2017年10月31日火曜日

「紅葉情報」には二つある

 10月に入って、テレビが「紅葉情報」を伝えるようになった。カエデのイラストが付いている。先日、夏井川渓谷は福島県内で最も遅く、「青葉」から「色づき始め」に変わった。
 この紅葉情報には“注釈”が要る。イラストが示すように、カエデ限定だ。紅葉するのはカエデだけではない。むしろ非カエデの紅葉の方が山を美しく彩る。色づくのも早い。

 きのう(10月30日)午前、台風22号の影響の有無を確かめに、渓谷の隠居へ行ってきた。1週間前に台風21号が通過したときには、庭のネギがほとんど倒伏していた。今回は、途中の道に杉林の落ち葉もなく、ネギも無事だった。

 隠居の対岸は紅・黄・茶・その他、暖色系の色で染まっていた=写真。ツツジ類やヤマザクラなどの非カエデの紅葉としては、今度の週末あたりがピークだろう。県道沿いのカエデも確かに色づき始めていた。隠居の隣にある「錦展望台」では、コンテナハウスの店が営業を始めた。

 渓谷の名勝「篭場の滝」のそばに、随筆家大町桂月の歌碑が立つ。「散り果てゝ枯木ばかりと思ひしを日入りて見ゆる谷のもみぢ葉」。この歌のように、カエデは、落葉樹の中では紅葉が最も遅い。それを見にいくころには、ほかの紅葉は散り果てて初冬の風景に変わっている。

「紅葉情報」には二つある。一つはカエデ。もう一つは非カエデ。カエデ狙いのカメラマンはともかく、一般の行楽客にとっては今が見ごろだ。カエデ抜きでも全山燃えるような錦繍(きんしゅう)を楽しむことができる。

2017年10月30日月曜日

雨の日曜日

 総選挙の投票日は台風21号、今度は22号だ。2週連続で雨の日曜日になった。
 いわき市では毎年春と秋の2回、まちをきれいにする市民総ぐるみ運動が実施される。金・土・日の3日間で、初日は「清潔な環境づくりの日」(学校・社会福祉施設・事業所・商店・飲食店街周辺の清掃)、2日目は「自然を美しくする日/みんなの利用する施設をきれいにする日」(海岸・河川の清掃、樹木の手入れ、公園・観光地・道路・公共施設の清掃)、最終日は「清掃デー」(家庭周辺の清掃)だ。
 
 今年(2017年)の秋の運動は10月20~22日だった。最終日の「清掃デー」に想定外の総選挙の投票が重なった。が、予定通り実施すると、市から封書で連絡がきた。雨では1週間延期するしかない。延期したら、また雨。いくらなんでも次の日曜日に――とはいかない。あとはそれぞれ自分で「清掃デー」をもうけてやってもらおう、ということで行政区の役員の了承を得た。

 晴れていれば、朝6時半から1時間、区民総出で家の周辺の清掃をする。そのあと、指定の集積所に出されたごみ袋を数える。それでお役御免になる。雨では夏井川渓谷の隠居へ行っても土いじりができない。
 
 このところ、市内では毎週末、いろんなイベントが繰り広げられている。新聞で「市場まつり」を知った。市中央卸売市場の開場40周年を記念して、青果、水産、花き各棟で即売会やショーなどが行われる。雨がくれた骨休めだ。出かけることにした。
 
 同市場は平と小名浜を結ぶ鹿島街道沿いにある。国道6号バイパスを利用して鹿島街道に出ると、車列ができていた=写真。ざっと1.5キロの大渋滞だ。少し進んでは止まり、しばらく止まっては少し進みしながら、市場への標識と、その先の信号が見えるところまで来たが……。台地の市場へと続く進入路まで車が数珠つなぎになっている。
 
 もう40分たった。まだ40分かかりそうだ。さすがにそこまで我慢強くはない。車列からはずれて街道沿いの本屋へ向かい、新刊本を眺めたあと台湾家庭料理の店へ行く。カミサンは2回目、私は初めてだ。小籠包と台湾にんにく湯麺(たんめん)を頼んだ。湯麺のスープは透き通っていて、あっさりしているのにコクがある。最後の一滴まで飲みほした。
 
 台湾が恋しくなったらここへ来よう、にんにく湯麺を食べよう――そんな思いを抱かせるような味だった。

2017年10月29日日曜日

その後の十一屋

 幕末の磐城平城下に「十一屋」という旅宿があった。さむらいの「士」を分解すると、「十一」になる。若い人から教えられて、なるほどと思った。武士が脱サラして商売を始めたので、そう名付けたのかもしれない。
 新島襄、21歳。乗船した帆船「快風丸」が江戸から函館へと太平洋側を北上する途中、中之作(いわき市)に寄港する。襄は閼伽井嶽登山を試みたが、「烈風雷雨」で断念し、磐城平城下の十一屋に泊まった。函館から密航してアメリカへ留学するのはそのあと。

 不破俊輔・福島宜慶共著の歴史小説『坊主持ちの旅――江(ごう)正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター)にも十一屋が出てくる。「藩の御用商人である十一屋小島忠平は正敏の親戚である。小島忠平は平町字三町目二番地に十一屋を創業し、旅館・雑貨・薬種・呉服等を商っていた。その忠平はかつて武士であった」

 愚庵は正岡子規に影響を与えた明治の歌僧。正敏は愚庵の竹馬の友で、一時は北海道でサケ漁業経営者として成功した。ともに元磐城平藩士だ。愚庵に「江正敏君伝」がある。

 明治40(1907)年に、いわきで初めて発行された民間新聞「いはき」に「十一屋」の広告が載っている。「煙草元売捌/洋小間物商/清 平町三丁目/小島末蔵/十一屋号」とある。「清」は、実際には輪っかの丸に清だ。

 大正に入ると、詩人山村暮鳥が十一屋に出入りするようになる。十一屋の大番頭さんと昵懇(じっこん)の間柄だった。店の前の路上で種物売りをしていた好間・川中子(かわなご)の「猪狩ばあさん」をモチーフにした詩「穀物の種子」もある。

 以上は幕末~大正期の十一屋のおさらい。その後、十一屋の移った場所がわかる地図「大・平町職業要覧明細図」(昭和11年製作)を偶然見た。明細図には東西に延びるメーンストリートの本町通りを中心に、平町の店舗・住宅が名入りで描かれている。
 
 いわき地域学會主催の第3回いわき学検定1次試験が10月7日、2次試験がきのう(10月28日)、市生涯学習プラザで行われた。
 
 同プラザはティーワンビル4、5階に入居している。4階エレベーターホールと隣のロビーにかけて、壁面を利用して平・本町通りの拡大地図(大・平町職業要覧明細図)と写真パネルが飾られている。いわき市制施行50周年記念と銘打ってあるから、去年(2016年)展示されたのだろう。そこに、その後の十一屋があった。三町目から四町目に移っていた=写真。
 
 あとで明細図とグーグルアースで通りの今昔を比べる。通りの南側には丸市屋、宍戸屋、関内薬局、丸伊酒店といった店がそのまま残っている。北側は、マルトモ書店が消え、ホテルが建つなどだいぶ様変わりした。十一屋は丸伊酒店の向かい側にあった。
 
 同じように十一屋に注目している仲間が教えてくれた。四町目に移ってからは、うどんとそばで有名だった。要は食堂だ。「平へ行ったら、十一屋のそばを食べる」というくらいに知られていたらしい。だからどうなんだといわれそうだが、十一屋には歴史の落ち葉が積もっている。その後の十一屋の場所がわかっただけでも大収穫だった。

2017年10月28日土曜日

新聞コラム

 池上彰さんが「新聞ななめ読み」で、朝日・読売・毎日3紙の1面コラムを取り上げていた(きのう10月27日の朝日新聞)=写真。

 朝日は「天声人語」、読売は「編集手帳」、毎日は「余録」。総選挙の結果を1面コラムはどう料理し、伝えていたか――が主眼だが、読売の「編集手帳」執筆担当者竹内政明さんへの“惜別の辞”でもあったように思う。竹内さんはコラム界きっての名文家だ。
 10月3日の執筆担当者交代の社告によると、竹内さんは平成13(2001)年7月から今年(2017)10月2日まで、およそ16年間にわたって「編集手帳」を担当した。

 新聞の1面は「顔」、そこにあるコラムは「シワ」――それが竹内さんの持論だ。今年元日のコラムに書いている。「心躍る出来事の目尻には微笑のシワを畳み、悲しい事件のおでこには憂いの八の字を刻み、読者の胸の奥に並べていただく。目尻の1年になるといい」。微笑の1年を祈る年頭コラムだ。比喩が独特でわかりやすい。

 新聞社を辞めてざっと1年半後、「マスコミ論」(のちに「メディア社会論」)を学生に、という話がきた。7年目の今年が最後になった。始まりは東日本大震災が発生した年で、開講が1カ月遅れた。予定の内容をガラリと変えた。

 研究材料として全国紙2紙、県紙1紙、地域紙1紙、ほかに月刊の「新聞研究」(日本新聞協会)と「ジャーナリズム」(朝日新聞出版)などを購読した。

 震災からちょうど1年がたった平成24(2012)年3月11日の読売新聞を、今も忘れられない。1面の3分の2を仙台市若葉区の「慰霊の塔」の写真で埋め、ふだんは1面左下にある「編集手帳」を上部に据えた。分量はふだんの2倍。「時は流れない。雪のように降り積もる。人は優しくなったか。賢くなったか。」。ふだんはない見出しが付いていた。

