2016年9月30日金曜日

バングラ風カレー

 バングラデシュ風カレーの料理教室兼フェアトレード学習会がおととい(9月28日)、いわき市中央卸売市場料理研修室で開かれた=写真。市のホームページで市場のカレンダーを見ると、この日は「臨時休業日」。当初は生協のパルシステム福島いわきセンターで開かれる予定だったが、参加者(生協会員)が予想以上に多かったため会場が変更された。
 パルシステムが食材を提供し、シャプラニール=市民による海外協力の会のスタッフが講師を務めた。シャプラは東日本大震災直後、いわきへ緊急支援に入り、パルシステムとも協働して活動を続けた。以来、強いきずなを保っている。シャプラ関係者として、カミサンの運転手兼手伝いと受講を兼ねて参加した。“黒一点”だった。

 香辛料はニンニク・ショウガ・トウガラシのほか、クミンシード・ターメリック・コリアンダー・クローブ・カルダモン・シナモン・テスパタ代わりのローリエの乾燥葉。これにチキン手羽先、ジャガイモ、タマネギが加わる。カルダモンとコリアンダーはすり鉢に入れて、すりこぎ棒でたたきつぶした。唯一、それだけを引き受けた。

 すり鉢から立ちのぼるカルダモンの香りと辛みに少し目が刺激された。が、香辛料であることを感じたのはこのときだけ。いざ、できあがったカレーを食べてみると、穏やかな味だった。

 それはそうだろう――といったら、鼻で笑われるかもしれないが。高温多湿の南アジアでは胃腸を守り、体力を維持するためにカレーを食べる。香辛料はそのための「薬」だ。激辛もあるだろうが、子どもも食べることを思えば、激辛である必要はない。
 
 参加した女性の年齢は、若いママさんからお年寄りまでと幅広かった。無添加の材料で、子どもにも食べさせられるカレーを――といったところが、人気を呼んだのかもしれない。
 
 昔、自産のトウガラシなどで「マイ七味」をつくったことがある。香辛料には無関心ではいられない。カルダモンは「香りの王様」と形容される。つぶしてみてそれを実感した。いい勉強になった。
 
 南アジア系では、インド料理店はもちろん、ネパール料理店も目にするようになった。バングラデシュ料理店は? バングラデシュ人がインド料理店のコックをする例はあるそうだが、看板を見たことはない。バングラを身近に感じる料理教室だった。

2016年9月29日木曜日

ミニミニリレー講演会

 8月2~7日にサハリン(樺太)とシベリア大陸のウラジオストク・ナホトカを旅した。なんでサハリンへ? 拙ブログを読んだ友人から友人に話が伝わったらしく、「ミニミニリレー講演会でサハリンの話をしてくれ」となった。この何十年、頼み頼まれる関係なので、断るわけにはいかない。
 新聞でいえば、連載記事のスタイルでブログを書いた。それを基本に、レジュメをつくる。タイトルは「サハリン――賢治と自然と戦争」。ゆうべ(9月28日)、新聞記者のサハリン取材報告会のつもりで臨んだ。

 いわきの地域づくり活動を応援する市民の横断的組織「いわきフォーラム’90」が月2回のペースでミニミニリレー講演会を主催している。私で448回目だ。めざすは1000回――。これには、私もいささか責任がある。昔も昔、いわき民報のコラムに同講演会を取り上げ、1000回をめざすくらいの気持ちで続けてほしい、といったことを書いた。

 それと前後して(と思うのだが)、阪神・淡路大震災がおきて3カ月後、手を挙げてこの講演会の話者になった。小2のときに自分の町が大火事に遭い、すべてが灰になったときから家を再建し、借金を完済するまでの親たちの二十数年間を振り返りながら、阪神・淡路のこれからを、長い年月とともに変化する子どもの心を見守っていきたい、といったことを話した。

 別件で“冬眠資料”を探しながらダンシャリしていたら、そのときのレジュメが出てきた。「貧困の発生」(大人)や「無意識の我慢」(子ども)「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」などにも触れていた。「あなたは自分の体験を話すことでやっと大火事から解放されたのね」と、受講者の一人に言われたことを思い出す。

 それから21年と6カ月ぶりの再出番だ。この間にはいろいろあった。東日本大震災の衝撃がやはり大きい。それでも負けずにミニミニリレー講演会は続いている。

 組織自体が1990年にできた。今年(2016年)で26年目。講師も、民法学の東大名誉教授や元知事から福祉施設の職員まで、有名無名を問わない。地域社会を構成するさまざまな仕事・暮らし・文化などについて市民が話し、市民が聴く――息の長い市民レベルの小講演会としては、「ギネス級」ではないか。

 雑談に入って、レジュメに載せた植物「ガラガラソウ」(ゴマノハグサ科のオクエゾガラガラ)について質問された。写真を何枚か回覧したが、花は宮沢賢治の詩に出てくるヤナギランだけだった。ガラガラソウをアップする=写真。海に面した小丘に石製の鳥居が残っていた。神社跡へ向かう斜面の草むらに群れ咲いていた。よく見ると変な花だ。そばの小さな花はアキノキリンソウか。

2016年9月28日水曜日

いわき50歳

 いわき市が誕生したのは、平高専(現福島高専)の3年生のときだ。阿武隈の山里から浜通りの中心・平市に出てきて、やっと水になじんだころだ。草野心平作詞の校歌にある「平高専」が「福島高専」に変わった。「いわき高専」とならなかったのは、平仮名の校名など論外という認識が国にあったからか。「た・い・ら」から「ふ・く・し・ま」に一音増えて、そこだけ間が抜けた歌になった。
 昭和41(1966)年10月1日、常磐地方の14市町村が合併して「いわき市」が生まれた。しあさっての10月1日、50歳を迎える。市制施行50周年を記念して「いわきサンシャイン博」が展開されている。1日には記念事業がめじろ押しだ。

「見せる」イベントでは、「磐城平城復元『一夜城』プロジェクト」がある。すでに、いわき駅裏の物見ケ岡(磐城平城があった)に塀と三階櫓(やぐら)の看板が立った=写真。1日夜6時半にはライトアップされる。駅そばの住吉屋駐車場を会場に、市民が夜空に浮かぶ「一夜城」を見上げることになる。(看板そのものは2017年3月末まで継続展示)

 その30分後には、いわき駅をはさんで物見ケ岡と向かい合う駅前再開発ビル「ラトブ」の北側壁面に、CG(コンピューターグラフィックス)技術を駆使した映像が投影される。「いわきを繋ぐプロジェクションマッピング」で、投影スペースは横57メートル、縦20メートル。同じ駐車場から壁面を見上げると、映像が立体的に感じられるらしい。

 プロジェクションマッピングの実行委員会に加わってくれというので、二度、試作映像を見ながら、自分の考える「いわき観」に従って、追加してほしいもの、カットしたほうがいいものを伝えた。

 いわきは、流域ごとに人口が分散し、それぞれにウミ・マチ・ヤマが展開する「三極三層」のまちだ。ところが、官民から発信される情報やデザインはたいてい海とカモメと灯台どまり。ヤマはどうした!と、あえて中山間地の視点から注文を付けるようにしている。

 プロジェクションマッピングの目玉は小中学生などから公募したイラストで、部分的に動きが加えられる。本編映像は10分程度ということだった。

 この日はたまたま土曜日だ。7時から街で小さな飲み会がある。北の一夜城を見上げ、南のプロジェクションマッピングを見上げてから、飲み会に合流することにしよう。投影時間は午後7時のほかに、7時40分、8時20分からの2回が予定されている。「いわき50歳」を祝う人たちで飲み屋街が忘年会シーズンのようになったら……、帰りのタクシーがつかまらない、かも。

2016年9月27日火曜日

横たわる“オブジェ”

 きのう(9月26日)も書いたことだが――。V字谷の隠居で、まだ明るい時間に酒盛りが始まった。まずはビール、次いで焼酎、日本酒、ウオツカ。さかなはカツオとサンマその他の刺し身に、カミサンがつくったナス炒(い)りとキュウリの浅漬け、それに乾きもの。
 明け方、背中が寒くて目が覚めた。体のあちこちが痛かった。服のまま、タオル1枚をかけただけで、畳にじかに寝た。仲間もタオルケット1枚で眠っていた。パジャマに着替えた者もいるが、あらかたは着たきりのようだった。白い布に覆われた“オブジェ”=写真。ちょっと間違うと……、いやいや変な想像はすまい。そんなことより風邪をひかなかったか。
 
 隠居で飲むたびに雑魚寝になる。2010年11月中旬の、一足早い忘年会でも雑魚寝になった。晩秋なので、さすがにタオルケット1枚では寒すぎる。こたつに足をつっこみ、放射状に布団をかぶって寝た。
 
 座卓の上がきれいになっていた。台所を見ると、夕食用に買ったコンビニのおむすび、カップみそ汁があらかた残っている。この二つで酒盛りをしめくくる前に眠ってしまったのだろう。

