2017年8月31日木曜日

十字架は「光の鳥」(下)

 元・平聖ミカエル会衆の外壁に、鳥型の十字架を配した小屋風の出っ張りがある。十字架は二重に区切られた色違いのステンドグラスでできている。長方形のほかに、少しいびつで小さな方形が18個。外側の黄色い長方形は、内側では黄金色に見えたのではないか。 
 40年近く前の子どもの卒園式の写真を見てわかったのだが、この出っ張りの十字架がそのまま内部の礼拝堂の十字架になっていた=写真(写っている男性は園長さん)。外光がステンドグラスを通じて「輝く十字架」になる仕掛けだ。ふだんは厨子(ずし)のように板の引き戸で仕切られているのでわからなかった。
 
 この建物を設計したのはフランク・ロイド・ライトの弟子のアントニン・レーモンド(1888~1976年)、十字架その他の装飾を手がけたのは奥さんのノエミ(1889~1980年)ではないか――そう直感したのは、この十字架のかたちによる。

 アントニンが設計した東京女子大礼拝堂の祭壇、カトリック新発田教会や札幌聖ミカエル教会のステンドグラス(和紙の切り絵が張られている)、聖アンセルモ教会(カトリック目黒教会)の壁画レリーフなどは、ノエミがデザインしたという。かたちが斬新で、独創的だ。

 平聖ミカエル会衆の鳥型の十字架、しかも多彩なステンドグラスでできた「光の鳥」は、新発田教会などのデザインと重ね合わせてみると、いかにもノエミっぽい自由さがある。で、この十字架から、装飾・ノエミ→建築・アントニン、という逆の連想がはたらいた。

 幼稚園はもともと少人数で運営された。卒園児は、長男のときは18人だった。少子化の影響なのか、10年くらい前に閉鎖された。日本聖公会東北教区によれば、礼拝堂は平成27(2015)年3月28日、54年の歴史を閉じた。こちらも信者が少なかったのだろう

 きのう(8月30日)のブログ=フェイスブックへのコメントで、説教台の十字架が同じデザインだということ、その説教台は小名浜聖テモテ教会に移されたこともわかった。説教台の装飾も同じ鳥型の十字架とくれば、いよいよ平聖ミカエル会衆の装飾はノエミによるもの、と確信した。

 ついでながら、日本家屋を熟知する建築家は太平洋戦争で帰米したあと、軍の要請で油脂焼夷弾の爆撃実験のため、砂漠に実物そっくりの日本の下町の家並みをつくらされたという。結果として東京などの空襲の遠因をつくったと、レーモンドの下で働いた日本人建築家は記す。
 
 ついでのついでに、このブログの参考資料(いわき市立図書館所蔵の図書)を列記する。ただし、総合図書館の本から平聖ミカエル会衆がレーモンドの作品である証拠は得られなかった。小名浜の本はまだ読んでいない。いずれも21世紀に入ってから出版された。夫妻の再評価が進んでいるのだろう。

【総合図書館】①『自伝 アントニン・レーモンド』(鹿島出版会、2007年)②アントニン・レーモンド著/三沢浩訳『私と日本建築』(同、2003年第11刷)③三沢浩著『A・レーモンドの建築詳細』(彰国社、2005年)④神奈川県立近代美術館編『建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド』日本展図録(2007年)
【小名浜図書館】三沢浩著『おしゃれな住まい方――レーモンド夫妻のシンプルライフ』(王国社、2012年)

2017年8月30日水曜日

十字架は「光の鳥」(上)

 その建物はフランク・ロイド・ライトの弟子が設計した、という情報に接したのはつい最近。教会兼幼稚園だった。今は個人宅になっている。
 いわき市平字六軒門の元・聖ミカエル幼稚園。およそ40年前、子どもが通ったところだ。運営母体は日本聖公会。礼拝堂を園舎に利用していた。

 小規模園なので、保護者が送迎した。朝は出勤時間に合わせて近所の子も乗せて送り届ける。帰りは近所の子の母親が迎えに行ってくれた。土曜日は休み。代わりに、日曜礼拝があった。朝、子どもを送り届ける。その足で近所に住む画家松田松雄宅に寄り、NHK教育テレビ(現Eテレ)の日曜美術館を見る。終わるころ迎えに行く。松田の子も同じ幼稚園に通っていた。

 園舎(教会)は住宅地の奥にあった。車では入れない。表の通りで車を止め、「さあ、行ってこい」と送り出す。園舎に入るのは運動会のときくらいだった。園庭をはさんで西から北へと、L字型に平屋の建物があった。「洋」なのに「和」のにおいがする――その程度の印象しかなかった。

 日本聖公会といえば、大正時代、磐城平で牧師として布教活動をした土田八九十(はくじゅう=詩人山村暮鳥)がいる。山村暮鳥については少し知っているが、土田八九十についてはほとんど知らない。その流れをくむ教会兼幼稚園だ。

 昭和54(1979)年に創刊された平聖ミカエル会衆の機関紙「ミカエルの園」に、簡単な沿革が記されている。それによると、常磐線開通後、水戸からキリスト教の伝道が行われ、明治36(1903)年に平に講義所が開設された。その後、湯本に礼拝堂兼幼稚園が建てられる。
 
 平の施設は「聖オーガスチン教会」「平聖ミカエル海岸教会」などと名を変えた。戦後の昭和24(1949)年、小名浜での伝道が開始されると、小名浜の教会(聖テモテ)に加わることになり、平の敷地が売却された。やがて、「平にも教会を」という声が強まり、同36(1961)年、現在地に礼拝堂兼幼稚園の建物がつくられた。
 
 この建物を設計したのがライトの弟子ということになる。「ライトの弟子」を手がかりに検索してたどりついたのは(確定ではない)、アントニン・レーモンドという建築家だった。奥さんのノエミも十字架その他、建物内外の装飾・デザインに協力している。
 
 レーモンドは「帝国ホテル」の設計のために師匠のライトと共に来日し、独立後も太平洋戦争期をのぞいて日本で仕事をした。各地に優れた作品を残している。多くの教会も設計した。
 
 カミサンが撮った平聖ミカエル会衆の外観写真を見て、初めて十字架が斬新なデザインだったことを知る=写真。教会関係者によると、鳥をイメージしたものだろう、という。それがヒントになった。
 
 この10日余り、レーモンド夫妻関係の本をパラパラやりながら“確信”したことがある。十字架は「光の鳥」。そんな斬新なデザインができるのはレーモンドの奥さんのノエミしかいない。ゆえに、建物の設計はアントニン、ということになる。物証はない。十字架はノエミ作――という“確信”については、あした。

2017年8月29日火曜日

虫の顔

 夜更けまで蚊取り線香を焚きながら、玄関と茶の間の戸を開けている。宵になると庭でコオロギが鳴きはじめる。飛び込んで来る虫もいる。
 先日は夜10時前、晩酌を終えてノートパソコンを開いていたら、ショウリョウバッタが飛んで来てふたの角に止まった。いつもそばにデジタルカメラを置いている。カメラを近づけても動かない。珍しく簡単に接写ができた。

 撮影データをパソコンに取り込んで拡大した。なんという馬面=写真。頭と顔を構成している触角・複眼・口・脚がよくわかる。肉眼ではわからない単眼(複眼のすぐ上にある小さな白い点)も。異様なかたちでもじっと見ていると、だんだんいとおしくなってくる。デジカメの強みがこれだろう。
 
 アマガエルもハエトリグモもそうだった。真正面の写真を拡大すると、愛敬がある。カナチョロ(カナヘビ)は、横顔だけ見ると蛇と変わらない。恐竜顔でもある。
 
 月遅れ盆を境に、8月前半は夜、カブトムシの雌が迷い込み、後半の昼にはキアゲハが現れた。
 
 きのう(8月28日)は昼前、アオスジアゲハが家と庭の間を行ったり来たりした。花らしい花はひとつ、フヨウが咲き出しただけ。タカサゴユリは半分開花したところを切り花にして茶の間に飾った。これに引き寄せられたか。いやいや、そうではあるまい。顔を向けたらすぐUターンした。カメラを手にする暇もなかった。黒い翅の中央にある、鮮やかな青緑色の帯(アオスジ)が今も目に残っている。

 ――6時2分。突然、防災ラジオにスイッチが入った。テレビ画面からは「ミサイル発射」の情報が。空襲警報ではないか。

2017年8月28日月曜日

市民体育祭

「曇りときどき晴れ男(女)」が多かったらしい。きのう(8月27日)の神谷(かべや)地区市民体育祭=写真(幼稚園児のスカイバルーン)=は、曇りときどき薄日か晴れ、終わって大抽選会は快晴――と、いいあんばいの天気になった。
 個人・団体合わせて17のプログラムが用意された。神谷地区(旧神谷村)は新旧国道を軸にした市街地と郊外の8つの行政区からなる。団体は8行政区の地区対抗戦だ。こちらは予選を含めて9プログラムが行われた。種目としては安全運転(一輪車にフットベースボール?を数個乗せて運ぶ)・綱引き・玉入れ・リレーの四つ。

 わが区は、実力としては総合3位か4位レベル。安全運転では4位、綱引きは最強チームが相手で初戦敗退、玉入れで3位、リレー予選で2位と、リレー決勝を残す時点では「参加することに意義がある」成績(総合3位)だった。ところが、最後のプログラム・リレー決勝で1位になり、思わぬ準優勝のトロフィーを手にした。近年になく反省会が盛り上がった。
 
 区の役員は出場選手をサポートするのが役目だが、予定していたメンバーが1人欠けたため、綱引きに駆り出された。相手は綱引き常勝のチーム。号砲が鳴った瞬間、ズルズル引っ張られた。力を出しきるどころではなかった。
 
