギャラリーだった「草野美術ホール」で個展を開いた。シベリア抑留の画文集も展示した。記者になりたてだった私は、取材でかかわったのを機にホールのおやじさんらと諮って画集出版の裏方を務めた。広沢栄太郎著『シベリヤ抑留記 ある捕虜の記録』はそうしてできた。それから43年後、画集に出てくるナホトカをこの目で確かめることができた。

 ほかにも、日本人墓地(といっても、「追憶の碑」=写真(サハリン)=や「日本人死亡者慰霊碑」「日本人墓地」碑などだが)を訪ねた。これも一種のダークツーリズムだった、という思いが強い。

2016年8月9日火曜日

ダーチャ

 ロシアの島(サハリン)と大陸(シベリア)で、日本語ガイド氏からたびたび「ダーチャ」という言葉を聞いた。家庭菜園付きの「セカンドハウス」(別荘)らしい。庶民が当たり前に「ダーチャ」を持っている。
 ことばに関しては、ガイド氏に日本語で聞けばいい。「スパシーバ」(ありがとう〉や「ハラショー」(いいね)くらいは使ってみたい――なんて思わないでもなかったが、機会はなかった。そのなかで唯一、仲間4人の記憶に刻まれたことばがダーチャだ。年に一度、夏井川渓谷の隠居に仲間が集まって飲み会をやる。その隠居がダーチャではないか。

 ウィキペディアによると、ダーチャは、第二次大戦後の食糧不足対策として市民に土地を与えるよう、州政府や国に要求する運動が起きたのが始まり。ピョートル大帝が家臣の貴族たちに菜園付き別荘を下賜したことに由来するそうだ。
 
 広大な平原を貫く道路の左右にときどき集落が現れる。なかには都市部の市民が週末を過ごすダーチャ群だったりする。特に夏場は盛んに利用される。ソ連崩壊後はダーチャの売買も行われ、豪華な家も建つようになったのだとか。
 
 ロシアの旅から帰った翌日、つまりきのう(8月8日)。たまった新聞をめくり、手紙やはがきに目を通し、パソコンを開いてメールやメッセージをチェックした。
 
 8月2日朝以来、“空白”になっていた時間を埋めると、気にかかるのは渓谷のダーチャにあるキュウリだけになった。ヘチマになっていないか。夕方、少し時間ができたのでカミサンと出かけた。8日前は花だけだったのが、35センチ弱の実に育っている=写真。
 
 日本では、家庭菜園は趣味の世界に入る。が、ロシアでは生存のために必要なものだった。今はずいぶん日本的なダーチャモあるのだろう。ヘチマのようなキュウリを摘みながら、そんなことを思った。

2016年8月8日月曜日

旅から帰って

 5泊6日のロシアの旅から帰ると、カツオの刺し身が待っていた。電話をして届けてもらったのだという。帰宅は日曜日(8月7日)の夜8時半すぎになる。行きつけの魚屋さんはとっくに閉まっている。一日遅れて月曜日に食べようと覚悟して帰って来たのだった。
 文化に優劣はない、違いがあるだけ。でも――カツ刺しを食べるのは、いつものとおり(毎週日曜日)なのだが、違う文化の世界に身を置いてきただけに、いわきの味が何ともおいしく貴重なものに思えた。

 旅のあれこれは、あした以降、詳しく報告したい。その前段として、日本へ戻ってきたときの安堵感に触れておきたい。コミュニケーションが通じることのありがたさ、と言い換えてもいい。成田空港の税関はもとより、仲間と「解散式」を開いた空港ビル内の食堂でも、鉄道の駅でも日本語で用が足せる。これが日常というものなのだろう。
 
 ロシア語は私を含めて仲間4人の誰もが読めず、話せない。だから、日中は日本語ガイド兼通訳に案内を願ったわけだが、それでも取りまとめ役の幹事はかなりストレスを感じていた。都会でも英語が通じないのに、今回は観光地とは言い難い片田舎を巡ったからだ。
 
「ディスコミュニケーション」を一般的な意思伝達不全状態ととらえれば、その反動だと思う。空港からは初めて鉄道(京成電鉄のスカイライナー)を利用した。ときどき沿線の看板が目に入る。意味が読み取れる! ロシア語の世界に身を置いて、コミュニケーション不全に陥っていた人間の、この反応がおかしかった。
 
 特急ひたちから降り立つと、いわき駅前では「平七夕まつり」にあわせて盆踊りが開かれていた=写真。
 
 車内アナウンスでは、水戸駅構内が「水戸黄門まつり」で混雑している、勝田駅でも「ロック・イン・フェスティバル」で駅が混雑している、という。当然、終着のいわき駅でも「平七夕まつり」で混雑していると、半分はPRを兼ねたアナウンスをするのかと思ったら、ない。それはないだろう! コミュニケーションがとれるからこそ抱いた不満だった。