 還暦の年(2009年)から“海外修学旅行”を続けている。隠居で飲んでいるうちに、北欧に住む同級生に電話をかけた。そのあと、酔った勢いで北欧へ出かけようと一決した。以来、谷間の隠れ家に集まり、飲んでは台湾へ、ベトナム・カンボジアへ旅することを決めた。台湾へは二度行った。

 今度も相談の結果、2017年春の“海外修学旅行”先が決まった。この8月初旬、サハリンとシベリアへいつもの半数の人間で出かけたばかりだ。カミサンにはまだいわない(いえない)。

2016年9月26日月曜日

いわきの秋の味

 土曜日(9月24日)の夜、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会を開いた。いわき市内外から8人が参加した。父親が千島列島北端の占守(しゅむしゅ)島にいたことがあるという仲間が初めて加わった。
 メーンデッシュは二皿の刺し身。行き付けの魚屋さんにカツオ=写真=と、サンマその他の盛り合わせを頼んだ。「なにか持っていくものは?」。連絡をくれた仲間には、いわき産の梨を持ってきてもらった。カツオ、サンマからの連想で、梨があれば「いわきの秋の味を楽しむ会」になる。
 
 カツオは、魚屋さんが太鼓判を押した。サンマの刺し身はこの秋初めてだ。ひとくさり説明したあと、にんにく醤油で食べてもらう。魚屋さんが胸を張るだけのことはある。甘い(うまい)。カツ刺しの大皿が空になるのにそう時間はかからなかった。大皿ふたつといっても、8人には少し足りなかったようだ。
 
 隠居でミニ同級会が開かれると、カツオの刺し身を用意する。いわきといえばカツ刺し、カツ刺しといえばいわき――そんなふうに思ってもらえたら、と考えてのことだ。なにしろ、生カツ刺しのうまさを知っていわきに根を生やした人間だ。仲間にもカツ刺しを自慢したくなる。
 
 8人のうち4人は8月、ロシア(サハリン・ウラジオストク・ナホトカ)の旅に参加した。ビール・焼酎・日本酒のほかに、ウオツカの小瓶が出た。宴の夜は更けるにつれて北方の島の話で盛り上がり、父親が樺太(サハリン)、占守島にいたという2人がさしで話し始めたころから記憶がなくなった。
 
 早朝、背中が寒くて目を覚ましたら、全員がタオルケット1枚で雑魚寝をしていた。1人が食器を片づけ、1人が持参したうどんをゆでて朝食用に出してくれた。おかげで軽く後始末をすませ、雨戸をしめただけで撤収することができた。

2016年9月24日土曜日

力士のふるさと

 いわき総合図書館の〈スポーツ〉コーナーで「相撲」の棚を眺める。『大相撲人物大事典』(ベースボール・マガジン社)があった。大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き 私の履歴書』(日本経済新聞社)も目に入った。大事典は「貸出禁」なので平ノ石(ひらのいし)辰治郎(1880~1925年)の項をコピー=写真=し、大鵬の本を借りた。
 大事典によると、平ノ石はいわき市平字材木町出身で、明治33(1900)年一月場所に初土俵を踏む。十両に昇進したのは明治41年五月場所、初入幕は同44年一月場所。幕内成績は22勝24敗8分1預35休。前頭四枚目が最高位で、大正6年一月場所を最後に引退する。

 身長167センチ、体重94キロと、力士としては小兵だった。得意手は右四つからの寄り、下手投げ。とったりなどの奇襲技も見せた。似た体形の舞の海は「平成の牛若丸」と呼ばれた。「明治の牛若丸」だったか。趣味は裁判傍聴。法律の解釈に長じていた。大がつく酒豪だった、ともある。

「分」や「預」は、今はない。何を意味するのか。検索して分かったのは、「分」は引き分け、「預」も引き分けの一種。両力士が疲れてこれ以上勝負をつけられないときに引き分けとなり、物言いがついたきわどい相撲も、行司か審判委員預かりとして、あえて白黒をつけないことがあった。

 当時は一場所10日制で、1月と5月の年2場所だけ。「一年を二十日で暮らすいい男」の世界だったわけだ。それで裁判傍聴もできたのだろう。
 
 大鵬は北緯50度の国境の町(南樺太の最北部)・敷香(しすか=ポロナイスク)で生まれ、5歳のときに終戦・引き揚げを経験している。8月初旬にサハリンを旅したこともあって、いつかは大鵬関係の本を読んでみたいと思っていた。『私の履歴書』は日経に連載された。文体からして大鵬から聴いた話を記者がまとめたものだろう。樺太での記憶、白系ロシア人の父親のこと、終戦時の混乱、決死の引き揚げ……。幼年期をよく生き延びたものだと思う。
 
「栃若」から「柏鵬」へ、主役が交代するころ、茶の間に入ってきたテレビで大相撲を観戦した。小学校高学年から中学生のころだった。子どもが好きなものとして「巨人、大鵬」は当たっていたが、「卵焼き」は、小学生のころはめった口にしなかった。弁当(給食がなかったので)の定番になるのは中学校に入ってからだ。

 栃若と同時代の福島県出身力士にもろ差しの信夫山と豪快な投げの時津山がいた。少し遅れて常錦も現れた。時津山は東京生まれだが、いわき市出身となっている。14市町村が合併していわき市になる前の昭和30年代後半、平市にできた学校に入った。時津山はとっくに引退していたが、街の食堂に写真が飾られていたのを覚えている。
                ※
 さて、きょう(9月24日)はこれから買い物をして夏井川渓谷の隠居へ出かける。平市の学校に入った仲間が集まり、一泊のミニ同級会を開く。というわけで、あすのブログは休みます。

2016年9月23日金曜日

井手由之という人

 別所真紀子『詩あきんど其角』(幻戯書房)=写真=を読んでいたら、磐城平藩の殿様や家臣の名前が出てきた。殿様は内藤風虎。「俳諧大名」だ。殿様にはなれなかったが、息子が藩主に就いた風虎の次男・露沾、そして“社長”の影響で俳句に手を染める“部下”たち――江戸時代中期の磐城平藩は“俳諧王国”だった。
 とりわけ露沾は若くして“隠退”させられたたこともあって、風雅の道に遊び、芭蕉や其角たちと交遊した。パトロンでもあった。

 芭蕉が故郷の伊勢へ里帰りをする際、露沾の屋敷で餞別の句会が開かれる。其角亭でも同様に句会が開かれる。其角亭での歌仙(連句)冒頭――芭蕉が「旅人と我名よばれん初時雨」と発句を詠み、由之が「亦さざん花を宿々にして」と脇をつけた(「笈(おい)の小文」)。

『詩あきんど其角』を読みながら、26年前、きょうのタイトルと同じ「井手由之という人」という見出しで由之について書いた拙文(新聞コラム)を思い出した。「由之は磐城平藩主内藤氏の家臣、井手長太郎とみられている。小名浜の出身らしいがきちんとした証明はまだなされていない」「研究が進んでいる露沾はともかく、三百三年前(注・今だと329年前)の由之を知る旅も、これから必要になろう」

 この26年の間に、由之について発表された論考は寡聞にして知らない。研究者の成果を待つだけの身としては、由之についての知識は26年前と少しも変わっていない。時間だけが過ぎた。新出史料がなかったということだろう。

 ついでながら、露沾の嗜好について――。『詩あきんど其角』で、露沾は「脇息(きょうそく)にもたれながら右手で煙管(きせる)を差し向けてゆったりと口を切った」と、たばこ好きのように描写される。実際は逆で、たばこ嫌いだった。で、たばこ好きの芭蕉は露沾邸に招かれると、公に遠慮してたばこを吸わなかった、というエピソードが残っている。ま、小説だからかまわないか。

2016年9月22日木曜日

彼岸の中日

 平の街からの帰り、夏井川の堤防を通ったら、ヒガンバナが満開だった=写真。久しぶりに青空が――と喜んだのもつかの間、夕方には曇天に戻った。雨続きで川の水位が少し上がっていた。 
 堤防のヒガンバナに気づいたのは12日。10日前だ。その後、何回か街へ行ったが、国道6号を“直帰”した。雨か雨模様だったのが理由だ。それもあって、ヒガンバナが咲き乱れているのに少し驚いた。
 
 一日に一回は夏井川を見ること――そう決めて30年余になる。朝の散歩が日課のときは黙っても夏井川を見た。今は街への往復に夏井川を渡る。そのときチラリと川を見る。水源は大滝根山。ふるさとの山に降った雨が今ここを流れていると、いつも自分に言い聞かせる。
 
「暑さ寒さも彼岸まで」。あれほど暑かったのが、8月後半から前線と台風で「秋の梅雨」のようになった。暴風で倒れた稲から芽が出てこないか。そんな声が聞こえるなかで、晩酌も水割りからお湯割りに替わった。半袖・半ズボンも、2、3日前に長袖・長ズボンに替えた。

 季節の移り変わりはすんなり受け入れられる。ところが、人間の社会では――。きのう、街へ行ったついでに本屋をのぞいた。もう2017年の手帳を売っていた。尻に火をつけられたような気分になった。その帰りの真っ赤なヒガンバナだった。

