2016年8月15日月曜日

サハリン⑥鳥居

 ボストチヌイ(元泊)からの帰途、プズモリエ(白浦)の海岸小丘にある神社跡に立った。鳥居だけが残っていた=写真。鳥居のたもとからは波静かなオホーツク海が一望できた。北に小さな港、南には砂浜が広がっている。漁業中心の寒村のようだった。
 鳥居は石でできている。「笠木」ならぬ「笠石」の中央に掲げられてあった石の扁額が下に落ちていた。「東白浦神社」と彫られてある。鳥居の石柱にも、向かって右側に「奉献(「献」は旧字) 皇紀二千六百年記念」、左側に「柳屋武雄」とあった。

 昭和15(1940)年、神武天皇即位2600年を記念して、日本列島では大々的に奉祝行事が展開された。同じ国内である北緯50度以南の樺太も、例外ではなかった。土地の有力者らしい「柳屋」さんが記念に鳥居をフンパツしたのだろう。そんなことをガイドのワシリー氏に解説する。彼は「そうですか、勉強になりました」と、文字の読みと意味をメモした。

 扁額が落下したワケは、人力では無理、大嵐でもたぶん大丈夫、地震? というのは――1995年、阪神・淡路大震災より4カ月ほどあとに「サハリン北部地震」が起きているからだ。

 震源地はサハリン最北部で、石油採掘のためにできた町・ネフチェゴルスクが壊滅した。住民3200人のうち3分の2が亡くなったという。マグニチュードは7.6、震度は5強から6弱。そのとき石の扁額が落下した? むろん推測の推測に過ぎないが。

 日本統治時代、樺太には各地に神社ができた。ソ連占領後は破壊されるか放置されて朽ちるかしかなかったにちがいない。

 ある日突然、人々のなりわいと暮らしが異なる文化と歴史を持つ人々に取って代わられる。その節目が、ソ連軍が侵攻して来るなかで聞くこととなる玉音放送だろう。きのう(8月14日)も紹介した、当時中学生だったお年寄りの文章にこうある。

 中学校で校旗との決別式があり、校旗の房を各自ひとつ持ち帰ったその帰路、「渡船場近くに行ったら、ラジの声が高く聞こえ、出てきた人が戦争が終わったと足早に走りさった。/家に帰ったら、姉がラジオで天皇の声で戦争に負けたと言っていたと、それを聞き私は立っていることが出来ず、腰砕けのように蹲(うずくま)った」。71年前のきょう、当時、日本最北端の町でのことだった。

 ついでにいえば、玉音放送は日本が統治・占領していたアジアの各地でも、東亜放送網(今のNHKワールド・ラジオ日本だろう)を通じて聞くことができた。

 さらにいえば、昔、いわき市民による戦中・戦後の手記を『かぼちゃと防空ずきん』という本にまとめたことがある。玉音放送に関しては、はっきり聞こえたというのは一人だけだった。樺太ではどうだったのだろう。文章を読む限りでは、住民は敗戦をはっきり認識することができた。ラジオの性能がよかったのか。

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