2016年11月30日水曜日

横道にそれる楽しみ

「どんどん横道にそれて、遊びながら学んでいく――これこそわたしの『銀の匙』授業のやりかたでした」。中学の3年間、中勘助の「銀の匙」を教科書にして現代国語の授業をする。私立灘校国語教師、故橋本武さんの授業はユニークだ。
 橋本武著『<銀の匙>の国語授業』(岩波ジュニア新書)=写真=を読んで納得した。どんどん横道にそれていくなら、『銀の匙』だけでも“読了”までに3年はかかる。
 
 たとえば――。「ぶ」動詞が出てくる。共通する動詞を考えさせる。「あそぶ」「まなぶ」のほかにどんな「ぶ」動詞があるか。それをどういう方法で考えたか。「あいうえお」順で考えたという子がいる。次に、その動詞を漢字で書かせてみる。さらに、歴史、民俗、自然……と次々に踏み込んでいく。要するに、総合学習で丸ごと作品を味わう。これこそが「横道にそれる」醍醐味だ。

 11月6日にいわき市立草野心平記念文学館で第39回吉野せい賞表彰式が行われた。式後、現代詩作家荒川洋治さんが「詩を知るよろこび」と題して記念講演をした。

 荒川さんは冒頭、吉野せいの短編集『洟をたらした神』に触れてこんなことを言った。灘校では、橋本さんが『銀の匙』を教科書にした。いわきでも同じように『洟をたらした神』を教科書にしたらいい――。で、後日、『<銀の匙>の国語授業』を、図書館(ティーンズコーナー)から借りてきた。荒川さんの言わんとしていることがよくわかった。

 実はそのころ、『洟をたらした神』のなかの「麦と松のツリーと」に関して、作品世界と呼応する資料をネットから手に入れた。
 
「麦と松のツリーと」のあらすじ――。終戦前年の師走の暮れ・夫の三野混沌(吉野義也)とせいが菊竹山の畑で麦踏みをしていると、炭鉱の捕虜収容所通訳Nさんと捕虜の若い白人が現れる。Nさん「この辺に樅の木はないかねぇ」、混沌「樅はねえなあ、松の木ならどうだ」。Nさんと若者は松林の中に入り、クリスマスツリー用に「ひねくれた一間ばかりのみすぼらしい芯どまりの松」を取ってきた。

 それから8カ月過ぎた真夏の日、Nさんに引率された30~40人の俘虜、いや今は勝ち誇ったアメリカ兵たちが、愉快気に菊竹山へ山遊びに来た。集落の小さい子供たちは「ガム、くんちぇ」。列の後方からあのときの若者がせいの目の前に白いものを投げてよこす。1メートルほどの人絹布に吸い残し5本が入ったたばこの箱。たばこは混沌が吸い、布は肌着の半襟にでもとせいがしまいこんだ。
 
 この作品世界を捕虜の側から照らし出したのが、ネットで見つけたPOW(戦争捕虜)研究会の笹本妙子レポート「仙台第2分所(好間)」だ。捕虜収容所に菊竹山からとってきた松の木を据え、あれこれ飾ってクリスマスを楽しむ。内容は略すが、「麦と松のツリーと」の世界がより生き生きと立ち上がってきた。橋本流とはこういうことなのだ。
 
 橋本さんの本を読んだあと、『洟をたらした神』の最初の短編「春」について、「注意すべき語句」をチェックしてみた。①動植物=カエルの冬眠・ゆりみみず・陸稲(おかぼ)・粟②農業=万能・唐鍬・新切り叩き・二段返し③その他=乾地湿地・モッコ・地鶏・あひるの卵・浜の祖父の病気見舞い――。これまでいかに適当に作品を読み流していたことか。横道にそれて学ぶことがいっぱいある。

2016年11月29日火曜日

カラスめ!

 家の前の歩道にごみ集積所がある。わが区は月・木曜日が「燃やすごみの日」だ。「燃やすごみの日」と「容器包装プラスチックの日」だけ、黄色いごみネットを出す(容器包装プラの日は風対策)。ネットはわが家で保管している。ネットを出しっぱなしにしておくと景観的にもよろしくない。収集車が来たあとはネットを回収する。
 きのう(11月28日)はネットをかぶせてもお手上げ状態だった。ハシブトガラスが生ごみを食い散らかす=写真。それを片づける。と、また食い散らかす。片づける。またまた食い散らかす。片づける。またまたまた……。収集車が来るまでのわずか2時間ほどの間に4回も攻防を繰り広げた。初めて無力感を覚えた。

 カラスの害を呼び込むのはごみを出す側だ。ごみ出しのマナーがなっていない。で、注意喚起の紙を電柱にくくりつける。すると、しばらくカラスは遠ざかる。しかし、住人が変わるたびにカラスが舞い戻る。最近も張り紙をした。

 きのうは、マナー違反(生ごみがもろに見える)はひとつくらいだった。それは真っ先にやられた。ところがそのあと、ネットをきちんと覆っても、生ごみが新聞紙で覆われて外から見えないようになっていても、袋を引っ張り出して破り、生ごみを散らかした。
 
 わが家の前の集積所だけではなかった。斜め向かいの集積所もやられた。同じ歩道の先の集積所にもカラスが集まって、ごみ袋をつついていた。集団のなかに、「燃やすごみの日」にはどの袋にも生ごみが入っていることを学習した個体がいたのではないか。

 5日前のブログにこんなことを書いた。イノシシがとうとう近所に現れた。「住宅地で害を及ぼす野生動物はカラスがほとんどだった。人間のごみの出し方が悪いとたちまち袋を破って生ごみを食い散らかす。これからはカラスだけでなく、イノシシも警戒しないといけなくなった」

 カラスやイノシシに言わせれば、「マチに現れるようにしたのは人間だよ」となる。人間には「いいね!」でも、動物や植物には迷惑千万なものがある。きのうのカラスのしつこさは、そんな人間の身勝手さに対する“逆襲”、いや“警告”だったのかもしれない。

2016年11月28日月曜日

いわき学博士号授与式

 いわき地域学會が主催した「いわき学検定」で1、2次試験を突破した5人の「博士号授与式」が土曜日(11月26日)、いわき市生涯学習プラザで開かれた。
 在野の団体が「いわき学博士号授与」だって?となるかもしれないが、そこはいわきならではの事情がある。4年制大学がいわきにできる前、主に在野の研究者が集まって、いわきを総合的に調査・研究する団体・いわき地域学會が発足した。以来30年余、調査報告書や一般向けの単行本を多数刊行してきた。このごろ目にする「地域学」や「地元学」のさきがけ、といってもよい。
 
 アカデミズムと通底しつつ、30年余のいわきの「民間学」の成果をまちづくりに生かそう――そんな視点で始まったのが「いわき学検定」だ。行政が実施してもいい事業だが、いわき地域学會で実施するところがいわきらしいと、私は思っている。
 
 狙いは単純だ。「学ぶ・わかる・楽しむ」体験を通じて、「わがまち・いわき」の魅力を知り、まちづくりや観光に生かしてもらう。単に知識を深めるだけ、というのでもいい。私の体験でいえば、「楽しむ」の先には「好きになる」がある。地域学會の初代代表幹事・里見庫男さんがよく言っていた「郷土愛」がおのずと形成される。
 
 今年の「博士号」は、市職員(女性)、観光まちづくりビューロー職員(女性)ほか3人に贈られた。最高齢は生涯学習の見本のような77歳だった。市職員は趣味で挑戦したという。ビューロー職員は観光案内という仕事柄、プレッシャーがかかったにちがいない。ビューロー職員が受賞者を代表して謝辞を述べた。「この1年間、さまざまな地域学講座を受講した。学生時代より勉強したかもしれない」
 
 市長からも来賓を代表して祝辞をいただいた=写真。いわき市は今年(2016年)、市制施行50周年を迎えた。主に公民館や支所の事業として、旧市町村単位の「好間学」「内郷学」「常磐学」などが展開されている。「小名浜みなと学」も始まった。
 
 地域には地域の歴史がある。「平学」や「勿来学」といったものから、さらにもっと身近な「○○学」(たとえば、旧・旧市町村単位の「神谷学」「平窪学」のようなものだろう)があってもいい(市長)――そこまでいけば、いわきは名実ともに「地域学の盛んなまち」になる。

2016年11月27日日曜日

ブルーグレイ

 きょう(11月27日)も画家の話を――。11月19日の土曜日夜、「峰丘展」のオープニングパーティーが、いわき市平のギャラリー界隈(実際は可動式の壁をはずした同フロアのレストランKITAO)で開かれた。
 だれかがあいさつのなかで言っていたが、峰丘とつながる人たちのなかでは、界隈の峰丘展は師走を前にした風物詩になっている。俳句の「いわき歳時記」をつくるとしたら、私は初冬の季語に「峰丘展」を入れる。
 
 作品に関してはまた別の感慨がある。峰が、謝辞を兼ねたあいさつのなかでこんなことを言った。「このごろ、空を見ることが増えた。ブルーグレイがところどころに見えるときがある。初めてブルーグレイの色を作品に取り入れた」
 
 ブルーグレイ? どんな色かな。その色を使った小品を見たら、焼き物の世界でいう青磁の色だった。<雨過ぎて雲破れる処>に青空がのぞく。その青はうっすらと緑がかっていたり、明るい水色だったりする。青磁はそこから生まれた。峰のいうブルーグレイは緑がかった青だった。私は青磁色の空が現れるとついパチリとやる=写真。橋の奥の緑がかった方がブルーグレイに近い(実際はもっと緑がかっていた)。
 