2016年8月2日火曜日

海外修学旅行

 きょう(8月2日)の夜にはたぶん、北海道の先の島(サハリン)にいる。還暦を機に始めた同級生による海外修学旅行の第5弾だ。帰ってくるのは7日。(3~7日のブログは休みます)
 2009年に還暦を迎え、北欧に住む同級生の病気見舞いを兼ねて仲間で訪ねた。それが病みつきになった。翌年は台湾。震災に遭った2011年には風評被害に苦しむ観光地会津を訪ねた。さすがに海外旅行をする気にはなれなかった。2012年ベトナム・カンボジアを旅し、翌年の京都文化研修旅行のあと、1年休んで2015年に再び台湾を訪れた。

 アジアの旅では、「観光」だけでなく「戦争」とか「植民地支配」とかを考えないではいられなかった。ベトナム戦争、カンボジア内戦。時間をさかのぼれば、日本の台湾統治・太平洋戦争。今度の旅でも、観光しながら植民地支配や戦争を考えるようになるのかもしれない。

 サハリン行のきっかけは単純だ。夏井川渓谷の隠居(無量庵)を宿に、年1回、同級生が集まって1泊2日の飲み会を開いている。平高専(現福島高専)3期のM(機械工学)とC(工業化学)から7~8人が参加する。1人は、父親が樺太(サハリン)のある村の村長だった。私は、宮沢賢治の「オホーツク挽歌」の世界をのぞいてみたい――それだけで「行くか」となった。

 同級生にとっては「父の島」、私にとっては「賢治の島」。飛行機の便数の関係もあって、実質3泊4日が6日になった。いつもの仲間に諮ったら、参加者はMの4人と半数にとどまった。

「かわいい子には旅させよ」ではないが、60歳を過ぎて海外旅行の面白さを知った。なかでもカンボジアのアンコール遺跡群=写真=は忘れがたいものになった。ワットの内部に残る内戦の爪痕や、大虐殺から立ち上がった民衆の姿を見ていろいろ考えさせられた。

 ハマナス、コケモモ、ヤナギラン、白樺、トドマツ、エゾマツ……。「賢治の島」では、「オホーツク挽歌」に出てくる植物を主に見てこようと思っている。

2016年8月1日月曜日

いわきも水不足?

 東北南部は7月28日に梅雨が明けた(気象台の発表にならえば、「とみられる」だが)。6月13日の梅雨入りからの雨量は、福島県内でも平年を下回った。まず、小名浜。166.5ミリと平年247.6ミリの7割弱だ。福島は6割強、白河、会津若松は半分以下だった。
 カラ梅雨だったことは生活実感からもわかる。なかでも梅雨後半は降るようで降らない、晴れるようで晴れない。降ってもたいしたことがなかった。

 テレビのニュースで、首都圏に生活用水を供給するダム湖の水位が下がり、水不足の懸念が出ていることは承知していた。

 が、こちらは東北、関東圏とは事情が違うと、頭では線引きしていても、いわきの気候は東日本型のうち東海・関東型(夏は温暖多雨、冬は冷涼乾燥)に入る。いざ梅雨が明けてみると、北関東と同一のいわき地方でも水不足を懸念する声が聞かれるようになった。平地の小丘が連なる農村部でも、水源地帯の山間部でも。このまま雨が降らないようだと、農家のぼやきが悲鳴に替わるかもしれない。
 
 きのう(7月31日)朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。途中、小川町・三島で磐城小川江筋の取水堰(ぜき)に出合う。夏井川のカーブを利用した多段式、木工沈床の斜め堰で、七段の白い水の調べが美しい。その沈床の一部が乾いて白くなっていた。水量が減っている。
 
 隠居のちっぽけな菜園も、土が乾いていた。ナスはとりわけ水を切らしてはいけない。水やりをしたあと、対岸の「木守の滝」を見に行ったら、ふだんと変わらない水量だった。もともとあふれ落ちるというよりはこぼれ落ちる程度の「やせ滝」だ。しぶきを浴びる岩壁にイワタバコの花が咲いていた=写真。途中、夏キノコは全くなし。やはり森も乾いているのだろう。
 
 こよみが8月に替わったけさは、どんよりした曇り空だ。夜更けから未明にかけて平地の山田で3ミリ、沿岸部の小名浜で1.5ミリ、山地の川前で1ミリの降水量があった。一時やんだ雨も6時には降り出した。太陽も顔を出す気まぐれな雲行き。おしめりになるかどうか。