 読売は「編集手帳」から読み始める。今もそれは変わらない。「天声人語」が洋館の書斎派だとすると、「編集手帳」は長屋のちゃぶ台派。天下国家を論じるにしても、庶民の喜怒哀楽から離れない、そこが魅力だった。

 執筆者交代は、今度の「新聞ななめ読み」で知った。社告を読み飛ばしていた。あわててネットでチェックし、総合図書館へ行って10月2日と3日の「編集手帳」を読み直した。

 これは偶然だが、読売は今月で購読期間が切れる。カミサンから経費節減をいわれている。学生に話す仕事も終わった。たまたま家で店番中に拡張員氏が来た。「ちょっと休みます」といったあと、なぜか文科省前事務次官氏に関する「出会い系バー」の記事と、社会部長の言い訳が頭に浮かんだ。

2017年10月27日金曜日

台風と杉の葉

 杉の枝葉は風に弱い。台風21号がいわき沖を通過した10月23日午後、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。途中に2カ所、杉のミニ林がある。路面が杉の枝葉で覆われていた。大風が吹くと必ずそうなる。
 隠居で昔野菜の「三春ネギ」を100本ほど、「いわき一本太ネギ」を30本ほど栽培している。どちらも風に弱い。
 
 23日午前、閉塞されている夏井川河口を見に行った。大水が砂の壁をぶち抜き、太平洋に注いでいた。河口までの両岸にネギ畑がある。品種改良がされた、風折れしにくいネギだが、土寄せが甘かったところはうねの両側に倒れ、白根がのぞいていた。
 
 それを見て、隠居のネギの無残な姿が思い浮かんだ。駆け付けると、ほとんどが北に向かって倒れていた=写真。嘆いているひまはない。すぐネギを起こし、土を寄せる。折れた葉は回収し、味噌汁や卵焼きなどの具にした。
 
 芽生えたばかりのネギ苗は――。なんと、一部の地面が盛り上がって割れている。直下にモグラの通り道ができた。ネギ苗の根が地中で浮いたら枯れてしまう。こぶしで土を押し戻したが、またトンネルができそうだ。難敵が現れたものだ。
 
 風による倒伏、モグラによるネギ苗の枯死だけではない。雨が続いて湿気に弱いネギがとろけてしまった、なんて話も聞く。隠居では、根腐れ防止のために溝を浅くして土を高く寄せることにしたが、台風には無力だった。いや、それ以上に土寄せが甘かった。
 
 台風一過後の24日、福井県のJR北陸本線南今庄駅で列車がホームをオーバーランするトラブルが相次いだ。ホームだけの駅の南側に杉林がある。杉の枝葉が台風で線路敷地内まで吹き飛ばされた。で、線路にのっかった杉の葉で列車の車輪が滑り、ブレーキの利きが甘くなった、ということらしい。
 
 夏井川渓谷の磐越東線も、紅葉の時期になると落ち葉が線路敷地内に散乱する。11月にはたまに、雨による濡れ落ち葉が原因で車輪が空転し列車が遅れた、という記事が新聞に載る。昔、渓谷の古老から聞いた話だが、朝起きると線路に落ち葉が積もっていないかどうか見回ったものだという。あれば除去する。自発的な行為だ。山里ではときどき、街場では想像もできないような自然との葛藤がおきる。

2017年10月26日木曜日

「洟をたらした神」の世界

 東日本大震災後の平成24(2012)年11月、作家吉野せいの短編集『洟をたらした神』が文庫本(中央公論新社)になった=写真。同27年1月に再版されたものを手元に置いている。簡便でいい。
 ポケットに入れて『洟をたらした神』の“現場”(いわき市好間町の菊竹山など)へ行く。わきに置いてネットで調べ物をする。作品が生まれた背景=時代・地域・生業と暮らし・子どもの遊びなど=を探ることで、いわきをフィールドにした「『洟をたらした神』の世界」を知ることができる。自分用の“注釈”づくりでもある。
 
 せいの夫・義也(詩人・三野混沌)は中国ナシの「莱陽慈梨(ライヤンツーリー)」を栽培した(実際はせいと息子に丸投げしたようなものだが)。いわきのナシ栽培史や、莱陽慈梨が日本に導入された経緯を重ね合わせると、混沌の、中国ナシに寄せる情熱がハンパではないことがわかる。
 
 作品解釈の究極は、作家がなぜ、どんな思いでそれを書いたかにある、と私は思っている。作品に出てくる“キーワード”を調べることが、一見遠回りのようでその近道になることを、最近知った。文庫本のおかげかもしれない。
 
 たとえば、「莱陽慈梨」を日本に導入した国の園芸試験場の研究者と混沌の関係は? 混沌が静岡にあるその試験場へ出かけたことは? その混沌を妻のせいはどう見ていたか――夫婦の関係、あるいは夫・妻それぞれの内面を知るうえで新しい問いが次々にわいてくる。
 
 吉野せいの研究者でもなんでもない。が、昭和50(1975)年春、『洟をたらした神』が田村俊子賞を受賞したとき、本人を取材した。こちらは26歳の若造だった。本が出版されたときには書評めいた記事も書いた。そんな因縁があって、古希近い年まで間歇的に『洟をたらした神』を読み返している。
 
 さて、いわき市はせいの業績を記念して、文学賞(吉野せい賞)を創設した。今年(2017年)で40回目になる。おととい(10月24日)、5人の選考委員を代表して、市役所で行われた記者会見に同席し、選評と総評を述べた。節目の年にふさわしい作品がそろい、正賞と準賞のほかに、奨励賞と中学生以下の青少年特別賞各2編を選ぶことができた。

 11月11日には市立草野心平記念文学館で表彰式と記念講演会が開かれる。表彰式では選考結果を報告しないといけない。記念講演会の講師は福島県立博物館の赤坂憲雄館長で、「吉野せいの世界」と題して話す。テキスト代わりに文庫本をポケットにしのばせて行くか。

2017年10月25日水曜日

スウェーデンからの訃報

 8年前、還暦を記念して仲間で“海外修学旅行”をしよう、ということになった。最初に、スウェーデンに住む同級生の病気見舞いを兼ねて、北欧3国を旅した。6人プラス奥方1人で出かけた。
 昭和39(1964)年4月、平高専(現福島高専)に入学した。機械工学科40人の出身地は、福島、梁川、郡山、会津若松、田村郡、原町、相馬、平、磐城など福島県内一円に及ぶ。岩手県の人間もいた。地元いわき(合併したのは3年生のとき)の人間を除いて寮生活を共にした。

 15歳の出会いから半世紀余。きのう(10月24日)、仲間を経由してスウェーデンから同級生の訃報が届いた。8年前に自宅を訪ねたとき、薬の本作用で病気は治ったが、副作用が末梢神経に出た、ときどき痛みに襲われる、といっていた。死を知らせる家族からのメールも、痛みとの闘いが続いていたことをうかがわせた。

 同級生の住まいはストックホルムから少し北へ行ったところにある。集合住宅の4階で、南面する庭にはセイヨウトチノキが植わっていた=写真。大きな葉の茂りを窓から見下ろした。セイヨウトチノキは、流行歌の「カスバの女」にうたわれる♪花はマロニエ シャンゼリゼ……のマロニエのことだ。

 ノルウェーのベルゲンでは、日本人ガイドから「街路樹はマロニエが多い」という話を聞いた。ドイツ語では、マロニエは「カスタニエン」。フランクルの『夜と霧』に、強制収容所のバラック病舎の窓から見えるカスタニエンの木に永遠の命を見いだして死んだ若い女性の話が出てくる。

「あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの」「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私は――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ……」(霜山徳爾訳、みすず書房)
 
 同級生は自宅の窓から年輪を八つ加えたマロニエを眺めながら、何を思ったか。最後に脳裏に浮かんだのはふるさと会津の山河か、「永遠のいのち」か。いやいや、奥方と3人の子どもに看取られて、「これまでありがとう」と言って旅立ったにちがいない。
 
 8年前、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会を開き、スウェーデンに国際電話をかけたのが、“海外修学旅行”の始まりだった。それぞれが「今生の別れ」のつもりで会いに行った。喪失感とともに、痛みから解放されて安らぐ顔が思い浮かぶ。いつか隠居で「偲ぶ会」を開かねば――。

2017年10月24日火曜日

台風21号通過

「超大型で非常に強い」台風というから心配だったが、いわきでは一部停電や通行止め程度ですんだようだ。
 小川町の山腹にある市立草野心平記念文学館付近ののり面が崩落した。けさの新聞に写真が載っている。周りの景色からして、小川のふもとから市道を駆け上がり、文学館が見えてくるあたりで土砂が市道を埋め尽くした。このへんののり面はときどき、イノシシにほじくり返されている。それが引き金になったか。(実際には前から緩んでいたらしい)

 台風21号がきのう(10月23日)朝、いわき沖を通過した。6時過ぎ、ごみネットを家の前の電柱にくくりつけた。生あったかい風が顔をなでる。雨はほぼやんでいる。隣のコインランドリー駐車場に大家さんがいた。店のひさしの看板が一部落下した。それを片づけているところだった。