 相手チームは去年(2016年)、総合優勝をしている。少子・高齢化の典型のような農村部の区だが、急に底力が付いたような印象がある。今年も総合優勝を果たした。
 
 今年で43回目の体育祭だが、種目によっては先行き不透明なものがある。今年初めて、農村部の別の区がリレー出場を見送った。個人の100メートル走(小1~3年生)・150メートル走(小4~6年生)も、6回の予定が3回で終わった。少子化の影響は、こういうところに真っ先にあらわれる。種目の見直しが必要な時代になった。

2017年8月27日日曜日

雲のかたち

 きょう(8月27日)は晴れ、小名浜では最高気温28度の予報だ。朝6時、花火が2発打ち上げられた。地区体育祭が予定通り行われる。熱中症のことを考えれば、曇りくらいがちょうどいいのだが――。
 屋外でのイベントは、雨が大敵。天候不順が続く今年(2017年)の夏は、主催者は気がもめてしかたがなかったろう。

 例年なら太平洋高気圧が張り出して梅雨が明け、炎暑がやってくるのに、今年(2017年)はオホーツク海高気圧の勢力が強まり、北東の風が吹き込んで曇雨天続きの冷夏になった。

 いわきの大きなイベントは、それでも中止になることはなかった。平地区では七夕まつり、夏井川流灯花火大会が無事終わった。身近なところでは、月遅れ盆の精霊送りも。

 8月16日朝の精霊送りは、行政区が主催する。そのための準備が何日か前に始まる。斎場用に4本の竹と杉の葉、ホオズキを調達する。前日には集積所の草刈りをして、斎場をつくらないといけない。そして、当日早朝。区の役員が当番でお盆様を斎場に積み上げる。天気を気にしながらの準備だったが、タイミングよく雨がやんでくれた。
 
 ぐずついた天気が回復に向かうなか、きのうは朝に一時、強い雨が降った。午後には太陽が顔を出した。そのころ、各地区の役員さんらが出て、体育祭のテント組み立て、テーブル・いす出しをした。いっぱい汗をかいた。
 
 夕焼け雲がきれいだったらしい。フェイスブックに何枚も写真が投稿されていた。朝も不気味なくらいに空の雲のかたちが変わった。朝日が昇ったと思ったら、間もなく西から水銀色の雲に覆われた。にわか雨の予報に2階の窓を閉めに行ったら、驚いた。地上の人間が巨大な生きものの消化器の中にいるような感じを受けた=写真。消化器のひだひだが下から照らされて光っていた。
 
 きょうは雨の不安はないが、熱中症の心配がある。「雨男」「雨女」でも、「晴れ男」「晴れ女」でもない、「曇り男」「曇り女」がいないものか――とあらぬことを考えつつ、これから会場の小学校へ向かう。

2017年8月26日土曜日

ちたけうどん

 夏キノコのチチタケは、そのまま刻んで味噌汁に入れてもボソボソしてうまくない。ところが、栃木県ではチチタケがマツタケ以上に珍重される。「ちたけうどん」「ちたけそば」にして食べるのだという。なぜまずいキノコが、だれもが焦がれる味になるのか――。
 インターネットが普及する前、いわきキノコ同好会の仲間が栃木県へ出かけて、ちたけうどんを食べながら“秘密”を探った。秘密なんてなかった。まずは油で炒める。それだけだった。今はネット上に作り方があふれている。
 
 チチタケを細かく裂いて、刻んだナスと一緒に中華鍋で炒め、醤油で濃い目に味付けをする。そのあと、水を足して煮る。みりんや酒、砂糖を入れ、さらに醤油で味を調える。これで基本のスープができあがる。大根やニンジンが入れば、けんちん風味になる。
 
 油で炒めることでチチタケのうまみ成分が発揮される。チチタケ自身がいい出汁(だし)を出す。なぜそうなるのかは専門家に聞くしかない。が、炒める・炒めない、で味が激変する。同好会の仲間に、あっという間にちたけうどんの調理法が広まった。

 去年(2016年)夏、ロシアのサハリン(樺太)とシベリア大陸(ウラジオストク・ナホトカ)を旅した。あすは帰国という晩、ウラジオの街で夕食をとった。キノコスープが出てきた。マッシュルームが主体らしかったが、ちたけうどんのスープに似た味だった。
 
 それよりずっと前、“孫”の母親がカナダ人女性を連れて来たことがある。たまたまチチタケを採り、スープをつくっておいたので、ちたけうどんを振る舞った。「ジャパニーズヌードル」に舌鼓を打った。少なくとも、ちたけうどんは国境を超える味のようだ。

 ところが、原発事故以来、これを口にしたことがない。調理法を忘れてしまいそうだ。というわけで、先日、チチタケ2個でつくってみた。手元にあったナス1個を使っただけで、酒・みりん、大根・ニンジンなどは省略した。熱々のつけ麺にして、ミョウガを散らした=写真。十分にちたけうどんのスープの味だった。
 
 野生キノコは依然、摂取も出荷もできない。キノコの食文化を残すためにも、作り方だけはときどきおさらいしておかないと――。

2017年8月25日金曜日

トトロの木

 小・中学校はきょう(8月25日)から2学期。朝7時すぎには集団登校の子どもたちが家の前を通る。今年(2017年)は「日焼けした子ども」はいても少ないに違いない。曇雨天続きの夏休み――外で遊び回っても日に焼ける時間はなかっただろう。
 2週間前の「山の日」、草野小絹谷分校の前を通って石森山へ出かけた。年に1~2回は分校の「トトロの木」=写真=を見ながら通る。8年ぶりにトトロを撮影した。

 トトロの木を知ったのは、上の孫が2歳ちょっとのとき。父親が車に乗せてよく石森山へ連れて行ったらしい。その行き帰りにでも分校の前を通って教えられたのだろう。父子の会話に「トトロ」が出てくる。石森山にトトロがいる? 車に同乗して見に行ったら、分校の校庭にある針葉樹のことだった。

 幹の枝が払われ、上部だけが動物に似せて刈り込まれていた。ミミズクとネコを重ね合わせたような顔だが、耳が立っている。目・鼻・ひげが飾り付けられている。まさにトトロだった。
 
 その孫が、今は小4だ。トトロの木もそれだけ年輪を重ねた。8年前の写真と比べると、少しふっくらしたようだ。カメラの角度が真正面でなかったせいもあるが、目が引っ込んで見える。耳もぼさぼさ、赤い鼻は色が落ちた。

 いわき市内では、分校は今やこの絹谷しかない。しかも、平地の田園地帯にある。住宅街の本校までは直線距離で3~4キロの間か。地理的には珍しい分校ではないだろうか。
 
 2階建ての木造校舎がなんともかわいい。その校舎にピッタリのトトロの木だ。子どもたちはトトロに送迎されながら4年生までここで学び、5年生になると本校へ通うようになる。孫は本校の4年生。来年はもしかしたら分校出身の同級生ができるかもしれない。トトロの木が両者をつないでくれるといい。
 
 8年前のきょう、拙ブログでトトロの木を取り上げた。「今日(8月25日)から2学期。分校の『トトロ』はわくわくしながら子どもたちを迎えたことだろう」なんて書いていた。少し年をとったトトロは、きょうもわくわくして分校生を待っているにちがいない。

2017年8月24日木曜日

旅するタカサゴユリ

 いわきでは、月遅れ盆が終わるころから目立つようになる。場所によっては密集して咲く。台湾原産の帰化植物・タカサゴユリ、あるいはタカサゴユリとテッポウユリのハイブリッド(交雑種)、シンテッポウユリだ。
 山を削って道路ができる。と、8月中旬以降、切り通しに白い花が咲き出す。その数がハンパではない。わが生活圏では平・草野の農免道路、常磐道、国道6号常磐バイパス。最近では近所の道端、側溝、住宅の庭や生け垣でも見られるようになった。

 ある意味では侵略的な植物だ。見つけたら抜き取り・刈り取りをするのが基本だが、つい白花の清楚さに惑わされて見守ってしまう。すると、花が咲いたあとにものすごい数の種が風に飛ばされ、あちこちで根づき、花が咲いてまたものすごい数の種を散らす。そうして日本列島を北上しつつあるのだろう。福島を通り越して宮城県まで分布の範囲を広げている。

 タカサゴユリの白花に気づいたのはおよそ30年前。10年ほどたってから、旧知の植物研究者に確かめたら、いわき市の帰化植物について記した文章のコピーが届いた。やはり、30年前から急激に増え始めたという。

「タカサゴユリは8月の下旬頃から9月にかけて開花する。翼を持つ種が風にのって多数飛散し増え続け、飛んできた種子が根をおろして球根を形成し何年もその場所で咲き続ける。広範囲に一斉に開花し見事な景観を呈する」

 今は「何年もその場所で咲き続ける」意味が少しわかってきた。「何年かはそこで咲き続けるが、やがては姿を消す」ということでもある。平・草野の農免道路の切り通しでは、今はほんの少ししか見られない。“連作障害”が起きて、球根が枯死するらしい。そのころには木々や在来の草も茂るから、新しい種が飛んできても根づく環境ではなくなっているのだろう。「旅するユリ」といわれているそうだ。

 わが家でも、去年(2016年)、生け垣のたもとにタカサゴユリが芽生え、花を咲かせた。今年も同じところから芽を出した。間もなく開花する。ほかのタカサゴユリは地べたから30センチくらいのところで咲いているのもあるが、わが家のタカサゴユリは背が高い。九つあるてっぺんの蕾=写真=まで2メートル30センチはある。花が咲いたらすぐ切って部屋に飾り、しおれたらごみ袋に入れて始末する。

2017年8月23日水曜日

いわきキッズミュージアム

 日曜日(8月20日)は昼前、半分カミサンのお供(運転手)でいわき市暮らしの伝承郷へ出かけた。「いわきキッズミュージアム」が開かれていた。前日は常磐の市考古資料館で同題のイベントが開かれた。両日とも滋賀県の滋賀絆アート支援プロジェクト実行委員会などが協力した。
 伝承郷では、民家ゾーンで「竹で遊ぼう」「消しゴム版画でエコバッグ作り」「プラ金魚すくい」などが行われた。これに「滋賀の夏まつり」が同時開催された。同実行委などが流しそうめん、新潟のカレーライス・かき氷、関西のチヂミ焼きを提供したほか、滋賀の小中学生による和太鼓、新潟の子どもと大人のハンドベル演奏が行われた。

