2017年3月31日金曜日

震災記録誌「わすれなぐさ」

 勿来まちづくりサポートセンターが震災記録誌「わすれなぐさ」を発行した=写真。先日、恵贈にあずかった。
 勿来地区では平成23(2011)年4月、市民が主体になって災害ボランティアセンターを立ち上げた。その後、復興プロジェクトに移行し、今も活動を続けている。記録誌には6年間の活動経過、被災者37人と復興プロジェクトスタッフ19人の証言が載る。インタビューを行ったのは、筑波大の学生を中心にした震災記念誌プロジェクトで、印刷にかける前の最終段階でサポセン代表から校正を頼まれた。

 勿来には縁がある。昭和56(1981)~59年の3年間、いわき民報社の勿来支局に勤務した。そのとき、代表と知り合った。震災後、少しばかり同地区の災害ボラセン活動にかかわった。勿来は知った土地、知人たちが頑張っている、という思いがあったのが大きい。

 東日本大震災では、国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が初めて国内支援に入った。カミサンがシャプラのいわき連絡会を引き受けている。で、震災からおよそ半月後の3月27日、シャプラのスタッフと合流し、市社協、市本庁、市勿来支所を巡って、津波被災現場の錦・須賀海岸でサポセン代表らと会った。宇部市の先遣隊もいた。
 
 以後、宇部市役所とシャプラは勿来サポセンのパートナーとして協力を続ける。記念誌には、代表あいさつの次に両団体の寄稿文が載る。地元団体としての謝意が感じられた。

 災害ボラセンは、本来は社協が軸になる。勿来は、いわき全体がてんやわんやのなか、社協の協力を得ながら市民主体で地区災害ボラセンを開設・運営した。代表あいさつのなかに「被害の少ない者が甚大な被害を受けた方のお手伝いをする」を合言葉に活動した、とある。こうした“市民力”は、いわきの旧5市のなかでもダントツだった、と私は思っている。

 校正中、赤ペンを握ったまま体験談に引き込まれる、ということが何度かあった。一例、「涙も出なかったよね。一軒だけならばな、涙も出っけど。みんなだから、涙も出なかったの」。勿来の沿岸部・岩間地区では半分近い家が流失するなどして全壊し、7人が死亡、3人が行方不明になった。

 震災体験は一人ひとり違う。だからこそ、個別・具体の姿を記録に残す必要がある。記録誌づくりはそれにかかわった学生の気づき・学びにも貢献したことだろう。

2017年3月30日木曜日

阿武隈の春の雪

 田村市の実家で法事があり、車で出かけた。3月中旬以降、山が二度ほど冠雪した。幹線道路は除雪されているはず――と思いつつも、行きは日陰のカーブや坂道が少ない夏井川沿いの道を利用した。結果的になんの問題もなかった。 
 いわき市から田村郡小野町まで、標高を上げながら2カ所で急坂が続く。夏井川渓谷の入り口に当たるJR磐越東線「磐城高崎踏切」付近の地獄坂、そしていわき市と小野町の境の坂。その先はなだらかな“準平原”だ。
 
 いわきの道路には、ほぼ雪がなかった。小野町に入ると、道端に雪のかたまりが点々と残っている。歩道の雪をかきあつめた残骸(融け残り)のように思われた。
 
 朝、家を出るときは同じ道を戻って来ようと思ったが、山あいの道でも大丈夫のはずと、帰りは国道288号を東進し、熊川水系の野上川渓谷を下って大熊町で山麓線(主要地方道いわき浪江線)に折れた。
 
 夏井川渓谷にはなかった雪が、こちらの渓谷にはあった。除雪車が出て雪を道端に寄せたので、走る分にはなんの支障もない=写真。道の周辺の風景が明るく感じられたのは、田畑が雪をかぶって日光を反射していたからだ。待機スペースにタイヤ式の除雪ドーザーが止まっていた。まだ「寒さの冬」が続く、油断はならない、ということなのだろう。
 
 望洋平トンネル、野上トンネルと下って玉の湯温泉トンネルを抜けると、「光の春」の世界に変わった。国道49号でいうと、三和町のいわき三和トンネルのようなものだ。今度の雪と雨は、そこが境目になった。浜通りの平地に住む人間の明るさは、風土的には雪のない冬の明るさが生んだ――直観的にそんなことを思った。

2017年3月29日水曜日

往信と返信を逆に印刷

「あちゃっ、逆に印刷したー」。いわき地域学會の定時総会が4月22日(土)、いわき市生涯学習プラザで開かれる。土曜日(3月25日)、事務所(といっても故義伯父の家だが)で往復はがきの印刷・あて名張りをした。「返信」の裏に「総会案内」を印刷してしまった。しかたない。「往信」の裏に「出欠」の有無を印刷して、夕方、近くのポストに投函した。
 パソコンとプリンターがあれば、自前で写真もはがきも印刷できる。デジタル技術に詳しい若い仲間がいる。文章は私が引き受ける。その組み合わせのなかで編集・校正・印刷・発送をやってきた。年に何回かははがきで案内を出す。往復はがきはしかし、一度だけ。で、別の紙で試し刷りをした。それでもしくじった。
 
 年賀はがきでも失敗したことがある。気づくまでの何枚か、裏表と天地を逆にして印刷した。その場合は断りを入れて友人に出した(ほかの人には出せないので)。

 おととい(3月27日)、自分あてに往復はがきが届いた。なぜ自分に出すのか。カミサンに知ってもらうのと、そうして会員にも届いているはず――その確認のためだ。

 郵便局に迷惑をかけてしまったらしい。「返信」の下に「往信」の文字コピー、「往信」に消印が押され、そばには付箋(ふせん)が張ってあった=写真。「返信部を誤って消印致しましたので、お使いになる場合は郵便切手を貼らないで、この付箋を付けたまま、お出し下さい」

 きのう夕方、早々と「返信」の第一号が届いた。「出席」だった。前に会ったとき、「今年度の会費をまだ払ってない」と気にしていたので、「今度2年分、払ってもらえばいいですよ」、そういって別れた人だった。ありがたい。会員は、組織にとっては「一口株主」と同じだ。会費で活動が支えられている。

2017年3月28日火曜日

山里の防風ネット

 いわき市の在来小豆「むすめきたか」の話を聴きに、三和町渡戸の生産者Sさん宅を訪ねたときのことだ。家の裏の畑に青いネットが張られていた=写真。Sさんのご主人に聞くと、イノシシではなく風よけだった。
 北西から南東へ好間川が流れている。両岸に山が迫る。川に沿って、帯状に延びている谷底平野=田畑の一角にSさんの屋敷がある。川の対岸、国道49号を車が行き来している。田畑のあるあたりで標高300メートルほど、そばの山は400~450メートルくらい。V字谷に比べれば谷底も空も広い。

 福島県は西から会津・中通り・浜通りに三分される。地形と気象、つまり風土の違いが根っこにある。冬、湿り気を帯びた冷たい空気が日本海を渡って来て越後山脈にぶつかり、ついで奥羽山脈にぶつかって、越後と会津に大雪をもたらす。中通りにも雪を降らせる。阿武隈高地を超えるころには、冷たいカラッ風になっている。浜通りのいわきが「サンシャインいわき」といわれるゆえんだ。

 渡戸の好間川流域は、まさしくこの北西の季節風の通り道だった。Sさんの自宅裏には、樹種はわからないが針葉樹が2階の高さにまで“壁”になっていた。畑の防風ネット、家の防風生け垣。同じ地域であっても気象との付き合い方が異なる。いわきの平地と山地とではなおさらだ。

 冬の三和町は、川端康成の小説「雪国」の書き出しと同じく、平側から国道49号のいわき三和トンネルを抜けると雪国になる。近年、好間川の下流側にいわき水石トンネルができた。Sさんの家は二つのトンネルの間にある。その意味では、一帯は雪が降っても三和トンネルの先の雪国ほどではない。

「三澤地理学」というのがある。三澤とは戦前、長野県の小中学校で教鞭をとった三澤勝衛(1885~1937年)のことだ。人が拠って立つ生活圏でもある風土を知り尽くすことが自然を活用した産業を育成する基礎になる。田1枚、あるいは畑1枚でも土壌や風や日照量が異なる。その環境に適した作物を選べ――というのが「三澤地理学」の本質。防風ネットと防風生け垣から思い出した。

 いわき総合図書館に『三澤勝衛著作集 風土の発見と創造 全4巻』(農文協)がある。昔からの暮らしを大切にする、あるいは片田舎の暮らしを見つめる、そういうことに関心を深めている若者にはぜひ読んでもらいたい本だ。

2017年3月27日月曜日

渓谷の3月は?

