2017年7月31日月曜日

冷やし中華のマヨネーズ

 昼に冷やし中華が出た=写真。調理したカミサンがいう。「マルトのにはマヨネーズが入ってるけど、コンビニのには入ってないの」
 いわき地方では冷やし中華にマヨネーズをかける。カミサンが市販品を調理し、皿に麺を盛り、キュウリその他をトッピングした上に、マヨネーズで円を描く(私だとジグザグにしてしまう)。マヨネーズが麺にからむと、のどの通りがいい。
 
 在宅ワーク約10年。朝・昼・晩と休みなく食事を用意する人の身になれば、昼は簡単に「袋の味」ですませたい。それで文句はない。
 
 で、冒頭のマヨネーズの話だ。マルトはいわきに本社のあるスーパーマーケット。いわき市民の食習慣を承知しているから、冷やし中華にはマヨネーズの袋が付く。コンビニはよそに製造センターがあって、配達網に乗って商品が届く。いわきのためにマヨネーズの袋を入れるようなことはしないのだろう。

 もう何年も前のことだが、郡山に本社のあるラーメン店で冷やし中華を食べたら、マヨネーズが添えられていなかった。郡山では冷やし中華にマヨネーズをからめて食べるような習慣はないのだと知った。わが家の近所の中華料理店では、ちゃんとマヨネーズを添えて出す。

 そういえば、朝ドラの「ひよっこ」でこんなシーンがあった。乙女寮で食事が始まった。カレーライスを口にした青天目澄子が「うんめ~」、初めてマヨネーズを見たみね子たちは「なんだこれ?」。

 きのう(7月30日)、たまたま街で用を足したあと、近くのヨーカドーで買い物をした。食品売り場を巡ったついでに、冷やし中華を観察した。マヨネーズが入っているものはなかった。全国展開のスーパーだから、いわき向けにマヨネーズ添え冷やし中華をそろえるようなことはしないのだろう。

2017年7月30日日曜日

街のアカメガシワ

 アカメガシワ(赤芽槲)という落葉高木がある。山にも谷にも河原にも生える。街でもアスファルトのすきまから芽を出す。きのう(7月29日)、かしま荘夏祭りに出店したカミサンを迎えに行くため、近所の国道6号交差点で車が途切れるのを待っていたら、縁石と歩道の間に生えているのが目に留まった=写真。先っちょの新芽が赤い。
 7月の平「三町目ジャンボリー」で移動本屋から、三浦豊『木のみかた 街を歩こう、森へ行こう』(ミシマ社京都オフィス刊」を買った。なかに、一般にはなじみの薄いアカメガシワの話が出てくることを、前に書いた。
 
 なぜアカメガシワに興味があるかというと、「キノコのなる木」だからだ。食菌のアラゲキクラゲが発生する。シイタケはシイの木などを好み、マツタケは松の根と共生している。キノコは「木の子」なのだ。
 
 アラゲキクラゲは、材質のやわらかいニワトコ、アカメガシワの立ち枯れや倒木に生える。平の里山・石森山にこのアラゲキクラゲが多い――。いわきキノコ同好会の創立に尽力し、14年前に亡くなった故斎藤孝さんの遺稿集『カメレオンの悲しみ』(私家版)で教えられたことだ。
 
 それまでは、キノコはキノコ、樹木は樹木だった。以来、樹木とキノコの連関(共生・寄生・殺生)を頭におくようになった。

 アラゲキクラゲは南方系のキノコだ。「荒ら毛」のないキクラゲは北方系。阿武隈高地では両方が採れる。その意味では、いわきの海が暖流と寒流のぶつかる「潮目の海」であるように、陸もまた南方系と北方系両方の植物・菌類が見られる多様なエリアなのだ。夏井川流域でいえば、渓谷=中間温帯をはさんで暖温帯(海岸~平地)と冷温帯(阿武隈高地)が向き合っている。
 
 同好会の仲間とちがって、私は夏井川渓谷に行っても隠居の周りをうろうろするだけなので、「荒ら毛」のないキクラゲには出合ったことがない。

 若いころ、休日だけでなく、昼休みにも弁当を持って出かけた石森山では、梅雨期、人間の耳より大きくなったアラゲが採り放題だった。遊歩道ごとにチェックする木(ニワトコ、アカメガシワ)があった。

今は渓谷の隠居の庭の木(名前がわからない)に発生するのを見るだけだが、今年はカラ梅雨のためにアラゲは影もかたちもない。アカメガシワはそこかしこに生えている。若くて元気がいいので、アラゲのつけ込むすきはまだなさそうだ。

2017年7月29日土曜日

普通列車スーパーひたち

 きのう(7月28日)朝、神谷(かべや)公民館に車を止めたとたん、田んぼの向こうの踏切から警報音が聞こえてきた。もしかして「普通列車スーパーひたち」? 急いで車からカメラを取り出し、待ち構えていると、左(上り線)から普通列車が、右(下り線)から4両編成の元スーパーひたちがやって来て、すれ違った=写真。
 あとでデータを拡大したら、元スーパーひたちには思った以上に人が乗っていた。乗り鉄かもしれない。上りの普通列車には、客は乗っていなかった。常磐線の時刻表を見ると、9時42分いわき発水戸行きの普通列車がある。そのための回送だろう。データによれば、撮影時間は9時26分だった。

 JR東日本は1週間前の7月22日から、いわき――竜田間に一日2往復、普通列車として元スーパーひたちを運行している。発表を知ったとき、撮り鉄・乗り鉄ではないが、わくわくした。

 いわき駅と隣の草野駅の中間に住んでいる。線路までは歩いて5分ちょっと。上の孫がまだ3~4歳の「小鉄」のころ、家に来るとよく列車を見に行った。特急は「スーパーヒタチ」、普通列車は「ジョウバンセン」と区別していた。それが今、イコールになった。

 私は、野鳥や野草と同じく、列車を狙って撮ることはない。たまたま遭遇したからカメラを向けた、というレベルの“撮り鉄もどき”だ。

 でも、普通列車スーパーひたちは、ぜひわが生活圏内で撮りたいものだと思っていた。そのために①下り=いわき発9:22(草野発9:28)、14:42(同14:47)②上り=竜田発10:03(草野発10:37)、15:24(同15:52)――を参考にして、中神谷の踏切を通過するだいたいの時間を頭に入れておいた。

 とはいえ、なにかと雑用に追われて、撮影のために線路のそばに立つことはなかった。たまたま地区体育蔡の協賛金集めが終わったので、朝9時すぎに公民館へ届けに行ったら、「カンカンカンカン」と鳴り出したのだった。朝から“仕事”をしたごほうびと、勝手に解釈した。今度は草野――竜田間を往復する“乗り鉄もどき”をやってみるか、「小鉄」を連れて。

2017年7月28日金曜日

シュムシュ島慰霊

 おととい(7月26日)の拙ブログ「作詞家東條寿三郎」を読んだ同級生(いわき市平)から電話がかかってきた。
 用件は二つ。一つはブログに関することで、「東條寿三郎と父親が同級生だった。写真もある」という。同級生は四倉出身。貴重な情報提供だ。もう一つはその父親に関することで、「シュムシュ島(占守島)に行って来た。写真もいっぱい撮ったので、本にしたい」という。冊数は30~50。ネットを利用したオンデマンド印刷を勧める。

 シュムシュ島は千島列島最北端の島だ。目と鼻の先にカムチャツカ半島の先端がある。サハリン(樺太)と違って、簡単に行けるところではない。

「シュムシュ島」で検索すると、それらしい記事に出合った。今年(2017年)7月19日というから、ほぼ10日前のことだ。「占守島で日本人慰霊/12年ぶり、民間団体主催」という共同通信の記事に添えられた写真を拡大すると、同級生が写っていた=写真。

 ここではヨミウリオンラインの記事(けさは期限切れで記事が消えていた)を引用する。「72年前、終戦直後に侵攻してきたソ連軍と日本軍が激戦を交わした千島列島最北端の占守島(シュムシュ島)。沖縄や南方に比べて遺骨収集が進んでおらず、歴史に埋もれた戦いとも言える。この戦いを後世に語り継ごうと民間団体が主催した慰霊ツアーだ」

 同級生の父親はたまたま生還した。だから、戦後、彼が生まれたわけだが、記事に同級生と父親のことが紹介されていた。「2006年に死去した父親が占守島で戦車砲撃手だった福島県いわき市の」同級生(記事では実名)は、「花々が咲く草原に残された1台の戦車を感慨深げに触り、『父が「真っ赤な砲弾がひゅんひゅん飛んでくるのを戦車の中から見たのが一番怖かった」と話してくれた』と語った」。

