2017年5月30日火曜日

「地球は四角い」

 朝日新聞で作家の多和田葉子さんの随筆「ベルリン通信」が始まった=写真。
 東京からベルリンへ戻り、空港でタクシーに乗る。若い運転手は珍しくドイツ人だった。日本からの客だと知ると、運転手が話しかけてきた――というところから文章が始まる。

「福島の原発事故って本当は起こらなかったんですよね」「あれは事故に見せかけてイスラエルが秘密兵器の実験を行ったんですよね」。それだけではない。「広島に落ちたのも本当は原爆じゃなくて普通の爆弾だったんですよね」。多和田さんならずとも、のけぞった。インターネットに書いてあったという。

 多和田さんは危機感を募らせる。「今ドイツ社会がゆらいでいるのは、難民をうけいれたからでもテロ事件が起こったからでもない。保守も革新も同意していた歴史の輪郭が次の世代に伝わりにくくなってきたからだ」
 
 インターネットにはファクト(事実)もフェイク(虚実)も同列で存在する。ネットの海をさまよっているうちに、虚構を虚構としてではなく、ほんとうのこととして受け入れる、つまりは原発事故も原爆投下もなかったと信じ込む人間が現れた、ということなのだろう。

 震災後、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきに交流スペース「ぶらっと」を開設した。そこで、今もつきあいのある人々と知り合った。フランス人の写真家デルフィンもその一人だ。震災2年目の暮れ、デルフィンがベルリンの多和田さんの自宅を訪ね、それが縁で多和田さんが福島を訪れた。

「2013年夏、Dさんがいわき市に住むTさんを紹介してくれて、その方の案内で(中略)たくさんの方々から貴重なお話を聞かせていただき、感謝の念でいっぱいだった」(講談社PR誌「本」2014年11月号)。福島に足を運んだ結果、「『献灯使』という自分でも意外な作品ができあがった」。
 
 いわきで二度、多和田さんにお会いした。会食の席に呼ばれた。比喩が独特だった。以来、多和田さんの文章をじっくり読むようにしている。「ベルリン通信」では、タクシーを降りるときの、いわば「捨てぜりふ」が痛快だった。

 歴史の輪郭、つまりは人類全体の記憶が溶解したような若い運転手にいう。「ところで地球が本当は四角いってご存じでしたか? インターネットに書いてありましたよ」。しかし、運転手には皮肉は通じなかったようだ。

2017年5月29日月曜日

イノシシの破壊力

 夏井川渓谷はどこを見ても緑、緑、緑。季語でいう「万緑」の一歩手前だ。隠居に着いてすぐ庭をひと巡りしたカミサンが、けげんな表情になった。「なに、この穴は?」
 隠居の庭は二段になっている。石垣の下の庭は、正確にはヨシ原だ。地中の水分が多いらしく、放置しておくとヨシが生える。で、年に2回は業者に頼んで草を刈る。ヨシが1メートルほどに生長した。すでに一面緑に覆われている。

 その緑の一角、石垣のそばが畳2枚分くらいほじくり返されていた=写真。“犯人”はわかっている。イノシシだ。頑丈な吻(ふん)で土を掘り、石を飛ばしてミミズを食べたのだろう。ヨシの地下茎が切断されてむき出しになっていた。

 隠居のある牛小川は戸数10戸ほどの小集落だ。JR磐越東線に沿って県道小野四倉線が伸びる。県道の土手が穴だらけになっていたときがある。丸い足跡があった。イノシシだった。破壊力がすごい。森を巡れば、黒い碁石を大きくしたようなイノシシの糞に出合う。線路の上の畑はトタン板で囲われ、そばの水田には最近、イノシシ除けの柵が設けられた。渓谷はイノシシの王国だ。

 先日、ついにここまで――というニューズに接した、警備会社が双葉郡内を主に、福島県内でイノシシ捕獲事業に参入することになった。市町村から仕事を受注するという。そのためにスタッフ7人が「わな猟」の免許を取った。

 わが家のある平・中神谷地区は、常磐線と夏井川の間に市街が形成されている。イノシシが最近、常磐線を越境して市街に出没するようになった。同じ地区の山の手の行政区では農作物被害が相次ぎ、免許を持つ住人がわな猟を行っている。行政から報奨金が出る。これまでにかなりの数のイノシシを捕獲したようだ。
 
 隠居の下の庭の話に戻る。もともと遊休状態のスペースなので、ほじくり返されても実害はない。むしろ、もっと広くラッセルしてくれたらいい、そうすれば草刈りを頼まなくてすむ――という点で、カミサンと意見が一致した。しかし、なぜそこなのだろう。ミミズのほかに、ゴロンと横になって休む場所にした?

2017年5月28日日曜日

芽ネギを食べる

 きょう(5月28日)は夏井川渓谷の隠居で「三春ネギ」の苗を定植する。
 3週間前、菜園に溝を切り、石灰を施した。でも――。そばに大きくなったシダレザクラがある。菜園の真ん中に高田梅がある。西の敷地の境界にはカエデがある。
 
 先週の日曜日(5月14日)午後、高田梅が溝に影をつくっていた、午前はシダレザクラの影が差す。頭の中の“設計図”を練り直さないといけない。
 
 溝は東西に切った。シダレザクラと高田梅に近すぎた。午後の太陽の軌道を考えれば、南北方向に溝があってもいい。どこにその溝を切るか、太陽の位置と木を見ながら考える(太陽は、きょうの午前中は雲に隠れたままのようだが……)。

 三春ネギは、いわきの平地のネギと違って秋まきだ。昨秋、苗床をつくって「すじまき」にした。余った種はそのわきに「ばらまき」にした。越冬した直後は、「ばらまき」の苗の勢いがよかった。が、春が終わるころには、「すじまき」組がぐんぐん大きくなった。鉛筆くらいに太くなり、丈も40センチ前後に生長して、定植時期を迎えた。

 できるだけ間隔をあけるようにして「すじまき」をした。それで間引きの必要がなかった。「ばらまき」の方は密生状態で、育ちが悪い。このごろは隠居へ行くたびにごっそり間引きをする=写真。昔、近所の住人から「芽ネギを食べるために育てているのかい」と冷やかされた。「そうです、握りにのせて食べます」なんてウソはつかなかったが。

 溶き卵にまぜて焼く。味噌汁や即席ラーメンに加える。ほとんど食感はないが、緑色が鮮やかだ。舌よりも目が喜ぶ。

 きょう、苗床を崩して定植すれば、芽ネギも終わりになる。畑に打ち捨てておくよりは、ちゃんと胃袋に入れてやらないと――。かなりの量が出るはずだから、今夜はカツオの刺し身のほかに、芽ネギをマヨネーズで生食してみようか。シャキシャキ感がたまらなかったりして。

 追記=午前9時前には太陽が顔を出した。「燦(さん)として焼くがごとし」。熱中するな、と言い聞かせる。

2017年5月27日土曜日

足裏が少しきれいに

 ちょうど1週間前(5月20日)のNHK「おはよう日本」で、シリア内戦を避けて隣国レバノンで民族楽器「ウード」をつくっている職人が紹介された=写真。
 ウードは撥(はつ)弦楽器だ。形が琵琶に似る。シリアと違ってレバノンは湿度が高いらしい。ウードには乾燥した木材が必要だが、レバノンではそれが手に入りにくいのだという。

 同じシリアの「アレッポのせっけん」を思い出した。カミサンが、店でこのせっけんを扱っている。一時販売を中断していたが、震災後、輸入会社から連絡が入り、再開した。輸入会社が取引している製造業者は空爆下のアレッポを脱出して、ラタキアへ移った。せっけんは2~3年、寝かせる。まだアレッポ時代の在庫があるということだった。

 アレッポはシリア最古のまち、ラタキアはアレッポの南西に位置する港町だ。レバノンはラタキアの南方にある小国で、西は地中海、北から東はシリア、南はイスラエルに接する。

 アレッポのせっけんを使っているワケは簡単だ。シャンプーで頭を洗うと2日後あたりからかゆくなり、フケがこぼれ落ちる。アレッポのせっけんに切り替えたら、フケ・かゆみが止まった。今風に言えば、ヘアケアとボデイケアに有用なせっけんだ。