 朝食後、近所に出かけたカミサンが帰って来て言う。「三夜(さんや)川が(地面と)すれすれまで増水している」。三夜川は三面舗装の農業排水路だが、生活排水も流れ込む。県支弁河川として工事が行われた結果、川名を「三夜川」とした(志賀伝吉著『夏井川』)。流路はおよそ5キロ。わが行政区と隣の行政区の境の川でもある。
 
 前日は総選挙があって、投票立会人を務めた。寝不足気味だったので、朝食後、こたつで横になった。そのあと、近所の三夜川を見に行った。カミサンが見たときから1時間以上たっている。水位は地面から50センチ以上も低くなっていた。
 
 三夜川は、最終的には夏井川と仁井田川をつなぐ横川に合流する。夏井川河口は、ふだんは波が押し上げた砂で閉塞している。
 
 台風のときくらいは大水で砂浜がブン抜けているはずだ。様子を見に行った。六十枚橋へは左岸の堤防を、橋からは右岸の堤防を利用した。河川敷は水没したが、橋脚はまだ見えている。河口は? 昔はほぼまっすぐ太平洋とつながっていたが、今は右岸寄りの砂を削って濁水を吐き出していた。
 
 それとは別の場所(昔の河口付近)で、バックホーが砂浜に水路をつくっていた=写真。薄紙のような水が太平洋へ流れていた。重機が出て吐き出し口をつくるのは、夏井川河口ではもうなじみの光景だ。
 
 川の両岸にあるネギ畑が風害に遭っていた。暴風に翻弄されてうねの両側にネギが倒れている。品種改良が進んで、見た目がよく、風にも強いネギが栽培されるようになった。そのネギが倒伏しているとは!
 
 土寄せがしっかりしている畑は、しかし、目立った被害はない。昔野菜のいわき一本太ネギも三春ネギも風には弱い。急に気になって、昼食後、夏井川渓谷の隠居へ車を走らせた。ほぼ全部、ネギが倒伏していた。そのてんまつはまたあとで。

2017年10月23日月曜日

投票立会人

 朝6時過ぎに家を出て、帰って来たのは夜7時半だった。体育館の屋根を雨が一日中たたいていた。
 きのう(10月22日)、衆院総選挙の投開票が行われた(離島など台風21号の影響で開票が遅れているところもあるそうだ)。いわき市・双葉郡がエリアの福島5区のうち、いわき市平第11選挙区で当日投票(会場は小学校体育館)の立会人を務めた。投票立会人は2人いる。1人は地元の区長が選任される。順番が回ってきた。
 
 投票立会人には、投票の秘密保持のため「選挙で知り得た情報について守秘義務があるので、選挙後も漏らすことのないように」と文書でくぎを刺されている。どこのだれがどうの――といったことはもちろん、口にするつもりはない。が、これまで外から選挙を見る(取材する)だけだったのが、半分インサイドの立場で投票現場に身をおくことができた。いい経験になった。

 当日投票は午前7時から午後8時までだが、いわき市内の投票所は、主に山間部が2時間繰り上げて午後6時、ほかは午後7時で閉め切られる。

 投票が終わると、投票管理者と投票立会人の1人(今回は私)が、待たせておいたタクシーに三つの投票箱(小選挙区、比例代表、最高裁判所裁判官国民審査)を積んで、開票場の市総合体育館へ急ぐ。市内の投票所は計138カ所。夜雨のなか、138台のタクシーが一斉に総合体育館をめざす。想像するだけでも壮観だ。

 国道6号常磐バイパスを利用した。たまたまだが、赤信号で止まることなく総合体育館に着くことができた。先着のタクシーがいる。あとから次々にタクシーが到着する。時間が限られているので、みな殺気立っている。現役時代に一度、この光景を写真に撮って紙面化したかったな――そんな思いがよぎる。

 大体育館に入って開票スタッフに投票箱を引き渡したときにも、記者時代の記憶がよみがえった。もう35年以上前、なんの選挙だか忘れたが開票取材でこの体育館に張りついたことがある。
 
 さて、タクシーで投票箱を運び、同じタクシーでUターンして帰宅するまで30分。およそ1カ月前の市長選では、街なかルートで会場へ向かったという。どのルートを行くかと運転手が言うので、投票管理者と相談してバイパス経由にした。前回は数珠つなぎになったことからすると、信号の少ないバイパス利用が正解だったのではないか。
 
 家では晩酌をやりながらNHKの選挙特番=写真=を見た。が、間もなくまぶたが重くなった。寝坊するわけにはいかないと、未明の2時前に目が覚めてからは、そのまま起きていた。長い一日だった。

2017年10月22日日曜日

ラトブ10周年

 おととい(10月20日)、新聞にラトブ(平=複合ビル)とリスポ(小名浜=ショッピングセンター)の折り込み広告が入っていた=写真。
 ラトブはオープン10周年の“感謝セール”(割引や特別メニュー)とイベントの開催を告げるものだった。一方のリスポは 、“閉店セール”(割引)を20~23日に実施するという内容だった。こちらは来年(2018年)1月15日、50年の歴史に幕を閉じる。
 
 ラトブにしぼって書く。ラトブはいわき駅前再開発ビルとして、平成19(2007)年10月25日、オープンした。6階のいわき産業創造館に起業家を支援する「インキュベートルーム」がある。若い仲間がオープンと同時に、「ネット古書店」として入居した。
 
 たまたまその日が、会社をやめてフリーになった初日だった。若い仲間に誘われてインキュベートルームの同居人になった。前職のからみで回ってきた仕事があった。毎日、階下の総合図書館に通い、資料を探し、若い仲間に手伝ってもらって本を2冊つくった。取材・編集代行業のようなものだった。
 
 インキュベートルーム通いは1年で終わる。あとは在宅ワークに切り替えた。そのころ、縁があっていわきの雑誌「うえいぶ」の編集者になった。住んでいる行政区の役員に誘われ、吉野せい賞選考委員になった。震災の年(2011年)から今年までの7期、非常勤講師も経験した。

 ラトブができる数年前、私も参加して当時の市長に「いわき市総合型図書館整備に関する提言」をした。思い思いに過ごす「自分の椅子」のある図書館を――が柱だった。提言に基づいて総合図書館が計画され、ラトブの4、5階に入居した。
 
 オープン時から総合図書館に日参している人を知っている。話したことはない。どこの誰かも知らない。が、「自分の椅子」を持ち、「自分の書斎」として図書館を利用していることは確かだ。私もそうだ。ラトブの10年は、図書館利用の10年でもあった。
 
 オープン当初、別の若い仲間が私たちのことを「ラトブ族」と評したことがある。ラトブができるまでの本をつくり、図書館を自分の書庫のように利用している、という意味では、この10年、「ラトブ族」の一人だったことは間違いない。

2017年10月21日土曜日

キジバトと子イノシシ

 おどかしてごめん、ごめん、ごめん――。そう舌頭で謝りながら、車で“スーパー林道”を駆け上り駆け下った。
 ところどころでキジバトがえさをついばんでいた。キジバトにとっては、突然、うなり声をあげて疾走してくる暴れ牛のような鉄のかたまりだ。両側の木の間にそれればいいものを、前へ前へとまっすぐ飛んでいく。その繰り返し。肝を冷やしたにちがいない。

 夏井川渓谷のいわき市小川町上小川字牛小川と、左岸の神楽山(かぐらやま=標高808メートル)の裾をまくようにして、同市川前町下桶売字荻(おぎ)を結ぶ広域基幹林道上高部線を、地元の人は半分皮肉を込めて“スーパー林道”と呼ぶ。幅員は5メートル、延長は14キロ。おととい(10月19日)朝、いわき市から川内村・上川内へ行くのに最短コースとして利用した。

 1カ月前の敬老の日(9月18日)にも、田村市常葉町にある実家からの帰り、都路―川内経由で“スーパー林道”を利用した。珍しく対向車両があった。人もいた。山の手入れが行われていた。

 具体的には「ふくしま森林再生(県営林)事業上高部地区」で、期間は10月31日まで。間伐などの森林整備と、放射性物質の動態に応じた表土流出防止柵などの対策を一体的に行う、と福島県のホームページにあった。

 すでに事業は完了していた。道端の草がきれいに刈り払われ、表土流出防止の柵(間伐材を利用)が設けられていた=写真。

 しかし、整備事業エリアを過ぎると、道がいきなり草で狭くなる。牛小川寄り、川前・外門(ともん)の集落に近づいたとき、道をすばやく横切る小動物がいた。ずんぐりした体形。子どものイノシシだった。3匹か4匹か、ちょっとはっきりしなかったが、曇雨天のうえに杉林の中なので薄暗い、こんなところには出るかもしれない――予想していたとおりになった。
 
 人間界と自然界が混然一体となった山里ならではのできごとだ。そういえば、朝、川内へ向かっているとき、ケータイが鳴った。若い元同僚からだった。いわき市の「好間でイノシシを捕ります、作家吉野せいの住んでいた家はどの辺でしたっけ?」「好間中学校への道を上がって、ちょっと行って左折したどんづまり、(夫・義也=三野混沌の)詩碑があるところ」。彼は現役の記者だが、最近、わな猟の免許を取った。師匠格の人と一緒に菊竹山中にわなを仕掛けるのだろうか。
 