 去年(2016年)の8月初旬、私は別の同級生3人とサハリン(樺太)を旅した。終戦時、同級生の父親が樺太のある村の村長をしていた。次の7行は、そのときのブログの抜粋――。

「村の入り口で警察署長と村長の2人で白旗をかかげて迎える手はずになっていたのに、署長は『自宅で謹慎する』と言って来なかった」。で、同級生の父親(村長)だけが北緯50度の国境線を超えて侵攻して来たソ連軍を迎えた。

 昭和20(1945)年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連軍が対日参戦をした。満州ばかりか、北緯50度で北はソ連領、南は日本領に分かれていた樺太でも、ソ連の侵攻作戦が展開された。同15日に日本がポツダム宣言を受諾しても、北海道占領をもくろむソ連の侵攻はやまない。

 シュムシュ島の戦いもポツダム宣言受諾後の8月18日未明に始まった。日ソ双方に犠牲者が出たが、この戦いがソ連の北海道占領を防いだともいわれる。終戦前後のどさくさに乗じて樺太を、千島列島を急襲したソ連軍の様子が、同級生を介して少しずつ頭の中に入ってきた。

 きのう夕方、総合図書館へ行って浅田次郎の『終わらざる夏 上・下』(集英社)を借りる。シュムシュ島の戦いに題材を取った長編小説だという。一気に読むつもりでいる。

2017年7月27日木曜日

町長選挙カーが通る

「あれっ、もう市長選?」。家の前の道路を、選挙カーが名前を連呼しながら通り過ぎた。「清水」でも「渡辺」でも「宇佐美」でもない。二、三度往来するうちに、「ミヤモト○×」「ヤマモト○×」と言っていることがわかった。
 双葉郡富岡町の町長選が先週の木曜日(7月20日)、告示された。今度の日曜日、30日に投・開票される。立候補したのは、現職の宮本皓一氏と新人の山本育男氏。

 富岡町長選がいわき市でも行われているワケは単純だ。有権者が多く避難しているからだ。いわきの夕刊紙いわき民報も記事にした=写真。別の新聞によれば、選挙期間は通常5日だが、町外に住む有権者を考慮して倍の10日間にした。ちなみに、いわき市長選は9月3日告示、同10日投・開票で行われる。

 富岡町は東日本大震災に伴う原発事故で全町避難を余儀なくされた。6年余がたった今は、帰還困難区域を除いて避難指示区域が解除された。役場機能が一部、町の本庁舎に戻ったとはいえ、町民の帰還はそんなに進んでいない。

 町のデータによると、住民登録者数は今年(2017年)5月1日現在、1万3441人。町内居住者128人を含めて、1万503人が福島県内に分散・居住している。県外にも2938人が住む。県内では特に、同じ浜通り南部のいわき市に6090人が集中している。

 わが神谷(かべや)地区にも、いったん会津その他へ避難したあと、故郷に近く、気候・風土が似ているからという理由で、戸建て住宅やアパートを見つけて移ってきた町民がいる。シャプラニール=市民による海外協力の会が開設・運営した交流スペース「ぶらっと」で知り合った富岡町民も少なくない。
 
 応急仮設住宅や災害公営住宅はともかく、“みなし仮設”や土地を買って家を建てた人たちは、いわき市民の間に溶け込み、あるいは塀を立てて暮らしている。
 
 いわき市民のなかには、「なんでよその町の選挙カーが……」といぶかる人もいるに違いない。4年前もそうだった。4年後もそうなるのか。いや、それで終わらないかもしれない――などと、選挙カーが遠慮がちに連呼しながら通るたびに思う。原発事故の罪深さがこんなところにもあらわれている。

2017年7月26日水曜日

作詞家東條寿三郎

 三橋美智也のヒット曲「星屑の町」の作詞者は、いわき市四倉町出身の東條寿三郎(1920~2003年)――。きのう(7月25日)、拙ブログで取り上げたら、四倉の若い知人から東條に関する情報が届いた。納得したことがある。
 ♪両手をまわして 帰ろう 揺れながら……。なぜ、そしてどう両手を回すのか、さっぱりわからなかった。
 
 知人の情報を踏まえていうと、①「星屑の町」の原風景は、東條のふるさとの四倉町長友②夕暮れ、藍色の空に一番星が輝くころ、子どもたちが縄を結んで隊列を組み、「汽車 汽車 シュッポ シュッポ」とやりながら家に帰った、幼いころの思い出がモチーフになっている。望郷の歌だ。
 
 両手を回すのに二つある。双発飛行機のように体の前でぐるぐる回す。あるいは、陸上選手のように体のわきで肘をまげて回す。汽車に乗って家に帰るからには、後者の動きに決まっている。
 
 きのう夕方、家から車で10分ほどの四倉町長友へ行ってみた=写真。冬は夏井川に飛来したハクチョウが採餌に現れる場所のひとつだ。民俗研究家の和田文夫さんが火災で焼死する前は、ときどき同地の自宅を訪ねた。見知った土地だが、作詞家東條寿三郎については知らなかった。
 
 四倉をモチーフにした別の作品に、春日八郎が歌った「雨降る街角」があるという。♪つらいだろうが 野暮な事言うでない……。昭和28(1953)年に発売になった。私は5歳だったから、記憶にない。が、少し年長のカミサンは覚えていた。家(米屋)の番頭さんがよく歌っていたので、自然と記憶に刻まれた。
 
 今、暗くなるまで外で遊びまわる子どもはいない。長友の田んぼの真ん中を主要地方道いわき浪江線、いわゆる「山麓線」が走る。夕方5時半、1F(いちえふ)のある双葉郡からいわき市内に戻る車の列ができていた。

2017年7月25日火曜日

「星影の夢」

 きのう(7月24日)の朝ドラ「ひよっこ」には泣いた。愛し合いながらも、家の事情で別れるしかない2人――。ドラマと同時代の昭和40年代前半に青春を生きた人間には、みね子、大学生・島谷君両方の気持ちがよくわかる。
 日曜日(7月23日)の朝、夏井川渓谷の隠居でNHKのラジオ番組「歌の日曜散歩」を聞いていたら(おおむね懐メロがかかる)、三橋美智也の「星屑の町」が流れた。♪両手をまわして帰ろう 揺れながら 涙の中をたったひとりで……。この歌がはやったのは昭和37(1962)年、中学2年生のときだ。詞を書いたのはいわき市四倉町出身の東條寿三郎。彼は「上海帰りのリル」も書いている。

 翌々年、高専に入学し、やがて三橋美智也似の1年先輩と知り合いになると、うたう歌がこれまた三橋美智也ばりに高音でうまかった。今でも覚えているのは「古城」。学校の文化祭で熱唱した。

「星屑の町」、あるいは「星影のワルツ」(昭和41年発売)を連想させることばがある。「星影の夢」。「ひよっこ」の主人公・みね子のアパートの壁に映画のポスターが張ってある。そのタイトル名だ。映画(いや「ひよっこ」?)の内容を暗示する文句が添えられている。「一生続くと思っていた二人の時。/夢追う若者の青春映画。」

 たまたま金曜日(7月21日)にテレビ朝日系の「ミュージックステーション」を見たら、桑田佳佑が「ひよっこ」の主題歌「若い広場」を歌っていた=写真。タイトルからして、「昭和歌謡」の全盛期を彷彿(ほうふつ)とさせる。曲調もそうだ。歌詞に出てくる「リル」は「上海帰りのリル」だろうか。

「ひよっこ」は9月末まで続く。まだ7月後半だ。9月末にハッピーエンドになるならともかく、今の段階でハッピーになるはずがない。結婚したら視聴率はガタ落ちだ――なんて勝手に気をもんでいたら、やっぱり……。

 みね子、いっぱい泣け。泣いて、泣き疲れろ。恋愛は世界一好きな人として、結婚は世界で二番目に好きな人とするんだよ――なんて、心のなかで叫んでいた。

2017年7月24日月曜日

人を“刺す”アカタテハ

「蝶のように舞い、蜂のように刺す」といったのは、ボクシングの元世界チャンピオン、故モハメド・アリ。蝶も刺すのではないか――そんな思いをいだくような体験をした。
 この時期、夏井川渓谷の隠居で土いじりをするには、早朝5時ごろに起きて出かける(のがいいのだが)。ハマではすでに朝日が昇っている。渓谷では尾根が壁になっているから、太陽が顔を出すのは少し遅い。「天日燦(さん)として焼くがごとし」(三野混沌)になる前に、土いじりを終えねばならない。焼けつくような太陽の下で草むしりをしていると、熱中症になりかねないからだ。

 実際には、渓谷に着くのは早くて7時半から8時。すでに太陽が尾根から顔を出している。キュウリとナスを摘み、追肥をして土を寄せるだけで汗だくになる。小一時間もしたらさっさと作業を終える。あとは隠居で朝食をとって、ひたすらゴロンとしている。