 滋賀県は、東日本大震災後、さまざまな被災地支援事業を展開した。いわきの考古資料館・暮らしの伝承郷へも、同実行委が2011年から支援を続けている。伝承郷では今年(2017年)、2年ぶりに協力が復活した。

 3年前、孫2人と伝承郷で合流し、同ミュージアムのイベントを楽しんだ。孫は流しそうめんの列に加わり、母親と竹細工に興じた。親子、祖父母・孫交流のいい機会になった。

 スタッフやボランティアのTシャツ=写真=に見覚えがあった。手と手が親指でがっちり組み合い、親指が鳥の頭になって四つ葉のクローバーをくわえている。その下にはアルファベットで「いわき 滋賀/キッズミュージアム」の文字。希望を持ってはばたこう、ともに――といったところか。
 
 この夏はなにかと「滋賀」が目に入ってきた。今年の「みやぎ総文」(全国高校総合文化祭)では、滋賀の彦根東高校新聞部が10年連続最優秀賞を受賞した。震災後は福島県をエリアに毎年、取材を続けている。同校硬式野球部も甲子園に出場し、初戦を突破した。直接関係はないのだが、同級生が滋賀にある大手企業の子会社で社長をしていたことまで思い出した。
 
 滋賀絆アート支援プロジェクト実行委員会の粘り強い活動のおかげで滋賀が少し近くなった。

2017年8月22日火曜日

曲がったキュウリ

 ほんとうは、今が次々と実をつけるはずなのに、あらかた葉がとろけてしまった。これでは光合成など無理ではないか――夏井川渓谷の隠居の庭で栽培している「夏キュウリ」のことだ。
 最初、キュウリの苗2本を植えた。花が咲き出したころ、整枝をしているうちに間違って1本の茎を根元から切ってしまった。あとで夏キュウリの苗2本を補充した。7月は順調に育ち、最初に植えた苗がたくさん実をつけた。次は夏キュウリの番と期待したのだが……。

 8月2日に平年より遅く東北地方の梅雨が明けた。ところがそのあと、“第二の梅雨”が始まったような天候不順が続いている。終わりのキュウリは曲がる。夏キュウリは最初から曲がっている=写真。茎は細いまま。葉はすぐ黄ばむうえに、幽霊の「うらめしや」のようにしおれる。日照不足と雨と低温で“風邪”を引いてしまったか。これといった収穫もないうちに夏キュウリは命を終えるのか。

 地球温暖化という大きな現象のなかには、地域の異変ともいうべき小さな現象がいっぱい詰まっている。典型は滝の氷だ。隠居の対岸に「木守の滝」がある。今は厳寒期でも完全に凍結することがない。この何年かは天然氷を回収して冷凍庫に保存し、夏にオンザロックを楽しむこともなくなった。台風や低気圧が凶暴化して被害を大きくしているのもそうだろう。
 
「青空に入道雲」の8月はどこへ行ったのか。そろそろ青空が戻ってきてくれないと困る。今週末から秋の行事が始まる。まず体育祭が待っている(けさは一時的なようだが、太陽が顔を出した)。

 キュウリはたぶん、もう終わり。次は、秋~冬用の野菜の種まきだ。日曜日(8月20日)、隠居の庭で辛み大根の自然発芽を期待して草刈りをし、光が当たるようにした。カブの種をまくスペースも確保して石灰をまいた。

 けさは朝一番で甕に入っている古漬けのキュウリを取り出し、塩をまぶして漬けなおした。あとから入れたためにまだ水分の抜けきらないものがある。結構な量になっていた。もやもやした気分を引きずっても仕方がない、これでよしとしよう。

2017年8月21日月曜日

伝承郷のキノコたち

 きのう(8月20日)の夜は、平で夏井川流灯花火大会が開かれた。日曜日なので、カツオの刺し身をつつきながら「遠花火」で一杯――をもくろんだが、なぜか花火の音が聞こえなかった。耳が遠くなったらしい。代わりに晩酌のあと、フェイスブック友の動画と写真で現場の雰囲気を味わった。
 このごろ、日曜日が忙しい。午前中は私、午後はカミサンに合わせて動くことが増えた。

 きのうは、朝、夏井川渓谷の隠居へ行って土いじりをした。2時間もすると、カミサンが「さあ行こう」という。前夜、いわき市暮らしの伝承郷へ行くか、隠居へ行くかで意見が分かれた。「伝承郷にはタマゴタケが出るよ」。朝、隠居で土いじりをしたらすぐ伝承郷へ行くことで話がついた。

 伝承郷へは午前11時半ごろ着いた。「いわきキッズミュージアム」というイベントが開催中で、無料のカレーライス、かき氷のテントには長い列ができていた。カミサンは伝承郷の事業懇談会委員をしている。なにか手伝うことがあればと、エプロンを持参したようだった。

 私は、イベントのことはすっかり忘れていた。前夜、晩酌のときにいわれたらしいが、民家ゾーンにある“里山”(雑木林)のキノコのことしか頭に残っていなかった。
 
 カレーライスを食べたあと、カメラを持って林の中に足を踏み入れた。日照不足・低温・雨のために、夏キノコがあちこちに顔を出していた。すでにとろけて黒くなったものがいっぱいある。
 
 チチタケ(食菌)が迎えてくれた。木の切り株からはナラタケモドキ(食菌)が生えていた=写真。テングタケ幼菌、ドクベニタケ、イグチ系の幼菌、ノウタケ幼菌、民家の山岸にはカワリハツ。100メートルちょっとの、ゆるやかな尾根道をひと巡りしたあとに、黒くバくされていたキノコを想像する。ナラタケモドキではなかったろうか。
 
 伝承郷の里山には、秋は入ったことがない。夏だけの印象でいうと、「タマゴタケが出る山」だ。タマゴタケはなかったが、毒々しい血の色をしたチシオハツがあった。
 
 振り返れば、流灯花火大会で人間の夏が終わり、ナラタケモドキがとろけてキノコの秋が始まった、というところか。そしてきょう、8月21日は「福島県民の日」。けさの新聞が星空の写真でラッピングされていたのでわかった。

2017年8月20日日曜日

文苑ひだ

 江戸時代、幕府の代官として名を残した人物に中井清太夫がいる。甲斐国(山梨県)の上飯田や甲府、石和・谷村の代官を務め、飢饉対策としてジャガイモを導入した。幕領・小名浜に転じてからも、ジャガイモの栽培を奨励した。当地でジャガイモのことを「セイダユウイモ」とか「セイダイモ」と呼ぶのは、この事績による。飛騨高山では「センダイイモ」と、少し音が変化する。
「文苑ひだ」第13号(1960年創刊、通巻96号)=写真。岐阜県高山市で年2回発行されている総合文芸誌だ。いわき市の例でいうと、今年(2017年)終刊した「うえいぶ」の先行誌「6号線」に似る。月刊「文藝春秋」がお手本らしい。

 高山出身でいわき在住の「文苑ひだ」同人、峠順治さんから恵贈にあずかった。峠さんの調査レポート「ジャガイモ考――いわきの方言にも『センダイイモ』があったよ――」が載る。12ページに及ぶ力作だ。

 高山周辺の年配者は今もジャガイモを「センダイイモ」と呼ぶ。江戸時代の代官(幸田善太夫説と中井清太夫説がある)が導入したとされる。峠さんの友人が生前、同誌第5号に「センダイイモ」という方言は中井清太夫に由来するものだと書いた。

「いわきにもセンダイイモという方言があるんじゃないの」。友人の電話を受けて峠さんの探策が始まった。原産地アンデスのインカ帝国~西欧~日本への伝播の流れを追い、中井清太夫の事績を調べ、ジャガイモの方言分布を可視化した。
 
 峠レポートから、日本へのジャガイモ伝播ルートは南方だけでなく、シベリア~樺太(サハリン)~北海道の北方説があることを知る。
 
 いわきの資料では、中井代官由来の「セエダエモ」だけで、「センダイイモ」は見当たらなかった。ところが、『日本植物方言集成』(八坂書店)に、「センダイイモ」に近い「センダイモ」がいわきの方言としてあった。「『センダイモ』という呼称は、石城(浜通り南部)即ち幕領小名浜地区で流布していたと思われる」と、峠さんは書く。
 
 峠さんがまとめたセンダイイモ系の方言分布のうち、福島浜通りが該当するものは三つ。①セイダ/セーダ/アカセイダ/アカセーダ=福島浜通り・東京・神奈川・山梨②セイダイモ/セイダエモ=福島浜通り・東京・神奈川・山梨③センダイイモ/センダイモ=福島浜通り・新潟・岐阜――。
 
 いわきの方言探索の結果、峠さんは、高山の「センダイイモ」は幸田善太夫ではなく中井清太夫に由来するとした亡き畏友の説に近づけた、と締めくくっている。
 
 そうそう、ついでながらいわきと高山ということでいえば、かつていわき市は日本一の広域都市だった。「平成の大合併」が行われた今は、高山市が日本一の広域都市だ。中井清太夫・ジャガイモ・日本一をキーワードにした市民交流があってもいいか。

2017年8月19日土曜日

江名の「カオソ穴」

 長崎県対馬でカワウソが生息していることが確認された。絶滅したとされる二ホンカワウソかどうか、まではわかっていない。でも、野生のカワウソが日本にいた――というニュース=写真=には飛び上がった。
 昔、いわきにもカワウソがいたという話を新聞のコラムで書いたことがある。今や「資料庫」と化した2階でガサゴソやったら出てきた。1990年9月28日付いわき民報。「イワキランドの霧」というタイトルで月1回、いわきから姿を消した動植物(川前のオオカミ、矢大臣山のオキナグサ、三大明神山のクマゲラなど)を、9回にわたって連載したうちのひとつだ。