 曇雨天だと、イノシシは昼も動きまわる? いや、原発震災以降、イノシシ猟が激減した。人間が避難した双葉郡内はすっかり野生の王国と化した。日中から動き回る習性を取り戻しただけなのかもしれない。

2017年10月20日金曜日

川内の「心平記念館」へ

 きのう(10月19日)、用があって川内村へ行って来た。朝から雨。ジャンパーをはおり、マフラーを首に巻いて出かけた。外にいると寒かった。
 村に草野心平が夏・秋を過ごした「天山文庫」がある。天山文庫の下には阿武隈民芸館。平成22(2010)年、二つをまとめて管理する組織「かわうち草野心平記念館」ができた。その1年後、原発震災が起きる。記念館も全村避難の影響を受けた。今は再生・復興の途中だろう。

 天山文庫へは若いころ二、三度、阿武隈民芸館へはそのついでに一度入ったことがある。いわき地域学會が『川内村史』を請け負った際には、幕末の俳諧を中心にした「川内の文芸」と、現代の「川内と草野心平」を担当し、仕事が休みの日に仲間と川内通いを続けた。

 おととい(10月18日)の福島民報「ふくしまは負けない 明日へ」欄は川内特集だった。<被災地の声>のコーナーに、同村で陶芸工房を開いている友人夫妻の愛娘、志賀風夏さん(23)が載った=写真。なんと、この4月からかわうち草野心平記念館の管理人になっていた。
 
 彼女のことなら生まれたときから知っている。よちよち歩きの姿も、震災後に大学生になって陶芸を始めたことも。
 
 記事にこうあった。管理人としては――若者向けの企画展を開いたり、天山文庫を使ったイベントを開催したりしたい、復興支援のために川内村へ集まっている人たちと協力して村の素晴らしさを発信したい。個人的には――陶芸を父親に学んでいる。父親は簡単に食器を製作するが、自分は思うように作ることができない。未熟さを痛感している。将来は仲間と合同展を開催できれば。
 
 記念館を訪ね、風夏さんに会って新聞記事の話をする。「そうみたいですね」。コピーを持って行けばよかったか。風夏さんと別れてから自宅を訪ねてわかったのだが、家では別の新聞をとっていた。両親も記事を読んでいなかった。
 
『川内村史』や、かつていわきで開かれた心平展の話などをした。今は管理人として心平の本を集め、集中的に読み解いているところだという。木工も得意な父親に本棚をつくってもらった。自宅を訪ねたときに、父親が本棚を見せてくれた。まだまだスペースが余っている。これからどんどん心平関係本が収まるのだろう。
 
 ま、それはそれとして、若い人同士、協力して川内の素晴らしさを発信したい、という心意気には打たれた。新聞記事を読んですぐ、6月16日に始まった「かわうち草野心平記念館」のツイート400件余を全部チェックした。発信者「中の人」は若者らしい感性に満ちていた。
 
 いわきには市立草野心平記念文学館がある。ちょうど今、市内では心平の詩に出てくる「玄玄天」を冠にした「まちなかアートフェスティバル」が開かれている。こちらも若い人が中心になって活動している。
 
 心平つながりでいわきの若者たちとネットワークを結ぶことはできるのではないか。それこそ合同展を開く仲間に出会えるかもしれない。
 
 文学館のあるいわき市小川町と記念館のある川内村とは国道399号でつながっている。これを私は勝手に「かえるロード」と呼んでいる。やがて「十文字トンネル」ができると、いわきと川内の時間距離はかなり短縮される。山のあちらとこちらの若者をつなぐ声かけぐらいなら年寄りにもできそうだ。

2017年10月19日木曜日

楽屋初体験

 まだ平市民会館があったころ、一度だけ楽屋をのぞいたことがある(同会館の跡地にアリオスができた)。
 多摩動物公園・チンパンジー飼育係の知人と、それぞれ奥さん同伴で、仙台でさとう宗幸さんと会食した。知人とさとうさんはテレビ番組を介して知り合ったらしい。そのさとうさんが何年か後、平市民会館で常陽銀行のファミリーコンサートにやって来た。あいさつを兼ねて楽屋を訪れたのだった。四半世紀も前のことだ。
 
 そのときは楽屋の“訪問体験”だったが、今回は出番までの“待機体験”だ。
 
 先週土曜日(10月14日)、いわきピットで吉野せい原作「洟をたらした神」の上映会&トークショーが開かれた。トークショーに、神山征二郎監督と私、いわき市立草野心平記念文学館の学芸員として、平成11(1999)年に「生誕百年記念―私は百姓女―吉野せい展」を担当した長谷川由美さん(現いわき市暮らしの伝承郷副館長)が“出演”した。
 
 当日午前11時半に集合し、楽屋で昼食をとりながらトークショーの流れを確認した。壁には鏡、会場のモニターテレビ=写真、冷蔵庫などがある。隣にはトイレ。出演者はここで化粧をし、出番を待つわけだ。
 
 トークショーは30分で終わった。反応は? フェイスブックに知人が感想をアップした。子どもが中学生のときにお名前を知った先生がいる。野鳥の会いわき支部の会報「かもめ」がたまに届く。なかにお名前がある。その先生からはがきが届いた。

 私のブログで開催を知り、申し込んだ。トークショーでは、吉野せいの人となりを知って、大変楽しかった――とあった。5日たってようやく余韻にひたっている。

2017年10月18日水曜日

三春ネギが芽を出した

 いわきの在来ネギの種まき日は決まっている。春まきの「いわき一本太ネギ」は4月10日。秋まきの「三春ネギ」は10月10日。生産者から教えられたことだ。 
「いわき一本太ネギ」は夏井川下流の砂地、「三春ネギ」は夏井川渓谷から山を越えた田村地方の隆起準平原(阿武隈高地)で栽培されている。おおよそ20年前から、渓谷の隠居で自家採種をしながら「三春ネギ」をつくっている。
 
 今年(2017年)は、車で5分ほどのところに地元の種苗店が移転してきたので、そこで売っている「いわきねぎ」(いわき一本太ネギ)の種を買って、プラスチックのポット苗床にまいた。覆土と水やりが不十分だったため、半分も発芽しなかった。
 
 それを頭において、10日前の日曜日(10月8日)、「三春ネギ」の種をまいた。去年(2016年)は筋まきながら、点まき気味に間隔を置いて覆土した。それがよかったらしい。太い苗ができた。
 
 週末からきのう(10月17日)午前まで、街から離れられなかった。で、きのう午後、様子を見に行った。ちゃんと発芽していた。
 
 ネギは発芽のかたちがおもしろい。黒い種の殻を破った根はいったんヘアピンのようなかたちで地上部に姿をあらわす=写真。記号の「∩」に近い。「∩」は主に数学の確率に用いられる記号で、「キャップ」というらしい。
 
 その後、根の部分は下へ下へと向かい、もう一方の茎の部分は上へ上へと伸びる。地上から離れた芽は最初、黒い殻をかぶったままで「?」のようなかたちになる。やがて殻を落とし、シャキッと一本立ちする。

 種をまいて安心し、芽が出てホッとする。師走には寒冷紗をかけてやる。そうして越冬すれば、春には太いネギ苗ができるだろう――そんなことを想像しながら、初夏に定植した「三春ネギ」を数本引っこ抜いて帰ってきた。

2017年10月17日火曜日

10月の冬支度

 厚手の衣類に着替える。石油ヒーターを出す。座卓代わりだったこたつにカバーをかける。先週末(10月14日)から冬支度が続く。早い。
 きのう(10月16日)は朝、灯油を買いに行った。車のトランクに入るのは18リットルポリ缶5個。買って戻ると、残っている3缶にも入れて来て――といわれる。結局、8缶を満タンにした。

 曇雨天続きのうえに、寒気に包まれた。きのうの最高気温は小名浜で13.2度。未明の午前1時にピークがきて、日中は13度を下回った。ブルッとなるわけだ。

 土曜日はイベントかけもち。日曜日は地元の公民館まつりの手伝い。きのう月曜日は吉野せい賞関係会議。

公民館まつりの芸能発表は途中から雨になった=写真。ぬれたままではテントをたためない。その片付けが残っている。いついつやる、となったら、区長に連絡がくる。用事が入っている日と重なれば行けない。そこは了解してもらうしかない。

 朝晩は、そして寒い日中も、一時的にヒーターをかける。ヒーターの暖気をダクトでこたつに呼び込む。省エネを意識してそうしているわけではない。こたつの差し込みか電線が断線している。去年(2016年)はそれで、こたつの下に電気カーペットを敷いた。

 体が天気の変化についていけなくなっている。寒気が来そうなときは一枚多く着込む。公民館まつりではそろいのジャンパーをはおった。ふとんもそろそろ冬用に取り換えないといけない。夕べは鼻がむずむずした。けさも少し違和感がある。風邪?