 室内でほてりを冷ましていると、いろんな“訪問客”が現れる。平地のわが家と違って、渓谷には清流生まれのアブがいる。これがいつの間にかやって来て、チクリとやる。何年か前までは、軒下にスズメバチが営巣した。

 先日は、キツツキの仲間のアカゲラが突然、飛び込んで来て床の間の壁にぶつかり、激しく鳴いた。これには肝を冷やした。わずか2メートルほどのところで、「キョ、キョ、キョ、キョ」とやられて耳がおかしくなった。アカゲラはそのあと廊下へ回り、やがて外へ脱出した。

 その直後、今度は蝶のアカタテハが現れ、隠居を出たり入ったりしているうちに私の膝頭に止まった=写真。静かにしていると、口吻をストロー状にのばして皮膚をチョンチョンやる。花ではないから蜜はないが、汗をかいたあとなので塩分はあったらしい。それを吸ったのだろうか。

 チョンチョンとやられて初めてわかった。吸蜜といっても、皮膚の表面に「触れて吸う」のではなく、「突ついて(刺して)吸う」のだ。かすかに痛みを感じた。花だって命をつなぐために痛みをこらえているのかもしれない。

2017年7月23日日曜日

レジカウンターに並ぶと……

「待ちあぐねて煙草(たばこ)に火をつけると/電車はすぐ来る。」。詩人・作家清岡卓行の詩<風景>の一部だ。作家金井美恵子が19歳で書いた、デビュー作でもある小説「愛の生活」(太宰治賞次席)のなかで引用した。それを、18歳の少年が頭に刻んだ。以来、半世紀。「AをするとBがおきる」式の応用が増えた。
 煙草に関する環境は、詩が書かれたころと一変した。ホームで喫煙し、電車が来るとあわててもみ消し、線路とホームの間にポイ捨てする。よく見かけた光景だが、今はホームも含めて公共の場では禁煙が普通になった。

 夕方、飲みに行くとき、バスを利用する。「待ちくたびれて煙草に火をつけると、バスはすぐ来る」。予定の時刻になってもバスが来ない。一服するか。停留所でプカッとやりはじめると、バスが姿を現す。20年も昔の記憶だ。

 このごろは、「スーパーのレジカウンターに並ぶと、買い忘れたものを思い出して列を離れる」といったフレーズが頭をよぎる。カートを押す運転手兼荷物運搬人の私ではない。財布を持つカミサンのことだ。スーパーに10回行けば6回はそうなる。

 買いたいものは全部かごに入れた、だから、レジカウンターの列に加わったはずなのに、すぐいなくなる。足りなかったものは缶ビール1個のたぐいだ。カネもカードも持ってない人間は、前の客が早く精算をすませるとあわてる。後ろの客に順番を譲ったこともある。
 
 おととい(7月21日)、マルト草野店=写真=へ行ったときもそうだった。買い物かごがいっぱいになった。レジカウンターに並びかけたら……。やはり、駆けて行った。食品以外のコーナーに姿を消したから、消臭剤でも探したのだろう。カラ戻りした。たまたま前の客の買い物量が多かった。で、順番通りに精算できたが、レジカウンターに並ぶときにはいつもためらい、ひと呼吸おく。
 
 男と女の違い? それとも、本人の性格? 体は大きいが、気の小さい私には、スーパーのレジカウンターはいつも「鬼門」にみえる。

2017年7月22日土曜日

海から吹いて来る風

 朝、すでに室温が30度近くある。日中は、扇風機をかけても31~33度まで上がる。茶の間がそうなので、在宅ワークどころではない。昼寝もできない。
 肝心のノートパソコンが、うなりをあげて熱を発している。室温が高いところに、パソコン自体が熱くなるためか、この10日の間に2回、使用中に突然、電源がオフになった。若い人にみてもらったら、バッテリーの寿命が尽きつつあるらしい。しばらくおいて熱が引いたあと、電源をオンにすると復活する。が、いつパソコンの“心臓”が止まるかわからない。若い人のアドバイスに従って、バッテリーその他を買い替えることにした。

 で、在宅ワークは朝5時前後に起きて、できるだけ“朝めし前”にすませるようにしている。昼はときどき、メールやフェイスブックのメッセージをチェックするだけ。日中はパソコンの状態が安定しないので、“ナマケモノ”になることにした。

 とはいえ、この酷暑だ。昼寝ができないのがこたえる。昼寝は一日に二度生きるための頭のビタミン剤だが、それができないと夜の9時ごろには思考力が落ちて眠くなる。

 きのう(7月21日)は午後、我慢ができずにわが家の道路向かい、駐車場をはさんだ奥にある故義伯父の家に移動した。

 わが家から海までは5キロほど。昔は海からの風が吹きぬけたものだが、今は周りに家が建て込んだために、屋根をかすめて通り過ぎる。
 
 故義伯父の家は南面に空間が広がっている。海からの風が家並みを越えて吹きこんでくる。ガラス戸のカーテンの揺らぎが心地いい=写真。直接風を受けていると、風邪を引きそうだ。上半身を障子戸で隠し、足だけを風にさらして横になった。

 東北南部の梅雨はまだ明けない。平均するとあした(7月23日)が梅雨明けの日だが、今年は体感的にはカラ梅雨、いや梅雨はなかったのではないかといいたくなるほどの酷暑続きだ。

 テレビでは、小名浜の気温がいわきの気温のように報じられる。とんでもない。涼しい海風の吹くハマの気温でしかないのだ。内陸の山田では7月、きのうまでに真夏日が計11日あった。山田の気温がいわきの気温を代表している、といってもいい。きょうとあしたは曇りで、午後には雷雨になるとか。涼しくなるなら、そしてパソコンが落ち着くなら、曇りでも雷雨でもかまわない。が、けさも太陽が顔を出している。

2017年7月21日金曜日

キュウリ尽くし

 庭の柿の木でおととい(7月19日)夜、耳鳴りかと思うほどか細い声でニイニイゼミが鳴いた。ずいぶん遅い初鳴きだ。きのうも午後になって鳴きだした。
 ニイニイゼミが鳴きだすころ、家庭菜園ではキュウリが収穫の最盛期を迎える。採ったり届いたりしたキュウリが台所に山になる。大根ならしばらく置いても糠漬けにできるが、キュウリはそれが効かない。水分が飛んで、中身が綿のようになったキュウリは、漬けてもまずいだけ。で、とりあえず採りたてを糠床に入れるか、キュウリもみにする。

 糠漬けは、基本的には浅漬けだ。夜に漬けたら朝には青みの残るキュウリが食べられる。気温が高い今は漬かりも早い。夫婦2人が一度に食べる量はせいぜい1本半だ。糠床で眠ったままのキュウリが出てくる。

 古漬けはあめ色になる。塩分と酸味が強い。食べるときには水に浸けて塩を抜き、ショウガをおろして醤油をかけて食べる。あめ色でもまだ漬けが浅いキュウリは、パックに入れて冷蔵する。程よい酸味と歯ごたえが、浅漬けとは違った食欲を誘う。

 肥大キュウリが2本も3本も採れたときには、違った調理と食べ方をする。ピーラーで皮をむき、透き通るくらいの小口切りにしてキュウリもみにしたのを、薄くパックに詰めて冷凍・保存する。

 キュウリは、そもそも“固形水”だ。成分の90%以上が水分でできている。それを薄切りにし、塩でもんで凍らせると、シャーベットになる。

 先日の朝、食卓にこの“シャーベットキュウリ”とあめ色の浅漬け、塩出しをした古漬けが出た=写真。シャーベットキュウリは熱いご飯にのせるとすぐ氷が融ける。もう少し塩を利かせたら、うまくご飯にからんだかもしれない。

 昔は、糠床とは別の甕でキュウリの古漬けをつくった。たっぷりの塩と激辛トウガラシを加え、落とし蓋に重しを載せる。しみ出た水分を時折煮沸して戻し、しおれたキュウリを雑菌から守る。1カ月もすれば、ぺちゃんこになったあめ色の保存漬けができた。

 夏井川渓谷の隠居には、今が最盛期のキュウリ1本のほか、夏キュウリの苗2本がある。これからが収穫の本番だ。3日に一回は摘みに行かないと、肥大キュウリだらけになってしまう。そのときにはキュウリもみにするが、梅肉もまぶすと変わったシャーベットキュウリになるかもしれない。今度、ためしてみよう。

2017年7月20日木曜日

霧の海水浴場

 いわき市平の薄磯海水浴場が7年ぶりに再開されたというので、きのう(7月19日)午後、平と鹿島の書店を訪ねた帰りに寄ってみた。 
 このところ、よく濃霧注意報が発表される。行ってみて納得した。塩屋埼灯台をはさんだ豊間と薄磯がうっすら霧に包まれていた。灯台も断崖も見えない。が、県道小名浜四倉線の通行にはまったく支障がなかった。
 