 日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。2月26日。隠居の庭の木にからまり、伸びて木質化したクズを根元から切断した=写真。それから1カ月、用事があって隠居へは出かけられないでいる。
 3月5日は、在来小豆の「むすめきたか」の話を聞きにいわき市三和町へ。12日は、いわき市美展(写真・陶芸)を見て、アリオスわきの平中央公園で開かれた「いわきねぎを食べ尽くせ!~ねぎが主役になる日~」のイベントをのぞいた。その後、いわき市暮らしの伝承郷へカミサンを送って、また迎えに行った。
 
 19日は、朝から夜までいわき地域学會の決算事務でくたくたになる。きのう、26日は区内会の総会・懇親会・二次会。年度末のあれこれに追われて、渓谷の隠居へ出かけて息抜きをするどころではない。4月に入れば、今度は年度始めのあれこれが待っている。
 
 23日の小学校卒業式から29日の姉の葬儀まで、毎日なにかある。背広にネクタイの日が計5日間。現役のときは忙しいと言ってもやることは毎日変わらなかった。今は日替わりだ。7連チャンはさすがにきつい。
 
 一方で、「適期」を逃せないものがある。先日買った千住系の「いわき葱」(いわき一本太ねぎ)の種は4月10日にまく。生産者である平北白土のネギの“師匠”がそう決めているので、それに従う。今年(2017年)は前日が日曜日。一日早く9日に種をまこうと思っていたら――。
 
 きのう(3月26日)、渓谷の集落のKさんから連絡が入った。9日に「春日様」のお祭りが行われる。渓谷を彩るアカヤシオの花がそのころ、咲き誇るとみているのだろう。その日はプランターを苗床にして土をつくり、自宅に持ち帰って翌10日に「いわき葱」の種をまくことにしよう。
 
 年度末・始めの感慨はゼロ。浮かれて行事をすっぽかしたりするわけにはいかない。原稿と同じく、種まきの「締め切り」も遅らせるわけにはいかない。けさは雨。これから家の前の歩道にごみネットを出す。

2017年3月26日日曜日

「むすめきたか」取材同行

 在来種の豆を調べている女性から、フェイスブック経由で連絡が入った。いわきで栽培されている小豆の一種、「むすめきたか」などの在来豆について話を聞きたい――。在来豆については知らないので、いわき昔野菜保存会の仲間を紹介し、生産者への取材に同行した。
 長谷川清美さん。『豆のハンドブック』(文一総合出版、2016年)『べにや長谷川商店の豆料理』(PARCO出版、2009年)の著書がある。『――豆料理』は2015年で9刷というから、ロングセラー本のようだ。

 いわき市が発行した『いわき昔野菜図譜』(2011年)によると――。「むすめきたか」は、主に三和町で栽培されている。代々家で種を継承し、天候不順による不作時には隣近所で種を譲り合って栽培を続けてきた。小粒で早く煮える。で、嫁に行った娘が里帰りしたときに、すぐに煮て食べさせることができるので、いつか「むすめきたか」と呼ばれるようになった。
 
 3月初旬、長谷川さんと仲間の車に同乗して、三和町渡戸の好間川沿いにあるSさん宅を訪ねた。「むすめきたか」の現物=写真=と、こしあん、煮豆、柏餅(かしわもち)を用意して待っていた。現役のころは、ご主人はバスの運転手、奥さんも企業勤めの兼業農家だった。今は70歳を超えて自適の暮らしをしている。
 
 奥さんは好間川の左岸域、山の陰の集落・永井から嫁いできた。実家でも「むすめきたか」を栽培していた。今栽培している「むすめきたか」は、実家よりさらに奥の集落・差塩(さいそ)から通っていた職場の仲間から種を譲り受けた。
 
 長谷川さんもフェイスブックで報告しているが、あんはあっさりしていて上品な味だ。三温糖と白砂糖を半々に使うのがポイントだそうだ。柏餅の葉は夏に摘んで冷凍保存をしておく。大きい葉だった。生産者自身が保存・調理にもたけている。農山漁村には、こういう多彩な「おふくろの味」を生み出す人がいっぱいいる。
 
 ただ、話を聞きながら思ったのは、生産者はルーチンとして自家栽培を続けているということだ。「意義があるから」「大切だから」とかいう前に、「家でつくっていたから」「もらったから」種を採り、栽培を続けている。そこに親からの愛と子への愛が加わる。
 
 天候によっては収穫が激減する。去年(2016年)の「むすめきたか」がそうだった。危うさと背中合わせの「自産自消」。次にバトンを受け取る人間がいなければ、種はあっという間に消える。

2017年3月25日土曜日

馬揚山風力発電

 私は、阿武隈高地のほぼ中央部のまちで生まれ育った。北東に鷲が羽ばたくような山容の岩山・鎌倉岳、南東に阿武隈の最高峰・大滝根山、西に田村富士の片曾根山、北西に移ケ岳。まちは標高700メートル余の片曽根山を除けば、1000メートル前後の山々に囲まれている。南北に延びる分水嶺の、なだらかな西側のふもとに位置する。
 物心づいたころ、大滝根山の頂上には進駐軍(米軍)のレーダーサイトがあった。昭和34(1959)年、その基地が航空自衛隊に移管される。牛の背のようなスカイライン(山稜)をながめて育った古老は、そこに人工的な“こぶ”ができたことを嘆いていた。

 浜通りの双葉郡に東電の原発と火発ができると、東京へと分水嶺の東側に送電鉄塔が立った。その鉄塔と送電線は原発震災後、火発を除いて“休眠”したままだ。

 先日、県紙にJR東日本エネルギー開発の広告が載った=写真。<「環境影響評価法」に基づき、「(仮称)馬揚山風力発電事業 計画段階環境配慮書」を縦覧します>という「お知らせ」だった。「対象事業実施想定区域」はいわき市北西部の馬揚山を含む山稜上で、3月21日から4月20日までいわき市本庁などで縦覧する、とあった。

 馬揚山はいわき市の三和町にある。グーグルマップでは「馬場山」。だれかが間違って書き込んだのだろう。国土地理院の電子地図で確かめると「馬揚山」(723.1メートル)。この山稜その他に風車が立つ。

 自分のブログを読んで思い出したことだが――。平成26(2014)年11月、経産相と福島県の新知事が会談し、福島県内で発電された再生可能エネルギー買い取りを東電に求めることを明らかにした。東電の送電網を活用して、関東方面に送電する、と県紙が報じていた。その後、県の産業復興計画「イノベーション・コースト構想」に基づいて、その流れが具体化しつつあるわけだ。
 
 馬揚山事業とは別に、浜通りでは洋上と沿岸部、阿武隈高地東側丘陵地域(いわき市~南相馬市)で風力発電が計画されている。「(仮称)福島阿武隈風力発電事業」では、川内村に住む知人が、目の前の尾根筋への設置計画変更を申し入れ、了承された。

 すでに震災前、大滝根山と矢大臣山の間に風車の列ができていた。桧山にも。昔の古老が大滝根山頂の“こぶ”を嘆いたように、今の古老も送電鉄塔と風車のスカイラインを見ると滅入る。再生可能エネルギーの重要性は承知しながらも。

2017年3月24日金曜日

卒業式と証人喚問

 きのう(3月23日)は、小学校の卒業式が行われた。学区内のほかの区長さんらとともに式に臨んだ。卒業証書授与後、在校生代表の5年生と卒業生とのエールの交換「わかれの言葉」が行われた。校歌をともに歌い、5年生は「ビリーヴ」を、卒業生は「さよならを言わない」を歌って、伝統のバトンの引き継ぎをした。
 同時刻に、国会の参議院予算委員会で証人喚問が行われた。NHKが中継した。午後は舞台を衆議院予算委員会に移して、同じように証人喚問が行われた。

 卒業式から帰り、昼食をとったあと、マチへ出かけた。銀行でカネを下ろし、図書館に本を返し、本屋で新刊の新書を買った。レンガ通りのハクモクレンが花を開きかけていた=写真。帰ると、午後の証人喚問の生中継が始まったばかりだった。昼寝抜きで終わりまで見た。民放も情報番組のなかで生中継をした。
 
「寄付」や「はたらきかけ」や「忖度(そんたく)」に関して、びっくりするような証言が続いた。どこまで信じていいのかわからないが、ここは名前の出た人たちの話も聞きたい――テレビ傍聴席からはそう感じられた。

 ただ、答えを引き出すよりは、証人がいかにいいかげんな人間であるか――それに力点をおいて、つまり「印象操作」をするかのような言説に終始する質問者がいた。「はしごをかけて……」には笑った。
 