きょうはこれから、行政区内の事業所を回って区費協力金のお願いをする。明け方には雨がやんだので、まずはよかった。(午前6時半、外を見ると小雨)

2017年10月16日月曜日

70歳の再デビュー

 土曜日(10月14日)は午後、二つのイベントに参加した。吉野せい原作の「洟をたらした神」上映会&トークショー(いわきピット)が終わるとすぐ、「まちなかアートフェスティバル玄玄天2017」の開幕に合わせたトークイベント「いわきの現代美術の系譜~緑川宏樹編~」(アートスペースもりたか屋)に合流した。
 日曜日は朝8時から、地元の公民館まつりでテーブルやいすを出したり、テントで物売りの番をしたりした。館内外でイベントが行われた。区長協議会が実行委員会の軸になっている。要は裏方だ。

 曇天のまま終わるかと思ったら、11時前から雨になった。園庭で行われた芸能発表は、舞台が屋根付きのトラック。その前にいすを用意したが、プログラムの3分の2が終わったところで観客はテントと玄関口に引っ込んだ。雨でテントの片づけができないため、予定より1時間早く解散した。
 
 家に帰って一休みしたあと、街へ出かけた。前日の玄玄天トークイベントのとき、玄玄天に作品を発表した高木武広さん(小名浜)から「ぜひ作品を見てほしい」といわれた。
 
 彼とは、昭和40年代半ばから10年間、いわきの美術シーンをリードした草野美術ホールで知り合った。今年(2017年)5月、阿部幸洋新作絵画展が平のギャラリー界隈で開かれた。スペインに住む阿部も、草野美術ホールの“同窓生”だ。そこで、四十数年ぶりに高木さんと顔を合わせた。

 作品5点がアリオスの1階東口ウォールギャラリーに展示されていた。作品を発表するのも四十数年ぶりではないだろうか。確か、私より1歳年上のはずだから70歳の再デビューということになる。結婚して商売を始め、子育てを終え、店を閉じた。あとは好きな美術に没頭しよう、となったのだろう。

 作品のひとつ、「時の移ろい」=写真=は5センチ大の標本箱風仕切り648個で構成されたミクストメディアで、それぞれの標本箱には貝、石、棒、平面の色絵などが配されている。
 
 若いころの作品は忘れたが、若い人たちの玄玄天にふさわしい挑戦的で実験的な作品だ。個々の小宇宙で構成された大宇宙=画面全体になにか仕掛けがありはしないか。たとえばだまし絵とか、別のなにかが浮かび上がってくるとか……。目を凝らしたが、なにかが見えてくることはなかった。
 
 草野美術ホールの“同窓生”は、もう何人も鬼籍に入った。松田松雄、緑川宏樹、山野辺日出男、同年代のK、後輩のH、S……。生活者としての時間を全うした高木さんの若々しい再始動に胸板が共振した。

2017年10月15日日曜日

カマキリゆらゆら

 カマキリは産卵の季節に入ったらしい。木曜日(10月12日)の朝、家の玄関を開けていたら、コカマキリが飛び込んできた。9月末には夏井川渓谷の隠居の濡れ縁にオオカマキリが現れた。雌だとしたら、適当な場所があれば産卵する、人間が暮らす領域でもかまわない、そんな感じだ。
 渓谷のオオカマキリはカメラを近づけると、前足をそろえて折りたたみ、体を右に左に揺らしながら間合いをはかっていた=写真。カメラを獲物か敵とみなしたのだろうか。「はっけよい」を連想してちょっかいをかけたくなった。

 もう7年前になる。10月に入ってすぐ、カマキリが息子の家のフェンスに産卵しているのを目撃した。そのときのブログの抜粋。

 産卵を始めた以上は、人間に注視されてもやめるわけにはいかない。それほど必死の行為だ。が、なぜこんなところで――。
 
 夏井川渓谷の隠居は、庭と周囲の自然が一体化している。「虫の王国」だ。カマキリがどこに産卵してもおかしくない。ススキに産みつけられた円錐形の卵嚢(らんのう)をよく見かける。ところが、街のフェンスの卵嚢は縦長だ。オオカマキリのかたちではない。単にカマキリと呼ばれているチョウセンカマキリらしい。
 
 フェンスの支柱に逆さまに止まって、尻から卵をひり出しては産みつけている――。カマキリであれなんであれ、いきものの産卵を目撃すればおのずと厳粛な気持ちになる。
 
 さて、と、これは今年(2017年)の疑問。一緒に出てくる泡と卵がまざって卵嚢になるわけだが、その成分はなに? 寒暑や風雨に強い建材を開発するヒントにならないか? それに、どうして逆さに産みつけるのか? さすがはネットだ、成分がすぐわかった。こんがらかるので省略するが、たんぱく質や硬化酵素などがまざって麩のようになるらしい。

2017年10月14日土曜日

空中の陶芸教室

 きょう(10月14日)は二つのイベントに参加する。酔った勢いで安請け合いしたら、同じ日だった。両方のイベントに関係する若い人に時間がかぶっていることを指摘されてあおざめた。で、時間を調整してもらった。
 いわき市平・祢宜町のいわきピットで吉野せい原作の「洟をたらした神」上映会&トークショーが開かれる。トークショーに出る。終わるのは午後3時10分。平・三町目のアートスペースもりたか屋では、「まちなかアートフェスティバル玄玄天2017」の開幕に合わせて、「いわきの現代美術の系譜~緑川宏樹編~」と題したトークイベントが開かれる。

 緑川についてのトークイベントは、2時からの基調講演(第一部)と、3時15分からの座談会(第二部)で構成されている。吉野せいを語り、場所を移して緑川宏樹を語る。いわきピットからは、迎えに来た車で移動する。「紅白歌合戦に出る歌手と同じじゃないですか」というスタッフのことばに、穴があれば入りたくなった。

 吉野せいは「百姓ばっぱ」を自称する作家、緑川宏樹は前衛陶芸家だ。吉野せいについては、短編集『洟をたらした神』が田村俊子賞を受賞したとき、取材をした。緑川宏樹については、いつの間にか飲み友達になっていた。昭和49(1974)年から50年にかけてのことだ。

 そのへんの経緯を確認するために、勤務していたいわき民報社の新聞(縮刷版)に当たった。

 緑川卓志・宏樹という陶芸家が、突然、いわきに現われる。祖母の出身地であるいわきの小川町に卓志が窯を築く。宏樹があとから合流し、宏樹はやがて街のなかに陶房を構える。その初期、いわき民報社が陶芸教室を主催した。新聞掲載の社告でまず二人の名前を知った。

 陶芸教室は最初、小川の陶房で開かれた。やがて小川は遠いという声が上がり、平(現いわき)駅裏に「平教室」が設けられる。この建物がふるっている。空中に出っ張った“砦”だ。一度だけ宏樹に誘われて出かけたことがある。なんとなく落ち着かなかったことを覚えている。おととい(10月12日)、どんな建物だったか確かめに行った=写真。

 この建物の話をするわけではない。ただ見ておきたかった。にしても、変わった建物だ。急な外階段の昇降口に、「福島県行政書士会員 交通事故取扱事務所」とあった。今は使われている気配はないが、草刈りなどはちゃんとされているようだ。

2017年10月13日金曜日

ハクチョウがやって来た

 待つこと8日。いわきにもハクチョウがやって来た。きのう(10月12日)正午近く、成鳥4羽、体が灰色っぽい幼鳥3羽の計7羽が、平中神谷地内の夏井川で羽を休めていた=写真。自分の記録を見ると、夏井川への初飛来は10月10日~同29日で、今年(2017年)は早い方だろう。
 10月4日、猪苗代湖にハクチョウの第一陣が飛来したと、その日夕方のテレビが伝えた。猪苗代湖、あるいは福島市の阿武隈川に飛来すると、1週間~10日後には福島県南端のいわきにやって来る。

 で、翌5日からは街へ行くと必ず、夏井川の堤防を経由して帰ってくるようにした。何日か前、夏井川に新川が合流する平・塩地内の越冬地に白く大きな鳥がいた。遠目にはハクチョウだ。来たか! 次の瞬間、くちばしで水面を激しくつついた。ダイサギだった。

 北極圏のツンドラ地帯で子育てを終えたコハクチョウは、9月になるとサハリン(樺太)~北海道~本州へと南下して、越冬する。
 
 去年、サハリンへ旅した仲間がいる。今年はおととい、羽田から台湾へ飛んだ。3回目の台湾旅行だ。今回は東海岸を巡る。台北からその日のうちに高雄へ移動し、きのうは東海岸の花蓮に泊まった。きょうは基隆ほかを観光して、台北に泊まる。あした夜、羽田へ戻る。
 
 東海岸の旅の言い出しっぺは私だった。その後、断れない用事が入って、台湾旅行を断念した。ハクチョウ・サハリン・空の旅から、台湾を旅している仲間に連想が及んだ。
 
 きのうの空は、恐竜の骨のような巻積雲が広がっていた。天気は下り坂だ。案の定、夜、雨になった。幼鳥にとっては日本で初めての雨だったか。
 
 きょうも北から渡ってくるコハクチョウがいる。あしたは南から人間の仲間が空を飛んで帰ってくる。空にも見えない道がある。

2017年10月12日木曜日

吉野せい没後40年展

 いわきを代表する作家は、短編集『洟をたらした神』で知られる吉野せい(1899~1977年)。今年(2017年)は没後40年だ。亡くなった翌年(昭和53年)に創設された「吉野せい賞」も今年で40回目になる。
 節目の年を記念したイベントがいくつかある。9月には「朗読と邦楽器による『吉野せいの世界』」が開かれた。今週は土曜日(10月14日)、神山征二郎監督の「洟をたらした神」上映会&トークショーが開かれる。草野心平記念文学館では先週の土曜日(10月7日)、「没後40年記念吉野せい展」が始まった。