 県道に接続してできた市道南作青井線を利用して海岸部に下りる。昔からの“バス道”にぶつかり、左折して大改造された薄磯に入ると、防災緑地の“丘”が現れる。立て看に従って車を進める。と、その丘の陰にもう一つ道路があった。海側からいうと、砂浜・堤防・駐車場・道路・防災緑地・道路という配置だ。
 
 震災で地盤が沈下し、砂浜が狭くなった。そのうえ、原発事故が起きて、海水浴どころではなくなった。震災前、いわきには10の海水浴場があった。今は9海水浴場だという。照島のサンマリーナがはずれた形になっている。で、震災1年後に勿来、その翌年に四倉、それからさらに4年たって薄磯の海水浴場が再開した。
 
 もう梅雨が明けたのではないかと思わせるような酷暑が続いている。新しい薄磯の光景をこの目に焼きつけたい。海に入るほどの若さも元気もないが、潮風には当たりたい。鹿島ブックセンターからは目と鼻の先だ。急に思い立って、海岸道路へ出た。
 
 海水浴場は霧に視界を遮られていた=写真。平日のせいもあって、その時間(午後2時半ごろ)、海岸にいるのは10人ちょっとだった。海に入っている人はいない(霧のために自分で控えたか、遊泳禁止になったか)。晴れていれば波打ち際で足をぬらしたかったが、堤防から眺めただけで帰ってきた。

2017年7月19日水曜日

ケリがいた

 若いころは、子どもを連れて森や河原、海岸へバードウオッチングに出かけたものだが……。今は、庭にやって来る鳥や、堤防・田んぼのあぜ道・山道などを車で移動しているときに目に飛び込んでくる鳥を、瞬間的に見るだけだ。
 毎晩、野鳥図鑑をながめ、日曜日ごとに鳥を見に野外へ出かけた。その経験から、身近な鳥に関しては鳴き声・色彩・飛んでいる姿・止まっている形(シルエット)で、おおよそ見当がつくようになった。それでも、自信を持ってこれだといえる種類は少ない。まだ見聞きしていない鳥がいっぱいいる。そのひとつが、ケリという名の水辺の鳥。
 
 日曜日(7月16日)昼前、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、朝と同じく帰りに平下平窪の田んぼ道を利用した。青田のなかに一枚、湿って一部水が張られた休耕田がある。そこに脚の長いハトくらいの鳥が休んでいた=写真。通り過ぎようとしたとき、ちらっと視界に入ったので、5メートルほど車をバックして写真を撮った。

 家ですぐ図鑑に当たる。日本鳥類保護連盟の『鳥630図鑑』に似た鳥がいた。ケリの若鳥のようだった。ケリはチドリ目チドリ科、いわゆる「シギチ」(シギ科とチドリ科)の仲間で、留鳥だという。本州の東北~近畿地方の一部の水田や荒れ地で繁殖し、冬には広い水田や河原、干潟などで見られる、とあった。留鳥? 私は、自分の生活圏では見たことがない。

 念のために日本野鳥の会いわき支部の『いわき鳥類目録2015』に当たる。いわきでは留鳥ではなく漂鳥だ。「市内では春先と秋口に数回の確認記録があるだけです」。すると、どこかで巣立った若鳥が放浪中、平窪の休耕田で一休みしていた、ということになるか。
 
 そのどこかのひとつ、「棚倉町で繁殖中の個体に遭遇したことがありました。けたたましく『キリッ、キリッ、キリッ、キリッ』と鳴いて威嚇してきましたが、この鳴き声からケリと名付けられたとも言われています」。中通りから阿武隈の山を越えてやって来たのかもしれない。
 
「数回の確認記録があるだけ」なら、いわきでは希少種、写真的には特ダネではないか、なんて思ったのだが、データを拡大するとピンボケもはなはだしい。でも、今まで見たこともない鳥を見た、という喜びだけは大きかった。

2017年7月18日火曜日

いわきの花街

 平町(現いわき市平)にカフェーやバーが登場するのは、大正時代中期。好景気もあって、遊郭以外に新しい遊興を求める人間が周辺町村から平町に流入した、という。
 土曜日(7月15日)、いわき地域学會の第328回市民講座が市文化センターで開かれた。講師は小宅幸一幹事。「花街の盛衰(1)―明治・大正・昭和の夜を華やかに彩った女性たち」と題し、明治41(1908)年、平町に設置された「貸座敷」(遊郭)の歴史を中心に話した=写真。サブタイトルが珍しく「カストリ雑誌」風だ。

 カフェーやバーといった新商売の話に引かれた。昭和7(1932)年ごろ、欲望を抑えきれない農家の若者の話が新聞記事になった。あとで、小宅さんが紹介した同年8月30日付磐城時報に当たる。

 平町に隣接する平窪村(現いわき平・平窪)は農産物の生産・供給地。農家の青年がリヤカーに野菜を積んで町へ売りに出かけたのはいいが……。

 持ち帰る現金が、野菜の量に比べて少ない。青年は「不景気で売値がめっぽう安い」と言い訳をする。実際には「連夜カフェーで白粉(おしろい)臭いサービスにうつつをぬかし」ていた。「甚(はなはだ)しいのは飲み代(しろ)がはりに胡瓜(きゅうり)、茄子(なす)、南瓜(かぼちゃ)を、カフェーにあづけ、そのカフェーは翌日にその附近に販賣してゐるものさひ(え)あ」った。
 
 同時代のエピソードを思い出した。好間の菊竹山で妻とともに開拓小作農業を営んでいた詩人三野混沌(吉野義也)が、収穫した小麦を町に売りに行く。持ち帰ったカネはわずか40銭。6円40銭で売れたのだが、6円で本(カンディンスキーの芸術論)を買ってしまったのだ。妻のせいは、この一件で経済観念のない夫に愛想をつかす。
 
 小宅さんの話に戻る。新聞記事かどうかは不明だが、昭和8(1933)年、平警察署は風紀取り締まりのために特別警察隊「新撰組」を結成した。目に余る事態に業を煮やしたのだろうが、特別チームが「新撰組」とは――。
 
 ついでに、小名浜の話を。小名浜には公認の「貸座席」はなかった。カフェーは昭和3(1928)年5月、中島南裏通りにオープンした「カスケード」が第一号だったとか。場所はどこなのだろう、「○×ランド」があるあたりか。

2017年7月17日月曜日

ヤマユリ街道

 期待していた以上だった。平地から急坂を駆け上がり、夏井川渓谷に入ると、ガケの中腹にヤマユリの白い花が咲いていた。それからは点々と、谷側のガードレールのそば、山側のガケの中腹から、白く大きな花=写真=や蕾が目に飛び込んできた。
 きのう(7月16日)、日曜日朝のことだ。1週間前の日曜日には影も形もなかったのが、月曜日以降、次々と蕾を膨らませ、花を咲かせたのだろう。たまたま家を出るとき、カミサンにつぶやいた。「ヤマユリが咲いているかもしれない」。大当たりだった。「ヤマユリ街道だね」。車の助手席から感嘆の声がもれた。

 同じ阿武隈高地でも標高の高い田村市の山里では、ヤマユリの開花がちょっと遅れる。夏休みの始まりとほぼ一緒だ。子どもにとっては、ヤマユリは「夏休みを告げるうれしい花」だ。青空と入道雲に雑木林の道端に咲くヤマユリの花と香りを重ねると、梅雨が明けて真夏がきた、というイメージが広がる。

 渓谷からひとつ山をはさんだ北側に「ヤマユリ分校」があった。小川小・中の戸渡(とわだ)分校で、昭和34(1959)年、同36年、分校生が皇居に地元のヤマユリの球根を寄贈すると、お礼に皇太子夫妻(現天皇・皇后)から『新美南吉童話全集』(全3巻)とメタセコイアの苗木が贈られた。

 分校はやがて廃校になり、建物は「戸渡リターンプロジェクト」の拠点として再利用された。プロジェクト活動の「前進と反発、逡巡と停滞が繰り返され」る(いわき地域学會発行『いわきの地誌』)なか、旧来住民世帯が減り、震災・原発事故が追い打ちをかける。戸渡は「追い出された集落」になった。