 証人は「事実は小説よりも奇なり」という言葉も発した。国会の、偽証罪が問われる場でそんな言葉を引用するのか――と半分あきれながらも、この証人喚問には、言葉は悪いが引き込まれた。「事実はテレビドラマよりも奇なり」。そう、きのうは午前中、“卒業劇”に心を洗われ、午後は“喚問劇”で泥沼の蓮根を思った。蓮の花の咲く(真相の解明される)日がくるのかどうかはわからないが。

2017年3月23日木曜日

「碧峰?玄居士」

「春分の日」余話――。カミサンの実家の墓参りをしたあと、本堂に寄って位牌にも焼香した。一角に故人の回忌を知らせる掲示板がある。十七回忌の欄に義伯父の戒名があった。
短冊状の紙に「碧峰?玄居士」とあって、3番目の文字が「?」になっている=写真。パソコンに入っているデータは正しくても、プリントアウトするときに「?」になってしまったか。それとも、打ち込んだときに「単漢字」で拾えず、「?」のままにしてあったか。

 義伯父は埼玉に住んでいた。墓もそちらにあった。奥さんが亡くなったあと、いわきのわが家の近くに家を建てて移った。晩年は緑内障で失明し、カミサンが食事などの世話をした。

 死後、義伯父の家は一時、知り合いの若い整骨師に貸した。震災後は支援NGOの宿舎になった。今はわが家の客の“ゲストハウス”になっている(わが家の2階は本と資料で物置状態なので布団が敷けない)。

義伯父の家の墓はそのままだった。そちらの墓に遺骨を納めても、お参りに行くのは難しい。子どももいないから、いずれ無縁墓になってしまう。で、ある年、住職と相談し、業者と一緒に埼玉へ出かけ、墓をカミサンの実家の墓地の一角に移転した。

義伯父の戒名は奥さんのそれとつりあうように、いわきの寺の住職が付けた。「碧峰虗玄居士」。「虗」は、簡体字では「虚」。漢和辞典で確かめると、「虚」は「虛」の略字、「虛」は「虗」の略字とあった。

「?」のまま印刷するんじゃなくて、そこだけ空けてあとから筆で書き込めばいいのに――つい“校正したくなる癖”が出る一方で、戒名は略字ではなく本字でつけるのか、と感心した。(「ワード」から「書式なし」のゴシックにしたら、「虗」と「虚」が「?」になった。で、きょうはワードの明朝体のままアップした)

2017年3月22日水曜日

8カ月ぶりの床屋談議

 前日(春分の日)の穏やかな晴天と打って変わって、冷たい雨の降る一日になった。庭のスイセン=写真=もスミレも震え上がっていた。あしたは小学校の卒業式。案内がきている。散髪して臨まなくては――8カ月ぶりに近所の床屋へ出かけた。
 店は国道6号沿いにある。おばさんが近くのすまいから通って営業している。6畳一間ほどの小さなスペースだ。自作の俳句・短歌を書いた色紙と短冊が、壁とテーブルの上にびっしり飾られている。日々感じたことを季語や文語にとらわれず、五七五と五七五七七につづっている――そんな印象だ。

「この連休に娘夫婦と万次郎、万三郎山へ行ってきた」「万太郎山もあるよね」。いわき市の鬼が城山の北にある川内村の山を思い浮かべて言ったものの、話がかみあわない。あとで万次郎・万三郎を検索したら、天城山のハイキングコースだった。山歩きが好きだとは、前に聞いていた。

 国道6号は交通量が多い。原発事故直後は収束作業、その後は廃炉・除染作業の車両でさらに込むようになった。大型車が通るたびに店が揺れる。振動と騒音が間断なく続く。道をはさんだ隣家に引っ越してきた人は、最近、騒音を遮断するために塀を巡らした。「会ったことはないんだけどね」という。

 おばさんは一日中、ラジオをかけている。センバツ高校野球が始まり、大相撲春場所が続いている。きのうは雨でセンバツが順延になった。大相撲の放送が始まるにはまだ早い時間帯だが、久しぶりに誕生した日本人横綱の話になった。「稀勢の里はいいねぇ」というので、「横綱になって表情が穏やかになったよね」と返したが、反応がない。ラジオを聞くだけではその変化はわからないか。

 前回と同様、今回もイメージしていた以上に刈り上げられた。帰宅すると、いきなり「坊さんみたい!」とカミサンが叫ぶ。その代わり、半年は床屋へ行かなくてもすむと、胸のなかで切り返した。

2017年3月21日火曜日

埋め墓と参り墓

 春分の日のきのう、カミサンの実家の墓参りをした。墓はもちろん、寺の墓域にある。3連休を利用して、土・日曜日に墓参をすませた人が多かったのだろう。彼岸の中日にしては車の流れがスムーズだった。
 遺体を埋めた墓とお参りする墓が別々になっているところがあるそうだ。民俗学でいう「両墓制」で、先日、若い人が来て話していた。『いわき市史』第7巻(民俗編)にも、いわき市内の事例が紹介されている。

 その話を聞いた直後、知人で考古学が専門の中山雅弘さんから恵贈にあずかった『近代考古学研究論考』(前原文庫、2017年1月刊)を読んでいて、両墓制に関する記述に出合った。

 いわき市域にみられるという両墓制の中身は――。明治以後、政府の法令や日露戦争後の地方改良運動によって、結果として両墓制に類似した形態をとった可能性がある。それを踏まえて再検討されるべき。一方で、いわき市平沼ノ内・薄磯、江名などの海岸部にみられる「埋め墓・参り墓」については両墓制の可能性がある。中山さんは、両墓制と両墓制モドキは分けて論じるべき、とした。
 
 磐越自動車道建設に伴って阿武隈高地東縁(いわき市三和町)で発掘調査が行われた。中山さんらが担当した。その事例と聞き取りを重ね合わせると、両墓制モドキの実態がみえてくる。

「墓標を持たない近世墓は、本来屋敷脇の畑地や畦(あぜ)などに自葬されたものであり、せいぜい小さな自然石を置くか、墓標があっても近代になって墓標(石製・木製)のみが檀那寺や共同墓地に移動したために墓坑のみ取り残されたものであるといえよう」

現象的には埋め墓と参り墓が併存しているようにみえても、本質的には両墓制モドキかもしれない、という慎重さが調査者には求められる。
 
 さて、現代の埋め墓の話だ。私は、よそからいわきへやって来た人間で、ここに骨を埋めると決めたあと、自分の「ついのすみか」を確保した。海の見える石森山の寺の墓域にある。カミサンは「歩いて墓参りには行けない」という。ならば、埋め墓とは別に、ふもとのどこかに参り墓を設けてくれよ、なんては言わない。
 
 墓を持たない人もいる。無縁化して荒れたままの墓もある。墓があってもお参りに行けない地域もある。
 
 震災後、死者と生者の関係に思いを巡らせることが多くなった。原発避難を強いられた双葉郡の墓はどうなっているのだろう。お参りができなくて、先祖に申し訳ないと思っている人が少なくないのではないか。心ならずも避難先にすまいと墓を移した、という人もいる。
 
 きのうの彼岸の中日、ふるさとの兄から連絡が入った。神奈川県で暮らしていた姉が息を引き取った。享年77。来週、ふるさとの実家の墓に骨を埋葬する。子どもたちにとっては遠いとおい埋め墓になる。

2017年3月20日月曜日

利子1円の世界

 きのう(3月19日)は朝10時過ぎから夜7時近くまで、いわき地域学會の決算事務に追われた。会計担当の仲間が11月に亡くなった。4月下旬に総会が開かれる。「今のうちに整理しておきましょう」。事務局の若い仲間の提案に従った。
 年会費の入金の有無や各種事業の収支を、領収書に従って精算する。その都度、何に使われたのかをメモしておけばいいのに、つい先送りしてしまう。半年以上もたつと、「何に使ったんだっけ?」になる。それを避けるために、会計さんはときどき「領収書を」と催促した。会計処理をするうえでは当然だろう。

 足し算と引き算の単純な世界のはずだが、会計には会計のルールがある。説明がつくように組み立てる。私は最も単純な年会費の入金の有無をチェックした。直接入金に郵便振替を加える。なかなか数が合わない。2、3回やり直した。

 昼食後も計算が続いた。「夜の7時までかかりそうです」。実際、そうなった。夕方、ひとり抜け出していつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行く。カツオの刺し身があった=写真。若だんなが私の顔を見るなり、「ああ、きょうは日曜日だったんですね。あしただと勘違いしてました。あしたは、カツオがなくなるなあ(申し訳ないなあ)と思ってたんです」
 