 それだけにとどまらない。昨年(2016年)、同じNHKの朝の番組で知ったのだが、足の裏を洗うと潤いが出てくるという。知らなかった。足裏は触りもしなかったから。
 
 アレッポのせっけんで足裏も洗いはじめる。と、変化があらわれた。細胞が死んで角質化し、ひび割れができたりボロボロに皮膚がはがれたりしていたのが、次第に治まった。冬場はこたつを使うので、足が乾いてカサカサ度が増す。それでも足裏は安定していた。ツルツルまではいかないが、角質が消えてやわらかくなった。横文字を使えば、フットケア。アレッポのせっけんの“薬効”を実感している。
 
 東日本大震災とシリア内戦はほぼ同時に起きた。今なお、避難民はふるさとを追われたまま。体をうるおすアレッポのせっけんも、心を慰めるウードも、風土の異なる土地での生産を余儀なくされている。戦争は庶民の生業と生活を破壊する。戦争は壮大なムダ――ときどき、アレッポのせっけんを通して、そんなことを思う。

2017年5月26日金曜日

玉ネギドレッシング

 鶏卵・豆腐・納豆・ドレッシング。単品で宅配してもらっている食品だ。カミサンに代わって品物を受け取るときがある。鶏卵と豆腐は週1回、納豆は月1回。いずれも生産者が持ってくる。
 ドレッシングも月1回届く。先日、初めて生産者の顔を見た。元シェフだそうだ。ドレッシングの入っているペットボトル=写真=のラベルにこうある。商品名:分離液状ドレッシング。原材料名:食用植物性油脂、穀物酢、玉ネギ、ニンジン、砂糖、食塩、ニンニク、胡椒(こしょう)など。ボトルを逆さにして、シャカシャカやってから使う。
 
 生産者とカミサンのやりとりをたまたまそばで聞いた。「新玉(ネギ)を使っているのでサラッとしています。お客さんのなかには『とろみ』が少ないという人もいます」。なるほど、工場で生産する食品とは違うのだ。季節によってサラッとしたりトロッとしたりする、手づくりのオリジナルドレッシングなのだ。

 震災直後から5年間、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきで支援活動を展開した。わが家の近くの伯父(故人)の家を宿舎に、スタッフが常駐した。ときどき、わが家へ酒を飲みに来た。カツオの刺し身と同じくらいに喜ばれたのが、いわきの萩春朋シェフのつくった「昔きゅうりのピクルス」と、このドレッシングだった。ほかにも何人かファンがいる。

 ボトルに入っているときはオレンジ色だ。ニンジンの彩りがあたたかい。サラダに使う。玉ネギとニンジンのうまみに、それとはわからないニンニクと胡椒の風味がまじりあった穏やかな味。飽きがこない。サラダを食べたあとには、残ったドレッシングをすする。ジューシーな味が舌を喜ばせる。

 震災による原発事故で、卵の宅配を受ける人が減った。データで「安全」とわかっても「安心」の出来ない人がいる。その一方で、新たに宅配を希望する人も出てきた。このドレッシングはどうなのだろう、とりこになる人がいるかもしれない。もっとほしい、といえば増産してくれるのだろうか。

2017年5月25日木曜日

青天目澄子は「食べる人」

 朝ドラの「ひよっこ」を昼(再放送)も見る。朝、よくわからなかったセリフ、特に「小名浜中」卒の青天目(なばため)澄子の、重くくぐもった言葉が、1回聞いただけではわからないときがある。
 今は――向島電機で繰り広げられる、昭和40(1965)年夏の乙女たちの青春編、といったところか。同じ年に17歳だった身には、小道具や挿入歌のひとつひとつが生々しい。しかも、「きのう」どころか「さっき」のことのように、当時の情景がよみがえる。昭和40年代を知らない若い視聴者と、当時ハイティーンだった団塊世代の「二兎(にと)を追う」作戦のようだ。

 真夏、工場の生産ラインで乙女たちが首にタオルを巻いてトランジスタラジオをつくっている。同じように、超高層ビルなどの建設現場のアルバイトには、タオルが欠かせなかった(今もそうだろうが)。
 
 歌謡曲が最後に燃え上がった時代でもある。美声の春日八郎や三橋美智也らとは別に、美少年歌手の人気が沸騰した。橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」(昭和37年)、三田明の「美しい十代」(昭和38年)、舟木一夫の「高校三年生」(昭和38年)、少し遅れて西郷輝彦の「星のフラメンコ」(昭和41年)に酔いしれ、なりきって歌った。
 
 きのう(5月24日)のラストシーンでは、夕日に照らされたなぎさで“茨城巡査”の綿引クンが♪アイ・ラブ・ユー……と歌い出す。そこに、原曲の加山雄三のラブソング「恋は紅いバラ」(昭和40年の映画「海の若大将」主題歌)の♪アイ・ラブ・ユー……が重なる。きたきた、次は「君といつまでも」(昭和40年)だな――。
 
 美少年歌手がアイドル化する一方で、グループサウンズがはやり、フォークソングの波が押し寄せてきつつあった。自分で歌をつくる人間が増えていた。加山雄三は、その代表的な存在だ。「君といつまでも」は、やはり昭和40年、映画館で見て覚えた。ほかにも、当時のヒット曲が次々に登場する予感が広がる。
 
 澄子の話に戻る。よく食べる。カレーライス(当時は「ライスカレー」と言っていた)から始まって、バナナ=写真=を食べ、きのうはつまみ食いをして、おむすびまで手に持っていた。
 
 そのころ、叔父が小名浜に住んでいた。義叔母の名前はスミ子。娘が3人いた。いとこたちだ。長女は私より2歳上、次女は1歳下、三女は4歳下だったか。年齢的には、澄子は次女の同級生、ということになる。胸の底で化石化していたはずの“青春”がうごめきだして、コントロールがきかない。

2017年5月24日水曜日

シイ・カシの花

 週に1回、いわきニュータウンへ出かける。国道6号の常磐バイパスを利用する。道沿いの小丘群に点々と黄色いかたまりが見られるようになった。木の名前はわからない。が、スダジイやアカガシなどの花だろう。
 ふだんは主に夏井川流域内を動き回っている。いわきの海岸~平地(暖温帯)は、シイ・カシなどの照葉樹が目立ち、阿武隈高地(冷温帯)は夏緑樹、その中間の夏井川渓谷(中間温帯)はモミ・イヌブナなどが優先する。全山緑となったこの時期、黄色い花のかたまりでシイ・カシ類の分布域がわかる。

 海岸寄り、田んぼの中の小集落を照葉樹が守っている。樹冠を黄色く覆う花がブロッコリーのようだ。内陸=平地のどんづまり、小川の町は、集落の裏山が小丘になっている=写真。メッシュが入ったように黄色いのは、シイ・カシの花。その奥、二ツ箭山は中腹まで人工の杉林が多いこともあって、黄色い点々は見られない。ここらへんが暖温帯の終わるところ、中間温帯との境目、あるいは冷温帯の始まるところなのだと知る。

 若いころ、年に何回か阿武隈の植物を見て回る「山学校」に参加した。いわきに住む植物研究の第一人者(元高校教諭)が先生を務めた。植物の南限・北限を意識するようになった。キノコにも南方系と北方系がある。いわきでは、その両方が見られる。海もしかり。黒潮と親潮がぶつかる“おいしい海域”だ。

 釣りをしないので、大きい声ではいえないのだが、自然を丸かじりするのにいわきほど面白いところはない。

 自然は最大・最強のメディア、そして最も正直なメディアだ、と私は思っている。自然が発する情報に目を凝らし、耳を澄ます。鼻で嗅(か)ぎ、舌で確かめる。暑い、寒い、荒い、穏やか、きれい……。それらをベースに、人間と人間の間を飛び交う情報を吟味する。自然にはファクトがあるだけ。フェイクは通じない。

2017年5月23日火曜日

「いわきの郷土史を知りたい」

 きのう(5月22日)も暑かった。午後1時半ごろ、いわき駅前を通ったら、デジタル表示盤が「31度」を示していた。ギャラリー界隈の阿部幸洋新作絵画展が最終日を迎えた。カミサンは今回、まだ阿部と会っていない。作品を見に行くついでに、駅前に寄り道をした。気温を確かめるのが目的だった。 
 阿部はいわき出身で、スペインに住んでいる。亡くなった奥さんが、小さいころからかわいがっていた青年がいる。奥さんが急死した5カ月後、阿部と一緒に日本へ、いわきへやって来た。
 
 ラザロという。頭脳明晰な青年だ。英語はディズニーのアニメ映画で学んだ。日本語も滞日中、日ごとに語彙を増やした。今は34歳だろうか。コンピューターを駆使したアート(漫画もかく)のほか、「3D」の建築デザインなどを手掛けている。
 