 ヤマユリの花が咲くと――。「夏休み」「ヤマユリ分校」を連想したが、これからは「ヤマユリ街道」を加えよう。

2017年7月16日日曜日

イノシシと新ジャガ

 夏井川渓谷の小集落・牛小川――。「K君の畑のジャガイモがやられた」。マチで会った牛小川の住人が言う。“犯人”はイノシシだ。わが隠居でも、下の庭のヨシ原がほじくり返されただけだったのが、7月に入ると上の庭でミミズを探すようになった。菜園の角に大きな穴ができていた=写真。
 Kさんの畑、といってもジャガイモを栽培しているのは、マチに住むKさんの姉さんだという。Kさんはマチの職場に通っていて、野菜の世話をする時間がない。お姉さんが来て残りのジャガイモを収穫した、ということだった。イノシシと人間とで収穫を分け合う結果になった。

 わが隠居の庭はさいわい、これまで“実害”はない。9年前の2008年6月下旬、イノシシが菜園わきの土手を激しくほじくり返した。草刈りがしなくても済むほどのトラ刈り状態になった。その荒々しさに驚いた。それが今までの最大の“被害”。そのとき、近所の様子を見に行ったら、山側のジャガイモ畑に新しくネットが張られてあった。数日前にイノシシが出た、ということだった。
 
 不思議でならない。イノシシの嗅覚が鋭いことは承知している。が、極端な話、「あした、ジャガイモを掘ろうかな」という段になって、イノシシに先を越される。9年前も、今年(2017年)もそうだった。イノシシは体内に、新ジャガがどこにあって、いつごろ行ったら食べられるかわかる“センサー”を備えているのだろうか。
 
 わが菜園にあるのは、枯れてさやをもった辛み大根、三春ネギ、トウガラシ、ナス、キュウリだけ。イノシシの好物ではないのか、今のところ順調に育っている。隣の集落にある友人宅ではいろいろ被害に遭っているらしい。「イノシシはヤマユリの根っこを食べんだよ」。昔、仲良くなった牛小川のオバサンに言われたことがある。それもやられたと前に言っていたような……。
 
 そのヤマユリが咲き始めているかもしれない。これから肥大キュウリを摘みに隠居へ行く。ついでに、ヤマユリの花が咲いていれば写真に撮る。

2017年7月15日土曜日

「ナミノハナください」

 夕方、店番をしていると――。近所の農家の奥さんが「ナミノハナ(波の花)を買いに」と言いながら入って来た。思わず反応する、「しばらくぶりに『ナミノハナ』の言葉を聞きましたよ」。「午後になったから」、奥さんが当然のことのように応じた。
 小さいころ、母や祖母が口を酸っぱくして言ったものだ。夕方、食塩=写真=を買いに行くとき、「『ナミノハナをください』って言うんだぞ」と。なぜ「ナミノハナ」なのかは、説明がない。ただ、言われたとおりに店の人に告げて、食塩を買って帰った。記憶に残る「はじめてのおつかい」のひとコマだ。
 
 奥さんは私と同年代かちょっと上くらいだろう。やはり、小さいころ、親から使いに出されるたびに「ナミノハナって言うんだぞ」と教えられたにちがいない。結婚して台所をまかされ、息子一家と同居する今も、午後は「シオ(塩)」ではなく「ナミノハナ」と言わないと落ち着かないらしい。
 
「ナミノハナ」、漢字で書けば「波の花」は宮中に仕える女房詞(ことば)のひとつだったとか。庶民の間では、「夜は塩を買いに行ってはいけない」といったタブーがあった。「塩ください」が「死をください」に通じるというわけで、不吉を避ける意味でも、午後は「ナミノハナ」と言い換えるようになったようだ。一日のなかに昼と夜、つまり生と死がある――そんな日本人の心意の反映だろうか。

 昭和30~40年代、日本は右肩上がりの高度経済成長時代が続いた。そこへ突入する直前まで、子どもたち(私ら団塊の世代)は毎日のように買い物に行かされた。大量生産・大量消費・大量廃棄に踊らされる前の、量り売り・切り売り中心の時代、一升瓶を持って父親が飲む焼酎を買いに酒屋へ、鍋を持って豆腐屋へ……。もしかしたら、私らが最後の「ナミノハナ」世代だったか。

 さて、きょう(7月15日)は、いわきの3海水浴場(勿来・薄磯・四倉)で海開きが行われる。薄磯は震災後初めて、7年ぶりの海水浴再開だ。なぎさにはカラフルな「波の花」が咲くことだろう。

2017年7月14日金曜日

クロアゲハがやって来た

 わが家は相変わらず“真夏日”続き。夜になっても窓や戸を開け放し、扇風機をかけている。戸締りをして寝るのはだいたい11時ごろ。それでも寝苦しくて、朝までに1、2回は目が覚める。
 6月末、タテハチョウの仲間のヒオドシチョウが茶の間の観葉植物の葉陰に一泊した話を書いた。やって来たのは宵の時間だった。今度は昼前、クロアゲハの雌が現れた=写真。しばらく行ったり来たりしていたので、デジカメを連写モードにして撮影した。

 夏は木々の葉が茂る庭と茶の間が一体化する。それで、いろんな虫が家に入り込む。庭木の中心は柿。「セミの鳴く木」でもある。6月末にニイニイゼミがささやきはじめ、次いでアブラゼミとミンミンゼミが歌い、8月中旬にはツクツクボウシが鳴きだす。ところが、今年はまだニイニイゼミの鳴き声を聞かない。
 
 きのう(7月13日)は朝9時半すぎに、仕事があって車で出かけた。道路に出るとすぐ、パトカーが後方からサイレンを鳴らして近づき、追い越して行った。事故か事件か――。一瞬、血が騒いでパトカーを追いかけたくなったが、やめた。時間に遅れる。
 
 昼過ぎに帰宅すると、銀行で強盗未遂事件があった、という。知人がカネを下ろしに行ったら中に入れなかった、という。わが家からは1キロ先の、隣の行政区にある東邦銀行神谷(かべや)支店だ。
 
 報道によると、同支店に75歳の男が現れ、居合わせた84歳の女性に果物ナイフを突きつけ、女性行員に現金を要求した。男はすぐ男性行員に取り押さえられた。男はアパート暮らし。そのアパートは支店から約500メートル先にある。銀行へは「サンダル履きで訪れ、顔もマスクなどで隠さず丸出しだった」(読売)。哀れを感じてしかたがなかった。
 
 わが家の夏の虫たちは「火」ならぬ「灯(ひ)」に飛び込んで来る。このジイサンは「カネが欲しかった」から歩いて?銀行にやって来た。貧困に苦しんでいたのかもしれない。暑さも手伝ってのことだったかもしれない。周りに相談する人はいなかったのだろうか。犯罪は犯罪として、地域のなかに潜在する問題の一端を垣間見た思いがした。

2017年7月13日木曜日

「小さな出版社」

 ときどきツイッターで本が紹介される。既存の出版社のほかに、「ミシマ社」、あるいは「ミシマガジン」といったものがあることを知る。最初は三島由紀夫に関係するメディアかと“誤読”したが、そうではなかった。
 朝日新聞社ジャーナリスト学校が発行している「ジャーナリズム」7月号は、特集が「地方からニッポンを変える」だった。そのなかで「『中央―地方』のしがらみを離れ自由な出版の実践を模索」というタイトルで、ミシマ社代表の三島邦弘さんが文章を書いていた。まだ40代前半、若い人だ。

「いくらなんでも一極集中過ぎる、東京だけ繁栄していれば日本はいい、というのではいけない。風穴を開けなければ」。最初、東京で出版社を興した。東日本大震災を機に、地方での出版活動を実践する。今は、東京のほかに京都にオフィスを構えている。

 三島さんの文章を読んだ直後だった。日曜日(7月9日)、平・本町通りの「三町目ジャンボリー」(展示即売市)をのぞくと、前回6月から参加しているという「移動本屋 リードブックス」が店を出していた。

 品ぞろえが変わっている。三浦豊『木のみかた 街を歩こう、森へ行こう』が目に留まった。発行所は「ミシマ社京都オフィス」だ。店主はこれまた若い人で、「ミシマガジン?」と聞くと「そうです」という答えだった。なにはともあれ、ミシマ社の気風を感じるために読んでみることにした。「買い切り」なので定価通りの値段だった。
 
 本は100ページ弱と薄い。「コーヒーと一冊」シリーズ(コーヒー一杯を飲みながら読み切れる分量)の本で、キリ(桐)からエノキ(榎)まで、街に生える木15種類が紹介されている。一般にはなじみの薄いアカメガシワ(赤芽槲)も取り上げている。目の付け所がいい。
 
 次の日、カミサンが移動図書館で借りた益田ミリのマンガ『ほしいものはなんですか?』を手にしながら、「アラカシって木があるんだね」という。「あるよ、照葉樹」。アラカシは手を加えなければ大木になる。それが、常緑の生け垣として剪定されてそこにある。アラカシは一種の“人生訓”となって登場人物の心に生える。で、マンガの発行所を見ると、東京の「ミシマ社」だった。
 