 さてさて、きょう(9月22日)は秋分の日(彼岸の中日)。曇天。晴れていたら太陽の光がまっすぐ寺の本堂を照らし、鳥居の真ん中から朝日が差し込む神社もあったはず。残念。

2016年9月21日水曜日

雨の波紋

 雨の日曜日(9月18日)――。夏井川渓谷の隠居へ出かけたが、やることがない。カミサンが部屋の掃除をする。邪魔にならないように廊下へ移り、ロッキングチェアで「ゴルゴ13」を読んでいた(役割分担で、雨が降っていなければ土いじりをするのだが)。
 庭に川内村の陶芸家がつくったテーブルがある。川内産の丸太と角材、板を組み合わせただけのものだが、外で飲み食いするときに重宝している。雨粒がテーブル板をたたいて波紋をつくっていた。んっ! デジカメをスポーツモードにして連写したら、雨がテーブルに衝突して散る瞬間が撮れるかもしれない――ひらめきはよかったのだが、ウデがいまいちだからピンボケになった=写真。

 雨の写真を撮ったり、漫画を読んだり、朝寝をしたりしているところへ、珍しく人が訪ねてきた。地元の区長さんだった。「家に電話したけど出なかったから、こっちに来てると思って。今晩、無常講(葬式の互助組織)の集まりがある、泊まっていったら」。飲み会に加われ、ということだ。

 現役を引退したとたん、土曜日も日曜日もなくなった。日曜日の「日帰り」が精いっぱいで、お誘いはありがたいが参加を見送った。

「まあ、お茶でも」。集落の暮らしや自然、歴史を知るにはいいチャンスだ。茶の間に上がってもらい、しばらく雑談する。平地(マチ)と違って、渓谷(ヤマ)の人の話はおもしろい。

 雑仕事といったら失礼だが、マチ場では専業・分化している大工・左官・石工といった仕事を、一人でこなす。わが隠居の庭の石垣が一部、大地震で崩れたままになっている。「直そうか」といってくれた。ただでやってもらうわけにはいかないので、「いつかはお願いする」ということにしたが、集落には頼もしい存在だ。
 
 キノコや木の実・山菜にも詳しいだろうと思ったら、違っていた。「沖釣り」派だった。「森の中をぶらぶら歩くのは好きではない。きのう(9月17日)も一人、ゴムボートで沖に出てメバルを釣った」。そういえば、昔、集落の飲み会に参加したとき、自分で釣ったアイナメの刺し身を提供した。
 
 十人十色。人には会ってみよ、話は聴いてみよ――で、雨のおかげでいい茶飲み話ができた。

2016年9月20日火曜日

敬老の日

「シルバーウイーク」は、「ゴールデンウイーク」の次に連休が多いので、「金」に対する「銀」という意味で名づけられたのだろうと思っていた。その通りにちがいないとしても、今年初めて「敬老週間」を意味するものでもあったか、と得心した。
「毎日が日曜日」の身には、「毎日が月曜日」でもある。きのう(9月19日)早朝、「燃やすごみの日」なので、家の前のごみ集積所にごみネットを出した。日中はこのところ、10月以降の“おしゃべり”の準備に追われている。あれこれ資料を読んでいるうちに、おもしろそうなものに出合うと、ネットで当時の新聞や論考を検索する。必要なものはすぐ図書館へ出かけてコピーするか借りてくる。

 きのうはさらに、月3回、役所その他から届く回覧資料の振り分けをした。今回は「赤い羽根」「歳末たすけあい」の二つの募金協力が加わった。

 届いた「お願い」文書とは別に、班長さんあてに文書をつくる。封筒に区印を押す。班(隣組)に渡す領収書に取扱者としての区印・区長印を押す。領収書は直接お金を扱う区の役員さんに、回覧資料とともに届ける――班長さんも役員さんも混乱しないように、回覧から集金までの流れを頭におきながら、下準備を進めた。
 
 午前は調べもの、午後は回覧物の振り分けと決めていた、ちょうどその合間に息子が小3と小1の子を連れてきた。店にいたカミサンが孫から包みをもらい、茶の間の私を呼んで手渡した。敬老の日のプレゼントだった。開けると「孫の手」が二つ入っていた=写真。
 
 孫たちが帰ったあと、カミサンに聞く。「なにか言ってた?」「なんにも。黙ってよこした」。ま、そんなものだろう。「敬老の日、おめでとう」はおかしいし……。
 
 あっ、いや、下の子の「おたより」(カード)が包みに入っていた。「おじいちゃんおばあちゃんげんきでいてね」。二つ折りの「おたより」を開けると、抽象的な模様の張り紙のまわりに、花火や星、黒髪と茶髪のカップル、猫や花などの絵が描かれていた。カップルは若いときのじいばあ?
 
 ハッピーマンデー制度で9月15日の敬老の日が9月第三月曜日に移動した。世の中が休みだったのはそのためで、初めてのプレゼントを手にして、初めて敬老の日を意識した。秋分の日が明21日だったら、きょうも祝日と祝日の間の「国民の休日」だった。2009年はそれで初めて土曜日から5連休になった(この連休を利用して同級生たちと北欧へ出かけた)。

 これまでは背中がかゆくなると30センチの竹物差しでゴシゴシやっていたが、ゆうべはさっそく孫の手を使った。「敬老週間」の恩典はほかにないものか、などと開き直って考えながら。

2016年9月19日月曜日

雨の秋祭り

 きのう(9月18日)は、朝6時には曇天だった。わが家から少し離れたところで花火があがった。やや遅れて、それより近いところでも花火が鳴った。
 一つは、隣の地区の体育祭開催の知らせだろう。もう一つは――。その日、前日に引き続き、沢村神社の4年に一度の神輿渡御が行われた。それを知っていながらなんでその日に体育祭をずらしたのか、という話を前に聞いていたので、同じ地区にある同神社の神輿渡御を知らせるものか。

 いわき市議選が9月11日に行われた。そのため、9月第一日曜日に決まっていたわが地区の体育祭は、雨天延期を想定して1週間前倒しされた。同じ日開催の隣の地区は逆に市議選後に半月ずらした。
 
 間もなく雨が降り出し、7時には本降りになった。体育祭は中止か延期だな、土砂降りでは土いじりもできないな。でも、行けば気分転換にはなる――そんなことを考えながら、朝食をすませて夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 平上平窪の坂を下って小川町へ入ると、上平(うわだいら)熊野神社の例大祭を告げるのぼりが立っていた。近くの集会所では支柱を寝かしたままのテントが並び、カバーをした神輿を前に神官が祝詞をあげていた=写真。雨中の本祭りになった。

 隠居では、カミサンが部屋の掃除をした。週末(土曜日)、恒例の一泊ミニ同級会が開かれる。8人が集まる。「あなたはどうせ掃除をしないでしょ」。晴れれば布団も干したかったようだが、しかたない。雨の日は雨の日らしく「雨読」に徹した(息子の仲間か誰かが置いて行った「ゴルゴ13」の別冊を見つけた。引き込まれた)

 雨は夕方になってもやまない。街へ降りてもりたか屋へ寄り、もう一カ所訪ねたあと、魚屋さんへ直行した。「(体育祭は)体育館でやった」という。

 これはわが地区のことだが、延期すれば再び選手をそろえるのに苦労する。中止すれば協賛金でそろえた景品をどうするかという問題が起きる。それと同じ事態に直面し、稲刈り時期を迎えたこともあって、体育館での縮小実施となったのだろう。応援組も加えるとぎゅうぎゅう詰めだったのではないか。リレーはやったのか。

 けさは曇天だが、データ放送でいわきの天気を確かめると、夜から明日にかけては雨、週間天気も22日午後と25日午後が晴れのほかは、前半少し雨、あとは曇りの予想だ。8月後半からこのかた、台風も重なって、カンボジアかベトナムの雨季後半のような日が続いている。

2016年9月18日日曜日

明治の新聞「いはき」

 ここ何年か、いわき市立図書館のホームページにある「郷土資料のページ」を開いて、昔の新聞を読んでいる。それで、「いわきの新聞史」の骨格があらかた見えてきた。
 いわき地方最初の商業新聞は、明治40(1907)年5月に創刊された「いはき」だ=写真。発行人は平の新聞店主吉田礼次郎(1870~1933年)。クリスチャンで、創刊2号には遊郭設置反対論が載る。体制が整った時点では月3回の旬刊紙だった。電子化されたのは創刊号から翌41年4月11日付・23号までだが、欠号・欠面もある。

 礼次郎は明治中期から新聞販売業を営み、「関東北にその人あり」と称された。昭和8(1933)年6月25日、63歳で急逝すると、各紙・誌が死亡記事を載せて追悼した。
 
 そのひとつ、月刊「ジャーナリズム」7月号を要約すると――。氏は旧磐城平藩士の子として生まれ、苦学力行して一家をなした。早くから政治に奔走し、郡会議員・郡会議長を務めたあと、新聞販売業に専心。特に、東京日日新聞(現毎日)の主義方針に共鳴して同紙の増紙拡張に力を入れ、関東・東北新聞販売会の革新運動に奮闘した。