 弟がいる。28歳、大学生。夏休みに1カ月ほど日本で勉強したいのだとか。ついてはと、ラザロが言ったそうだ。わが家にホームステイできないものか。ラザロの弟であれば阿部の“身内”も同然だ。断るわけにはいかない。阿部がスペインへ戻ったあと、ラザロから(フェイスブックで)連絡させる、ということになった。
 
 それとは別に、きのう、元職場の若い仲間から電話が入った。フェイスブックのメッセージで連絡した。それを私が見落としていた。「いわきのことを知りたい人がいる。午後3時か4時ごろ、話を聞きにつれて行ってもいいか」

 その人とは、ノンフィクション作家の川内有緒(ありお)さんだった。会ったことはないが、シャプラニール=市民による海外協力の会のスタッフやシニアアドバイザーと交友があるので知っていた。

「バウル」と呼ばれるバングラデシュの吟遊詩人を追った『バウルを探して――地球の片隅に伝わる秘密の歌』(幻冬舎、2013年=第33回新田次郎文学賞受賞)という著書がある。私は詩人、なかでも吟遊詩人に興味があるので、この本は読んでいた。旧知のシャプラの創立メンバーからバウルについていろいろ教わったことが書いてある。

カミサンも、国連職員時代の体験をつづった『パリの国連で夢を食う』(イースト・プレス、2014年)を読んでいた。シャプラは震災後、いわきに交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。東京からやって来たスタッフから、川内さんのことを聞いていたそうだ。
 
 昔の職場の仲間と川内さん(写真右=掲載については2人の了承ずみ)には共通項がある。「万本桜」だ。それはそれとして、川内さんは、母親がいわき市の遠野町上遠野出身だという。いわきのことを本にしたい、ついては自分のルーツであるいわきの郷土史を知りたい、というからには、協力しないわけにはいかない。なにしろ「シャプラつながり」なのだ。
 
 若い仲間は驚いていたが、私には、いつか会うのではないか、という予感があった。これも震災がもたらした出会いのひとつだろう。

2017年5月22日月曜日

今年最高の暑さ

 きのう(5月21日)は夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをした。今年(2017年)初めて半そでの丸首シャツ1枚になり、首にタオルをまいた。キュウリのつるをテープで誘引し=写真、生ごみを埋め、草むしりをする。キュウリの誘引10分、生ごみ埋め10分、草むしり10分――小一時間で作業を切り上げた。
 夜明けから晴れ渡り、気温が上昇した。真夏日になるところが多いと、テレビで気象予報士が言っていた。実際、自宅で丸首シャツの上に長そでをはおったら、すぐ汗ばむ感じになった。家を出るとき、半そでシャツにする?と言われたが、冷房の効いたビルなどへ入ったときにザワッとする。長そでを二の腕までまくって熱を逃すようにした。

「天日燦(さん)として焼くがごとし、いでて働かざる可(べ)からず」。山村暮鳥はヨシノ・ヨシヤ(吉野義也=三野混沌)のこの詩句を、自分の長編詩「荘厳なる苦悩者の頌栄」のタイトルのわきに引用した。太陽の下、大地に二本足で立って、額に汗して、肉体をフル動員して働く。これこそ人間本来の姿なのだと言いたかったのだろう。

 家庭菜園を始めてわかったことだが――。「いでて働くのは、天日燦として焼くがごとしの前でないといけない」。でないと熱中症になってしまう。「天日燦として焼くがごとし、あとは家で寝ていよ」が、ほんとうはいいのだ。夏場の土いじりはいつもこのフレーズを反芻しながら、熱中しないように、熱中しないようにと、言い聞かせる。

 きのうのいわきは、海寄りの小名浜で最高気温が26度、内陸の山田町で26.8度だった。阿武隈の山を越えた西側の中通りは小野新町で31.2度、二本松で33.1度、福島で34.2度。いずれも今年最高だが、福島は特に、館林の35.3度に次いで全国2番目の暑さになった。

 夜は茶の間のガラス戸を開け、丸首シャツ1枚でカツオの刺し身をつついた。もちろん、蚊取り線香を焚いて(わが家では毎年、5月20日前後に蚊が出現し、チクリとやり始める。今年も20日に刺された)。 この“消夏法”は 高度経済成長期の前、昭和30年代までのそれと全く変わらない。にしても、浜通り南部のいわきは夏であれ冬であれ、中通りや会津よりはしのぎいい。

2017年5月21日日曜日

俳諧選句集『桜川』

 いわき地域学會の今年度(2017年度)の市民講座がきのう(5月20日)、スタートした。夏井芳徳副代表幹事が「内藤義概(よしむね=風虎)が編ませた俳諧選句集『桜川』のうち、『いわき』にゆかりの句」と題して話した=写真。
 義概は磐城平藩内藤家三代目当主。和歌や俳諧をよくした。『桜川』は、その風虎が大阪の俳人松山玖也を磐城に招いて編ませた、全国レベルの選句集。近世初期の延宝2(1674)年に成った。全7000余句、うち磐城(いわき)ゆかりの句は2割ちょっと、という。

 磐城ゆかりかどうかは、主に句の前書きでわかる。「久之浜と云所にて――久の浜の真砂(まさご)の数や御代の春」(風鈴軒)、あるいは「奥州岩城鎌田川にて――若あゆや是もかりとるかまた川」(岡村不卜)。前者は波立海岸を、後者は夏井川を詠んでいる。

 当時の磐城地方の習俗や自然、磐城人の心情などがうかがい知れて面白い。たとえば、「水掛祝」(沼ノ内に伝わる「水祝儀」とイコール)。「うらむともかけてこそみめ水いはひ」(川路繁常)などの一連の句について、夏井副代表幹事は民俗学的な知識と作家的な想像力を駆使して、生きいきと解釈してみせた。

 以下は、資料を読んでの感想――。ウグイスの聞きなしで“発見”したことがある。「うれしなきのこゑや鶯のきちよ吉兆」(釈任口)。ウグイスのさえずりは「ホー、ホケキョ」、これにときどき「ケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ……」の<谷渡り>が入る。江戸時代の人間は谷渡りの「ケキョ、ケキョ」を「吉兆(きっちょう)、吉兆」と聞きなしていた。

 もうひとつの“発見”は「みちのく天狗のかさね石と云所にて――鼻赤し天狗のかさね石の竹」(座頭拙志)。夏井川渓谷の一部、中川渓谷に奇岩「天狗の重ね石」がある。明治の碩学、大須賀イン(竹かんむりに均)軒は「磐城郡村誌十」(下小川・上小川村・附本新田誌)に「天狗ノ重石ト唱フルアリ、石ノ高四丈(以下略)」と記している。この奇岩のことだとしたら、すでに江戸時代も初期のうちから知られていたことになる。
 
 石竹(せきちく)は夏の季語で、中国原産の「唐撫子(からなでしこ)」のことだそうだ。天狗の「赤い鼻」に石竹の「赤い花」を、「かさね石」に「石の竹」を掛けている。親父ギャグの世界といってもいい。
 
 石竹の仲間に「大和撫子(やまとなでしこ)」、つまりカワラナデシコがある。こちらは秋の季語で、単に「撫子」とあればこの花のことを指すようだ。「天狗の重ね石」に石竹が咲いていた(いる)かどうかはわからないが、その奇岩の近くの草原でカワラナデシコを見たことはある。

2017年5月20日土曜日

『いわきの地誌』再び

 書店としては、学術系の本が何十冊も売れるとは思っていなかったのではないか。私も思っていなかった。手前みそながら、いわき地域学會が発行した『いわきの地誌』=写真=が売れているという。爆発的に、ではない。静かに、少しずつ。
 1月下旬、ヤマニ書房本店(いわき平)と鹿島ブックセンター(同市鹿島町)の2書店に販売を委託した。とりあえず20冊を――ということだった。1カ月後、ヤマニから追加の注文があった。それからさらに3カ月弱、いわき民報と福島民報で『いわきの地誌』が紹介された。それで売れ行きにはずみがついたという。両書店から追加注文があった。きのう(5月19日)も朝一番で鹿島ブックセンターに20冊を届けた。

 地誌学とは――と本書にある。自然地理学と人文地理学を、「ある特定の場所、範囲で系統的かつ総合的に記述して、その土地、範囲の全体像を描きながら特性や個性を構造的に示していく分野」の学問だ。

「通常の地理論書に示されるような何処に何があるかという観光案内的な書き方やデータの説明でページを使うというような姿勢が少ないことをご承知おき願いたい」ともある。表紙も情けないほどそっけない。