 アカメガシワに戻る。この木は生命力が強い。アスファルトのすき間から芽生える。渓谷や河川敷、道端など、至る所に見られる。平の東部商店街の道端にあった若木は、そばに自販機を設けるときに切られたようだ。きのう(7月12日)確かめたら、根元しか残っていなかった。
 
 若い世代は本を読まないといわれる。いや、読んだり書いたりする若い人もいる。なんというか、30~40代の若い人たちが「中央―地方」という見方を超えて、「現に生活している場所が中央」ととらえるようになってきた、そういう人たちのなかに新しい読み手・書き手・編集者・出版事業者が生まれつつある、などと勝手に解釈して勝手にうれしくなった。

2017年7月12日水曜日

キュウリとナス

 このところの暑さも手伝って、キュウリやナスの生長が早い。夏井川渓谷の隠居にキュウリとナス苗各2つを植えた。キュウリは、1本だけが実をつけ始めた。別の1本は整枝中に誤って主枝を切ってしまったので、枯れた。ナスも実を付けるようになった。
 出かけるのは日曜日、つまり1週間に1回。これではキュウリもナスも肥大してしまう。7月9日に摘んだキュウリは、長さが40センチ近かった=写真。

 わざわざキュウリを肥大させる人がいる。インド料理の店「マユール」のオーナーはネパールの出身。ヘチマのように肥大させたキュウリを輪切りにして、塩を振って食べるのが好きなのだそうだ。肥大したキュウリは、わが家では薄切りにしてきゅうりもみにする。大根を輪切りにして塩を振り、水分がにじんできたところを食べる「大根の涙」がある。それと同じで、オーナーには「キュウリの涙」がたまらないのだろう。

 9日は、平・本町通りで「三町目ジャンボリー」が開かれた。野菜直売の生木葉ファームさんからいいことを聴いた。ナスは、朝採って夕方食べるときには柄を長くつけたまま摘む――。へたのところでもぎると水分が逃げやすく、鮮度が落ちるということなのだろう。その日の朝、隠居で摘んだナスには柄が付いていなかった。これではたちまち鮮度が落ちる。次からは、キュウリもナスも柄を付けたまま摘もう。

「野菜は要らないか」。きのう(7月11日)は知人から電話が相次いだ。家庭菜園といえども、キュウリやナスが一斉に生(な)る。夫婦2人だけでは食べきれない。1件はおすそ分けのおすそ分けだった。遠慮なくいただいて、近所におすそ分けをした。するとさっそく、夜には肉とキュウリの炒め物が届いた。

糠漬けも浅漬けだけでは芸がない。古漬けがある。塩漬けもいい。とにかく新鮮なうちに食べることだ。鮮度の落ちたキュウリは、中身が白くなっていて、漬けてもおいしくない。

2017年7月11日火曜日

キノコを彫る

 キノコに絞って木彫を続けている、いわきキノコ同好会の仲間がいる。いわき地域学會の副代表幹事でもある画家峰丘さんの絵画教室に通っている。
 7月6日から10日まで、いわき市好間町榊小屋のギャラリー木もれびで「峰丘 絵画教室展」が開かれた。峰さんと10人の生徒の作品が展示された。キノコ仲間の吉田健二さん(四倉)がわざわざ案内状を持ってきたので、日曜日(7月9日)に見に行った。

 木もれびへ出かけるのは震災後、つまりこの6年間で3回ほどだろうか。オーナー夫妻は、行政区は違うが同じ生活圏に住む。ふだんは経済人、その成果をギャラリー運営に還元している。

 ギャラリーの両隣に憩いの店ができる。手前の家はドッグランカフェになった。奥の家はちょっとした食事ができる店になる予定だという。好間川の河畔林に接した“別荘地”が、木もれびを核にした文化村的な空間になる。オーナーが夢見ていたことが一歩、現実に近づいた。

 で、肝心のキノコカービングだが――作品は3体。見たことも聞いたこともないキノコの名前が付されてあった。

 ウラアミアオタケ=傘は空色、柄は濃い青、傘裏には黒い網目が入っている。ウラグロクサイロハツ=傘は緑色、柄は白みがかった肌色、傘裏は黒っぽい。ウラギンアオノベニタケ=傘と柄はコバルトブルー、傘裏は黄土色=写真。ウラは傘裏のことで、ウラアミやウラグロは、それが網目状になっていたり、黒かったりすることを表している。ウラギンはよくわからない。

 吉田さんがキノコカービングを始めたのは原発事故後だ。野生キノコは、福島県内では会津の一部を除いていまだに摂取・出荷が制限されている。で、私の場合は「撮るしかない」、吉田さんは「彫るしかない」になった。色の表現が難しい、ということだった。

2017年7月10日月曜日

逃げ水

 久しぶりに「逃げ水」を見た。逃げ水は「ないものがある」ように見える光学的現象だ。
 梅雨とは名ばかりらしい。豪雨が続く西日本と違って、東北南部のいわき地方ではカラ梅雨気味に推移している。夏至に梅雨入りが重なった6月21日以後、小名浜の降水量は累計でもおよそ70ミリ。そのうえ、この週末は茶の間の温度計が3日連続で30度を超えた。すでに盛夏のような暑さだ。

 土曜日(7月8日)の午後遅く、平の街へ出かけた。家を出るとすぐ、部活帰りの中学男子3人組に遭遇した。一人がこうもり傘をさしていた。あまりにも暑いので雨傘を日傘に代用したのだ。近年は夏に1~2回、日傘の男性を見かけるようになった。

 いわき駅前を通ると、温度計が「35℃」を表示している。「猛暑日」ではないか。もちろん、今年の最高気温だろう。ラトブの図書館へ入ったら、驚いた。大半が半そでのなかで、女性が一人、コートを着ていすに座っていた。冷房は暑さを忘れさせるほどではない。“ひとりガマン比べ”をしていたのか。

 きのう(7月9日)はいろいろ行きたいところがあったので、いつもより1時間早く朝食をとった。夏井川渓谷(隠居で土いじり1時間)~三和町(ふれあい市場で買い物)~好間町(「木もれび」で絵画展を見る)~平(三町目ジャンボリーをのぞく)と巡ったら、お昼過ぎになった。

 ふれあい市場でおにぎりときのこご飯を買った。温室のようなわが家より風が渡る公園の木陰で食べたい――ということで、夏井川河口左岸にある「ざわみき公園」へ車を走らせる。堤防のアスファルト路面に“逃げ水”ができていた=写真。「光る水」があったあたりに行くと、それは消えて、さらに遠くに「光る水」ができている。その繰り返しだ。それだけ暑かったということだろう。

 さて、逃げ水より「逃げ道」だ。政治的私物化があったのか、なかったのか。きょうは国会で閉会中審査が行われる。「あったものをなかったことにはできない」と発言した前文科省事務次官が参考人として質疑にこたえる。大多数の国民は、今は参考人の人となりについて理解している。テレビ中継を見逃せない。

2017年7月9日日曜日

吉野せいの色紙

 吉野せい(1899~1977年)が亡くなって、今年(2017年)で40年。秋にはいわき市立草野心平記念文学館で「没後40年 吉野せい」展が開かれる。平成11(1999)年に「生誕百年記念―私は百姓女」展が開かれて以来、18年ぶりの開催になる。
 70歳を過ぎて書いた“百姓バッパ”の作品集『洟をたらした神』が大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞したのは昭和50(1975)年。本の生命力は今も衰えていない。加えて、本が出版されたときと、受賞時に記事を書いたこともあって、今もときどき『洟をたらした神』を手にする。
 
 地元の記者であれば知っておきたい人間の一人――という思いで、現役のころから研究資料や関連文献には目を通している。
 
 本人に確かめたかったことがいろいろある。『洟をたらした神』の時代は、大正から昭和40年代にまで及ぶ。記憶だけで書けるものではない。わが子の死をテーマにした「梨花」は日記に基づいて書かれた。ほかの作品にも、基になったメモやノートがあるのではないか。
 
 生誕百年記念展では、平の玉手匡子(きょうこ)さんが聞き手になって、せいの四男誠之(せいし)さんと対談している。その大要が文学館の“月報”(平成12年3月末発行)に載る。「私ら子どもから見ても、書くことが好きそうでした。夜中に起き出して、ちょっとしたメモや日記の様なものを書いていました」。このへんが手がかりになるように思う。
 
 同じ対談で紹介されているせいの色紙「怒を放し恕を握ろう」=写真=の読みも、確かめたかったことのひとつだ。玉手さんは「怒」を「怒り」と読んだ。すると、対句的表現で「恕」は「恕(ゆる)し」になるのではないか。月報ではしかし、「し」が抜けたまま「怒りを放し恕を握ろう」となっている。
 