 礼次郎が発行した「いはき」や掲載広告について、拙欄で書いたことがある。今回は「虚報」問題を――。
 
 明治41年1月25日付の<東西南北>欄に、「去(さる)十五日発行(実際には1月9日付発行の前号)」の同紙に掲載した「嫁の浮気の記事」のすべてを取り消す、という記事が載った。
 
 嫁の浮気が記事になる時代だったのかという驚き以上に、人間の悪意・ねたみ・そねみは、サルの時代から変わらないという思いも抱いた。メディアはだます、メディアはだまされる――今もないとはいえない危うい一面だ。
 
 ここに書くのもはばかられるほどに、“悪行”を記して「どこ迄(まで)不貞腐れの女にや」と、記者はため息でもつくように筆をおく。ところが、すぐ抗議を受けたらしい。「記事は精探の結果或者の中傷に出(い)でたるものにて事実無根なる事判明したれば該記事は全部茲(ここ)に取消す」。まんまと乗せられた。お粗末といえばお粗末だが、いわきの新聞は出発点からして「虚報」と無縁ではなかった。
 
 背景には「貞女両夫に見(まみ)えず」式の良妻賢母、男尊女卑思想があった。江戸時代の瓦版も心中のほかに妖怪、奇形など、あることないことを伝えたが、その根っこにあるのは、「他人の不幸は蜜の味」という人間の潜在意識だろう。
 
 とひとまず終わって、これはおまけ――。取り消し記事のすぐ前にこんな短記事があった。「平町字材木町○○○○○(実名)氏の長男なる力士平の石は今回十両下四枚目に昇進したるを以て○○○氏はホクホク喜び逢ふ人毎に吹聴し居(お)るとはめでたし」。いわき出身の力士がいた。ネットでチェックしたら「平ノ石」で、最高位は前頭4枚目だった。少し調べてみようかな。

2016年9月17日土曜日

毒キノコか

 いわき市平と四倉の中間に住んでいる。いわき駅を中心にした旧市街に用があるときは「マチへ行く」といってしまう。マチとこちら(旧神谷村)を区切るのは鎌田山と、それに沿って大きくカーブする夏井川。
 国道6号がマチとこちらをつなぐ。平鎌田交差点で旧国道へ右折すればすぐ旧市街に入る。そこで信号待ちのために停止し、なにげなく右手の丘を見たら、のり面のすぐ上、林縁に白っぽい点々があった=写真。写真を撮って拡大するとキノコだった。毒キノコの名前が頭を駆け巡る。シロタマゴテングタケ?ドクツルタケ?タマシロオニタケ? でも、柄にはつばがないような……。

 常緑の照葉樹と落葉樹が混交する林で、丘の上には住宅が密集する。中学校もある。のり面の手前には横断歩道橋と、中学生が下校に利用するバス停留所。崖っぷちは危ないが、林内を巡ったらいろいろキノコに出合いそうだ。10日ほど前、郡山市立美術館の前山にイグチ系のキノコがいっぱい生えていた話を書いた。朝晩冷え込むようになって、秋キノコも出始めたのだろう。

 シャグマアミガサタケ、ミヤマタマゴタケ、シロタマゴタケ、クサウラベニタケ、ツキヨタケ、テングタケ、ヒメベニテングタケ。キノコ観察会や単独の採集行で出合った毒キノコたちだ。さいわいこれまで救急車で運ばれるようなことはなかったが、チチアワタケを食べすぎて下痢したことはある。

 不思議なのは、毒キノコのベニテングタケが欧米ではキノコの代表みたいに愛されていることだ。絵本やグッズによく登場する。幸福のシンボルらしいが、それは幻覚作用によるものなのか。一度はこの目で確かめたいキノコだが、芝山以外、シラカバ林のないいわきでは無理だろう。

 奈良俊彦著『阿武隈のきのこ』には、場所は明かされていないがベニテングタケの写真が載っている。偶然、植えられたシラカバ林に出合った。「憧れのベニテングタケが目の前に現われたものであるから、大感激をしてしまった」。確かに、有毒とはいえ、いわきの人間には憧れのキノコだ(著者の故奈良さんとは一時期、いわきキノコ同好会でよく行動を共にした)。

2016年9月16日金曜日

梅干しとラッキョウ

 東京の知人を車で四倉へ送り届けた足で、道の駅「よつくら港」をのぞいた。午前10時、開店から1時間後。じいさん・ばあさんでにぎわっていた(こちらも同類だが、もっと先輩たちだ)。ご主人がまだ車を運転できる、奥さんもそれなりに体が動く――そういう人たちがスーパーへ行くように、道の駅で日常の買い物をしているのだろう。
 前に買った梅干しが切れたので、補充することにした。小川の大平商店の梅干し、ラッキョウの甘酢漬けがあった。カリカリした食感が好みで、あれば手が伸びる甘梅漬けもあった。甘梅着けはしかし、買うのを控えた。食べすぎる。あるだけ食べてしまう(食べ続けたら、梅酢で歯の表面がぼろぼろにならないか――そんなことまで考えてしまうほど好きだが、我慢した)

 きょうは十五夜(中秋の名月)――そんなポップ(販促広告)が添えられた素甘(すあま)があった。私はちらりと見て通り過ぎたが、カミサンは「満月なんだ」とつぶやいて、それを手に取った。

 晩酌の時間になって、カミサンが床の間にススキと萩の花をかざり、縁側に素甘を供えた。食卓には梅干しとラッキョウの甘酢漬け=写真。曇って満月は見られなかった。

 と、そこへ首都圏から電話がかかってきた。昔、集団登校から遅れて小学校へ行く兄弟がいた。聞けば、朝ご飯を食べていないという。カミサンが大急ぎでおにぎりをつくり、食べさせた。それがしばらく続いた。ほかにもいろいろあった。それから12年後の、当時小2の弟からの電話だった。ネットで番号を調べたという。

 20歳になった。結婚し、2歳の娘がいる。「おばさん、遅れましたが、ありがとうございます」。カミサンがたちまち涙声になる。「ぼくも泣きそうです」。どうしておにぎりを食べさせてくれたのかを聞きたかったらしい(ここには書けないが、2人とも厳しい家庭環境にあった)。つい先日も、あの子たちはどうしているだろうと、二人で話したばかりだった。
 
 夜8時半。外へ出ると、満月がうっすらと中天近くにあった。カミサンに知らせる。月を見上げながらカミサンがいった。「よかった、きょうは最後に(うれしい電話があって、満月も見られて)」

2016年9月15日木曜日

帰宅ラッシュ

 散歩をやめてからは見ていない。が、国道6号は早朝、北へ向かう車で混む。それでも、「ひところよりは減りました」と6号沿いの魚屋さんがいう。事故を起こした1F(いちえふ)の廃炉作業や周辺町村の除染作業、復興事業などの拠点(宿泊地)が一部、北へシフトしたということだろう。
 2年半前、テレビ番組「ドキュメント72時間<福島 早春のスーパーから>」(NHK)が放送された。いわきに本社のあるスーパー・マルト草野店を舞台に、3日72時間、買い物客に話を聴いた。

 番組予告にこうあった。「福島県いわき市。原発に向かう街道沿いに、『あの日』以来、売り上げを大幅に伸ばしているスーパーがある。主力商品は弁当や総菜。夕方になると、仕事帰りの原発作業員や除染作業員たちが大勢押し寄せる(以下略)」。車で5分ほどのところにあるので、ときどき買い物に行く。たまに夕方にずれ込むと、番組通りの光景を目撃する。

 スーパーは主要地方道いわき浪江線(通称・山麓線)と旧国道、そして起点の国道6号が交わるところにある。買い物に旧国道を利用する。この道も「あの日」以来、交通量が急増した。日中でさえ、車で出かけようとすると、右を見て左を見て、さらに右を左を、を繰り返さないといけない。自家用車はむしろ、「あの日」より増えているのではないか。

 ある夕方、四倉町からの帰り、山麓線と旧国道の交差点に近づくと、車が数珠つなぎになっていた=写真。帰宅ラッシュの時間帯だった。昔の記憶だと、平市街から帰って来る車が多いのに、今は6号と山麓線からそちらへ向かう車の方が多い。そのうちの何台かはスーパーへ寄って晩ご飯用の弁当や総菜を買うのだろう。

「いわき」以外、たとえば札幌・長野・山口といった遠隔地のナンバーを見ても驚かなくなった。

2016年9月14日水曜日

ふっつぇ大根

 今年(2016年)も“ふっつぇ大根”が芽生え、葉を広げている=写真(背の高いのは“ふっつぇシソ”)。夏井川渓谷の隠居の庭の一角。倒れて菜園をふさぐ桐の木の枝をナタで払い、細断しているうちに、雑草にまみれて生えているのがわかった。
「ふっつぇ」は「自然に生まれた」を意味するいわき語。こぼれ種から生えてきたのはすべて「ふっつえ」だ。シソがそう。ミツバもこぼれ種で増える。