 出版に当たっては、自己資金だけでは足りないので、いわき市文化振興基金と公益財団法人東邦銀行教育・文化財団の助成を得た。発行部数は本の内容からしてこのくらい、ページ数からして印刷費はこのくらい――となり、最初から原価割れの値段で頒布することにした。

「赤字」は避けたい。「黒字」の可能性はない。助成金がその差を少しでも埋めてくれればいい。で、あとは売ってトントンの「白字」にする。そんな思いで、制度的な助けを受けた。同級生には、飲み会の席で見返りなしの「クラウドファンディング」を持ちかけた。

 その結果、1人の同級生から、そして、いわき市に避難し、友達になった人からも寄付金をいただいた。「白字」になる見通しがたったわけではないが、「赤字」幅がかなり縮小した。もう少しで水中から浮上して息がつける。

2017年5月19日金曜日

V字谷を舞うタカ

 わが生活圏を流れる夏井川で観察した猛禽類(ワシ・タカ、フクロウなど)は、そんなに多いわけではない。
 堤防のそばまで家が立ち並ぶ下流域――。河川敷を散歩していたころは、野ネズミを狙うチョウゲンボウが上空で旋回したり、ホバリングしたりしているのをたびたび見かけた。急に舞い降りた大型の鳥がいるなと見れば、着水して魚をわしづかみにする。海岸から内陸へとやって来たミサゴだ。トビはいつも見られる。
 
 上流の夏井川渓谷――。隠居で土いじりをしていると、ときどき上空から「ピッ、クイー(キッ、ウイー)」、あるいは「ピイー、ピイー(キイ―、キイ―)」という鳴き声が降って来る。「ピッ、クイー」はサシバ、「ピイー、ピイー」はオオタカ。たいてい上昇気流にのって旋回している。

ゴールデンウイーク最終日の5月7日、鳴き声を耳にして、あわてて小さなカメラで撮ったのがこれ=写真。オオタカだろうか。もう1羽いて、つがいで舞い踊っているようだった。
 
 オオタカは、いわきでは留鳥だ。サシバは夏鳥。鳥には鳥のカレンダーがある。飛来時期はほぼ変わらない。が、哺乳類はそうはいかない。いわき市南部に住む後輩がフェイスブックにコメントを寄せた。ゴールデンウイークの終わりごろからサルが出没し、南台・勿来・山田町と巡ってきたようだ、という。
 
 そのサルだろう。いわき市のホームページに「サルに注意」の記事がアップされていた。5月16日=中岡町、植田町根小屋、東田町、佐糠町/同17日=佐糠町、東田町/同18日(きのう)=泉町滝尻、玉露――。サルが目撃された地域だ。南部から中部へと移動している。きょうは常磐、あるいは小名浜?

 昨夜は蚊が現れた。私はわが家をフィールドに、蚊に刺された最初の日と最後の日を記録している。最初にチクッとやられるのは5月20日前後、終わりが10月20日ごろ。ヒトに近いサルと違って、虫も時期がくると間違いなくやって来る。蚊取り線香を用意しないと……。

2017年5月18日木曜日

辛み大根の花

「花も実もある」なんて言葉を、「外見も中身も立派」という意味で比喩的・抽象的にとらえていたときには、花は花、実は実だった。つながりがわからなかった。家庭菜園を始めて、花が咲いて実がなる(花が咲かないと実はならない)ことを知った。キュウリがそう、キヌサヤがそう。ただし、食べる「実」は未熟果だ。大根も花が咲く前に根を引っこ抜いて食べる。
 花が咲く―実がなる―種ができる―種が風や鳥に運ばれる・こぼれる―芽が出る。植物の不思議はこれにとどまらない。地下茎で増えるものもある。ミョウガ、タケノコ、レンコン……。

 夏井川渓谷にある隠居の庭で、会津産の辛み大根を“栽培”している。震災翌年の2012年夏、知人から種の入ったさやをもらった。毎年、さやを収穫する。去年(2016年)、こぼれ種から芽生えたのが生長し、根が見事に肥大した。野性が強いのか、土も耕さず肥料も少ない環境になって、かえって本領を発揮した。

 こぼれ種から芽生えたのを、いわき地方の方言で「ふっつぇ」という。いわき市教委の『いわきの方言(調査報告書)』(2003年刊)に「ふっつぇ=どこからともなく種が飛んできて、知らぬ間に自然に生えること」とある。ミツバやシソはふっつぇで増える。先日、知ったのだが、ジュウネン(エゴマ)もそうだという。

 辛み大根は、4月末には花盛りになった=写真。そろそろさやが形成されることだろう。さやができて乾燥したら、摘みとってばらまくことにしよう。根づくかどうかはわからない。が、とにかく試す。保存しているさやがかなりあるので、失敗してもやり直しはきく。土は今年も耕さない。

2017年5月17日水曜日

阿部幸洋新作絵画展

 ときどき街の画廊へ出かける。作品展の案内状が届く。新聞に記事が載る。自分の興味のある作品展だけではない。カミサンにいわれて「アッシーくん」を務める。車の中で待っているのもシャクだから、のこのこついて行って作品を見る。キルトや焼き物に目を見張ることもある。
 阿部幸洋新作絵画展の案内が来た=写真。初日の5月13日夜、オープニングパーティーが開かれた。場所は平のギャラリー界隈。オーナーとも阿部とも45年以上のつきあいだ。共通のキーワードは「草野美術ホール」。オーナーは喫茶店を開いたばかり。阿部は19歳で同ホールで初個展を開いた。私も新聞記者になって1年にも満たなかった。

 パーティーに参加した20人ほどのうち、3分の1は“同ホールOB”だった。街の画廊でオープニングパーティーを開くのは、私が知っている限りでは、“同ホールOB”でプロの峰丘と阿部くらいだろう。

 阿部は37年前の1980年、結婚と同時にスペインへ渡った。奥さんに支えられて制作に没頭した。その人生のパートナーが2009年秋、急逝する。以後、マネジメントその他の雑用もこなさなければならなくなった。

 阿部が住んでいるスペイン中部、ラ・マンチャ地方のトメジョソに、アントニオ・ロペス・トーレス美術館がある。その美術館で、つまり油絵の本場で3年前、阿部の個展が開かれた。スペイン現代美術の世界で阿部が画家として評価されたことを意味する。

 一貫してラ・マンチャ地方の風物や静物を描く。今度も同地方の建物や路地、壺などを描いた作品を展示した。紫色が印象的だった。「バイオレット? 前から使ってるが、今回は前面に出した」と阿部。
 
 作品を際立たせる紫色から、ムラサキアケビの皮を連想する。「おいしい絵」だ。デフォルメされた木の人間くささ。昔から阿部の絵を見てきた友人と意見が一致した。「メルヘンっぽいね」。静謐な絵画世界なのに、子どもたちの歓声が聞こえてくるような温かさがある。22日まで。

2017年5月16日火曜日

寒暖差アレルギー?

 あの、夏のような暑さはどこへ行ったのだろう。好天のゴールデンウイークから一転、ぐずついた天気が続いている。“青嵐”にも見舞われた。
 ゴールデンウイーク後半に風邪を引いて、2日寝たら治ったと思ったのだが……。鼻水・せき・痰(たん)が止まらない。マスクをすると、鼻水もせきも治まる。熱はない。テレビのニュース番組で知った「寒暖差アレルギー」か。

「神谷(かべや)耕土」がゴールデンウイークを境に、あらかた青田に替わった=写真。山野も若葉・青葉に染まった。

 拙ブログで何度も紹介しているので恐縮なのだが、草野心平の詩に「五月」がある。

 前半8行は「すこし落着いてくれよ五月。/ぼうっと人がたたずむように少し休んでくれよ五月。//樹木たちが偉いのは冬。/そして美しいのは芽ばえの時。/盛んな春の最後をすぎると夏の。//濃緑になるがそれはもはや惰性にすぎない。/夏の天は激烈だが。/惰性のうっそうを私はむしろ憎む。」。

 詩の後半。「五月は樹木や花たちの溢れるとき。/小鳥たちの恋愛のとき。/雨とうっそうの夏になるまえのひととき五月よ。/落着き休み。/まんべんなく黒子(ほくろ)も足裏も見せてくれよ五月。」。この5行が好きで、5月の後半になると、いつも「早く行かないでくれよ、5月」という思いになる。
 