 剛直で明晰なせいの文体は、どちらかというと男性的・漢語的。「怒り」や「恕し」といった和語的表現よりは、音読みの「怒(ど)を放し恕(じょ)を握ろう」も“誤読”とは言い切れないのではないか。こちらの語呂やリズムの方が、むしろせい的だ。
 
 この“せい語録”は、他人のためにはいろいろ尽くしても生活能力には欠ける夫・吉野義也(三野混沌)との確執から生まれた。が、最後は確執を超え、自分のかたくな心をも超えて、愛憎複合の果てにやってきた青空を思わせる。玉手さんに会ったら、読みを聞いてみよう。

2017年7月8日土曜日

わが家は真夏日

 きのう(7月7日)の夜10時前、グラッときた。「ん!? 震度4に近い3か」。福島地方気象台のホームページで確かめる。震源は福島県沖(相馬の方)、田村市都路町で震度4。いわき市は平その他で2だった。2? わが家は3.5(そんな震度階級はないが)くらいだったぞ――6年の経験からそう思った。
 ま、それはそれとして、きのうは夕方、知人の奥さんの通夜へ出かけるまで、家でTシャツ・半ズボンで過ごした。日中、出かける予定がなかったことと、朝から晴れて気温が上がったために、自然とそんな格好になった。
 
 クーラーのない昭和の家に住む古い人間なので、それだけで裸に近い状態だと思ってしまう。だから、近所のコンビニへ行くときには長ズボンにはき替える。街へ行くときには、半そでシャツを重ねる。

 夕方、通夜へ出かけるために喪服に着替えた。たちまち汗がにじんだ。テレビのそばの時計を見ると、午後5時前で室温は30.8度=写真。屋内が真夏日になっていた。小名浜はきのう、最高気温が24.6度、内陸の山田町は28.8度。わが家の茶の間は南が庭と接しているので、その輻射熱も入り込むのだろう。
 
 さて、亡くなった奥さんは67歳、私よりひとつ年下だ。いつもは冗談を言って人を笑わせる知人が、やつれて小さく見えた。子育てが終わって夫婦2人だけになり、孫の世話をするのが楽しみな日々。年を重ねると、こうして夫婦のどちらかが先に彼岸へ渡るのだ――夜は亡くなった奥さんの顔がちらついて酒の量が増えた。

きょうも暑くなりそうだ。朝からTシャツに半ズボンでいる。

2017年7月7日金曜日

空の監視レーダー

 山頂の城だけがぽっかりと霧の海に浮かぶ。天空の城・越前大野城。盆地のなかの小さな丘(標高249メートル)なのに、霧がふもとの市街を覆うと、はるか天空にそびえる城のようにみえる――。テレビで見た光景を思い出した。
 日曜日(7月2日)、朝。平・中塩地内の水田地帯を移動していると、北西に広がる水石山(標高735メートル)が、ふもとからわきあがる雲に隠れるところだった。

 水石山は、平市街の北から西に連なる阿武隈の山の代表格だ。平の人間にとってはこの時期、夕日が沈む山でもある。

 朝霧が雲になって見慣れた山を刻々と覆う。残っているスカイラインはほんの一部、国交省のいわき航空路監視レーダーが見えるだけだ。おかげで、いかにも天空に屹立(きつりつ)する城のようだった=写真。その場所に、その時刻にいたからこそ、カメラで切り取ることのできた、雲に浮かぶ“空の灯台”。撮影もまた一期一会だ。

 阿武隈高地ではこれとは別に、主峰・大滝根山(1193メートル)の頂上に航空自衛隊のレーダー基地がある。

 62年前の昭和30(1955)年、山頂に米軍のレーダー基地ができた。翌年には航空自衛隊の部隊が移動し、3年後の同34年、米軍から航空自衛隊に施設が移管された。「わが国に侵入する弾道ミサイルや航空機に対して、24時間態勢で警戒監視と戦闘機の要撃管制を実施している」と基地のホームページにある。北朝鮮のICBM(大陸間弾道ミサイル)も当然、監視警戒の対象になるということだろう。

 防衛省と国交省の違いはあるが、福島の阿武隈の山には空の監視レーダーが二つある、そのことを、ときどきは思い出した方がいい時代に入ったか。

2017年7月6日木曜日

昭和40年代の平駅前

 またまた朝ドラ「ひよっこ」にからんだ話で恐縮なのだが――。
 昭和41(1966)年6月29日~7月3日、ビートルズが来日し、公演した。私は高専3年生、数え18歳。武道館へ聴きに行った後輩の1年生は、朝ドラ・谷田部みね子の叔父の熱狂そのものだった。リンゴ・スターが好きだった。私もビートルズの音楽になじむうちに、ジョウジ・ハリスンに引かれていった。

 ビートルズは「画期的」どころか、「画期」だった。少年が「表現」に目覚めることは、当時の私の周囲では詩を書いたり、小説を書いたりすること、つまり「文学」に目覚めることだった。ところが、「団塊の世代」直下の後輩は違っていた。「音楽」が表現の中心になっていた。

 そのころ、常磐地方の14市町村が合併して「いわき市」が誕生する。いわき総合図書館で平成29年度の前期常設展「写真でみる いわき市誕生 その2――昭和40年代 平(現いわき)駅前の賑わい」が始まった。
 
 資料=写真(左側は「その1」、28年度後期の常設展)=をパラパラやっているうちに、当時、高専の学生が駅前のあちこちの喫茶店に入り浸っていたことを思い出した(実は先日、知人から平の喫茶店に関する資料がないかと聞かれた。1冊だけ記憶にあったので、図書館へ確かめに行ったのだった)。

 一番身近なところでは三田小路の「じゅん」、ビートルズ好きの後輩は駅前から少し遠い南町の東はずれの方にあった「アジト」、先輩たちは「フィレンツェ」。ときどき出かけたのは平和通りの「エスカイヤ」。ほかにも、足を運んだ喫茶店がいくつかある。今残っているのは「じゅん」(内郷に移転)だけだろうか。

 ジャズでもロックでもクラシックでもなく、今思えば甘ったるいフォークソングに引かれていた人間には、ビートルズは後輩から教えられた“劇薬”だった。同時に、喫茶店はコーヒーを飲む店である以上に、人生とかかわる場所だった。喫茶店を抜きにしてその人生を語れない人間を何人か知っている。

2017年7月5日水曜日

地上の安藤信正像

 朝ドラ「ひよっこ」と同じ時代の、平の街の資料があれば――。ゆうべ(7月4日)、故義伯父の家にある自分の本棚をあさっていたら、茶色くくすんだ封筒から松ケ岡公園の安藤信正像の写真が出てきた=写真。
 信正像の制作者は彫刻家本多朝忠(ともただ)さん(1895~1986年)。大正11(1922)年に建てられた信正像(これも本多さんが制作)が太平洋戦争で供出され、戦後、昭和37(1962)年になって2代目が再建された。2代目の建立・除幕式の写真のようだった。

 義父や別の義伯父が本多さんと交流していたこともあり、結婚して子どもが生まれてからは、ときどき家族で高台の洋館を訪ねた。プロレスや俳句を好む「飄逸(ひょういつ)の人」で、年齢を聞いてもずっと「69歳」で通した。

本多さんから“形見分け”としていただいたものがある。信正像の写真もそのひとつだったようだ。絵はがきを含めて7枚あった。
 
 台座に取り付けられる直前の信正像のそばに、ベレー帽・半そで姿の本多さんが立っている。その比較でいえば、銅像は人間の2倍の高さ、体積は4倍ある。大きい!