 トークショーに呼ばれている。その前にと、きのう(10月12日)、「没後40年展」を見てきた。旧知の学芸員が解説してくれた。文学館では18年前の平成11(1999)年秋、「生誕百年記念―私は百姓女―吉野せい展」が開かれている。

 結局は図録が頼りだ。「生誕百年記念展」は50ページほどだが、「没後40年展」は16ページと少ない。小名浜で育ったせいの「誕生・文学に傾倒した教師時代」(2~3ページ=写真)の写真のうち、3枚は初見だった。

 そのキャプション(えとき)にこうあった。①「若松(旧姓)せい生家 いわき市小名浜下町 昭和30年代」②「せいの祖父若松誠三郎の顕彰碑『北辰真武一刀流師範/若松誠三郎源尚之翁碑』地福院常福寺 いわき市小名浜 戊辰戦争の折、誠三郎は、目明役だった曽祖父鉄五郎とともに活躍した」③「若松(旧姓)せいと兄真琴 大正10年」――。
 
 新藤謙『土と修羅 三野混沌と吉野せい』(たいまつ社、1978年)によると、曽祖父は「目明し鉄五郎」と呼ばれた侠客肌の男で、官軍の奥州征討の際、道案内を務めた。祖父・誠三郎も同行した。誠三郎は剣術を学び、のちに道場を開いている。門弟は数百人を数えたという。来年は戊辰戦争150年の節目の年。鉄五郎・誠三郎親子にも光が当てられるといい。
 
 せいの思想形成に大きな影響を与えたのは鹿島村(当時)の八代義定――「没後40年展」でそのことをあらためて胸に刻んだ。

2017年10月11日水曜日

総選挙が始まった

 庭のホトトギスが次々に花を咲かせている=写真。静かに秋が深まりつつある。と思っていたら、列島が急にあわただしくなった。 
 いわき市では1カ月前の9月10日、任期満了に伴う市長選の投開票が行われた。いつもだと期日前投票をすませるのだが、ずるずると過ぎて投票が当日になった。
 
 毎回、近所の小学校の体育館が投票所に充てられる。投票立会人の1人が隣の区の区長さんだった。ということは、次はオレか。次の選挙がいつくるかわからないが、覚悟はしておいたほうがいいな――そう思いながら体育館をあとにした。
 
 その「次の選挙」があっという間にきた。きのう(10月10日)、衆院選(総選挙)が公示された。それに合わせて市の選挙管理委員会から封書が届いた。事前に電話で「投票立会人を」という連絡があった。断るとほかの人に迷惑がかかる。立会人には投票所がどう映るのか――半分は区長の慣例、半分はブンヤ的興味で引き受けた。
 
 当日投票は午前7時から午後8時までだが、終了時間を早めることができる。140(うち2カ所で臨時統合)あるいわき市内の投票所は、主に山間部が2時間繰り上げて午後6時、ほかは午後7時で閉め切られる。
 
 同じ地区のほかの区長さんも、何人かは立会人を経験済みだ。先日、会議があって顔を合わせたので、聞いてみた。朝6時半から夜7時過ぎまでの“お務め”だそうだ。じっとしている“苦痛”を耐えないといけないともいう。
 
 封書の中に「投票立会人のしおり」が入っていた。「平等を旨とし、いささかたりとも疑いを招くような行動はとらないよう注意してください」から始まって、7項目に留意し、「投票が常に公正、円滑に行われるように心がけてください」とあった。2人の立会人のうち1人が、投票管理者と一緒にタクシーで開票所まで投票箱を届ける必要がある。夜7時過ぎまでかかるというのは、このことだった。
 
 総選挙の投票日は10月22日。いわき市ではこの日、3日間展開される秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動の最終日だ。地域住民が一斉に家の周りをきれいにする。あらためて市から通知がきた。総選挙と重なるが、予定通り実施する――。燃えるごみや燃えないごみがどのくらい出たか、カウントして市に報告しないといけない。先日の役員会でほかの役員さんに代行をお願いした。

降ってわいた総選挙はこんなところにも影響を及ぼす。

2017年10月10日火曜日

小名浜・リスポへ

 体育の日のきのう(10月9日)は、カンヅメになってキーボードをたたき続けた。午後3時前、文章があらかた仕上がったので、気分転換を兼ねて出かけることにした。
 四倉の道の駅? いや、若い人たちが主催している小名浜本町通り芸術祭をのぞこう。といっても、行ったら終わっていた、では話にならない。ネットで確かめると、午後5時までやっている。さあ行くぞ――カミサンに声をかけて出かけた。
 
 来年(2018年)1月15日に閉館するタウンモールリスポ(旧小名浜名店街)を会場に、いろいろやっているらしい。中に入ると、たまたま主催者の一人がいた。つかまえて話を聴く。小名浜の巡検結果をジオラマ化した「学歩(まなぼ)」特別編が展示されていた=写真。リスポスケッチ展、シオカゼマルシェ、フクシノワ活動展も行われていた。
 
 近くの小名浜・本町通りでも、空き店舗のシャッターを利用した小名浜昔写真展などが開かれていた。
 
 通りが人と車でにぎわっていたころの、半世紀以上も前の小名浜の記憶――。叔父が日本水素(現日本化成)に勤めていた。市街地の西郊、藤原川に近い弁別に社宅があった。小学校入学前から低学年生のころまで、阿武隈の山里から祖母に連れられてよく泊まりに行った。今なお脳裏に鮮明なものが三つある。
 
 本町通りに面した「国華堂」という店で、生まれて初めてソフトクリームを食べた。やわらかくて甘かった。
 
 平からトレーラーバスに乗り、水素前で降りて、弁別方面行きのバスを待っていたときだったか。昼間から酔っ払ったおっさんがフラフラ歩いているうちに、ヘドロのたまった側溝に頭から突っ込んだ。バタバタもがく姿が今も鮮やかだ。おっさんは周りの人に引っぱり出されたはずだ。
 
 もうひとつ。従妹に連れられて社宅の前の海で、生まれて初めて海水浴をした。寄せては返す波にめまいを感じて砂浜にしゃがみこんだ。臨海工場群が林立する前、昭和20年代後半の記憶。松林が伸び、砂浜が東へと湾曲して広がっていた。
 
 若い人たちがいろいろ仕掛けて、街に人を、活気を呼び込もうとしている。少なくともリスポはその仕掛けが効いて「名残のにぎわい」があった。
 
 そうだ、もうひとつ思い出したことがある。上の子が生まれて7カ月のころ、小名浜名店街か、隣接してあった小名浜ショッピングセンター(現駐車場)のどっちかで、ときどき飲みに押しかけた友人の若い叔父さん夫婦とばったり会った。「星の王子様だね」。奥方のサチコさんにいわれた。「星の王子様」は、今は2人の男の子の父親だ。これも忘れがたい小名浜体験。

2017年10月9日月曜日

磐東線全通100周年号

 きのう(10月8日)、臨時の「磐越東線全線開通100周年号」が郡山―いわき間を往復した。郡山発10時22分のいわき行きは正午過ぎ、夏井川渓谷の牛小川踏切付近を通過した=写真。直後に磐東線と並行する県道を川前から小川方面へと駆け下ってくる車が相次いだ。県外ナンバーがほとんどだった。
 磐東線は大正3(1904)年、最初に郡山―三春駅間が開業する。以後、郡山といわき側から少しずつ営業区間を伸ばす。いわき側は小川郷駅、郡山側は小野新町駅の間、夏井川渓谷の難工事を経て全線が開通するのは同6年10月10日。あしたで満100年だ。この区間に川前駅と夏井駅が新設された。今は小川郷と川前の間に江田駅がある。元は信号所だった。
 
 100周年号はディーゼル機関車2両、旧型客車4両の6両編成だ。チョコレート色の客車には“乗り鉄”、沿線には“撮り鉄”――。
 
 わが家を車で出て小川町に入ったとき、中学生らしい男の子が三脚を持って道を歩いていた。何を撮るんだろう、野鳥かな? 渓谷の手前、磐東線の高崎桟道橋(空中鉄橋)が見えるあたりに、脚立を立ててカメラの位置を確かめている人がいた。カミサンが「お昼ごろ、磐東線100周年の記念列車が通るみたい」というので、了解した。少年も“撮り鉄”だった。
 
 川前駅前ではこの日、「秋の川前まつり」が開かれた。新聞とフェイスブックで知り、川前の商店主からも聞いていたのを思い出す。イベントへ出かける時間的な余裕はなかった。代わりに、100周年号の“にわか撮り鉄”になる。
 
 いわき発郡山行きは午後3時ごろ、牛小川を通過する。近くの線路そばに立っている“撮り鉄”が言っていたので、今度は山側から狙うことにした。踏切を渡ると、山際の家の前に見知った住民と家族がひとかたまりになっている。知人の母の一周忌を終えて帰宅したばかりのようだった。

 磐東線全通100周年号をみんなで歓迎しようということになって、日の丸やミニ鯉のぼりまで用意したのだという。踏切の警報機が鳴って点滅し、列車が現れると、旗を、のぼりを、手を振って応えた=写真。近くの田んぼで稲刈りをしていた知人たちも、しばし手を休めて100周年号を見送った。
 