 小タイトルに「合磯(かっつぉ)の『カオソ穴』」、見出しに「もとはカワウソ海岸?」とあるが、地元の友人(歴史家)の話を咀嚼しきれなかったようだ。「合磯」に赤ペンで「江名」、「もと」には「合磯」と訂正が入っている。そのコラムの抜粋。

 ……カワウソは遊び好きで、しかも好奇心のかたまりのような動物だという。その魅力をとことん味わいたい人には、ギャヴィン・マクスウェルの『カワウソと暮す』(冨山房百科文庫)をお勧めしよう。同書は、著者が「キャマスフィアナ」と名付けたスコットランドのとある入り江で、西イラク生まれのカワウソ「ミジブル」と共に暮らした記録である。海と岩だけの別天地で、ミジは著者と同じベッドに寝、目覚めると室内で、戸外で飽きることなく遊び回った。

 例えば、海が荒れたある日――。「ミジは波に狂喜して戯れた。唸りをあげて寄せてくる砕け波の灰色の壁のなかへ、身を丸めて矢のように突進してゆき、波の重みも勢いも感じないようにきれいに向うへ抜けた。そうして来る波来る波を越えて、遥かな沖合まで泳いでゆき、ついには黒い点のような彼の頭が、白い波頭のあいだに消えてしまう」

 少し前置きが長くなったが、いわきでも遠い昔、これと同じような光景が見られたに違いない。平豊間の合磯海岸、ここはさしずめ「いわきのキャマスフィアナ」と呼ぶにふさわしい場所だろう。そこ(これにも訂正が入った=その裏側、江名の方)には「カオソ穴」と呼ばれる海食洞があって、昔、カワウソが住みついていたという言い伝えが残っている。

 語源からいえば、「カオソ」と「カッツォ」は極めて近い。地名は文字ではなく、呼び習わしから定まったという考え方に従えば、合磯海岸はもともと「カワウソ海岸」の意ではなかったか、とも思う。(中略)

 さて、このカワウソもまた、明治以降の近代化の波をかぶって姿を消し、高知県の一部にわずかながら生息している可能性があるだけだとも、既に絶滅したともいう。……

 こう書いてから27年が過ぎた。対馬のニュースに刺激されて、一日、カワウソのことを考えていたら、きのう(8月18日)の夕刊いわき民報で偶然、アクアマリンふくしまの飼育担当者による連載「かわうそのふちより」が始まった。月1回、1年間連載するという。

 せっかくだから、合磯海岸や江名の「カオソ穴」、あるいは福島高専と自由ケ丘団地の南側、矢田川の源流の地名=常磐上矢田町獺沢(おそざわ)=についても言及してくれるとありがたい。カワウソ由来と思われる「オソザワ」(獺沢)「オトザワ」(音沢)といった地名は全国各地にある。そうした民俗・地理にまで踏み込んだコラムだと、より身近な「いわきのカワウソ物語」になる。

2017年8月18日金曜日

モミタケが届く

「モミタケ、要る? 要るなら届ける」。お盆前、いわきキノコ同好会の事務局長氏から電話が入った。
 モミタケは美味菌だ。成菌では傘が団扇(うちわ)くらいの大きさになる。届くとすぐ写真に撮り、計測した。傘の長径は30センチ、柄は長さが18センチ、径が7センチもあった=写真。

傘と柄を分離し、傘を裂いて水に浸け、ごみや土を洗い落とした。柄は水を流しながら、たわしでごしごしやったら白くなった。きれいになった柄を見ると、大根と間違いそうだ。そのくらい太い。

 天然キノコは、いわきではまだ「摂取しないで・出荷しないで」という状況が続いている。が、キノコはゆでこぼすと放射線量が下がる(味も落ちる)。市などが公表しているキノコの線量データによると、去年(2016年)のモミタケは市内外の4検体とも「不検出」だった。ほかにも「不検出」のキノコが増えている。とはいえ、摂取するかどうかは自己責任だ。

 モミタケの食べ方をネットで確かめる。柄はスライスしてソテーに。でも、柴臭くて、ややえぐみがあるという。てんぷらにしたら、えぐみは消えるかもしれない。傘はやわらかいので、まずはゆでて大根おろしにする。炒め物にも、澄まし汁にもいいということは、万能キノコだ。全体に白っぽいので、「シロマツタケ」ともいわれる。名前の通りモミと共生する菌根菌だ。
 
 そうだった。去年(2016年)8月初旬、ロシアのサハリン(樺太)を訪ねたとき、海沿いの道端で村の娘さんが小さなバケツに白いモミタケの幼菌を入れて売っていた。1キロ1000ルーブル、日本円でおよそ2000円だった。モミタケはモミ以外の針葉樹とも仲がいい。
 
 8月は日照不足と低温が続いている。水稲や野菜の生育にはよろしくないが、キノコにはプラスかもしれない。食・不食・毒に限らず、森の中ではキノコが集会を開いているのではないか。

2017年8月17日木曜日

聖光と聖心

 甲子園の高校野球が天候不順で順延になった8月15日。孫が聖光学院のレギュラーメンバーである友人から電話がかかってきた。「聖心ウルスラ学園のウルスラってなんだい」「人名じゃないの」。聖心ウルスラ学園は聖光学院の対戦相手だ。あとで確かめたら、「聖女」の名前だった。夕方、また友人から電話がかかってきた。「女性の名前だね」「たぶん、伝説の」
 甲子園の話になった。「応援に行かないの?」「だめ、エコノミークラス症候群になるから」。以前(去年か)、甲子園へ応援に行ったら、長旅で足がはれ上がったという。それに比べたら、奥方は孫のためなら地獄でも、いや県大会でも全国大会でも「追っかけ」を欠かさない。しかも、もう一人の孫が同じ聖光のベンチ入りメンバーだ。今度ももちろん甲子園へ出かけた。

 きのう(8月16日)午後遅く、福島県の聖光と宮崎県の聖心が対戦し、聖光が5‐4で勝った。ショートで3番の孫=写真=が攻守に大活躍をした。もう1人の孫も二塁手で先発した。友人はテレビの前で何度も吠えたことだろう。

 友人の情報を参考に調べたら、いろいろ共通項があった。校名に「聖光」「聖心」とあるように、ともにキリスト教系の私立の学校だ。大阪の宿舎(ホテル)が一緒だった(そのホテルは福島県と宮崎県の定宿なのだとか)。
 
 聖心は延岡市にある。レギュラーのほとんどが同市内の中学校出身だ。聖光は、学校こそ県北の伊達市にあるが、今チームのレギュラーは大半がいわき市内の中学校出身。平二中、草野中は最寄りの学校だし、友人の孫は平三中出身だ。いわき対延岡の戦いではないか。
 
 そうであれば、また別の感慨がわく。江戸時代、内藤の殿様が磐城平藩を、次いで延岡藩を治めた。その縁で両市は「兄弟都市」のちぎりを結んでいる。次は兄弟都市の思いも背負って「ベスト8」の壁を突破――となるとおもしろい。

2017年8月16日水曜日

戦争と精霊送りと

 きょう(8月16日)は、朝9時には地域の精霊送りをする。きのうは夕方、行政区の役員が出て斎場づくりをした。ちょうどその時間、幸運にも雨がやんだ。
 今朝は、6時から区の役員が1時間交代で斎場に詰める。各家庭からお盆の供え物が持ち込まれる。昔は各個人が川に流した。文字通りの精霊流しだ。今は環境を保全するため、ごみ収集車が回収する。5時半現在、空全体が鉛色だが、9時まで降らずにいてくれないか(時折、霧雨になった。半そでシャツでは寒かった)。

 区の役員になってからは、月遅れ盆に泊まり込みでどこかへ出かけるようなことがなくなった。新盆回りが年々少なくなっている代わりに、カミサンの“盆休み”に付き合わされることが多くなった。本屋へ、図書館へ――。で、ぐるぐる巡っているうちに、じゃんがら念仏踊りに遭遇する=写真(豊間の災害公営住宅)。小名浜でも平でも鉦(かね)の音を聞いた。

 精霊送りの斎場は道路に面した県営住宅集会所の前庭に設けられる。路上駐車が絶えない。14日に駐車自粛を呼びかける立て看板を出す。今年(2017年)は効き目がなかった。で、路駐の車からずらして焼香台の位置などを決めた。

 15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」。精霊送りと戦争も切り離せなくなった。今年(2017年)はとりわけ、感慨深いものになった。読売新聞の福島版と夕刊いわき民報がトップで同級生のシュムシュ(占守)島慰霊を報じていた。7月28日の拙ブログで同級生が北千島を訪ねたことを書いたら、両紙から問い合わせがあった。
 
 8月9日朝6時前には、NHKでも同級生を追った番組が放送された。シュムシュ島慰霊の旅には北海道在住の記者たちが同行取材をした。すでに道内では放送されたはず。他地区向けの再放送だったのだろう。

 14日に放送されたNHKスペシャル「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」には、ちょっと物足りないものを感じた。というのも、別の同級生の父親(樺太のある村で村長をしていた)が残した資料がある。ソ連侵攻の様子がよくわかる。歴史的に貴重な資料だ。そうした資料がまだまだ眠っている。
 
 いずれにしても、この数年、「メディアと時代」を念頭に図書館から本を借りて読んでいる。災害や戦争といった極限の報道にメディアの本質があらわれる。「目には目を」といったような勇ましい論調が現れると危ない。