 若いときも5月の天気は同じだったはずだが、年をとった今は5月の寒暖の差がこたえるのかもしれない。ゴールデンウイーク中には半そでにしようかなと思いつつ、夜になると冷えるので、長そでのままでいる。おととい(5月14日)、きのうと、車は暖房、こたつもオンにしている。
 
 13日朝、茨城県鹿島沖で捕れたカツオが小名浜港に初水揚げされた。きのうの月曜日(ふだんは日曜日だが)、いつもの魚屋さんへ行くと、「小名浜に入ったカツオです」という。食べたら身がしまっていてうまかった。漁場が近い分、鮮度がいい。こたつに入って、鼻水をすすりながら、地元初水揚げのカツ刺しをつつく。お湯割りの量がいつもより増えた。「目には青葉」の「初鰹」に、「山ほととぎす」が加わるのも間もなく。

2017年5月15日月曜日

いわき昔野菜保存会会報「ルート」

 表紙の写真は大豆。いわき昔野菜保存会の会報「ROOT(ルート)」第2号が発行された=写真。「いわき昔野菜を知ろう!」コーナーでは、いわきの大豆が紹介されている。常磐藤原町で栽培されている「なっとう豆」を初めて知った。小粒の大豆で、その名の通り、自家消費用に藁苞(わらづと)納豆をつくっていたという。
 会報名の「ROOT」には二つの意味が込められた。一つは「根っこ」。きれいな花を咲かせ、おいしい実をつけるには、強い根が必要だ。「私たち保存会も、強い根をはり地域に根差し、派手ではなくても着実に活動の輪を広げていくことを目指します」と編集後記にある。

 もう一つは、「結びつき」や「ふるさと」を表す「ルーツ」。「「いわきの人々にとってルーツと言える作物を通し、人々を結びつけていきたい、そう願っています」。A3二つ折り12ページ、フルカラーと、見るだけでも楽しいつくりになっている。
 
 平下高久地内に保存会の「昔野菜専用畑」がある。今年度(2017年度)は約50種類を栽培する予定だという。どこにどんな昔野菜を栽培するか、“設計図”が会報に載っている。小豆の「むすめきたか」がある。サツマイモの「太白」がある。いわき市南部の山間地・田人町で栽培されている、地這いの「根室きゅうり」がある。ソバもある。
 
 きのう(5月14日)夕方、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の産業創造館で同保存会の通常総会が開かれた。今年度は新たにそば打ちと納豆づくりをする。体験型イベントで、会員の手でソバと「なっとう豆」の種をまき、収穫・加工・調理をして食べる。
 
 総会後の懇親会では、ある人から「太白」を使った干し芋づくりのプランが披露された。干し芋の本場は茨城県だが、いわき市でも作っている人がいる。甘さ控えめの「いわき干し芋」ができる。昔野菜ならではの少量・季節限定食品になる。
 
 会報にはほかに、「レンコン復活プロジェクト」が載る。渡辺町でほそぼそと栽培されてきたレンコンがある。一度は絶滅したと思われていたのが、種が残っていた。しかし今、それも消滅の危機にある。保存会の手でなんとか絶滅を食い止めたい――暮らしの伝承郷の池を使って復活作戦が進められている。いわきの食のルーツに結びついた活動の輪が、こうしてまた一つ広がった。

2017年5月14日日曜日

ツタの茂る家

 玄関わきの台所の壁にツタが茂る。見た目は涼しげだが……。ちゃちな木造家屋なので、ほっとくとツタで屋根が壊される、なんて事態になりかねない。ツタは常緑のアイビー、つまりセイヨウキヅタだろうか。
 カミサンがツタの剪定を始めた。壁を這い、庇(ひさし)を伝い、屋根にまで茎がからまっている=写真。茎には細根がびっしり生える。これが曲者らしい。ちょっとしたすき間にも侵入する。ここは根元からバッサリやった方がいい。大人の二の腕くらいに太くなった茎を、のこぎりで切断した。
 
 カミサンの記憶では、ある小学校のバザーに出ていた鉢植えを買ってきて、玄関前の雨樋の吐き出し口のそばに植えた。最初は茎が壁を這う程度だったのが、どんどん生長して玄関の屋根から台所の屋根までびっしり緑で覆うようになった。
 
 花どきには虫がいっぱいやって来る。アシナガバチが軒下に巣をつくる。スズメバチも屋根直下にある空気抜きの塩ビ管を出入り口にして、屋根裏に巣をつくる。それだけではなかった。剪定してわかったのだが、茎で壁のトタン板が盛り上がり、雨樋がふさがれ、瓦が持ち上げられていた。
 
 ナガミヒナゲシというオレンジ色の花が今、あちこちの道端に咲いている。爆発的な繁殖力をもつ侵略植物だという。花が咲く前に駆除して拡散するのを防ぐ必要があるという。
 
 度が過ぎると害になるのは、ツタも同じ。鉢植えの観葉植物から露地植えに切り替えた瞬間、野性がよみがえった。はがした茎のあとが黒ずみ、茶色い細根がまだらに残っている。今のままだと見苦しい。茎が乾いて枯れたら壁からはぎとり、ブラシか何かで細根をゴシゴシやってこそげ取らないといけない。

「つたの絡まるチャペル……」のような美しさとは程遠い、木造住宅のツタの現実。郊外にあって人の住まなくなった家も、手をかけないと雑草に囲まれ、つる性植物に覆われて朽ちていく?

2017年5月13日土曜日

白菜漬けから糠漬けへ

 ゴールデンウイークをはさんで、郊外の風景が一変した。ほとんどの田んぼに水が張られた。田植えを終えたところも少なくない。いつものことだが、“動脈”の夏井川は田んぼに水を取られて、ところどころ川底をさらしている。 
 夏井川と田んぼの背景にある小丘群もヤマザクラのピンクが消え、広葉樹の若い緑から針葉樹の黒い緑まで、この時期だけの青葉のグラデーションに変わった。

 わが家の食卓に欠かせない漬物も一新した。冬は白菜漬け、夏は糠漬け――1年の流れを単純化すると、そうなる。

 ゴールデンウイークを目安に糠漬けを始め、糠床が冷たく感じられるようになる12月には、白菜漬けに切り替える。
 
 白菜は小さな甕に漬け込む。2玉、無理して3玉でいっぱいになるので、一冬に4~5回は白菜を買ってくる。八つ割りにして天日に干し、葉の間に塩をまぶして十字に重ねる。段の間には刻んだ昆布とユズの皮、鷹の爪。最後に重しを載せる。数日後にはもう食べられる。糠床はこの間、食塩のふとんをかぶって冬眠している。
 
 今年は暖冬だった。3月半ばに白菜漬けが切れた。春に白菜を漬けると、すぐ酸味が増す。ゴールデンウイークまでの間、スーパーで売っている袋入り、あるいはパック詰めの漬物でしのぐ。ありあわせの野菜で浅漬けをつくることもある。が、なんとなく代用品を口にしているようで落ち着かない。
 
 ゴールデンウイーク後半最初の祝日(5月3日)、糠床を取り出した。食塩のふとんをはぎとり、新しい糠を加えて塩分を調整する。そのために、捨て漬けの野菜を入れる。同時に、キュウリを漬けて“試食”する=写真。カブも、ニンジンも、大根も漬ける。
 
 まだ、塩分が濃い。これから、しゃけの皮や肉じゃがの残り汁などを加えていけば、野菜から染み出た水分と合わせて糠床がゆるみ、風味とうまみが増すだろう。しばらくは糠床との“対話”が続く。

2017年5月12日金曜日

『いわきの地誌』

 いわき地域学會は、変貌するいわきの姿を総合的に調査、研究し、可能な限り正確なデータを次代に伝える――を目的にした市民団体だ。昭和59(1984)年秋に発足した。
 「地域学」とか「地元学」とかいった言葉が一般的ではなかった時代から30年余、総合調査報告書や、会員による新聞連載をもとにした図書、会報など数十冊を世に出してきた。

 その最新の成果として、震災前から構想を練っていた『いわきの地誌』が刊行された。私は立場上「発行人」、つまりは資金繰り担当だ。いわき市は昨年(2016年)、市制施行50年を迎えた。その節目に、地理学的視点でとらえた「いわきの今」を記録に残すことにした。
 
 2011年3月11日、東日本大震災が発生する。大津波が押し寄せた。いわき市の北隣、双葉郡にある東電の原発が相次いで事故を起こした。同郡からいわき市に避難する人が相次いだ。今年2月1日現在、2万3000人余がいわきに避難している。その事実をわきにおいて「いわきの今」は語れない。
 