 6年前の秋、台湾へ出かけ、国立故宮博物院を見学した。陶磁器のコーナーで「雨過天晴雲破処」の逸品に出合った。青磁の最高峰という。帰国して同博物院のホームページをのぞいた。「湿潤で趣深い色合いは、正しく宋人が求めてやまなかった、雨上がりの空の青の如く明るく静けさに満ちた美しさ」。空にある湿潤で趣深い色合いに峰も出合った。
 
 峰とは同年齢だ。おたがいに「元気」と「病気」の間でバランスをとるようになった。“サンズ・リバー”もときどき遠く近く見えたりする。
 
 きのう(11月26日)昼前、いわき地域学會の事務局を担っていた一人、2歳下のMさん(会計担当)が病との闘いの果てに亡くなった。午後は、地域学會主催の「いわき学検定」で1、2次試験を突破した5人の「博士号」授与式を行った。終わって、Mさんのもとへ駆けつけた。
 
 そのあと家に帰って思いだしたのだった。夜、飲み会があったことを。言い訳と哀悼とで、ブルーグレイの空がグレイになった。(峰丘展は29日まで)

2016年11月26日土曜日

松田松雄没後15年展

 もっと早く紹介したかった展覧会だ。いわき市平字大町のアートスペースエリコーナで12月4日まで、「松田松雄没後15年展」が開かれている。雑用が重なったところに“福島県沖地震”が起きた(まだ余震が続いている)。作品は大丈夫だったか。
 個展は1週間前の11月19日に始まった。松田の画業がコンパクトに一覧できるような展示構成になっている。去年(2015年)、岩手県立美術館で大がかりな回顧展が開かれた。それ以来の松田作品との対面だ。色紙を中心にした小品に初見が多かった。

 今から45年ほど前の昭和45(1970)年前後の作品=写真=に再会した。すでに完成されている。このころ、松田と出会った。
 
 おととい(11月24日)の晩、カミサンにつきあってBSジャパンの「開運!なんでも鑑定団」を見ていたら、画家斎藤真一の「瞽女(ごぜ)」シリーズの絵が鑑定にかけられた。松田松雄の絵に似てる! それも、絵を描き始めたころの作品に――。
 
 岩手の回顧展では、会場に入ってすぐのところに昭和43年制作の最初期の作品「風景『人』」が飾ってあった。初めて見る作品だった。筆遣いは素人っぽい。様式化されるまでにはまだ至っていない。その作品を思い出した。
 
 松田から斎藤真一の話を聞いたことがあったかなかったか。なかったと思う。が、様式化される前の作品と斎藤真一の作品の共通性を探ってみるのも悪くないぞ――そんな気になった。
 
 10月23日には同じエリコーナで「いわきの現代美術の系譜」と題するシンポジウムが開かれた。6人の登壇者の1人として参加した。市立美術館の建設へとつながった市民団体「いわき市民ギャラリー」の活動と、それを牽引した松田松雄の人と作品を振り返り、いわきの現代美術黎明期の熱を次世代に伝えていく――というものだった。
 
 私は「市民ギャラリー・前史」を話した。同ギャラリーを生み出す母体となった「草野美術ホール」、経営者の故草野健さん、そしてそこで出会った絵描き(松田がそうだった)や書家や高校美術部の生徒らとの「梁山泊」的な交流とエネルギーの発露について、を

 松田の初期の作品はなぜかいつも懐かしく、新しい。東日本大震災が起きたとき、松田の群像の絵が思い浮かんだ。思い浮かべるだけで慰撫された。テレビで空襲や原爆に遭った人間の映像がアップされたときも、自然番組で<世界最大の白い砂丘~ブラジル・レンソイス>や<純白の砂漠 誕生の謎~北米大陸 チワワ砂漠>を見たときも、松田の絵を思い出した。画家の想像力が生み出した内的風景がこの世に実在している。

 おととい、テレビで斎藤真一の作品を見たときも、生と死という根源的な問いを発する画家の想像力と創造力の共通性を感じた。

2016年11月25日金曜日

手帳を買う

 アナログ人間だから、自分のスケジュールは手帳に書き込んで管理する。現役のころは年末に会社から支給された。今は師走に入ると手帳を買う。手帳に付いてくるアドレス帳はいちいち更新しない。前に書き込んだものを使っている。今年(2016年)もあと1カ月ちょっとになった。いつもの年よりは早く、同じ書店へ行って同じ手帳を買った。
 ふだんから前の年の手帳を座卓に置いている。その年の手帳に先々の行事を書き込むのだが、書き込み不足で場所や時間が不明なときがある。そういったときの参考にする。

 行政区やいわき地域学會の行事は、1年の流れがほとんど決まっている。「ルーチン」を踏まえつつ、手帳に予定を書き込むことでダブルブッキングが避けられる。手帳の第一の効用がこれかもしれない。それぞれの組織の経過報告にも役立つ。2017年の手帳と合わせると、今は3冊=写真。年が明けると2冊に戻る。

 ここからは白日夢――。今使っている手帳がある日突然、なくなったとする。たとえば、日曜日の夕方。ホームセンターへごみネットを買いに行ったあと、魚屋へ直行して刺し身を買う。家に戻ってすぐ、近所の人に電話をかける。そのあとに「あれっ、手帳がない」と気づく。あそこで手帳を取り出した、次にズボンの尻ポケットに戻した。瞬間、瞬間の記憶はあるのだが、それから先がない。
 
 手帳のカバーのすきまに紙幣をはさんでいる。手帳は財布を兼ねる。図書館の利用カード(キャッシュカードは持っていない)なども内カバーに差し込んである。カードを再発行してもらわなくちゃ、住所録も作らなくちゃ……。血圧が上がって頭が真っ白になる。

 カミサンに頼んでホームセンターと魚屋に電話をしてもらう一方、ホームセンターの駐車場へ車を走らせる。カミサンからケータイに連絡が入る。店にはない。落とし物としても届いていない。駐車場にも落ちていない。

 日が暮れる。いったん帰宅して、もう一度考えなおす。と、カミサンが「『2016年』って書いてあるけど」と、座卓にあった手帳を差し出す。それだ、それを探していたのだ――というところで悪夢が醒める。
 
 土曜日の夜、遅くまで街の酒場にいた。その後遺症が翌日の夕方まで続いたのだろう。よどんだ頭のままで用をすませて帰宅し、無意識のうちに手帳を座卓に置いた。すぐ電話をかけた。と、そのあと、ズボンの尻ポケットを探ったら手帳がない。「落とした!」と短絡した。

翌日、師走前なのに新しい手帳を買ったのは、他人を巻き込んだ空騒ぎに懲りた反動だったか。

2016年11月24日木曜日

イノシシ注意

 きのう(11月23日)は午後になると疲れて横になった。いつも昼寝をするが、30分くらいでは足りなかった。晩酌をしていても睡魔が襲ってくる。晩酌途中でまた座いすを倒した。おととい早朝のドドドに肝を冷やして、少し神経が高ぶっていたのかもしれない。15分くらいですっきりした。 
 というより、NHKのドキュメンタリー「足元の小宇宙 絵本作家と見つける生命のドラマ」が始まって、覚醒した。番組の感想はいずれ――。以下は、22日にアップするつもりだった文章。
                  *
 ついに来たか! 日曜日(11月20日)の夕方、近所にイノシシが現れて大騒ぎになった。カミサンの若い茶飲み友達が来て教えてくれた。

 ことの顛末はこうだ。夕方、ご主人と一緒に犬の散歩に出た。人家が密集する旧国道と新国道(6号)の間に少し畑が残っている。両方の道路を連絡する脇道に入ると、おまわりさんが「長い棒」(刺又=さすまた=だろう)を持って小さいイノシシを追いかけていた。

 昔は旧平市の食糧基地、今は新旧住宅が混在するベッドタウンの旧神谷村に住んでいる。
 
 旧神谷村はあらかたが平地だが、ひとつ丘を越えた北部の上・下片寄地区では常時、イノシシ被害に悩まされている。平地に接する山裾の集落(鎌田・上神谷)でも、日中、イノシシが目撃されるようになった。それ以外の塩・中神谷地区は、南は夏井川、北はJR常磐線の線路=写真=がイノシシには“万里の長城”になっていた。そのラインを破って、人間の生活圏に侵入して来たのだ。

 山裾から常磐線までは田んぼが広がる。土地の人がいう「神谷耕土」だ。これまでは田んぼを電気柵で囲うようなことはなかった。しかし、これからはどうか。

「原発震災」後、イノシシが繁殖し、山から下りてじわりじわりと街場に攻め寄せつつあるイメージが膨らみ、常磐線を越えるのも時間の問題か――と何回か書いてきた。

 住宅地で害を及ぼす野生動物はカラスがほとんどだった。人間のごみの出し方が悪いとたちまち袋を破って生ごみを食い散らかす。これからはカラスだけでなく、イノシシも警戒しないといけなくなった。カラスとは知恵比べですむ(いつも負けている)が、イノシシとはけんかができない。へたすると大けがをする。「イノシシ注意」の看板がいつかは必要になるのかもしれない。

2016年11月23日水曜日

「あのとき」がよみがえる

 勤労感謝の日(11月23日)の夜が明ける。震度5弱の福島県沖地震から24時間がすぎた。ゆうべも寝入りばなにグラグラッときて、飛び起きた。震度4だった。余震が続いている。
 沿岸部の住民には、多くの犠牲者を出した大津波の記憶がある。津波警報が出された。小名浜で高さ3メートルの津波予想が、結果的には60センチですんだ。急いで避難した人たちはその程度で終わってホッとしたことだろう。