 渓谷の住民にとって磐東線はなによりも通学の足だった。踏切事故で亡くなった人もいる。昭和10(1935)年10月27日の宵には、集落の近くで12人が死亡し、50人が負傷する脱線・転落事故が起きた。アカヤシオの花が咲く春と、紅葉の秋には列車に乗って行楽客がやって来た。そんなもろもろの思い出や歴史がからまって、日の丸を振ろうとなったのだろう。
 
 写真は下手でも、磐東線全通100周年にふさわしい瞬間に立ち会うことができた――満足して隠居へ戻りかけると、今度は小川から川前方面へと県外ナンバーの車が駆け上がってきた。八王子・水戸・山形・新潟……。これに、県内の福島・郡山、もちろんいわきナンバーも。谷あいの里はこの日二度ばかり、人と車でにぎわった。

2017年10月8日日曜日

第3回いわき学検定試験

「戊辰戦争は来年(2018年)150年だから……。裏をかかれた」と、その人は言った。問題を見ていない私は、何のことかよくわからなかった。
 きのう(10月7日)午後、いわき地域学會主催の第3回いわき学検定1次試験が市生涯学習プラザで開かれた=写真。30人が応募し、23人が受験した。1回目は4人、2回目は5人が1、2次試験を突破して「いわき学博士号」を取得した。今年の2次試験は3週間後の土曜日28日。その後、11月25日にいわき学博士号の授与式が行われる。

 1次試験が終わったあと、初めて問題集を開いた。役割分担をしているので、事前に問題を見ることはない。100問、4択。いわきの歴史・地理・文化・その他について、広く深く勉強していれば点数は稼げる。あとは運・粘りというほかない。

 戊辰戦争に関する問題もいくつかあった。「裏をかかれた」と感じた人は、戊辰戦争の問題は来年だろうと思ったのか、もっといっぱい出ると思ったのか。

「難しかった」。そう言って早い時間に帰る人がいた。この人は少し変わっていた。つっかけでやって来た。結果的には冷やかしレベルだったとしても、参加してくれたことには感謝したい。

 第1問は「平成23(2011)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震のマグニチュードは?」。第50問は「鳥居忠正は石高10万石で磐城平藩主になったが、それ以前の石高は?」。そして、最後の100問「じゃんがら念仏踊りで、鉦をたたく役は何と呼ばれるか?」。答えは順に「9.0」「4万石」「鉦切り」だが、意想外の問題もあった。

 学校でもそう、受験勉強はそれなりに必要だ。答えられない問題がたくさんあった。それはもう4分の1の確率、運で選ぶしかない。

 早い人は試験開始から30分を経過したところで退室したが、ぎりぎり90分、1人になっても粘りに粘って問題用紙と向き合っている若い女性がいた。最後はスタッフと笑顔で別れた。2次試験に戻って来てくれるとうれしいな。

2017年10月7日土曜日

阿部幸洋新作展

「もう50年ほど前になるんだよ。オレが19歳だったから」。いわき市泉ヶ丘のギャラリーいわきで阿部幸洋新作展が開かれている(10月10日まで)=写真。初日5日に出かけた。雑談のなかで初めて会ったときの話になった。
 阿部はスペイン在住の画家。いわき市平出身で、毎年帰国してはいわきを主に個展を開く。今年(2017年)、いわきでは2回目の開催だ。

「緑川宏樹さんに会ったのは草野美術ホールだったっけ?」と私。「そうじゃないの」。前衛陶芸家の緑川さんが、母親の出身地であるいわきに移住したのが昭和50(1975)年。取材で知り合ったというよりは、美術家たちとワイワイやっているうちに知り合ったような記憶がある。画家松田松雄には同ホールで会った。岩手なまりと長靴姿が強烈な印象として残っている。2人ともすでに彼岸へ渡った。

 瀬戸物屋に日用雑器をつくって納めるのが陶芸家の仕事――当時そう思っていた私には、日用品とは無縁の作品(“紙ヒコーキ”など)をつくる緑川さんの仕事が衝撃だった。一気に陶芸と陶芸家の概念が変わった。日用品づくりからオブジェ制作、今でいうインスタレーションまで広がった。陶芸教室も開いた。陶芸を趣味にする市民が増えた。

 緑川さんは松田とともに、市立美術館の開館へとつながった市民団体「いわき市民ギャラリー」の活動をリードした。
 
 去年(2016年)に引き続き、「いわきの現代美術の系譜」と題するシンポジウムが来週土曜日(10月14日)、平・三町目のアートスペースもりたか屋で開かれる。いわきまちなかアートフェスティバル玄玄天の一環だ。

 去年は画家松田松雄について語り合った。今年は陶芸家緑川宏樹について語り合う。去年に引き続き、出てしゃべれというので、阿部から少しでも多く情報を仕込んでおくことにしたわけだった。

 さて、この半世紀近くの間に阿部の個展を何十回見たことだろう。「今回は色が明るいね」「基本的には何も変わらないけど、そのときの気分や思いは反映されるよ」という。
 
 今を語り合いながらも、しかし毎回、半世紀近く前の出会い・交遊の記憶がよみがえる。そのときの“酔虎談”になる。草野美術ホールの全盛期とそれぞれの青春が重なっていたからこそだと思う。かけがえのない人間とはそこで出会った。

 追記:日付が変わるころ、楢葉町や川内村で震度5弱、いわきで4の大きな地震があった。寝入りばなだったが、目が覚めた。けさ、階段と2階の様子を確かめる。本が落下するようなことはなかった。階段の本は手すりが支えになっていたので、5弱でも大丈夫だったろう。

2017年10月6日金曜日

絵本『やめて!』

「やめて!」。絵本の表紙で男の子が叫んでいる=写真。何に対して? 絵本を手に取ってパラパラやると、爆撃機・戦車・兵士・犬を引き連れた警官・不良少年が登場する。空爆・市街での発砲・弾圧・いじめに「やめて!」だった。「どうぞ、いいですよ、(絵本を)持って行ってください」といわれた。
 10月1日にいわき駅前のラトブでいわき地球市民フェスティバルが開かれた。メーンは「外国にルーツを持つ人たち」による日本語ショートスピーチコンテスト。ほかに、いくつか国際交流関係団体のブースが並んだ。シャプラニール=市民による海外協力の会のいわき連絡会もブースを持った。カミサンが参加した。手伝いの延長でスピーチコンテストの審査員になった。

 コンテストが終わったあと、絵本その他の本が並べられているIIA(いわき市国際交流協会)のブースをのぞく。床にずらっと本が並べられていた。そのなかに『やめて!』があった。店をたたむ間際だった。担当者から声がかかって、遠慮なくちょうだいした。

 絵本は、男の子が大統領にあてて手紙を書くところから始まる。書き上げた手紙を街なかのポストに投函するまでに、空爆~いじめが起きる。

 投函したあとは――。警官と犬が追いかけた人と一緒になって和んでいる。ドアを蹴破って家に入ろうとしていた兵士が、その家の人にプレゼントの品を渡している。戦車は斜面の畑を耕す動力になる。爆撃機からは、爆弾ではなくパラシュートで自転車が降ってくる。不良少年が自転車に男の子を乗せてペダルを踏む。争いから一転、平和な光景が続く。
 
 大統領への手紙にはこうあった。「ぼくの学校には、きちんとしたきそくがあります。つきたおしてはいけない。なぐってはいけない。このくにには、そういうきそくがないのですか?」。登場人物の言葉としては「やめて!」が2回、「やめてだって?」が1回出てくるだけだ。
 
 原作者はアメリカのデイビット・マクフェイル、訳は柳田邦男。家に帰ったあと、カミサンに絵本を見せると、「私が出したのよ」。

 IIAから会員に要請があった。古本を並べて上限100円で引き取ってもらう――。並んだ本の多くは、わが家から持って行ったものだという。

『やめて!』は、市立図書館がリサイクルに回した廃棄本を、カミサンが引き取ってきた。それをIIAに提供した。知らずに私がまた持ち帰った。つまり、三度のリサイクルを経験した絵本、ということになる。

 再びわが家にやってきたからには、ずっと手元に置いてやろう。いろいろイヤなこと、たとえばわけのわからない選挙があるときなど、この絵本をながめて男の子の叫びに耳を傾けよう。

2017年10月5日木曜日

中秋の名月

 きのう(10月4日)は「中秋の名月」。でも、満月はあした、6日だそうだ。カミサンが玄関の上がり口にお膳を置いた。ハギの花とススキがワインボトルに差してある。木の小皿には薄皮饅頭が1個。 
 宵の6時前。お膳に誘われて庭に出たら、うっすら雲に包まれながら丸い月が輝いていた。ふと、コハクチョウの姿が思い浮かんだ。
 
 テレビの自然番組はたいてい見る。ざっと10日前の9月25日。たまたまだが、BSプレミアムをかけていたら、「ワイルドライフ」になった。シベリアで子育てするコハクチョウがテーマだった=写真。
 
 繁殖地は北極圏のツンドラ地帯。越冬地は日本、その一部がいわきへ来る。第一陣がきのう、猪苗代湖に飛来した。1週間~10日後にはいわきの夏井川に姿を現すかもしれない。きのうは前日と違って冬型の気圧配置になった。晴れて冷たい風が吹き荒れた。
 