 戻ってまたカネの計算を続ける。「通帳の利子はいくらになってますか」。見ると、1円、2円。そんな世界だ。どこかでは何億円という数字が、空気を吸ったり吐いたりするように行き来している。
 
 7時過ぎ、思考力も集中力も使い果たしたところで解散した。いつもの日曜日よりは1時間半遅れの晩酌になった。疲れた体ではそう長く飲んでいられない。カツ刺しが少し残った。けさ、それを“海鮮丼”にして食べた。いわきの魚屋さんが扱うカツオはそのくらい鮮度がいい。

2017年3月19日日曜日

『いわき地方災害史』

 本棚を整理していたカミサンが「これ、いるの?」と聞く。「捨てるよ」という合図だ。渡されたモノは『いわき地方災害史 1295年~1976年』=写真。表紙は手書きのガリ版刷り、本文はやはり手書きの青焼きコピーだ。「いわき災害問題研究会」が発行した。どこかにあるはずと、原発震災後、ずっと探していた資料集だ。 
 昭和53(1978)年6月12日、「宮城県沖地震」が発生する。それを機に、有志による研究会が生まれた。大学の先生を招いて「宮城県沖地震に学ぶ」講演会を開いた。その延長で、いわき市の災害の歴史をまとめた――と、発刊のことばにある。

 宮城県沖地震が起きたときのことは鮮明に覚えている。市役所担当の記者だった。1階北側に公害対策課があった。5時に仕事が終わり、退庁するまでの15分間、職員は将棋をやったり、おしゃべりをしたりして過ごす。私もおしゃべりの輪の中にいた。

 間もなく退庁時間というときに激しい揺れがきた。テーブルの上の水槽から水がこぼれる、窓の外の電線が波打つ――。水槽は、15歳のときに寮で一緒だった高専の同期生(のちに市議・県議)のもので、メダカか何かを飼っていた。
 
『いわき地方災害史』は、同期生とは別の課の職員からもらったか、カンパをして手に入れた。知り合いの若手職員が何人か研究会に加わっていたように思う。発行年月日は記されていないが、宮城県沖地震から2~3年後にできたのではなかったか。

 3・11後に思ったのはひとつ。「いわきの災害史」研究が不十分だった。危機感が希薄だった。『いわき地方災害史』を基礎データにして調べ直さなくては――。

『いわき地方災害史』には、永仁3(1295)年6月15日の「ひょう害」から昭和51(1976)年11月1日の火災まで、地震・津波・暴風雨・水害・飢饉・霜害・高潮・高波・陥没・流行性感冒・漁船遭難・炭鉱火災・イナゴ襲来・炭鉱ガス爆発・坑内出水・落盤・伝染病など、自然災害・人災が網羅されている。

 研究者でなくともできることがある。大正12(1923)年11月以降なら、あらかた、いわき市立図書館のホームページにある「郷土資料のページ」(新聞)を開いて、災害の様子をなぞることができる。『いわき地方災害史』をめくりながら、そのときの新聞記事を読んで原因や背景などについて思いを巡らせる。「古新聞」は、少なくとも「参考資料」としては役に立つ。

2017年3月18日土曜日

硫黄島の日章旗

 両親のきょうだい、つまりオジ・オバは7人。うち1人は母親の実家の鴨居に飾られた軍帽・軍服姿の遺影で知っているだけ。母の兄だ。
 太平洋戦争末期の昭和20(1945)年2月19日、米軍が硫黄島に上陸を開始する。それからおよそ1カ月後の3月17日、大本営は同島守備隊の玉砕を発表する。実際にはその後も戦闘が続いた。組織的な戦いが終結するのは同26日(ウィキペディア)。鴨居のオジはこの島で戦死した。母は「兄が夢枕に立って言った」ので病死、と信じ込んでいた。

 先日、いわき市暮らしの伝承郷を訪ねた。ロビーに硫黄島戦没者の日章旗が展示されていた=写真。

 解説文によれば、戦いが終わったあとに米兵が日章旗を持ち帰り、平成18(2006)3月、硫黄島で行われた日米合同の戦没将兵追悼式でアメリカから返還された。

 旗には「縣社飯野八幡神社」「縣社子鍬倉神社」「閼伽井嶽」といった文字が墨書されている。戦前、平・祢宜町にあった田辺製作所(軍需関連の鉄工所)の従業員らの名前が記されている。戦地へ赴く故人に職場の同僚または友人が名前や短歌を寄せ書きし、贈ったものと推測されている。

 引き取り手のない遺品は靖国神社に奉納される。で、平遺族会が「所持者ゆかりの地のいわきに」とはたらきかけて、アメリカ大使館から日章旗の引き渡しを受けた。父親が硫黄島で戦死した私の年長の友人らが尽力したのだろう、遺族会がいわき市教委に寄贈し、伝承郷で保管されている。3月の硫黄島の戦いを思い起こし、死者を追悼する意味合いを込めた展示でもある。

 22年前、「硫黄島五十回忌」を前に書いた拙文から――。同島の戦いでは、日米双方に2万人を超える戦死傷者が出た。福島県人も854人が死んでいる。硫黄島の戦没者は、大多数が玉砕を報じられた3月17日が命日だ。その日を前に、友人が五十回忌の記念誌を編んだ。「歳月がいかに流れようとも、戦争で肉親を失った者の感情は決して風化されはしない。私にとっての『戦後』は、まだ終わっていないのである」

 生前ついに言葉を交わすことがなかった子が、父の生きたあかしを記録にして残す。それは父を知り、父と対話する心の旅でもあった。その友人の歌。「父の果てし島にようやくたどり来ぬ出征の日の乳飲み子われは

 今、「硫黄島」に「東日本大震災」を加えて、3月の悲しみを思う。

2017年3月17日金曜日

磐城産のマンボウ

 このごろ、いわきの伝統郷土食や昔野菜について聞かれることが増えた。「『いわき市伝統郷土食調査報告書』の話ならできますよ」と答えることにしている。 
 これまでにも何度か拙ブログで書いてきたが、同報告書は平成7(1995)年、市が刊行した。市観光物産課(当時)がいわき地域学會に委託し、歴史や民俗に精通している故佐藤孝徳さん(江名)が中心になって調査した。私は「そうめんのひやだれ」(山田町)の調査に加わったほかは、編集・校正を担当した。
 
 いわきはハマ・マチ・ヤマに分けられる。食文化もそれぞれの土地の産物と結びついている。いわきの食文化の特色は、なんといってもハマの料理が多彩で豪華なことだ。同報告書には写真とレシピ、コラム(ひとくちメモ)があって、いわきの食文化史的理解を助ける。読み物としてもおもしろい。

 ハマ以外ではなじみのないものにマンボウ料理がある。ハマでは夏の風物詩だという。①刺し身にして醤油で食べる②生の肝臓と味噌をまぜあわせたタレに刺し身をつけて食べる(肝み)③肝臓と味噌とをあぶり、刺し身をかきまぜてまたあぶって食べる(油げ)④ウキキ(腸)を塩に漬けておき、焼いて食べる――。佐藤家でマンボウの刺し身を食べたことがある。少しおくと水っぽくなったのを覚えている。
 
 報告書には「まんぼうの油げこっぱの酢みそ」「まんぼうの肝みと刺し身」「うききの粕漬」――の三つが収められた。「うききの粕漬」は磐城平藩を治めていた内藤家が将軍に献上したことで有名だ。分家の湯長谷藩の献上品リストにも入っていた。
 
 先日、福島県歴史資料館から「福島県史料情報」第47号が届いた(4カ月に一度、2・6・10月に発行されている)。なかに、「佐竹永海が描いた磐城産のマンボウ」の記事があった=写真。筆者は地域学會の会員でもあるWさんだ。
 
 嘉永3(1850)年、国学者山崎美成(よししげ)が5巻5冊の随筆集『提醒紀談』を刊行する。挿絵の多くは、会津生まれで彦根藩の御用絵師佐竹永海(1803~74年)が描いた。その一つに、マンボウの外形と皮をはいで肉や内臓を描いた「牛魚全図」がある。「牛魚」はマンボウのこと。
 
 マンボウは、ほかに「満方」「満方魚」「万寶」と表記され、「ウキキ」と呼ばれて「浮亀」「浮木」などとも書かれたという。見出し以外に「磐城産」の文字は出てこないが、江戸時代、マンボウといえば磐城産で通っていたのだろう。