 内陸部の住民はいわきの隣郡、双葉郡で起きた原発事故を思い出した。地震からしばらくたって、「東京電力福島第二原子力発電所の3号機使用済み燃料プールの冷却機能が停止した」とテレビが伝えた。「なんだ、これは!」。間もなく復旧したからよかったものの、冷温停止状態の2Fもやはり「安心」には程遠い。
 
 きのう(11月22日)は朝5時40分すぎに起きた。いつもはもっと早く床を抜けだして(だいたい5時過ぎ)、前夜の晩酌のあとに書いたブログに手を入れてアップする。ブログを仕上げたとたん、ドドドドときた。<これはきょう使えない。この地震を伝えないと>と、テレビ局が自局内の様子を映すように、「そのとき」のわが家の状況を書いて7時ごろにアップした。こんなときには「まず記録を」と、ほかのなにものよりも元ブンヤとしての意識が勝ってしまう。それはしかたない。
 
 座卓のわきに積み上げていたクリアファイルが二、三滑り落ちた。2階の本棚も、上のものが少し落下した。階段の本は無事だった。トイレ前のティッシュペーパー入れが倒れていた=写真。ほかにも各部屋で小物が落ちた。わが家の状態から、地震そのものの被害は軽微とみて、遅い朝食後、夏井川渓谷の隠居へ車を走らせた。食器洗い用スポンジが流しに落っこちていた。それだけだった。道路には、落石が発生したような様子はなかった
 
 わが家のプロパンガスが自動停止をした。事業所に電話をし、いう通りに復帰ボタンを押すと復旧した。

 カミサン(民生委員)は独り暮らし老人宅に電話をかけ続けた。そのあと、何人かの家へ様子を見に行った。電話では気丈な応対をしていたが、会ってみると何人かは避難の準備をしたものの、「どこへ逃げたらいいのか」と不安がっていた。会えば安心する。フェイスブック友の若い知人も近所の独り暮らし老人宅を訪ねて回ったという。それで相手は安心した。こういう若者がいることを心強く思った。
 
夜、いつものように晩酌を始めると、「あなたはきょう、なにをしたの」といった目でカミサンに見られた。こういうときの連絡網をつくっておくのが区の役員ではないか――。
 
 いわき市では、2Fの事故を想定した広域避難計画を策定中だ。わが区も近隣の区も今年と来年の2年をかけて、連絡網その他を構築することになっている。自然災害は待ってはくれない、原発事故も――そのことをまた実感した。

あの超巨大地震からわずか5年8カ月しかたっていない。余震はまだまだ続くという。6時6分。また余震。これは、いわば余震の余震か。

2016年11月22日火曜日

震度5弱

 目の前の時計を見たら、6時だった。最初はカタカタ、やがてガタガタ、ドドドドときた。周りの小物が落下する音がした。あわてて玄関の戸を開けて外へ飛び出した。地面がかすかに波打っている。震度5弱だという。東日本大震災のときほどではないが、しばらく忘れていた大揺れだ。
 テレビの緊急地震速報は間に合わなかった。そのあとの画面=写真=で事態が深刻なことを知る、福島県の沿岸に津波警報が出された。高さは3メートル。「すぐにげて!」の表示。
 
 震源地は福島県沖、いわきから東北東に約60キロのところだという。そのあと、余震が断続的に続いている。
 
 テレビのアナウンサーの声が穏やかなものから切迫したものに変わった。「東日本大震災を思い出してください」「いそいで逃げてください」「津波の予想の高さは3メートルです」……。
 
 座卓のそばの防災ラジオが飛んで畳に落ちた。それを元に戻してしばらくすると、自動的にスイッチが入り、警報音が鳴った。これまでに2回、防災訓練に合わせて「これは訓練放送です」と断りが入ったうえで警報音が鳴った。今度が初めての本警報だ。
 
 カミサンがひとり暮らし老人宅に電話をかける。連絡が取れた人は全員無事だった。
 
 6時49分、小名浜港で60センチの津波(第一波)を観測したとテレビが伝える。この間も余震が繰り返している。テレビから目が離せない。

2016年11月21日月曜日

樹木医

 いわき地域学會の第321回市民講座(第24回阿武隈山地研究発表会)が11月19日、いわき市文化センターで開かれた。地域学會幹事で樹木医の木田都城子さんが「いわきの樹木 四季彩・再発見」と題して話した=写真。
 阿武隈の地域は、地理学的には「阿武隈高地」と呼ばれるが、植物学の世界では「阿武隈山地」が一般的らしい。地域学會の一部門、自然部会による11月の講座は「阿武隈山地研究発表会」を兼ねる。
 
 木田さんはいわきの名木、樹木と地域の歴史などを概括的に紹介した。頭の中でごっちゃになっていたもののひとつに、ヤマザクラとヤマナシの花がある。ともに、4~5月に咲く。
 
 夏井川渓谷では、春、真っ先にアカヤシオの花が咲く。それからヤマザクラに移る。そこにヤマナシの花が混じっていたとしても、私には区別がつかない。樹木医の専門知を借りることで、春の花の見方が少し広がった。
 
 宮沢賢治の短編に「やまなし」がある。子どものカニが2匹、水底で話している。「クラムボンはわらったよ」で始まる。天井を行ったり来たりしていた魚がカワセミに捕まって姿を消す。別の日、今度はヤマナシの実が落っこちてきた。父親のカニがいう。「もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る。それからひとりでにおいしい酒ができるから」。童話では“名酒”になるが、実際には食べてもうまくないらしい。
 
 樹木医の仕事は多岐にわたる。てんぐ巣病にかかったソメイヨシノの“外科手術”もする。 病気の枝を剪定し、切断面に塗布剤を施す対症療法だが、手当てをすることで花は復活する。
 
 いわきの沿岸部では津波対策として防災緑地づくりが進められている。きのう(11月20日)は豊間、薄磯両防災緑地で植樹祭が行われた。NHKのローカルニュースで知った。木田さんも樹木医として参加した。

2016年11月20日日曜日

クライスト賞

 ベルリン在住の芥川賞作家多和田葉子さんが、ドイツ語で書いた作品が評価されて、ドイツで最も権威のある文学賞のひとつ「クライスト賞」を、きょう(11月20日)受賞する。NHKのニュースで知った。受賞理由は、ユニークなドイツ語の遣い方で新しい表現の可能性を示したからだという。
 東日本大震災に伴う原発事故のあと、国際NGOのシャプラニールがいわき市平に開設した交流スペース「ぶらっと」で、英語に堪能な田中さんとフランス人写真家デルフィンに会った。

 デルフィンはいわきを拠点に、津波被災者・原発避難者の取材を重ね、2014年2~3月、多和田さんとベルリンで2人展を開いた。多和田さんは詩を発表した。
 
 それに先立ち、多和田さんも平成25(2013)年8月、田中さんの案内でいわき・双葉郡、その他の土地を巡った。多和田さんは昨年(2015年)もデルフィンらといわきを訪れている。3年前も昨年も会食の席が設けられた。連絡がきて参加した=写真(2015年8月)。

 デルフィンと多和田さんの出会いは、ネットにアップされている講談社のPR誌「本」(2014年11月号)で知った。<『献灯使』をめぐって…『献灯使』著・多和田葉子>のなかで多和田さんは言っている。
 
 ベルリンで日本の震災を知り、さらに原発避難のあつれきを伝える情報に触れて「ニッポンを人が住めない汚染された場所にしてしまおうとしている集団が存在しているような気がしてきて、むしょうに腹がたった」。そこへ、震災2年目の暮れ、ロンドンに住むフランス人のデルフィン(本文ではDさん)がベルリンの多和田さんの自宅を訪ねる。
 
「すでに2回、福島に数週間ずつ滞在したということで、撮ってきた写真を見せてくれた。それはカタストローフェを写したセンセーショナルな写真ではなく、未解決の問題を抱えながら生活している個々の人間の顔や、思い出のしみついたまま変貌した様々な場所の写真だった。Dさんは、この先10年の福島を撮りたいのだと言う」

 さらに、「2013年夏、Dさんがいわき市に住むTさんを紹介してくれて、その方の案内で(中略)たくさんの方々から貴重なお話を聞かせていただき、感謝の念でいっぱいだった」。「短編『不死の島』を展開させて長編小説を書くつもりだったわたしは、この旅をきっかけに立ち位置が少し変わり、『献灯使』という自分でも意外な作品ができあがった」

『献灯使』を読んだときにはよくわからなかったが、多和田さんの心情を重ねると、この作品は「世界文学」であると同時に「福島県浜通りの文学」だと思った。

 それはそれとして――。私には、多和田さんの文学の独自性がこれなんだ、と感心した瞬間がある。田中さんに誘われて会食したあと、外に出たら雨が降っていた。8月のいわきの、あるかないかの小雨だった。突然、多和田さんが空を仰いで「○×○×――」といった。雨を独自の比喩でつぶやいたことにびっくりした。今は驚きだけが残って、肝心の「○×○×――」が思い出せない。
 
 日常から独自の比喩に生きている作家・詩人だから、「ユニークなドイツ語」の表現になるのは当然――クライスト賞の報に接して、物書きのいのちは比喩、それは作家も詩人もコラム屋も同じ、とあらためて納得する。『献灯使』を読み直してみよう。