 大根は会津産。辛み大根で、震災翌年の2012年夏、豊間で津波被害に遭い、内陸部の借り上げ住宅で暮らしながら、家庭菜園に精を出している知人(女性)から、種の入ったさやをもらった。原発事故が起きて家庭菜園を続ける気持ちが萎(な)えていたころだ。
 
 やがて、はがきが届いた。「三春のネギのそばに辛味大根をまきましたか? 被災者の私でさえ百姓しているのにだめだっぺヨ 畑を荒らしては」。発奮してさやから種を取り出し、まいた。

 2013年師走に庭が全面除染された。翌年春には栽培を再開した。知人からもらった辛み大根のさやが残っていたので、初秋に種をまいた。以来、三春ネギ同様、辛み大根も「自産自消」を続けている。

 去年も“ふっつぇ大根”が生えた。ちょうど今ごろ、双葉の時期を過ぎ、本葉へと生長した若苗が数株あった。今年も葉が大きくなっていた。

 辛み大根の根は、本来、小さくずんぐりして硬い。3回栽培して思うのだが、ずんぐりさせるには、土は硬い方がいいのではないか。土をほぐした畝(うね)では、すくすく根を伸ばしてしまう。細すぎておろし器にはかけられないし、刻んで浅漬けにしても硬くてまずい。自生に近い状態だと“ストレス太り”になる? それを、今度の“ふっつぇ大根”で確かめよう。
 
 今年も初夏、種の眠るさやをたくさん採った。ほんとうは8月後半に種をまくべきだったが、前半はロシア旅行、後半は台風・前線に気を取られて忘れていた。こぼれて土にまみれていた種は、しかし、ちゃんと秋を感知して芽を出した。
 
 大根の種の寿命はわりと長い。種まきは来年に回して、“ふっつぇ大根”を育てる。そう決めたところへ、イタリアから手紙が届いた。「ぶどうの収穫が始まり、クルミやクリの実、そしてキノコがとれる実りの秋がやってきます」。日本の、いや阿武隈の秋も5年半前まではそうだった。

2016年9月13日火曜日

三町目の路地売り

 前に、いわき市の中心市街地、平・三町目の商店街で始まった「三町目ジャンボリー」についてこんなことを書いた。
「今、商店会の若手が中心になって月に1回、『三町目ジャンボリー』を行っている。アート系のイベント『玄玄天』も三町目を中心に展開中だ」(2015年11月11日)「三町目に『猪狩ばあさん』ならぬ若者が数軒、戸板ならぬテントを張って商店街に活気を呼び込もうとしている。毎月第2日曜日に開催するようになって6回目。若い知人は『雨ですけど、今回が一番人が出ています』といった」(2015年11月9日)

 三町目ジャンボリーは、新しいかたちの「路地売り」だ。一方通行の本町通り商店前に、手づくりのパンや靴、工芸品などを展示・販売するブースが並ぶ。おとといの日曜日(9月11日)は、カミサンが初めて出店し、<フェアトレード&ブロカント(美しいがらくた)>という名前で、シャプラニール=市民による海外協力の会が手がけているバングラデシュやネパールの手工芸品などを展示・販売した。

 引用文中の「猪狩ばあさん」とは大正初期、三町目二番地の洋物屋「十一屋」前の路上で種物売りをしていた、好間・川中子(かわなご)のばあさんのこと。磐城平に伝道師として赴任した詩人山村暮鳥は、店の大番頭さんと昵懇(じっこん)の間柄になった。ある日、暮鳥と「猪狩ばあさん」が話をしていたと思ったら、おかしな詩ができた。
 
「と或る町の/街角で/戸板の上に穀物の種子(たね)をならべて売つてゐる老媼(ばあ)さんをみてきた/その晩、自分はゆめをみた/細い雨がしつとりふりだし/種子は一斉に青青と/芽をふき/ばあさんは顰め面(づら)をして/その路端に死んでゐた」(「穀物の種子」)。大番頭さんから詩を見せられたお手伝いさんたちは、夢で「猪狩ばあさん」を死なせてしまった暮鳥の大胆さにふき出した。

「フェアトレード&ブロカント」は「もりたか屋」さんの軒下を借りた。午前10時に荷物の搬入を手伝い、夏井川渓谷の隠居で折れた桐の木の枝払いをしたあと、午後3時前に会場へ戻った。4時の搬出まで1時間余り、三町目の一時滞留者となって、道行く人やブースを眺めた=写真。

 同店の右斜め向かい、更地になっているところに十一屋があった。幕末には旅宿も兼ねていた。21歳の新島襄が函館からアメリカへ密航する前、磐城平の城下に寄ってここに泊まっている。

 不破俊輔・福島宜慶著の歴史小説『坊主持ちの旅――江(ごう)正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年刊)にこうある。「藩の御用商人である十一屋小島忠平は正敏の親戚である。小島忠平は平町字三町目二番地に十一屋を創業し、旅館・雑貨・薬種・呉服等を商っていた。その忠平はかつて武士であった」

 愚庵は正岡子規に影響を与えた元磐城平藩士の歌僧。正敏はその竹馬の友で、明治になって北海道へ渡り、一時はサケ漁業経営者として成功した。愚庵に「江正敏君伝」がある。

 幕末、明治、大正とその都度異なる「物語」を刻んだ三町目二番地だが、今回はとりわけ「猪狩ばあさん」の気持ちになって、現代の路地売りに立ち会った。旧市街はどこも閑散としている。そうであっても、三町目には商店会としてのやる気と結束が感じられる。さすがは平七夕まつり発祥の地だと、一時滞留者は勝手な感慨にふけるのだった。

2016年9月12日月曜日

いわき市議選の結果

 きのう(9月11日)は朝10時、カミサンを平・三町目ジャンボリーの会場へ送り届けたあと、夏井川渓谷の隠居で庭に倒れた桐の木の枝払いをした。1時間ほどナタを振るうとくたくたになった。ナタでは断ち切れない枝もある。それも含めて幹の始末は次に回すことにした。枝をあらかた払ったあとにこずえの方から見たら、マリオネット(あやつり人形)のようだった=写真。
 隠居へ出かけた第一の目的はこれ。ついでに、いわき市議選のポスター掲示板に張り残しがあるかないかを確かめた。隠居のある牛小川までの確認だが、さすがにどの掲示板も候補者全員のポスターで埋まっていた。

 告示日の9月4日。選挙戦がスタートする前に郡山市へ出かけた。午後、夏井川沿いのルートで戻った。隠居の近くにある掲示板は、5人が未掲示だった。「ただし、これは告示日に限っての印象で、きょう(注・5日)あたりは番号がふさがっているかもしれない」とブログに書いた。結果的に未掲示はなかった。
 
 東日本大震災から5年半。いわきローカルに限ると、平成24年に市議選、翌25年に市長選が行われた。災後2回目の市議選は復興過程に移っての戦いとなった。
 
 きょうは新聞休刊日。ゆうべ、市選管の開票結果(確定)を見てから寝るつもりだったが、日付が変わる時間が近づいても「確定」が出ない。で、けさ5時前に起きて確かめた。フェイスブックでも話題になっていたが、最後の当選者と次点の差が1票だった。この「たった1票の差」を確定するのに時間がかかったか。
 
 定数37に現職31人、元職2人、新人9人が立候補した。落選するのは5人――どうしてもこちらの方に目がいった。
 
 市選管はおおむね30分間隔で開票速報を発表した。国政選挙などと違って、テレビが市議選の開票速報を流すことはない。ネットで開票速報を取りにいった。<午後9時現在>で同姓の2人と川前の1人の新人3人、元職1人の得票数がゼロ。落選組5人のうち4人がこれで決まった。<午後10時30分現在>では、やはりこの4人が低迷し、数人が2000票で最後の1人の当落を競っていた。それからが長かった。(結果、1票差で次点に泣いたのは常磐の現職だった)
 
 新人に限っていうと、人口集中地域でたまたま現職がいなかった、あるいは引退組の後継と目された候補は滑り込んだ。選挙公報を読んでもよくわからない新人は落選した。そういう候補には、やはり有権者は一票を投じにくかったにちがいない。

個人的には、会えばあいさつくらいは交わす人が10人ほどいる。「おめでとうございます」がいえるだけよかった。

2016年9月11日日曜日

いろいろな9・11

 きょうは9月11日。東日本大震災から5年6カ月の節目の日だ。アメリカの同時多発テロ事件が起きた日でもある。
 阪神・淡路大震災のとき、あちこちから黒煙が上がるNHKの空撮映像を見て早く職場へ行かなくては、と心がざわついた。遠く離れたいわきの人間にも衝撃だった。3・11。茶の間は落下物でめちゃくちゃになった。テレビも倒れた。それを元に戻してスイッチを入れ(停電は免れた)、やがてNHKがライブで追った大津波の空撮映像に言葉を失った。この映像から国内外の関係機関が救援へと動いた。テレビの力である。

