2017年3月21日火曜日

埋め墓と参り墓

 春分の日のきのう、カミサンの実家の墓参りをした。墓はもちろん、寺の墓域にある。3連休を利用して、土・日曜日に墓参をすませた人が多かったのだろう。彼岸の中日にしては車の流れがスムーズだった。
 遺体を埋めた墓とお参りする墓が別々になっているところがあるそうだ。民俗学でいう「両墓制」で、先日、若い人が来て話していた。『いわき市史』第7巻(民俗編)にも、いわき市内の事例が紹介されている。

 その話を聞いた直後、知人で考古学が専門の中山雅弘さんから恵贈にあずかった『近代考古学研究論考』(前原文庫、2017年1月刊)を読んでいて、両墓制に関する記述に出合った。

 いわき市域にみられるという両墓制の中身は――。明治以後、政府の法令や日露戦争後の地方改良運動によって、結果として両墓制に類似した形態をとった可能性がある。それを踏まえて再検討されるべき。一方で、いわき市平沼ノ内・薄磯、江名などの海岸部にみられる「埋め墓・参り墓」については両墓制の可能性がある。中山さんは、両墓制と両墓制モドキは分けて論じるべき、とした。
 
 磐越自動車道建設に伴って阿武隈高地東縁(いわき市三和町)で発掘調査が行われた。中山さんらが担当した。その事例と聞き取りを重ね合わせると、両墓制モドキの実態がみえてくる。

「墓標を持たない近世墓は、本来屋敷脇の畑地や畦(あぜ)などに自葬されたものであり、せいぜい小さな自然石を置くか、墓標があっても近代になって墓標(石製・木製)のみが檀那寺や共同墓地に移動したために墓坑のみ取り残されたものであるといえよう」

現象的には埋め墓と参り墓が併存しているようにみえても、本質的には両墓制モドキかもしれない、という慎重さが調査者には求められる。
 
 さて、現代の埋め墓の話だ。私は、よそからいわきへやって来た人間で、ここに骨を埋めると決めたあと、自分の「ついのすみか」を確保した。海の見える石森山の寺の墓域にある。カミサンは「歩いて墓参りには行けない」という。ならば、埋め墓とは別に、ふもとのどこかに参り墓を設けてくれよ、なんては言わない。
 
 墓を持たない人もいる。無縁化して荒れたままの墓もある。墓があってもお参りに行けない地域もある。
 
 震災後、死者と生者の関係に思いを巡らせることが多くなった。原発避難を強いられた双葉郡の墓はどうなっているのだろう。お参りができなくて、先祖に申し訳ないと思っている人が少なくないのではないか。心ならずも避難先にすまいと墓を移した、という人もいる。
 
 きのうの彼岸の中日、ふるさとの兄から連絡が入った。神奈川県で暮らしていた姉が息を引き取った。享年77。来週、ふるさとの実家の墓に骨を埋葬する。子どもたちにとっては遠いとおい埋め墓になる。

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