2016年11月19日土曜日

冬支度

 1年を通して電気ごたつを座卓にしている。10月後半からときどき電熱がほしくなった。最初のうちは電気が通じていたが、あるとき、コンセントを差し込んでも、上下・左右に動かしても暖かくならない。あきらめてタオルケットを足にかけて寒気をしのいだ。
「電気マットを敷かないと」。カミサンに言われるたびに、「まだいい」「きょうはいい」「あとで」を繰り返した。が、さすがに11月も中旬になればがまんができなくなった。

 座卓に文具などの小物入れ、その右わきに横積みの資料。座いすの左そばにも横積みの資料。いつの間にか、座っていて手を伸ばせば取り出せる範囲に必要なものが集まった。その代わり、トイレへ行くときなどには注意が要る。そろりそろりでないと、引っかかって資料が崩れることがある。
 
 カミサンには邪魔くさくてならないらしい。まして、カミサンが座卓の上を片付けると、どこに何があるかわからなくなる。拡大鏡の向きが違う。ピンセットやはさみが違うところにある。こっちは使いやすいようにそこに置いているのだが、カミサンは見た目で整頓をする。物の配置の流儀が違うから、さわらせるわけにはいかない。

 で、頭ではわかっていても資料を動かすのが面倒なものだから、つい「まだいい」「きょうはいい」「あとで」と先送りしてきた。

 晴れて風もない小春の日、そろそろこたつにカバーをかけないと……と観念していたところへ、「きょうやろう」と声がかかった。座卓の上の小物入れと資料、座いすのそばの資料をあちこちに分散して=写真、電気マットを敷いた。併せて部屋の掃除をした。
 
 疑似孫がカレーライスを食べに来るときには、小物入れも座卓のわきの資料もそっと移動し(そうしないと座卓を囲めない)、帰ればまた元に戻す。あとはそのままだ。1カ月半ほど早く、年末の大掃除をすませたことにする。

2016年11月18日金曜日

絵手紙

 きのう(11月17日)、近くの公民館で市民講座が始まり、島田忠夫といういわきゆかりの童謡詩人について話した。
 帰ると、絵手紙が届いた=写真。サツマイモの絵をはさんで、「いも食べて温くなろう」と「さつまいも」の文字。ごていねいに「落款(らっかん)」まで付いている。差出人は9歳、小3の孫だ。「いも食べて温くなろう」。本人が考えたかどうかはわからないが、焼き芋屋が喜びそうなフレーズだ。

 土曜日(11月12日)の宵、長男一家が来た。カミサンは教会のバザーに出店し、私も暮らしの伝承郷の収穫祭に参加したあと、近くのいわき明星大へ移動して、いわき観光まちづくりビューローの地域学総合講座(いわきサンシャイン学)でしゃべって戻って来たばかりだった。それからカミサンが夕食の準備をするのもなんだから、「一緒にどっか行って食べよう」となった。
 
 息子の知り合いの中華料理店へ出かけた。その日は孫たちも登校した。「収穫祭」が行われた。3年生は絵手紙を描いたのだという。
 
 絵手紙が届いたあと、小学校のホームページで行事の中身を確かめた。県いわき農林事務所によると、同小で「田んぼの学校」の収穫祭が行われた。それに合わせて、全校行事として「子ども秋祭り」が行われたようだ。5年生が収穫したもち米をついて、昼食に全校児童で食べた。
 
 学年ごとの行事も行われた。1年生(下の孫がいる)と2年生は「わくわくフェスティバル」。3年生の「絵手紙を作ろう」にはゲストティーチャー9人が講師として招かれた。母親の話では、「落款」は講師が用意した。
 
 今年は、いわき市制施行50周年の節目の年。年度を通して記念イベントが展開されている。「いわきサンシャイン学」もそのひとつ。地域の片隅に生息する人間にもときに声がかかるので忙しい。そうしたなかで届いた絵手紙だ。
 
 構図が面白い。筆字にしろ、芋の色にしろ、大人の絵手紙サークルの人たちがかくのとそう変わらない。いわゆる、「へたうま」。最初は印刷物かと思ったくらいだ。軽トラから流れてくる「イシヤキイモー」のノリで「いも食べてー、温くなろー」と口ずさんでみた。少し字余りのところもあるが、悪くない。焼き芋を食べてあったまったつもりになる。この絵手紙、「見る童謡」でもあった。

2016年11月17日木曜日

霜注意報

 いわきの山里では、11月に入ると霜が降りる。小春日の日曜日(11月13日)朝もそうだった。夏井川渓谷にある隠居の庭の草が日光を浴びてキラキラ輝いていた。アカツメクサの葉の表面にはこまかい水滴が付着している=写真。未明に降りた霜が朝日に暖められて溶け、蒸散して、消えかかっていた。サンダルで歩くと靴下が少し濡れた。
 隠居で週末だけの家庭菜園を始めたころ、秋に大根を栽培した。初冬、菜園に霜が降りた。ふだんは宙に浮いている大根の葉が地面に倒れていた。畑に日が差し込むと、霜が溶けて大根の葉がピクン、ピクンと立ち上がる。葉っぱのダンスだ。うねのあちこちでピクン、ピクンが続いた。
 
 植物の生理は不思議に満ちている。白菜苗をわが家で育てたときのこと。ちょっと油断すると、ポットの土が乾いて白くなる。苗がすぐしおれる。放置したら枯れるので水をやる。しおれた葉は水を含むと劇的に復活する。のどの渇きをおぼえた人間が水をゴクゴク飲むように、根から茎へ、茎から葉へ、葉の隅々へと水分が行き渡る。しおれていた葉がピクン、ピクンと痙攣したように動き出し、立ち上がるという点では、霜が溶けた大根の葉と同じだ。

 きょう(11月17日)も、霜注意報が継続している中で夜が明けた。放射冷却で寒い。この時期、畑の白菜やネギは凍結を防ごうと糖分を蓄えて甘くなる。糠漬けから白菜漬けへ――わが家の漬物も切り替え時期がきた。そろそろ山里の直売所へ白菜を買いに行かなくちゃ。

2016年11月16日水曜日

「来るだけ支援」

 疑似孫(高校2年生)が、授業で福島大生の「いるだけ支援」を知り、「大学生になって、もし機会があればやってみたい」とフェイスブックでコメントしていた。「『来るだけ支援』もあるぞ」と書いたら、「なんだって!? 私がいつも吉田家に長年にわたり実施してきた支援(?)のことかしら……?」という。
 疑似孫が来るときにはいつもカレーライスにする。カミサンはカレーライスをつくり、疑似孫がお代わりをすると喜ぶ。私も父親と酒が飲める。これが、つまり「来るだけ支援」。祖父母は孫が「来るだけ」でうれしいのだ。

 地震・津波の被災者、原発事故の避難者だけが「支援」の対象者ではない。それ以前から独り暮らしのお年寄りや、夫婦2人だけで世間とのつながりが薄くなった人たちがいる。そんな社会状況だったところに「原発震災」がおきた。

 まず、食べ物で祖父母と孫の関係が分断された。やって来る回数が減った。で、小学3年生と1年生の孫が来るだけで「支援」を感じるようになった。

 きのう(11月15日)、“学童保育”を頼まれた。息子の家に出向いて、宿題をやるのをみていた。前にもそういうことがあった。あるとき、下の孫に「ちゃんと問題を読め」と言ったときの、私の顔が鬼のようだったらしい。「じいじは怖い顔になる(ので、じいじと宿題はやりたくない)」と言われて愕然とした。1年生は1年生なりに相手の顔を、心の中を見抜いているのだ。

 宿題はどちらも簡単に、いや初めてテレビを見ずに集中して終わった。宿題をやりながら男と女と子猫の話になった。「じいじはばあばを好きなの」「パパが子猫を拾ってきた」……。「大好きだよ」(教育的配慮)「子猫は、じいじの隣のおじさんの家にもいるぞ」。そのあと、スイミングスクールへ連れていったのだが、早く宿題をすませたので、20分ほどはわが家に寄ってばあばの相手をさせた。

 スイミングスクールへ向かう途中、ハクチョウが数羽、空を飛んで行った。「夏井川の白鳥を見たか」「パパと見た」「夏井川ってどっち」「あっち」。ハクチョウおばさん=写真=の話をしたかったが、それは次にする。

 正味1時間でもサシで話すと、孫たちの目に映る社会や自然、学校のことがわかる。「ばあばはなんであんなに元気なの?」「さあ」といったやりとりも含めて、これが「来るだけ支援」なのだとあらためて納得する。

2016年11月15日火曜日

辛み大根“初採取”

 ゆうべ(11月14日)は、68年ぶりに満月が地球に最接近する「スーパームーン」だというので期待していたが、朝から曇天だった。夕方も、夜もだめ――と思っていたら、8時すぎ、フェイスブックで満月の写真がアップされているのを知った。すぐ庭へ出た。満月がぼんやり宙に浮かんでいた。小雨もぱらついてきた。
 きょう(11月15日)は満月に続く「竜胆(りんどう)忌」。といっても、勝手にわが家で決めているだけだが――。

 昭和61(1986)年3月、いわき市は「非核平和都市」を宣言する。市民有志が中心になって短期間に6万人近い署名を集め、市議会に請願して全会一致で採択された。このとき、市民運動の事務局長を務めた年長のドクターと知り合い、自宅を訪ねて酒を酌み交わすようになった。
 
 ドクターは14年前のきょう、七五三の日に亡くなった。命日には自宅を訪ねて焼香することにしていたが、震災から3年後、奥さんが東京の息子さんの近くへ引っ越した。庭が広かった。夏にはホタルブクロが、秋にはリンドウが咲いた。両方を株分けしてもらい、わが家の近くの故伯父の家の庭に移植したら、根付いた。
 