 今年のお盆は、あまり知られていない「北の戦争」に触れた。帰って来られなかった人々も含めて、精霊送りでは「またおいで」と念じよう。

2017年8月15日火曜日

爆音聴集壕

 いわき地域学會が『いわきの地誌』を発行してからおよそ8カ月。学術系の硬い本ながら、地元2書店での売れ行きも思った以上で、8月に入ってようやく“借金”が返済できた。
 “借金”といっても内部的なものだ。印刷会社に支払う時期と本の売上代金が入ってくる時期とには、2~3カ月のずれがある。代金がやがて入ってくるという想定で執行前の予算を支払いに一時的に流用した。その流用がこの8月で解消された。
 
 発行部数800部、印刷代金150万円。原価は1冊1875円だ。これを、市民が手に入れやすいように1500円(税抜き)で頒布した。発行のために積み立てた自己資金、学校などへの寄贈分を除いて、400冊を売らないと印刷会社に未払いが発生する。
 
 で、東邦銀行教育・文化財団から20万円、いわき市文化振興基金から10万円の助成を得た。残り30万円、200冊は編集委員が手分けして頒布し、書店にも販売をお願いした。この半年の間にヤマニ書房本店、鹿島ブックセンターから何度か追加注文があり、その都度、代金を回収したこともあって、思ったより早く目標が達成できた。
 
 肩の荷が下りた今は、純粋に『いわきの地誌』を読んで楽しんでいる。きょう(8月15日)は終戦記念日。『地誌』に載る戦争遺産の話を紹介したい。
 
 JR常磐線湯本駅の真向かいに御幸山(みゆきやま)公園がある。御幸山は「見沖山」(みおきやま)ともいい、山から小名浜沖の太平洋が一望できる。その山に先の大戦下、敵機の「爆音聴集壕」(飛行機の爆音を聞くための、すり鉢状になったレンガ造りの穴)と監視所が設けられていたという=写真。
 
 地元研究者によれば、①軍の指示で湯本町役場が監視所の任に当たった②町は地元の青年らを監視の仕事に就かせた③湯本町には炭鉱があり、爆撃の恐れがあったため、監視所の役割は大きかった④食事は近くの温泉旅館が交代で担当し、弁当を監視所に届けた――。
 
 さまざまな戦争遺産がある。『地誌』には載っていないが、太平洋戦争末期、航空機の燃料にするため、松根油とは別に、松の木から松脂(まつやに)を採集した。その傷跡が「ハート形」あるいは「キツネ顔」となって、夏井川渓谷の赤松に残る。これも戦争遺産にはちがいない。でも、「爆音聴集壕」は初耳だった。まだまだ知らないいわきがある。

「遺産の地理学」が脚光を浴びているという。ミサイルだなんだと、急にきなくさくなった今、新たな戦争遺産が加わるような事態だけはごめんこうむりたい。

2017年8月14日月曜日

歩いて新盆の家へ

 きのう(8月13日)は、日曜日と月遅れの盆の入りが重なった。朝・昼・晩と分けて用事をすませた。
 いつもの日曜日だと、朝7時すぎに家を出て夏井川渓谷の隠居で土いじりをする。今週は新盆回りがある。早朝6時前、隠居へ車を飛ばした。キュウリや赤くなったトウガラシ=写真=を収穫し、三春ネギの苗を間引きした。生ごみを埋め、草引きをして、8時前には帰宅した。

 朝食後、9時すぎにカミサンの実家へ移動した。カミサンは盆のあいさつに訪れる親類の応対をし、私は奥の部屋で横になった。庭からアブラゼミとミンミンゼミの合唱が休みなく聞こえる。朝寝どころではなかった。
 
 午後遅くに帰宅し、夫婦で新盆回りに出かけた。1軒は車で、もう1軒は歩いて。歩いて行ったのは近所だからだが、久しぶりに施主とビールを酌み交わしたかったこともある。家族とも、もう何年も話をしていない。
 
 娘さんが帰省していた。葬式では「○○ちゃんか」「そうです」といったやりとりはあったが、わが家へ遊びに来たのは五つか六つのころまで。以来、十数年がたつ。「いくつになった?」「23歳です」。顔立ちも声も母親にそっくりだ。「東京でOLをしてます」と父親。最初の一杯をついでくれた。
 
 ちょうどそこへ「じゃんがら念仏踊り」の一行がやって来た。しまった、カメラを置いてきた。

じゃんがらは、月遅れ盆に新盆家庭を回って踊り、歌いながら故人の霊を慰める、いわき地方独特の伝統芸能だ。主に青年会が継承している。前日、「どうですか」と連絡があったそうだ。じゃんがら研究家でもある施主から解説を受けて踊りに見入る。

出かけるとき、カメラを持っていくかどうか迷った。カメラよりビールがまさったが、じゃんがらを見たらカメラを携帯しなかったことを悔いた。いわきの夏は、やっぱり「じゃんがらの夏」。

2017年8月13日日曜日

新舞子海岸のオニユリ

「山の日」の8月11日は、東日本大震災から6年5カ月の月命日でもあった。朝はひとり、平の街のウラヤマ(石森山)を巡って山の恵みに感謝し、夕方は用があったついでにカミサンの希望で海を見に行った。
 わが家から新舞子海岸までは車で5~10分ほどだ。夏井川河口をはさんで黒松の防風林が伸びている、といいたいところだが……。

 大津波が押し寄せたとき、松林は後背地の家や田畑を守る“クッション”になった。しかし、代償も大きかった。地中にしみこんだ塩分の浸透圧によって松が根っこから脱水症状を起こした。やがて、遠目にも茶髪が増え、密林が疎林に変わって、とこどころ草原化した。その草原でオニユリの花が満開だった=写真。
 
 オニユリは7月下旬から8月上旬に花を咲かせる。この時期、新舞子の海岸道路は、ところどころオニユリの花でオレンジ色に染まる。震災の年の夏にも海岸の波消しブロックからオニユリが花茎を伸ばし、花を咲かせていた。もともと自生していたのだろう。
 
 3年前の夏、“異変”に気づいた。立ち枯れ松を伐採した跡地がオニユリの群生地になっている。前からそうだったとしても、ここまで目立たつようなことはなかった。オニユリはむかごで増える。黒松林の草原化という生態変化が、むかごの芽生えを容易にし、群生に拍車をかけたのだろうか。

 もしそうだとしたら、これを逆手に取る手もある。黒松林が再生されるまでは「津波がもたらしたオニユリの群生地・新舞子海岸」の看板を掲げられるかもしれない。それはそれで大切にしたい浜辺の植物だ。
 
 オニユリの群生地を観光資源ととらえている石川県の海岸では、オニユリを保護するために官民で草刈り活動をしているという。いっそ新舞子海岸の一角をオニユリの群生地として保護・保全してはどうか。アマチュアカメラマンがウデを競う新名所になるかもしれない。

2017年8月12日土曜日

キノコを撮りにウラヤマへ

 8月11日は国民の祝日「山の日」。ではと、平の街のウラヤマ(石森山)へ車を走らせ、林内の遊歩道を巡った。
 このウラヤマには、夏井川渓谷の隠居へ通う前の十数年間、20代後半から40代前半にちょくちょくもぐりこんだものだ。遊歩道網が整備されている。鳥・花・キノコ・虫たちのウオッチングスポットでもある。

 観察フィールドを渓谷に切り替えたあとも、懐かしくて2年に一度くらいはウラヤマへ出かけた。不思議なもので、遊歩道を巡っていると、「ここでタマゴタケを撮(採)った」「アラゲキクラゲを撮(採)った」「オオゴムタケを撮(採)った」と、逐一、記憶がよみがえる。

 まずは、傘が真っ赤なタマゴタケ、そしてアラゲキクラゲを撮(採)る、と意気込んだものの――。

 遊歩道はアップダウンの繰り返し。最初の尾根のアップ(高さは4階建て住宅の最上階くらいだろうか)だけで音を上げた。尾根の陰の斜面にタマゴタケが群生しているはずだが、すでに菌糸は移動したのか、目を凝らしても赤い色はなかった。

 尾根道を戻って、沢沿いの平坦な遊歩道を進む。奥にアラゲキクラゲの生える倒木や立ち枯れの木があったが、20年もたてば朽ち果てて影も形もない。新しい倒木にも立ち枯れの木にもアラゲはなかった。
 
 車で移動しながら別の遊歩道を出たり入ったりしてチェックしたが、目に入ったのはベニタケ科のキノコ=写真(シロハツ?)=と、イグチ科のキノコ数種類だけだった。細かく裂いて油でいため、醤油味のうどんスープにすると抜群のチチタケも、姿はなかった。
 
 会津の山林で10日、栃木県のお年寄りが岩場から足を滑らせて転落死した。きのうの新聞各紙が報じている。
 
 栃木県人は夏、福島県内の山林に入ってチチタケを採りまくることで有名だ。「チダケ(チチタケ)うどん」のスープにする。これまでにも何度か死傷事故を起こして新聞沙汰になっている。
 
 きのうの朝日には「山菜を採っていた」、読売には「キノコ採りに入り」とあった。朝日は誤報、記者は山菜とキノコの違いがわからないのだろう。読売はキノコを特定するためのもう一歩が足りなかった。
 
 福島民報も「キノコ採りに入った」としながらも、「栃木県で食材として使う『チタケ』と呼ばれるキノコを採るため、毎年多くの人が県外から訪れ、所有者に許可なく入山するケースが絶えないという」と、栃木県人が入山する背景を説明している。
 
 夏になると、いわき市内の山林でも「栃木」(現在は「宇都宮」「とちぎ」「那須」)ナンバーの車をよく見かけたものだ。今もそうかもしれない。「栃木県人のチタケ狂い」は、愛菌家の間ではよく知られている。
 
 年をとると、山道のアップダウンがきつくなる。しかし、道からそれて急斜面に分け入らないと、めざすキノコは撮(採)れない。頭では若いときの栄光を追いながらも、体は言うことをきかなくなっている。雨上がり、落ち葉の斜面は濡れている。ますますリスクが高くなる。ウラヤマのような里山でも栃木県のお年寄りのようにならないとはかぎらない。道からそれて斜面に分け入る勇気はなかった。