 ありがたいことに、5月9日付のいわき民報、同11日付の福島民報で『いわきの地誌』が紹介された=写真。『いわきの地誌』は、ヤマニ書房本店(いわき平)と鹿島ブックセンター(同市鹿島町)の2店で取り扱っている。両店から相次いで追加注文を受けた。ガチガチに硬い学術系の本だが、興味を持って買ってくれる人がいる。新聞がさらに後押しをしてくれた。
 
 原発震災から7年目。いわき市にとっては浜通りの連携・共創が課題になっている。そのためにも「いわきの今」を読み取り、「未来」へと考察を深めるテキストとして活用していただけるとありがたい。

2017年5月11日木曜日

草野美術ホールの盟友

 いわきの現代美術の原点といってもいいのが、昭和40年代半ばから10年ほど開廊していた草野美術ホールだ。
 そこに出入りしていた人間とは、40年以上たった今もつきあっている。その一人、スペイン在住の画家阿部幸洋がこの土曜日、5月13日から22日まで、平のギャラリー界隈で新作絵画展を開く。

 別の一人、M子がきのう(5月10日)、お茶を飲みに来た。カミサンとは幼なじみだ。娘さんが始めた花屋の手伝いをしているうちに経営者になった。若いときは墨画を描いた。今はドライフラワーのリースなどをつくっている。何回か作品展も開いた。

 ドライフラワーの話から、ツタンカーメンとヤグルマギクの話になった。ヤグルマギク? カミサンが直売所から買ってきて、床の間に飾ったのが数日前=写真。真偽はよくわからないが、ツタンカーメンの棺にこの花が供えられていたそうだ。

 陶芸家の故緑川宏樹の話も出た。M子が当時やっていたスナックを会場にして、作品を売る手助けをした。

 草野美術ホールは一種の梁山泊だった。作者に出会い、美術を好む人間に出会って、語り合ったり飲んだりしているうちに、次の仕事の協力をしたり、販売の便宜を図ったりする。私生活も含めて、いつのまにか互助のネットワークができていた。
 
 山野辺日出男(画家)が、松田松雄(画家)が亡くなり、緑川卓樹・宏樹兄弟(陶芸家)が亡くなった。M子の友達でもある、私と同年齢のY子さんも亡くなった。きのう、M子から聞いた。孤独死だった。草野美術ホールに出入りしていた若いころ、交通事故に遭い、長い間、死の淵にあった。奇跡の生還を果たし、タウン誌「ぺぇべぇ」や総合雑誌「うえいぶ」にユニークなイラストを描いた。

 緑川宏樹について調べている若者がいる。今度来たら、M子を取材するように勧めよう。

2017年5月10日水曜日

家の庭のいのち

 このところ毎朝夕、ときには日中も、庭に出て緑をながめる。パソコン画面と向き合って疲れた目には、若葉がいい目薬になる。漫然と見ているわけではない。歩きながら、あるいはかがみこんで、目を凝らす。変化がわかる。虫を取り、草を摘む。
 晩秋、生け垣のマサキの枝にガの一種のミノウスバが卵を産み付ける。毎年、ゴールデンウイークごろにふ化する。それが、今年は4月上旬に始まった。マサキの新芽の発生と同時だ。

新芽はやわらかい。幼虫はかたまりになって新芽を食べて育ち、やがて生け垣全体に散開して古い葉も食べ尽くす。そうならないように、ふ化したばかりのところを枝ごと除去する。波状的に発生する。今年はこれまでに、3日おきくらいに生け垣を見て回った。もう大きく食害されることはないだろう。

 台所の南側の軒下に、昔野菜の「いわきねぎ」の苗床を置いた。水やりがいいかげんだったため、発芽が遅れた。ネギの代わりに雑草ばかり芽生えた。ネギの新芽が日陰にならないよう、毎朝夕、雑草の新芽を摘む。

 ネギの発芽のかたちがおもしろい。黒い種の殻を破った根はいったんヘアピンのようなかたち=記号の「∩」に近い=で地上部に姿をあらわす(「∩」は主に数学の確率に用いられる記号で、「キャップ」というらしい。「キャップ」あるいは「あんど」と入力すると、この記号が現れる)。
 
 やがて、根の部分は下へ下へと向かい、もう一方の茎の部分は上へ上へと伸びる。地上から離れた芽は最初、黒い殻をかぶったままで「?」のようなかたちになる。それから少し過ぎてシャキッとなりつつあるところがこれ=写真。殻は間もなく脱落する。

 ミョウガタケ(ミョウガの新芽)も出てきた。例年より少し遅い。もう少しで食べられる、と楽しみにしていたら……。カミサンが生け垣の剪定をしているうちに踏んづけた。カミサンは花、私は野菜。関心が違っている。金子みすゞの「見えぬけれどもあるんだよ。/見えぬものでもあるんだよ。」ではないが、ミョウガタケの存在が頭になければ、そこにあっても見えない。
 
 それよりなにより、庭木の下のあちこちにモグラ塚ができている。人間はそれを踏んづけながら歩くしかない。モグラはなにかに追いつめられて、わが家の庭まで来たのだろうか。
 
 そうだった。庭の花壇のへりに食菌のアミガサタケが頭を出していた。それに気づいたのは、ほぼ1カ月前の4月中旬。以後、ときどき観察を続けていたら、ある朝、ナメクジが頭をかじっていた。それからしばらくして、イカリソウの葉に覆われた。葉をかき分けて見ると小さくなっていた。
 
 ミョウガタケは今の時期にしか口にできない土の味だ。包丁で根元から切り取り、刻んで味噌汁の具にしよう――けさ見たら、剪定枝が積んであった。ミョウガタケの姿は目をこらさないとよくわからない。

2017年5月9日火曜日

造花の妙

 花の写真を撮っても、ルーペで観察するところまではいかない。美は細部に宿る、あるいは細部に違いがあらわれる、といわれても、それは専門家にまかせて成果だけをもらうレベルにとどまっている。
 デジカメで接写を覚えてから、少し変わった。撮影データをパソコンに取り込むと、ルーペ以上に細部がわかる。

 去年(2016年)の晩秋の夜、息子から電話があった。「(小名浜から拾ってきた)子猫が死んだ。庭に埋めていいか」。スコップで穴を掘って待っていると、2人の孫もついて来た。このとき、カミサンが子猫のなきがらにチューリップの球根をひとつ添えた。
 
 そのチューリップが春になって茎をのばし、花を咲かせた。孫たちが来たとき、「ほら、チューリップが咲いたから、子猫は天国へ行けたよ」といった。

私は、球根を埋めたことを知らなかった。ではと、接写の練習のつもりで花を真上から撮った=写真。

えっ、なんだ、これは――パソコンで撮影データを拡大したときに、その生々しさに驚いた。真ん中にあるのは、輪のないベンツのマークのようなめしべ。その周りを6本のおしべが囲む。真っ赤な花びらをバックにしているから、よけい肉感的だ。
 
 夏井川渓谷や大久川渓谷に自生するアカヤシオの花も、接写し、データを拡大すれば、西日本に分布するアケボノツツジとの違いが簡単にわかるはずだ。
 
 いわき地域学會図書5『夏井川流域紀行』(平成元年刊)に、いわきの植物学の先生・湯澤陽一さんが書いている。

「残念ながらアケボノツツジは東北地方はもちろん、関東地方にも産しない。(略)紀伊半島を北限とし、四国・九州に分布する暖地系の植物だ」「アカヤシオは花柄にみつに腺毛があり、雄しべのうち半分の5本に白毛がある。アケボノツツジは、すべて無毛なので、この点に注意すれば簡単に区別できる」
 
 キノコは顕微鏡で胞子を見るのが基本――いわきキノコ同好会の仲間に学んだことだが、私はそこまではいかない。代わりに、みんなの研究成果をいただく。たまたま撮った菌類や植物、あるいは虫を、ルーペ代わりにパソコンで拡大してながめる。いつも造化の妙を思う。

2017年5月8日月曜日

ゴールデンウイーク終わる

 ゴールデンウイーク最終日のきのう(5月7日)は朝、上の孫(小4)を連れて夏井川渓谷の隠居へ出かけた。ポンプを交換したら井戸水が復活した。庭で“水路遊び”ができるよ――。カミサンが自由に使える水を“誘い水”にした。
 孫たちの“水路遊び”は年を重ねるごとにスケールが大きくなる。使う道具も移植ベラから草引き道具、スコップへと広がった。まだ井戸水が使えなかった4月下旬にも、スコップで水路を“修復”し、近くの小流れからバケツに水を汲んで流して遊んだ。