 同時多発テロ事件は、2001年9月11日深夜のテレビで知った。いわきフォーラム’90主催のミニミニリレー講演会が開かれた。知り合いの住職夫人が寺の1年について話した。そのあと、どこかに寄って話者らとお茶を飲み、帰宅してテレビをつけたら、旅客機が超高層ビルに突っ込む映像が繰り返し流された。何がおきたのか、最初は理解ができなかった。

 あとで知った9・11に、1973年のチリ軍事クーデターがある。選挙で選ばれたアジェンデ社会主義政権が倒される。ピノチェト軍事独裁政治が始まる。抵抗する労働者や学生が虐殺され、行方不明になった。
 
 同時に(これも受け売りだが)、ミルトン・フリードマン(のちにノーベル経済学賞を受賞)のシカゴ学派が、クーデター後のチリで市場原理を重視した経済政策を「実験」する。その流れの先にレーガン、サッチャー、中曽根・小泉らがいる。光と影、功と罪。富める者は富み、そうでない者は格差と貧困に苦しむ世界が広がった。

 アジェンデ政権下で駐仏大使になり、任期中の1971年、ノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダが好きだった。がんに侵され、帰国した翌年、クーデターが起き、そのさなかにアジェンデ同様、悲惨な最期を遂げた。

 身近な9・11もある。きょうは初めて、カミサンが平の「三町目ジャンボリー」=写真(今年6月)=に参加する。シャプラニール=市民による海外協力の会が手がけているバングラデシュやネパールの手工芸品などを展示・販売する。品物の搬入出を手伝わないといけない。その前に、朝、近くの小学校の体育館へ出かけて市議選の投票をすませる。
 
 きのうは午後3時ごろ、川向うの空で大きな音が鳴った。平・菅波は愛宕神社の松明(たいまつ)祭りの開催を告げる花火だった。きょうが本祭り。平・飯野八幡宮でもきのうに続いてきょう、流鏑馬(やぶさめ)神事が行われる。いろいろな9・11がある。

2016年9月10日土曜日

FMいわき20年

 9月1日は「防災の日」。ほかにもなにかがあったような……。もやもやしていたところに、双葉郡の楢葉町内でもFMいわきが聴けるようになった、というニュースに接した。検索してすぐ霧が晴れた。20年前のこの日、いわき市民コミュニティ放送(FMいわき)が開局した。FMいわきの情報紙「みみたす」4・5・6月号に記事が載っていた=写真。それが頭の隅っこにあったのだろう。
 FMいわきの初代社長は、いわき地域学會の初代代表幹事だった故里見庫男さん。会の仲間が、考古学や民俗学、文学、美術などそれぞれの専門分野を生かして番組づくりに協力し、出演した(今も出演している)。私も週1回、パーソナリティー相手にいわきの今のあれこれをしゃべる15分番組を持たされた(しゃべるのが苦手なので、1年か2年でやめた)。

 平成7(1995)年、阪神・淡路大震災が発生する。「ふくしま国体」も開かれた。いわきで国体がらみのイベントFM局が開局し、110日間放送した。このイベント放送の経験と大震災を受けて、翌年9月1日、正式にFMいわきが開局した。
 
 それから15年後、東日本大震災に見舞われる。同局は発災直後から3月30日午後までのおよそ19日間、456時間に及ぶ24時間生放送を敢行した。安否情報や生活情報をリスナーに伝え、コミュニティメディアとしての使命を果たした。

 その後、災害時の市民への情報提供を目的に、難聴取地域の解消を図るため、いわき市内山間部を中心に13中継局が設置された。

 あるとき、FMいわきをかけながら国道6号~同288号~県道小野四倉線~国道399号と、反時計回りにいわき市の外縁(阿武隈高地南部)を巡った。6号では広野町の北、楢葉町の「道の駅ならは」(現在は双葉警察署の臨時庁舎)あたりで音が途切れ、開けたところに出ると雑音になった。それを解消するために楢葉中継局が設けられた。

 新聞報道や町の広報によると、新中継局は町がアンテナを立て、FMいわきが運営する「公設民営」方式がとられた。防災の日と、60年前に合併して誕生した同町の町制施行を記念して、9月1日に町内でもFMいわきが聴けるようにした。同町は昨年(2015年)9月5日、全町に出されていた避難指示が解除された。それから1年、帰還者に広く生活情報、防災情報を提供する。

 開局から20年。FMいわきは自治体の枠を越えて浜通り南部をカバーするコミュニティメディアに成長した。エリアの拡大は娯楽の提供だけでなく、防災面からもより多くの住民から頼られる存在になることを意味する。営業的にも歓迎すべきことだろう。

 個人的なことをひとつ――。一時、「みみたす」にいわきの中山間地を深掘りするルポ記事が載った。一読瞠目し、ファンになった。ああいう記事の復活は、ないだろうな。

2016年9月9日金曜日

雲の上の雲

 前線や台風12号崩れの低気圧の影響でまた天気が荒れた。それでも雲の上には青空が広がる。けさ9月9日5時すぎ、いわきの東の空は青磁の理想の色とされる「雨過天晴雲破処」(雨がやみ雲が切れて青空がのぞく)だった。
 雲は天才だ、と明治の歌人がいった。1カ月ほど前、旅客機の窓から見た雲海の上の“光景”が忘れられない。

 今年(2016年)8月2日夕、雨上がりの成田からサハリン(樺太)へ飛んだ。飛行ルートは成田―仙台―札幌―ユジノサハリンスクで、それを直線で結ぶと、いわきの西方、阿武隈高地を北上し、大滝根山あたりをかすめた感じになる。が、雲海にさえぎられてどこを飛んでいるかはわからなかった。

 旅客機は70人乗りくらいの双発プロペラ機だ。離陸したのは午後4時半、サハリンまでの所要時間は2時間半。飛行を始めて1時間半になるころ、雲海が切れて眼下に海が見えた。あとで海岸線のかたちを地図とグーグルアースで確かめたら、陸奥(むつ)湾だった。雲間から差し込む夕日が海面に反射していた。

 北海道上空に達すると、再び雲海が広がった。立ちあがって吠える熊のような積乱雲がいくつも連なっていた。その数だけ「ヤコブのはしご」と影があった=写真。帯状の光と影の荘厳さ。人間には厳しい神々が、人間に見えない天上で雲と遊んでいる。自在に自分を造形する雲はやはり天才だ。

 やがて雲海に“孤島”が現れた。北海道の西に浮かぶ島は山に高低がある。突き抜けた高さは利尻島の1721メートル。利尻山だろうか。

 雲海とその切れ目で目撃した夕暮れの空、海、山の神々しさ――。にしても、このごろ気象がおかしい。台風が東北に初上陸し、北海道が風神や雨神(うじん)に狙われている。きょうも北上中の低気圧が東北・北海道をうかがう。地球温暖化の影響だとしたら、「北海道に梅雨はない」という話は、もう過去のものになるのかもしれない。そうなったら日本の亜熱帯域も北へと広がる。雲よ、教えてくれ、これから地球はどうなるの?

2016年9月8日木曜日

屋根に猫のオブジェ

 きょう(9月8日)も三春の話を――。きのう紹介した雑貨屋「in-kyo(インキョ)」の2軒隣の花屋さんは猫が大好きらしい。屋根に白猫のオブジェが置いてある=写真。母猫に子猫が2匹。1匹は少し離れている。こいつは好奇心が強くて、あれこれ周りを“観察”してしまうので遅れるのだろう――なんて「物語」を勝手につくってしまう。
 それから3日ばかり、三春の猫オブジェをぼんやり思い浮かべていたところに、長田弘の『ねこに未来はない』(晶文社、1971年刊)が目に入った。わが家のことだが、震災後のダンシャリが続く。カミサンが自分のテリトリーで資料の整理をしているうちに出てきたそうだ。「捨てようと思ったけど、あなたの本だから(捨てるのをやめた)」。当たり前だ。

 著者は去年(2015年)5月、75歳で亡くなった。福島市に生まれ、子どものときに一時、田村郡三春町で過ごした。阿武隈の山と川、光と風、人といきものを知っていた詩人――そう勝手に想像している。三春と同じ田村郡常葉町(現田村市常葉町)で生まれ育ったための「我“田”引水」(なんでもかんでも田村郡、田村市にいいように解釈すること)かもしれないが。

 長田さんの第一詩集『われら新鮮な旅人』(思潮社、1965年刊)は、10代後半の少年には衝撃だった。以来、彼の本はだいたい目を通してきた。職を得た年に発行された散文『ねこに未来はない』も、もちろん。猫好き、というわけではない。ただ1匹の猫の思い出として買ってみたのだった。

 小学2年生になったばかりのとき、町が大火事になった。家が焼け落ちた。飼い猫の「ミケ」も焼け死んだ、と思った。ところが、かろうじて焼け残った親類宅に仮泊して1週間目、ミケが現れた。猫好きではない少年も感動して抱きしめた。

『ねこに未来はない』の冒頭にこうある。「ぼくは最初、ねこが好きじゃありませんでした。(中略)そのぼくが、どういう星のめぐりあわせか、たいへんねこ好きのひとと結婚しなければならないはめになってしまったのです。なんという不運でしょう!」