 さて、ドクターが生きていれば、能書きをたれながら辛み大根を進呈するところだが――。
 
 夏井川渓谷にある隠居の庭の菜園で、会津の辛み大根を栽培している。採種用に越冬させた株から種の入ったさやがこぼれ、月遅れ盆のあとに発芽した。おとといの日曜日、今年(2016年)初めて収穫した。いや、「初採取」した。直径5センチ、長さ15センチほどの「ずんぐりむっくり」形だ。
 
 去年は土を耕してうねをやわらかくしたのが裏目に出た。ストレスがなかったせいか、根は細く長く伸びた。それでは「大根おろし」にならない。手をかけすぎて失敗した。今年は耕さずに種をまこうと思っていたら、「ふっつぇ大根」があらわれた。十数株ある。

 ゆうべ、さっそくおろして口にした。思った以上に辛い。大成功だ。口に入れるとすぐ辛み成分が舌を刺激し、揮発して口の中に広がる。でも、単品では辛すぎて酒の肴には向かない。心臓がドキドキしそうだった。会津ではそばの薬味にする。ハンバーグやパスタの薬味にどうか――などと、あれこれ食べ方を考えたが、食の想像力が創造力に追いつかない。なにかいい手はないものか。

2016年11月14日月曜日

上々の小春日

 きのう(11月13日)の日曜日は前日以上の好天になった。日の出から日の入りまで風もなく、雲もない日本晴れ。こんな上々の小春日はそうない。
 久しぶりに朝から夕方まで、夏井川渓谷の隠居で過ごした。広葉樹は紅葉のピークを過ぎた。目を凝らすと葉を落とした木々が少なくない。が、全体的にはまだ黄~紅に染まっている。カエデの紅葉はこれからが本番。その点では、まだまだ紅葉が楽しめる。

 カエデの紅葉目当てのアマチュアカメラマンが、朝から渓谷の道路に陣取っていた。行楽客も昼に近づくにつれて多くなった。それと併せるように路上駐車も増えた。が、震災前に比べたらかわいいものだ。原発事故の影響だと思うが、春のアカヤシオ(花)、秋の紅葉ともに、路駐の車が数珠つなぎになることはない。

 隠居の隣は「夏井川渓谷錦展望台」。土地の持ち主が空き家を解体・更地にし、谷側の杉林を伐採して、四季折々のビューポイントにした。マイカー客にとっては、車を止めて景色を堪能できる新スポットだ。この展望台の開設も路駐の減少に貢献している。

 昼前、地元の小川町商工会主催「小川町バスツアー撮影会」の一行がマイクロバス2台で展望台を訪れた=写真。運転手さんによると、背戸峨廊(せどがろ=夏井川支流・江田川)~夏井川渓谷~天狗の重ね石(夏井川渓谷で本川に注ぐ支流・中川渓谷にある奇岩)~江田駅前の地区集会所で昼食~草野心平記念文学館というルートで、小川の撮影ポイントを巡った。

 小川はしかし、それだけではない。もっと奥がある。草野心平のいう「裏二ツ箭」(二ツ箭山の北側)を横目にしながら、峠を上って下ると戸渡地区に出る。「もうひとつの小川」だ。国道399号、内倉湿原、七曲がり、十文字、盆地、……。

 今は廃校となった戸渡分校の児童たちと現天皇・皇后両陛下との、ヤマユリを介した交流も土地の歴史に刻まれている。そちらでもぜひ「バスツアー撮影会」を実施してもらいたいものだ。

 戸渡地区は、原発事故直後は放射線量が高かった。当時、戸渡に住んでいた知人の計測で旧戸渡分校は毎時1.6マイクロシーベルト、なかには3マイクロシーベルトのホットスポットもあった。知人には「ユートピア」だった場所が、原発事故後には「ディストピア」に変わった。
 
 いわき市内に設置されたリアルタイム線量計によると、旧戸渡分校は現在、0.186マイクロシーベルト前後。セシウム134が2年余りの半減期を過ぎたことと、同地区の除染作業が終わったことで、市内他地区とそう変わらないレベルまで改善された。

2016年11月13日日曜日

足踏み脱穀機

 雨上がりのきのう(11月12日)は小名浜で最高気温19.5度と、小春日になった。朝から昼過ぎまで、いわき市暮らしの伝承郷の民家ゾーンにいた。かやぶき屋根の下、濡れ縁で日なたぼっこをしていると、暖かさを通り越して汗ばむほどだった。
「収穫祝いの餅つき」イベントが開かれた。伝承郷主催、いわき昔野菜保存会共催で、保存会の一員としてイベントに参加した。来園者をもてなす側だが、手伝えるだけのウデがない。そのへんをうろうろしたあと、昼に餅と「のっぺい汁」をいただいた。

 伝承郷の畑の一部を借りて保存会が昔野菜を栽培している。そのため、保存会員は伝承郷のボランティア登録もしている。伝承郷本来のボランティアはもちつきを、保存会のボランティアは「のっぺい汁」を担当した。去年(2015年)同様、もちつきと試食会は旧猪狩家で行われた。もち米は隣接する旧高木家のカマドで蒸した。

 餅はきなことじゅうねん(エゴマ)でまぶした。「のっぺい汁」は、平成7(1995)年にいわき市が発行した『いわき市伝統郷土食調査報告書』を参考にしたという。

 同調査報告書は、いわき地域学會が市から委託されてまとめた。「のっぺい汁」の「ひとくちメモ」によると、①通夜・葬式・法事などの仏事につくることが多い②「のっぺい」の語源ははっきりしない③いわき(磐城)地方では「はちはい」とも呼ばれる④料理の最後に水で溶いた葛粉や片栗粉でとろみをつける。

 江戸時代、磐城平藩を治めていた内藤氏が九州の延岡藩に転封される。延岡では今でも家臣の子孫の間で、仏事に「のっぺい汁」がつくられるそうだ。延岡にはもともとなかった料理らしいと、「ひとくちメモ」にはある。いわき地方というより、東北地方独特の料理のようだ、とも。
 
 材料はサトイモ・ニンジン・ゴボウ・シイタケ・油揚げで、しょうゆと酒、塩少々で味をつける。これに、ネギが加わった。白根も葉もやわらかい。料理を担当した仲間に聞くと、昔野菜の「いわき一本太ネギ」だという。道理で。
 
 伝承郷には昔の農具や生活道具が保存されている。やって来た親子連れなどが石臼・千歯こき・足踏み脱穀機・唐箕(とうみ)・芋洗い棒を体験した。甘柿もぎりもした。年長者は道具を見るなり「懐かしい」、子どもたちは初めて見る“遊び道具”に興奮していた。

 足踏み脱穀機は、千歯こきに回転力を与えたようなものだ。木製のドラムに逆V字型の鉄の歯がさしてあり、ペダルを踏むと「ガーコン、ガーコン」と回転する。そこへ麦や稲や粟の穂を当てて脱穀する。
 
 手で回さずに足踏みから始めると、手前に逆回転する。手が巻き込まれる心配がある。小学校に入ったころ、母の実家で家族総出で麦の脱穀が行われた。昼食時、「ガーコン、ガーコン」といたずらしているうちに、逆回転になってドラムに手をはさまれた。骨が折れたり血が出たりはしなかったが、痛かった。
 
 昔の道具体験を指導した大人たちはたぶん、同じように子どものころ、痛い目に遭っている。子どもが勝手に「ガーコン」をやり始めそうになると、ストップをかけて回し方を教える。「勉強はできなかったけど、こういうのはできんだ」。知人が胸を張っていた。

2016年11月12日土曜日

福島産サングリア

 震災後、いわき市で5年間、支援活動を展開した国際NGO「シャプラニール」を介して、いろんな人と知り合った。遠くは大阪、大多数は首都圏の人たちだ。シャプラのスタッフのほかに、何人かは「福島リピーター」になった。いわきにも再訪、再々訪している。
 今年(2016年)のゴールデンウイーク前半、シャプラ元スタッフとリピーターの3人が、わが家の「ゲストハウス」に泊まった。そのとき、リピーターのYさんから「桃とさくらの福島サングリアの素」と書かれた小瓶をもらった。ワインかジュースを入れて一~二晩、冷蔵庫に寝かせてから飲むといいらしい。

 サングリア? 「シャングリラ」(チベットあたりにあるとされる「理想郷」)を連想させるカタカナだ。で、先日、たまたま焼酎の「田苑」ゴールドが切れた。そこへ、カミサンが「サングリアの素」の小瓶を持ってきた=写真。中が琥珀色になっている。あとで聞いたら、震災前に知人からもらった「花梨(かりん)酒」だという。
 
 ネットで「サングリア」を調べる。スペインやポルトガルで飲まれる「フレーバードワイン」(香味や風味を加えたワイン)のことだという。

「サングリアの素」の原材料は、甜菜(てんさい)糖、乾燥桃、シナモンスティック、ハイビスカスリーフ、クローブ、レモングラス。桃は福島産だろう。ラベルには三春町の滝桜と水仙。販売者は福島市の「たなつもの」というところだ。「花梨酒」に微妙な味が加わった。

 こういう新商品があるのを知らなかった。震災後の開発なら風評被害対策の一つだろう。自分で好みの「混成酒」に仕上げられる。嗜好品だから、男女や世代、あるいは県内と県外で反応は違う。ネットの口コミで消費が広がるタイプの商品、とみた。