 私は、4日に風邪の自覚症状が現れ、5、6日と薬を飲んで寝ていた。7日にはのどや頭の痛みが消えた。で、カミサンが約束したからと、息子の家へ向かい、上の孫を連れだした。

 下の孫は左手を骨折してギプスをはめている。“水路遊び”をさせるわけにはいかない。私も“水路遊び”はできない。隠居の台所で用をすませたあと、カミサンが遊びに加わった。それを見守りながら、遠い昔のことを思い出していた。
 
 川は天然の「流れるプール」。夏休みになると、子どもたちは毎日、川で水浴びをした。左岸は断崖、右岸は浅瀬で、“おじゃまむし”の幼児たちは右岸の砂場で遊んでいるしかない。そこに、自分だけのスペースを確保して道路をつくり、疾走する運転手になりきってミニカーを動かしていたことを覚えている。

 母方の祖母の家が山の中にあった。飲料水や風呂水は、家から少し離れたところにある池から桶でくんだ。V字形の木の樋から水がとぎれることなく池に注いでいた。あふれた池の水はそばの雑木群の間を縫って田んぼに流れ落ちる。その小流れで笹船を流して遊んだ。

 小さな砂場が大荒野に、小流れが大河に変わる――。子どもの想像力は、昔も今も変わらない。「なりきる」ことで楽しむのだ。

 孫は水路をどんどん広げていった。昼食を終えると、またすぐスコップを持つ。島や新しい水路をつくったり、石のダムを決壊させたり、せき止めたり。ほとんど休むことなく動き回っている。私だったらすでに筋肉痛になっている。「疲れないか」と聞いても「疲れない」という。こうして「シダレ川」ができ、「サクラの湖」ができた=写真。そばにシダレザクラがある。それからの命名だという。
 
 息子と下の孫が迎えにやって来たのは午後3時前。下の孫も右手に移植ベラを持って水路遊びに加わった。上の孫はこの間、ダム建設者になり、河川管理者になり、湖や滝をつくる神のような存在になりきっていた。朝はぎこちなかったスコップの使い方が、午後にはサマになっていた。そのことをほめると、ニコッとした。

2017年5月7日日曜日

「仏様の花嫁」

 このゴールデンウイークにおきたこと――。近所の知り合いが家の中を片づけていたら、赤い漆塗りのさかずきが出てきた。金文字で真ん中に大きく「九十一歳」(縦書き)、その下に小さく「○田部ミキ」(横書き)とある=写真。カミサンの母か祖母?と聞くので、曾祖母だと答える。
 カミサンの曾祖母が亡くなったのは、カミサンが小学校6年のときというから、ざっと60年前だ。

 こんな話を聞いたばかりだった。曾祖母がいよいよ弱ってきたので、父が会津の漆器店に電話でさかずきを注文した。なぜそんなことをするのか、と曾祖母がただすと、父は「ばあさんが『仏様の花嫁』になるときの用意をしてる」。そう切り抜けた。

「仏様の花嫁」とはしゃれた言い回しだ。女性がそうなら、男性は「仏様の花婿」となるが、こちらはちょっとなじまない。あえていうなら、「仏様の子ども」か。

 当時としては、91歳は長命の部類だろう。いのちが消えるのは悲しいことだが、だれよりも長生きした、それはめでたいことなのだ、という思いが、赤いさかずきには込められている。

 あとで知り合いがさかずきを持参した。お父上は学校の先生だった。接点はPTAか。でも、そのころカミサンの学校には勤務していなかった。よくわからないが、カミサンの曾祖母の葬儀に参列したことだけは確かだ。酒を飲むわけでもないのでと、知り合いはさかずきを置いて行った。60年前の記憶が唯一の形見となって戻ってきた。

2017年5月6日土曜日

よどんだ一日

 なぜ夏風邪を引いたのだろう。思い当たるのは、近所の診療所へ薬をもらいに行ったときだ。待合室のいすに座ると、一人おいた隣で子どもがゴホゴホやりはじめた。
 それから2日後、のどの奥が腫れて痛くなった。翌日にはせきと鼻水が出た。後頭部も輪っかで締められたようだ。きのう(5月5日)は朝食後、いつもの薬のほかに、風邪薬を飲んで寝た。風邪を引いたら寝て汗をかく――それが一番、と思っている。でも、けさもときどきせきと痰が出る。頭が重い。汗はかかなかった。

“読む睡眠薬”は、今、梯(かけはし)久美子さんの『狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮社、2016年)。読みながら眠り、目が覚めたら読み、また眠る。その繰り返しだ。

 若いときと違って、熟睡する体力がなくなっている。連休だから一晩くらいベロベロになるまで飲んでやれと飲み始めたが、持久力がない。いつもの量(2合程度)になると眠くなった。

 きのうも、夕方前に寝疲れて起きた。意地でも読み終えようと、座卓(こたつ)のへりに本を立ててパラパラやり続ける。作家である夫・島尾敏雄が日記に記した愛人との情事に関する「十七文字」を読んで妻のミホが狂う。しかし、梯さん自身が「ミホを狂わせた十七文字の内容を知ること」はできなかった。十七文字の中身は最後まで明かされない。
 
「島尾の留守中に掃除をするために仕事部屋へ入ると、開いたままの日記が机の上に置かれていました」。それが始まりだ。夫婦の葛藤をテーマにした長編私小説『死の棘』がその後、書き続けられる。すさまじい作家の業(ごう)である。
 
 梯さんは2年前(2015年)、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた吉野せい賞表彰式の席上、「女流作家の愛と苦しみ~女がものを書くということは」と題して記念講演をした。原民喜や八木重吉と草野心平がかかわりを持っていたことなどを紹介しながら、前半は「乳房喪失」で知られる北海道出身の歌人中城ふみ子(1922~54年)を、後半はいわきの吉野せい(1899~1977年)を論じた。

 梯さんは2015年、日経の日曜版に「愛の顛末」を連載する。最初にせいを取り上げた。好間の菊竹山を訪ね、せいの原稿などを実見している。それとは別に、生前のミホに長時間インタビューをし、島尾家に残る膨大な資料を読み解く作業を続けた。

 せいの『洟をたらした神』とミホの『海辺の生と死』は昭和50(1975)年、第15回田村俊子賞を同時に受賞する。奇縁というほかない。今度はせいの評伝をぜひ――という思いに駆られる。

2017年5月5日金曜日

初夏の祭り

 このゴールデンウイークは天気もゴールド級だ。きのう(5月4日)も曇りから南風が吹き込む晴天になった。近所にある立鉾鹿島神社の例大祭が行われた。拝殿での神事に出席した。
 そのあといったん外出し、夕方戻ると、氏子青年による神輿(みこし)が家の前を通り過ぎた。

 神輿は午前11時半に神社を出発して、すぐ常磐線の線路を渡る。JR関係者が見張りに立つ。もともと参道だったところに鉄路が通った。例大祭の日だけ参道が復活する。私も神事の前後に線路を横切る。「どうぞ、どうぞ」とJR関係者。

 夕方、地域をぐるりと巡行してきた神輿は、わが家から1軒隣の歯医者さんの駐車場に鎮座した=写真。神輿の前にご夫婦が立ち、宮司の祝詞を受ける。サカムカエ(酒迎え)だ。何カ所かでサカムカエが行われるために、神輿が神社へ戻るのは午後6時だという。

 担ぎ手の何人かは白いズボンが濡れていた。若い衆が「川に入りました」といっていた。

 わが地域にはもうひとつ、出羽神社がある。こちらは秋に例大祭が行われる。神輿が夏井川にも渡御し、若者が川に入る。立鉾の方は、案内資料に載った写真を見るかぎりでは、ズボンのまま入る。水が治まっているからこそ地域の平穏無事が保たれる。

 きょうは立夏、そして「こどもの日」。きのう午後からのどがいがらっぽい。風邪薬を飲んで寝た。けさはせきが出る。痛い。なんとなく頭も重い。「好事、魔多し」。きょうも晴天なのに……。よどんだ一日になりそうだ。

2017年5月4日木曜日

種屋の苗と種

 ゴールデンウイーク2日目の4月30日、夏井川渓谷の隠居の庭にナスとキュウリ、トウガラシのポット苗、各2株を植えた。夫婦2人で食べるにはこれで十分だ。 
 わが家から車ですぐのところに、専業農家も通う種苗店が引っ越して来た。種も苗もホームセンターよりは高い。それだけ質はいいということだろう。その店で初めて購入した。
 