 マンボウの絵に刺激されて、報告書の「うききの粕漬」のレシピを読む。①腸をよく水洗いして切り開き、包丁で内部をかき取る②ある程度の大きさに切って塩をまぶし、漬けておく③塩漬けした腸の塩を抜き、酒粕に漬ける④焼いて食べる――とあった。一度は食べてみたいものだが……。

2017年3月16日木曜日

いわきの山に春の雪

 そろそろスタッドレスからノーマルに履き替えるか――なんて考え始めたところに、山がすっぽり雪でおおわれた。
 おととい(3月14日)は、朝から雨がぱらついた。小雨の中、正午に県立高校の合格発表が行われた。夕方になるにつれて雨脚が強くなった。宵の6時、集会所で区の役員会を開く。「これから雪になるって予報だよ」。やはり天気の話になった

 雨は翌日午前まで続いた。雨上がりに車で外出した。平の西方に連なる湯ノ岳・三大明神山~閼伽井嶽・水石山がうっすら雪をかぶっていた。北の二ツ箭山~三森山はそれ以上だ。雪国の山のように真っ白ではないか=写真。

 いわきの冬は青空とカラッ風が特徴だ。「サンシャインいわき」といわれるゆえんだが、それでも山間部では春まで雪の残るところがある。春先、南岸低気圧が発達しながら東進すると、北東海上から湿った寒気が入りこんで太平洋側が雪になる。それで、きのう、いわきの山が白い綿をかぶった。

「光の春」と「寒さの冬」が綱引きするなかで、大地は春へと装いを変えつつある。そろそろウグイスがへたなさえずりを始め、キジも河川敷で鳴きだす準備をしていることだろう。「光の春」が続いたかと思うと、急に「寒さの冬」が取って代わる。まだまだ油断はならない。

 今週は連日、ふるさとの兄からケータイに連絡が入る。関東に住む姉が彼岸へ渡りつつある。「寒さの冬」がいっそう身にしみるところへ、“孫”からケータイがかかってきた。13日、中学校の卒業式。で、翌14日は朝から気になっていた。「受かったよ」「おめでとう」。胸中が「光の春」で満たされた。

2017年3月15日水曜日

開業100年の新駅舎

 JR磐越東線の川前駅は今年(2017年)秋に開業100年の節目を迎える。たまたまか、節目のためかはわからないが、駅舎が建て替えられたというので、夏井川渓谷の隠居へ出かけたついでに足を延ばした。
 鉄道は西洋から入ってきた。それもあって、木造駅舎には和洋折衷型が多い。レトロな外観には鉄道ファンならずとも引かれる。いわき市内の磐東線でいえば、赤井、小川郷駅。川前駅も去年まではそうだった。信号所から駅に昇格した江田駅は、ホームに待合室があるだけだが、これはこれで寂寥感が忘れがたい。

 磐東線は大正3(1904)年以降、郡山といわき側から少しずつ営業区間を伸ばしていった。いわき側は小川郷駅、郡山側は小野新町駅の間、夏井川渓谷の難工事を経て全線が開通するのは同6年10月10日。つまり、いわきの川前駅も小野町の夏井駅も、この日が開業日だ。

 物心づいたころ、祖母に連れられて平の叔母宅、小名浜の叔父宅へ行くのに船引駅から磐東線を利用した。高専に入ってからは、夏休みなどに仲間と客車の一角を占めて帰省した。まだSLだった。渓谷ではトンネルと鉄橋が連続する。トンネルに入るとあわてて窓を閉めた。

 山峡を夏井川が流れる。それに沿って鉄路が伸びる。県道沿いの集落から折れて橋を渡ると、川前駅が見えてくる。新駅舎は和風でモダン、マッチ箱のように“かわい”かった=写真。窓を広くとった待合室には光があふれていた。

 この駅にまつわる記憶はただ一つ、「列車待ち」。磐東線は単線のために、上下の列車をどこかの駅で交換しないといけない。川前駅でそれが行われた。現在も9時10分と16時14分に行われている。ホームで待ち合わせ、上り下り同時に発車する。

 駅前は結構広い。新駅舎の写真を撮りに行った2月26日には、駅のそばで市の「川前駅前公衆トイレ」建設工事が行われていた。その隣には川前駐在所。この空間を使ってなにかイベントができるのではないか、そんな感慨にひたった。巨木のカツラも橋のすぐ上流、夏井川の右岸にそびえている。ゴールデンウイークごろの新緑が美しい。

2017年3月14日火曜日

主役は「いわきねぎ」

 日曜日(3月12日)にアリオスわきの平中央公園で、いわきのブランド「いわきねぎ」をPRするイベントが開かれた=写真。題して「いわきねぎを食べ尽くせ!~ねぎが主役になる日~」。いわき市農業生産振興協議会が主催し、共催にJA福島さくらいわき地区本部、ふくしまFMなどが名を連ねた。FMいわきではなく、ふくしまFM内に事務局がおかれたのにはわけがあるのだろう。
 ネギは加熱すると甘くやわらかくなる。土がついたままのネギを網焼きにし、外の皮をはがしてアツアツの白根を根っこの方からがぶりとやる。チラシに「いわきカルソッツ」なんていう言葉があったから、なんだと思って検索したら、“焼きネギ”で有名なスペインの“ネギ”(カルソッツ)にたどりついた。食べ方にあやかったわけだ。

 焼きネギコーナーのほかに、市内料理店による「ねぎづくし屋台村」が設けられた。知っているところでは平の中華料理店が出店し、若いシェフが「ねぎまん」を売っていた。小川町の生産者もいた。

「いわきねぎ」と「ねぎまん」を買った。その晩、焼きネギを酒のつまみにした。翌朝は、ジャガイモとネギの味噌汁にして味を確かめる。

 私は、中通りの田村郡で生まれ、「三春ねぎ」を食べて育った。ネギとジャガイモの味噌汁を、ネギの好みを測る目安にしている。「三春ねぎ」は「しっかりした甘み」、同じ中通りの「阿久津曲がりねぎ」は「濃厚な甘み」だ。それらに慣れた舌には、「いわきねぎ」の「ほんのりとした甘み」は物足りない。「ねぎまん」は逆に、さっぱりしていて口に合った。

 以前、昔野菜の「いわき一本太ねぎ」を栽培している塩脩一さん(平)に、いわき地方のネギの歴史を聞いたことがある。ブランドの「いわきねぎ」と、地ネギの「いわき一本太ねぎ」は別物だと知って納得がいった。

『いわき昔野菜図譜』(いわき市発行、2011年3月)によると、「いわき一本太ねぎ」は風が吹くと倒れやすく病気に弱いなど、栽培に手間がかかることから、品種改良が進み、栽培しやすいものが主流になった。その結果、「いわき一本太ねぎ」は市場から姿を消した。「いわきねぎ」を考えるときに忘れてはならないポイントだ。今の「いわきねぎ」はすき焼きに向いている。

2017年3月13日月曜日

震災遺族の追悼の辞

 きょう(3月13日)も草野心平がらみの話で恐縮なのだが――。
 おととい、3月11日はわが家で「午後2時46分」を迎えた。テレビで政府主催の追悼式を見ていたところに、たまたま友人が来た。すぐ2時46分になった。カミサンを含む3人で黙礼し、テレビを消して雑談を続けた。
 
 友人が帰ったあとにテレビをつけると、遺族代表の「追悼の辞」が行われていた。福島県の代表は……驚いた、川内村の石井芳信さん(72)だ。阿武隈の山里の人間がなぜ? 原発避難を始めてすぐ入院中のお母さんが亡くなった。知らなかった。

 石井さんは村役場のOB。いわき地域学會が発足して間もなく、村から『川内村史』の編纂事業を受託した。村側の窓口が石井さんだった。会員が休日を利用して川内村へ調査に通った。「幕末の村の俳諧」と「天山文庫の草野心平」が担当の私も、何度か仲間と一緒に村へ出かけた。合間に石井さんの自宅へ寄ったり、石井さんの親戚の家で「川内の食」を体験したりした。震災当時は村の教育長。今は天山祭り実行委員長を務めている。
 
 おとといのテレビで石井さんの追悼の辞を耳に刻み、きのうの福島民報でその全文を胸に刻んだ=写真。「母の姿 忘れられず」。朝日新聞1面の記事でようやく当時の様子がわかった。
 
 石井さんは言う。「私の住んでいる川内村は(略)東京電力第一発電所の事故のため全村避難を余儀なくされました。/私の母は、震災当時、原子力発電所のある大熊町の病院に入院しておりましたので当然避難を強いられました」
 