 それから、いや綾小路きみまろ流にいえば「あれから○十年」、猫に関しては息子たちも孫たちもカミサンの陣営に入ってしまった。(そういえば、いわき市立美術館で9月17日から「猫まみれ展」が開かれる。猫の絵のほかに、猫に関することばたちは?紹介されないだろうな)

 猫のオブジェ、『ねこに未来はない』、詩人の子ども時代……三春。茶わんの底のような小さな町には歴史が凝縮している。ゆるやかな小丘が続く郊外には有名な滝桜がある。

 樹は――。「最初に日光を集めることを覚えた。/次に雨を集めることも覚えた。/それから風に聴くことを学んだ。/夜は北斗七星に方角を学び、/闇のなかを走る小動物たちの/微かな足音に耳をすました。/そして年月の数え方を学んだ。/ずっと遠くを見ることを学んだ。」

 <樹の伝記>の作品のなかで、詩人は生長する樹木の“人生”を描いた。読者は自分の人生を重ね合わせながら、この詩句を読むことだろう。詩のエキスのいくらかは三春で培われたものにちがいない。これも我“田”引水だが。

2016年9月7日水曜日

選択的定住

 郡山市立美術館からの帰り、三春町にある雑貨屋「in-kyo(インキョ)」=写真=へ寄った。雑誌「天然生活」(2016年9月号)と、オーナーの女性のブログによると、彼女は千葉県、ご主人は福島県郡山市生まれ。三春に住まいを見つけ、さらに自宅から車で数分の町なかに今年(2016年)4月、東京の店を移転・再オープンした。作家ものの器や雑貨、衣類、本、写真などを売っている。
 美術館も雑貨屋もカミサンの希望だった。行政資料の振り分けや配布、いわき地域学會の市民講座案内のあて名張りなど、カミサンにはふだんからいろいろ手伝ってもらっている。たまにはカミサンのいうことを聞かないと、この「内助」が途切れる。

 カミサンと「in-kyo」のオーナーの話を聞くともなく聞いていると、いわきに友人がいる、行ったこともあるという。その友人とは直接会ったことはないが、わが家にやって来る若い女性の知り合いだった。

 そうか――。社会の軸になるのはいつも20~40代だ。政治や経済はともかく、文化についていえば絶えず若い人たちが新しい何かに挑み、その波紋が広がってまた何かを生み出す、といったダイナミズムに満ちている。それで、古い世代の役割は――と、このごろよく考える。バトンタッチをする意味も込めて若い世代を応援することだ。そんなことを三春でも思った。
 
 いわきでも震災後、20~40代の若者の動きが活発になってきた。新しい文化的エンジンが生まれつつある予感がする。先月(8月)、いわきにIターンした若い夫婦と酒を酌み交わして、さらにそのことを実感した。
 
 震災後、福島県に移り住む若者がいる、という事実。出生地は選べないという意味ではもともとの住民は「宿命的定住」者だが、これに「選択的定住」をするニューカマーがかむことで、地域の文化は適度に撹拌される。新しい化学反応がおきる。私自身、Jターンの「選択的定住」者なので、撹拌の難しさも面白さも知っている。
 
 三春では、店の名前「in-kyo」の由来を聞いた。隠居に住んでいた祖母との思い出が原点らしい。週末、夏井川渓谷の隠居で過ごす身としては、「インキョ」の響きが懐かしく新しかった。

2016年9月6日火曜日

キノコ撮り

 きのう(9月5日)、フェイスブックにアップされた食菌(タマゴタケ)の写真に刺激されたので――。
 日曜日に郡山市立美術館へ出かけた。9月11日まで「西洋更紗(さらさ) トワル・ド・ジュイ展」が開かれている。カミサンが見たいという。更紗に興味はないが、運転手を引き受けた。

 国道49号から途中で右折して丘を越える。早すぎた。三春町の南部だ。目ざす美術館からどんどん遠ざかっているような気がする。道端にいたおじさんに聞くと、「あらら」という顔をされた。後戻りし、聞いたとおりに右・左折すると、見慣れた美術館通りに出た。ナビは記憶頼り。これがいつも狂っている。

 開館時間の9時半ちょっと前に着いた。駐車場の前の山を見ると、いい感じの雑木林だ。コナラに混じって若い赤松がある。園庭と接する林縁はササで覆われているが、その奥、林内はちゃんと手入れがなされている。思ったとおり、キノコが散在していた=写真。近づいてよく見ると、傘の裏が管孔になっている。傘や柄が赤く傘裏が黄色、あるいは傘が大きくて柄が太い。ほとんどがイグチ系のキノコだった。

 郡山の美術館は市街東郊の雑木林を切り開いて建てられた。もともと雑キノコの豊富なところなのだろう。今年は空梅雨から少雨の夏が過ぎて、秋のキノコは不作とあきらめていた。そこへ台風と前線が相次ぎ、森が濡れた。それまでじっと我慢していた夏キノコのイグチたちが一斉に頭をもたげはじめた、そんな感じだった。

 キノコの生える公園はいわきにもある。アリオス北の平中央公園ではテングタケ(毒)を見た。暮らしの伝承郷にはタマゴタケ(食)が出る。観察をしたことはないが、泉町の大畑公園で珍しいキノコを見たという話も聞く。奥山へ行かなくても、身近なところでキノコ観察はできる。この5年間は「キノコ撮り」しかできないのがくやしいのだが。

2016年9月5日月曜日

いわき市議選がスタート

 きのう(9月4日)の日曜日、いわき市議選が告示された。朝は番号だけだったポスター掲示板が、午後には立候補者の顔で埋まっていた=写真。
 朝8時前、家を出る。カミサンが、行きたいところがあるというので、郡山市へ車で出かけた。ならば、ルート沿いにある選挙事務所の様子やポスター掲示板を見ながら――そう決めて、行きは国道6号から49号へ入り、帰りは磐越東線と夏井川に沿って県道小野四倉線~国道399号を戻った。

 告示に伴う“儀式”がある。市選管に各陣営が集まり、くじ引きで届け出順を決めないといけない。8時半からなので、8時の段階では確定していない。国道6号沿いのA候補の選挙事務所では、看板が覆われたままだった。49号に入るとB候補、C候補の事務所があった。第一声を待つ支持者らが集まっていたのでわかった。帰路、夏井川沿いの道を下るとD候補の事務所があった。
 
 定数37に対して立候補者は42人。現職31人、元職2人、新人9人だという。
 
 で、ポスター掲示板を見るたびに思うのだが――。いわき市は小さな県並みに広い。市域の7割は森林、人口の8割は残りの狭い平地(都市部)に集中している。平地が基盤の候補も、山地から平地へ出撃する候補も、まずはポスターを張って認知度を上げないといけない。市議選は次の日曜日(9月11日)投票まで7日しかないのだ。
 
 ポスター掲示場は全部で622カ所だという。山地の掲示板をチェックしながら平地へ下った。
 
 ポスター張りの間に合わない陣営がいる。告示日の午後になってもポスターを張り切れないのは組織力が弱いからだろう、組織力が弱いと一気に張って回るダッシュ力もない、そもそも山地への思いが希薄なのではないか、とあれこれ勘繰ってしまうのだった(平地の掲示板には全員のポスターが張られていた)。
 
 ただし、これは告示日に限っての印象で、きょうあたりは番号がふさがっているかもしれない。平地と山地を巡っての、元ブン屋のどうでもいい感想でした。

2016年9月4日日曜日

ロシアのキノコスープ

 きのう(9月3日)、ウラジオストクのことを書いたら、“余熱”がおさまらなくなったので――。
 あしたは帰国という8月6日の晩、ウラジオの街なかで夕食をとった。ロシア極東5泊6日の旅の「最後の晩餐」だ。「キノコのスープで有名なレストランです」。ガイド氏のことばに内心ホッとした。
 
 サハリン(樺太)では、日本語ガイドのワシリーさんとキノコ談議をした。キノコを口にすることはなかったが、森とキノコと人間の関係がよくわかった。
 
 半分は内陸、半分はオホーツク海に面した国道を往復した。道沿いに、地元のおばさんたちが陣取り、モノを売っている。ある漁村の駅前では、漁師の奥さんと思われるおばさんたちがタラバガニを並べて客に応対していた。花を追ってミツバチとともに移動中と思われる一家のおばさんも、テントの前の道路でハチミツを売っていた。
 
 もっと北の町では、小さなバケツに白いモミタケを入れて、買い手を待つ娘さんがいた。1キロ1000ルーブル、日本円でおよそ2000円だという。近くの林から採取したばかりにちがいない。
 
 サハリンで人気のあるキノコはヤマドリタケモドキだと、ワシリーさんはいう。イタリアでは「ポルチーニ」、フランスでは「セップ」、ドイツでは「シュタインピルツ」と呼ばれるヤマドリタケの仲間だ。ほかに、ハナイグチ、アンズタケ、エノキタケ、タマゴタケ、タモギタケ、オオモミタケなどの食菌が採れる。
 