 2年前の秋、四倉で昭和11年に撮影された16ミリフィルムのデジタル版の試写会が開かれた。初代信正像が映っていた。その後、試写会を主催した知人から信正の初代銅像の写真と、新聞記事(昭和36年4月8日付いわき民報)のコピーが届いた。

「平城主安藤信正公の銅像再現は平市八幡小路、彫刻家本多朝忠氏の手で進められ、このほど高さ9・1メートルという大原形(粘土像)ができあがった。引き続き石膏取りに入り6月ごろに終え銅像を鋳造する予定だが、再現費300万円の寄付金の集まりが悪く、銅像完成の成否は拠金如何にかかっているといわれている」

 なんとかかんとか再現がなったのは、平市議会で補正予算が可決されたからだ(いわき市の公式フェイスブックによる)。昭和37年7月22日に除幕式が行われたことは、けさ、市立図書館のホームページで知った(いわき民報の記事による)。銅像が建立されるまでの紆余曲折、つまりは「人間ドラマ」が見えるようだった。

2017年7月4日火曜日

アトリウムの雨粒

 草野心平記念文学館へ行くと、決まって正面のアトリウムロビーから分厚いガラス壁面越しに二ツ箭山を眺める。
 土曜日(7月1日)、昼。少し雨が降りはじめたときだった。ガラス壁面に雨粒の“点描画”ができていた=写真(実際は透明に近い、フラッシュでこうなった)。垂直に長く短く、斜めに短く。なにかの絵で見た、地上に降り注ぐ大流星雨のような……。雨粒は芥子粒大、それより小さいものもある。大小の粒々がばらばらな間隔で直線をつくっている。つるつるの壁面をキャンバスにした雨と重力のアート――。

 昨年(2016年)秋、同じ壁面を利用して、人間がちぎれた曲線の作品を描いた。平・三町目の「もりたか屋」を主会場に、美術展「いわきまちなかアート玄玄天」が開かれた。芸術文化交流館アリオスや心平記念文学館にも作品が展示された。

 文学館のガラス壁面には、心平の詩「猛烈な天」3連11行が記されている。その下の、人間の背丈に合わせたところに、ちぎれた白い曲線が無数に描かれた。作者は浅井真理子さん、タイトルは「somewhere not here」(「ここではないどこか」)だった。

「建物のガラス窓の外に見える光や影、人々の動き、刻々と変化する事象の一瞬を追い、内と外の間の被膜をひっかくように描く架空の地図」だそうで、「光の動きや窓やドアの動きと共に変身するこの作品を、目をこらさなければ見過ごしてしまうことを、あなたの視線で見つけてください」とあった。

 なるほど。美術家と自然との共作だ。雨粒の点描画も同じように目を凝らさないと見過ごしていた。こちらは、見る人間と自然との共作。
 
 芸術は自然を模倣する。あるいはその逆に、自然は芸術を模倣する、と言われる。どちらにせよ、自然はアートの源泉だ。雲がそう(石川啄木は「雲は天才である」といった)、秋の紅葉がそう、クモの巣やハチの巣が、虹がそう。朝焼けも夕焼けもそうだろう。大事なのはセンス・オブ・ワンダー(自然の不思議に目を見張る感性)。けさ(7月4日)は前線の影響で雨のほかに風も吹いている。アトリウムの雨粒はどんな抽象画を描いていることだろう。

2017年7月3日月曜日

エディブルフラワー

 土曜日(7月1日)の午前、いわき市立草野心平記念文学館で事業懇談会が開かれた。終わって、館内のカフェ&レストラン・スピカに移動して昼食をとった。出てきたのは「気まぐれランチ」というものらしかった。1枚の皿に雑穀ごはんやサラダ、グラタン、その他が載っている。中央に花が一輪添えられていた。
 詩人の長久保鐘多さん(勿来=元高校教諭)と同席した。長久保さんは昭和56(1981)年、福島県文学賞・詩の部正賞を受賞する。そのとき取材して以来のつきあいだ。今は事業懇談会で年に2回、ほかに文学者の講演会で顔を合わせる程度だが、現役のころは平の詩人や画家たちと一緒に飲むことが多かった。ランチが来るまで雑談した。共通の知人の「Aさんは?亡くなった」「Bさんは?亡くなった」、半分はそんな話になった。

 ランチに添えられた花は、私の場合は黄色、長久保さんのは朱色だった。秋のカツオの刺し身に生のキクの花が添えられることがある。口に入れる。それと同じで、私はためらいなく黄色い花を食べた。長久保さんは花を皿の端によけた。ただの飾りと思ったのだろう。

 そこからとんちんかんなやり取りが始まる。「花を食べるの?」「食べられるんじゃないの?」。料理を持ってきた女性に聞くと、これがまたあいまいな返事だった。で、女性が調理場へ聞きに行く。「食べられます」。長久保さんは驚き、かつ大いに興味を抱いたらしく、かみしめるように朱色の花を胃袋に収めた。
 
 テーブルに、食用花=エディブルフラワーの紹介文があった。それを長久保さんに示す。長久保さんはさっそく「エディブルフラワー」という言葉をメモした。詩的インスピレーションを受けたらしい。
 
 考えてみれば、フキノトウがそれに当たる。キュウリの花=写真=も食べられる。秋のミョウガの子も花ごと食べられる。菜の花はずばり、エディブルフラワーの代表ではないか。
 
 文学館では4月15日から6月18日まで、企画展「草野心平の詩 料理編」が開かれた。関連イベントとして、5月に「心平さんの胃袋探訪 創作料理の試食と解説」を開催、参加者はエディブルフラワーを載せたサンドイッチを試食したそうだ。心平は、花も南蛮味噌や醤油、蜂蜜、二倍酢につけて食べた。
 
 長久保さんは新聞のニュースやコラム、本、身近な人々の言葉や行為など、日常接したり見聞きしたりするものからインスピレーションを受け、哲学的な考察を加えて詩にする。「エディブルフラワー」もやがて詩になるのではないか。

2017年7月2日日曜日

とうとうサルが現れた

 とうとうサルが現れた。きのう(7月1日)、夕方。知り合いが家に来て、カミサンに言った。「サルが歩いてた」。聞けば、すぐ近くだ。カメラを手にしてそちらへ向かうと、2階建て住宅の屋根のてっぺんにいた。
 とうとう――というのにはわけがある。今年(2017年)の5月以降、いわき市南部を主に、サルの出没情報が相次いでいたからだ。

 南部に住む後輩の話や市のホームページによれば、5月16日は中岡町・植田町根小屋・東田町・佐糠町で、同17日は佐糠町・東田町、同18日は泉町滝尻・玉露でサルが目撃された。6月の後半になると、好間町下好間・平字北目町・幕ノ内、あるいは平・鎌田や南白土・下荒川・郷ケ丘などに現れ、26日は三和町合戸、29日は好間町大利・北好間・上好間で目撃されている。
 
 単独行動の若いはぐれザルが(たまたま複数いて別々に現れた可能性も否定できないが)、いわきの南部から中部へ、さらに北部へと移動していることが推測できる。6月10日早朝には散歩していた知人が、白水阿弥陀堂(内郷)へ向かう途中でサルに遭遇し、ふきらはぎをかまれた。幸いけがはなかった。
 
 撮影データをパソコンで拡大して見た限りでは、若いのにやせている感じ。見晴らしのいい高所で、ただ座っている。ときには“体育座り”になり、手を前で組む=写真。人間が下に集まっても動じない。動いたと思ったら西側の軒先へ移動し、右手で雨樋をつかみながら横になる。雨樋に手をかけているのは転落防止か。なんだか疲れている様子だった。
 
 サルはそれから間もなく隣家へ移り、さらに別の家の家庭菜園と休耕田に移動したあと、奥の住宅地へと姿を消した。
 
 内郷の知人が遭遇したのは「毛並みのいい、ハンサムなサル」だった。歩道を歩いている姿がフェイスブックにアップされていたが、確かに立派な体格をしている。それに比べたら……。人間にたとえると、“荒野”に分け入ったのはいいが、食べるものがない、カネもない、万策尽きる寸前の“はぐれ青年”のような印象を受けた。

2017年7月1日土曜日

1年の半分が終わった

 きょうから7月。あっという間に1年の半分が終わった。3月は年度末、4月は年度初めで忙しいのは毎年のことだが、今年(2017年)は5月の大型連休を過ぎ、6月に入ってもなかなかのんびりできない。日によっては午前・午後・夜と用事が続く。きょう(7月1日)も午前と夜、用事が待っている。
 しかし、忙中にも閑はある。特に、日曜日の土いじり。人に会って話を聞くだけの仕事(取材)をしていたときには、地に足がつかない「存在の耐えられない軽さ」を感じたものだが、家庭菜園を始めてからは二本の足で大地に立っているという実感がある。なかでも、昔野菜の三春ネギには学ぶことが多い。

 ネギは自分の子孫を残すために、春先、花茎を伸ばす。やがて、その先端にネギ坊主ができる。ネギ坊主は小さな花の集合体だ。花が咲けば実が生(な)り、種が形成される。ネギ坊主から黒い種がのぞくようになったら、ネギ坊主を摘み取り、乾かして殻やごみを取り除き、種だけを小瓶に入れて冷蔵庫で保管する。
 
 ネギ坊主をちょん切られたネギはそれで終わり、ではない。掘り起こして外皮をむくと、新しいネギが1本、根から分げつしている=写真(左の2本は花茎、先端にネギ坊主をいただいていた。右は分げつした新しいネギたち)。花茎は硬いので食べられない。土に返す。分げつ苗は溝に植えなおすと、普通に育って食べられる。市販のF1品種だと、そうはいかないのではないか。

 植物の不思議な生の営み――「忙中閑あり」どころか、「忙中“歓“あり」だ。とはいえ、これからネギには根切り虫が現れる。ナスには芯くい虫が寄って来る。虫との闘いが始まる。