「数日間入院先の病院からも何の情報も入らず安否を心配していましたが、いわき市のある高等学校に移送されたらしいとの情報が入り、妻と駆け付けました。/そこには白い布に覆われ変わり果てた母の姿があり、妻が亡き母の顔に頬ずりし涙を流していた様子は、今でも忘れることができません」
 
 実はおととい、いわき市立草野心平記念文学館で事業懇談会が開かれ、終わって川内村の公民館長さんと雑談した際、石井さんの話になり、「元気ですか」「元気です」「よろしくお伝えください」といったやりとりをしたばかりだった。帰宅してテレビをつけたら、石井さんが追悼の辞を述べていた。
 
 死者1万5893人、行方不明者2553人、震災関連死3523人――統計からは東日本大震災の被害規模の大きさがわかる。が、大事なのは2万1969に及ぶ個別・具体の人生が突然断ち切られたことだ。まる6年経過して初めて、石井さんの悲憤に触れる思いがした。

2017年3月12日日曜日

居酒屋「火の車」お品書き

 きのう(3月11日)、いわき市立草野心平記念文学館で事業懇談会が開かれた。終わって、心平命名のおかずを盛りつけた昼食が出た=写真。
 心平は昭和27(1952)年3月、49歳で東京・文京区に居酒屋「火の車」を開く。一戸建て棟割りで間口一間半、奥行き二間の小さな空間だ。同文学館常設展示室に店が復元されている。

 お品書きが振るっている。昼食に出たのは、①「黒と緑」(海苔でまいたホウレンソウのおひたし)②「冬」(豚の煮こごり)③「もも」(鶏の尻の油いため)④「白夜」(スープ=キャベツ、牛乳、ベーコンなど)⑤「雑色」(漬物=きのうは白菜漬け)。主食は雑穀ごはんで、「火の車」では出していなかったのか名前はない。煮こごりがうまかった。
 
 ほかに、⑥「麦」(ビール=きのうはノンアルコールが出たが、飲まずに持ち帰った)⑦「丸と角」(チーズとカルパス)⑧「ぴい」(ピーナツ)。こちらは文字通り酒と酒のつまみだ。仕事が終わって一杯やったあとにご飯を食べる――図だろうか。⑨「八十八夜」(玉露)はいい味だった。

 きょう、同文学館で<居酒屋「火の車」一日開店>と銘打った文学館ボランティアの会の事業が行われる。常設展示室の「火の車」を見たあと、館内のレストランに移動し、心平命名のお品書きにちなんだ昼食を楽しむという。それを、一日早く懇談会のメンバーが“試食”したわけだ。定員20人で、観覧券と参加料500円が必要になる。
 
 心平の『口福無限』(講談社文芸文庫)によると、心平は同人詩誌「歴程」263号(昭和55年9月)に、「料理について」という短詩を発表する。「ゼイタクで。/且(か)つ。/ケチたるべし。/そして。/伝統。/さうして。/元来が。/愛による。/発明。」
 
 このとき心平は77歳。料理は家族の健康や成長を願い、素材にふさわしい食べ方を工夫して、見た目も味も調(ととの)える――つまりは「愛による発明」なのだ。「カネのための発明」ではないのだ。独自のネーミングもまた「料理愛」「食べ物愛」からきている。

2017年3月11日土曜日

原発震災七回忌

 きょう3月11日、朝5時。起きて茶の間の明かりをつけると、ちょうど家の真上をハクチョウが鳴きながら通り過ぎた。東北地方太平洋沖地震が発生した午後2時46分には、サイレンが鳴る。ハクチョウの声をサイレン代わりに、玄関を開けて東の海の方に向かって合掌し、新聞を取り込んだ。
 きょうは昼前、いわき市立草野心平記念文学館で会議がある。夜は友人の退職慰労会。震災前もそうだったように、午後2時過ぎにはこたつで昼寝をしているかもしれない。このごろは特に朝が早く、昼を過ぎると横になって休みたくなる。それもあって、早朝の静かな時間に大津波の犠牲者と関連死者を追悼することにした。

 暮らすということは、ある意味ルーチンであり、マンネリズムに染まることだ。でも、そうして穏やかに日々が繰り返されることが大切なのだと、あの日に思い知らされた。車のガソリンが半分になったら満タンにする――これもあれ以来、身についた習慣。
 
 きのう、久しぶりに孫の“学童保育”をした。車で5分ほどの長男宅へ出向き、小3と1年生の帰宅を待った。宿題をすませたあと、平市民運動場へ出かけた。サッカー教室の送迎を頼まれていたのだった。これも無事な日常だからこその一コマ。
 
 6年前、孫たちは4歳と2歳になるところだった。自宅で震度6弱を経験した。まだ恐怖とか不安とかを感じるところまではいかなかったろう。沿岸部では津波で多くの人が亡くなり、双葉郡からは原発事故で何万という人が避難を余儀なくされた。私たちも孫も一緒に一時避難した。

 去年(2016年)暮れ、孫を連れて薄磯の海へ出かけた=写真。引いては寄せる波と遊んでいる姿を見ながら、あのとき牙をむいた海が孫たちの「ふるさとの原風景」になるのだ、という感慨がよぎった。行こうと思えばいつでも行ける海がある。森がある。川がある。

 しかし、原発避難者はそうはいかない。そこに家があり、海があり、森があっても、人の立ち入りを拒む。当たり前が当たり前でなくなってしまった。
 
 大熊・双葉町と「帰還困難区域」を除いて避難指示が解除されるといっても、大半は根っこのない他郷で暮らす日々。「存在の耐えられない軽さ」どころか、「むなしさ」を感じている人が少なからずいる。そのことにも思いを致しながら、静かに、当たり前のようにきょうを過ごす。

2017年3月10日金曜日

サハリンのポケモン

 スマホ向けゲームの「ポケモンGO」をやりながらトラックを運転し、小4男児をはねて死なせた会社員(36)に禁錮3年の判決が出た。きのう(3月9日)の読売新聞に載っていた。事故が起きたときにも思ったが、日常的に「ゲームをしながら運転をしていた」というから、なにをかいわんや、だ。裁判官は「起こるべくして起こった事故だ」と“断罪”した。
 スマホは持っていない。ポケモンにも縁がない。でも、「ポケモンGO」が世界の注目を集めたことは、ニュースやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で承知している。去年(2016年)、世界で(日本でも)急上昇した検索ワードの1位が「ポケモンGO」だった、とグーグルが発表したときにも、それを実感した。
 
 日本で「ポケモンGO」が解禁された直後だった。小名浜港のアクアマリンパークへ行くと、スマホを見ている若者や子どもたちがいっぱいいた。小学生が近づいてきたので「ポケモンGO?」と聞くと、「そうです」。父親があとからついて来た。
 
 それからすぐあとの8月初旬、同級生とロシアのサハリン(樺太)へ旅行した。州都・ユジノサハリンスク(豊原)に泊まった。ホテルの東に山が連なる。その中腹から市街を一望した。かつては「旭ヶ丘」と呼ばれたところらしい。「では、帰りましょう」。ガイドにうながされてマイクロバスに戻ろうとしたとき、石の柵に「pokemon」と記された落書きが目に留まった=写真。

 世界の若者が日本のアニメやゲームに魅せられている。サハリン島で出合った「pokemon」からも、その浸透ぶりを感じた。日本から見たら最果ての国々や地域でも、スマホを持っていれば「ポケGO」をやっている――そんな図が見える落書きだった。
 
 人気があるのはわかった。でもなあと、思う。ゲームをやりながら車を運転している人間がいるのではないか。そんな不安を抱きながら道を歩くようになったらしんどい。

2017年3月9日木曜日

「タグ付け」キルト

 朝ドラの「べっぴんさん」にアイビーファッションの青年社長が登場した。モデルはアパレル企業「VAN」の創業者だろうと、団塊の世代なら容易に想像がつく。
 16歳、高専1年生。「平凡パンチ」が創刊される。大橋歩が描いた丈の短いジャケット、細身のコットンパンツの若者たちの表紙イラストが評判になった。22歳。長髪とジーパンにおさらばして、兄からもらった背広とネクタイのサラリーマンになる。そのころ、街を「平凡パンチ」の表紙から飛びだしたような「VAN」ブランドの若者が行き来していた。かっこいいけどオレには合わないな、と思った。朝ドラを見ても同じ感想を抱いた。
 
 カミサンがいろんな服のタグを利用して、座ぶとん大のキルトをつくった=写真。ブランド品とは無縁だから、どこからか届いた廃棄古着のタグを縫い合わせたのだろう。「ハナエ・モリ」とか「バーバリーズ」、あるいは「マクレガー」「ノンノン」(すべてアルファベット表示)あたりは聞いたことがあるような……。キルト作りの先輩に「アートね」といわれたそうだ。