2016年11月11日金曜日

天然の「青海波」

 ときどき、道路にいきものの死骸が横たわっている。街場では猫が多い。畑や屋敷林が点在する住宅街ではハクビシン、郊外ではタヌキ、ノウサギ、フクロウ。夏井川渓谷に入ると、タヌキのほかに、テン、イタチ、コジュケイ、ヤマカガシなどが輪禍に遭う。わが家の前の歩道、側溝のふたの上にカルガモの死骸が横たわっていたこともある。
 先日(11月6日)、渓谷で珍しい死骸を見た。タヌキかな、いやタヌキにしては小さいぞ、イタチでもなさそうだ――車で100メートルほど通り過ぎたあと、気になってUターンした。大型の鳥だった。尾羽が短い。ヤマドリの雌?にしては羽に赤みがない。キジの雌か。(識別できないので、キジの雌ということで話を進める)
 
 首から背中にかけての羽の模様が美しい=写真。色は黒茶系だが、丸みを帯びた羽がクリーム色で縁取られている。茶とクリーム色の組み合わせが、衣装や焼き物の文様「青海波」(せいかいは)に似る。

 福島県の東半分、阿武隈高地から太平洋に至るフィールドは原発事故後、双葉郡を主に「人間と自然の交通」が断ち切られた。「自然と自然の交通」が中心になった。その結果、イノシシが繁殖し(キジやヤマドリも?)、セイタカアワダチソウが繁茂した。それで、いきものの交通事故も増えているのではないか。(きょうはあの日から5年8カ月の節目の日、月命日でもある)

 常磐道を利用して仙台からいわきに帰って来た若い仲間が、新地あたりでサルの集団に出合った。阿武隈の山中ならともかく、平地と接する山岸の自動車道にまで降りてきたのは、それこそ自然の成り行きだろう。「サルはちゃんと止まって車の通過を待っていた。人間に似ている、と思った」という。

 夏井川渓谷の磐越東線ではときどき、イノシシが列車にはねられる。はねられて、下の道路に落ちて息絶えるものもある。運よく死骸を見つけた人は拾って持ち帰り、「猪鍋(ししなべ)」にして弔う。震災・原発事故後は、それができなくなった。キジの死骸は、午後には消えていた。だれかがキジ鍋用、あるいは毛鉤(けばり)用に回収したか。

2016年11月10日木曜日

グアム?いや、愚庵

 日曜日(11月6日)にいわき市立草野心平記念文学館で、吉野せい賞表彰式が行われた。式後、現代詩作家荒川洋治さんが「詩を知るよろこび」と題して記念講演をした。
 荒川さんがいわきで講演するのは3回目だ。最初は23年前の平成5(1993)年。講演後、主催者側の友人に誘われて、夜、田町(いわき市平の飲み屋街)で飲んだ。そのときのいきさつが『夜のある町で』(みすず書房、1998年)に収録されている。タイトルは「尋ね人」(初出は同年10月28日付日本経済新聞夕刊)。
 
 明治の歌僧天田愚庵の研究者である、今は亡き中柴光泰先生の話になった。というより、話をした。「ある方が、グアムの研究をしていると。おもしろいなあ。東北で、グアム島の研究なんてとぼくは思った。それが顔に出たらしい。天田愚庵のことですよ、と教えられた。それでもぼくはわからない」。それから荒川さんは愚庵について調べ、瞠目する。
 
 時は巡って、『夜のある町で』出版から12年後の平成22(2010)年。いわき民報の元日号で「国民読書年」の特集が組まれた。平成17年7月、文字・活字文化振興法が制定・施行される。5周年に当たる同22年を「国民読書年」とすることが国会で採択された。それを受けての特集だった。〈いわきゆかりの本をひもとく〉に荒川洋治さんの『夜のある町で』が紹介されていた。
 
 そのときの記事の一部。〈朝のラジオ番組で、森本毅郎さんと文学や言葉について丁々発止のやりとりを繰り広げる現代詩人が書いたエッセー集。その中の「尋ね人」で、天田愚庵が登場する。いわきで“郷土の文化に詳しい地元の方たち”と食事した際、愚庵の存在を初めて知り、興味をもった著者は数奇な生涯を送った彼の足取りを調べる。「郷土の人物」にとどまる人ではない、と驚くのだった。〉

 記事を読んで苦笑した。“地元の方たち”の一人として、その場に居合わせた。私は、酒が入ると「アルコール性鼻炎」になる。発音があいまいになる。「愚庵」といっているつもりが、「グアム」と聞こえたのだろう。朝のラジオ番組もだれからか連絡がきたので、食事をしながら聴いた。おかしくて、むせりそうになった。

 吉野せい賞の表彰式が始まる前、受賞者と会食をした。記念講演をする荒川さんについて、昔、私の発音が悪くて「愚庵」を「グアム」と勘違いした、という話をしたら、本人が講演のまくらにそれを使った。予感があったので、おかしくて、下を向いて笑いをかみ殺した。
 
 講演の途中で、いわきのニュースをきめ細かく伝えるいわき民報にも言及した。荒川さんは福井県出身だが、「ある理由で」いわきには縁がある。それで、いわき民報についてもリップサービスをしたのだろう。
 
 見過ごされているもの、見捨てられていたもの、地方のもの、マイナーなものに、荒川さんは嗅覚がはたらく。だからこそ、愚庵やいわき民報といった「ご当地もの」にも言及した。
 
 きのう、その荒川さんの講演記事がいわき民報に載った=写真。コンパクトにまとまっていた。久しぶりに中身のある講演記事を読んだ。普通の講演会記事は演者とタイトルを書いて「開かれた」で終わり。読者はどんな話をしたのか知りたいのだが、記者は冒頭、写真を撮ってすぐ消えるから、肝心の中身が書けない。その逆、大々的に講演記事で紙面を埋めるのも悲しい。ほどほどの分量が読者には好ましい。
 
 吉野せい賞表彰式・記念講演会を取材した記者と、5年前の「国民読書年」特集で『夜のある町で』を取り上げた記者とはイコールだろう。丁寧に取材すれば、「読まれる記事」ができる。
 
 話は変わって――。「口語の時代は寒い」。荒川さんの有名な詩句だ。きのう(11月9日)は一日、テレビにくぎ付けになった。アメリカからの衝撃波が日本の片田舎の猫までも震撼させた。「トランプの時代は寒い」だけでなく怖い? それとも……。

2016年11月9日水曜日

ピロリ除菌

「ピロリ菌がいるかもしれない」。今年(2016年)の年明けすぐ、いわき市立総合磐城共立病院で胃カメラを飲んだ。胃と大腸にポリープがある。1年に一度は経過を観察しましょう、というのでそうしている。検査を終えたあと、ドクターに言われた。「ピロリ菌を除菌したら(胃の)ポリープが小さくなるかも」
 近所のかかりつけ医と話し合い、ピロリ菌の陽性反応が出れば、抗生物質を処方する、ということになった、陽性だった。寒い春が過ぎ、暑い夏が来て、秋に除菌することにした。

 除菌の抗生物質で副作用が出ることもある。軟便、下痢、味覚異常、発熱、血便……。「朝夕2回、7日」の服用セット=写真=のほかに、整腸剤を処方された。最初は恐る恐る飲んだが、整腸剤のおかげかなんともない。結局、副作用の自覚も症状もなく7日が過ぎた。たぶん、ピロリ菌は一掃された。

 ピロリ菌は、1982年、オーストラリアの医師2人によって発見された。1人がその3年前に、胃の粘膜にらせん状の菌がいることを発見し、もう一人の医師とともに、3年がかりでその菌が胃に棲みついていることを発見した。今では発がん因子として知られている。この発見で2人は2005年、ノーベル医学・生理学賞を受賞した。

「井戸水」経験者は、かなりの割合で胃にピロリ菌を飼っているらしい。「団塊の世代」(昭和22~24年生まれ)の私は、小学生のころまで井戸水を飲んでいた。25歳で十二指腸潰瘍、35歳で胃潰瘍になって入院した。そのころはまだピロリ菌の存在が知られていなかった。潰瘍はストレスではなくピロリ菌の仕業だったのかもしれない。

 ピロリ菌のピロリは胃と十二指腸の境目にある「幽門」のことだそうだ。なにやらかわいいイメージが浮かぶ言葉だが、体内にはほかにも「ランゲルハンス島」だの、「海馬」だの、「ライルの島」だのがある。「門」も「幽門」の反対側、胃の入り口は「噴門」と呼ばれる。そして、「宮」や「恥」の字がつくものも。命名者がいるわけだが、その人はなにを想像して「宮」や「恥」を付けたのだろう。

 いや、もっと違うことを言いたかった。ピロリ菌の能力について、だ。ピロリ菌は本体の長さが4ミクロン(1000分の4ミリ)で、緩やかにねじれている。一方の先端には「鞭毛(べんもう)」がある。これをくるくる回して活発に動き回るそうだ。そのスピードは「100メートル5.5秒」とか。超高速のメカニズムを解明したら、なにか社会に役立つものが生まれるかもしれない。

2016年11月8日火曜日

「出身」と「入身」

「阿武隈出身」で「いわき入身」と思い定めている。肉体的には阿武隈高地の山里で、精神的にはいわきで「オギャー」となった。「出身」と「入身」をそんな感じで使っている。
 フェイスブックで、アウトローに関してちょっとした会話があった。そのときにおもしろい入力ミス(出身―出産)があった。それからの連想。

 昭和37(1962)年に平高専(現福島高専)ができた。2年後、3期生として入学した。福島県内を中心に「ヤマザル」(お山の大将)たちが集まった。先生や先輩、同級生にもまれて、世界とは、人間とは、と議論し、本を読んで悩み、考えた。考えないと話についていけなかった。講演に来た評論家の江藤淳は「旧制高校のような」と評した。