2017年8月11日金曜日

山の日

 きのう(8月10日)は、朝9時前から正午近くまで駆けずり回った。地元限定の回覧資料を行政区の役員さんに届けながら、地区体育祭の協賛事業所にできたばかりのプログラムを配った。ほかに、いわき地域学會発行の『いわきの地誌』の集金に本屋へ出かけ、銀行でカネを下ろしたあと、家電量販店でプリンターのインクを買い、図書館に本を返し、ホームセンターで隣組から要望のあったごみネットを買った。
 まとめて用をすませたのは、午後に甲子園で行われる福島代表の聖光学院―おかやま山陽戦をテレビで見たかったからだ。

 試合は最初から最後まで、聖光学院のペースで展開した。終わってみれば6―0。友人の孫はショートで3番。3打席目にガツンと2塁打を放った。この子が小学4年生のころ(もう野球小僧だった)、友人宅の庭先でキャッチボールをしたことがある。返ってくるボウルの速さ・重さに目を見張ったものだ。
 
 台風5号が去って青空が戻るかと思ったら、冷たい北東の風が吹き寄せる曇天の一日になった。夜は焼酎をお湯割りにした。残暑どころか秋冷の気配だ。きょう(8月11日)も天気の回復は見込めない。
 
 ところで、きょうは何の祝日? ネットで検索したら、去年スタートした「山の日」だった。月遅れ盆と連動して休みが長くなるよう配慮したという。

 山に親しみ、山の恵みに感謝する日――。週末、渓谷の小集落で過ごす身には、山には感謝してもしきれない。でも、「ヒマラヤよりウラヤマ」(辻まこと)、私には渓谷林や街のウラヤマを巡る方が性に合っている。
  
 先日、知人の住む丘陵地を訪ねたら、ミヤマアカネが水路の茂みで羽を休めていた=写真。8月になったばかりなのに、もう全身が真っ赤だ。そうだ、この天気では夏キノコがたくさん発生しているかもしれない。せっかくの「山の日」、きょうは骨休めを兼ねて街のウラヤマへ出かけ、真っ赤なタマゴタケの写真でも撮ってこよう。

2017年8月10日木曜日

キュウリの古漬け

 原発震災から間もなく6年5カ月。夏井川渓谷にある隠居に限っていえば、庭で栽培する野菜の種類が少し増えた。震災前ほどではないが、小規模・多品種栽培に挑戦しよう、という気持ちがわいてきた。今年(2017年)はキュウリ・ナス・トウガラシの苗を植えた。
 笹竹が茂っていた隠居の庭を“開墾”し、二十日大根やカブを栽培し始めたのが20年ほど前。その後、渓谷の小集落で栽培されている昔野菜の「三春ネギ」の苗と種を譲り受け、栽培を始めた。最初は種の保存に失敗した。思いあぐねていたとき、本からヒントを得て冷蔵したらうまくいった。以来、採種~保存~播種(秋)~育苗~定植と、2年がかりのサイクルを繰り返している。
 
 東北地方太平洋沖地震と原発事故が起き、放射性物質がまき散らされた。2013年初冬に隠居の庭が全面除染され、山砂が一面に敷き詰められた。長年かけてつくった土がはぎとられ、砂浜のようになったとき、家庭菜園を続ける気が失せた。
 
 ただ一つ、三春ネギの栽培は意地でも続ける、事故には負けない――そう決めて、全面除染が行われた年だけ種を冷蔵庫に眠らせたままにした。2年目に入ると種の発芽率は下がる。それでも、翌秋にまいたら発芽し、種を残すだけにした結果、今年ようやく間引き苗を食べられるところまで“復活”した。
 
 キュウリは昨年(2016年)、栽培を再開した。震災前は4本も植えて、生(な)りどきに困ったことがある。糠漬けのほかに、塩だけの古漬けにした。古漬けはもちろん保存用だ。秋・冬に食べる。
 
 今年も昨年同様、2本を植えた。1本を間違って根元から切断したので、あとから夏キュウリ2本を追加した。計3本で、1本は間もなく終わり、あとの2本が実を付けつつある。
 
 どういうわけか、今年はあちこちからキュウリが届く。糠漬けだけでは間に合わない。震災後初めて、塩だけの古漬けも始めた。採りたてのキュウリを甕に漬け足すたびに、緑色があめ色になっていく、秋から冬のおかずが増えていく――そんな充足感を味わっている=写真。

 震災直後、家庭菜園をやる人が激減した。ジイバアが栽培しても、子や孫は口にしない。つくったりあげたりする楽しみがなくなった。店(わが家)の野菜の種の売れ行きが止まった。原発事故に対する怨嗟が広まっていたのを実感したものだ。

 それから時を重ねること7回目の夏。除染が進んだこともあって、家庭菜園があちこちで復活しつつあるように感じる。わが菜園の復活度は5段階評価で3くらいか。
 
 次は――。月遅れ盆を境に、大根や白菜の種まきが行われる。隠居の庭には辛み大根がある。一度栽培したら、こぼれ種から自然に芽が出るようになった。今年もそうなることを願っている。今のところ白菜の種をまくようなスペースはない。代わりに栽培するとしたらカブか。
 
 もう子や孫のために、なんてことは考えない。ただただ自家消費のためだけに栽培する。

2017年8月9日水曜日

彦根東高、勝つ

 友人の孫2人が聖光学院の野球部に入っている。福島大会で優勝し、11年連続で甲子園出場を決めた。台風5号の影響できのう(8月8日)、一日遅れの開会式が行われた。球児の晴れ姿をテレビで見た。
 開会式が終わったあとも、台風の動きが気になってつけっぱなしにしていたら、第1試合が始まった。アルプススタンドに「彦根東高校」の赤い横断幕があった。あの新聞部のある学校ではないか。

 同校新聞部は全国でもトップクラスのレベルを誇る。学校新聞を年に10回発行し、速報新聞を年に150回は出す。先日開かれた「みやぎ総文」(全国高校総合文化祭)でも、新聞の部で10年連続最優秀賞を受賞した。

 東日本大震災が発生してからは福島をエリアに取材を続けている。去年(2016年)は3月12日、シャプラニール=市民による海外協力の会が平で運営する交流スペース「ぶらっと」を取材した。「ぶらっと」はこの日を最後に閉鎖された。たまたま居合わせたので取材を受けた。後日、学校新聞が送られてきた。レイアウトといい内容といい、質の高さに驚いた。今年も福島を取材して特集号を出したらしい。

 スクールカラーは赤。アルプススタンドは赤い花畑のようだった。赤いTシャツの背中には「赤鬼魂」の文字。「井伊の赤備え」に由来する建学の精神が「赤鬼魂」で、「先駆者精神」を表している。アナウンサーがアルプススタンドの応援団を紹介する。学校新聞と、取材中の新聞部員がアップされた=写真。文武両道の、県立の進学校だということがわかる。

 大河ドラマ「おんな城主 直虎」はまだ遠州時代だが、徳川方についたあとは武勲を挙げ、譜代大名として彦根に城を構える。幕末、藩主井伊直弼は大老として日米修好通商条約をまとめ、安政の大獄を行って暗殺される。このあと、幕政を仕切ったのが同じ譜代の磐城平藩主安藤信正だった。彦根東高校は、この彦根城の一角にある。

 試合は長崎代表の波佐見にリードされ、逆転し、再びリードされて、最終回に逆転サヨナラ勝ちをするという劇的なものだった。新聞部の速報新聞にはきっとスポーツ紙顔負けの見出しが躍ったにちがいない。

わが福島代表、聖光学院は明10日午後1時から、おかやま山陽と対戦する。こちらも“テレビスタンド”から応援しよう。

2017年8月8日火曜日

続・平七夕まつり

 きょう(8月8日)は未明2時前、雨音で目が覚めた。昼寝ができなかった日は、夜の9時を過ぎるとまぶたが重くなる。夕べがそうだった。早々と床に就いた。台風5号が日本海に向かっている(午前3時現在)が、暴風雨の範囲が広い。最終日の平七夕まつりと、いわきおどりはどうなるのだろう。

 目が覚めたついでに、平七夕まつりの歴史をおさらいした。先日紹介したいわき民報の平成7(1995)年連載企画「しんかわ流域誌」に、平七夕まつりの起源にまつわる話が載る(同年8月31日付)。日本医師学會会員、いわき地域学會会員だった松村亨さん(元松村病院長)がペンを執った。要旨を次に掲げる。

 ①大正15(1926)年の初め、平に磐城共済病院が開院した。2代目院長として東北大講師難波睦氏が赴任する。氏は昭和6年、院長を辞し、自宅に難波医院を開業した②毎年七夕になると、自宅前に仙台生まれの初子夫人が金紙や銀紙、多種類の紙材を用いて、折り紙・人形・造花などを飾り付け、評判になった③氏の家の玄関は毎晩見物人が群れをなし、「七夕ってこうやるのか」と町中に広がり、商工会の会員を鼓舞するところとなった。のちに平の七夕行事を盛大にした、導火線となったといってよい――。

 もうひとつ。地域学會の仲間である小宅幸一さんの研究成果を紹介する。3年前、地域学會の市民講座で「平七夕まつり考」と題して話した。以下はそのときの拙ブログの抜粋。

 大正時代、仙台の七夕まつりは「風前の灯」だった。そうした状況下で、仙台に本店のある七十七銀行が大正8(1919)年、平支店を開業する。
 
 小宅さんが注目したのは、昭和2年の仙台の七夕復活劇だ。翌3年、仙台商工会議所などが七夕飾りつけコンクールを実施する。その流れを受けて、同5(1930)年、七十七銀行平支店が店頭に七夕の飾り付けを実施する(翌年、難波医院自宅前の仙台風の七夕飾りが評判になる)。
 
