2016年11月8日火曜日

「出身」と「入身」

「阿武隈出身」で「いわき入身」と思い定めている。肉体的には阿武隈高地の山里で、精神的にはいわきで「オギャー」となった。「出身」と「入身」をそんな感じで使っている。
 フェイスブックで、アウトローに関してちょっとした会話があった。そのときにおもしろい入力ミス(出身―出産)があった。それからの連想。

 昭和37(1962)年に平高専(現福島高専)ができた。2年後、3期生として入学した。福島県内を中心に「ヤマザル」(お山の大将)たちが集まった。先生や先輩、同級生にもまれて、世界とは、人間とは、と議論し、本を読んで悩み、考えた。考えないと話についていけなかった。講演に来た評論家の江藤淳は「旧制高校のような」と評した。

 で、私は学校を飛び出した。私より1年後に入って来た学生寮の仲間の一人も、休学して世界一周の旅に出た。やがて彼と東京で合流し、ともに超高層ビルの建設作業員(昔の言葉でいえば、土方)のアルバイトをした。
 
 少し金をためて、2人で返還前の沖縄を旅した。そのあと、私はJターンしていわき民報の記者になった。彼は独立したばかりのバングラデシュへ農業支援に入った。現地で感じたことを、私が担当する新聞の「オー!ヤング」欄=昭和47(1972)年5月31日付=に書いてもらった=写真。
 
 彼は既存の組織による経済・物質的支援が末端にまで届いていないことを見聞きする。で、帰国後、バングラで共に働いた仲間とヘルプ・バングラシュ・コミティを立ち上げる。今のシャプラニール=市民による海外協力の会の前身だ。シャプラと私は、そのときからのつながりだ。彼はやがて組織を離れ、週刊誌記者になった。
 
 きのう(11月7日)、東日本大震災後、勿来で災害ボランティアセンターを立ち上げたリーダーが来た。「震災記録誌をつくる」というので、校正を引き受けたら、すぐ印刷ゲラを持ってきた。シャプラニールが緊急支援のあと、復旧・生活支援のために最初に支援したのが勿来ボラセンだ。
 
 ボラセン開設当時の話をしているうちに、「シャプラの存在は震災までまったく知らなかった」というので、高専―バングラデシュ独立―ヘルプ・バングラデシュ・コミティ―シャプラのつながりを伝え、「シャプラはいわきのDNAを持っている組織」というと、深く納得したようだった。悩み多い青春があったからこそ、巡り巡ってシャプラがいわきを助けに来た――私は「なぜシャプラが……」と聞かれるたびに、そう答えるようにしている。

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