 で、私は学校を飛び出した。私より1年後に入って来た学生寮の仲間の一人も、休学して世界一周の旅に出た。やがて彼と東京で合流し、ともに超高層ビルの建設作業員(昔の言葉でいえば、土方)のアルバイトをした。
 
 少し金をためて、2人で返還前の沖縄を旅した。そのあと、私はJターンしていわき民報の記者になった。彼は独立したばかりのバングラデシュへ農業支援に入った。現地で感じたことを、私が担当する新聞の「オー!ヤング」欄=昭和47(1972)年5月31日付=に書いてもらった=写真。
 
 彼は既存の組織による経済・物質的支援が末端にまで届いていないことを見聞きする。で、帰国後、バングラで共に働いた仲間とヘルプ・バングラシュ・コミティを立ち上げる。今のシャプラニール=市民による海外協力の会の前身だ。シャプラと私は、そのときからのつながりだ。彼はやがて組織を離れ、週刊誌記者になった。
 
 きのう(11月7日)、東日本大震災後、勿来で災害ボランティアセンターを立ち上げたリーダーが来た。「震災記録誌をつくる」というので、校正を引き受けたら、すぐ印刷ゲラを持ってきた。シャプラニールが緊急支援のあと、復旧・生活支援のために最初に支援したのが勿来ボラセンだ。
 
 ボラセン開設当時の話をしているうちに、「シャプラの存在は震災までまったく知らなかった」というので、高専―バングラデシュ独立―ヘルプ・バングラデシュ・コミティ―シャプラのつながりを伝え、「シャプラはいわきのDNAを持っている組織」というと、深く納得したようだった。悩み多い青春があったからこそ、巡り巡ってシャプラがいわきを助けに来た――私は「なぜシャプラが……」と聞かれるたびに、そう答えるようにしている。

2016年11月7日月曜日

曲がりネギ

 夏は、いいネギに出合ったことがない。ネギは冬に限る。加熱すると甘くてやわらかい。しかし、冬ネギがすべて甘くてやわらかいかというと、そうでもない。
 私は白根も葉もやわらかいのを好む。見た目はテカってきれいだが、かたくて甘みも弱い、そんな品種は避ける。で、ネギだけは産地を選び、自分でも栽培するようになった。

 きのう(11月6日)、福島県田村地方の「曲がりネギ」を久しぶりに手に入れた。夏井川渓谷のJR磐越東線江田駅近く、県道小野四倉線沿いに小野町のNさんが紅葉のシーズン、露地の直売所を設ける。曲がりネギと長芋を売る。今シーズン初めて店を開いた。

 朝9時、わが家のある平・神谷で「市民歩こう会」の出発式が開かれた。午後1時、小川の草野心平記念文学館で吉野せい賞表彰式が行われた。合間の10時ごろ、渓谷の隠居へカミサンを送り届けた。

 きょうは直売所を開くはず――期待して渓谷に入ったら、Nさんのお母さんと奥さんがパイプ小屋にブルーシートをかけていた。

いつだったか、Nさん夫妻がパイプで四角い小屋の骨組みをつくっていた。で、開店は時間の問題とみていたが、10月後半になってもパイプのままだった。準備だけは早めにして、店はカエデが色づき始める11月になってから、ということだったのだろう。

 開店前だったが、無理を言ってネギを4キロ(40本ほど)、長芋を4本買った。ネギは前日に掘り起こしたばかりだという。「一度干した方がいい」というので、隠居の庭に並べた=写真。水分を飛ばすことで甘みが凝縮されるのか。自宅の庭に穴を掘って土をかぶせておき、必要な分だけ取って使う。かなり持つ。

 Nさんのネギも郡山市のブランド野菜「阿久津曲がりネギ」と変わらない。何年か前、「阿久津からネギ苗を買ってくる」といっていた、まずはジャガイモと曲がりネギの味噌汁だ。この「ジャガネギ」でネギのうまさ・香りの濃淡がわかる。「阿久津曲がりネギ」は師走に入ってから、郡山市に本社のあるスーパーに並ぶ。これもとろけるくらいに甘い。

味蕾が、生まれ育った中通りのネギの味を記憶している。それで、冬はこういう買い方になる。

2016年11月6日日曜日

列車徐行

 夏井川渓谷の紅葉が見ごろを迎えたことだろう。カエデは「色づき始め」だが、それ以外は黄~赤のバリエーションを楽しめるはずだ。渓谷を縫って走るJR磐越東線の列車=写真=も、きょう(11月6日)まで江田―川前間で徐行運転をしている。きょうは日曜日。天気もいいし(風が出てきた)、すぐにも飛んでいきたいところだが……。
 8時過ぎには神谷(かべや)公民館へ出かける。「神谷市民歩こう会」の受付が始まる。青少年育成市民会議神谷支部の主催だ。9時の出発に合わせてあいさつをしないといけない。終わると、いわき市立草野心平記念文学館へ。午後1時から吉野せい賞表彰式が行われる。5人の選考委員を代表して結果を報告する。正午には受賞者との会食がある。表彰式の前後にはカミサンを渓谷の隠居へ送り迎えする。

 年度の後半に入った10月は、週末に行事が続いた。いわき地域学會の行事もあるが、神社の例大祭出席、公民館まつりの手伝い、シンポジウム参加と、ほぼ休みなしだった。きょうの行事を終えれば、ひとまず自分の時間が多くなる。雑誌「うえいぶ」の編集が始まるものの、在宅ワークだから自分で時間を調整できる。
 
 と思っていたら、いわきの南部・勿来から「震災記録誌をつくるので校正を」という連絡が入った。震災直後、いわき市内で真っ先に市民レベルの災害ボランティアセンターが開設された。少しだけかかわった。多少の土地勘もある。断ったら悔いが残るので引き受けた。
 
 現役のころは「忙しい人に原稿を頼め」でやってきた。忙しい人は時間の調整がうまい。締め切り前には原稿が届く。今はそのお返しをしているようなものだ。きょうも夜には地域学會の市民講座案内の印刷がある。飛び跳ねているうちが花、かもしれない。

2016年11月5日土曜日

天の指

 このごろ、雲がおもしろい。朝焼け。夕焼け。日中のさまざまなかたち。先日の夕方は、右手人さし指を伸ばしたような雲が夕日に染まっていた=写真。
 東京から客人が来た。東日本大震災で初めて国内支援に入った国際NGO「シャプラニール」のスタッフで、1年間、いわきに駐在した。いわき駅前で彼女を拾い、家へ戻る前に「神谷(かべや)耕土」の山裾にオープンしたスープカフェで一休みした。その途中で「天の指」に出合った。

 握りこぶしにして親指を立てれば「いいね」。外国人がやると思っていたら、このごろは日本人もやる。人さし指は? 小指は?――となると難しくなるからやめるが、雲は天からのシグナルだ。「おい、おまえ、ちゃんと○×してるか」なんて、人さし指でさされてしかられているようだった、というのはウソだが、車を止めて写真を撮った。雲も鳥も一期一会、次の瞬間にはかたちが崩れ、姿が消えている。

 わが家の近所にカミサンの伯父(故人)の家がある。わが家に泊まりに来た人の「ゲストハウス」だ。彼女も1年間、そこをねぐらにして職場の交流スペース「ぶらっと」へ通った。神谷の空はざっと1年半ぶり、ということになるか。
 
 雲のない青空は虚無に等しい。雲があるから青空が輝く。若いときに「嵐が丘」を読んで以来、そんな思いを抱いている。なかでも、鰯雲(いわしぐも)や鯖雲(さばぐも)、うろこ雲と呼ばれる巻積雲は今の時期、さまざまなかたちを天に描く。秋の季語でもある。
 
「白雲去来」という言葉がある。人もそうだ。彼女は休みを利用してやって来た。共に活動した地元NPOスタッフや「ぶらっと」利用者に会った。原発避難者、地震・津波被災者の「今」に触れて、いろいろ感じるものがあったようだ。

 この国際NGOが好きなのはこういうところだ。ミッション(任務)としていわきにかかわる。駐在期間が過ぎれば「はい、さようなら」ではない。その後も、個人としてかかわり続ける。なんだか親類の若者のような感じになってくる。向き合うものは個別・具体、悩みは深めるものである――それを実践するような“里帰り”でもあった。「鰯雲人に告ぐべきことならず」(加藤楸邨)ではあるが。
                   *  
  けさの新聞できょう11月5日は初めての「世界津波の日」であることを知った。「安政南海地震」で浜口陵が「稲むら」に火をつけて住民を救った故事に由来するそうだ。

2016年11月4日金曜日

メメント・モリ

 知人のお母さんの通夜でいわき市好間町の葬儀場を訪れたとき、壁面に懐かしい絵がかかっていた=写真。故松田松雄(1937~2001年)の初期の作品で、青い「風景」シリーズの1点(10号ぐらい)だろう。
 画面手前から奥へ雪原が遠近法で三分割され、それぞれに頭から黒いマントをかぶってうなだれた人物が、同じように遠近法で配されている。雪原の先には青い海、そして群青の空。松田独自の、エッジの効いた空間構成だ。昭和45(1970)年前後に制作された作品ではないだろうか。

 人はいつか、こうして生の向こう側へと歩いていく。死者を弔い、生を振り返る斎場で、静謐さと聖性を保ったその絵が遺族を、弔問客を慰撫する――「メメント・モリ(死を思え)」、である。