 種まき・苗植え時期の今、店の前を通ると、じいさん・ばあさんがいつも何人か店頭で野菜苗を選んでいる。知る人ぞ知る地元の老舗だ。
 
 苗は、曇りの日なら植える時間を選ばない。晴れの日なら夕方に植える。太陽が頭上にあるときに植えると、根付くより早く水分が蒸散して葉がしおれる。すぐ水を補給しないといけない。よけいな手間がかかる。晴れの日は夕方に――というのは、土・日を隠居で過ごしていた現役時代の経験則だ。今は、飲み会以外に隠居に泊まることがなくなった。
 
 4月最後の日曜日は、朝から夕方まで雲ひとつない日本晴れ。風もかすかに木々の葉を揺らすだけだった。野菜苗には過酷な天気だ。かといって、夕方になる前には帰らないといけない。まだ日が高い午後3時ごろ、苗を植えて、段ボールの切れはしを土に差して日よけにした=写真。
 
 同じ種屋から昔野菜の「いわきねぎ」(いわき一本太ねぎ)の種を買った。2週間前の4月10日、プラスチック製の苗床に種をまき、わが家の軒下においた。ネギの生育過程を毎日観察することができる。ところが、発芽するまでずいぶん時間がかかった。

きのう(5月3日)、知り合いのおばあさんが顔を出した。6年前に双葉郡から原発避難をして来た。「種に水をやったの? 水をやんなきゃ芽は出ないよー」と教えられる。

露地まきと違って、軒下のポット苗床だ、水をやらなければ発芽するわけがない。カミサンにも同じことをいわれたので、4月下旬からはときどきではなく、毎日水やりをしたら、ようやく8割近くまで発芽した。
 
 きょうは午前中、近所の神社の祭礼に出席する。朝6時に合図の花火が2発打ち上げられた。午後は、車で30分ほどの隠居へ出かけて、野菜苗の活着状況を確かめる。

2017年5月3日水曜日

孫が三角巾をしてやって来た

 ゴールデンウイークが始まって2日目にけがをしたという。おととい(5月1日)夕方、孫が父親に連れられてやって来た。小2の下の子が首から提げた三角巾で左腕を支えている=写真。
 日曜日、近所で遊んでいるうちに手首でも傷めたらしい。夜になっても痛みがおさまらない。親が磐城共立病院へ連れて行ったら、骨折していた。見た目には、骨がポキッと折れたというよりは、ひびが入ったような感じだ。

 血は争えない――三角巾の姿を見て、真っ先にそう思った。飛んだり跳ねたりするのが得意なばかりに、過信してけがをする。孫の父親である息子が小3のときに、学校の雲梯(うんてい)から手をすべらせて転び、肘を骨折して共立病院に入院した。

 私自身も小学校に上がる前、積み重ねられた石材の上で転び、石の角で額を割って血だらけになった。

 60年以上たった今も、転んで石の角に額をぶつける瞬間を、噴き出すように血が流れ出たことを、だれかに抱きかかえられてどこかへ連れて行かれたことを、鮮明に思い出す。年上のガキ大将がいて、子どもが10人ほど群れて遊んでいたときの、ちょっとした不注意だった。指で額の真ん中をなぞると、鼻の方へと頭蓋に“溝”ができているのがわかる。

 小学校の4年生あたりから、町の映画館へ通うようになった。東映の時代劇と日活のアクション映画が全盛の時代だった。市川歌右衛門(北大路欣也の父親)の「旗本退屈男」を覚えている。歌右衛門扮する「早乙女主水之介(もんどのすけ)」は、額の真ん中の生え際から左斜めに「三日月傷」がある。おれと同じだ――なんて思いながら見たものだった。
 
 下の孫は、じじバカだけでなく元陸上競技部員の目でみても足が速い。来週土曜日に行われる運動会では、1年生のときに続いてリレーの選手になる、はずだった。腕が振れる状態ではないから、辞退するしかないか。その報告に来たのだろう。カメラを向けると、けがをしているのにドヤ顔になった。ま、“小事”ですんだのだ。“小事”を経験したからには、しばらく“大事”はやってこない、そう思うことにした。

2017年5月2日火曜日

春の土の味

 その時期がくると体が反応する。いわきの夏井川渓谷では、ゴールデンウイークが始まるころ、コゴミ(クサソテツ)とワラビが採れる。20年余り、渓谷の隠居へ通って身についた経験則だ。「○月○日ごろに○○を採った」。キノコや木の実も含めて、発生時期の記憶がほぼ正確によみがえる。
 日曜日(4月30日)、隠居の近くにある小流れに行くと――。1週間前には影も形もなかったコゴミが葉を伸ばしていた。いくつかは、赤ちゃんのにぎりこぶしのようなうちに摘まれたらしく、葉の先端が欠けていた=写真。
 
 コゴミもワラビも一斉に芽生えるわけではない。時間差がある。“落穂ひろい”の要領で、あとから芽生えたコゴミを10個ほど摘む。カミサンと私、義弟の3人なので、口に入るのは1人3個ほど、十数グラム? 夜、湯がいてマヨネーズをつけて食べた。山が笑うころに芽生える春の最初の土の味だ。

 隠居の庭の下の空き地にフキが自生している。早いときには師走のうちにフキノトウを摘む。今は薹(とう)が立って小さなうちわほどの葉を広げている。カミサンが茎を摘んだ。これも夜、油炒めになって食卓に出た。やわらかかった。

 日曜日の夜のメーンディッシュはカツオの刺し身。合間にコゴミとフキ――と書きつつ、食べる幸せにひたる“後ろめたさ”がないわけでもない。食は「目的」だろうか。食は生きるため、とりわけ子どもたちにとっては成長のエネルギー源、つまりは「手段」ではないのか。でも、やはり一口、二口とはいえ季節の味には素直に舌が喜ぶ。

 この連休はワラビ狙いの車が山里に向かうことだろう。今はどうかわからないが、前に入山禁止の立て札を見たことがある。土地の所有者の怒りを買わないように、と願う。

2017年5月1日月曜日

井戸水“復活”

 台所の蛇口をひねる。勢いよく水が流れ落ちる=写真。夏井川渓谷にある隠居の井戸水がおよそ3カ月ぶりに“復活”した。正確には、水はあるのにポンプの老朽化で揚水ができなかったのだ。
 真冬の室温は氷点下5度になる。この20年余りの間に、隠居の洗面所と台所の温水器が計6回ほど凍結・破損し、床を水浸しにした。それに懲りて、冬は洗面所の水道の元栓を閉め、台所の水道管に接続してある温水器の水を抜く。

 厳寒期、台所の蛇口をひねったら、急に水が細くなり、断水した。どこかで凍結・破損して漏水しているのか、それとも井戸の水位が低下しているのか。庭を巡って漏水の有無を見る。濡れているところはない。となれば、ポンプ本体に問題がある。今までは「呼び水」をすればすぐ“復活”した。ところが……。いくらやっても水は出ない。ゴボゴボ泡を噴くだけだ。

 ここは、隠居の飲み会の常連でもある同級生の「水道のホームドクター」に頼むしかない。4月2日の日曜日、20リットルは入るポリタンクに水を入れてやって来た。小一時間水を注ぎ続ける。それでもだめだった。
 
 ポンプのパッキングが劣化して空気が入るからではないか、というので、ポンプを交換することにした。おととい(4月29日)、新しいポンプを取りつけた。
 
 前の日、隠居のカギを取りに来た。飲み会だけでなく、凍結・破損の始末に何度も来ている。隠居のどこにポンプの電源があるかわかっている。私は用があるので、ホームドクターにまかせた。29日の夕方、カギを返しに来た。「前以上に出るぞ」。そのとおりに、勢いよく水が蛇口からほとばしり出た。
 
 ここしばらく、スーパーで水を買って隠居へ出かけていた。行っても水がないのでやることは限られる。周囲をぶらつくか、こたつで本を読むだけだ。水が出たからというわけで、きのうは張り切って土いじりをした。カミサンも草むしりに熱中した。
 
 知人夫妻が景色を見にやって来た。葬式でもらったお茶を出す。「おいしい、やさしい味」。目を輝かせる。そうだった。自宅で飲むコーヒーと隠居で飲むコーヒーではまるで味が違っている。隠居のコーヒーはやわらかい味がするのだった。渓谷の隠居のごちそうは目の前の景色と、この井戸水。あらためてやさしい味の価値をかみしめる。