 中に「VAN」のタグがあった。「VAN」を身に着けたことはないが、懐かしさがよみがえった。コットンパンツのポケットに手を突っ込んだ、朝ドラのあの青年社長の顔が浮かび、「平凡パンチ」創刊号の表紙にも思いが及んだ。
 
 このごろは、衣類のタグとは別に、「タグ付け」という言葉をよく目にする。フェイスブックにアップされた写真に、ときどき「〇〇さんがタグ付けされました」と表示される。荷札のように名前が扱われている。それに比べたら、「タグ付け」キルトはわかりやすい。一つひとつの荷札はそのままで、全体が組み合わさって壁掛けのような“作品”になった。

2017年3月8日水曜日

「ごみ屋敷」火事

 いわき市平市街の国道6号沿いにある民家がおととい(3月6日)夜、火事になった。テレビ・新聞より早く、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で知った。「びっくり」と「やっぱり」が同時にきた。平の「ごみ屋敷」として学区外の小学生にも知られている家だった。
 きのう午後、市役所へ行くのに国道6号を利用した。火事になった家の前の歩道で、焼け残りのごみの片づけが行われていた=写真。

 何年か前、国道事務所が歩道にはみ出しているごみを撤去した。以後も、周辺からの苦情が続き、歩道からはみ出しているごみの撤去が繰り返されている。

 ごみの“とりで”を築くのはなぜ? 心の内を知りたくてネットで検索していたら、ホーディング(強迫性貯蔵症)という言葉に出合った。それに該当するかどうかはわからない。が、ごみを集めることで心の安定を図っている、とはいえるのかもしれない。

 回りの家はたまったものじゃない。「いつか火を出すのでは」という心配が現実のものになった。郡山市では去年(2016年)、ごみ屋敷が火事になって住人が焼け死んだ。いわき市の78歳の住人は外出していて無事だった。その点は、よかった。
 
「平のごみ屋敷」というだけでピンとくる人が多かったのだろう。SNSではあっという間に情報が拡散した。写真あり、動画ありで、火事の様子が生々しく伝わってきた。「市民メディア」の威力だ。

 市役所からの帰り、2車線の道路がそこだけ1車線になり、渋滞・減速して通過すると、どこかのテレビ局が取材に入っているのが見えた。ニュースかワイドショーか。いずれにしても視聴者は飛びつく。

2017年3月7日火曜日

木のこぶ、さらに肥大

 いわき市平の石森山は、いわき駅を軸にした中心市街地に最も近い里山だ。標高225メートルの山頂近くにフラワーセンターがある。隣接する林には遊歩道が張り巡らされている。
 20~30代のころはたびたび出かけた。月曜日から土曜日までは、人を相手に仕事をしている。いろいろストレスもたまる。せめて週末は、と意識する前に、体が石森山の雑木林に向かっていた。やがて、平日も昼休みにコンビニでおにぎりかサンドイッチを買い、遊歩道を巡って鳥を見る、花を見る、キノコを見る――を繰り返した。

 フラワーセンターのそばに寺がある。山寺だ。そこに畳2枚分くらいの“ついのすみか”を買った。元同僚でもある住職が管理している。年に一度は管理費を納めに寺へ出向かないといけないのだが、つい3年に一度、2年に一度になってしまう。

 2月のある日、寺を訪ねたあと、往路とは別の絹谷(きぬや)林道を利用して帰宅した。道端に、人間でいえば腰のあたりで大きなこぶをつくっている木がある=写真。病気?にしては、木がしっかりしている。病気とは違うなにか?

 気づいたのは15年、いや20年前だったか。最初、おやと思い、そのあと、ときどき写真を撮ってきたが、ここ何年かは通り過ぎるだけだった。車を止めてじっくり見る。サルが腰をかけられるほどに肥大していた。

 人間にも“こぶ”ができる。よく知られているのは「こぶとりじいさん」だ。良性腫瘍だから元気でいられたという“診断”がネットに載っている。同じように良性だったのだろう、父親も腰に大きなこぶがあった。

右わきだったか左わきだったか、今では記憶があいまいだが、幼いころは当たり前のようにこぶを見ていた。が、自分にも兄にも母親にもない、と知ったあたりから、ふんどし姿になった父親の腰にあるこぶが気になってしかたがなかった。触ったりしたかもしれない。

 後年、父親はそのこぶを除去したように記憶している。脂肪の塊だったか。木のこぶから久しぶりに父親のことを思い出した。

2017年3月6日月曜日

種屋さんが移ってきた

 県道小名浜四倉線は昔からの海岸道路だ。小名浜から永崎、豊間、沼ノ内、藤間を過ぎ、夏井川河口から2番目の橋(六十枚橋)を渡ると、平・下神谷(かべや)地内に入る。国道6号まですぐ、というところにインド料理店マユールがある。その手前に、今年(2017年)になって種苗店がオープンした。なにか聞き覚えのあるような店名だ。先日、マユールからの帰りに寄ってみた。
「前はどこにあったんですか」とカミサン。店主が平の「松尾病院のそば」と答える。ピンときた。「いわき一本太ネギ」の生産者・塩脩一さん(平北白土)がよく言っていた種屋さんだ。「塩さん、来たばかりですよ。親戚かなにか?」「いや、ネギのことをいろいろ教えてもらったんです」「種、ありますよ」「ええっ!?」。勢いで、「いわき葱」(いわき一本太ネギ)の種を買った=写真。

 塩さんは篤農家だ。昔からの「いわき葱」のほかに、キュウリやトマトを栽培している。

 キュウリは、白い粉をふくブルームにこだわっている。白い粉をふくのは、キュウリ自身が水分の蒸散を防ぐためだ。表皮は薄い。糠漬けにするとすぐ漬かる。シャキシャキしてうまい。毎年、百何十本という苗を、種屋さんを通じてメーカーに特注すると言っていたのを思い出す。その種屋さんが近くに引っ越してきた。

 もう15年ほど前になる。塩さんの畑から、廃棄された葱坊主をもらい、種を採って栽培したことがある。私が夏井川渓谷の隠居で栽培している「三春ネギ」と同様、秋に種をまいたら、春に葱坊主ができた。「『いわき葱』は春まき。秋にまいたら春に葱坊主ができる」とは、あとで塩さんから教えられたことだ。種をまく目安は、「三春ネギ」は10月10日、「いわき葱」は4月10日。

 念のために言っておくが、「いわきねぎ」のブランド名で売られているネギと、塩さんが栽培している地ネギの「いわき葱」は別物だ。
 
 種屋さんの話に戻る。ホームセンターなどと違って、見たこともない種をたくさん売っている。見るだけでも楽しい。
 
 ただ、「いわき葱」の種を買ってはみたものの、どこで栽培したらいいか迷っている。渓谷の隠居の庭では、「三春ネギ」と交雑してしまう。わが家の庭か、近所の故義伯父の家の庭か。種まきまで1カ月。土を「掘る」ではなく、「盛る」やり方もいいかもしれない。

2017年3月5日日曜日

ハヤトウリのみそ漬け

 最近、気に入った食べ物がある。ハヤトウリのみそ漬け=写真。いわき市三和町の直売所「ふれあい市場」で売っていた。
 ハヤトウリの糠漬けは、もらって食べたことがある。つくったこともある。が、みそ漬けは初めてだ。細かく刻まれたハヤトウリをごはんにのせて口にしたときの、みその香ばしさ、ハヤトウリの味と歯ごたえ。舌が躍った。

 ハヤトウリが生(な)るのは秋だから、糠漬けもみそ漬けも秋以降の食べ物ということになる。私は、ハヤトウリを栽培したことはない。インゲンやキュウリと同じく、ハヤトウリも旬がくると一気に生る。あちこちから「食べて」と届く。今までは糠漬けにすることしか頭になかった。
 
 夫婦2人が食べるだけの家庭菜園の場合、キュウリの苗を4本も定植すると実が余ってしまう。そんなときには古漬けにする。塩漬けでも糠漬けでもいい。漬物床に寝かしておく。あとで古漬けを水につけて塩を抜き、刻んで食べるか、みそ床に漬けこむ。ハヤトウリのみそ漬けもそうしてつくるのだろうか。

 ネットで検索すると、最初に出てくるのは簡単なやり方だ。塩水に10分ほどつけて水分を拭き取ったら、みそ床に入れる。これだけ。サラダ感覚のみそ漬けのような気がしないでもない。三和のみそ漬けは、キュウリと同じやり方でつくっているのではないか。
 