 それから何日か後、画家峰丘本人から11月恒例の個展の案内をもらった。「ここ数年の体調の変化に、自分の生き方やメメント・モリを考えることが多くなりました」と案内状にあった。峰とは同い年だ。比喩ではなく、現実問題として死や生を考える機会が増えた。カミサンが寝坊すると、呼吸しているかどうかが気になる。その逆もある。

 それからまた何日かして、「松田松雄展――白への回帰」の案内が遺族から届いた。没後15年展だ。昨年(2015年)、松田の故郷の岩手県で大がかりな回顧展(岩手県立美術館主催)が開かれた。そのとき展示された作品も並ぶようだ。

 案内チラシには昭和55(1980)年までの具象3点が紹介されている。松田と濃密に向き合った時期でもある。「白への回帰」は、そのころの作品に絞って展示する、ということだろうか。
 
 回顧展に合わせて、松田が37年前、いわき民報に週1回1年間連載した随想「四角との対話」が娘さんの手で電子書籍化され、紙本にもなった。37年前、校正を買って出た縁で校正を引き受け、あとがきを書いた。
 
 昭和40年代後半~50年代前半、松田の作品に向き合うと、いつも「祈り」という言葉が浮かんできた。それからおよそ30年後、東北地方太平洋沖地震による大津波で、東北3県の沿岸部を中心に多くの犠牲者が出た。なにものかへの「祈り」に、津波犠牲者の鎮魂が加わった。「私は胸の中でいつも、東日本大震災の犠牲者のそばに、松田の、このころの作品を飾って祈っている」(あとがき)という状況は今も変わっていない。

 峰丘展はギャラリー界隈(平)で、松田松雄展はアートスペース・エリコーナ(同)で、同じ11月19日に始まる。峰の個展は、初日のオープニングパーティー(会費制)が盛大なことで知られる。松田松雄展を見てから、師走へと頭を切り替える最初の忘年会のつもりで、オープニングパーティーに参加する。

2016年11月3日木曜日

昭和10年の列車転覆事故

 夏井川渓谷の牛小川地内、県道小野四倉線沿いに遭難碑と六地蔵が立っている=写真。県道の下には夏井川、山側の石垣ののり面の上にはJR磐越東線。少し東に寄ったところで線路はロックシェッドに覆われる。このあたりで81年前、大事故がおきた。
 昭和10(1935)年10月27日午後6時ごろ、折からの豪雨で山の岩石・土砂が崩れ落ち、線路が消えたところへ郡山発平(現いわき)行きの列車が突っ込んだ。機関車や客車など4両が脱線し、県道と下の河原に転落、12人が死亡、50人が負傷した。

 遭難碑は後世に事故を伝え、犠牲者を慰霊するために建てられた。六地蔵は四半世紀ほど前、遺族の1人が建てた。

 昭和初期、いわき地方には日刊紙(夕刊)が5紙あった。平の私立図書館「三猿文庫」に保存されていた新聞・雑誌などが市に寄託され、いわき総合図書館に収蔵された。新聞はのちに電子化されたので、家にいながら図書館のホームページを開いて読むことができる。

 たまたま10月28日に“電子新聞”をチェックしていたら、81年前の10月27日の事故を伝える記事(10月29日付=28日夕刊)に出合った。5紙のうち、欠落紙を除く4紙が事故を詳報している。一気にタイムスリップして、なまなましい第一報を読んでいる感覚になった。平町は驚きと悲しみに包まれたに違いない。

 新聞には列車転覆事故のほかに、「六十枚橋外三橋全流失 道路堤防被害十数ケ所」、田人・上遠野では「合計十一名が水魔の犠牲」、「全郡に被害甚大」といった見出しが躍る。牛小川だけでなく、いわき地方が豪雨に見舞われた。
 
 福島地方気象台のデータでは、27日の降水量は小名浜で66.8ミリ。10月後半はその日をはさんで12日間雨なし。山間部の降水量はたぶん小名浜の比ではなかった。
 
 15年前、子どものころに列車転覆事故の惨状を目撃した、という人の話を聴いたことがある。牛小川の住人で、いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動の一環として、道路のごみや空き缶類を拾いながら遭難碑の近くに来たとき、整然と積み上げられた道端の石垣の上部を指さして、「ここから列車が転落した」と教えてくれた。犠牲者のなかにはカミサンの親類や近所の人がいた。
 
 週末だけ牛小川の住民になることも影響しているのか、この列車転覆事故は「年表の1行」では終わらない。遺族のその後、現地の住民の語り伝え、これからも起こりうる突然の災害・事故……。あすのわれわれへの教訓でもある。

2016年11月2日水曜日

終わり初物

 夏井川渓谷の小集落で教えられたことばに「終わり初物」がある。「初物」はだれでも知っている。シーズン最初に収穫・採取、あるいは買って口にする野菜・果樹・山菜・キノコなどのことだ。「終わり初物」はその逆で、収穫・採取が旬を過ぎて「これで終わり」の野菜などを指す。
 たとえば、ワラビ。渓谷では4月末になると「初物」が手に入る。摘まれたワラビからはまた子ワラビが出る。これを摘む人もいる。夏には次の年のことも考えて「終わり初物」にする。

 渓谷にある隠居の「ベジ・パッチ」(家庭菜園)では今年(2016年)、三春ネギのほかに、震災後初めてキュウリ・ナス・トウガラシ各2株を栽培した。自家採種の三春ネギ以外は、ホームセンターからポット苗を買って植えた。

 苗たちと向き合えるのは週末。月に4回ではまともな手入れができない。思ったほどには収穫がなかった。原発事故後、庭が全面除染の対象になり、菜園の土も取り除かれて山砂が敷き詰められた。土に栄養がないことも関係したか。

 トウガラシには裏切られた。成熟しても「あおく細長いピーマン」だった。「食べるトウガラシ」らしい。次から次に実はなった。摘んではカミサンに渡し、炒めものにする。その繰り返しだった。

 10月9日に三春ネギの種まきをした。それから半月後、放置していた老残のキュウリを引っこ抜き、実をつけなくなったナスを、ついでにトウガラシを始末した。“ピーマントウガラシ”にはまだ実がついていた。それを摘んだ。今年の「終わり初物」だ=写真。

 冬の白菜漬けその他に使うため、ほんとうは赤く熟する「鷹の爪」がほしかった。今年は苗選びに失敗したうえに、キュウリもナスも実のなりがイマイチだった。来年は四倉の地元の苗屋へ行く。ベジ・パッチを始めたころの“初心”に帰る。

2016年11月1日火曜日

「ここではないどこか」

「いわきまちなかアート玄玄天」という美術展が開かれている。平・三町目の「もりたか屋」を主会場に、街なかや芸術文化交流館アリオスなどに作品が展示されている。
 土曜日(10月29日)、いわき市立草野心平記念文学館で作家の林真理子さんが「私が描いた女性たち」と題して講演した。11月13日まで開かれている企画展「寂聴 愛のことば展」の一環だ。同時刻に街の生涯学習プラザでいわき地域学會の「いわき学検定」2次試験が行われた。そちらに立ち会いながら、文学館へカミサンを送り、迎えに行った。

 文学館にも玄玄天の作品が展示されている。いい機会なので、それを見よう――ところが、どこに作品があるかわからない。午後3時半、講演会が終わって、人がぞろぞろ小講堂から出てくる。それとは無関係に、アトリウムロビーに立って分厚いガラス壁面を見ているカップルがいた。玄玄天のスタッフだった。「作品はどこ?」「これです」。ガラス壁面を指さした。「ええっ!」

 文学館へ行くと必ずガラス壁面越しに、真向かいに広がる二ツ箭山を望む。ガラス壁面には心平の詩「猛烈な天」3連11行が記されている。その第1連。「血染めの天の。/はげしい放射にやられながら。/飛びあがるやうに自分はここまで歩いてきました。/帰るまへにもう一度この猛烈な天を見ておきます。」。その「猛烈な天」が広がっている。

 カミサンを送り届けたとき、二ツ箭山は頂上部が雲影に包まれ、中腹が太陽に照らされていた。ノルウェーのフィヨルドを思い出した。フィヨルドではどんどん雲が流れ、晴れたり曇ったり、雨が降ったりと、目まぐるしく天気が変わった。

 二ツ箭山の明暗が面白くてカメラを向けたら、ガラス壁面に細かい“ごみ”が付着している。それを避けながら写真を撮った。その“ごみ”が作品だった。

 焦点をガラス壁面に絞ると、ちぎれた黒い曲線(実際は白色、明るい空からの逆光で黒く見える)が無数に描かれているのがわかる=写真。少し離れたわきの壁面に小さく作者名・タイトル・コメントが書かれていた。作者は作家と同じ名前の浅井真理子さん。タイトルは「somewhere not here」(「ここではないどこか」)。

「建物のガラス窓の外に見える光や影、人々の動き、刻々と変化する事象の一瞬を追い、内と外の間の被膜をひっかくように描く架空の地図」だそうだ。「光の動きや窓やドアの動きと共に変身するこの作品を、目をこらさなければ見過ごしてしまうことを、あなたの視線で見つけてください」

 なるほど。玄玄天スタッフに教えられながらも、自分の視線で「架空の地図」を頭に描くことができた。タイトルは「ここではないどこか」だが、私には「どこでもないここ」でしか見られない作品、ここ(文学館のアトリウムロビー)だからこそ空と光と二ツ箭山と響き合う作品に思われた。若い人の発想はアトリエを離れ、内と外との被膜をキャンバスに、ダイナミックに変身を続けていた。