 これに合わせて地元の動きが活発になった。昭和7(1932)年・平三町目の商店有志が中心となって七夕飾りを実施。同9年・本町通り舗装により盆行事の「松焚き」が中止になる。同10年・平商店街全体で七夕まつりを実施。同11年・平商工会、平町などがまつりを支援――となって、「松焚き」に代わる集客イベント「七夕まつり」ができあがった。

 ――アジア・太平洋戦争と戦後すぐの10年間は、平七夕まつりは開かれていない。その裏付けに、きょう目が覚めてから1時間ほど、市立図書館のホームページを開き、「郷土資料のページ」で当時の新聞をあさった。
 
 昭和13(1938)年7月19日付の常磐毎日新聞1面に「総力戦の槍玉に/七夕祭を中止/酷暑下に苦戦を重ねる/出征兵士に申訳なしと/昨夜商工会の協議」=写真上、同23年8月10日付いわき民報1面に「あす幕ひらく/華麗な星まつり/本社提唱で十年ぶりで復活/夫々(それぞれ)趣向を凝らす各商店街」=写真下=の記事があった。当時は、月遅れではなく旧暦で実施していた。
 
 これらの“事実”を勘案すると、平七夕まつりが始まったのは八十数年前、開催回数は今年でおよそ七十数回ということになる。

2017年8月7日月曜日

平七夕まつり

 日曜日と重なったためか、きのう(8月6日)が初日の平七夕まつりは、昼前からメーンの本町通りが見物客でごった返していた。
 東西に延びる本町通りは、三町目で南北に延びる銀座通り(北側)・平和通り(南側)と交差する。歩行者天国になった東のはずれから三町目まで、人波にもまれながらブラブラしたあと、若い知人がやっている氷水を食べようと、平和通りに曲がりかけたら――。

 双葉町からいわき市に避難しているOさんとばったり顔を合わせた。Oさんは「いわき・まごころ双葉会」の事務局長をしている。今年(2017年)も仲間と平和通りに笹飾りを立てたのだ=写真。

 関係するNGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が震災後、いわきに交流スペース「ぶらっと」を開設した。そこでスタッフからOさんを紹介された。

 シャプラは5年間、いわきを拠点に被災者の緊急支援、生活支援、自立支援を続けた。その記録を2016年9月、『いわき、1846日――海外協力NGOによる東日本大震災支援活動報告』にまとめた。

 冊子は、①私たちは何に取り組んだのか②いわきで暮らす人々からの発信③いわきで学んだこと、そして未来へ向けて――の三つのパートに分かれる。編集委員の一人として、②の発信者12人のうち半分、Oさんら6人にインタビューをした。それ以来、1年4か月ぶりの再会だ。

 双葉郡からの避難者が、「ぶらっと」を介して平七夕まつりに参加したのは2012年。以来、Oさんら「いわき・まごころ双葉会」は、津波被害に遭ったいわき・薄磯地区住民と交流を重ね、協働して笹飾りを平七夕まつりに出している。

 Oさんが3基の笹飾りについて説明してくれた。それぞれのシンボル(薄磯・灯台、双葉・だるま、海水浴場)に復興の願いが込められた。シャプラの冊子のなかでOさんは言っている。「いつまでも避難者ではいられない。『避難者の会から脱皮して、居住地の一員として溶け込まなければ』」。その実践の一例が七夕まつりへの参加だった。

 平和通りに入ると、急に人の流れが途切れ、場末のような感覚に襲われる。まごころ双葉会の参加は、地元にとっても大歓迎ということだった。Oさんは氷水を販売する若い知人とも顔見知りだった。

 氷水は、肝心の氷が手に入るまで「もうちょっとかかる」という。仕方がない、近所の食堂に入って腹ごしらえをした。店の中の客は常連らしいお年寄り3人。ちびりちびりやりながら、NHKののど自慢を見ていた。なにかそこだけ街の喧騒とは離れた“日常”が息づいている。しかも、昭和っぽい造り。不思議な空間に迷い込んだような感じがした。
 
 ところで、平七夕まつりの起源だが――。昭和10(1935)年8月6日付磐城時報に「平町新興名物『七夕飾り』は今年第二回のことゝて各商店とも秘策を練って……」とある。仙台に本店のある七十七銀行平支店が開設された大正8(1919)年を、平七夕まつりの起源とする“誤読”がいつの間にか定着した。いつかは修正されなければならない。

2017年8月6日日曜日

あしたは立秋

 夏至から1カ月半、あした(8月7日)はもう立秋だ。朝、4時過ぎに目が覚めると、少し薄暗い。一日一日冬に向かって夜が長くなっている。
 今年(2017年)はカラ梅雨気味に推移したが、終盤になってぐずついた。東北南部の梅雨明けは、平年が7月25日(平成22年までの平年値で、修正前は23日だった)。それから遅れること9日。8月2日に北部も含めて東北の梅雨が明けた。

 この30年間で梅雨明けが8月にずれ込んだのは、昭和62(1987)年と、4年前の平成25(2013)年。ほかに、時期を特定できなかった年が、戦後最悪の凶作になった平成5(1993)年と、同10、15年だ。26年前の凶作時にはタイ米が緊急輸入されたが、日本人の口には合わなかった。首都圏に住む同級生から「国内産米がほしい」という電話が入ったりした。
 
 さて、震災後、勿来海水浴場が再開され、四倉海水浴場がこれに続き、今年7年ぶりに薄磯海水浴場が復活した。きのう(8月5日)、平と小名浜の中間にある鹿島ブックセンターへ出かけた帰り、薄磯海水浴場=写真=に寄り道した。7月15日の海開き以来、そうしている。
 
 7月19日。濃霧で砂浜にいたのは10人ほど。同29日もやはり濃霧で数人が砂浜にいるだけ。監視塔には遊泳禁止の赤旗が掲げられていた。きのうは白旗だった。霧はかかっていたが、断崖の上の灯台がうっすら隠れる程度で、砂浜は明るかった。初めて海水浴場らしい光景に出合った。海辺に100人ほど、堤防そばの駐車場に50人ほどがいた。
 
 梅雨明け最初の週末だが、きょうは今年2回目の夏土用の丑の日。ここ数年、うなぎのかば焼きとは縁がない。そして、広島忌、平七夕まつり初日。朝、夏井川渓谷の隠居でキュウリを収穫したあと、街に戻って笹飾りの下を歩いてみるか、かば焼きの代わりに焼きそばかなにかを――なんて考えている。
 
 あした立秋からは、新聞・テレビ・ラジオの「暑中見舞い」広告が「残暑見舞い」に切り替わる。海には土用波が立つ。すっきりしないまま、暦の上では夏から秋に移り変わる。けさも曇り。

2017年8月5日土曜日

わがウルトラマン

 もう1カ月近く前のことだ。7月10日は「ウルトラマンの日」だとかで、この日、中国の会社がウルトラマンのアニメを制作すると発表した。すると、ウルトラマンの生みの親・円谷プロが抗議の声明を出した。いつもの著作権侵害か、と最初は思ったが……。
「特撮の神様」円谷英二の孫、円谷英明さんの『ウルトラマンが泣いている――円谷プロの失敗』(講談社現代新書)を読んだ。図書館の内容紹介文を借用すると、創業者一族の感情的な対立、経営の錯誤、一族から会社が他人の手に渡ったいきさつなどがつづられている。海外での商品化権などが、円谷プロで技術を学んだタイ人にあるらしいことも知った。

 中国での発表と円谷プロの反応を機に、久しぶりにウルトラマンの世界をさまよった。7月13日、BS朝日で夜、ドキュメンタリー番組「“特撮の神様”円谷英二――ウルトラマン誕生の舞台裏」が放送された。その延長で『ウルトラマンが泣いている』を図書館から借りて読んだ。

 そして、これは極私的な記憶――。「帰ってきたウルトラマン」が放送された昭和46(1971)年春、新聞記者になった。平の旧城跡にあるアパートに住んだ。大家さんの孫(当時5歳くらいの女の子)が庭で、「帰ってきたぞ 帰ってきたぞ ウルトラマン」と、よく歌っていた。日曜日の夕方、その女の子と平駅(現いわき駅)の跨線橋(平安橋)まで、電車を見によく散歩に出かけた。

 あとで何人かと諮って同人誌を出した。「わがウルトラマン」と題する詩もどきを書いた=写真。女の子との“日曜散歩”がベースになっている。

 ウルトラマンが好きな女の子は成人して結婚した。一度、お母さんと一緒にわが家を訪ねてきたことがある。「お兄ちゃん」のことをちゃんと覚えていた。そうだった、「わがウルトラマン」とはこの女の子のことだったのだ。今はどうしているだろう。ウルトラマンのように泣いているか、笑っているか。

2017年8月4日金曜日

「しんかわ流域誌」

 平成7(1995)年、つまり22年前のいわき民報連載「しんかわ流域誌」の切り抜き=写真=をパラパラやっていて、ハッとした。
 現状は草に覆われて、どこに水の流れがあるかわからないような小さな川が低湿地を形成し、やがてそこがいわきの中心市街地になる。大きくは夏井川流域に入るが、戦国時代からの主だった城と城下町は新川流域にあった。

 戦国大名岩城氏は好間・大館(新川左岸)に城を構える前、平・白土(新川右岸)に本拠があった。近世になると、今のいわき駅裏、物見ケ岡(新川左岸)に徳川譜代の磐城平城ができる。磐城平城には三階櫓(やぐら)がそびえていた。

 8月1日、いわき市が磐城平城本丸跡地の公園整備構想を発表した。国の「中心市街地活性化広場公園整備事業」に採択されたという。ただし、シンボルになる三階櫓などは企業・市民の寄付金頼り、らしい。

 同じ日、県の環境関係の機関から電話が入った。新川について話を聞きたいという。電話を切ったあと、なんで今?と思ったが、原発事故で環境問題の質が変わったのだと気づく。