 シイタケも発生するという。南洋上空に漂っていたシイタケの胞子が、台風の背中に乗ってサハリンまで運ばれたか。シイタケの北限だろう。
 
 ワシリーさんは「チシマザサが生えるとキノコは出ない」といった。日本でも事情は同じ。キノコ採りは、ササの生えた斜面は素通りする。
 
 キノコスープ=写真=の話に戻す。レストランの名前は「ポルト・フランコ」。マッシュルームが主体らしかった。それ以外のキノコも入っていたと思うのだが、よくわからない。日本、特に栃木県ではチチタケを炒めて出汁をとる「ちだけうどん」が好まれるが、その出汁に似た味のスープだった。ボルシチではないというだけで目が喜び、舌が躍った。

2016年9月3日土曜日

坂の多い港町

 日露首脳会談がきのう(9月2日)、ロシア極東のウラジオストクで開かれた――というので、1カ月前に訪れた「坂の多い港町」を思い出した。
 同級生4人で8月2~7日、ロシアの島(サハリン)とシベリア大陸(ウラジオストク・ナホトカ)を巡った。日本で2年間、日本語の勉強をしたガイドのアレクサンダーさんによると、ウラジオストクは長崎に似ている。市街を車で移動しながら、なるほど坂だらけだ――と思った瞬間、なぜか司馬遼太郎の小説のタイトル「坂の上の雲」が思い浮かんだ。

 小説の「坂」は右肩上がりで進む日本の近代化の象徴だろうが、ウラジオストクでは現実に「坂の上の雲」が見られる。そこから日露戦争に連想が及んだのかもしれない。

 政治的なことはよくわからないが、下世話なところでは首脳会談に大いに興味がわいた。どこで会談したのか、首相一行はどこのホテルに泊まったのか。

 ウラジオで最高のホテルといわれているのは「ヒュンダイ(現代)」らしい。7月30日~8月10日、当地でオペラやバレエ、コンサートの「極東国際フェスティバル」が開かれた。「ヒュンダイ」の宿泊は難しいだろうということで、旅行会社が次のランクのホテルを押さえた。

 ウラジオは札幌と同緯度にある。冬は寒さが厳しいにちがいない。夏は? たまたまかどうかはともかく、気温が30度を超えた。ホテルの部屋には扇風機しかない=写真。扇風機をかけても夜は汗ばんで寝苦しかった。ガイド氏に皮肉をいうと、「ウラジオのホテルには、今までエアコンは必要なかった、地球温暖化の影響だ」という。そうかもしれないが、その対応が扇風機止まりというのはお粗末すぎないか。

 日本へ帰って、司馬遼太郎の『ロシアについて――北方の原形』(文藝春秋)を読む。ロシアにとってのシベリアは、本質的にはかつぎ続ける重さに耐えなければならないほど「大きな陸地」だ。シベリアが存在するかぎり、ロシアの日本への関心は「シベリアの産物を日本に売り、日本から食糧を買い、シベリア開発を容易なものにしたいというところにあ」るという。
 
 一方で、司馬さんはこうもいう。日本人の感覚は日露戦争のあと変質した。「おびえが倨傲(きょごう)にかわった。謙虚も影をひそめた。(中略)大正時代の日本は、それまでの日本の器量では決してやらなかったふたつのことをやった」。一つは「対華21か条の要求」、もう一つは「シベリア出兵」。
 
「理由もなく他国に押し入り、その国の領土を占領し、その国のひとびとを殺傷するなどというのは、まともな国のやることだろうか」、やることではないと言外に司馬さんはいう。「北方の原形」を基礎において今度の首脳会談を読み解くのもおもしろいか。

 これは蛇足。ウラジオストクのすぐ西は中国、南西は朝鮮半島だ。中国や韓国からの観光客が多かった。ホテルの朝食会場でも韓国からの団体さんと一緒になった。わりと静かなので韓国とわかった。それともう一つ。夜、ホテルの部屋に「マッサージはどうですか」といういかがわしい電話がかかってきた。「ノーサンキュー」で通した。

2016年9月2日金曜日

「いわき、1846日」

 8月30日は東日本大震災から2000日目。きのう(9月1日)は防災の日――節目の日が続くなかで、シャプラニール=市民による海外協力の会の冊子『いわき、1846日――海外協力NGOによる東日本大震災支援活動報告』=写真=を読む。発行日は2016年9月1日。「防災の日」に合わせた意味をかみしめる。
 東日本大震災から1000日目は平成25(2013)年12月4日だった。そのときと同様、2000日目にも田村隆一の詩集『四千の日と夜』が頭に浮かんだ。日本の戦後の、およそ10年を象徴するタイトルだ。同じ筆法で災後2年9カ月が「千の日と夜」、5年5カ月余の今が「二千の日と夜」。

 この時間と重なる、いわきでの1846日――シャプラの報告書のタイトルには、一日一日が被災者と向き合った試練の日々、模索の日々だった、という思いが込められているのだろう。

 バングラデシュやネパールなど南アジアで「取り残された人々」の支援活動を展開しているシャプラが東日本大震災後、初めて国内支援に入る。今年(2016年)3月12日に交流スペース「ぶらっと」を閉鎖するまで5年間、いわきを拠点に被災者の緊急支援、生活支援、自立支援を続けた。

 その活動を、①私たちは何に取り組んだのか②いわきで暮らす人々からの発信③いわきで学んだこと、そして未来へ向けて――の三つのパートから振り返る。編集委員の一人として、②の発信者12人のうち半分、6人にインタビューをした。

 シャプラニールの前身「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」を立ちあげた一人が私と同じ学校に学び、同じ寮の部屋で寝起きしたいわきの人間だった。45年前の話だ。それもあって、昔からシャプラとかかわっている。私にとっては「外部のNGO」ではなく、いわきの遺伝子を持った「内部のNGO」だ。だからこそいわきへ来た、ならばという思いでこの5年間、シャプラに伴走してきた。
 
 冊子を読んであらためて思ったのは、シャプラの愚直さだ。③のなかの小見出しがそれを伝える。<私たちが気をつけたこと>として、「取り残された人々への視点」「『やりたい』ことをやらない」「当事者主体と市民参加」「現地調達の原則」を挙げる。

『やりたい』ことをやらない」とは、支援団体が自分たちでやりたい支援をしてさっさと引き揚げていくのではなく、必要な支援を探ってそれにじっくり取り組む、という姿勢をさす。この愚直さ=被災者が必要としているものは何かを絶えず問い直す視点=が被災者や行政、他団体などの信頼を得たのだと思う。
 
「エンパワーメント」(人々に夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っている素晴らしい、生きる力を湧きださせること=ウィキペディア)を目指すシャプラの活動を、この目と耳で確かめた5年間でもあった。
 
 今年3月時点での被災者アンケートや交流スペース「ぶらっと」、まちの交流スペース「まざり~な」の開設などの経緯も紹介したいが、それはまた別の機会に。

2016年9月1日木曜日

また、桐の木が……

 ありゃりゃっ。きのう(8月31日)、早起きして夏井川渓谷の隠居へ出かけた。着いて庭の奥を見ると……。桐の木が折れて庭をふさいでいる=写真。キュウリやナス、ピーマン味の変なトウガラシの茎も傾いていた。
 いつもは1週間サイクルで日曜日に隠居で土いじりをする。肥大気味のキュウリのほか、ナスとトウガラシを収穫する。今回は、日曜日・市民体育祭、月曜日・野暮用、火曜日・台風10号と続いて、隠居へ行く日が3日ずれこんだ。

 この10年くらいの間に、桐の木は幹が折れる、残った幹から芽生えた“ひこばえ”が幹になってまた折れる、枝も折れる、を繰り返してきた。根っこを持つ幹ではない。がらんどうになって折れた幹の“皮”が根っこ代わりだ。突風にはひとたまりもない。幸いというべきか、今までそばの物置を直撃するようなことはなかった。今度も反対側の、庭の空きスペースに倒れた。

“ひこばえ”の幹は3本。1本は何年か前に切った。残る2本のうち1本がこの10日の間に折れた。葉がすでに黒ずんでとろけかかっている。台風10号であれば葉はまだあおいはず。その前、9号か、前線が通過したときに突風が吹いたか。
 
 庭にはシダレザクラが2本ある。今は大きな日陰をつくっている。桐も大きな葉を広げて影をつくる。それで、年を追って菜園の日射量が減っている。前に“ひこばえ”の幹を切ったのも、日差しを確保するためだ。今度折れたモヤシのような幹もいずれは、と思っていたので、結果オーライとしよう。
 
 ナスやトウガラシは支柱を1本増やして立て直した。キュウリは、実が曲がり始めている。「生(な)り疲れ」、あるいは終わりに近づいているのかもしれない。それでも古い葉を摘んで若葉に光が当たるようにした。
 
 庭に横たわる桐の木の始末は容易ではない。木自体はやわらかいので、枝はナタで払うとしても、幹はノコで細かく切るしかない。きょうから9月。師走が視野に入って、なぜか焦った気分になる時期だ。思わぬ“宿題”を抱えて「焦り」がさらにふくらんだ。