 きょう(3月5日)は午後、いわき昔野菜のひとつ、小豆の「むすめきたか」を調査したいという首都圏の女性に会い、同野菜保存会の仲間と一緒に三和へ行く。「ふれあい市場」にも寄る。パック入りのハヤトウリのみそ漬けがあれば、まとめ買いをしよう。つくり方も聞いておこう。

2017年3月4日土曜日

ジンチョウゲの花が咲く

 庭のジンチョウゲの花が咲き出した。3月に入ると濃紅色のつぼみがはじけて、次々と白い十字の小花を広げるようになった=写真。まだ香りが漂うほどではない。去年(2016年)は、2月下旬には咲き始めた。いつもは3月も半ばになってからだから、去年よりは遅いが例年よりは早い。
 花は早かったり遅かったりしても、人間界はそうはいかない。3月は学校年度や行政の会計年度のしめくくりの月。わが区内会も月末の総会に向けて準備が始まった。
 
 きのう(3月3日)は、近くの平六小で6年生の「同窓会入会式」が行われた。区長はOBでなくても充(あ)て職で同窓会の幹事になっている。ほかの役員とともに参加した。こういう行事はたぶんほかの学校にはない。
 
 彼らは東日本大震災が起きた直後に入学した。それからまる6年。卒業生は祖父のような同窓会役員と対面し、開校から140年余、卒業生1万400人余の歴史と伝統を受け継ぐ新OB・OGとしての思いを新たにしたことだろう。

 午後はいわき地域学會の用事でマチへ出かけ、ついでに確定申告会場に寄って申告書類を持ち帰った。私は毎年、源泉徴収の「還付申告」をして、焼酎の田苑ゴールド数本分くらいのカネを戻してもらう。

 帰宅すると、区内会の会計さんから電話が入った。夏井川水系河川改良促進期成同盟会がある。関係する区が負担金を出している。今年度の領収書がないという。夏の総会に出席し、負担金を払った記憶がある。役所に電話すると納金の確認が取れた。領収書を再発行して郵送するという。足を運ばずに済んだのはありがたい。

 来週もいくつか予定が入っている。バタバタしているうちに3・11が過ぎた、となるのがいい。

 きのうはマチからの帰り、いつもの夏井川左岸の堤防ではなく、対岸の県道甲塚古墳線を利用した。夏井川に新川が合流するあたりでハクチョウが休んでいる。県道では川岸にせり出すように道路拡幅工事が行われている。そちら側から左岸寄りにいるハクチョウをチラッと見た。

 ジンチョウゲが満開になり、香りが漂うころには、ハクチョウたちも北へ帰る。人間界では6年生が小学校を巣立つ。同窓会入会式が終わったあと、卒業式の案内をもらった。

2017年3月3日金曜日

狆引き官女

 きょう(3月3日)は桃の節句。カミサンはきのう、同級生2人と昼食会を開いて一日早い「雛(ひな)祭り」を楽しんだ。おとといは、いわきで初めて「つるし雛」の展示会を開いた西日本生まれの女性がご主人とやって来た。カミサンと雛人形の話で盛り上がった。
「狆(ちん)引き官女」という言葉を初めて知った。カミサンが持っていた=写真。高さは約15センチ。狆をひもで引きながら散歩する官女、といった風情だ。犬は安産の守り神。「狆引き官女」は明治時代から昭和初期にかけて作られた近代の雛人形だそうで、西洋風の帽子までかぶっている。

 ネットで検索すると、真っ先に画像が現れる。帽子をかぶった「狆引き官女」はなかった。あとからだれかが加えた可能性はないのだろうか。それをいうと反撃されそうなので黙っているが。

「つるし雛」も、いわきでは最近聞かれるようになった言葉だ。平の商家などでは「つるし飾り」といっていた。10年近く前、カミサンの親戚でもある女性が主宰している「押し絵」サークルの作品展が開かれた。女性の創作の原点という、生家(老舗薬局)の「つるし飾り」も展示された。初めて昔のいわきの「つるし飾り」を見た。そのときの拙ブログの一部。

 ――芽吹いて間もないヤナギの枝に、動物や兵士や、江戸時代の若者や娘や、やっこなどの押し絵がさがっている。平の商家では昔、仕事を終えた夜、人が集まって雛祭りに飾る押し絵を作ったという。

 いわき地方の「つるし飾り」については、(平出身の)山崎祐子さんが編集した『雛の吊るし飾り』(三弥井書店・平成18年刊)が詳しい。山崎さんは、祖母が所有していた「つるし飾り」97点(「お志ゑ雛様 おつるし物」と書かれた箱に入っていた)について、概略を記し、1点1点の目録を作成した――。

「お志ゑ」は「押し絵」の当て字で、つるし飾りを「(お)つるし物」ともいっていたことがわかる。

 桃の節句の次は端午の節句。孫が嫌がるフランス人形たちが床の間から消える日も近い。

2017年3月2日木曜日

夜のV字谷を行く

 浜通りで震度5弱の地震があった2月28日の晩、夏井川渓谷で土砂災害防止法に基づく基礎調査結果の説明会が開かれた。1月下旬、渓谷の集落に説明会の開催を告げる回覧があった。地元の区長さんに教えられた。隠居が「土砂災害警戒区域」にかかりそうなので、会場の江田・牛小川集会所へ出かけた。
 同法は平成12年に成立し、これまでに3回改正されている。背景には、温暖化で大雨が頻発し、土砂災害が増えていることがある。県が土砂災害の恐れのある区域について基礎調査をし、区域指定をする。そのための説明会でもあった。

 県いわき建設事務所と市の職員が資料=写真=に基づいて説明した。平成26年8月、広島県で大規模土砂災害が起きた。これを受け、県の調査を踏まえて、いわき市の防災マップ(改訂版)に「土石流危険渓流」「同危険区域」が加えられた。
 
 説明会が始まるまで、地元の知人と雑談した。友人からはみやげに焼き芋をもらった。
 
 きのう、3月1日も宵に隠居へ車を走らせた。この日も午後遅く、震度3の地震があった。
 
 隠居の近所のTさんから電話が入った。「井戸のポンプのモーターが動いて熱を持っている」。それは承知していたが、こちらの危機感が鈍っていた。以前、同じような状態になり、同級生でもある「水道のホームドクター」に電話したら、「すぐ電源を切れ」といわれたことを思い出す。
 
 スイッチは隠居のなかにある。行くのはあした、まずは晩酌――とこたつに戻ったら、声が飛んだ。「晩酌よりモーターでしょ!」。二日続けて夜のV字谷を往復した。
 
 夜の運転がきつくなっている。視野が狭まった感じがする。マチはまだ明かりが多いからいいが、渓谷はガードレールの支柱に付いた反射材が誘導する程度だ。対向車量とすれ違うのにも神経を遣うようになった。
 
 せっかく渓谷の夜道を走るのだからイノシシに遭遇したいものだと思ったが、二晩とも路上に動物の姿はなかった。

2017年3月1日水曜日

3月を告げる夕べの5弱

 3月になった。あと10日でまる6年。ふだんは意識の底にある東北地方太平洋沖地震・大津波、原発事故の記憶が、いやでも浮かび上がってくる。そのうえ、時折、大きな余震に見舞われる。 
 きのう(2月28日)夕方4時49分、強い地震があった。あのとき、いわき市では震度6弱だった。1か月後、いわきの内陸を震源に同じ6弱の余震がおきた。その後は、震度が下降線をたどりながらも、時折、はねあがって5弱を記録する。きのうも浜通りは5弱だった。
 
 悲しいかな、この6年間で、体で震度が推し量れるようになった。それほど地震が続いている。震度3までは「おや、きたな」、震度4は「おっ、きた!」、5弱は「おおっ!」。きのうは「おっ」と「おおっ」、4から5弱の間と思われた。その前日、暦が26日から27日に替わったばかりの真夜中、寝入りばなを起こされた。震度4だった。
 
 きのうは、カミサンがすぐ石油ストーブを消し、玄関の戸を開けた。私は、こたつに入り込んだままだった。腰を痛めていたので、機敏に動けない。それで逆に、地面を伝わってくる音と振動に肝を冷やした。
 
 すぐテレビ(NHK)をつける。国会中継をしていた。少したって字幕が表示される。震源は福島県沖、津波の心配はない。それからゆっくり立ち上がってトイレへ行くと、階段の本が10冊近く落下しているのがわかった=写真。
 
 あとで福島地方気象台のホームページで確かめる。浜通りは震度5弱だが、いわきは4だった。わが家では、4より5弱に近かった。