 ざっと30年前、ゴルフ場やごみ処分場が川の上流に建設されるのはいかがなものか、というので、市民運動が起きた。それに先行するかたちで、市民にいわき市内の川を軸にした自然・歴史・民俗などを知ってもらう連載を、勤務するいわき民報で手がけた。

 いわき地域学會のメンバーが書き手になった。週1回、1年を通して夏井川を、鮫川を、藤原川を読み解き、のちに地域学會がそれぞれの『流域紀行』を本にした。
 
 好間川と大久川については、半年ずつのセットで「流域散歩」を連載した。そのあと、新川についても1年間、「しんかわ流域誌」というタイトルで連載した。これらは未刊のまま、新聞切り抜きとして手元に残っている。

 昭和40年代以降、公害から環境へと行政課題が変わり、それなりに対策が講じられた。そこへ、原発震災が起きた。放射性物質が環境にまき散らされた。県の環境関係の機関は災後に設けられた。新たに発生した公害問題を踏まえ、「水環境」に絞ってなにかイベントを計画しているらしい。新川の話を――は、そのための下調べの一環、ということなのだろう。
 
 震災時、本棚が倒れたり本が落下したりした。きちんと整理をしなかったので、どこになにがあるか、今も定かでないものがある。この新聞切り抜きだけはなぜかすぐ見つかった。きのうは一日、「しんかわ流域誌」を読んで過ごした。

2017年8月3日木曜日

ロシア極東の旅から1年

 1年前のきょう(8月3日)は、ロシア極東サハリン(樺太)の州都ユジノサハリンスク(旧豊原市)のホテルで朝を迎えた。サハリンには3泊し、シベリア大陸に移動後は軍港都市・ウラジオストクに2泊して、平七夕まつりさなかの7日夜、いわきへ戻った。同級生4人による“修学旅行”だった。
 今年(2017年)7月、別の同級生が千島列島最北端・シュムシュ(占守)島に慰霊の旅をした。先日、電話がかかってきて知った。

 ポツダム宣言受諾後の昭和20(1945)年8月18日未明、占守島とは指呼の間のカムチャツカ半島からソ連軍が侵攻して来た。日本軍が応戦し、ソ連軍に多大な損害を与えたが、やがて停戦した。同級生の父親は戦車兵として戦い、生還した。

 シュムシュ島の戦いに材を取った浅田次郎さんの小説『終わらざる夏 上・下』(集英社)を図書館から借りて読んだ。北海道新聞編集委員相原秀起さんの探訪記『ロシア極東秘境を歩く 北千島・サハリン・オホーツク』(北海道大学出版会、2016年11月刊)も借りて、一気に読んだ。
 
 浅田さんの文章は短い。リズムがある。そのうえ、人物の内面の描写が深いので、感情移入がしやすい。最近は、文章がだらけてるなと思ったら、浅田作品を読んでねじを巻く。今度も背筋がピンとなった。
 
 相原さんも新聞記者らしい平易な文章で、シュムシュ島と西隣のパラムシル(幌筵)島の北千島、特派員として駐在したことのあるサハリン、さらにはシベリア大陸の町オホーツクについて書いている。
 
 1年前、サハリン州郷土博物館(旧樺太庁博物館)で北緯50度の「国境標石」を見た=写真。相原さんの本によると、日露戦争のあと、明治36(1906)年から翌年にかけて、北緯50度の線上に国境標石(大標石4基、中間標石17基)と標木10本が設置された。相原さんはその大標石の行方を追った。
 
 われわれが目にしたのは4基ある大標石の一つ、1号標石で、東海岸の鳴海に設置されていた。南面(日本領)に上から「大日本帝国」の文字と菊の紋章、「境界」の文字が彫られていた。北面(ロシア領)はよく見ていなかったので記憶にないが、相原本によればロシアの国章「双頭の鷲」が彫られていた。内陸の2号標石は、保管していたサハリン住民によって根室市に寄贈されたという。
 
 ほかに、相原本で印象に残ったことが二つある。シュムシュ島には灯台職員4人のほかに人間は住んでいない。8月の島は花畑だった。ハマナス・ヒオウギアヤメ・チシマリンドウ・ヤナギラン・アマニュウ・クルマユリ・イソツツジ・ブルーベリー・ミヤマハンノキ・ハイマツ……。サハリンで見た草原の花々が重なった。
 
 もう一つ、1952年11月4日に発生したカムチャツカ地震では、シュムシュ島の西隣・パラムシル島を大津波が襲い、島の人口の半分に当たる2000~2500人の住民が亡くなったという。マグニチュードは9.0。6年前の東北地方太平洋沖地震と同規模だ。花と大津波と戦争と――北の島々への思いがまたふくらんだ。

2017年8月2日水曜日

アブが出現

 きょう(8月2日)で丸三日たったが、かすかに痛痒(がゆ)さが残っている。日曜日に夏井川渓谷の隠居で土いじりを始めたとたん、Tシャツの上から背中をアブに噛まれた。1匹ではない、3匹同時だ。手で払ったり、シャツをパタパタやったりしたものの、ビリッと感じてからでは遅かった。
 7月末になって、一気にアブが現れた。隠居にも人間の気配を察知して入ってくる=写真。半そで・素足でいると、足裏といわず腕といわず、いつの間にか止まって吸血する。カのように静かなチクッではない。一瞬、電気が走ったような痛さだ。頭のてっぺんからつま先まで、タオルケットで覆わないと昼寝もままならない。

 同じ日の朝、草むしりをしているとキイロスズメバチが現れ、執拗に体の周りを飛び続けた。偵察か警戒かはわからないが、どこかに巣があることは容易に想像できた。前に軒下や板塀のなかに巣をつくったことがある。キイロスズメバチに刺されたことのあるカミサンに、草むしりに熱中しないように注意する。人間の領分である街場の庭とはわけが違うのだ。

 カミサンがキイロスズメバチに手を刺されたときには、やけどをしたように痛かったという。痛みが収まらないので、磐城共立病院の救命救急センターへ連れて行った。「今度刺されたら、すぐ救急車を呼ぶように」とドクターはいった。

 土曜日には、兵庫県の小学生がヤマカガシに噛まれて、一時、意識不明になったという。ヤマカガシは、私が子どものころは無毒といわれていた。見つけると、しっぽをつかんで振り回して遊んだものだ。が、大人になったころ、死亡事故が起きて毒蛇の烙印を押された。よく無事ですんだものだ。
 
 渓谷にもヤマカガシはいる。隠居へ通い始めてからほどない真夏、渓流の岸を歩いていたら、大きなヤマカガシがとぐろを巻いて涼んでいた。肝を冷やした。マムシも生息しているが、遭遇したことはない。アブ・ハチ・カのほかにはブヨ((ブユ)がいる。イノシシがいる。ウルシが生える。毒キノコが発生する。山野は人間以外のいきものの王国なのだと、意識を切り替える必要がある。
 
 菌類については「まず毒キノコを覚えよ」といわれる。種類が少ないので、覚えてしまえば中毒する危険は格段に減る。それと同じで、危険な、あるいは不快な生きものを覚えることで、被害を減らすことはできる。安全な街場の感覚で山野を巡るのが一番危ない。過度に恐れる必要はないが、無頓着がケガを引き寄せる。

2017年8月1日火曜日

楢葉のスイカ

 先日(7月27日)、カミサンが知人の車で楢葉町へ出かけた。晩酌しながら“報告”を聞いているうちに、4年前、知人のお父さんの実家を訪ねたときの記憶がよみがえった。それからずいぶん変わったようだ。
 原発震災から6年5カ月近く――。除染が進んだ。空き家だったお父さんの実家が「木戸の交民家」プロジェクトとして、交流ハウスに利用されている。そして、先日告示された町議選は定員に達せず無投票で当選が決まった。

 知人のお父さんの実家は山田岡にある。4年前に訪れたのは、首都圏からやって来た“ダークツーリズム”の一行十数人に同行してのことだった。知人が案内人になって、広野・楢葉・富岡各町を巡った。

 実家には土蔵があった。ストリートビューでは、まだボロボロの土蔵が残っている。今は解体されてない。グーグルアースからは更地になった跡が見える。母屋と隠居は地震に耐えた。海側の山田浜を襲った津波も、そこまでは到達しなかったのだろう。
 
 この建物がみんなの興味をかきたてた。城のような重厚な農家のつくりではない。瀟洒な別荘風でもない。が、地域のリーダーだったご先祖の知性がしのばれるモダンな造りだ。

 周囲の田んぼも含めて除染が終わった。で、お父さんは震災前から住んでいるいわき市から、二日にいっぺん、「天気の悪い日」に実家へ通い、家庭菜園の手入れをしている。晴天の日ではなく曇天の穏やかな日が、ご老体には「菜園日和」なのだ。

 屋敷内でナス・インゲン・オクラなどを栽培している。近くの田んぼでは一部を畑にしてスイカをつくっている。カミサンが大玉をひとつもらってきた。甘かった。水分もたっぷりあって、ガブッとやるとあごに汁がこぼれるようだった。

「木戸の交民家」は「古民家」をもじったものだろう。震災後、空き巣に入られた。使わずにいるよりは、使ってもらったほうが家も長持ちする。ネットで検索したら、「古民家等を再生、再活用することで楢葉町、双葉郡における交流人口の拡大、地域コミュニティ活性化に資するのが目的」とあった。補助金を生かしたプロジェクトだろうか。であってもなくても、カネの切れ目が縁の切れ目にならないような運営を、と願うばかりだ。

 カミサンたちが出かけた日、「木戸の交民家」の前の道路を選挙カーが通ったという。
 
 楢葉町議選がこの日、告示された。定数12のところ11人しか立候補しなかった。で、選挙運動は初日の一日だけで終わった。翌28日、新聞に定数割れの無投票当選を告げる記事が載った=写真。これにも町民帰還が進まないという原発事故の影響があるのだろう。スイカは甘かったが、町議選はしょっぱかったか。