 去年(2016年)夏、高専の同級生とサハリン(樺太)を訪ねた。北極圏で子育てを終えたコハクチョウが秋、日本列島へ南下し、春、北極圏の繁殖地へと北上する。その途中、サハリンの白鳥湖などで一時羽を休める。宮沢賢治は白鳥湖を見て「銀河鉄道の夜」を発想した。
 
 長谷川博著『白鳥の旅――シベリアから日本へ』(東京新聞出版局、1988年)によると、コハクチョウは北極海沿岸から北緯60度の間のツンドラ帯で営巣・育雛する。3月中旬以降の北帰行は、月光が輝く夜の場合もある。満月の晩に鳴きながら、わが家の上空を通過したこともたびたびだ。

 すると、その逆、あしたあたり満月を利用してコハクチョウの群れがサハリン、北海道へと南下してくるかもしれない。銀河鉄道の列車とともに。

2017年10月4日水曜日

道の駅はスーパー代わり

 歩いて行ける小売店はコンビニだけ。そこで売ってない食料品などをまとめ買いするときには、車で草野のマルトへ行く。街へ出かけたときには、たまにイトーヨーカドーで買い物をすませる。
 少しドライブ気分を味わいたくなったら、道の駅よつくら港まで遠出する。といっても、自宅から8キロほど。15分もかからない。国道6号を横切って、海岸道路経由で行くときもある。目当てはだいたい梅干しだ。

 赤紫蘇と塩だけでつくった梅干し、いやカリカリの梅漬けが好きだ。おふくろの味だ。赤紫蘇のアントシアニンの色が美しかった。で、カリカリ漬けがあればそれを、なければ梅干しを買う。スーパーにはしかし、鮮やかな色の梅干しがめったにない。たいがいは紫蘇抜きの白梅干しで、かつお節風味の「かつお梅」、はちみつ入りの「はちみつ梅」が多い。
 
 れっきとした天然着色なのだが、鮮やかすぎて人工着色だと思う消費者が多いのか。それとも量が少なすぎて取り扱えないのか――そこはよくわからない。
 
 あるとき、別件で四倉へ行ったついでに道の駅「よつくら港」へ足を延ばした。じいさん・ばあさんでにぎわっていた。午前10時ごろだから、ご主人がまだ車を運転できる、奥さんもそれなりに体が動く――そういう人たちがスーパー代わりに日常の買い物をしているようだった。

 私たちも似たようなものだが、カミサンはそこからが長い。いろいろ見て回る。先日は「地中海風サラダ玉ネギ」と野菜のもみ漬けなどを買った=写真。
 
 道の駅ではローカルな食品が手に入る。「地中海風――」は南相馬市の企業が製造した。野菜などは産直形式らしい。生産者が直接運び込んでいた。梅干しは小川町の大平さんというばあさんがつくった。カリカリの甘梅漬けもある。こちらは晩酌のつまみにする。食べすぎるので、カミサンはいい顔をしない。今回は見送った。生産者の顔が見えるところが身近なスーパーとして機能している理由なのかもしれない。

2017年10月3日火曜日

「いわき昔野菜」がテレビに

「いわき昔野菜」が9月29日夜7時前、福島放送(KFB)の「食メキふくしま」で取り上げられた。5分の番組だったが、コンパクトにまとまっていた。
 昔野菜の伝承・生産と消費の拡大に力を入れている「いわき昔野菜保存会」副会長の農業川内一浩さん(錦)が出演した=写真。川内さんは広い畑でいろいろな昔野菜を栽培している。保存会の「種の管理人」のような存在でもある。

 私も保存会に所属している。ほかに、いわき地域学會、いわきキノコ同好会に入っている。地域学會はいわきの総合調査・研究が目的の市民団体だ。キノコ同好会や昔野菜保存会に加わったのは、まずは食欲。そして、いわきの自然と人間の関係を菌類、あるいは伝統野菜を介して知りたかったから。

 番組では、オカゴボウやジュウネン(エゴマ)、タカノツメなどが紹介された。ネギの畝も映った。千住ネギ系の「いわき一本太ネギ」だろうか。
 
 オカゴボウは渡辺町で栽培されている。もともとは好間町の先祖の家で栽培~採種されていたものだ。根元から30センチほどは、3~4センチの太さになる。比較的やわらかめの肉質で、甘みが強いのが特徴だという。大きくなったものは空洞化するが、それを生かして詰め物料理にする。もちろん、きんぴらや煮物もうまい。

 字幕になった川内さんの言葉。「伝統野菜は(形が)揃っていないのが多い」「色々な昔野菜の良さを知ってもらいたい」「“おふくろの味”や”ふるさとの味”まさしくそういうこと」。しめくくりは、保存会の仲間の共通認識でもある「昔野菜はいわき市の財産であり宝」だった。
 
 以下は昔野菜保存会メンバーとしてのPR――。川内さんの圃場は錦小と御宝殿熊野神社の近く、錦町鳥居西地内にある。10月15日(日)午前9時から、ジュウネンの収穫作業・収穫祭が開かれる。会員向けの畑ボランティア案内メールには、作業しやすい準備、軍手、鍬や鎌などの農具、水分補給用の水などを各自用意のこと、とあった。会員でなくても、見学を兼ねて出かけてみてはいかが。なにかの種をもらえるかも。

2017年10月2日月曜日

日本語スピーチコンテスト

 いわき地球市民フェスティバルがきのう(10月1日)、いわき駅前のラトブ6階産業創造館企画展示ホールで開かれた。
 メーンは「外国にルーツを持つ人たち」による日本語ショートスピーチコンテストだった。きのうは「市内在住外国人」と書いたが、留学生や技術研修生だけではない。日本人と結婚した人、その子どもも出場した。「外国にルーツを持つ人たち」としたわけがわかった。
 
 午前中は「日本滞在3年以上」の5人、午後は「3年未満」の14人がマイクの前に立った。それぞれに表彰が行われた=写真(午前の部)。合間にタイダンスやフラダンスなどが披露された。

 14人のうち4人は小学5年生だった。男の子が最初にスピーチした。「妹と買い物に行ったとき、車がスピードを出して通り過ぎた。妹がはねられないか心配になった。車道と歩道の区別を、ガードレールを。大きな公園も欲しい」

 3人は女の子。2人は双子だろう。その1人は「きらいなのはハワイアンズと海。ハワイアンズ(の温水プール)は温かすぎる、(いわきの)海は冷たすぎる」。もう1人は「温泉は、はだかになるからきらい」。別の女の子は「一番うれしかったのは(今、いわきで)家族と一緒に住めること」。

 スピーチを聴きに来た人すべてが審査員になった。その結果を踏まえながら、主催者側審査員3人(たまたま私もその1人)が賞を決めた。

 いわきの価値(気候が温暖・海と山がある・親切など)や課題(公共交通が不便)が、あらためて浮き彫りになるようなスピーチだった。共生社会への一歩は、まず話してみる、外側=異文化の視点に触れてみる。そこからではないか――という意味では、貴重な機会になった。
 
 何人かは地震の怖さに触れた。実際、コンテストが始まる前、突き上げるような揺れがきた。震源は茨城県北部。いわき市平は震度3だった。

2017年10月1日日曜日

庭の赤い光

 1週間前の日曜日(9月24日)、午後3時近く。夏井川渓谷の隠居を出たり入ったりしていたとき、玄関前の庭の一角に赤い光がさしているのが目に留まった=写真。<おや、シゲノブ君(の作品)だ>。あとでやはり赤い光に気づいたカミサンが叫ぶ。「見て! シゲノブさんの作品みたい」
 そばに車を止めておいた。後ろのブレーキランプとスモールランプの赤いカバーが午後の太陽光線を反射して、庭の縁石を赤く照らしていた。

 それから5日後。シゲノブ君、いや現代美術家吉田重信さん(いわき市)から個展の案内状が届いた。「六角堂展 吉田重信『虹華』」。北茨城市の茨城大学五浦美術研究所にある六角堂と天心邸を会場に、太陽光線を利用して虹のように光る華を咲かせる。

 同研究所などが主催する。あいさつに「六角堂展は、岡倉天心の『茶の本』にインスピレーションを受けて、光を素材とする表現で独自の境地を切り開いてきた吉田重信の作品展です」とある。近くの茨城県天心記念五浦美術館と連動した<観月会2017>のイベントのひとつだ。

 同美術館を訪ねたとき、カミサンが各種チラシを持ち帰った。そのなかに、吉田重信さんのもあったので、開催は承知していた。10月5日に始まる。

 同じ日から6日間、いわき市泉ヶ丘のギャラリーいわきでは、いわき出身でスペイン在住の画家阿部幸洋の新作展が開かれる。案内はがきが届いた。吉田、阿部とも昔からつきあいがあるので、見に行きたいと思っている。お近くの人、あるいは興味を持った方はぜひお出かけを。

 10月は、個人的には今年(2017年)最も忙しい月になりそうだ。いちいち書くのは控えるが、いわきの作家吉野せいがらみの会議やイベント、地域の一斉清掃その他がめじろ押しだ。

 きょう(10月1日)はいわき駅前のラトブ6階でいわき地球市民フェスティバルが開かれる。シャプラニール=市民による海外協力の会・いわき連絡会のひとりとして、イベントの手伝いをする。市内在住外国人の日本語スピーチコンテストが行われる。どんな意見・考えが表明されるのか、楽しみ。