2017年3月13日月曜日

震災遺族の追悼の辞

 きょう(3月13日)も草野心平がらみの話で恐縮なのだが――。
 おととい、3月11日はわが家で「午後2時46分」を迎えた。テレビで政府主催の追悼式を見ていたところに、たまたま友人が来た。すぐ2時46分になった。カミサンを含む3人で黙礼し、テレビを消して雑談を続けた。
 
 友人が帰ったあとにテレビをつけると、遺族代表の「追悼の辞」が行われていた。福島県の代表は……驚いた、川内村の石井芳信さん(72)だ。阿武隈の山里の人間がなぜ? 原発避難を始めてすぐ入院中のお母さんが亡くなった。知らなかった。

 石井さんは村役場のOB。いわき地域学會が発足して間もなく、村から『川内村史』の編纂事業を受託した。村側の窓口が石井さんだった。会員が休日を利用して川内村へ調査に通った。「幕末の村の俳諧」と「天山文庫の草野心平」が担当の私も、何度か仲間と一緒に村へ出かけた。合間に石井さんの自宅へ寄ったり、石井さんの親戚の家で「川内の食」を体験したりした。震災当時は村の教育長。今は天山祭り実行委員長を務めている。
 
 おとといのテレビで石井さんの追悼の辞を耳に刻み、きのうの福島民報でその全文を胸に刻んだ=写真。「母の姿 忘れられず」。朝日新聞1面の記事でようやく当時の様子がわかった。
 
 石井さんは言う。「私の住んでいる川内村は(略)東京電力第一発電所の事故のため全村避難を余儀なくされました。/私の母は、震災当時、原子力発電所のある大熊町の病院に入院しておりましたので当然避難を強いられました」
 
「数日間入院先の病院からも何の情報も入らず安否を心配していましたが、いわき市のある高等学校に移送されたらしいとの情報が入り、妻と駆け付けました。/そこには白い布に覆われ変わり果てた母の姿があり、妻が亡き母の顔に頬ずりし涙を流していた様子は、今でも忘れることができません」
 
 実はおととい、いわき市立草野心平記念文学館で事業懇談会が開かれ、終わって川内村の公民館長さんと雑談した際、石井さんの話になり、「元気ですか」「元気です」「よろしくお伝えください」といったやりとりをしたばかりだった。帰宅してテレビをつけたら、石井さんが追悼の辞を述べていた。
 
 死者1万5893人、行方不明者2553人、震災関連死3523人――統計からは東日本大震災の被害規模の大きさがわかる。が、大事なのは2万1969に及ぶ個別・具体の人生が突然断ち切られたことだ。まる6年経過して初めて、石井さんの悲憤に触れる思いがした。

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